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2013年11月の記事 24件

文月メイ『ママ』は虐待を美化しているか?

 文月メイ『ママ』という曲の歌詞が話題になっています。歌詞を全文引用するわけには行かないので、冒頭だけ引用しましょう。 ぼくのことが邪魔なの? あのゴミ袋と一緒に捨てるの? 生きることが辛いの? 頼る人が誰もいないの?  全文は以下で。 http://music.goo.ne.jp/sp/lyric/LYRUTND150836/index.html  この後、「ぼく」が「天使」となり「いつでもママを見守ってる」という内容が続きます。これが「虐待を肯定している」として批判を受けているわけです。  さて、この批判は妥当でしょうか? 少し考えてみましょう。  ぼくが最初にこの歌詞を読んで考えたのは、これは「虐待を受けてなお、「ママ」を愛さざるをえない子供」の視点から虐待殺人事件を描いたダークでシニカルな歌詞なのではないか、ということでした。  じっさい、我が子を殺害した(と思しい)「ママ」や強烈な皮肉として読むこともできると思うのですね。  しかし、どうやらそういう作詞者の意図はそうではないらしい。作詞者の文月メイさんはFacebookに書いています。 この曲に込めた思いを綴ります。 虐待のニュースを頻繁に耳にする昨今。自分の子どもを殺すという異常な行為、人間が人間でなくなる瞬間にあるものは「愛の欠乏」ではないでしょうか。子どもから親への揺るぎない「無償の愛」を、一人でも多くの心を失いかけている人に伝えたい思いから「ママ」が出来上がりました。 https://www.facebook.com/fumitsukimei/posts/468813989863172  どうやらそこに一片の皮肉もなく、「無邪気な善意」で書いたらしい。これに対して、違和や批判を示している人たちの言い分はこんな感じ。 当事者に非常に近い友達でも当事者の気持ちはなかなかわからなかったりする。私も私を愛してくれる10年来の友達にすらACを理解してもらうのは難しい。けど文月メイさんの歌をキモチワルイと最初から言っていた友人は何人もいた。感覚って大事。 なんで「ごめんね」なんだろ。こういう被DV思考が間違ってるってことを伝えなきゃいかんのではないだろうか。なんで「嫌いになったりしない」んだよ。虐待しても子どもは愛情をもって赦してくれると言いたいのか...? ここで話題になっている文月メイさんの歌の歌詞をググって見た。 正直なところ、違和感と独り善がりだけだった。 どこが良いのか、さっぱり解らなかった。 児童虐待から生き延びた人たちは、怒りに震えているのではないか。 http://togetter.com/li/588416  また、今一生さんはブログでこの歌詞を批判して以下のように書いています。  その歌では、わが子を虐待した後でゴミと一緒に捨て死なせた母親に、殺された子どもが「ぼくには、たった一人のママ 嫌いになったりしないよ」と言う部分などが、親から虐待された経験のある当事者たちから続々と不快感を示されている。  中には、「この歌で泣いた」という反響を見たために、虐待に対する世間の無関心ぶりに絶望感を覚えて自傷行為に及んだり、気分障がいを起こしたり、虐待されたトラウマの記憶に不意に襲われたというリスナーもいた。  こうなると、もはや公害だ。  「児童虐待への気づきになれば」という趣旨を宣伝文句にするなら、いま流行の「偽装表示」もの。  解釈自由の歌という商品だからこそ、発売元のユニバーサルミュージックジャパンの社長が謝罪会見をしなくて済んでいる。 (※児童虐待防止月間の1ヶ月前に発売してるんだから、その商売っ気で謝罪会見を開いて宣伝すればいいのに) http://createmedia.blog67.fc2.com/blog-entry-190.html  うーん、という感じ。「公害」か。また、今さんはこうも記しています。  表現の自由は、自分が表現した作品に対する受け手の反応を受け入れる覚悟ができない限り、拡張できない。  受け手を傷つければ、恨まれたり、殴られたりするかもしれない。  そうならないよう、世に出す前に作品を「編集」したり、自分が題材にした当事者から感想をもらうのは、表現者が自由に表現するために必要なスキルだ。  だが、表現者がむしろ警戒すべきなのは、表現者が知らないところで、自分の作品によって責められているように感じ、傷ついた人が不安や恐怖に苦しみ続け、誰にもそれを言えないまま死んでしまうことではないだろうか?  『ママ』のレコード会社や制作責任者のプロデューサは、歌詞に描かれた「虐待死」を犯してしまった親たちに発売前に聞かせただろうか?  その配慮をせず、「賛否両論を呼べば話題が広がって売れる」と見込んで、未熟な詞のまま新人に歌わせたなら、矢面に立つ歌手にだけ責任を負わせるひどいデビューだ。 http://createmedia.blog67.fc2.com/blog-entry-189.html  ここまで来ると、ぼくははっきり「ちょっと待ってくれ」と感じてしまう。 

