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記事 35件
  • アニメ『ペルソナ4 ザ・ゴールデン』は、切れ味するどいループものの変化球。

    2014-07-26 07:00  
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     ニコニコチャンネルで見ているアニメ『ペルソナ4 ザ・ゴールデン』が第2話にしてかなり変わった印象。ぼくは爆笑して観ましたが、こ、これ、こういうアニメなの? こういうアニメなんだろうなあ。うーん、ぼくのなかの番長(主人公)のイメージが崩れてゆくよ。
     具体的にどういうことなのかというと、第1話は原作ゲームのエピソードを、いささかダイジェスト気味ながら追いかけていたんだけれど、第2話に至って、完全にそれらを省略してしまっているんですね。
     そもそも登場シーンがないキャラクターがいきなり出て来ていたりする。当然、『ペルソナ4』を未見の視聴者にとってはわけがわからない内容であるはずなんだけれど、そんな奴が見ているはずはねえ!ということなのかもしれない。
     いや、それにしてもこの割り切りはちょっとすごい。たぶん、これは一種のループものとして解釈するべきなのでしょう。つまり、主人公はいま、「2周目」を経験中なのだと。
     かれは「1周目」の記憶があるわけではないようなんですが、その立ち振る舞いを見ていると、いろいろな能力値がMAXであるらしい上、あらゆる行動が最適化されています。あたかも「そんな展開は知っているよ」と云わんばかり。
     で、なぜそんな行動を取るのかは作中では説明されません。すべてを知っているのは視聴者だけです。エレガントといえばエレガント。
     とにかく、独立したタイトルの作品を、それがすべて「2周目」である、という前提で展開した(と思われる)作品は過去にないんじゃないでしょうか。
     視聴者が知っているはずのことはすべて利用し尽くしているので、ギャグの切れ味が凄いことになっています。いや、ゼロ年代以降はやりにはやったループものもついにここまで来たかと感慨深いですね。
     何よりすごいのは、視聴者が当然この展開に付いてくるだろうとスタッフが考えているということ。日本のアニメマーケット、成熟しているわ。良くも悪くも。
     このすっ飛びまくっている物語を、視聴者が前作の知識によって補完することが前提なんだものなあ。すごいというか素晴らしい。ひさびさにちょっとびっくりしました。アニメーションは進歩しているよ!
     ただ、あまりにギャグだけに偏ってしまうとそれはそれで辛いので、ミステリ部分も少しは描いてほしいところだけれど――ギャグに終始するのかなあ。ちょっといまの段階では見えて来ませんが、今期、期待の一作です。
     しかし、しょせんは『ペルソナ4』のリファインバージョンであるに過ぎない『ザ・ゴールデン』をアニメ化しなさい、という課題を与えられたときに、こういうスタイルを選んだ監督なりスタッフの判断には感服せざるを得ません。
     いや、 
  • オフ会を開きたい。

    2014-07-25 19:17  
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     Pha『ニートの歩き方』を再読しています。再再読かも。読むたびに新しい発見がある、というわけでもないのですが、内容的にぼくの目ざすところと共通点があるので、読んでいると安心感がありますね。
     もっとも、Phaさんは「だるい」という言葉を多用するんだけれど、ぼくはあまり「だるい」とは思わなくて、どちらかというと毎日の退屈さをどう解消しようか悩むくらい。
     ただ人付き合いのストレスに致命的に弱いので、こうしてパラサイトライフを送っているだけであるわけです。基本的にぼくは意外と活動的な人間なのかも。
     いや、人並み以上にエネルギーがあるわけでは全然ないんだけれど、やっぱり毎日だらだらしていると活力が余るんですよ。その程度にはアクティヴ。もっと外にでる機会を作れると良いんだろうけれどね……。
     ぼくとPhaさんの差異はもうひとつ、Phaさんはなんだかんだ云って都会暮らしをしているところですね。都会にいるとひとと出逢う機会とか、圧倒的に作りやすいんだと思う。
     その点は、新潟くらい大きな都市でも、ちょっと東京とは比較になりません。ひとと逢いたいなあ。そうかといって、東京でひとり暮らしというのもお金がかかる上にめんどくさいですしね。東京に行ったところでアクティヴに動けるわけじゃないかもしれないし。
     「家族以外のひとと逢う機会がない」ということがひきこもり生活の最大のネックです。ほかはほとんど何も問題ない。まったりスローライフを満喫しています。
     最近、興味を持ってその手のスローライフ本を読んでみるんですけれど、やっぱりダメですね。全部読んだわけじゃないのでたしかなことは云えませんが、他愛ないきれいごとばかり書き連ねてある本がほとんどという印象。
     スローライフという発想そのものが間違えているとは思わないんだけれど、やっぱり極端なんですよ。科学の恩恵の偉大さをわかっていないとしか思えない本が多い。
     こういう本は往々にして近代を批判しているんだけれど、資本主義と物質文明が生み出す「余裕」があって初めてスローライフなどと云い出せるのだという現実を無視している。
     「貧しくても幸せな生活」はあるだろうけれど、食うや食わずの生活はやっぱり楽じゃないと思うわけです。たしかに経済発展「だけ」が大切なはずはないけれど、経済なんてどうでもいいからもっと豊かな自然と暮らそう!みたいなことを云われてもね。
     何度か書いていますが、ぼくは「ほどほどスローライフ」がベターだと思っていて、いかにそれを成し遂げていくかが人生のひとつのテーマです。
     「環境と調和した平和な暮らし」とかね、もう刺激が足りなくてうんざりするでしょうね。やっぱりそこは極彩色のアニメやら漫画があって、コンビニやファストフードがあってなんぼというところがありますから。
     つくづく人生はバランスだと思う。極端に偏ることは良くない。自然の豊かさに触れたいことはやぶさかではないものの、「管理されない自然」に幻想を見るほど幼稚でもないということ。
     結局、何であれ「そこそこ」とか「ほどほど」にとどめて暴走しないことが肝心なのかな、という気がします。そういうわけでPhaさんの提唱するニート暮らしには共感しつつ、でも、ぼく個人はお金も欲しいよなあ、ひとと触れあいもしたいよなあという気もするんですよね。
     これも繰り返しになりますが、現代社会を幸福に生きるためには、
    (1)お金。
    (2)時間。
    (3)関係。
    (4)趣味。
     の四点を充実させる必要があると思っていて、ぼくは「お金」と「関係(人間関係)」がちょっと貧しいかな、と。
     正確にはネット上の「関係」は充実しているんだけれど、何しろ地方在住なので、休日ごとにひとと逢うという訳にはいかない。それが、非常に大きな課題ですよね。人恋しいよう。うう。一方で「時間」は限りなくあるし、「趣味」は恐ろしく充実しているんですけれどね。
     とりあえず、オフ会でも開くか……。 
  • この世界の理不尽さを受け入れるということ。

