• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 52件
  • 体罰推進団体「体罰の会」のウェブサイトを読んでみた。(2153文字)

    2013-01-25 09:27  
    53pt



     Twitterで「体罰の会」と称する団体のウェブサイトを見かけました。
    http://taibatsu.com/
     このアドレスからして凄いというかなんというか。taibatsu.comて。さっそく読んでみて、唸りました。おわかりかとは思いますが、体罰を防止しようという趣旨ではなく、むしろそれを推進しようとしている団体のようなのです。
     ちなみにこの団体の発起人のひとりは「戸塚ヨットスクール」で有名な戸塚宏氏で、Q&Aの部分を担当しています。こんなふうなことが書かれています。

    Q3  体罰は誰にでも出来るのですか? (体罰を行う側の心構え・技術etc)
    体罰はもしあなたが一人前なら誰でも出来ます。もし自分に自信がなければ次のようにして下さい。
    体罰の目的は進歩なのですから、その事を頭の中において体罰を行います。
    「進歩、進歩」と頭の中で言いながらやって下さい。実に上手く出来ますから。口に出してもいいですよ。その時、丹田に意識を集中出来たら言うことはありません。

     うーん、トンデモだなー。まあ、このほかにも主張の問題点を見つけることはむずかしくないと思うので、細かい批判は読者諸氏各位で行なってもらえばいいかと。少なくともいまの社会ではなかなか通用しない主張だといえるでしょう。
     ぼくが知りたいと思うのは、このひとたちはどうしてこう強固な思い込みを形作ってしまったのだろうということです。世論という逆風に抗って体罰を推進しようとするからには、それだけの信念があるはずですよね。その信念はどこから来ているのだろうかと。それがふしぎです。
     もちろん、かれらにもそれなりの論理は存在します。これこれこういう理屈で体罰は是認されなければならないという、その筋道はちゃんとある。しかし、こういうひとたちはロジックによって自説を信じているわけではないでしょう。
     むしろ初めに自説があって、それを補強するためにロジックを利用しているはずです。いや、ひとはほんとうはだれしもそういう側面を持っているのかもしれませんが、こういった人々の場合はその傾向が強い。
     だからかれらを論理的に説得することはできません。なぜなら、説得しようとすればするほど、かれらは「不当に攻撃されている」と感じ、反発するとともに信念を強化するからです。
     たぶんアメリカの銃規制に関する議論なんかにも同じような問題が絡んでいるんじゃないかなあ。一見するとロジックのレベルで問題が生じているように見えるけれど、じっさいには固定観念を巡る戦いであり、だからいつまで経っても解決へ向かわない。
     問題は論理よりずっと深いところに存在しているわけです。ひとはどうしてこうも固定観念を抱え込んでしまうのでしょうか?
     
  • 『十二国記』のここが納得いかない。(2211文字)

    2013-01-24 08:24  
    53pt



     今年、小野不由美『十二国記』の新刊が出るという。まずは短篇集になるようだが、長編が続くと考えていいのではないか。物語は素晴らしくいいところで中断している。十年ぶりに続刊を読めるとしたらこれ以上の歓びはない。
     『十二国記』は稀代の傑作である。だれもがそういうし、ぼくも異論はない。ほんとうに面白い物語だと思う。ただ、それでもぼくはこの小説にかすかな違和感を覚えることがある。批判というほどつよい思いではない。ほんとうに小さな、それでいいのか、という違和。
     それはこの小説の価値観に対する違和だ。『十二国記』の登場人物はそれぞれ偉い。立派である。初めは愚かだったり卑小だったりする人物も、時の流れとともに成長してゆく。ぼくはその立派さについていけないものを感じる。だれもがあまりにも偉すぎる。というか、物わかりが良すぎる。
     それをいちばん強く感じたのが、いまのところ最大の長編である『風の万里 黎明の空』だ。主人公である陽子を含めた三人の少女たちの放浪と成長を描いた物語だが、その成長がぼくには少々無理があるものに思えた。
     『風の万里 黎明の空』一編を貫くテーマは「自己憐憫に耽るな」ということだと思う。自分を哀れんで泣いてばかりいると、自分がだれよりも可哀想に思えてくる。それは何ら事態の解決につながらない。だからそうしてばかりいないで、行動したほうがいい、と。
     このテーマ自体には異論はない。ぼくもよく同じ趣旨のことをいうし、正しい考え方だと思う。しかし、ぼくにはどうにもその正しく、また高潔な考え方に違和を覚える。つまり、自己憐憫に耽るまい、と思ってもどうしてもそうしてしまうのが人間ではないか。
     たしかに自分を哀れむことは不毛かもしれないが、だからといっていつも凛としていられるかというとそうでもないはずだ。しかし、『十二国記』はそうした弱さを許さないように思える。そこに何か窮屈なものを感じざるをえない。
     これが『銀河英雄伝説』だと、そういう感想にはならない。ラインハルトは高潔だが、それは単にかれが特別な人物だからそうだというだけであって、だれもが高潔であるべきとは描かれていないと思うからだ。『銀英伝』には善人とはいいがたいが魅力的なキャラクターもたくさん出てきていて、それが作品を多彩に彩っていると思う。
     『十二国記』の場合は、やはり悪い奴はひたすらに悪い奴、というところがある。それが最もつよく出ているのが『東の海神 西の滄海』で、この作品の敵役である斡由は、初めは颯爽たる姿で出てくるのだが、結局、無残な醜態をさらして退場する。かれの役割は主人公のひきたて役であるに過ぎない。こういうところが、どうにも納得できない。
     