文月メイ『ママ』は虐待を美化しているか?

ほんとうのリア充はリアルを充実させる必要がない。

ここまでをまとめると、ネットで色々更新する人って「満たされていない」人が多いよねってこと。 ネットの中で満たされようとするよね、ってこと。 みんながみんなじゃないけれど、20〜30%ぐらいはそうなんじゃないかなーと思う。 更新頻度が高ければ高いほど、依存傾向にはあると思う。 http://geriharawatako.hatenablog.com/entry/2013/11/06/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AF%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%AB  一読、「あるある」とうなずいてしまいました。  たしかにネットでやたら「活躍」している人は、「リアルで満たされていない」可能性が高い。リアルで満たされていたら、手間のかかるブログを更新しようという気には、なかなかなれないでしょう。  敷居さんなんか、リアルでオタク話する友達が増えたらあっというまにブログ更新しなくなったもんな。最近はTwitterで呟きすらしない始末。  うんうん、そうだそうだ。まったくそうだ。しかし、これで納得して終われないのは、ぼくがペトロニウスさんという人を知っているからで、あの人、超リア充しながらなおかつ山ほどネット小説を読んで、ブログを更新していますからね。  何なんだろうと思いますが、まあ世の中にはそういう人もいるんですよね。ここには書けませんが、最近のあの方のリアルでの出来事っていったら、爆発しろどころじゃないですよ。  ひょっとしたらぼくはすごい人と付き合っているのではないか?としばらく首を傾げてしまったくらい。すぐに「まあいいか」と判断しはしましたけれどね。  でもまあ、そういうペトロニウスさんでも、やっぱり何かが「欠けて」いて、「飢えて」いるからこそ、忙しいにもかかわらずあれだけの長文を更新しつづけているという一面はあると思います。  ほんとうにリアルで満たされている人は、やっぱりなかなかものすごい量の更新を続けようという気にはなれないのではないか。  ぼくはこうみえて(どうみえると思っているんだ?)シャレにならないリアルメンヘラの人なのですが、その「飢餓」が言葉を綴らせている一面は確実にあります。  心のなかの何かが「欠落」している。その「欠落」とは、必ずしも「お金がない」とか「彼女がいない」とか「友達が少ない」といったレベルのことではありません。  それはそれで欠落には違いないけれど、でも、その条件を満たせば満足できるレベルの話だともいえる。しかし、そうではなく生まれながらに「あるべきものが欠けている」人は、どんな条件を満たしても満足できない。  だから、書く。しかも書いても書いても、100万文字、1000万文字も書いたとしても満たされることなく、書きつづける――それが「ネットで活躍している人」の、すべてでないとしても、一面なのではないかと。  リアルで満たされちゃっている人はあえてネットを過剰利用しようとはしないですよね。  と、ここで終わってもいいのですが、もう少し考えてみましょう。そもそも「リアルで満足している人」ってどういう人のことを云うのでしょう?  あらゆる「リア充」的行動にしてから、ある意味、欠落を埋めるための代償行為とも云えるのでは?  心のなかの何かが「欠けて」いるからこそ恋愛したがるし、消費に走るし、友情をたしかめたくてたまらない。ほんとうに満たされているのなら、べつだん恋人も品物も友人も必要としないはずでは?  そう考えていくと、究極のリア充とは、日がな一日何もせずぼーっとしていて、しかもそれで満足している仙人のようなひとのことなのではないでしょうか。  そう、真のリア充は、リアルで充実しようとあがく必要などないのです! 車が欲しいとか彼女が必要だと考えている時点で、その人はエセリア充に過ぎないんですね。  ほんとうに健康で充実している人は、 

