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渡レイによるマンガ『Fate/Grand Order-Epic of Remnant-亜種特異点3/亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負(1)』(長い!)を読み終えました。
山田風太郎の小説『魔界転生』にオマージュをささげたとされる作品ですが、なかなか悪くない、十分に面白いと思います。
ただ、この設定だと、ぼくは『魔界転生』のあの冷え冷えと凍てつくような凄愴さを思いだす。で、『魔界転生』って凄かったなあと、あらためて故人の天才を思うのです。
以前から思っているのですが、『魔界転生』の何が凄いって、ひとつには、過去の講談や小説などに登場するヒーローたち七名を集めて柳生十兵衛と対決させるという、ようするに『Fate』シリーズを遥かに先取りした設定があるのですが、でも、ぼくは本質的には「そこではない」と思っています。
いや、そこも大切なのだけれど、ほんとうに凄いのは、そうやって「人類最強決定バトルロイヤル」みたいな設定を作っておきながら、作者自身がそこに何の意味も見いだしていないところなのではないかと。
『魔界転生』という小説は、まさに時代小説最強を決定する超絶バトルロイヤルを描きながら、どこかで作者自身は、「ばかだよね」、「くだらないよね」とその凄絶無比の魔戦を見下ろしているようなところがある。
そもそも「最強」の称号に何の意味があるとも思っていないというか。そして、それでいて「最強決定戦」に挑む各キャラクターの執念の描写は凄まじい。
何の意味もない、値打ちもないものに人生をも命をもつぎ込むその戦い――そこがほんとうに凄いですね。
何をいっているのかわかってもらえるでしょうか? うーん、どう話すのがいちばん良いか。そうですね、ちょっとまえにTwitterで「『ヤマト』や『ガンダム』は戦争賛美か?」という論争がありました。
このツイートから始まった話であるようです。
「宇宙戦艦ヤマト」にしても「機動戦士ガンダム」にしても、どう言い繕おうが戦争賛美だと思うんですよ。まあ検閲すべきだとは思いませんけども、そこにある「カッコよさ」に無警戒なまま大人になってしまう人は少なくないので、ああいう作品を簡単に称賛することだけは、してはいけない。(・ω・)
これに対して、さまざまな反論が寄せられたのですが、ぼくが見る限り、そのほとんどが「『ガンダム』は戦争賛美なんかじゃない!」というものでした。これがね、ぼくは心底なさけない、つまらない話だなあと思うのです。
たしかに、『ヤマト』にしろ『ガンダム』にしろ、ただ戦争賛美「だけ」の物語ではないでしょう。そこには反戦的なテーマもあれば、また戦争の残酷さを描いた場面もあるでしょう。
ただ、ぼくは『ガンダム』が「ほんとうは反戦的な作品だから」、この作品に価値があるとは思わない。そもそも戦争賛美だとか、反戦だとか、そういう「思想」の話は『ガンダム』の面白さを語るとき、わりとどうでもいいことだと思うのです。
たとえ、『ガンダム』がどれほど「戦争の悲惨さ」を描いているとしても、その一方でアムロが格好良くザクを叩き斬るカタルシスがあることもたしかであり、そして『ガンダム』の本質はその「『ガンダム』かっこいい! アムロ、シャア、かっこいい!」ということのほうにある。
戦争賛美だの、反戦思想だの、そんなものは「おまけ」でしかありません。
べつだん、『ガンダム』に限らず、ほんとうに優れたエンターテインメントとはそういうものだと思うんですよ。それは何らかのお偉い「思想」を伝える、そのための「方法」じゃない、それじたいが「目的」なのであって、ただただ面白いとか、ただただ格好良いという以外、何の役にも立たないものなのです。
したがって、そこには「虚無」がある。何の役にも立たない、何の目的もなく、何の意味もない。そういう性質のものだという現実がある。ほんとうに面白いエンターテインメントは必ずこの絶対的な無意味さ、「虚無」と直面する。ぼくはそう思っています。
『ガンダム』が傑作なのは、間違えても反戦思想を伝える平和祈念アニメだからではありません。物語が面白いからです。そして、アムロやシャアがカッコいいからです! ただそれだけなのです。
まあ、人によっては、「いや、実は『ガンダム』には面白いとかかっこいいとかそういう幼稚なことに留まらない、深遠な哲学があるのだ」というかもしれません。しかし、ぼくにいわせればその哲学こそくだらない。