    2014-07-25 07:00  
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     ども。海燕です。なんかコツコツと更新すると決めてから書きたいことが溜まってしまって、書きまくっています。
     実はこれから10日くらいの記事を既に書いて予約しちゃっているので、今後10日間は確実に毎朝7時に更新されつづけます。その後もしばらくは定時更新を続ける予定です。いつまで続くかはわかりませんが……。
     ほんとうはこうやって一気に書いてしまうと疲れてあとが続かないことは目に見えているので、毎日コツコツと書いたほうが良いんだろうけれど、いやー、できないんですよね。
     とことんぼくは短距離走者というか、中長期的なヴィジョンに基づいて行動できない人だと思う。書きはじめると止まらなくなっちゃうんだよなあ。書かない時はひと月に数本書くのも億劫なくせに。難儀な話でございます。
     で、何の話をしたいかというと、「戦場感覚」の話をしたいんですけれどね。「キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。」を未読の方はそちらからどうぞ。http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar578582
     いやー、何年か前に「戦場感覚」と題した同人誌を作った時は、実は自分が何を云いたいのかよくわかっていなかったんだけれど、ここのところ、「新世界」とかの話をきっかけにして、ようやくまとめることができるようになった。なので、きょうはその話をさせてくださいな。
     それでは、「戦場感覚」とは何なのか? 簡単に云ってしまうと、それは「この世が戦場であることを正確に認識し、なおかつその現実に抗い、立ち向かっていく感性」であるということになります。
     わかるかな? わからないでしょう。いまのいままでぼくにもわからなかったんだから。解説します。
     まず、ぼくの用語を使うなら、ぼくたちは皆、「人間社会のルール」と「自然世界のリアル」が合わさってできた「現実世界」に生きています。
     そこではたとえば「死にたくない。愛する人にも死んでほしくない」といったひとの願望によって「人権」という考え方や「ひとを殺してはいけない」というモラル、あるいはルールが作られ、ある程度までは守られています。
     だからぼくたちは普段、突然目の前のひとに殺されるかもしれないという心配をしないで生きていけるわけです。ありがたいことですね。
     しかし、これはあくまで人間が考えだした「約束事」であって、本質的に「自然世界のリアル」に則った「神の法則」ではありません。
     したがって、人間相手にはある程度有効ですが、ライオンには通用しません。津波にも通用しません。病気にも、寿命にも通用しません。同じ人間相手ですら通用しないこともあります。
     そして、じっさいにひとはそういうものに殺されて死んでいきます。つまり、この「現実世界」では「人間社会のルール」はある程度までは通用しますが、それでもなお、「自然世界のリアル」を駆逐することはできないわけです。
     これは人間にとってある種の敗北だと云えるかもしれません。そしてこういったことは多くの人間にとってきわめて「理不尽なこと」だと感じられます。
     たとえば地震で家族を失ったひとや、通り魔に刺されて亡くなったひとは、何か悪いことをしてそうなったわけではないからです。「何ひとつ悪いこともしていないのに突然ひどい目にあう」。そういう辛いことが「現実世界」においてはしばしば起こりうるのです。
     それはつまり「人間社会」という網の裂け目から「自然世界のリアル」が噴出した瞬間ということもできるでしょう。また、そういう現実世界を「おかしい」「間違えている」と感じる人もいるはずです。
     まさに「現実はクソゲー」です。そして、そういう思いから、人間は「人間社会」と「自然世界」を分かつ「壁」をより高く、より強靭にしようと努力してきました。ひとがなるべく「自然世界のリアル」と直面しなくて済むように。
     それが、人間がここ何千年か続けてきた努力だと云ってもいいでしょう。そのおかげでたとえば100年前と比べたら「自然世界のリアル」に晒される機会は圧倒的に減った。「人間社会」と「自然世界」を分ける「壁」はいまやきわめて強靭なものとなったのです。
     もう、この社会においては「人間にとって理不尽と感じられること」はあまり起こりません。いや、まだまだいくらでも残っているかもしれませんが、以前に比べれば圧倒的に少なくなったはずです。
     たとえばさまざまな制度が整えられた結果、病気で医者にかかることもできず死ぬひとは相対的に減少を続けています。これは「人間の勝利」と云えるかもしれませんね。人々はいまや「人間社会」に手厚く保護されて生きることができるようになったのです。素晴らしいことです。
     とは云え、「自然世界のリアル」は決して消滅したりはしません。それは虎視眈々と「壁」に穴が空く瞬間を狙っているようにすら思えます。だから、こんなに医学が発達した社会でも、不治の難病にかかったりするひとはいなくなりません。
     それはぼくたちにとっては「理不尽と感じられること」ですが、一方で自然世界においては「普通のこと」であり、「あたりまえのこと」なのです。
     さて、ぼくたちはいったいこういう「現実世界」をどう受け止めるべきなのか? ひとつには、あくまでも「人間社会」を守る「壁」を厚く、高くしていくべきだ、という意見が出て来ると思います。
     政治を良くするとか、医療を整えるとか、科学を進歩させるとかして、なるべく「理不尽と思われること」が起こらないようにしよう、という発想ですね。
     これは一面ではまったく正しいし、また偉いことだと思います。じっさい、そういう努力があるからこそ、ぼく自身、こうしていま安楽に暮らしていけるわけで、人類の「社会を良くしよう」という努力を軽く見ることはできません。
     しかし、それでは「自然世界のリアル」とは、なるべくなら直面しないほうが良いものなのでしょうか? それは人間にとって厄介という意味しかないのでしょうか? 実は、ぼくはそうは思わないんですよ。
     為末大さんに『諦める力』という本があります。通常、ネガティヴな意味で使われる「あきらめる」ということを、ポジティヴな意味で捉えなおそうと試みている一冊なのですが、為末さんによれば「あきらめる」ことは決して負の意味しか持っていないわけではないということになります。
     しかし、こういう見方もあると思います。それはようするに単にあきらめることなく最高の成果までたどり着けなかった者の「負け惜しみ」でしかないのではないか、と。
     だれだって、金メダルが取れるならそのほうが良いのでは? あきらめずに済むならそっちのほうがいいに決まっているのでは? つまり、あきらめるとは「自然世界のリアル」に膝を屈することでしかなく、仮にポジティヴな意味があるとしても、それはしょせん敗北主義者の思想に過ぎないのでは?
     さて、どう思いますか。人間はいままで「自然世界のリアル」を征服しようと努力してきました。スポーツもまた、そういう努力の一種として扱われることがあるかもしれません。
     だから、みごと「人間の努力が結果と結びつくとは限らない」という「自然世界のリアル」をねじ伏せたたかに見える勝利者にのみスポットライトがあたり、敗北者を見つめるひとは少ない。そして人間は「勝利者が最も努力している」と考えがちです。
     しかし、為末さんも指摘しているように、これは事実を無視した考え方です。じっさいには、どんなに努力していても勝てないひとは勝てない。最高の努力をしながら最低の結果しか得られないなんてひとは、星の数ほどもいると考えなければなりません。
     そういう意味で、スポーツとはこの「人間社会」において、人間の努力は結果とは結びつかないという「自然世界のリアル」が最も端的に示される「リアリズム」の世界です。
     決して「努力すれば必ず勝てる」という人間の願いがストレートに叶う願望充足(ナルシシズム)の世界ではありません。
     しかし、多くの人々はその酷烈なリアルを見たくないために、勝利者はだれよりもがんばってきたに違いないとか、敗北者は努力を怠ったはずだとかいうふうに「合理化」するのです。困ったことです。
     だけどまあ、スポーツの話は置いておきましょう。とにかくこういうふうに、ひとは究極的には「自然世界のリアル」には抗えません。お望みながら「神さまには勝てない」という云い方をしても良いでしょう。
     だから、どうしてもどこかで何かをあきらめる必要が出て来るわけです。でも――どうでしょう。それってほんとうに悪いことなのでしょうか?
     え、悪いに決まっている? ほんとうに? たしかに、金メダルをあきらめなければならないことや、大好きな異性に好かれないことはネガティヴな意味を持っているには違いありません。
