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「無職の才能」が足りなくて。
2015-05-25 01:4551pt再度、記事に付いたコメントを転載させていただきます。
転載されたコメントの「メディアへの接触は自由である」というのは、ネットへの書きこみや投稿ができる状態でしょうか。
もしそうでないのならば、そのうち楽しくなくなると思います。これは他の記事でもコメントしたことですが、「自己承認欲求」が満たせないからです。
いくら面白いコンテンツを自由に消費できても、これだけだと「自分は世の中の何かに役だっている」という実感を得られません。
「自分は何のために生きているのか」「この世に自分は必要なのか」「このまま何も成し遂げずに死ぬのか」という疑問がわいてきて、楽しむどころじゃなくなってくるのではないかと。
自己承認欲求が無い人も、中にはいるかもしれません。でも、そういう人は少数だと思います。
たいていの人は、社会と関わって他人や自分自身によって「自分を何らかのかたちで認められる」ことがないと、欲求不満になってしまうのではないでしょうか。
――ああ、承認欲求、ありますよねえ。
いまの世の中には楽しいことや面白いものが山のようにあふれているわけですが、やはりひたすらそれらを楽しんで面白おかしく生きていくことはできないようです。
いや、できる人もいるのだろうけれど、ぼくにはできない。やっぱり「ぼくはなんのために生まれてきたんだ?」とか思い悩んでしまう。
なんといっても人間は社会的動物で、社会との関係を構築せずに生きて行くのはしんどいのだと思います。
ひとは「他者」という鏡があって初めて自分の立ち位置を確認できるようなところがある。
ぼくにしてからそれは変わらず、お気楽なニート暮らしを満喫しているとどうも不満感が高まっていくようなのですよね。
ぼくですらやっぱり何かひとの役に立つことをしたいとか思ってしまうわけなのです。
そういう強迫観念に捕らわれず自由に人生を楽しめる人もいるのだろうけれど、どうやらぼくはそうではない。
そういう意味ではぼくにはあまり「無職の才能」はないのかもしれません。ただやむを得ず無職しているだけなんですね。 -
お金をかけず幸せに暮らすためには、技術が必要だ。
2015-05-24 02:3751pt
日本一有名なニートとしてしられるPhaさんの新刊が出るそうで、クリスマスまでの日を数える子供のように楽しみに待っている。
タイトルは「持たない幸福論」、26日発売だとか。
26日になったら即座にKindleで落とそう。まったく便利な世の中である。
で、そのPhaさんが「お金がないと幸せになれないのか」という記事を書いている。
http://pha.hateblo.jp/entry/2015/05/22/003115
もちろん、イエスかノーでシンプルに答えられる問題ではないのだけれど、Phaさんのアンサーはイエスに近いようだ。
ぼくとしては「ある程度は収入があったほうが幸せになりやすい」と答えたい。
やっぱりいまの時代、大半の人間は社会のなかで生きているのだし、その社会で通用する通貨をたくさん持っているといろいろ便利ではある。
お金がたくさんあれば幸福というものではないことは諸々の調査があきらかにしているが、そうかといって極端な貧乏もやはり辛いものがある。
昔、「清貧の思想」と題する本がベストセラーになったが、清貧とはなかなかむずかしいもので、やはり大抵の貧乏はただ貧しいだけなのである。
ただ、貧乏が即座に不幸かというと、必ずしもそうではないらしいこともたくさんの証言がある。
また、現代日本のような社会インフラがきわめて高度に整備された社会における貧乏は、そうでない社会における貧乏とはまた性格が違っているだろう。
「貧乏」が即座に「貧困」ではないのだ。
『貧乏は幸せのはじまり』というなかなか面白い本があって、そのなかには赤貧の有名人のエピソードがいくつも出て来る。
ほほえましく読めるものもあれば、読んでいるほうが辛くなってくるものもあるのだが、それらを読んでいるとたしかに裕福さと幸不幸は関係ないのだな、と思えて来る。
すべてはその人の内面の問題。
もちろん、そうはいっても、凡人にとって貧乏は楽ではない。
凡人は、それが可能であるならおとなしく一定のお金がある生活を送ったほうがいいだろう。
ただ、最低限の収入でもなかなか楽しそうに暮らしている人たちがいることは事実だ。
社会の整備が進んだ上に、いろいろなものが極端に安価で入手できるようになった昨今、「貧しいが楽しい暮らし」を送ることは以前より容易になって来ている。
というか、 -
生きているってほんとうに素晴らしいことですか?
