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記事 42件
  • 「『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスターチャイルドの夢を見るか」予告。

    2015-04-20 22:05  
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     さて――書くことがない。
     いま、「『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスターチャイルドの夢を見るか」という(タイトルからしてめちゃくちゃな)記事を書いているのですが、これがちょっと下調べが必要な内容で手間取っているところ。
     超越世界やらパピエ・コレやら、弥勒菩薩やらミドルアースが絡み合うなかなか面白い記事になる予定なのですが、果たして書き終わるものなのかどうか、いまの時点ではなんともいえません。
     とりあえず『2001年宇宙の旅』を読み返し、『CLANNAD』のクライマックスを見返さなくてはなりません。
     あと、『九尾の猫』と『夏と冬の奏鳴曲』と『果しなき流れの果に』と『ナルニア国物語』と『攻殻機動隊』と――切りがない。
     ここらへんがブログの辛いところで、いくら手間をかけて記事を書いてもあっというまに過去ログの海に埋没する運命なんだよなあ。
     あとでまとめあげて
  • 理想は「そこそこシンプルライフ」。

    2015-04-19 22:25  
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     今月も後半になってきて、そろそろ疲れが出て来ているな。いかんいかん、注意していないと、あっというまに記事更新がとどこおってしまう。
     とはいえ、アニメやライトノベルの記事はちょっと書き飽きたことも事実。
     あるいは大方の人はそういう記事を求めているのかもしれないが、書きたくない記事は書かないということがこのブログの基本である。あしからず。
     そこで、きょうは「生活」のことを書きたいと思う。
     生活。それも「豊かな生活」について、ぼくは随分と興味がある。
     じっさい、いま「貧しい」生活を送っているという実感があるから、なんとかしてそれを豊かにしたいと思うのだ。
     そうはいっても、単純に収入を増やせばいいという問題ではないことはぼくにもわかる。
     いや、もちろんお金も欲しいのだが、お金さえあれば即座に豊かな暮らしを実現できるというものではないだろう。
     その幻想はいまから何十年か前に泡ととも
  • 告知。ニコニコ超会議より愛を込めて。

    2015-04-18 12:10  
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     26日(日)午前11時から超会議会場からの生放送を行います。
    http://live.nicovideo.jp/watch/lv218002523
     テーマは「面白い物語とは何か」。LDさんと津田彷徨さんを迎えて、批評と実作の双方からこのテーマを追いかけてみたいと思います。会員限定放送です。
     よろしくお願いします。
  • 「ドラマティック」とはどういう意味か? 線と変曲点で考える。

    2015-04-17 12:51  
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     ふう。一日休んでしまった。
     いや、ちゃんと用意はしていたんですよ? でも、PCが落ちて原稿が消えてしまって――いい訳はいいか。
     ペトロニウスさんが三つ前の記事に反応してくれていますねー。ありがとうございます。
     もっとも、この記事はまだ完成しているとはいいがたくて、「落差」とか「コントラスト」といった概念はまだ整理しきれていない感じ。
     ここにもうひとつ、「つじつま」を加えると、ぼくの「物語の面白さ/退屈さ」に関する話の基礎ができあがる印象です。
     この話は「面白い物語とはどんなものか?」という非常にシンプルな疑問から生まれています。
     「それはこういうものだ」と解説した本は枚挙にいとまがないのですが、ぼくとしてはいまひとつピンと来ない。
     なんといっても、それらを読んでもすぐには面白い物語を分析できるわけではないわけです。
     それらは、たとえば「『スター・ウォーズ』はこのような物語構造を採用しており――」、「『DEATH NOTE』はゼロ年代のかくの如き時代背景の産物で――」などと語りますが、非常にもっともらしいものの、「ほんとうにその物語構造なり時代背景が「物語の面白さ」に直接に関係しているのか」と考えると、判然としないところがある。
     たとえばある物語がオイディプス神話と同じ類型を用いているとして、だからその物語は面白いのだ、と即座にいえるでしょうか?
     構造的にはそういうことになるかもしれません。しかし、あたりまえですが、同じような構造を用いていても面白い物語とそうではない物語がある。その差はどこで生まれるのか?
     何より、ひと通り物語理論を勉強してもだれもが面白い物語を作れるわけではないのはどうしてなのか?
     ぼくはこのところがひっかかってどうにもならないのです。
     そこで、自前でより実践的な物語理論を作りたいところであるわけなのですが、まあそんなもの簡単にできるわけがない。
     だから、まずはいくつかぼくが面白いと感じた物語を取り出して「自分はなぜそれを面白いと感じたんだろう?」と分析してみたいと思っています。
     そのプロセスがまさにこのブログのいくつかの記事であるわけです。
     ちなみにぼくは「面白い」とは、「感情が動くこと」であると思っています。
     喜怒哀楽と一般にいいますが、歓喜、哀惜、恐怖、驚愕、憤怒といった感情を引き起こして平板になりがちな日常に刺激をもたらす作品を「面白い」と称するのだという考え方です。
     これだと、いわゆる「日常系」を捉えそこねることになりそうですが、日常系もやはり「漠然とした幸福感」をもたらすところに「面白さ」があるわけで、特別扱いすることもないだろうと思います(ただ、どうしてそれが「漠然とした幸福感」をもたらすのか、という問題は残ります)。
     たしかに一部の奇形的に進歩した本格ミステリなどは非常に知的/構造分析的な「面白さ」ですが、それでもやはりまったく意外性がない単なるパズルは小説として高い評価を受けない。
     よって、「面白さ」とは「感情が動くこと」、したがって、物語の面白さとは受け手の感情を動かすところにある、とりあえずそう定義してかまわないでしょう。
     それでは、どのような物語がより受け手の感情を動かすのか?という話をするときに考えたのが、例の「落差」という概念です。
     つまり、物語がある状態から、次の状態に移行するとき、その変化が急激で大きいほど物語は面白くなる、という考え方ですね。
     もう少しくわしく説明してみましょう。作家の乙一は、『ミステリーの書き方』という本のなかで、物語を次のように定義しています

     小説は文字が連なってできている一本の線だ。一本の線には両端がある。つまりはじまりと終わりのことだ。その二つをここでは発端と結果と呼ぶ。すべての物語は発端と結果を結ぶ線なのだ。ミステリを書くならば、発端と結果はすなわち、事件の発生と解決のことである。
     しかしその二つを結ぶ線が平坦で何の盛り上がりもなければ読者は飽きる。一本の線をどこかで折り曲げてジェットコースターのレールのように波打たせなければならない。そうして読者の心を揺さぶる必要がある。その折り曲げるポイントを把握するため、私はいつもプロットを書く。

     さすがというか、簡にして要を得た説明であるわけですが、ぼくはかってにこの線を「ストーリーライン」と呼ぶことにしたいと思います。そのままの意味ですね。
     乙一はまた、物語を左右するイベントが起こり、ストーリーラインが折れ曲がるポイントを数学用語から採って変曲点と呼んでいます。

     変曲点(へんきょくてん)とは、平面上の曲線で曲がる方向が変わる点のこと。幾何学的にいえば、曲線上で曲率の符号(プラス・マイナス)が変化する点(この点では0となる)をいう。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%9B%B2%E7%82%B9

     さて、このように考えると、ストーリーラインの折れ曲がり方(物語中における状況の変化のしかた)には「角度」と「落差」があることになります。
     そして、より「急角度」で、「落差が大きい」変化が「ドラマティック」ということになるのです。
     前回取り上げた『ブラック・ジャック』の「ふたりの黒い医師」のエピソードを思い出してみましょう。
     あの物語は 
  • 『アルスラーン戦記』と「同性愛的な二次創作」の微妙で複雑な関係。