     だれだってほんとうは金メダルを取って大好きな異性に好かれてウハウハの世界を送りたいに決まっている。ぼくも送りたい。それが叶わないということはこの現実世界の大いなる欠点だ、現実がクソゲーたる所以だ――そうでしょうか?
     いや、あるいはこう云うひともいるかもしれません。仮に金メダルや女の子をあきらめることにポジティヴな意味があるとしても、命をあきらめることにそんなものはない。
     もし、「ひとが死なない世界」があるなら、そういう世界のほうが良いに決まっている。だから、「人間社会」が目ざすべきなのは「だれも理不尽に死んだりしない社会」であるはずだ、と。
     うーん。そうかなあ。それはつまり、この世に「断念」はないほうが良いと云っているのと同じことです。何ひとつ「あきらめること」がなければそのほうが良いに決まっている?
     しかし、ほんとうに「断念」にはネガティヴな側面しかないのでしょうか? ひとにとって「理不尽に感じられること」の極である「死」とは、単に忌み嫌うべき、あるいは克服するべき対象でしかないのでしょうか?
     これは、むずかしい問題です。「ひとは死なないほうが良いのか」。グレッグ・イーガンあたりだと「そうに決まっている」と答えるんだけれど、でも、ほんとうにそうなんでしょうかね。
     山本弘さんも「死なないほうが良いに決まっているんだよ!」と云っていましたが、実はぼくはそうは思わないんですよ。
     ひとは「死」という「自然世界のリアル」が存在するからこそ、成熟していくことができるのではないか、と思うからです。
     人間にとって成熟とは何でしょうか? それはまさに「断念」を知るということだと思うのです。自分の限界を知り、どんなにがんばっても叶わないことがあることを知り、世界が自分を中心に動いていないことを知る。それが成熟でしょう。
     三歳の子供は世界のすべてが自分の思い通りに動いて当然だと思っているかもしれません。そして、それが叶わないと泣きわめきます。しかし、成熟した大人は当然そんなことはしません。
     つまり、成熟とは「自然世界のリアル」を受容し、自己中心的な世界観から抜け出すことだと云っても良いのだと思います。大人になるとはあきらめを知ることなのです。
     「あきらめたらそこで試合終了だよ」。しかし、あきらめず最後まで戦ったからといって勝てるとは限りません。三井寿は奇跡の逆転シュートを決めましたが、そういうことはじっさいにはめったにないのです。
     つまり、どこまでも「自然世界のリアル」を避けつづけるということは、成熟の機会を逃がすとうことなのです。もしもいつか「死」が克服されたなら、おそらく、人間はいまよりずっと子供っぽくなるでしょう。そういうものだと思います。
     あるいはペトロニウスさんなら、人間にとって「自然世界」とは究極的な「他者」であり、その「他者」と直面することによって「ナルシシズムの檻」を脱出することができる、という表現をするかもしれませんね。
     つまり、「どこまでも断念することなくはてしなく欲望を満たしつづけること」は、一見、素晴らしいように見えても、ひととして成熟する機会を逃すことに繋がっているわけです。ひとは断念を通してのみ新しい自分を知ることができる、とも云えるかもしれない。
     ただ、こう書いてもすぐに疑問が湧いてくるに違いありません。たとえ「安楽で穏やかな死」を肯定できるとしても、この世にはもっと残酷なことや悪夢のようなことが転がっている。お前はそれも肯定されるべきだというのか、と。
     たとえば、イスラエル軍の攻撃によってパレスチナの子供が殺されていくこと、東日本大震災の大津波によって無辜の人命が失われたこと、あるいはナチスのガス室や広島の核爆弾はどうだ? それらも「人間の成熟のために必要だから肯定されるべきだ」というのか? それでもお前は人間か? というふうに。
     ここで、ぼくは悩みます。たしかにそれらはあまりに残酷で悪夢的で、とても肯定できるはずもない。しかし、それらを拒否するなら、そもそもどこに「線」を引くべきかという問題が生まれてしまう。
     「核攻撃による無残な死」を肯定できないとしたら、そもそも「死そのもの」も肯定できないのではないか?とかね。やっぱり「自然世界のリアル」なんて人間にとってないほうが良い、あるいは最小限であるべきものなのだろうか、しかしそれではひとは決して大人になれず、ナルシシズムにひたって生きていくしかない。うーん、悩ましいところです。
     しかし、少なくとも云えることは、「「自然世界のリアル」から逃れ切ろうとすることは間違えている」ということではないのかと思うんですよ。
     つまり、「理不尽な苦しみ」を完全に排除してしまうことは間違えている、ということです。「理不尽な苦しみ」が完全に克服された社会は、理想郷であるように思えるかもしれませんが、しかしやはりそれはひとが「他者」と出会い、成熟していく可能性が閉ざされた自己愛の宇宙です。
     ぼくもありとあらゆる理不尽を放置するべきだとは思いません。それは極論です。しかし、その一方でありとあらゆる理不尽が追放されるべきだとも思わない。
     ひとは「自然世界」という他者に向き合うべきだと思うのです。そうしないといつまでも寂しいままだ。
     栗本薫は「ひとが孤独でなくなるとはどういうことなのか?」というテーマに生涯を賭けて挑んだ作家ですが、その彼女にに『レダ』という作品があります。
     まさにここでいうところの「自然世界のリアル」がことごとく克服された社会が舞台となっている物語です。しかし、主人公であるイヴは最後にはその理想都市を出て、スペースポートから「外の世界」へ旅立ってしまうのです。
     これはもろにペトロニウスさんが云うところの「ナルシシズムの檻からの脱出」の文脈ですね。ナルシシズム的な理想都市に住んでいるかぎり、ひとは傷つくこともないし、苦しむこともない。あるいは、予定調和の範疇で傷つき、苦しむことができる。
     だけれど、そこには「他者」がいない。ほんとうにひとと触れ合う感動がない。だから、どんなに理不尽であるとしても、狂った世界であるとしても、イヴはあくまでも「現実」を選ぶのです。それはまさに「大人の選択」です。
     ぼくが云っていることがわかるでしょうか? ひとは「世界が自分の思い通りにならない」という無力感を通してのみ大人になっていくということなのです。
     だから、この世界が理不尽であり、「自然世界のリアル」が存在するということは、人間にとって祝福なのです。たとえ、それが一面で恐ろしく辛く苦しく、逃げ出したいものだとしても。
     そして、「断念」を知り、「他者」と出会い、ひととしてほんとうに「成熟」するとき、人間は決してひとりではありません。なぜなら、同じようにこの世界で生きている「仲間」たちが視界に入って来るからです。
     これこそが、栗本薫が追い求めたテーマ、「ひとはどうすれば孤独ではなくなるのか?」に対するぼくなりのアンサーです。
     ひとはどうしようもなく孤独だ、しかし、同じように孤独に苦しんでいる「他者」と出会い、触れ合うとき、その孤独の檻を脱してひとと触れ合うことができる。
     その「他者」はまさに「他者」である故に、決して自分の思い通りには動かない。しかし、そういう「他者性」を受け入れて初めて、ひとはだれかを愛することができる。ぼくはそう思います。
     だから、この世界が酷烈で残酷な「戦場」であることは決して間違えたことではないのです。むしろ、世界の戦場性(自然世界的なるもの)が消滅した社会こそ、ほんとうにひとが孤独な地獄だと云えるでしょう。あるいはそれを楽園と云うひともいるかもしれませんが……。
     だから、ひとがこの現実世界という牢獄のなかで一生涯戦いつづけ、そしていつしか倒れて死んでいくしかないということ、それはある意味で「正しいこと」なのです。
     少なくともぼくはそう考えている。たしかにこの世は残酷で苦難に満ちているかもしれないが、その一方で限りなく豊饒でもある。そして残酷さを否定するなら、豊穣さもまた失われるに違いない。
     その「この世界の理不尽な残酷さ」を受け入れ、戦いつづける意志、それこそがぼくの云う「戦場感覚」です。その戦いとは、あるいは病身を治療しようとすることかもしれませんし、ピアノを修練することかもしれません。あるいは銃を手に革命のため立ち上がることかも。ただ生きることかも。
     ともかく、大切なのは勝利することではなく、戦うことそのものです。押し付けられた運命を相手にまわして、どこまでも戦いつづける。永野護の『ファイブスター物語』では、それを「壮麗なる抵抗(マジェスティック・スタンド)」と呼びます。ぼくはそういう人間をこそ美しいと思う。
     そういうことなのです。伝わるかな?
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     ぜひお買い求めくださいませ。 
  • 現代社会における「しあわせの形」とはどのようなものか。