ほんとうのリア充はリアルを充実させる必要がない。

なおも続く『グイン・サーガ』へ、愛を込めて。

 きょうは『グイン・サーガ』の「本編」、数年ぶりの新刊の発売日です。もちろん、栗本薫さんは既に泉下のひととなっているので、彼女に代わり、五代ゆうさんが執筆しています。  『グイン・サーガ』のいち愛読者として、この続刊には複雑な想いがあるのですが、まあ、余計なことを縷々書き綴るのはやめておきましょう。  そのかわり、ぼくが8年ほど前に『グイン・サーガ』外伝20巻に書き下ろした解説をここに掲載することにしました。  なつかしいですね。いまからみると色々と直したいところも多い文章ですが、やはり力が入っています。それもそのはずです。ぼくはこの文章を30回は読み返して推敲したのですから。  読んでいただければ、いまとは微妙に文体が異なっていることがおわかりになるかと思います。『グイン・サーガ』をご存じない方も、ご一読いただければ幸いです。  あとにもさきにも二度とないことだが、一日で五冊の〈グイン・サーガ〉を読みあげてしまった経験がある。たしか第三十一巻『ヤーンの日』から第三十五巻『神の手』に至る五冊だったと思う。仮面の恋を過ぎ、赤い街道の盗賊を過ぎ、サイロンでグインが黒龍将軍を命じられる名場面も過ぎて、イシュトヴァーンの国盗りへと物語が向かいはじめたあたりだ。  そのときはまだ健在だった祖父の家で、ただひたすらに読みすすめた。しあわせだった。その頃、僕が本の世界に求めていたものすべてがそこにはあったのだ。それから随分と時が過ぎたが、〈グイン・サーガ〉はいつも僕のとなりにあった。たぶんこの味気ない現実世界に次いで、長い時間を過ごした世界なのではないかと思う。  本書『ふりむかない男』は、その〈グイン・サーガ〉の外伝第二十巻であり、同時に名探偵アルド・ナリスがさまざまな怪事件に挑む〈アルド・ナリスの事件簿〉の第二作目でもある。いわゆる安楽椅子探偵もので、物語はほとんどナリスの自室から出ない。長大な〈グイン・サーガ〉のなかでも、きわめつきの異色作といえるだろう。  しかしまあ、推理小説についてあまりくわしく語ってしまうのも差し障りがある。ここからは、本作についての言及は避け、〈グイン・サーガ〉全体について話していくことにしよう。  さて、いまさらいうまでもないことだが、〈グイン・サーガ〉の最大の特色は、世界一といわれるその長さにある。作家/批評家の笠井潔は、「読者の支持が続く限り、無限に長大化しうる」超長編作品を、従来の大河小説と区別して、大海小説と読んだ(『物語の世紀末』)。〈グイン・サーガ〉はその代表作といえる。  この壮麗な大伽藍を築くにあたって、栗本薫は、そこに娯楽小説を構成するありとあらゆる要素を詰め込んだ。たしかにこの小説はヒロイック・ファンタジーである。しかし、それと同時に、ピカレスク・ロマンであり、陰謀劇であり、歴史絵巻であり、過程小説であり、恋愛物語でもあるのだ。アラビアン・ナイトさながら、さまざまな要素が支えあい、絡まりあう万華鏡の世界、それが〈グイン・サーガ〉だ。  