    2015-04-15 05:54  
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     作家の田中芳樹さんが所属している有限会社らいとすたっふの「らいとすたっふ所属作家の著作物の二次利用に関する規定」が改定されたことが話題を呼んでいる。
    http://www.wrightstaff.co.jp/
     「露骨な性描写や同性愛表現が含まれる」二次創作を禁止した項目を廃し、新たに「過激な性描写(異性間、同性間を問わず)を含まないこと」とする項目を加えたようだ。
     いままでの書き方ではことさらに同性愛描写を禁止するように受け取られかねないから、これは適切な変更だと思う。
     もちろん、らいとすたっふ側にそのような意図はなく、ただ「いわゆるカップリング」を抑制したいというだけの目的だったのだろうが、誤解や曲解を招きかねない表現であることに違いはない。変更されて良かった。
     しかし、この規定には微妙な含みがある。
     「過激な性描写(異性間、同性間を問わず)を含まない」なら、「いわゆるカップリング」的な同性愛描写そのものは「お咎めなし」にあたるのだろうか。
     判断はむずかしいところだと思うが、Twitterで検索してみたところ、いわゆる腐女子界隈の人たちはこれを「18禁でなければカップリングも問題なし」と受け止めている人も多いようだ。
     ただ、これで全面的にカップリング描写が認められたと見ることはいかにも早計には思える。
     原作者がそういう描写を好ましいと思っていないことはたしかだろうから、何かのきっかけで再度規定が変更ということもありえる。注意するべきではないだろうか。
     というか、あきらかに原作者が嫌がっているような二次創作を展開しても後ろめたさがありそうなものだが、そういうものでもないのだろうか。
     人それぞれだろうが、自分が気分良ければいいと思う人もいるのかもしれない。
     もともとが人気があり、これからさらに人気に火がつく可能性が高い作品だけに、今後、どういう展開をたどるのか注目してみたいと思う。
     それにしても、「同性愛のカップリング」一般を禁止することは、意外に色々な問題を抱えているようだ。
     シンプルに「同性愛のカップリングを禁じる」と書けば、それなら異性愛のカップリングは良いのか、それは同性愛差別ではないか、と受け取られる。
     しかし、作者の心理として自分のキャラクターがかってに同性愛者化されたところは見たくないという人がいても、それほどおかしいなこととはいえないのではないか(田中芳樹がそうだというのではないが)。
     じっさい、ぼくにしても、「同性愛的なカップリング」の禁止が同性愛差別化というと――やはり、それは違うんじゃないか?と思える。
     まず、なんといってもそれらの二次創作が原作作中の登場人物の性的指向をねじ曲げているようには思えるわけで、異性愛とか同性愛という以前に、それこそが問題なのだ、と考えると話はシンプルになると思う。
     つまり、「作中で異性愛者として描かれている人物を同性愛者であるかのように描くこと」はやはり不快である、そういうふうに表明しても同性愛差別にはあたらないのではないだろうか。
     当然、この理屈で行くと 
  • 書き出しが良いとそれだけで傑作に思える症候群。

    2015-04-15 01:27  
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     ども。
     なんかめちゃくちゃ長い記事を書いてしまったので、すぐには内容のある記事を書く気になれません。
     あの長さの記事をだれが読むのかという気がしますが、何人かには読んでいただけたようで幸いです。
     我ながらひきこもりの身の上でよくこれだけ書けるものだと思いますにょろ。だれも褒めてくれないから自分で褒めておこう。
     まあとにかくやる気が湧き出てこないので、ひとつコピペだけで安直な記事でも作ろうかと思います。
     ちょうどTwitterで「印象にのこる小説の書き出し」に関するツイートが流れてきたので、これに便乗することにしましょう。
     ぼくが、個人的に印象に残っている小説の書き出しです。
     まずは、そう、

     九歳で、夏だった。

     乙一ですね。
     「夏と花火と私の死体」。

     極限まで簡潔な――というかほとんど極限を超えて文法的におかしいのではないか、と思われる一文が印象的です。
     16歳でこれが書けてしまうということは、やはりただ者ではない。天才の片鱗は既にここに表れています。
     続いては、

     申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

     太宰治の「駈込み訴え」。

     この疾走的なリズム感。こういう小説を書かせると太宰は日本文学最強の書き手ですね。「生かして置けねえ」と崩れるところの迫力が凄い。
     ちなみにこの小説は青空文庫で読めます。かなり泣かせる傑作短編なので、オススメ。
     香気馥郁たる美文、ということでは、やはり連城三紀彦の文章が印象深いものがあります。
     特にこれ、と挙げるのなら「花緋文字」でしょうか。「花葬」シリーズのなかでも凶悪ともいうべき一作ですが、その冒頭の美しいこと。

     石畳に水でも打ったように滲む茶屋の灯を小波だたせ、一陣の秋風が吹きぬけるなか、三津が、私の呼び停めた声につと高下駄の音をとめてふり返り、
    「――兄さん」
     思わずそう呟いたものの、まだ誰か思い出せぬように、首を傾げて立ち竦んでいたのを、今でもはっきりと憶えております。


     また、個人的に気に入っているところでは、石田衣良『波のうえの魔術師』があります。
     石田衣良の全作品のなかでも、この作品の書き出しはスペシャルに格好いいと思う。凡手が真似できない匠の切れ味。

     灰色のデジタルの波が、水平線の彼方から無限に押し寄せてくる浜辺。夜明けの青い光りのなか、馬鹿みたいに砂遊びをしているおれが目をあげると、遥か沖合いにダークスーツの小柄な老人が見える。つま先を波頭に洗われながら、魔術師は灰色の波のうえに立っている。足元で砕け散る波は、細かな数字の飛沫を巻きあげ、老人の全身に浴びせかける。だが、魔術師は濡れもせず、波のうねりに揺れもしないで、視界を圧して広がる海原のただなかにまっすぐ立っている。
     波のうえの魔術師だ。

     秀抜な文章もさることながらイメージそのものが美しい。
     「灰色のデジタルの波」、「細かな数字の飛沫」、そして「波のうえの魔術師」。
     こういう繊細なイメージを味わえるのが小説の醍醐味ですね。
     石田衣良は格好つけるとほんとうに格好いい。天才的です。
     さて、ここらへんで有名どころをひとつ押さえておきましょう。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』。

     港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。
    「別に用(や)ってるわけじゃないんだけど--」
     と誰かが言うのを聞きながら、ケイスは人込みを押し分けて《チャット》のドアにはいりこんだ。
    「――おれの体がドラッグ大欠乏症になったみたいなんだ」
     《スプロール》調の声、《スプロール》調の冗談だ。《茶壺(チャツボ)》は、筋金入り(プロ)国外居住者用のバーで、だからここで一週間飲みつづけても、日本語はふた言と耳にしない。


     うん、一読して「は?」となった人もいるかもしれませんが、「空きチャンネルに合わせたTVの色」とは、つまり曇り空の灰色のことです。
     この小説の冒頭の舞台ははるか未来の「千葉市(チバ・シティ)」なのだけれど、いったいどこの千葉なのだろう……。
     個人的にあらゆる書き出しのなかでもベストに近いと思っているのが、 
  • スタジオジブリの宮崎アニメはなぜ面白くも辛いのか。

    2015-04-14 19:40  
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     川上量生『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』読了。
     これが、もう、超面白かった。実に素晴らしい内容なので、皆さん、読んでください。いや、いいもの読んだ。得した得した。
     もっとも、「ぼくは」とても面白いと思ったけれど、ひとによってはあまりにあたりまえの内容だと思うかもしれず、また、まったく納得できないと感じる人もいるかもしれません。
     それくらい、賛否を呼ぶ内容だと思います。
     しかし、少なくともぼくにとっては非常に明快かつ爽涼に読める一冊でした。新書で安いので、ぜひ多くのひとに読んでもらいたいですね。
     この本は著者の川上量生さんが、スタジオジブリで「コンテンツ」について学んだことが書かれています。
     というか、この本一冊をかけて川上さんは「コンテンツとは何か」という問いに答えていこうとしています。
     それがみごと答えられているかどうかはぜひ自分で読んでたしかめてもらいたいところですが、ぼくはちょっと違う始点からこの本を「活用」してみようと思います。
     「面白い物語とは何か」という例のテーマを掘り下げるために、この本の内容を検証してみようと思うのです。
     この本には、「ストーリーか表現か」と題した一節が存在します。ちょっと引用してみましょう。

