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記事 37件
  • たとえだれからも愛されなくても。

    2018-01-16 15:34  
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     栗本薫『翼あるもの』は、まだボーイズ・ラブとかJUNEといわれるジャンルが存在しなかった頃に書かれた作品です。 この作品は上下巻で同じ出来事を別の視点から描くという凝った構成になっているのですが、ぼくが取り上げたいのは主に下巻で描かれている森田透の物語です。 透は、上巻の主人公である今西良の、いわばシャドウとして生きてきた若者です。良と同じグループで芸能人としてデビューしたものの、良の影であることに甘んじることができずに脱退、その後は転落の人生を送っていきます。
     しかし、そうなってなお、透は良のことを忘れることができません。いつもスポットライトのなかにいる良、光のサークルのなかで常に輝き、だれからも愛され、栄光と讃嘆をほしいままにする良を、だれよりも愛しているのは他ならぬかれだったのかもしれません。
     そして、そんなかれを保護しようとするひとりの男が現われます。オオカミのような不器用で大きな男、巽竜二。巽は限りなく破滅的で自暴自棄な透に惚れ込み、かれがいまやトップスターになった良に対するあこがれと恨みを忘れられずにいることを嘆きます。
     かれは透に愛しているといい、くり返しかれを慰め、透もやがてかれを愛するようになっていきますが、それでも透は良に対する想いを消せません。
     その結果、巽は、そんなに良に執着するなら自分が良のことをめちゃくちゃにしてやるといって、良に近づいていきます。透は、良に近づけばあなたも良のことを愛するようになってしまうと危惧しますが、巽はそんなことはありえないと笑います。
     ところが、何と、結局は透のいう通りになってしまうのです。巽は良を愛するようになり、そして、それによって、かれが透に向けていた感情は、本物の愛でもなんでもなく、単なる傷ついた子供に対する同情、ほのかな憐憫に過ぎなかったことがあきらかになります。
     巽は透にどんなに怒ってもいい、ののしってくれ、殴ってくれといいますが、透はわかっていたことだと薄く笑うだけ。
     『翼あるもの』の下巻「殺意」は、こういう、限りなく整った白皙の美貌に生まれながら、どうしてもだれからも愛されない、本物の愛情を得られない運命を背負った森田透の物語です。
     しかし――さらにここから先があります。やがて、巽が危機に陥ったとき、透は、自分を愛してくれなかったかれのために自らを犠牲として投げ出すのです。なぜか? もちろん、愛しているから。決して自分を愛してはくれなかった巽を、それでもかれは愛していたからです。
     ぼくはね、ここを読むと毎度毎度、ほんとうに泣けるんですよ。もう、ボーイズ・ラブがどうとか、JUNEだから何だとか、そういう次元にある話じゃない。これは世にも美しい、愛と献身の物語です。
     ここから読み取れるメッセージとは何か? それは、人は、愛を求めて泣き叫ぶ子供であるうちは苦しみつづけなければならないけれど、いつだって愛する側に、大人の側に回ることができるということです。
     ぼくは栗本薫の実に全作品のテーマはこれだったと思っています。愛されたい、愛してほしいと嘆く子供であることを脱却して、愛をささげる大人になること。
     『グイン・サーガ』では、ヴァレリウスがアルド・ナリスに向かって、わたしはあなたを愛していますよ、何を怖がっているんですか、と語りかけますが、すべては同じテーマの変奏曲です。
     人は愛を、承認を、讃嘆を、栄光を、肯定を、モテを求めつづけているうちは幸せにはなれません。たとえひとたびそれを手に入れたと思っても、決して満足することはないからです。
     そういう人間はブラックホールのように他者の賞賛を求めつづける人生を送るしかありません。たとえば、『グイン・サーガ』のイシュトヴァーンがそうであるように。そういう人格は「泣き叫ぶ子供」のそれなのです。前回の記事で書いた不機嫌な子供と何ら変わりありません。
     直接的には、かれのそういう人格ができあがった責任は、たとえば両親にあるかもしれません。しかし、それはしかたないことです。受け容れなければならない現実です。どんなに嘆いても、もがいても、愛は決して降っては来ないのです。
     あるいは、仮に愛されたとしても、自分の側に準備が整っていなければ、それを受け入れることはできません。そして、もっと、もっととさらなる愛を望みつづけることになります。愛情飢餓とはそういうものです。
     一見すると、「モテ」のように見える人が限りなく「非モテ」的な行動、言動を取りつづけることがあることはここに理由があります。非モテはモテてもそれだけは幸せにはなれないんですよ。心が非モテだからです。魂が飢えているからです。
     だれかに承認されればいっときは幸せになれるかもしれない。でも、それは本質的な解決になりません。泣き叫ぶ子供でいるうちは人はほんとうに幸せになれないのです。それが、この世の真実です。 
  • 親に愛されなかった子供はどうすればいいのか?