  • ア・ライフヒストリー。被害者としての人生、そして、加害者としての人生。(2021文字)

    2013-01-23 17:47  
    53pt



     ぼくは今年、35歳になる。平均寿命まで生きることができるとしても、長い人生ももうそろそろ半ばを過ぎようという辺りだ。そしてこの歳になってようやく、少しだけ大人になってきたのではないかと思う。
     もちろん、人並みのことは何もできないぼくだから、人間的にどれほど成熟しているかといえばまだまだではある。ただ、それでも若い頃と比べると、やはりいくらか成長していると思うし、変わってきていると感じる。
     そのひとつとして、自分の人生を振り返ってみて、自分の加害性に気づいたということがある。ぼくは長い間、自分の過去を被害者の人生として位置づけてきた。ああいうことがあった、こういうことをされたということばかり考え、そのたびに憤り、踏みつけにされた自分を悔しく思った。
     それはたしかに間違いではなかったといまでも思う。ぼくはたしかに色々とひどい目に遭いもしたし、それは忘れられない記憶となって脳裏にこびりついている。何もかも自分のせいだとか、相手は自分のことを思ってやってくれたのだ、と考えることは、いくらなんでも自虐的に過ぎるだろう。被害は被害であるには違いないのだ。
     しかし、34歳になったいま、初めて違う視点も出てきた。それは、ぼくの人生も被害ばかりではなかったはずだ、という視点である。つまり、被害者としての人生の裏側に、加害者としての人生が存在するはずだ、と考えたのだ。
     そう思って振り返ってみると、色々と、自分が加害者としてやってきたひどいことが思い浮かぶ。小学生の頃、後輩をいびったこともあったし、女の子を泣かせたこともあった。大人になってからも、ひとを傷つけたり、怒らせたり、不快にさせたことは枚挙に暇がない。
     ひとつひとつはもの凄く悪いとまではいえないことであるにせよ、とにかく加害の記憶であることに違いはない。ぼくは被害者であると同時に、加害者でもあったのだ。そのことが、34歳にもなって、ようやくはっきりと受け止められるようになった。
     いままでも薄々とはわかっていたのだが、被害者としての自分に固執するあまり、見まい見まいとして生きてきたのだ。だからどうだというわけではない。被害と加害はそれぞれ別物である。それでとんとん、ということになるはずもなく、ぼくの人生を踏みつけにした人々はやはり怨めしい。
     ただ、自分は被害者であると同時に加害者でもあったと思い、ひとに傷つけられてきたと同時にひとを傷つけてもきたと考えるとき、ほんの少し自分自身を客観的に見れるようになったように思えることもたしかである。そういうふうに考えると、一歩のほんの半分くらい、前へ進むことができたのかな、という気もする。
     ネットでもリアルでも、被害者としての自分に拘っているように見える人は多い。ぼくはその立場が間違えているとは思わない。じっさいに被害があったのなら、被害者意識を持つことは当然のことである。被害者に向けて被害者意識に拘泥するな、などということはじっさい暴力的な話だろう。
     
  • ブロマガ一般開放スタート! 注目すべきポイントは?(1617文字)