    2014-07-24 07:00  
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     いつも思うのだ。ひとはどうすれば幸せになれるのだろう? カネか? モノか? 愛か? 家庭か? 仕事なのか? いったい何をどう充実させれば本物の幸福に手が届くのだろうか。
     伊藤洋志&pha『フルサトをつくる』を読んだのも、そういうテーマを考える一助にならないか、と考えたからだ。
     この本はある種の「田舎本」で、田舎に自宅とはべつの拠点を作って「パラレルライフ」を楽しむ方法が書かれている。処理しきれないほど高速な情報にあふれた都会だけで暮らすよりも、田舎にも住みかを作って自由な暮らしをしたほうが良いのではないかという提案。
     こう書くと、いわゆる「ロハス」とか「スローライフ」の本か、と警戒するひともいるかもしれない。しかし、そうではない。それらの思想と本書の考え方が根本的に違うのは、この本は「社会を変えよう」とか「生き方を根本から見直そう」とは考えていないという一点にある。
     本書における田舎暮らしは、あくまで無数の選択肢のひとつである。「田舎バンザイ!」、「都市生活よさらば!」などと語ったいるわけではない。
     そういう意味で、本文中にもあるが、ヒッピーのコミューンなどとは根本的に違う思想に貫かれている。筆者らは近代文明を否定するのではなく、ただその足りないところを補完しようとしているに過ぎない。
     ようは「いいとこ取り」の発想であり、「都会もいいけれど田舎もね」という「中庸」の思想である。これは、現実的であるばかりでなく、理想的でもあると思う。
     じっさい、都会生活に疲れたひとでも、「じゃ、あしたから田舎に転居しよう」とはなかなか思えないに違いない。しかし、ちょっと田舎に隠れ家を持つ、ということなら魅力的だと考えるひとは多いのではないか。
     都会が楽園ではないように、田舎もまた完全な理想郷ではない。それはそうだが、やはり田舎には田舎の良いところがたくさんあるのであって、それらを「いいとこ取り」して暮らすことができれば、いままでよりハッピーな生活が送れるかもしれない。
     本書の提案を乱暴にまとめると、そういうことになるのではないだろうか。
     個人的な話になるが、「どうすればこの現代社会で幸福に生きられるのか?」ということをずっと考えている。それがこのブログの最大のテーマであると云ってもいい。新たにブログのタイトルに据えた「成熟社会の遊び方」とはそういうことだ。
     過去を振り返ってみれば、高度経済成長期にもバブル期にも、その時代に応じた「幸福のモデルケース」があったように思う。
     もちろん、そこから阻害された人たちは大勢いたわけだし、それはある種の幻想に過ぎなかったとも云えるわけだが、ともかくあったことはあった。
     しかし、現代は社会が成熟し、価値観の多様化が進み、わかりやすい「幸福の形」を見いだしづらくなっている時代なのだと思う。
     それはぞれぞれの人間がそれぞれなりの「幸福の形」を追い求められるということで、素晴らしいことではあるのだが、あまりの自由さに困惑している人も少なくないだろう。
     いま、ぼくたちはカネやモノだけで必ず幸せになれるという時代には生きていない。経済は沈滞しているし、原発は爆発してしまった。おそらくもう二度と日本にバブルのような時代は訪れないに違いない。
     だが、カネやモノがすべてではないとすれば、いったいぼくたちはどうすれば幸福になれるのだろう? ここでぼくは悩んでいる。
     こういう話をすると必ず出て来るのが、これからの時代は精神的、文化的な成熟が大切だという話だ。物質文明の空虚な繁栄は永久には続かない、欲を捨てココロを充実させることが大切なのだうんぬんかんぬん。
     これはある意味ではまったくその通りだし、ちょっと正面から反論するのはむずかしいようなところがある。ただ、ひとはやっぱり「衣食足りて礼節を知る」わけで、「清貧の思想」を貫徹することは、凡人にはむずかしい。
     まして他人にそれを強制するようになったら暴力的と云えるだろう。むしろ、いまのぼくたちにはチャップリンの「人生に必要なのは、勇気と想像力、そして少々のお金だ」という言葉のほうが響くのではないだろうか。
     どんなに勇気や想像力があっても、やはり「少々のお金」は必要なのだということ。近代社会からの脱出なんて、たいていの人にとっては夢物語だということだ。
     『フルサトをつくる』にも書いてあるのだが、ここらへんを履き違えると、ポル・ポトだの毛沢東だのの思想になってしまう。
     ただ、その一方でやっぱり守銭奴的な生活はばかげているということも、いま20代から30代は痛感しているはずだ。くりかえすが、ぼくたちはもうカネとモノがひとを幸せにしてくれる、と無邪気に信じられるほど子供ではない。
     そういう意味ではたしかに成熟した社会を生きているわけだ。つまりは、何ごとも極端に振れることは良くないのだというのが、ぼくたち若い世代がこの社会で得た教訓である。
     このブログでは、そういったことを踏まえて、ひきつづき「成熟社会における幸福のモデルケース」を探って行きたい。
     といっても、あまりにも雲をつかむような話である。そこで、ぼくはさっきイタリア料理店でシーフードパスタランチ(1380円)を食べながら、何かとっかかりはないかと考えた(この記事は予約更新です)。
     そうすると、まったくの私見になるが、この社会で幸せになるために大切なのは以下の四つではないかと思えてきた。 
  • 電子書籍は「脱書籍化」へ向かう。