     映画をつくるとき、何をいちばん重視するかは人によって違います。鈴木敏夫プロデューサーは、よく会話のなかで「ストーリーか表現か」とひとりごとのように言うことがあります。
    「すべての大監督は最終的に表現に行った」というのは、鈴木さんがよく使う言い回しです。
     映画を見て、話のつじつまが合わないと文句を言う人がよくいるけれど、話のつじつまなんか合ってなくたっていいんだそうです。

     興味深い話です。
     なるほど、鈴木プロデューサーのいいたいことはよくわかる。
     ほんとうに「表現」として凄い映画を見たとき、観客は細かい粗なんて気にならない。
     観客が細かいことを気にしはじめるのは、ようするにその映画が気に入らなかったからだ、そういうことはできるでしょう。
     それなら、「ストーリーか表現か」といえば、大切なのは表現であって、ストーリーは二の次なのでしょうか。
     この本のなかでは明確な結論が出ていないませんが、少なくともクリエイターとは表現を重視する人々である、ということは書かれています。
     なぜか。これも本文中に記されています。

     ストーリーか表現かで、なぜクリエイターは表現にこだわるようになるのか、その理由は、ストーリーは表現に比べてパターン化されやすく、かつパターンの数が少ないからだとぼくは思います。
     たとえばウラジーミル・プロップというロシアの民俗学者は、『昔話の生態学』という本で、昔話の構造を三一の機能と七つの行動領域に分けて説明しています。ようするに、昔話はたくさんあるけれど、それらはどれも、主人公がいてその助っ人がいるとか、悪役がいるとか、なにかを探すたびに出るとか、少数のパターンの組み合わせとして分類できるということを明らかにしたわけです。
     ということは、たいていの物語はすでになんらかのパターンの繰り返しになっている可能性が高いのです。表面上は新しい物語のつもりでも、実は何度もくり返されている過去のパターンの焼き直しにすぎないということに、ストーリーはなりやすいのでしょう。
     一流のクリエイターにとって、いままでなかった新しいコンテンツをつくりたいという欲求は本能のようなものではないでしょうか。

     これも納得がいく話です。
     ストーリーはパターン化しやすく、しかもパターンが少ない。これは一定以上、小説や映画を体験している「物語読み」なら、理屈ではなく実感として納得がいくことでしょう。
     一般に、人間が共感しうる物語のパターンはきわめて少ない。
     少なくともマスに向けてエンターテインメント作品を提供しようと思ったら、ごく限られたパターンをくり返すしか方法がない。
     もちろん、あまりに定番のストーリーばかりでは飽きられてしまうから、表面上はあたかもまったく新しい展開であるかのように糊塗したりもするけれど、本質的にはわずかなパターンのリフレインであることを免れない。それは事実だと思います。
     そもそも究極的に突き詰めていくと、新しい物語なんて生まれようがないんですよ。
     たとえば、村上龍はすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という類型でできている、と喝破しています。
     つまり、小説(や漫画や映画)のストーリーとは、登場人物を何らかの試練に合わせて、それを達成できるかどうかを見る、それだけのものだというのですね。
     ここまで単純化してしまうと、たしかにどんな物語もこの放送から逃れられないように思える。
     実験的な文学作品ならともかく、大衆向けのエンターテインメントなら殊にそうです。
     だから、「ストーリーか表現か」と自らに問うたとき、「すべての大監督は最終的に表現に行」く。これはよくわかる話です。
     表現が膨大な奥行きを持ち、いまなお新しい可能性を秘めているのに対し、ストーリーにはもはや探索するべき道はないともいえるのですから。
     そう、たとえばハリウッド映画を見ればわかるように、マスに向けたストーリーテリングとは決まりきったものであるに過ぎないのだ。ひとまず、そういうことはできそうです。
     しかし、ぼくはそれで納得することはできません。そうはいっても、やはり「面白い物語」と「そうでない物語」はあると思うのです。
     ストーリーメイキングが数少ないパターンのくり返しであることは間違いないところですが、それでも「面白い物語」を生み出すことは簡単ではない。
     大金をかけて良質なストーリーを研究しているはずのハリウッド映画ですら、あきらかに「出来のいいシナリオ」と「出来の悪いシナリオ」は存在するように見えます。
     そして、それは「つじつまが合っているか、どうか」という問題だけではない。「つじつまは合っていないが面白いストーリー」は存在する。
     つまり、作劇とは単なるつじつま合わせではない、ということです。
     それにしても、なぜ、面白い物語をつくることは簡単ではないのでしょうか?
     ひとつには当然、技術的問題が考えられます。少数のパターンの組み合わせとはいえ、それを緻密に行うことが簡単ではないことは当然といえば当然です。
     少しでも「組み方」がずれてしまったらストーリーは台無しになりかねないのですから、繊細な心配りが必要なのです。
     もうひとつ、たとえばスポンサーの意向などでストーリーは狂わせられやすい、ということもいえるかもしれません。
     ハリウッドにはそういう事情で駄作に成り下がった作品がたくさんありそうです。
     しかし、それらだけではない。現に、宮﨑駿個人の天才の表出と捉えられる一面が大きそうな宮崎アニメにしても、やはりストーリーが破綻した印象の作品は多い。
     この理由も本文中に書いてあるのですが、宮崎さんははっきりとした「終点」を構想することなく物語を描き始めてしまうのですね。
     小説家なら、それこそこれも本文中に例がある栗本薫のように、先を考えずに書き始めるというひとはいますが、プロの映画監督では類例がないんじゃないかな。
     おかげで宮﨑駿の映画は、最後の最後になると「バルス!」で突然にラピュタ城が崩壊して終わりになるようなことになりがちであるわけです。
     セキュリティという観点から見てあまりにひどい話だと思うわけですが。
     とはいえ、『天空の城ラピュタ』はやはり何度でも鑑賞に値する名作です。

     じっさい、くり返しテレビで放送されては好視聴率を記録している。多少つじつまが合っていないことなどだれも気にしない。
     それはつまり、ストーリーに対して表現が優位だということの証明でしょうか?
     結局のところ、宮﨑駿の手がける素晴らしいアニメーションさえあれば、観客はストーリーのことなど気にしないものなのでしょうか?
     実は、ぼくはそうは思わないのです。
     一本のシナリオとして見たら、『ラピュタ』の問題解決方法は、相当に乱暴です。
     いくらでもツッコミが入る余地があるし、伏線の処理にしてもエレガントとはいいがたい。
     しかし、それでも『ラピュタ』には胸躍るストーリーがある。ぼくはそう思います。
     つじつま合わせとはべつの時点で、『ラピュタ』は面白い物語なのだと。
     それに比べると、やはり宮﨑駿の最近作、『ハウル』や『ポニョ』はいくらか辛いものがある。