    2013-01-23 09:44  
    53pt



     いやあ、ブロマガ一般開放、ついに始まりましたねー。まだIDを取得しているユーザーはあまりいないようですが、これを読まれている皆さんはせっかくだから取得しておくといいと思います。開設したいと思ったときにほしいIDが取られていたらイヤですから。まあ、プレミアム会員しか取得できないんですけれどね。
     ぼくは過去にいくつかブロマガ一般開放に関する記事を書いてきましたが、その予想はどのくらいあたったか。また、一般開放にあたり注目するべきポイントはどこか。以下に挙げていってみたいと思います。
    ・一般ユーザーはマネタイズ不可。
     これが最大のポイントですね。やはりというか、一般ユーザーは課金を使えないようです。ベータ版だから将来的に使えるようになる可能性もなくはありませんが、それほど高くはないでしょう。あるいはそうなるとしても審査が必要になるのではないかと。少なくとも無条件で課金できるようになるという可能性はなさそうです。
     それはそうですよね。トラブルになることは目に見えていますから。実のところ、ブロマガ一般開放にあたっていちばん心配していたのはこのことでしたが、さすがに「だれでもマネタイズ可能」ということにはならなかったようです。
     いまのところ「企業・団体・商用利用」のみマネタイズを利用可能ということですが、これはいまと同じと考えてもいいのかな。一般ユーザー(有名なPとか)が動画などを活用してお金をもらうシステムにならなかったことは残念といえば残念ですが、妥当な結果だと思います。 ――と思ったら将来的にはマネタイズも実装されるようですね(http://ch.nicovideo.jp/blomaga-info/blomaga/ar29889)。ふむふむ。やっぱりいまのうちにほしいIDをとっておくべきだなー。
     
  • 『Fate/zero』を熱く語る。血と暗黒の大傑作スペクタクルエンターテインメント。(3939文字)

    2013-01-21 14:30  
    53pt
    『Fate/Zero』はぼくにとって、「いやー、こういうの読みたかったんですよ」という作品でして、ある意味でぼくの理想に最も近いところにある一作といってもいいかもしれません。その『Fate/Zero』について5年ほど前に書いた文章を微修正の末、再掲しておきます。ぼくが書いた文章のなかでもかなり「熱い」語りだといえるかと思いますので、読んでくださいませ。
  • 夢を追いかけるか、今を楽しむか。あずにゃん問題(笑)を考えつつ『けいおん!』を追う。(2171文字)

    2013-01-19 23:15  
    53pt
    なんとなく日常系を再チェックしてみる気になって、まずは最高峰からだ!とばかりに『けいおん!』を見なおしてみたのですが、これがおもしろい。いまさらながらにハマって見ていたりします。いやー、いいアニメだね(3年遅いかもしれない)。で、まあ、『けいおん!』といえばあずにゃん問題(笑)でしょう、ということで書いてみた記事だったりします。はい。
  • これからブロマガを始めるあなたの参考になる(?)月に1000枚書くぼくのやり方。(2251文字)

    2013-01-19 11:29  
    53pt
    今回の画像は西尾維新『恋物語』ですが、内容とはとくに関係ありません。ただ、本文中にちらっと名前が出てくるので、採用したまでです。いつも思うのですが、とくべつ関係する作品がない場合、冒頭にAmazon画像を持ってくることには無理がありますよね。でも、できれば統一されたフォーマットで書きたいし……。案外こういうところで地味に考えたりするわけです。
  • ブログ記事のタイトルの付け方を考える。固有名詞を利用してアクセスを増やす方法論。(2129文字)

    2013-01-18 17:45  
    53pt
    ブロブの記事にどうやってタイトルを付けるかという話です。ぼくはかれこれ10年間もタイトルの付け方について考えてきたので、これにかんしては相当に熟練しているのではないかと思います。とはいえ、ただ単に「釣る」だけのテクニックはブロマガではあまり意味がありません。もっと洗練されたタイトルが必要です。ここではその一端を開陳しちゃったりしています。
  • どうしようもないことをどうにかする方法はあるか。『銀の匙』が問いかけるリアルな問題。(1430文字)

    2013-01-18 17:08  
    53pt
    『銀の匙』、おもしろいですねー。小学館史上最速のスピードで初版100万部を突破し、アニメ化も決定して、絶好調なのですが、本編がすごい展開になっています。はたしてこれはどろに落ち着かせるのか? ぼくなどは現実的な解決策を何も思いつかないのですが、どうするんだろうなあ。荒川さんだからきっと後味の悪くない展開を見せてくれると思うんですけれどね。
  • 宮沢賢治と太宰治と。綺麗な心に生まれなかったひとはどうやって生きていけばいいのか。(2156文字)

    2013-01-18 14:14  
    53pt
    宮沢賢治と太宰治をひきあいに出しつつ、「心の美しさ」について語っています。心の綺麗さとは、ただ単に賢くて正しい行動を取れるということではありません。それはもっと純粋で崇高な観念です。しかし、ぼくはそこまで心が綺麗に生まれなかった、あるいは育たなかった自分自身を知っています。そういうひとはどう生きればいいのか。ひとつの例を示してみました。