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ひきこもり生活は快適だぜ、ヒャッハー。(2118文字)
2013-06-10 18:2753pt
いやー、サボりまくってしまいましたねー。いいかげん日常に復帰しなければならないと思うのですが、いったん怠惰のクセがつくと元に戻ることは案外むずかしいわけで、なかなか気力が湧いて来ません。
そもそも「仕事」である以上、気力がどうとかいうことじたい論外という気もしますが、まあ、少しずつ調子を整えていこうと思います。
それにしても、新潟から愛媛まで強行軍で行ってみて、自分の体力のなさを痛感しました。これから歳を取っていく一方であるわけで、いいかげん何とかしなければ、と考えるしだいです。
いままでも一念発起しては挫折することのくり返しであったわけですが、今回はほんと、本気でどげんかせんといかんと思いますね。いやはや。
さて――何を書こう。数日前までは色々ネタを用意していたはずなんだけれど、自分のなかですべて吹き飛んでしまった感じ。
その後も『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の最終巻を読んだり映画『藁の楯』を観たりしているのだけれど、どうもすぐに記事にまでなりません。何かスイッチが切れてしまったというか。そんなことをいっていちゃいけないのはわかるんですけれどね。
こういう時はとにかく何でもいいから書いてみればスイッチが入るものなので、とりあえず適当に書いてみましょう。あ、これからは毎日更新に戻る予定ですので、よければお見捨てなく。こんなに休んだ以上、見捨てられても仕方ありませんけれどね……。
しかし、これからの海燕さんはちょっと違う!かもしれないので、どうせ購読料がかかるなら今月いっぱいくらいは読み続けてもらえると、何かちょっと新しいものが見れるかも。
まあ、どれだけ表に出せるかってことははっきりとはいい切れないところなんですが。ここに書いても理解してもらえないだろうこともたくさんあるので。友人の悲報をあまり記事にするのは本意ではないのでこのことについて書くのはこれで最後にしましょう。
書けることだけ書いておくと、今回、痛切に思い知らされたのは人間関係のありがたさです。
ここ最近、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』とか『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』とか『僕は友達が少ない』とかのいわゆる友達づくり系のライトノベルを読みもし、あるいは語っても来たものの、まさかリアルでオタク友達のありがたみを痛感させられるとは思いませんでした。
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訃報。
2013-06-07 12:2753ptきょうのTwitterでの連投をここにまとめておきます。ぼくがここ数日間、更新をサボって何をしていたかといういいわけです。聞く耳持たんわ!というひとは読まないでください。それなりにシリアスな話題ですので、その点も了解の上、お読みいただければ、と。
ご遺族の許可を得た上で、訃報をお届けします。さる6月2日(日)sajikiさん(@sajiki)が亡くなられました。死因は心不全、享年34歳でした。故人をご存知の方はこのツイートをリツイートするなり個別にリプライするなどして、ほかに関わりがあったと思われるひとに事情をお伝えください。
数日前にぼくがTwitterで取り乱していたのを憶えておられる方もいらっしゃるでしょう。あのとき、実はsajikiさんの妹さんから訃報をお知らせいただいたのでした。まったく突然のことで、当初は信じられず、うろたえてしまいましたが、残念ながら事実でした。
その後、妹さんと電話連絡が取れ、故人のネット関係の友人にこのことを知らせてほしいとのご意向だったので、故人と知りあいだったひとたちにはぼくのほうから連絡させていただきました。夜中に電話をかけてたたき起こしたひともいますが、事情が事情なのでご容赦くださいね。
亡くなられたのが2日で、ぼくたちのところに連絡が来たのが3日の深夜、すでに4日に入るあたりです。ぼくはたいとくさん(@taitoku)と連絡を取り、故人と親しかった友人たちをスカイプで集めてどうしようかと相談しました。というのも4日の昼12時から葬儀が始まるのです。