    2018-01-16 14:37  
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     ラジオで山口じゅり陛下に教えられた「甥っ子が承認欲求のおばけになっていく」という記事を読んでみました。
    http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20180106/1515256382
     ひとことでいうと、自分の甥っ子が承認欲求を満たせないためにわがままな怪物のようになっていくのを見ることが心苦しい、というような内容です。
     で、陛下もいっていたけれど、正確な事情がわからないのでたしかなことはいえないものの、これ、たぶん親のフォローが足りないんですね。愛情不足だと思うんですよ。
     文章の端々から伺える事情を見ると、両親が離婚していたり、上に聞き分けのいい兄がいたりすることが関係しているのだろうけれど、まあはっきりとはわかりません。
     でも、この「症状」は、まず自己肯定感の欠如から来ていることはわかります。
     自己肯定感とは、「自分はこのままでいい」、「勉強ができなくても、
  • C・A・スミスからG・R・R・マーティンまで。ダークファンタジーの黒い血脈。

    2017-12-12 07:00  
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     いまさらながら『ダークソウル3』が面白いです。やたら複雑な操作があるダークファンタジーアクションゲーム。暗鬱で陰惨な世界設定にダークファンタジー好きの血が騒ぎますね。
     ダークファンタジーというジャンルは昔からあって、たとえばクラーク・アシュトン・スミスという作家がいます。
     栗本薫の『グイン・サーガ』などにも影響を与えたといわれる伝説的な作家で、クトゥルー神話ものなども書いているのですが、その作品は暗く重々しく、現代のダークファンタジーに近いものがあります。
     100年ほど前のパルプ雑誌でその名を響かせた作家であるにもかかわらず、なぜか現代日本で再評価され、何冊か新刊が出ているようです。悠久の過去とも久遠の未来とも知れぬ世界を舞台に、闇黒と渇望の物語が展開します。く、暗い。でも好き。
     栗本さんの作品でいうと、このスミスの影響が直接ににじみ出ているのは『グイン・サーガ』よりむしろ『トワイライト・サーガ』のほうかもしれません。
     『グイン・サーガ』の数百年、あるいは数千年後、世界そのものがたそがれに落ちていこうとしている時代を舞台にしたダークファンタジーの傑作です。
     全2巻しかないのだけれど、その妖しくも頽廃したエロティックな世界の美しいこと。主人公の美少年ゼフィール王子と傭兵ヴァン・カルスの関係は、のちにJUNEものへと発展していくものですね。
     あとはやはり、マイケル・ムアコックが書いた〈白子のエルリック〉もの。いまの日本では『永遠の戦士エルリック』として知られる作品群は素晴らしいです。
     この物語の主人公であるエルリックは、一万年の時を閲するメルニボネ帝国の皇子として生まれながら、生まれつき体が弱い白子の身で、斬った相手の魂を吸う魔剣ストームブリンガーなしでは生きていけません。
     しかし、この意思をもつ魔剣は、時に主を裏切り、かれが最も愛する者たちをも手にかけていくのです――。この絶望的パラドックスと、〈法〉と〈混沌〉の神々の対立と対決という壮大な世界が、何とも素晴らしい。
     一時期、映画化の話があったようですが、さすがに実現しなかったようですね。まあ、ひとことにファンタジーとはいっても『指輪物語』よりはるかにマニアックな作品ですからね。
     ちなみにムアコックは『グローリアーナ』というファンタジーも書いています。これはマーヴィン・ビークの『ゴーメンガースト三部作』に強い影響を受けたと思しい作品で、とにかく凝った文体と世界を楽しむものですね。