    2014-07-23 03:05  
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     「Amazon、月額$9.99で読み放題サービスを提供するKindle Unlimitedを正式スタート」(http://jp.techcrunch.com/2014/07/19/20140718)ということで、数日前から噂されていたAmazonの新サービス「Kindle Unlimited」がスタートしたようです。
     いまのところ、アメリカでのサービスとなっていますが、いずれは(数年後? 数カ月後?)、日本でも開始することでしょう。
     10ドル弱で60万冊の「本」が読めるという破壊的としかいいようがないサービスで、いままでの出版常識を揺るがすことは間違いありません。
     しかし、先行している音楽業界の流れを見ていると、当然出て来るサービスではあるのでしょう。むしろ今後はこの手の「読み放題」型サービスが主流になって行くのではないでしょうか? Amazonがいつまでも覇権を握りつづけるかどうかはわかりませんが……。
     これに関連して、イケダハヤトさんが「電子書籍の未来」について色々書いています(http://www.ikedahayato.com/20140722/10027595.html)。

    今の電子書籍って、デジタルとはいっても、ウェブ上でシェアしにくかったり、デザイン性が悪かったり、広告を入れられなかったり、追加課金が難しかったり、まだまだ「書籍感」が強いんですよね。
    近い将来、テキスト系の電子書籍は「有料&比較的長文(1万?3万字程度)のブログ記事」に変化していくでしょう。デザインの自由度は高くなり、コンテンツもリッチになり、ソーシャル共有も容易になります。「購読」という概念が登場し、著者と読者の関係も強くなります。著者?読者に留まらず、読者同士のソーシャルグラフも情報流通に影響を与えるようになるでしょう。
    現在のプラットフォームでいえば、「note」が直近の未来を先取りしていると思います。noteは、
    ・PCでもスマホでも閲覧できる
    ・無料配信、有料配信の両方に対応
    ・著者/読者をフォローできる
    なんて機能が実装されています。恐らくKindleもこういう側面を強くしていくと思われます。

     ほぼ全面的に賛成ですね。いまの電子書籍はあまりに前時代的なアイディアに思えてなりません。
     べつにAmazonのスタッフがいまでも「書籍」というイメージに縛られているわけじゃないんだろうけれど、結果としていかにも使いづらいシロモノに留まっている。
     このソーシャルメディア時代において、 
  • 来年春までにチャンネル会員1000人を目ざします。