以下、故人とは直接関係がないことながら、その日にぼくたちがどういう行動を取ったかということを書かせていただきます。なぜ3日間もブロマガの更新をサボったのかということの言い訳に過ぎないともいえるので、ここからは興味のある方だけ読んでください。
故人の地元は四国の愛媛県です。常識で考えたらほかの都道府県から12時間後に参列することはむずかしいでしょう。しかし、首都圏在住のある方がまず自分が行く、と言ってくださいました。ここでは仮にMさんとしておきましょう。Mさんは飛行機を飛ばして参列してくださるつもりのようでした。
Mさんに続いて山梨県のてれびん(@terebinn)も大学を休んででも行くと言ってくれました。かれは夜行バスを使って羽田に出て、そこから飛行機を飛ばすつもりとのことでした。じっさい、その日の午後3時頃にはかれはその場を離れ、バス停へ向かっています。決断と行動が速いですね。
関西の敷居さん(@sikii_j)とレスター伯(@LeicesterP)は当然ですが翌日仕事があり、当初は行けないとのことでしたが、無理して行ってくれることになりました。相当無理目のスケジュールながら、新幹線などを利用して行くつもりであるようでした。
さて、ぼくは新潟ですが、故人と最後のお別れをしたかったので、行くことにしました。家族には「いまは感情的になっているが、新潟から愛媛まで行くのは無理だ」という理由で反対されましたが、それは頭を下げて押し切ってしまいました。手もとのお金をかき集めて新幹線の始発に乗ります。
その後、上越新幹線の近くで不発弾が発見されるというトラブルなどはありつつも(!)、なんとか東京駅へたどり着きてれびんと合流、モノレールで羽田に向かいます。そこでようやくATMからお金を下ろしたりつつ、運良く切符が取れた飛行機で愛媛の松山空港へ向かいました。
そのあいだ、徹夜だったこともあって外の景色を楽しむ余裕などはなく、ひたすら寝ていました。空港に着くと、今度は葬儀場まで移動です。レンタカーを借りる計画もあったのですが、結局、時間が読めないと困るということになり、バス、電車、タクシーを組み合わせることに。
駅で香典袋を買って電車のなかで香典を包み、火葬場に着いたのが13時ごろ。数十分後、すでに来ていたMさん、敷居さん、レスター伯と合流します。なんとか火葬に間に合い、故人と最後のお別れをすることができました。何かひとつ間違えていたら間に合わないところだったので、よかったと思います。
ここまで、信じがたい思いを抱えていたものの、残念ながら棺に収まっているのは紛れもなくぼくたちが知っているsajikiさんでした。ぼくたちはそのあと、ご遺族の方とお話させていただき、故人の思い出話をしました。故人にはたくさん仲間がいたこと、とても好かれていたことをお話しました。
故人はネット関係の友人のことをご家族にくわしく話していたようで、ご家族の方はぼくたちの名前を知っていてくれました。それもあってご家族の皆さんには喜んでいただけたようです。新潟から無理して行った甲斐がありました。その後、お斎をいただいたあと、バスと新幹線で京都の敷居さんの家へ。
その途中でたいとくさんと合流、6人になって午後10時40分ごろに敷居さんの家に到着。全員、疲れきっていましたが、すでに銭湯も開いていない時刻で、かわるがわるシャワーを浴びて済ませたあと、しばらく話をして、就寝。実に密度が濃いというか、非日常的な24時間でした。
sajikiさんはぼくにとって最も親しい友人のひとりでした。ひとなつっこく、真面目な性格で、紛れもなく「いい奴」でした。あまりに真面目すぎるため考えこみすぎるところが心配ではありましたが、まさかこんなに早く別れの時が来るとは想像していませんでした。ひたすら残念です。
ご家族にsajikiさんにたくさんの友達がいたのだとお知らせできたことがせめてものの救いでしょうか。あるいはそれも自己満足かもしれませんが、ぼくにできるだけのことはやれたかな、と思っています。いまなお、sajikiさんのスカイプからひょいと連絡が来そうな気がしてなりません。
また、今回、あらためてネットを通した絆の強固さを感じました。葬儀まで12時間を切っていたにもかかわらず、日本全国から仕事や学校を休み、駆けつけた敷居さんやレスター伯やてれびんの友情の厚さには感動させられました。ああ、ほんとうにほんとうの仲間だったんだな、と思い至ったしだいです。