その中心にいるのがわがグインであることはまちがいない。しかし、「実は〈グイン・サーガ〉というのは、グインそのものは、案外出番は少ない」(『幽霊島の戦士』解説より)。膨大な数の「脇役」たちが絡みあうからこその〈グイン・サーガ〉ともいえる。  かれら「脇役」の特徴をあげようとするなら、まずなにより孤児の割合が高いことがあがえるだろう。記憶喪失のグインはともかくとして、イシュトヴァーン、リンダ、レムス、ナリス、マリウス、ヴァレリウス、オクタヴィア――みな幼いころ親を亡くし、あるいは親に捨てられた人物だ。  そのせいなのかどうか、かれらのなかにはひとつの本質的な「問い」を抱えている者が少なくない。なぜ自分は自分なのか、ほかの運命をあたえられたものたちをこの自分と、なにが違っているというのか、と。  ナリスがあの奇妙な古代機械に惹かれるのも、つまるところそれがこの世界そのものの秘密と直結しているからだ。そしてまたあの陽気なイシュトヴァーンを血まみれの狂王へと駆り立てていったのも、突き詰めればおしつけられた運命への反発心にほかならない。  いいかえるなら、ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、「自分が自分であること」を受け容れられないのだ。だからこそかれらはその行動を通して、自分の運命へ「なぜだ!」と問い掛けつづけずにはいられない。  しかし、そうやって怒りを燃やせば燃やすほど、かれらの生きざまは幸福から遠のいていく。その反対に、あたえられた身分を捨て、放浪に生きることをえらんだマリウスは朗らかだ。また、名もない一市民にすぎないゴダロ一家はいつもあたたかな雰囲気に包まれている。  いくつかの人生を通してみえてくるもの、それは手に入れようとあがくほど失われていくものがあるということだ。すでに手のなかにあるものを、感謝とともに思うとき、はじめてひとの心は平安を得る。  王位にまでのぼりつめながら、つねに不安におびやかされるイシュトヴァーンと、過酷な出来事に翻弄されながらも穏やかに生きるゴダロ一家とは、なんと対照的なのだろう。それは、どこまでも自分の運命に反抗しつづけるものと、それを従容と受け容れたものの差なのかもしれない。  しかしまた、そんな反逆児たちにも、ときには世界と和解する瞬間がおとずれる。クリスタルの浮浪児だったヴァレリウスにとっては、リーナスとの出逢いがそのきっかけになった。ケイロニアの玉座をねらうオクタヴィアのもとには、マリウスの歌声がそれをはこんできた。  そしてあのアルド・ナリスでさえ、最後には、かつてあれほどまでに軽蔑した人びとを信じ、自分を傷つけた世界を赦すことを選んだのだ。死の間際のナリスは、クリスタルの宮廷で栄華をきわめていた頃よりしあわせそうにみえる。すべてを失ったそのとき、ようやくかれは「自分が自分であること」を許容できたのだろうか。  それに対して、一貫して過酷な運命を正面から受け止めて生きているのがグインである。かれにとっては、非常なものであれ、苛烈なものであれ、運命は運命なのだ。  