    2014-07-22 07:51  
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     暑い日々が続きますねー。とはいいつつも、今年の新潟はわりに過ごしやすく、勝ち組県の印象があります。関東甲信越の関東甲信まで暑いのに、越はそれほど暑くないんですね。
     気象学的にどういう理由があるのか知りませんが、とにかくラッキーです。いまのところ、ほとんどエアコンを使用する必要を感じません。
     さて、それはともかく、ここ数日、おかげさまでわがチャンネルの会員数は少しずつ、しかし順調に増えて来ています。そうなんだよね。ちゃんと更新しつづければ増えるんだよ!
     ああ、もう少し前にこの事実に気づいていれば――べつに何も変わらなかったか。そもそもずっと前に気づいていたし。気づきながらも目を逸らしていただけで。
     毎日少しずつ増やしていくのが面倒だから一攫千金よろしく一気に増やす方法がないかと探していたんだよね。しかし、それは無理であるといまこそ悟りました。がんばって小刻みに会員を増やしつづけます。
     もちろん、毎月一定数退会するひともいるわけですが、それを計算に入れてもきちんと更新しつづけさえすれば、入会者のほうが多い感触がある。
     それに定期的な更新を続けていけば退会者も減るだろうから、そういう意味でもコツコツ更新は大切ということになる。
     ほんとうは毎朝7時に必ず1本更新されている、というような形が最高で、それが実現できれば一気に会員を増やせるかもしれません。でも、なかなかそれはむずかしいんだよなあ。
     まあ、いま、いろいろ模索して準備を整えているところです。ようは月30本前後の記事があれば実現するわけだから、月初めまでに30本記事を用意しておいて、それは必ず更新されるよう予約を入れてしまう。
     で、新しい記事を書いたら、その記事と入れ替えていく、というやり方が有効なんじゃないかと。まあ、その「30本記事を用意する」というのが、意外になかなか大変なんだけれど……。書き終えたらすぐに披露したくなってしまうんですよ。
     しかし、真にプロフェッショナルなブログを目ざすならそんな甘ったるいことは云っていられないはずなのだ。がんばろ。
     ラジオなんかも気まぐれでやるんじゃなくて、1ヶ月くらい前には告知しておくべきですよね。放送の音声も録音しておいて動画化し、これも会員限定のコンテンツにすると良いかも。まあ、ぼくの雑談はほんとに雑談なので、そこまでのバリューはないかもしれませんが……。
     とにかくこのブログに足りないのはそういうところだよな、ということははっきりしている。緻密さというかマジメさというか、プロっぽさというか。安定感ですね。
     以下、具体的な数字を出して話をしましょう。7月22日現在、このチャンネルの会員数は 
  • きっとあなたは愛されている。映画『思い出のマーニー』は切なくも優しい秀作だ。

    2014-07-21 23:30  
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     スタジオジブリの最新映画『思い出のマーニー』を観て来ました。ほんとうは初日に観たんだけれど、いままで記事を書かずに放置していたのはネタバレなしで何を書いたらいいのかわからなかったから。
     ほんの些細なことからでもカンのいい人は真相に気づくだろうから、あまり気軽に書く気になれない。
     しかしまあ、「ノラネコの呑んで観るシネマ」でも高評価のレビューが挙がっていることだし(http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-762.html)、ぼくも書かなければなるまい。
     ちなみにノラネコさんは「ジャック・フィニイ辺りが好きな人は絶対はまると思う」と書いているが、観ていてぼくもまさに『ゲイルズバーグの春を愛す』の作家を思い出した。
     宮崎駿的なケレン味はほとんどなく、地味といえば地味であるものの、しずかで優しく繊細な小品に仕上がっている。おそらくひとによって評価は分かれるだろうが、ぼくは大好き。
     スタジオジブリの作品のなかでも、『ハウル』とか『ポニョ』より何倍も好きですね。また、宮崎駿が口出しをしていない(らしい)ぶん、『アリエッティ』より映画的な完成度は高いと思う。
     もっとも、それこそ『ハウル』の空中散歩や『ポニョ』の波乗りのようなアニメーション的な見どころがなく、あくまで淡々と物語が進んでいくので、観て、肩透かしを食ったと感じる観客も少なくないはずだ。
     ある意味で『アナと雪の女王』に近いガール・ミーツ・ガールの物語ではあるが、おそらく『アナ雪』のように大衆的に受け入れられることはないんじゃないかな。
     「レリゴー」のようなわかりやすい短期的なカタルシスはこの作品にはない。最初から最後まで集中して観て初めてすべての描写の意味がわかり、監督の意図がわかって大きなカタルシスがある。
     そういう意味では何かしらアクションがないとすぐに寝てしまう観客には向かない作品であり、正しく「映画」としかいいようがない映画だと云っていいだろう。
     いつも思うのだが、この情報が飽和し、時間が細切れにされてゆく現代社会において、2時間ものあいだ観客を暗い空間のなかに縛りつける劇場映画とは、ほんとうに贅沢な芸術だ。
     そういう「映画的なるもの」に対し肯定的なひとはこの映画を絶賛するだろう。逆に、次から次へと事件が起こらなければつまらないと感じるひとは、退屈だと断じてかえりみないに違いない。良くも悪くもいまどきめずらしいくらい映画らしい映画だと思う。
     ぼくなどはこの「アクションの少なさ」に覚悟を感じる。凡人だったらちょっとはアクションを入れたり画面を花やかにしようとか余計なことを思うよね。観客のほとんどは「宮崎駿的なるもの」を期待して観に来ているわけなんだから。
     しかし、宮﨑駿はすでに映画監督を引退してしまっているわけであり、いかに偉大であっても過去の存在だ。そういう「宮崎駿的なるもの」を無視し、自分の個性を活かした映画を作り上げることは、やはり正解だったのではないだろうか。
     どうせだれも宮﨑駿の真似はできない。ならば、自分のカラーで勝負するしかないでしょう。もちろん、そうはいってもなかなかそれはできるものではない。
     「ポスト宮崎駿」の期待がかかる新作に、これほどしずかな内容を持ってきた米林監督のクソ度胸に、個人的には拍手を送りたい。
     とはいえ、この 
  • 「正しさ」に酔っぱらってしまわないように。