     もちろん、それらは表現のレベルでは素晴らしい傑作でしょう。『ハウル』の空中散歩、『ポニョ』の波乗り、それらはまさにまれに見る大天才作家の力量を直接に実感させられる映像美です。
     しかし、やはり全体として見ると、いくらなんでも「わけがわからない」ように感じられるのです。
     シナリオの「わかりやすさ」という次元で、やはり『ハウル』や『ポニョ』は『ナウシカ』や『ラピュタ』といった初期作品に一歩譲るのではないでしょうか。
     その証拠に『ハウル』や『ポニョ』のシナリオは非常に要約しづらい。
     それに比べると『ラピュタ』は「鉱夫の少年パズーが、空から落ちてきた少女シータと出逢い、彼女とともに冒険し、ついに天空の城ラピュタにたどり着いて、悪漢ムスカを倒す話」とでも要約できるでしょう。
     ぼくの言葉を使うなら、話の「コンセプト」がわかりやすいのです。
     コンセプト。
     ふたつ前の記事で出て来た概念ですね。憶えておられるでしょうか。
     ぼくはこう書いています。

     学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
     この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
     何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
     このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
     ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
     しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。

     『ハウル』や『ポニョ』では、この「伝えたいテーマやメッセージ」がはっきりしない印象があります。
     平和は大切だといいたいのか? 子供は無邪気で素晴らしいといいたいのか? 釈然としないまま映画館を出た観客は少なくないでしょう。
     もちろん、そういう観客は宮﨑駿が真に表現したいことを受け取るだけの力量がないだけだ、とはいえるかもしれない。
     しかし、まさに川上さんが書いているように、マスに伝えるためには「わかりやすさ」が重要です。
     『ハウル』や『ポニョ』は、表現のレベルでどれほど高度であるとしても、一個のエンターテインメントとして、やはりあまりにも「わかりにくい」のではないでしょうか。
     「つじつま合わせ」の強引さという点では、『ナウシカ』や『ラピュタ』と『ハウル』や『ポニョ』の間に決定的な差はないかもしれません。
     ですが、それでもやはり後期作品は初期作品に比べて難解な印象を受けます。ペトロニウスさんの『風立ちぬ』評を引用してみましょう。

     実は本編を見ている最中に、さまざまなイメージが喚起されたのだが、大きなものは『ハウルの動く城』だ。当時、僕はこの作品を酷評している。
     その理由は、「意味が分からないから」だった。
     精確に言えば、どの文脈で宮崎駿が語りたいのかは、過去の作品の文脈を理解していれば、自ずとわかるのだが、そういう高踏的な作品読解は、アニメーションとしてだけではなく、物語として僕は好きではない。物語は「わかる」ように描いてほしい、というのが僕の好みだ。それが正しいとは言わないが、端的に「それ」を見て、少なくとも表面的にでも言いたいことがわからなければ、やっぱり物語としての整合性がないと思ってしまう。もう少し具体的に書けば、ハウルという青年は、戦争をとても嫌っているようなのだが、「なぜそういう意識を持つようになったのか?」と「それならば、あなたは何をするのか?(=どう行動に起こすのか?)」が全然描かれていないので、ハウルがただ単なる傍観者に見えてしまうのです。絨毯爆撃の凄まじい戦争シーンの悲惨さを描けば描くほど、ハウルという主人公視点が、それに対して、外から見ている受け身であることがわかってしまうし、立ちすくんで苦しんで、ただ動けなくなっているだけなのが伝わって、少なくとも映画という短い時間で起承転結なりドラマの展開が要求される媒体としては。で??ってしか思えなかった。
     もちろん整合性が取れる作品は小さくまとまってしまうので、『崖の上のポニョ』や『千と千尋の神隠し』のような、何が言いたいのかわからないイメージの奔流であっても、もちろん凄い強度は存在する。とはいえ、やっぱり「全体を通して主張したい明快なメッセージ」という言語化の部分とアニメーションならではのタンジブルなイメージが両立してほしいというのが、僕の好みだ。表面の動物の脊髄反射のレベル・・・・ああ、これは菜穂子との恋愛の美しい話ね、といった次元だけで見てしまう人も多々いると思う(信じられないが、それが現実のリテラシーのレベルなのだろう。背中の方で女性の2人組がそういう会話をしていた…良い純愛映画だったね、、、と)が、「そこ」から順々に複雑なものへ連れて行ってくれる構造をしているかが、エンターテイメントの価値だと僕は思う。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1

     とても慎重な書き方をしていることがわかりますが、ようするに『ハウル』は「意味がわからない」、もちろん過去作品のコンテクストを慎重に検討していくとわかるのだが、自分の好みではあまりにも「わかりやすさ」が足りないように感じられる、といっているのです。
     ぼくはこの見方にほぼ同意します。川上さんはこう書いています。

     実のところ、ぼくはストーリーが気になるのでジブリの作品にはいろいろ不満があったのです。『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』を映画館で見たときには、もちろんおもしろくはあったのだけれども、不満もいろいろありました。
     この二本をあらためて自宅で見てみたのです。そうすると不思議なことに、今度はなんの不満もないどころか大傑作だったのが分かりました。
     ようするに宮崎駿監督がどんな作品をつくろうとしたのか、正しい見方をわかっていなかったのでしょう。
     少なくとも宮崎作品については、やっぱりストーリーなんかどうでもいいのです。もし、宮崎作品の魅力がストーリーにあったとしたら、こんなに何度もお客さんに見てもらえるわけがありません。これだけテレビで再放送をやっているのですから、視聴率が下がらないわけがありません。ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はないからです。

     そうでしょうか。ぼくはここで根本的な違和を感じます。
     はっきりいうなら「ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はない」とはいえないと思うのです。
     この世には、わかっていても何度でも体験したくなるストーリーというものが存在する。ぼくはそう考えます。
     なるほど、宮崎駿は「表現の人」であり、「ストーリーの人」ではないかもしれない。
     だから、特別、つじつま合わせには拘らない。
     宮崎アニメを見て「つじつまが合っていないし、終わり方が強引だから駄作なのだ」ということは、非常につまらない見方ということはいえるでしょう。
     しかし、それにしても、一本の映画はストーリーと表現の双方から成り立っているわけであり、「ストーリーなんかどうでもいい」とまで悟れる観客はそう多くないのではないでしょうか。
     大半の観客は「面白いストーリーを最高の表現で体験したい」と思って劇場を訪れるはずです。
     そして、その場合の「面白いストーリー」とは「細かいところまで精密につじつまが合っているストーリー」という意味ではない。
     「ハラハラドキドキ、わくわくするような展開が連続し、幸福な、あるいは切ない気持ちで劇場をあとにできるストーリー」の意味だと考えられます。
     ふたつ前の記事で、ぼくはそういうストーリーを「落差」という概念で説明しようとしています。

     それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
     単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
     これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
     今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
     一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
     べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
    (中略)
     そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
     最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
     つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。

     そう、大切なのは「ドラマティック」ということ。
     『ラピュタ』にはその「ドラマティックさ」があきらかにあった。
     鉱夫としての平凡で退屈できびしい日常――そこに空からゆっくりと降りてくるひとりの少女! 冒頭からしていきなりドラマティックな名場面から始まるわけです。
     それに対して、『ハウル』はどうか?
     比較するならやはり印象が弱いといわざるえないのではないでしょうか。
     なぜなら、『ハウル』では「善」と「悪」、「明」と「暗」といった対立概念が明確ではなく、そのコントラストがはっきりしないからです。
     『ラピュタ』のムスカを単純に悪人といい切ってしまうのは間違いなのかもしれませんが、少なくとも物語のなかでは悪役として描かれており、かれに対決するパズー少年とシータには正義があるように観客には感じられます。
     しかし、『ハウル』においては、もはや何が正しく、何が間違えているのか、いったい監督が何を伝えたいと思っているのか、一見したところでは判然としない。
     つまり、『ハウル』はあまりにも複雑混沌とした物語なのです。
     それでもなお、膨大な観客がこの映画を見に行くのはやはり宮﨑駿の天才的な表現力を見るためとしかいいようがありません。
     しかし、だからといって、そういう観客たちがみな「ストーリーなどどうでもいい。表現の素晴らしさだけが問題だ」とまで割りきれているかというと、ぼくは否定的にならざるを得ません。
     さて、この本のなかで、「表現の人」宮﨑駿に対立する「ストーリーの人」として受け取ってもいいのではないかと見える人物がひとりいます。
     手塚治虫です。