     エンターテインメントとして読むならエルリックとかエレコーゼのほうがはるかに面白いでしょうが、この作品には文学の趣きがあります。そういうものが好きな人は高く評価するでしょう。
     ただ、かなり読むのに骨が折れる作品には違いないので、気軽に手を出すことはできそうにない感じ。よくこんなの翻訳したよなあ。
     あと、最近日本では、アンドレイ・サプコフスキの『ウィッチャー』シリーズも翻訳されています。ぼくはいまのところ未読ですが、売れないと続編が出ないそうなので、先の展開が心配です。
     早川書房は時々こういうことがあるんだよなあ。ぼくはマカヴォイの『ナズュレットの書』の続きを楽しみに待っていたんだけれど、ついに出なかった……。
     この手のヒロイック・ファンタジーものとは系列が違いますが、ダークファンタジーを語るなら天才作家タニス・リーの偉業は外せません。
     彼女の作品は数多く、すべてが日本に紹介されているわけではありませんが、訳出されたものを読むだけでもその恐るべき才幹は知れます。その代表作は何といっても『闇の公子』に始まる平たい地球のシリーズでしょう。
     「地球がいまだ平らかなりし頃」を舞台に、数人の闇の君たちの悪戯や闘争を描いた作品で、アラビアンナイトの雰囲気があります。耽美、耽美。すべてが徹底的に美しく、あるいは醜く、半端なものは何ひとつありません。
     主人公である闇の公子アズュラーンは邪悪そのもので、人間たちの意思をからかって遊びます。しかし、この世界に神はおらず、いや正確にはいるのですが人間たちに関心を持っておらず、かれの悪戯を止める者はだれもいないのです。
     まあ、こういう作品たちがダークファンタジーの世界を切り拓いてきてくれたからこそ、ぼくはいま『ダークソウル3』を遊ぶことができるわけですね。
     はっきりいってめちゃくちゃ好みの世界だけれど、クリアまで行けるかなあ。ちょっと無理そうな気がする。いまの時点で操作の複雑さ、多彩さにココロが折れそうだもの。
     それから、もちろん、現代におけるダークファンタジーの巨峰として、以前にも何度か触れたことがあるジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌(ゲーム・オブ・スローンズ)』があるのですが、これはスケールが壮大すぎてダークファンタジーの枠内にも入りきらないかもしれません。
     世界的に大人気の作品ですので、未読の方はぜひどうぞ。 
  • 短編小説のラビリンスに迷い込んでみませんか。

    2017-11-26 07:00  
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     きょうは山本周五郎の記事が更新されているはずなので(予約更新なのです)、それに合わせて短編の話でもしたいと思います。
     その記事で書いた通り、山本周五郎は短編の達人でした。で、日本でも海外でも、文学者として名を成した人はそのほとんどが名作短編を書いています。
     SFやミステリといったエンターテインメント小説の世界でも短編は非常に重要です。短編は、単に「短い長編」ではありません。短いなかにぎゅっと内容を凝縮するためにはそれなりの計算と技巧を要求されるわけで、長編以上に精密なテクニックの見せ場なのです。
     そもそも、小説では(漫画でも)、構成の基本となるものは短編です。優れた短編を書く能力は作家の構成力の基本となるものだといっていいでしょう。
     20世紀最高の短編作家といわれたボルヘスの作品などを見てもわかる通り、短編が描ける世界は決して小さくはありません。必ずしも壮大な世界を描き出すために
  • 「正義」の思想につばを吐く。

    2016-10-26 01:56  
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     Twitterで古い知りあいの唯野さん(なんと初めて逢ったのは20年近く前。何もかもみななつかしい……)に「海燕さんはオメガバースに興味もちそう」みたいなことをいわれたので、オメガバースについて調べてみました。