故人は実にいいひとでしたが、かれが最後に作ったネットの仲間もみんな、ほんとうにいいひとたちだと思います。その場に行けなかったひとたちからもたくさん連絡をいただき、励まされました。ありがとうございます。最後にひとつ、みんな、健康を大切にね! 死ぬなよ! ぼくも死なないから! 以上です。 -
その一生は流星の軌跡。だれよりも真摯に生き抜いた病弱の天才棋士、村山聖の生涯を読む。(2057文字)
2013-06-03 00:2353pt
村山聖の名前をご存知だろうか。1998年に若干29歳で亡くなった夭折の棋士である。破格の才能と病弱な肉体をあわせ持ち、一生涯を将棋に賭けた。
生前、ついにその指先がタイトルに届くことはなかったが、人生の終わり頃にはA級に在位し、棋界最高位「名人」を狙える立場にいた。
大崎善生『聖の青春』はその村山のあまりに短い、駆け抜けるような一生を丹念に綴った一冊。Amazonでは88人がレビューを書き、うち79人までが★★★★★の評価を付けている。
★とか★★と評価しているひとはひとりもいない。異常ともいえる高評価で、いかにこの本が、そして村山という若者が愛されているかわかる。
世の中に「泣ける」という評判の本はたくさんあるが、個人的にはこの『聖の青春』ほど泣ける本はない。読みかえすたびに頬をしたたり落ちるものがあるのである。
ひとの半分にも満たない長さの人生をだれよりも真摯に、そして峻烈に生きた村山の人生の輝きが、かれよりもはるかに頑丈な身体を持ちながら怠惰に暮らす自分を責める。
なぜ、もっと真剣に生きようとしないのか。泉下の村山からそう咎められているような気分になる。じっさいには、村山はだれも咎めもしなかっただろうが、とにかく読んでいると、いまの自分の不真面目さが痛切に感じられる本なのだ。
村山は一時期、ひとり暮らしをしていた。将棋で負けが込み、病状が悪化し、体力がなくなると、熱が出ててきめんに身体が重くなる。立ち上がることすら満足にできなくなってしまう。
そんなとき、村山は部屋にひきこもり、ひたすらに体力回復を試みる。どうするか。もちろん、ほかに手段などない。蒲団にくるまり、ただひたすらにからだを休ませるのだ。
トイレに行く体力すら節約しなければならないので、尿瓶のかわりにペットボトルを置き、用はそれで済ませる。本も読まず、音楽も聞かず、詰将棋も解かず、可能な限り何も考えないようにし、寝つづける。
カーテンを閉ざし、できるかぎり部屋を暗くして、ただ、ただ体力が戻ってくるのを待つ。長い時はそんな状態が一週間も続くこともあったという。
そんなとき、村山は水道の栓をゆるめ、洗面器に水滴がしたたるようにしておく。ぽた、ぽたと闇のなかに響く水滴の音。それだけが村山が感じとることができる生の感触なのである。
それがなければ自分が生きていることすらわからなくなってしまうのだ。村山聖とは、そんなふうにして、限りなく死に近いところで生きていった男であった。
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忘れられない映画になる。インドが生んだ奇跡の傑作『きっと、うまくいく』を観に行こう!(2024文字)
2013-06-02 21:1153pt
映画館はテーマパークに似ている。その閉ざされた空間で過ごす間、ひとは日常から切り離され、あらゆる雑事から解放され、夢と幻想と物語に酔う。
映画館の場合、その魔法が機能するかどうかは、すべて上映される映画の出来しだい。最高の名作は劇場の座席を海にも森にも砂漠にも変える一方、凡作はただ観客の人生から時を奪い取るばかりだ。
そしてほんとうに素晴らしい映画は(ご存知のように)ひと握りに過ぎない。そのひと握りの傑作を紹介しよう。ラージクマール・ヒラーニ監督『きっと、うまくいく』。 英題は「3 idiots(三人のバカ)」、インド最高難度の大学ICEを舞台に、ランチョー、ファルハーン、ラージューの三バカトリオの活躍と暴走を描く。映画の魔法に充ちた最高の作品だ。ぜひ、劇場へ観に行ってほしい。
と、こう書いてもたぶんあなたは観に行こうとは思わないだろう。何しろ日本人とは縁遠いインド映画である。
仮にインド映画界が俗に「ボリウッド」と呼ばれ、世界一の本数が制作されていることを知っているとしても、「インド映画? あの意味もなく歌って踊るやつでしょ」と切り捨ててしまうかもしれない。
しかし、『きっと、うまくいく』はそんなふうに見逃してしまうにはあまりに惜しい一作だ。インド映画映画史上空前の興行的大成功を遂げたという話も納得がいくわかりやすさ、爽やかさ、涙と笑いの一大エンターテインメントなのだ。