    「父は、自分は表現では勝てないことを分かっていたのでストーリーで勝負したんですよ」
     そう、ぼくに語ってくれたのは手塚眞さんです。父とはもちろん手塚治虫さんのことです。
    「父は東映アニメ、それこそ高畑さんや宮崎さんにはかないっこないから、アニメーションでは最初から勝負しなかったんです。でも、こっちはストーリーがおもしろいから、そこで勝負するんだって」
    (中略)
     どうせアニメーションの技術では勝てないので、制作費と製作時間を減らして、そのかわり手塚治虫原作のおもしろいストーリーで勝負することで、国産初のテレビアニメ放送を実現したのです。

     この箇所を読むと、手塚治虫には宮崎駿や高畑勲ほどの表現の天才はなく、ただ「おもしろいストーリー」で勝負するしかない人だった、というふうに読み取れます。これは一面の事実でしょう。
     しかし、逆にいえば、手塚治虫はストーリーという一点においては、アニメーションの申し子、線の魔術師たる宮﨑駿にすらアドバンテージを保つことができた、ということもできるわけです。
     そう、手塚こそは実に戦後漫画界最大にしておそらくは最高のストーリーテラーです。
     こと「おもしろいストーリー」を描くことにかけては、手塚は絶対の自負を持っていたと考えられます。
     それでは、その「おもしろいストーリー」とはどういうものなのか。パターンが少なく、あっというまに陳腐化してしまうはずのストーリーで、手塚はなぜ衆に抜きん出た存在であることができたのか。
     そのひとつの答えが、先の「コントラスト」ということです。
     手塚は巨大な「対照性」のあるストーリーを生み出す天才だったのです。
     その才能の稀有さ、貴重さは、実にアニメーションにおける宮﨑駿に匹敵するものとぼくは考えます。
     これだけでは抽象的に思えるかもしれないので、具体的な作品を見てみましょう。
     なるべく有名なエピソードが良いと思うので、『ブラック・ジャック』から「ふたりの黒い医者」を選びたいと思います。
     ブラック・ジャック永遠のライバル、ドクター・キリコ初登場の話です。
     とても有名な話なので、おそらくご存知かと思いますが、そうでない方は↓を読んでみてください。
    http://bkmr.booklive.jp/manga-sociology-01-euthanasia
     このラストシーン、ブラック・ジャックが絶望的な葛藤のなかで「それでも私は人をなおすんだっ 自分が生きるために!!」と叫ぶ場面は、伝説的な名場面としていまも語り草になっています。
     それでは、このシーンの何がそれほどひとの心を打つのか。いろいろあるでしょうが、そのひとつが「コントラスト」です。
     このシーンでは、ある階段の上段にいるキリコと、下段にいるブラック・ジャックが対象されて描かれています。
     この上下の差が、即ち、死と生、勝利と敗北、運命と人為といった対立項を読者に強く印象づけるのですね。
     ここで読者は一転して敗者の地位に立たされたブラック・ジャックに強く共感し、かれの感情に同調します。
     手塚が作劇の天才としかいいようがないのは、この最後のコマで、その前のコマで高らかに哄笑していたキリコがもはやブラック・ジャックになどなんの興味もないといわんばかりにしずかに去っていこうとしているところです。
     つまり、ここには「宣言」と「沈黙」という対立項もあるわけです。
     まとめるなら、「死を司り、運命を信じ、ついに勝利したキリコの沈黙」と「生を守ろうとし、人為の限りを尽くし、それでも敗北したブラック・ジャックの宣言」が対峙していることになる。
     これこそが、まさに手塚的な「おもしろいストーリー」を象徴するワンシーンといえるでしょう。
     いや、これは手塚の「表現」の次元の話ではないか、「ストーリー」の次元の魅力とはいえないのではないか、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
     このワンシーンだけならそうといえるかもしれません。
     しかし、このシーンの前にここに続くストーリーがあり、そこではブラック・ジャックはキリコが殺そうとした患者の治療に成功した「勝者」であったのです。
     それなのに、一瞬でかれは「運命」の前に「人為」のむなしさを思い知らされる「敗者」の地位にまで突き落とされる。
     その「落差」にこそ読者は痺れるような快感を覚えているのであって、これはやはり「ストーリー」の次元で生み出された名場面といえるかと思います。
     冷静に考えてみれば、せっかく助けた親子が突然死んでしまうという展開は、伏線も何もない、シナリオ技法の点からはちょっと問題があるような展開です。
     しかし、それが巨大な「落差」ある展開を生み、強烈な「コントラスト」を感じさせる結末に至るとき、ひとはもはやそんなことを気にしないのです。
     むしろ、「一切伏線がないこと」こそがこのエピソードの真骨頂だといえるでしょう。
     物語を面白くしようと思ったら、「落差」や「コントラスト」はかくも大切だということ。
     波乱万丈の映画を「ジェットコースター」に喩えることがありますが、迫力あるジェットコースターとは緩急や高低に富んでいるものです。
     物語も同じ。「落差」がない展開は、どんなに巧みにつじつまが合っていても面白くないのです。
     なるほど、ストーリーは表現にくらべバリエーションに乏しく、パターン化して陳腐になりやすいことはたしかでしょう。
     しかし、同じパターンであっても、「落差の差」、「コントラストの差」というものは存在しえる。
     そして、その差は実に見過ごせないほど大きなものなのです。
     たしかに、ストーリー作りは表現ほど「自由」ではないかもしれない。
     それは「始点」と「終点」、そして「結晶点(クライマックス)」を意識して厳密に構成しなければならないものだからです。
     その意味で、ストーリーテリングとは表現とくらべて「窮屈」なものである、ということもできるでしょう。
     それはどこか数学の公式や音楽の作曲めいたところがあって、何かがちょっとでも狂うともう完璧とは見えないのです。
     そして、それにもかかわらず、一瞬で完璧なシナリオを作り出してしまう手塚のような天才もいるところも数学や音楽と似ています。
     モーツァルトは即興でみごとな曲を作ることができたといいますが、手塚はさしづめ「作劇技術のモーツァルト」ということができるかもしれません。
     この天才的な「劇的な落差を生み出すことの天才」があってこそ、手塚は宮崎駿といった「表現の天才たち」に勝負を挑むことができたのだ、と考えてみると面白いでしょう。
     戦後のエンターテインメントをざっと眺めてみると、ぼくにはもうひとり、「ストーリーの人」といいたい巨人がいます。
     黒澤明です。
     黒澤がシナリオを重視したことは有名で、「シナリオが一流なら、監督が仮に二流三流でもいい映画はできる。だけどシナリオが三流なら、一流の監督がいくら頑張ってもうまくいきませんよ」といった発言がいまに残されています。
     かれはじっさい、脚本づくりに膨大な時間と労力を費やしたといいます。
     『コンテンツの秘密』のなかでは、この黒澤も最後には表現を選んだということが書かれています。
     これはたしかにそうだろうとぼくも思います。晩年の作品を見ると、「黒澤も最後には表現に行った」ということはできそうに見えます。
     しかし、ぼくは思うのです。それは必ずしもマスに歓迎される変化だったのではないのではないか、と。
     もちろん、一個の芸術作品としては『乱』は素晴らしい。『夢』は美しい。そういうことはできる。
     しかし、より一般的な視聴者にとってやはり黒澤明といえば、『天国と地獄』であり、『椿三十郎』であり、『七人の侍』なのではないか。