     オメガバースとは、海外のBL(スラッシュフィクションと呼ばれる)業界でわりとメジャーなSF設定で、αがどうのΩがどうのという専門用語がいろいろあり、差別や階級の問題が繊細に絡んで来るので、単純によしあしをいいづらい話ではあるんだけれど、個人的に「ああ、こういうのが流行るのはわかるなあ」とは感じます。
     階級とか支配とか凌辱とか、こういうのが好きな人、いるよねえ。ぼくも嫌いではない感じですが、どうにもベタすぎて気恥ずかしい。ぼくの好みの物語と非常に近いところにありながらちょっと違う感じ。
     ぼくはやっぱり差別に安住する物語ではなく、差別を乗り越える物語を見たいのかもしれません。ま
  • 『栗本薫夜話』刊行。

    2016-10-07 01:51  
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     電子書籍の宣伝ばかりで恐縮ですが、『栗本薫夜話その壱』、『栗本薫夜話その弐 『グイン・サーガ』紹介』を出版しました。
     栗本薫関連の文章はこれでひと通りまとめられたかな、と思います。本格的な栗本薫論も書きたいところですけれど、まああそれはいずれまた、ということにしておこうかと。
     これで電子書籍の既刊は20冊になりました。そこそこ利益も出ていますが、とりあえずは100冊を目安に刊行しつづけていきたいと考えています。最終的には1000冊にしたいのだけれど、まあ、それには10年かかるか15年かかるか。ほとんどライフワークですね。
     21冊目は『ベイビーステップ』か『コードギアス』あたりかなあ。そろそろワンテーマでまとめられる内容も少なくなってきていますが、まあなんとかやっていきたいですね。はい。
  • ナルシシストの天才たちと日本一「スケベ」な男。

    2016-09-19 06:06  
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     まだしつこく恋愛工学のことを考えています。というか、恋愛工学に始まった思考をさらに進めている。
     先日は恋愛工学とはナルシシズムの理論なのだ、というところまで書きました。ここでいうナルシシズムとは自分以外の「他者」を持たない自己完結した心理のことです。
     それに対し、他人のなかに自分にコントロール不可能な「他者」を想定し、その「他者」と出逢うことで得られる快楽を求めることを、ここではエロティシズムと名付けましょう。
     人間は「他者」との交流によって快楽を感じ取ることができる生き物です。会話が楽しいのはそこに「他者」がいるからです。セックスが気持ちいいのはそこに「他者」との摩擦があるからです。
     「他者」とは自分とは異なる「内面」をもった永遠に理解不能でコントロール不能な存在であり、「決して支配されないもの」でもあります。支配できてしまったらそれは「他者」ではありません。
     「他者」と出
  • ノクターンノベルズのエロ小説が名作文学オマージュな件。

    2016-04-24 21:01  
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     「小説家になろう」というか「ノクターンノベルズ」で、長谷川蒼箔『下僕の俺が盲目の超わがままお嬢さまの性奴隷な件』を読んでいます。 
    http://novel18.syosetu.com/n7126cq/
     以前、ペトロニウスさんが栗本薫の『真夜中の天使』を例に挙げて絶賛してきた作品ですね。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151226/p2
     ノクターンなので、きっちりきっぱり18禁小説であるわけですが、これが面白い。ぼく好み。
     ちょうど何かエロティックな物語を読みたいなあと思っていたところだったので、思わず読み耽ってしまいました。