2015-04-08 01:4051pt
てれびんは砂地を掘って回る犬のような奴で、時々、ネットを探りまわっては奇妙な漫画を見つけてくる。
草野佑『余命¥20,000,000-』もそんな一冊。
見つけてきた本人が買おうかどうか迷う様子だったので、ぼくが買って読むことにした。結果としては面白い本だった。
物語は、ある家にひきこもっている「草間さん」という人物が2000万円の懸賞をあてるところから始まる。
こうして預金0円でゆるゆると消滅しようとしていた彼(彼女?)の余命は、2000万円分延長されることになった。
しかし、草間さんはそれで生き方を変えるでもなく、ひたすらローコストなひきこもり人生を全うしようとする。
偶然から草間さんと知り合うことになった主人公はその姿勢に戸惑うのだが――という話。
人間関係をこじらせて会社を辞めるも、なんとか再就職先を探して必死に俗世間で生きようとする主人公と、生きることそのものを放棄してしまったような草間さん。ふたりのコントラストが面白い。
それにしても、実に危険な作品である。
この本を読んでいると、「生きていること」、「働いていること」に対する根本的な疑問が湧いてくる。
なぜ生きていかなければならないのだろう?
どうして働く必要があるのだろう?
そういう根本的な疑義が湧き出してきて、「生のエネルギー」を根こそぎ奪っていかれそうになる。
いや、ぼくなどひとの半分も生きていないような人間だが、そういうぼくでもこう思うのだから、真面目に働いているひとなど、泥沼のような誘惑に捕らわれるのではないか。
さもなければ、激しい嫌悪を抱くかもしれない。
ここにあるものは、生きていくことを自然とみなし、生きていこうとする意思を称える「エロスの価値観」の対極にある思想である。
仮にそれを「タナトスの思想」と呼ぼうか。
ひとが疲れ、ひとり倒れ伏すとき、タナトスは妖しく誘いかけてくる。
そんなにまで辛い思いをして生きている必要があるのかな?
そのまま何もかも忘れて眠ってしまえばいいじゃないか。
そうして、すべてを捨ててしまえば、それで済むことじゃないか。
捨ててしまえ――あまい囁き。すべてを捨ててしまえば、楽になれる。
幸いというか、ぼくはいままで何とか生きてこられたが、それは自分の功績というよりは、ほとんど幸運のおかげだと思っている。
べつだん、生きていくことが偉いなどと思ったこともない。生きているほうがいいという確信もない。ただ、たまたまこの歳まで生きのびただけだ。
もちろん、ことさらに死にたいわけでもないけれど、生はいかにも億劫で、死は魅惑に富んでいる。
何より、生まれつき働くことに適していないぼくなどは、働くくらいなら死んだほうがいいかな、と本気で思う。
そう、「なぜ働かないといけないのか?」を突き詰めると、「働かないと生きていけないから」という考えに突き当たる。
しかし、それは逆にいうなら「生きて行くこと」をあきらめてしまえば働かなくても良いということだ。エロスの価値観を捨て去ってしまえば、ありとあらゆる苦悩が解決するわけだ。
これは途方もなく魅力的なことではないだろうか。
少なくとも草間さんを見ていると、どうしようもなくそんなふうに思えて来る。
一生懸命働いて、家族を作って、子供を育てて――そんな「まともな人生」、「規範的な生活」とされるものは、いま急速に崩壊しつつある。
あたかも、日本全体が繁栄の夢から醒めようとしているように。
そんななか、「生きること」はよりいっそう苦しさを増していこうとしている。
それでも、なお、あくまで「生」にしがみついて、必死に生きていこうとする人たちを、ぼくは偉いと思う。
しかし、一方で「死」にすべてを委ねてしまうというあり方も決して否定されるべきではないはずだ。
『三日間の幸福』について書いたとき、ぼくは「ここではあまりに生が軽んじられている」という意味のことを書いた。
いまでもその考えは変わっていないのだが、「生」の価値のすべてを知り尽くした上で、なお、ゆるやかな「死」を選ぶというあり方は尊重する。
生きていたくない。
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