     それは宮﨑駿といえば『ナウシカ』であり『ラピュタ』である、ということとどこか共通したものがあるのではないでしょうか。
     たしかに、大黒澤も最後には表現に行ったひとりではあるでしょう。
     しかし、それは「緻密な構成力」が衰えたために、そういう方向に進まざるをえなかったという一面もあるように感じられます。
     そう、ぼくには厳密な意味での物語の構成力とは歳を取るにしたがって衰えていく種類の知的能力であるように思えるのです。
     その証拠に、巨匠とされる人の晩年の作品を見ると、どれも長い。これは短く無駄なくタイトにまとめあげるスキルが衰えているということなのではないでしょうか。
     ぼくひとりがそう考えているわけではなく、たとえば『ファイブスター物語』の永野護などは、連作短編エピソードである「ザ・シバレース」を描いた理由を、こう述べています。

     「ザ・シバレース」を描いた理由のひとつとして「運命の3女神」での反省があった。
     「運命の3女神」はとにかく長くなりすぎた。当時、作家として、シナリオライターとして、自分にはものすごい恐怖感があって。昔から作家や脚本家に、40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多いような気がしていて。実際に多くの作家や脚本を書く映画監督が、つくる話がどんどん破綻してしまっていくのを見ていたからね。まあ、小説でも映画でも実際にはつじつまを合わせる必要はないんだけど、それを飛び越えるくらいの勢いで破綻しているケースを見てきた。
     「アトロポス」を書き終えたころはもう30代半ばだったし、そういった不安から30代のうちに自分に足かせをつけて膨大な短編を残しておかないとって思ったんだ。
     若い作家と年齢を重ねた作家の違いを考えると、若い作家は勢いで膨大な短編を生み出しているんだよね。O・ヘンリーもそうだし、ジョン・アーヴィングもそうだし。近代作家もすごいいっぱい短編を書き残しているよね。そういったことを含めて、「ザ・シバレース」を描こうと思った。

     「40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多い」。これは、ぼくの印象と重なります。
     たとえば、あれほど天才的な物語作家であった栗本薫にしても、40代ごろからその作品は冗長化の一途をたどった印象が強い。
     しかし、それも当然といえば当然のことです。物語づくりとは「窮屈」なもの、年を取り、巨匠と呼ばれるようにまでなって、そういう「窮屈さ」を引き受けようとするクリエイターはそう多くはないということなのでしょう。
     永野護にしても、短編をつくる作業を「足かせ」をつけると表現しています。
     これは「窮屈さ」をひき受けるということとほぼ同じ意味でしょう。
     ぼくはそういう永野をほんとうに偉いと思うのですが、それはまたべつの話。
     とにかく、ある程度の自由が許される「表現」にくらべて、「ストーリー」を作ることは「窮屈」であり、歳をとった作家はその「窮屈さ」に耐えられなくなっていくのではないか、という話です。
     しかし、やはり作家にとって「おもしろいストーリー」はひとつの強力な武器であるわけで、仮に表現がクリエイターの権利であるとすれば、ストーリーはクリエイターの義務。そういうふうにいえるかもしれません。
     さて、このようにストーリーの良し悪しには「つじつまの整合性」のほかにも「波乱万丈さ」という基準があるわけですが、そんなハラハラドキドキのストーリーにしても、川上さんのいうように「分かってしまえばもう見る必要はない」のでしょうか。
     実は、ぼくはこの点についてもそうは思わないのです。
     これはつまり、ひとは先の展開がわからないからそれが気になって画面を注視するわけ「ではない」ということです。
     いや、もちろんそういう側面は強いでしょうが、それがすべてかといえば、決してそうではない。
     むしろ、先の展開がわかっているからこそ、それを見たくて画面に集中してしまう。そういうことがありえるとぼくはいいたい。
     表現という一点を取るなら、スタジオジブリの作品でも後期の作品のほうが、やはりそれなりのお金をかけているぶん、川上さんがいうところの「情報量」が多く、魅力的であるはずです。
     初期の『ナウシカ』や『ラピュタ』、つまりスタジオジブリ以前の作品は、それにくらべれば情報量的にシンプルでしょう。
     となると、必然的に後期作品のほうが初期作品より「再視聴、再々視聴に耐える」ことになりそうです。
     しかし、じっさいには必ずしもそうなっていないのではないでしょうか? 表現としていまではそこまで情報量が多いように見えない初期作品も、後期作品以上に「再視聴、再々視聴に耐える」ものである。こういったとして、反論はそこまで大きくないのでは?
     それはなぜかといえば、「あるコンセプトに基づくストーリー」の力だと思うのです。
     「つじつま合わせ」という点でいえば特に優れているとも思えない宮崎アニメですが、それでも、少なくとも初期作品、あるいは前期作品には「おもしろいストーリー」があった、とぼくは思います。
     つまり、そこでは「落差」や「コントラスト」を生み出すドラマツルギーが、わかりやすくシンプルな形で作用していたと考えるわけです。
     たとえば、あの有名なパズーとシータが「バルス!」と叫び、ラピュタ城が崩壊してゆくシーン。
     あのシーンはいまではテレビ放映されるたびにTwitterでシェアされ、何十万もの人がともに「バルス!」と叫ぶことになっているわけですが、これは当然、その人たちが『ラピュタ』を既に見ていて、先の展開を知っていることを意味しています。
     かれらはすべての展開を知ってなお、「バルス!」の瞬間をわくわくと待ち望みながら『ラピュタ』を見ているわけです。
     なぜこんなことがありえるのでしょうか? それは、物語という「波」に乗ることが気持ちいいからだとぼくは思います。
     そう、川上さんがいう「脳に気持ちいい表現」があるように、「脳に気持ちいいストーリー」というものもまた存在するのです!
     ぼくはそれを「波」に喩えます。
     つまり、上がったり下がったりという「落差」のある展開を楽しみつづけることは、ある種の「波」に乗ることに近いものがあるように思うのです。
     この「波乗り」の快感が忘れられなくて、多くのひとはくり返し同じ映画を見るのではないでしょうか。
     世の中には、手塚や、ある時期までの黒澤のような物語作家(ストーリーテラー)と呼ぶべき作家たちがいます。
     「表現」より「ストーリー」により長けたクリエイターのことです。
     もちろん、手塚や黒澤は「表現」においても天才的な人物だったかもしれませんが、かれらがなぜ大衆の心を掴んだかといえば、魅力的な「波」を生み出す才能を持っていたからでしょう。
     たとえば田中芳樹。
     もっというなら奈須きのこ。
     田中は、表現力という点だけを取れば、おそらくそこまで優れた作家ではありません。
     それほど文章がうまいわけでもないし、あまり表現のセンスが良くないところがある。
     奈須きのこに至っては、文章力という一点だけを取るなら、はっきりと稚拙です。
     特に初期は読むのが辛いくらいなのですが、それでも、田中や奈須はベストセラー作家になりおおせました。
     なぜ、そんなことが可能だったのか。それは、かれらが物語作りに比類ない天稟を備えていたからです。
     かれらは魅力的なストーリーを生むことに特化した才能と技能をもつ物語作家なのです。
     西洋では、ロバート・A・ハインラインとか、スティーヴン・キングなどがそういう作家にあたるでしょう。
     物語作家は落差(高低差)の大きいストーリー(波)を生み出すことに長けています。
     ある場面、もっというならあるひと言にそれまでのすべての展開が「結晶」するように緻密にドラマを紡いでいく、そういう才能のもち主なのです。
     たとえば、『銀河英雄伝説』の「ラインハルトさま、宇宙を手にお入れください。それと、アンネローゼさまにお伝えください。ジークは昔の誓いを守ったと」といったセリフ。
     あるいは『Fate/stay night』の「いくぞ英雄王――――武器の貯蔵は充分か」というセリフ。
     これらは、そのひと言に向かってそれまでのすべての物語が収斂していく、そういう言葉です。
     LDさんの言葉を借りるなら、これらのひと言こそが、その物語の結晶点、クリスタライズ・ポイントであるわけなのです。
     こういう「波」の頂点ともいうべきセリフなり場面を生み出すことができ、しかもその前後の「波」がそこに自然につながっていくように計算して構築できる才能、それが物語作家の資質です。
     だから、奈須きのこの文章技術をいくらばかにしたところで意味がない。それはまったく筋違いの批判です。
     いい換えるなら、名ゼリフとか名場面というものは、それ単体で成り立つものではないということ。
     そこに向かって徐々に高まっていった物語のテンションがついに最高潮に達する、その瞬間をみごとに捉えたセリフや場面が名ゼリフと呼ばれ、名場面と呼ばれるだけのことなのです。
     その瞬間には実に堪え切れないカタルシスがある。しかし、それはそれ単体で成り立っているわけではない。
     物語とは「波」。
     山あり谷ありで初めて成り立つもの。
     だからこそひとは既に展開がわかっていて、しかも表現として特別に情報量が多いわけでもない同じ物語をくり返しくり返し楽しんだりするのだとぼくは考えます。
     ストーリーはたしかにパターン化しやすく、一見すると簡単に模倣できそうに見える。
     だから、物語作家はしばしば低く見られ、ストーリーの価値は軽く受け取られることもある。
     しかし、そうではない、優れた物語作家とは天才的な表現者と同じくらい貴重な存在なのだ。ぼくがいいたいのは、そういうことです。
     それでは、 
  • ニコニコ超会議、出ます!