    2014-07-20 15:23  
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     北原みのり&朴順梨『奥さまと愛国』読了。中年女性の作家(なのか、ライターというべきか)ふたりが「愛国に走る女性」たちを描き出した渾身のルポルタージュである。
     非常に面白く読めた。フェミニストの視点から書かれた本という意味では、愛国女性を高らかに称揚している(らしい)佐波優子『女子と愛国』とある意味で対になっている一冊といえるのかもしれない。いずれ、『女子と愛国』にも目を通してみたい。
     本書のなかで、北原たちは、「愛国女子」たちを観察し、彼女たちと対話し、ときにはいっしょに旗を振ったりする。そして、それにもかかわらず理解しきれない存在に留まる「愛国女子」たちを前に疲弊し、困惑する。
     一見して「普通のひと」、あるいは普通よりもっと上流の階級のひとであるようにしか見えない女性たちが、それにもかかわらずなぜ「愛国活動」に走るのか? それがわからない、と。
     実は本書を最後まで読んでもその理由ははっきりしない。そういう意味で、この本は決して爽快なカタルシスをもたらしてはくれない。しかし、まさにその「もやもや感」こそがリアルであるという気がする。
     そこには、「日本を愛していると語る女など異常だ」という一方的な決め付けはない。それどころか、著者たちは彼女たちを見つめるうちに、左派やフェミニズムの問題点にも気づかざるを得なくなってゆく。
     愛国を語る人々にとって、国を愛することは「普通」であり、「自然」であり、「あたりまえ」であることが多い。しかし、この世にあたりまえのことなど何ひとつないのだ、とぼくは思う。
     あたりまえとは、ようするにその人がそこで思考停止したことを意味しているに過ぎない。現実に、自然に国を愛したりしできないひと、あるいは愛そうとも思わないひとなどいくらでもいるではないか。
     この場合の「あたりまえ」とは、そういった人種を排除した上でしか成り立たない理屈でしかない。もっとも、かれらにいわせればその手のひとは「真の日本人じゃない」のかもしれないが……。
     結局、「国を愛することが普通」も、「国を批判するのが当然」も、同じコインの裏返しである。個人的には、「自分の頭で考えてみることが大切」と思うが、じっさいにそんな手間がかかることをこころみるひとは少ない。
     たとえば南京事件や従軍慰安婦問題の真相を知るために、自分で史料を掘り返してみるひとなど、どれくらいいるものだろう。肯定派であれ否定派であれ、大半のひとは漠然とそれが真実だと考えているか、「ネットで真実を知って」盲信している可能性が高い。
     それにしても、仮に「マスゴミ」や日教組が「ウソの歴史」を流しているとしても、それではネットで語られていることが「真実」である根拠はどこにあるのだろう?
     表が間違えているから裏は正しいに違いない、とは幼稚な理論というしかない。結局、ひとは信じたいことを信じ、信じたくないことは「否認」するのだ。
     日本人は悪いことなんてしているはずがない、と思いたいひとはそういうふうに考える。日本人はひどいことをしてきたから反省しなければならない、と考えるひとはそう信じる。
     それは一部のアメリカ人が広島の原爆攻撃には必然性があった、と根拠もなく信じるのと同じ心理であり、人間普遍の心理といえることだろう。
     いずれにしろ、そうやってある思想を信じ込んだひとたちは、新しい事実を突きつけられても、受け入れることはむずかしい。ただ、相手を嘲笑し揶揄し、「まったくこれだから」とため息をついてみせるだけである。
     原発問題だろうがタバコ問題だろうが、まったく同じ構図がある。ようするにある主題を巡って、その双方が自分の「正しさ」にうっとりと酩酊してしまっている問題があるわけだ。
     あるいは自分は正しいのだからいくら相手を揶揄しようが嘲弄しようがかってである、と思われるかもしれない。「1+1=2」という式の圧倒的な「正しさ」を理解できない人間を笑いたくなるのは当然ではないか?
     しかし、その「正しさ」の成否はともかくとして、ある存在を嘲笑してしまったとき、そのひとは完全に思考停止することになる。
     「真実を知っている賢い自分」と「呆れるほど愚かな対象」との位置関係を自明のものとし、それを半永久的に固定化して自省を忘れる。これは、堕落の始まりである。
     相手がネトウヨであろうが疑似科学信徒であろうが同じことだ。いや、むしろ、思考停止して楽になりたいからこそ、ひとはだれかを笑うのかもしれない。
     そうはいっても、たとえば歴史修正主義や疑似科学をもてあそぶような輩(あるいは低能のサヨクやばかげたフェミニスト)に対しては自然と笑いがこみ上げてくるではないか?といわれるかもしれない。
     しかし、そこで重要なのは、そのこみあげてきた笑いを相対化し、自分自身の愚かさを直視する視点である。自分自身もまた、自分が笑おうとしている存在と大同小異であると認めることである。
     これは非常にむずかしい。やはり、愚かなものは愚かではないか、と思わずにはいられない。しかし、たとえそうだとしても、自分自身に無限の正義がそなわっているわけではないということを認めない限り、その種の人々の同類に成り下がるだけだろう。
     ぼくはいかなる「正しさ」もある種の相対化をまぬかれえないと考える。いや、物理法則のような科学的に導かれた「この宇宙の法則」は絶対の正しさを持っているのかもしれない。
     しかし、人間社会における道徳や倫理はどこまで行っても「人間同士の約束事」であるに過ぎず、たとえば「殺人はいけない」、「戦争はいけない」といった理屈にしても、絶対確実な裏付けがあるわけではない(だから、現実に殺人も戦争もなくならない)。
     そうかといって、「何もかも相対的なのだ」といって、悦に入っているわけにもいかない。ぼくたちはこの社会で生きる以上、何らかの「正しさ」にコミットする必要性がある場面に遭遇するだろう。
     そういうとき、どのような態度が理性的だといえるだろうか? まず、 
  • いつまでもひとりぼっちの世界で。

    2014-07-19 16:59  
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     どもです。いやー、やっぱり毎日更新していると、少しずつ会員が増えていきますね。
     ぼくはこの2年間、このチャンネルの会員を増やすためにほとんどありとあらゆることを試してみたんだけれど、最終的な結論は「毎日コツコツがんばるのがいちばん」というものになりそうです。
     結局、ベイビーステップしかないわけか。うーん、含蓄深い結論だな……。
     ぼくはどうにも短気で、何か欲しいものがあるとき、一足飛びでそこにたどり着こうとしてしまうんだけれど、やっぱりそれは無理があるわけで、コツコツ努力することが大切なのでしょう。
     いままでのぼくの人生は目標に一足飛びでたどり着ける方法があるんじゃないかという幻想をもとに構築していましたが、もし初めから丁寧に努力することを知っていたら、もっと効率のいい生き方ができただろうと思います。
     おそらく「どんなに遠く見える地点であっても、継続的に努力を続ければたどり着ける見込みがある」と、頭ではなく体感で理解しているひとを「自信があるひと」と云うのでしょうね。
     ぼく、いままでの人生でそういう努力をしたことはいっぺんもないかもしれない。いつも間に合わせでどうにかしたり、どうにもできなかったりするばかり。大学受験すらそうだったものなあ。しかし、ここらへんで生き方を変えて、ジミチな人生を送りたいものです。はい。
     それはともかく、きょうはペトロニウスさんの記事から引用して楽をしたいと思います。余談ですが、ほんとうにぼくのまわりにブログをやっているひとがいなくなってしまったので、やっぱり長期間ブログを書きつづけるって大変なことなんだなあ、と思いますね。