たしかに歌も踊りもあるが、それは全体のごく一部に過ぎない。この映画のなかには成功も失敗も含めた人生のすべてがある。上映時間はたっぷりと3時間近くあるが、そのあいだまったく退屈することはない。
一生忘れられないような、素晴らしい映画体験を約束する。ぜひぜひ、映画館まで出向いてほしい。と、こうまで書いてもあなたはまだ観ようとは考えないかもしれない。
インドでいくらヒットしたとはいっても、それはあくまではるかな異郷のこと、日本人の琴線には触れないのでは? そういうふうに思うことも考えられる。
しかし、この映画の普遍性は尋常ではない。競争につぐ競争にあえぐ先進国、発展途上国の人間なら、ほとんどどこの国のひとでも楽しめるのではないかと思う。
監督と脚本をひとりで務めるラージクマール・ヒラーニは痛烈をきわめる社会批判を涙と笑いで包み込み、物語の王道を往く大傑作を生み出した。たしかに長い映画だが、スピーディーかつコミカルな展開に、観客はものの10分で映像空間に引き込まれるだろう。
物語はファルハーンとラージューが、いずこかへ姿を消した親友ランチョーの消息を探す「現在」パートと、10年前の大学時代を描く「過去」パートを往復しながら語られてゆく。
大学一の天才でありながら、常に詰め込み型の管理教育に反発し、しばしばトラブルを起こしてはそのたびにファルハーンたちを巻き込んだ破天荒な異端児ランチョー。
ぼくは映画を見進めるうち、このキャラクターが大好きになっていた。ランチョーの主張はシンプルだ。ひとはそれぞれオリジナルの能力と素質を持っている。だからその人生もオリジナルなものであるべきだ、と。
ランチョーは競争社会の頂点に立つ天才でありながら競争を批判し、幾人もの友人たちの人生を変えていく。しかし、それにしてもかれはいったいなぜ、どこへ姿をくらましてしまったのか?
ランチョーをライバル視し、ランチョーよりも良い人生を目ざして企業の副社長にのし上がったチャトルは、ランチョーはつまらない人生を送っているに違いないと見ているようだが、ほんとうにそうなのか?
いったいランチョーとは何者で、何のために大学にやって来たのか? その秘密が明かされるとき、映画はほとんどお伽話か夢物語のような結末を迎える。
ある意味、「見え見え」の「お約束」的な展開である。予想を裏切られることばかり求めるすれたシネフィルは「ああ、やっぱりね」と呟くかもしれない。
しかし、その予定調和のなんと爽快なことか! あるべきものはあるべきところに収まり、過去と未来を行き来しながらすべての伏線は回収されて映画は理想的なハッピーエンドを迎える。
観客はとても良い気分で映画館を出ることができるに違いない。この夢のようなハッピーエンドこそは物語のあるべき姿であり、映画のあるべき格好だと思う。
「こんなこと現実にはありえないよ」と皮肉にささやくひともいるかもしれないが、ぼくは何も現実の模写を見たくて映画館へ行くわけではない。映画とはいっときの夢なのだ。その意味ではこの上なく爽やかな夢を見せてもらった。満足、満足。映画はこうでなくっちゃね!
ひとつインドを超えて、世界の映画史に記憶されるべき大傑作。悪いことはいわないから、劇場で上映されているうちに観ておきましょう。インド映画に対する偏見を抱えているとしても、そんなものはあっさり吹き飛ぶこと間違いなしの痛快娯楽大作である。
必見! -
現代最高のメタラブコメ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』と橋本紡によるラノベ批判。(3080文字)
2013-06-01 16:0453pt
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の最終巻があと数日で発売になる。ひょっとしたらもうそろそろ先行発売されたものを入手しているひとが出る頃かもしれない。
これまで既刊11巻を面白く読んできたので、この第12巻は非常に楽しみだ。また、これほどのベストセラーシリーズを人気絶頂のところで完結させようとする筆者と編集部には感銘をおぼえる。
これまでいくつのシリーズが旬を過ぎても続いたあげく、半端なところで終わる羽目に陥ったことか。全12巻という適度な巻数でシリーズが終わることは、だれにとっても良いことだろう。あとは最終巻が最高の展開で終わることを祈るのみである。
さて、それまでさほど有名ではなかった伏見つかさを一躍人気作家にのし上げたこのシリーズの魅力はどこにあるのだろう。もちろん、意外性に富んだプロットであり、魅力的なキャラクターであり、そして何より「小説のうまさ」だ。