グインと失われたカナン帝国の亡霊のやりとりを綴った『蜃気楼の少女』は、〈グイン・サーガ〉全編でも最も印象的なエピソードのひとつだ。栄光の絶頂で夢のようにほろび去ったカナン。それはこの世で最も理不尽な悲劇である。しかし、それすらも、ノスフェラスとその血の生命を育んだという点では意味のあることだったはずだとグインは語る。  ここには栗本が複数の作品を通じて語りつづけているテーマがひそんでいる。死をも、ほろびをも受け容れ、そのうえで生きること、それこそが「生」なのだ、と。  ただ、そのグインですら容易には受け容れられないことがひとつある。ほかならないその豹頭である。なぜこの世界で自分だけがこのような異形の姿なのか、かれはそのこたえを追い求めて中元じゅうを、そしてその彼方までも旅してまわる。かれがようやく自分の運命を受け容れられたのは、ノスフェラスの空高く飛翔した星船のなかだった。そのとき、かれはみずから豹頭の秘密を知ることを拒んだのだ。ひとつの結末。  しかし、その直後、グインはふたたびすべての記憶をうしなって地上に墜ちる。これは意外性をねらっているようにみえて、実は必然的な展開だったのだと思う。アルド・ナリスがそうしたように、いまの自分に満足して終わることは、グインには赦されていないということ。たぶん、この世界でかれだけは、どこまでも自分をさがしつづけることを運命づけられているのだ。そしてその行為が物語そのものを切りひらいてゆく。かれとおなじように自分の真実をさがしつづける人びとと共に。  かれらのうちのあるものは弱く、あるものは強い。あるひとは賢く、あるひとは愚かだ。しかし、それらすべての個性は、その優劣にかかわりなく、祝福の息吹をあびてそこにある。  なるほど、栗本の世界は「暗い情念に支配された存在の闘争世界」(『魔王の国の戦士』解説より)ではある。だからこそ彼女は孤児をヒーローに選ぶ。しかし、同時に、その世界ではすべての者が平等に存在を赦されてもいるのだ。イシュトヴァーンの非情さも、マリウスの奔放さも、ヤンダル・ゾッグの邪悪さも、自分の運命以外のなにものにも裁かれはしない。ただ、だれもが懸命に生きようとし、そして時には非命に倒れていく、そのさまが克明に綴られるだけのことだ。  僕はかれらを愛する。グインやイシュトヴァーンのようなヒーローだけではなく、この世界で必死に生きようとするすべての人びとを愛する。  偉大すぎる兄をもったダリウス大公は気の毒な気がするし、気弱なレムスには心からの共感を感じる。かれらは人間として完璧にはほど遠い。しかし、そもそも自分こそ完璧な人間だなどと誇れるひとなど、どのくらいいるものだろう。  たしかにグインは偉大だ。しかし、だれもがグインのように生きられるわけではない。ほとんどのひとは一面では嫉妬や憎しみや劣等感を抱えて生きているにちがいないのだ。〈グイン・サーガ〉はそれをも肯定する。悪も怠惰も強欲も含めた人間性そのものを、どこまでも力強く肯定する。だから、僕はこの小説を愛する。物語が続くかぎり、僕もその世界へ旅することをやめないだろう。 