     まあ、18禁とはいっても、そこまで過激な描写ばかりが続くわけではありません。
     盲目のお嬢様と下僕の少年の、キラキラ輝く「純愛」のお話です。
     いやー、こういうのが読みたかったんですよねー。
     ぼくとしてはエロ小説を読むときもやっぱり物語性があるものを読みたいわけです。
     ひたすらセックスしているだけのものも、まあ、それはそれで価値があるのだけれど、ぼくはもう少し違うものを読みたいのだ。
     漫画ならそういう作品もいくらかあるのだけれど、これが小説となると、めったにあるものではありません。
     完全にアダルト小説なのでニコニコではリンクを張ることがはばかられるJ・さいろーさんの『クラスメイト』とか、良かったですねー。
     主要人物がほぼ小学生ばかりという(笑)児童ポルノ禁止法に喧嘩を売るようなロリショタ小説なのだけれど、この際、そういうことは関係ないのです。
     人間と人間の肉体的なそれをも含めた「関係」を描けているかどうかが大切なのです。
     その意味で、 
  • いちばん恥ずかしいところを晒せ! 真夜中のポエムをひとに読ませるべきたったひとつの理由。

    2015-03-07 10:10  
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     きょうは「羞恥心」について話をしたい。一般にひとが備えている恥ずかしいと感じる気持ちのことだ。一説によるとアダムとイヴが知恵の果実を齧った時に生まれたというが、国家も宗教も超えて存在する人間の最も人間らしい想いのひとつである。
     たとえば洋服の下の裸を見られたとき、ひとは恥ずかしいと感じる。あるいは、秘密の日記を見られたとき、さもなければ、本棚の奥に隠していた秘密のエロ本コレクションを見つかったときなど、多くの人は羞恥心を感じ、叫び出したいような気分になる。その気持ちをまったく理解できないというひとはほとんどいないはずだ。
     しかし、これはひとが生まれつき備えている感情ではない。現実に赤子は裸でいても恥ずかしいとは思わないし、人前でも平気で排泄する。あたりまえといえばあたりまえのことだが、羞恥心とは人間が作り出した文化に由来する感情に過ぎないのである。
     それでは、人間にとって最も恥ずかしいこととは何か? いろいろな答えが考えられるだろうが、ぼくはそれは心を覗かれることだと思う。
     心の奥底のだれもが抱える秘密の部分、そこに必死に隠しているものを見られることほど恥ずかしいことはないのではないか。それに比べれば肉体的欠陥を見られることなど、どうということはないとすらいえる。
     自分がほんとうは何を好きで何を嫌いなのか、何を美しいと感じ、何に怒りを覚えるのか、その、きれいごとではないほんとうのところを晒すことは途方もなく恥ずかしい。なぜならそれは、いかなる虚構でも守られていない裸のその人自身だからだ。
     人前で裸になることもたしかに恥ずかしいが、精神的に裸になることはそれ以上に恥ずかしい。心のストリップは肉体のストリップ以上の屈辱を伴うのである。
     何年か前に『サトラレ』という漫画が流行ったことがあった。この作品の主人公たちは、自分の心のなかを無意識に周囲に漏らしてしまう人々、「サトラレ」たちだった。
     物語のなかではかれらは自分がサトラレであることを気づかないよう守られている。なぜなら、自分の心の中をそのまま覗かされていることを知ってしまったならば、羞恥心で自殺しかねないからだ。心こそは人にとって究極のプライバシーエリアなのである。
     しかし――人が人と交流するということは、そのプライバシーをある程度開陳するということである。自分のことを一切知らせないで相手のことを知ろうとすることには無理がある。だれかと語り合うためには、どこかで、自分はこういう人間なのだと知らせなければならない。
     まして、何か作品を創造し、人の心を揺さぶろうなどと考えた時には、自分をオープンにせざるを得ない。アートとは心のストリップショーなのだ。