じっさい、この作家はうまい。そして書くほどにうまくなっていくように見える。初めは書き割りのお約束の人物ともみえたキャラクターたちがしだいに生き生きと動きはじめ、虚構の物語のなかにたしかな命を得ていくようすを、ぼくはわくわくするような思いで眺めた。
これこそ小説を、物語を読むことの歓びだ。石の彫像が生命を得て動き出すようなこういう奇跡を見たいからこそ、ぼくは小説を読んでいるのだと思う。
そしてもうひとつ、『俺妹』の魅力として、「メタラブコメ」性を挙げたい。くわしくは以前の記事で書いたが、この小説では登場人物が、自分たちが所属する物語の構造と伏線とを把握して先の展開を読み、その予測にもとづいて行動しているようにみえるのだ。
ヒロインのひとり「黒猫」がわかりやすい。黒猫は、いったんは主人公と結ばれながら、自らかれのもとを去ってしまう。煮え切らない主人公に愛想を尽かしたのかと思えばそういうわけでもないらしい。
なんと彼女はそのままでは自分が最終的に正ヒロインとして物語を終えることができないことを予測し、物語を先に進めるため、あえて主人公と別れるという選択をしたのだ。
こんなキャラクターは往年のラブコメディには出て来なかった。『俺妹』において古典的ラブコメのヒロインを思わせるのはあやせで、彼女はただいつか訪れる機会を待っているだけだ。
しかし、そういう態度ではラブコメ戦国時代(笑)のヒロインを張ることはむずかしい。いくら可愛くてもダメだ。なぜなら、可愛いヒロインなどいくらでもいるのが、現代ラブコメの実相なのだから。
こういう視点で見ると、『俺妹』はほんとうに面白い。実に複層的な構造になっていることがわかる。ライトノベルはなんと面白いのだろう。一見代わり映えしないように見えるかもしれないが、じっさいには少しずつ進化しつづけている。
「どれもこれも似たような話」などとは、作品のディティールを読み切れない人間がいうことだ。よくよく見れば同じ作品など、ひとつもないのである。
こういう話になった時、ぼくが思い出すのは作家・橋本紡のライトノベル批判である。橋本は一貫してライトノベルを批判してきた。かれは書いている。
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クールなあの子のエッチな素顔。ツンエロ変態漫画『君は淫らな僕の女王』が猥褻すぎる。(1273文字)
2013-06-01 13:1553pt
世間の話題から遅れること数ヶ月、岡本倫&横槍メンゴ『君は淫らな僕の女王』を読み終えた。
てれびん(@terebinn)から教えられたんだけれど、何なんだ、この漫画は。底なしにくだらない。ただくだらないだけじゃなくて、エロくだらない。
『To LOVEる』がぎりぎりの線で守っている少年漫画の制約を、頭上はるかに飛び越えてゆく、青年誌ならではのエロティックラブコメディです!
お話はよくある幼馴染み再会純愛ものなんですが、ヒロインのエロさがパない。エロいというかド変態で、ひとによってちょっとひくレベルで頭おかしい。
いくらエロ漫画のヒロインとはいえ、ちょっとヒトとしてどうなのと思ってしまいます。あるおまじないの効果によって1日に1時間「自制心」を失ってしまいエロくなるという設定なのですが、おまじないが効いていない時でも十分変態なのが面白い。
ヒロインが主人公の部屋を物色したあげくつぶやく名台詞「しゃーない。パンツでもしゃぶるか」がネットでは話題になったようですが、たしかにネット受けしそうなネタ漫画です。
ヒロインの狂い方が凄いのでエロ漫画を通り越してギャグ漫画の域に達しているといえるかも。
日頃は高貴で冷徹な高嶺の花であるところのヒロインが、1日に1回、自制心を奪われて本音しか話せなくなり、次々とエロいセリフを口にするようになる、という設定そのものは、まさに男の願望充足というか、ありふれた設定ではあるんだけれど、そこであきらかになる彼女の本性が異常すぎ。
どういったらいいのでしょう、ツンデレならぬツンエロ、いやエロをすら通り越してツンド変態。1日に何回オナニーしているんだ、お前は。どんだけオナニーが大好きなんだよ。
いや、もちろん、オナニーそのものが好きというより、叶わないセックスの代償行為としてオナニーをしているに過ぎないのでしょう。
しかし、自制心を失っていないはずの時でも主人公のパンツをしゃぶりながらオナニーしていたりするので、やっぱりド変態の素質があるよね、この子。
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