なおも続く『グイン・サーガ』へ、愛を込めて。

キャラクターが生命を手に入れる魔法の瞬間。

 しばらく前のことですが、てれびんの野郎がアニメ『のんのんびより』の感想を書いています。 http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-3442.html  これが意外に興味深いので、きょうはこの話をしようかと。  それとは一切関係ありませんが、文章に色彩的な装飾をほどこすことをやめることにした。理由は「面倒だから」。いやー、一々、HTMLタグを入力するの、面倒なんですよねー。どうしても忘れるし。  面倒だと記事を書くことが億劫になってしまい、どうにも本末転倒ですから、過去のフラットな文章に戻します。たぶん残念がるひともほとんどいないでしょうし。  さて、てれびんの記事の話。かれはこんなことを書いている。  ぼくたちは、僕たち自身がみる日常の光景の延長としてキャラクターを見て理解する。それこそ、近所の子どもを見るかのように蛍ちゃんたちを理解するってことです。  この認識の差は、大きいのではないかと思っています。  ただの「萌えキャラ」は消費されて終わります。でも、人間は消費しきれるものではないでしょう。  なんなら横の友達やご近所さんを見てみるといい。ひとは彼らを消費すべき「モノ」としては扱っていないだろうし、仮に消費しようとしても消費しきれない「背景」をその人達は背負っている。  この点が物語的な「キャラクター」(=シンプル)と「人間」(=複雑)の違いだと思う。  ちなみに読みやすさを考えてかってにインデントを入れています。普段は決してこのようなことはしないのですが、てれびんの文章だからいいだろ。  さてさて、ここでかれは「キャラクター」と「人間」を区別して考えているわけです。いささか乱暴な区分だとは思いますが、云いたいことはわかる。  皆さんは、何か物語を読んだり観たりしていて、作中人物が生きた人間のように感じられたことはないでしょうか? ぼくは幾度となくあります。  きわめて限られた作品だけになりますが、そういう「キャラクター」たちは、キャラクターであることを超えた、まさに「生きた人間そのもの」と感じられます。  身近にいてよく知っている家族とか、友人に匹敵する存在と感じられるということです。これが「人物が唯一性を獲得する」ということで、この次元に達した作品はもう面白いとかつまらないといったことを超えてしまいます。それは「もうひとつの現実」だからです。  キャラクターが「生きた人間」になってしまうと、もう、イヤな奴であっても、欠点があっても、「そういうものだ」と受け入れるしかなくなってしまうんですよね。だって、生きている人間なんだからしょうがないと。自分の思い通りにならなくて当然だと。  それでは、そういう特異なキャラクターを生み出すためにはどうすれば良いのか? てれびんは「背景に拘る」という手法を説明していますが、多くの場合使われるのは、「バックボーンを描きこむ」方法です。  その人がどんな人生を歩んでそこまで来たのか、何を好きで、何を嫌い、何に歓び何に哀しむひとなのか、徹底して掘り込んでゆく。  そうすれば、読者は単なる「萌えキャラ」ではない、生身の人としてキャラクターを観てくれることでしょう。  文芸批評なんかでよく「人間が描けている」という言葉が使われますが、それとは微妙に異なる意味ながら、やはり「人間」を生み出しえた作品は素晴らしい。  ただ、それはべつだん、「リアル」な人物を描いてほしいということではないんですよ。「こんな奴いるわけがない!」というような漫画的なキャラクターであってかまわない。  しかし、そのキャラクターがそれにもかかわらず紛れもない「実在の人物」となって命をもって動き出すところを見たいのです。  ぼくは時々、「『グイン・サーガ』の世界は在る!」とか気が狂ったようなことを云っていますが(笑)、これは紛れもないぼくの実感です。  