     何か作品を創造し、それを発表したならば、その人の人生、教養、価値観、偏見、感情、自負、傲慢、それらすべてがつまびらかにならざるを得ない。また、そうでなければ決して人の心を打つものは作れない。
     だからこそ、アーティストという名のストリッパーには自分の本心を晒す勇気が必要となってくる。
     自分の高潔さ、偉大さ、賢さ、自己犠牲の精神などだけ晒せるならいいが、じっさいにはそうは行かない。そういったプラスの側面を晒す時には、無知、卑小さ、愚劣さ、エゴイズムといったマイナスの側面をも晒さなければならないのである。
     なぜか? それはつまり、心のストリップショーにおいて大切なのは、最後の一枚まですべての衣服を脱ぎ捨てることだからだ。一枚でも身につけている限り、魅力的なショーとはなり得ないのだ。
     その人の最も秘められ隠されたグロテスクな陰部をこそ観客は見たがる。そこを隠していてはショーは成立しないのである。
     しかし――それは何と恥ずかしい、痛々しい、格好悪いことなのだろう。自分の最も隠したい、醜い場所をこそ晒さなければならないとは、何という拷問だろう。
     人はそのさまを見て笑うに違いない。何と無知な人間だ、愚かな精神だ、虫けらにも劣る恥ずかしい奴なのだ、と。それはまさに衆人の視線のなかで全裸となるに等しい行為だ。
     おそらく賢い人間はそんな真似をしないに違いない。賢い人間は、自分は衣服をまとったままで、他人の裸を笑うのである。そうすれば、自分の陰部は隠したままで、他人の陰部の形を嘲ることができる。パーフェクトに安全で、絶対に傷つかない賢いやり方である。
     こういう人のあり方を、ぼくは「利口」と呼ぶ。一方、自分のすべてをさらけ出す行為は、これはもう「バカ」としかいいようがない。必然的に傷だらけになり、最後にはズタボロになってしまうスタイルといえる。
     人はどのように生きるべきなのか、「利口」が良いか、それとも「バカ」を尊ぶべきか、それは人それぞれであることだろう。しかし、ぼくは断然、「バカ」を選ぶ。
     自分も「バカ」でありたいと思うし、「バカ」を晒している人をこそ尊敬する。「利口」なあり方は、賢いとは思うが、リスペクトには値しないと考える。
     あるいはそれは偏見かもしれない。「バカ」のほうがより偉いという下らない思い込みに過ぎないかもしれない。しかし、それでもぼくは「利口」より「バカ」を取る。なぜなら、いままでじっさいにぼくを感動させた創作作品は、いずれもすさまじく「バカ」な代物だったからだ。
     自分の欠点を晒し、汚点を見せつけ、偏見を隠さず、傲慢を示した人々の作品だけが、ぼくの心を鋭く射抜いたのである。
     ぼくはそれらの作家と作品を尊敬し、自分もまた「バカ」であろうと試みて来た。その成果が即ちこのブログとその前のブログ「Something Orange」である。
     しかし、自分がほんとうに「バカ」になれたかどうかといえば、これは微妙なところだろう。どこかで自分のほんとうに恥ずかしい部分は隠そうとしてしまっているかもしれない。
     何かの作品をひとに奨めるとき、ぼくはほんとうにいつも本気だっただろうか。時には「仕事だから」とか「読む人のためを思って」といったいい訳を用意して自分をごまかしていたのではないか。そう思うと、忸怩たるものがある。
     しかし、プロフェッショナルなクリエイターにとってすら、自分のすべてをさらけ出すことは簡単なことではない。しかし、ぼくはその自己開示に成功した「バカ系」の作品をこそ好きなのだ。
     たとえば、高河ゆんに『恋愛 REN-AI』という長編がある。ぼくがいままで読んだあらゆる漫画のなかで、最も好きな作品のひとつである。
     しかし、ぼくは長い間、自分がなぜこの作品を好きなのか、説明することができなかった。いまならできる。『恋愛』は極端なまでに「バカ」な漫画だからだ。作者が一切照れることも衒うことも恥ずかしがることもなく自分の価値観をオープンにしている作品だからなのである。