なぜなら、そこには、エンターテインメントを何らかの形で役立てよう、その価値を社会に還元しようという「欲」があるからです。それはエンターテインメントの純粋さを損なう「邪念」でしかありません。
「ただ面白い」、「純粋に格好良い」、それだけで十分なのであって、それこそが本質であり、神髄なのです。『魔界転生』はまさにそういう「ただ面白い、それだけ」の物語でした。だからこそ、ぼくは神域の傑作だと思うわけです。
きのう取り上げた山本弘さんの話を思いだしてみてください。山本さんは物語にかれが信じる「正義」を持ち込み干渉しました。つまり山本さんにとっては、その「正義」こそが至上の価値を持っているということなのでしょう。
いい換えるなら、物語を「正義」を伝えるための「方法」として使っている。だから、山本さんの物語はたいして面白くならない。「虚無」と直面していないのです。
わかってもらえるでしょうか? 先の『ヤマト』や『ガンダム』を巡る論争で、「『ガンダム』や『銀英伝』を読んで政治や戦争をわかったと思っている人たち」を批判的に語る意見をいくつか見かけました。たとえば、このような意見です。
僕はガンダムに戦争賛美は感じないのですが、賛美ととらえてしまう人もいるだろうとは思う。昨今にわか軍オタがガンダムや銀英伝で覚えたような知識ひけらかすのを見ると、この手の戦争もの作品の功罪を考えざるを得ないよな……
しかし、ぼくにいわせれば「知識」の習得に役立たないことは『ガンダム』や『銀英伝』の「罪」ではない。そもそもエンターテインメントは知識の習得のためにあるわけでも、道徳教育のためにあるわけでもないからです。
いくら戦争や政治について最先端の正確な知識を盛り込んでいても、つまらないものはつまらない。その反対でも面白いものは面白い。そして、どんな「偉い」、「正しい」イデオロギーをテーマにしていても、ダメなものはダメなのです。
つまり、つまらない平和祈念アニメより、面白い戦争賛美アニメのほうがエンターテインメントとしての価値は上だということ。
それは平和祈念より戦争賛美のほうが正しいからではなく、そもそも「どんな思想が正しいか?」ということとエンターテインメントの魅力はべつの次元にあるからです。
もっとも、この世で自分の信じる「思想」なり「正義」が最も大切なものだと信じてやまない人たちはいる。大勢いる。そういう人は本質的にエンターテインメントの消費者に向きません。
だから、そういう人はエンターテインメントを語るときにも、必ず「政治」を持ち出す。現実社会をどう運営するかという「政治」がこの世でいちばん大切なことだと信じているからです。
ぼくにいわせればそれは人間にとっての「普遍的な価値」を奉じる幻想にしか過ぎない。まさに、山本さんがそうであるように、ですね。
そういう幻想を信じる人たちは、そもそもエンターテインメントなんて大して好きでもないのでしょう。現実が大好きで、「いかに現実社会の役に立つか」が最も大切なことだと自明視している。
でも、ぼくの価値観は逆です。「役に立たないものほど面白い」。社会の実利に還元不可能であるものこそ価値がある。その意味で、一見すると政治や軍事にかぶれているように見える田中芳樹も「こちら側」の人だし、司馬遼太郎なども実は「こちら側」の人だと思うのです。
かれらはたしかに虚無に直面している。だから、『銀英伝』の政治理念がどうとか、司馬史観がどうとか、どうでもいいじゃん!と思うわけ。それよりロイエンタールが、土方歳三が悲劇的にカッコ良く描かれているということのほうがよほど大切だとぼくは思う。
それを幼稚だという人もいるでしょう。ですが、ぼくから見れば、「ただ面白いこと」、「ただ綺麗であること」以上の価値はありません。
少なくとも、政治について正確な知識が得られるとか、子供たちを平和教育に洗脳できるなんてことがエンターテインメントの真の価値だとは思わないということです。
その意味で、『ガンダム』や『銀英伝』はやっぱり傑作だし、上述の『Fate』はなかなかいい線を行っていると思います。
とまあ、これに関連するような話を今度の夏のイベントでは話そうと思っているので、良ければご参加ください。近々、参加者を募集します。
でわでわ。
以上!
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