キャラクターが生命を手に入れる魔法の瞬間。

人生は偶然でたやすくねじ曲がる。傑作小説『無職転生』の魅力とはなにか。

 ペトロニウスさんが『無職転生』の記事を書いておられますね。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131105/p1  『無職転生』は、現在、小説投稿サイト「小説家になろう」でランキング首位の作品です。 http://ncode.syosetu.com/n9669bk/  もうぼくの仲間内では、読んでいることがあたりまえくらいのウルトラメジャータイトルなのだけれど、よく考えてみれば、知らない人も大勢いて当然なのですよね。時々、忘れそうになります。  前の記事のコメントでもたまたま読んでみた『無職転生』が面白くて驚いた、というご意見をいただいています。  この小説、ある無職無収入のひきこもり男が異世界に生まれ変わって人生をやり直すという筋書きです。  「なろう」では超よくある「人生やり直しもの」であるわけですが、通常、この手の小説が「二回目の人生」であることを活かしたチート能力で活躍する展開に至るのに対し、『無職転生』ではそうはなりません。  いや、たしかに初めはチートがあるのですが、それがしだいに通用しなくなっていくんですね。ここらへんは実に緻密に構成されていて驚かされます。  主人公であるルーデウスくんは初め、「今度こそ良い人生を送る」と誓い、そのためにあらゆる方策を用いて人生を構築していこうとします。  いわば「計算」で人生を生産的なものにしようとするわけです。しかし、かれの「計算」は「予測不能な現実」によって否応なく変えられて行きます。  具体的には「ターニングポイント」と呼ばれる章で大きく人生がねじ曲がるのですが、それ以外にも小さな計算違いがあって、予定通りにすばらしい人生を送ることはできないのです。  もちろん、予定とは違う人生もそれはそれで幸せだし、興味深いものではあるのですが、とにかくルーデウスの策略や戦術は必ずしもうまく行きません。  ルーデウスはじっさい相当頭が良く、色々なことを計算した上で、計算外の出来事を淡々と受け止め受け入れて努力するのですが、それでもどうしようもないことは起こります。  それも、ほんの小さなことを見過ごしたために人生全体が大きく狂ったりするんですよ。  ここでようやくペトロニウスさんが書いていることに追いつくのですが、この作家はほんとうに、人生の偶然性をよく理解している。  人生は、それがどんな人生であっても、あらかじめ計算してその通りに送ることができるようなものではないということ。  ひとはちょっとしたキッカケで堕ちてゆく――そして一生涯、浮かび上がれないこともある。その怖さ。  『DEATH NOTE』の夜神月の有名な「計算通り」というセリフみたいなことは、現実の人生にはまず起こりえません。どんなに細かく考えてその通りに生きようとしても、必ず、予想外のアクシデントは起こるのです。  もちろん、そうだからこそ『DEATH NOTE』にはカタルシスがあるわけなので、これは批判ではありません。  ただ、よりリアルに人間のライフストーリーを構築しようとしたら、どうしても「偶然性」の物語を綴ることになるという話。  ある些細な出来事をキッカケに、ひとはどのようにでも堕ちていくし、また再生もする。人生はその人が偉いとか、愚かだとか、努力しているとか、怠けているとかいうこととはべつのところで、いともたやすくねじ曲がったりするわけなのです。  たとえばスティーブ・ジョブズのサクセスを、ひとは「必然」と受け止めます。あのひとは天才だったから、あるいは野心家だったから、紆余曲折はあったにしろ、最後には成功できたんだ、と。  しかし、かれがガンになるのがもう少し早かったなら、ジョブズはただの挫折した企業家というだけで終わっていたでしょう。  ひとの人生は、偶然の積み重ね。それを「運命」と呼ぶこともできるでしょうが、少々ロマンティックすぎるようです。  しかし、それなら、人間ができることは何もないのかといえば、 

人生は偶然でたやすくねじ曲がる。傑作小説『無職転生』の魅力とはなにか。

「小説家になろう」で傑作を発見。『リーングラードの学び舎より』を読もう!