     この物語の主人公は、たぐいまれな美少年、田島久美(ひさよし)。しかし、かれは現実の女性ではなく、テレビのなかのアイドルに恋をしている。やがて、かれはその恋を叶えるため、自分自身もアイドルとして芸能界に乗り込んでいく。
     あるとき、女友達から「恋愛はいつか終わるのだから、終わり方こそが大切だ」といわれた久美は、こう応える。「関係ないね、ぼくの恋愛は終わらないよ」。
     ああ、何て「バカ」で、恥ずかしいセリフなのだろう! ここには「成熟した恋愛感情」とか「大人の恋心」といいたいようなものはかけらも見あたらない。ひたすらに、少女漫画を読み過ぎた男のような思い込みの激しさが見られるだけである。
     あたりまえの漫画家なら、だれか第三者の視点を用意して、このセリフを茶化してみせ、自分を弁護することだろう。つまり、「これはあくまで作中のキャラクターのセリフであって、作者自身はこんな青くさいことは思っていないよ」というポーズを取り、裸の自分を守るわけである。
     しかし、高河ゆんはここで完全なる確信を込めてこのセリフを書いている。一片の弁解も、自己弁護も、ここには介在しない。ぼくにはそのように思われる。
     この漫画では、ほかにもとんでもない「恥ずかしい」セリフや行動が頻出する。そもそも一介の少年がアイドルの少女に恋をし、彼女を恋人にするため芸能人になる、というストーリーそのものが限りなく青くさく恥ずかしいし、痛々しい。
     しかし、ぼくはいいたい。だからこそこの漫画はすばらしいのだ、と。『恋愛』という作品の魅力はまさにその確信の強さにある。高河ゆんはこの主人公の行動や言動を本気で格好いいと思っていて、そのように描いているのだと信じられる。そこがこの漫画の魅力だ。
     しかし――そのしばらく後に描かれた姉妹編の『恋愛 CROWN』では、もうその確信は消えている。象徴的なことに、この漫画のあとがきでは、作者自身が久美に対し「恥ずかしい」と語りかけるシーンが存在する。
     これはぼくにはある種の「いい訳」と受け取られてしまう。そして、その種の「いい訳」を挟んだ途端に、あれほど輝かしかった『恋愛』という漫画は、ただのありふれた恋愛漫画のひとつまで落ちるのだ。ぼくは『恋愛』は大好きだが、『恋愛 CROWN』はさほど評価しない。
     『恋愛』だけではなく、ぼくの好きな作品は、どれも決定的に「バカ」である。自分の自意識を守っていない。たとえば、永野護の『ファイブスター物語』。
     『恋愛』とはまったくベクトルの違う作品だが、これも作者が「自分が本気で格好いいと思うもの」だけを描いているという点が共通している。
     永野護は、自分が生み出したナイト・オブ・ゴールドやツァラトゥストラ・アプターブリンガーといったロボットを、あるいはエストやクローソーといった美少女たちを、本気で美しいと考えていると思う。
     たとえ、人から見ていかにもその姿が異形に見えるとしても、かれにとっては関係ないのだ。たとえ世界が「こんなもの格好悪い」といっても、かれは自分の生み出したものの格好良さを信じるに違いない。
     何というナルシシズムであり、恥ずかしさだろう。しかし、まさにそうだからこそ、ぼくは永野護の漫画を好きなのだ。
     あるいは、栗本薫でも、田中芳樹でも、司馬遼太郎でもそうである。栗本薫はアルド・ナリスを世界一美しいキャラクターだと本気で信じていただろうし、田中芳樹もオスカー・フォン・ロイエンタールほど格好いい男はいないと信じているだろう。
     司馬遼太郎も土方歳三や高杉晋作をこの上なく理想的な男子のあるべき姿、と確信していたに違いないとぼくは信じることができる。ぼくはそういう「確信」が好きなのだ。
     客観的に見れば、ほんとうに美しいか、格好いいか、理想的かどうかなど、測りようもないことである。だから、それらの価値観はあくまで作者の思い込みということになる。自分で生み出したものを、自分で美しいとか、格好いいと思いこむとは、何と恥ずかしいことなのだろう。
    (ここまで4429文字/ここから4297文字) 
  • ポップでキュートなアトモスフィア。『ローリング☆ガールズ』が楽しい!