    2015-04-13 21:17  
    51pt
     Twitterでは流しましたが、ブログでも正式に告知しておきます。
     今月26日(日)のニコニコ超会議に出席して生放送を行います。
     公式サイトの「出演者」のページには名前が載っていませんが、それでも出ます。うーむ。
     ぼくのほか、LDさんと、なぜかその日たまたま東京にいるらしい作家の津田彷徨さんが出席してくださるということなので、楽しい放送になればいいな、と思っています。
     ほんとうはぼくはいま円形脱毛症のせいでハゲオヤジ状態なので人前に出るのはいやなんだけれど(笑)、まあ、帽子でも被って出ましょう。
     正式な開始時刻や話題などは決定しだいお知らせします。
     ちなみに「超言論エリア」を利用することになりそうですね。
     ペトロニウスさんが日本にいたら参加してもらうところなのですが、あの人はいまアメリカなので、さすがにどうしようもありません。写真でも撮って送ろうと思っています。
     もし当日、超会議に参加するという方がいらっしゃいましたらぜひ声をかけてください。可能だったらいっしょに夕飯でも食べましょう。
     いやー、ぼくは書くのは好きだけれどしゃべることは苦手で、あまり人前で話したりしたくないのですが、まあ、ドワンゴに出ろといわれたら仕方ない。出ます。
     ぼくは基本的に思考速度があまり速くないので、リアルタイムで対話する能力は低いと思うんですよねー。
     そもそもペトロニウスさんみたいな異様にクロックの速い人と比べるのが間違えているのかもしれませんが。
     執筆はいくらでも手をとめて考えることができるので楽なんですけれどね。トークはそうそう黙って考え込むわけには行かないからなあ。辛いです。
     まあ、普通に話をするぶんにはぼくも大概おしゃべりだとは思うのですが、こういう場で話すのはまた違いますよね。
     心配しなくてもLDさんと津田さんが華麗なトークをくり広げてくれるとは思うけれど。
     返す返すもペトロニウスさんがいないことが惜しい。こういう場に最もふさわしいキャラクターなのに。
     ただ、そうはいっても東京に行けることは楽しみでないこともないんですけれどね。また何か新しい出逢いがあるかもしれないし。
     ちなみに超会議といえばオフパコで有名なわけですが、ぼくに限ってそんな美味しい話はないでしょう、きっと。
     このブログの読者ってたぶん98%くらいまで男性だろうしね。
     ええ、トップページの半裸の女の子のイラストを取り替えようかと真剣に考えているぼくです。
     このイラスト、ぼく自ら「おっぱいが大きくておへそが見えている女の子の絵にしてください」って頼んだんですけれどね。最低ですね。いいけれどね。うん。うん……。
     そういうわけで、悲惨な放送事故が展開する可能性も微レ存ですが、当日お暇な方は遊びに来てください。楽しい時間を過ごしましょう。 
  • どうすれば物語は面白くなるのか?

    2015-04-12 22:39  
    51pt

     アニメ『アルスラーン戦記』が面白いです。
     アニメーションとしての演出にそれほど傑出したものがあるというわけではないのですが、極上の物語をお金をかけて演出している凄みがある。
     何しろ原作は日本の架空歴史ものを切り開いた傑作ですから、きちんと映像に仕上げればそれなりのものが出来上がるはずなんですよね。
     そう、『アルスラーン戦記』はひとつの途方もなく面白い「物語」です。それでは、物語とは何なのかという話をいまからしたいと思います。
     学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
     この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
     何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
     このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
     ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
     しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。
     まあ、いわゆるワナビのなかにはただ作家になりたいだけで特に語るものがないというひともいるかもしれませんが……。
     そして、これも重要なことですが、物語には「始点」と「終点」があります。
     始めた物語はいずれ終わらなければならないわけですから、当然のことです。
     『アルスラーン戦記』第一部の物語を例に取るとわかりやすいでしょう。この物語は王子アルスラーンの軍勢が敵国ルシタニア軍に敗れ去るところから始まり(始点)、やがてルシタニア軍を打倒し国を奪い返すところまでを描いています(終点)。
     物語のすべてはこの始点と終点の間で語られることになります。
     そして、作者はその物語をなるべく面白くするべく、始点から終点に至るルートにいろいろな事件を配し、可能な限り緻密に「構成」しようとします。
     その構成の力量を「構成力」といい、また構成の方法論を「ドラマツルギー」といいます。
     この構成が不十分であったり、また終点に至るルートや終点そのものがはっきりしないまま物語を語り始めてしまうと、作者自身にも物語がどこへ行き着けばいいのかわからなくなり、物語が未完に終わってしまったりします。
     いわゆる「エタる(エターナルする)」という現象ですね。哀れ、港を出た船は目的地にたどり着くことなく、永遠の漂流者となってしまうわけです。
     とにかく、物語を緻密に語っていくためには始点と終点、そしてその間のルート設定が大切だということです。
     世の中にはこのすべてを天然の感覚でやってのける「天才」と呼ばれる人たちがいますが、ぼくには理解できない存在なので解説できません。わけがわからないよ……。
     まあ、それはともかく、普通の人たちはそこでなんらかの計算を行います。
     たとえば、終点の時点で主人公が幸せになっているためにヒロインを出そうとか、それでではつまらないからヒロインは悪漢に浚われてしまうことにしようとか、そういうことですね。
     天才はしらず、一般的には、物語は終点、少なくとも先の展開が見えていて初めて厳密に構成できるものです。
     たしかに全何十巻にも及ぶ長大な漫画とか小説はあり、そういう作品では終点までのルートがはっきりしていないまま書き始めていたりするのでしょうが、その場合はやはり構成の緻密さに限界があると思います。
     大抵は途中で話を区切って構成するんですけれどね。
     さて、この「終点」に近いけれど異なる言葉で、物語のすべての展開が行き着くところのことを、LDさんの言葉で「結晶点」といいます。クリスタライズポイントですね。
     その物語のさまざまな展開はそこで結晶するべく進展していっているということでしょう。
     わかりにくいでしょうか?
     これも『アルスラーン戦記』を持ち出すとわかりやすいのですが、この物語では実にいろいろな謎があり、事件があり、伏線があります。
     しかし、それらすべてはやがて王都エクバターナ奪還という一点に集約していくのです。
     その瞬間にほとんどすべての登場人物が集まり、対決しあい、雌雄を決しあいます。
     これは、よく考えてみると不自然といえば不自然なことです。
     現実的には、なぞの銀仮面卿はどこかで偶然に足を滑らせ落馬して死んでいたかもしれず、王子アルスラーンはどこかでもたもたして見せ場に間に合わなかったかもしれないわけですから。
     現実にはそういうことも十分ありえるわけですよね。しかし、物語を演出しようとして構成する以上、それはあってはならないことです。
     やはりクライマックスにはいちばん盛り上がるように構成されていなければならないのです。
     ちなみにこのクライマックスを意図して外すこともあって、そういう展開はアンチクライマックスとか呼ばれたりします。
     旅の勇者が苦難の末、魔王を倒そうとしたらもう寿命で死んでいたとか、そういう展開が想像できますね。元々は修辞法の言葉だそうです。
     が、それは、あとで説明しますが、あくまで例外。通常、面白い物語はちゃんと盛り上がるべきところで盛り上がるよう計算されているものだといっていいでしょう。
     そして、面白い物語とは普通、始点と終点のあいだで波乱万丈の展開を迎えるよう構築されているものです。
     何ひとつ事件が起こらず、老人がひたすら日向ぼっこをしているだけという物語は、少なくとも一般的な尺度では面白くない。
     次々と深刻な事件が起こって、「いったいこの先どうなるんだ?」と読者/視聴者を惹きつけるのが良くできた物語というものです。
     それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
     単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
     これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
     今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
     一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
     べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
     ペトロニウスさんが「強さのデフレ」という文脈で、この「落差」のことを語っているので、ちょっと長くなるけれど引用しておきましょう。

     こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの2部が、とても好きで、、、2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェ・スネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第二部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第一部では雑魚キャラレベルだったはずです。。。。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。
     強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。
     これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです。要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。
     そこで、、、、ヒロインのヨーコが、、、、圧倒的な敵に対して、主人公(覚醒前のね)を抱きしめて絶望的に空を見上げるシーンがあります。グリフォンだったか、、、一匹でもみんな大事な仲間がバタバタ死んでいくのに、それがものすごい数が現れたのを見て、、、、
     そして、そこで主人公が覚醒して、、、、そしてガラやネイが戻ってくる、、、、という話になるのですが、僕は、このシーンがとても好きで、、、、というのは、一つは、
     どうにもならない絶望感
    と、
     ありえないような絶望のどん底から一筋の光明のような希望が舞い降りる瞬間
     が、見れるからなんですよね。物語って、そういうドラマトゥルギーの落差が欲しいなと僕は思うのです。
     けれども、、、、この絶望のどん底感を描けるのって、とても難しいのです。なぜならば、主人公は、当然強者であり、世界を救うものじゃないですか。基本的にそういう前提が隠れているのが普通で、なかなかこの絶望が描けない。この絶望は、まったく力がない、一兵卒や一市民の視点からでないとわからないからです。そして、勇者やヒーローと呼ばれる存在の、「凄み」というのも、このどん底の絶望との「落差」を通してでないと、実はわからないんじゃないか、といつも思っています。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2
     そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
     最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
     つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。
     そのための方法論がドラマツルギーであり、展開の「定石」です。
     定石とは、だいたいこういう展開にしておけば面白い物語ができあがるというパターンのことですね。
     それはたとえば「フラグ」といった概念で理解することができます。脇役が急に昔の話を始めたら死んでしまう予兆だというようなあれです。
     このような「死亡フラグ」は、もちろん現実には存在しません。物語のなかだけにある概念です。
     物語はただなんとなく語られるわけではなく、状況の落差を生みだし、その上で結晶点を目指そうとして計算して語れるわけですから、効果的に落差を生むために伏線やフラグが多用されるわけです。
     たとえば、主人公が昔いっしょに過ごした可愛い幼馴染みの女の子のことを思い出したら、これは伏線に決まっています。
     ただたまたま思い出しただけで、その女の子がその後一切物語に関わってこなかったら読者は怒ることでしょう。
     それが現実と物語の違いです。現実世界にはすべてを面白くするよう計算して事象を配している存在はいませんが、物語世界には作者という神がいるのです。
     したがって、物語世界には始点があり、終点があり、結晶点があり、ドラマツルギーがあり、また定石があって、それらが物語を面白くしています。
     しかし――しかしです。世の中にはなんとこの「定石」にあてはまらない物語が実在するのですね。
     それは、 
  • あなたの最愛の天才は、いつか必ずあなたを裏切る。

    2015-04-12 00:10  
    51pt

     たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』である。 世の中には天才といわれるようなクリエイターがいて、時折、信じられないほどクオリティが高い作品を生み出す。
     しかもそれはただ品質的に高度だというだけではなく、何かひとの心を捉えて離さない特別な魅力を秘めている。
     そういう作品にふれたとき、受け手は思う。「ああ、まさにこれこそ自分が夢にまで見た理想の作品だ」。
     そして、その作者に対し強い親近感を抱く。この人は自分のような人間のことをとてもよく理解してくれているに違いない、と。
     これが、ひとがあるクリエイターの「ファン」になるということである。
     クリエイターとファンの良好な関係は、しばらくの間は続くだろう。そのクリエイターがファンにとって最高の作品を提供しつづける限り、ファンはかれを神とも崇めつづけるに違いない。
     この状態を、ぼくの言葉で「蜜月」と呼ぶ。
     しかし、時は過ぎ、状況は変化する。永遠に変わらないかに思われたその天才クリエイターの作品も、しだいに変わっていく。
     その変化は、人間であるかぎり必然的なものだが、ファンには重大な「裏切り」とも感じられる。
     なぜなら、ファンはそのクリエイターに幻想を見ているからだ。そのひとが自分の理想を体現しつづけてくれるという幻想を。
     だからこそ、クリエイターがその理想から外れることは途方もなく辛く感じられるのだ。
     そして、ときにファンはその「裏切られた」という思いをクリエイターにぶつける。
     最も熱烈なファンであったひとは、最も凶悪な弾劾者になるだろう。こういうパターンを、あなたも一度や二度は見たことがあるのではないだろうか。
     『エヴァ』ではなく、『グイン・サーガ』でも、『AIR』でも、『ファイブスター物語』でもなんでもいいのだが、熱狂的な「信者」を集めるカルトな傑作は、次の段階に進んだとき、「そっちへ行くな! ここに留まれ!」というファンたちの非難に晒される。
     かれらはいうに違いない。「一時だけ夢を見せてそれを裏切るなんて、なんてひどい!」と。
     しかし、それは本質的にクリエイターのせいではないのである。どんな天才的なクリエイターといえども、人間である以上、変わっていくことは必然なのだ。
     そして、ファンとまったく同じ人格ではない以上、ファンの気持ちをどこまでも汲み取りつづけることも不可能なのである。
     あるいはファンはいうかもしれない。「自分は金を払ったのだから、作者には自分の望むとおりにする義務がある」。
     だが、そんな義務はない。わずかな金銭で他人の行動をコントロールしようなどと、無駄なことだ。
     たとえばアニメ『艦これ』のように、大規模な失望が「炎上」現象を生むこともある。それも無駄といえば無駄なことである。
     どんなに騒いでも、他人の気持ちを変えることはできない。そしてすでに作られてしまった作品の筋書きを変えるわけにもいかないのだ。
     大切なのは、クリエイターと自分はべつの人間であり、べつの価値観を持っていて、べつのものを良いと考えるのだ、という事実をしっかり認識しておくことである。
     ひととひとはあくまでも「個別」。蜜月の夢は甘いが、それはどこまで行っても幻想に過ぎない。
     だから、怒ってもいいし、批判してもいいが、他人を自分の思い通りにコントロールしようなどと考えるべきではない。他人は他人に過ぎないのだ――たとえ、信じられないほど天才的な他人ではあるにせよ。
     理屈では、そういうふうに思う。とはいえ、