 ヨシュアン・グラム。〈貴族殺し〉。〈六色開眼〉。革命の英雄〈タクティクス・ブロンド〉中の〈輝く青銅〉。炎の意志と氷の冷血を併せ持ち、孤軍、戦局すら左右する超人のひとり。  いえこけい『リーングラードの学び舎より』は、この歴戦の剣士(軍人? 暗殺者?)が国王肝いりの「義務教育計画」を推進するため、教師となってリーングラードの地に赴くところから始まる。  かれを待ち受けていたものは、貴族、平民、エルフなどから選抜された五人の少女。彼女たちを教え、導き、一定の成績を収めさせることがかれのミッションだ。  しかし、自然、そこには〈貴族院〉の策謀が絡む。はたしてヨシュアンと少女たちは、数々の試練を乗り越えて卒業することができるのだろうか?  と、縷々書いていっても、この作品の魅力は半分も伝わらないだろう。『リーングラード』の魅力は、筋書きにはないからだ。そのほんとうの魅力は、読んでみなければわからない。  だから、ぼくはいつものように伏してお願いする。どうか、この小説を読んでみてほしい。必ずしも好みに合うとは保証できない。一見して派手な作品ではなく、じっさい、そこまで人気が出ているわけではない。  しかし、これはすばらしい小説だ。久々に大長編小説の醍醐味を味わえた。読めば読むほどさらにおもしろくなってゆく歓び。傑作はどこに眠っているかわからないとしみじみと思う。  否。もちろん、『リーングラード』は「眠っていた」わけではない。一定以上の数の読者から支持を受けつつ一年以上にわたって連載されつづけている作品である。  しかし、その気宇壮大、構想の充実を考えると、高々数千人に独占させることは惜しい。もっと読まれるべきだ。もっともっと読まれるべきだ。  幾万もの読者の賞賛と渇望を受けることがふさわしい。未読の方には満腔の自信をもって奨められる。必ずしも取っ付きやすくはないが、読み進めるうち、「何かが違う」という実感を得られるだろう。  初め、物語はごくライトにコミカルにスタートする。リスリア王国の賓客であるヨシュアンが、「バカ王」ランスバールの要請を受け、一教師として赴任するあたりでは、まだそこまでおもしろい作品には思えない。  ごくありふれた軽薄な物語、そういうふうに受け取るひともいるだろう。しかし、そこで投げ出すことなくもう少し先まで読んでいってほしい。少しずつ物語世界の全景があきらかになってゆくはずだ。  リーングラードを訪れたヨシュアンと、五人の少女たちは、ときに衝突しつつ、交流を繰り返してゆく。過酷でありながら穏やかな日々。少しずつ青年教師ヨシュアンと少女たちの間に信頼が芽生えてゆく。  もっとも、この作品が連載されている「小説家になろう」では「教育もの」はありふれている。その意味で『リーングラード』に特別目新しいところはない。そういうふうに思える。  ところが、読み進めていくにしたがって、多くの読者は違和感を募らせるに違いない。文中、読者が知らない用語や設定の数々があたりまえのように登場するのだ。  「白いの」や「赤いの」って何だ? ランスバール革命? タラスタッド平原の変? 十年地獄? 戦略級術式? いったい何のこと?  そう、この小説を読む者は、物語のはしばしに登場するひとつひとつの語句からそれが何を意味しているかを推理していかなければならないのである。  いうまでもなく、それ自体はそれほど斬新な手法ではない。しかし、そういった説明なしで放り込まれるオリジナルな語句から想像していくと、やがて、ひとつの重厚な「世界」が立ち上がってくる。  その「世界」は、リーングラードで繰り広げられる小規模な物語と比べて、あまりに壮大だ。いったい作者はどこまで考えているのだろう? そう問いたくなるほどに、表面的な物語と無関係な設定が充実している。  その「世界」の何と魅惑的なことか。しばらく読んでいると、物語の舞台が革命後の王国であること、その戦乱がきわめて過酷なものであったこと、そしてそれが他ならぬヨシュアンたちの活躍によって収束したことがあきらかとなる。  かれの一人称で読むかぎりなかなか剽軽な若者とも見えるヨシュアンが、その実、人間性が摩耗するほどの修羅をくぐり抜けてきたのであろうことも、そのうちわかってくる。  かれは「教えること」によってこそ、その修羅のなかで失われたものを取り戻す。教えることは教えられること。与えることは与えられること。ヨシュアンはいつかかれなりの「幸せ」を築くことができるのだろうか。  ぼくはまだこの物語の最新話に追い付いていない。だからここから先、どのような展開が繰り広げられるのか知らない。それが何とも楽しみだ。  堂々たる大長編の風格を備えた作品である。ぜひ、読んでほしい。ついでにお気に入り登録してポイントも入れていってほしい。損はさせない。いまどきめずらしい、長くなれば長くなるほどおもしろいロマンあふれる物語小説である。熱烈に推薦させていただく。 http://ncode.syosetu.com/n7826bd/ 

「小説家になろう」で傑作を発見。『リーングラードの学び舎より』を読もう!
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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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