    2015-03-03 05:11  
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     ども。最近、わりとアクティヴな海燕です。本も読んでいるし、映画も見ているし、ゲームもやっている。すべて、一般的な社会人にとっては「遊び」でしかないわけですが、ぼくにとっては「仕事」。どうも遊びでメシを食っているようで申し訳ない限りですね。
     しかし、そうはいっても読書や映画にはお金がかかるわけで、今月はテレビアニメを集中的に見ようと決心しました。手初めに敷居さん(@sikii_j)が取り上げていた『ローリング☆ガールズ』を見てみることに。
     タイトル以外一切情報を仕入れていないのでどういう作品なのかさっぱり。とりあえず初回から見てみるか。――えーと、何だこれ(笑)。ちゃんと初めから見ても何が何なのかよくわからん。
     何かの事情で全国の都道府県とか市町村が独立していて、その主権の代理人として「猛者(もさ)」と呼ばれる者たちがバトルを繰り広げている世界、というのはわかる。
     しかし、そのアリスソフトみたいな設定から何が飛び出てくるかといえば、何なのだろう、この気の抜けた世界は。キャラクターデザインから何からポップかつキッチュでとてもぼく好みなのだけれど、初回を見ただけではまだ評価できないかな。
     このだるだるなアトモスフィアを楽しむ作品なのでしょうか。音楽はすべてブルーハーツのカバーらしいけれど、歌っているのが女の子なのでキュートなガールズバンドの曲にきこえます。
     設定だけ取るとニール・スティーヴンソンの『スノウ・クラッシュ』みたいだけれど、どこまでもポップでキュートな路線で行くつもりなのかも。
     このあとのストーリーは特に気になりませんが、双葉杏リスペクト民としてこの種のだるだるな空気は嫌いじゃないので、継続して視聴したいところ。
     ヒロインの女の子たちも可愛く描けているし、こだわりがあるのかないのかよくわからないあたりもGood。録画はしていおいたものの全然見る気がなかった作品なんだけれど、かなり楽しめる予感がします。やっぱり見てみないとわからないものですね。
     何だろうな、よくわからないという意味では『ユリ熊嵐』もそうなのだけれど、あちらはジョークみたいな設定にもかかわらず、中身はほんとうにシリアス。一方、こちらはどう転んでもそこまでシリアスにはならないと思われ、気楽に見られます。
     やっぱり寝ころんで楽しむのに適しているかと。幾度めかのダイエット中なので禁断のポテトチップスには手を出さないものの、本来はジャンクフードでもぱくつきながら楽しむのが似合うような作品ですね。
     こういうお気楽系が一本あるといいよな。って、最近はむしろそういう作品のほうがマジョリティかもしれないけれど。ただ、ぼくはやっぱりどこまでもマジメなひとなので、本質的にはマジメな話が好きなんですよね。
     この場合のマジメとは「思考の硬直」とニアな表現なんだけれど、ようするに融通が効かないということです。気楽な話もそれはそれでいいのだけれど、やっぱりほんとうはどシリアスな話を見たいと思っているのです。いや――この表現だと誤解を招くな。そういうことではない。
    (ここまで1274文字/ここから1095文字)