     そして、この対等目線の感覚がないと、主人公が、その世界に生きているように感じなくなってしまうんだろうと思うんですよね。つまりは、他者がいない世界になってしまう。全能感とは、ナルシシズムの檻であって、ナルシシズムの檻とは、他者がいない世界です。他者がいない世界は、安楽な代わりに、地獄ともいえるほどに無意味で無価値で退屈でつまらない世界です。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140719/p1

     「他者」。ぼくもよくこの言葉を使うのですが、説明しないと意味がわかってもらえないかもしれないと思うので、ここでこびっと解説しておきます(『花子とアン』観ています)。森岡正博は著書『生命学に何ができるか』のなかでこう書いています。

     「自分が会いたくないような人間に出会う」ことや、「自分が経験したくないような出来事がおきる」ことは、レヴィナスが言うところの〈他者の到来〉を意味している。〈他者の到来〉とは、まったく思いもかけないものごとが、思いもかけないような形で、私に何かの返答を迫るような勢いで、私を襲ってくることである。〈他者の到来〉を受け止めるときの実存感覚が、第二章で私が述べた他者論的リアリティであり、〈揺らぐ私〉のリアリティである。すなわち、他者がやってきて、私を襲い、いままで確かなものだと思っていた様々なものごとを、揺るがせ、私をはげしい動揺に追いやっていく。そして私は謎に直面し、頼るものを失い、見たくないものに直面させられ、おろおろし、それをきっかけとしてみずからの生命観や人生観を変容させていく。このような〈揺らぐ私〉のリアリティを出発点として、私は、思いもよらなかった何者かと出会っていくことができる。

     ぼくが「他者」というとき、イメージするのはこの言葉です。自分の見たくないもの、目を逸らしているもの、封印しているものを見せつけることによって、「わたし」を激しい動揺へ追いやる存在。つまり、自分にとって快適なばかりではない存在、それが「他者」だろうと。
     逆にいうと、ひたすら快いだけの存在は「他者」とはいいがたい。つまり、ひたすら快いだけの存在で埋め尽くされた世界は「他者」が存在しない世界であるということができる。それが、ペトロニウスさんがいうところのナルシシズムの宇宙なのだろうと思います。
     栗本薫に「コギト」という、とっくに忘れ去られた短編があるのですが、それがまさにこの「他者」のいない世界と「他者」が存在する世界の対比を、激烈に描き出していてインパクトがありました。
     で、まあ、倫理的、あるいは哲学的にいえば、ひとは常に「他者」と出逢うことによって自分の欺瞞を痛感し、自己存在そのものを修正しつづけていかなければならない、ということになるのかもしれませんが、なかなかそういうわけには行かないのは御存知の通り。
     やっぱりひとは 
  • 二元論を超えて思考するということ。

    2014-07-18 23:47  
    51pt
     アルピニストの野口健さんのツイートが話題を呼んでいる。

    韓国訪問の時にタクシーに乗っていたら運転手に「日本人か?」といわれ、「そうだ」と答えたら「車から下りろ」と。そのクセに「金は払え」と。頭にきて一銭も払いませんでしたが。当たり前でしょ。
    韓国、日本人客減に危機感…都内で誘致イベント- http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140714-00050141-yom-int


    仮に日本で韓国人観光客がタクシーに乗って運ちゃんに「韓国人は下りろ」と言われるだろうか?タクシーだけじゃない。プサンでサウナに入っていたら、同じように「日本人か?」と尋ねられ追放された。あの時の印象が忘れられない。一部の人の対応かもしれないが日本人旅行者が減るのも無理はない。


    韓国での出来事について呟きましたが、それはあくまでも一部の人の行いでしかないけれども、しかし抱く印象としては決して小さくない。特に旅で受けるインパクトは良くも悪くも大きい。それだけに観光客に対する丁寧な対応はとても大切だ。この点に関して日本のサービスは世界的にも評判がいい。

     これらのツイートがそれぞれ数千回リツイートされてさまざまな反響をもたらしているわけだ。数千のリツイートをいちいち追いかけたわけではないから、総体としてどういう意見が多いかわからないが、やはり目につくのは「だから韓国はダメなんだ」式の反応だ。
     じっさい、野口健さんのところにも「日本人は韓国に行かない。韓国人は日本に来させない。単純じゃないですか」というまさに「単純な」ツイートが寄せられていて、それに対し野口さんは「そう単純でも困る」と返している。
     しかし、まあ、これはある意味で予想通りの反応。面白いのはここからで、野口さんのツイートがウソなのではないかというツイートが日本のジャーナリストなどから寄せられることになったという。
     たとえば株式会社オン・ザ・コーナー代表取締役の清義明さんは「これはかなりウソくさい」といい、「まあ韓国にもいろんな人間いるから、もちろんそういう種類の人間にあたる可能性はあると思うが、オレのまわりで頻繁に韓国行っている連中からもそんな話は聞いたことない。しかも、「日本人だから」排除されたということも理解している語学力?どの程度の頻度の訪韓か知らんけど確率高杉!おかしいわ」と続けている。
     また、『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』(これはぼくも読んだ)で知られるジャーナリストの安田浩一氏も、「相当にウソくさいな。釜山のどこのサウナなのだろう」とツイートしている(http://news.livedoor.com/article/detail/9050681/)。
     さて、この事態をどう考えるべきか? ぼくが日参している「文芸ジャンキーパラダイス」では、こんなことが書かれている(正確な引用ですが、読みやすさを考えてインデントと改行を加えました)。

     アルピニストの野口健氏がツイッターで『韓国訪問の時にタクシーに乗っていたら運転手に「日本人か?」といわれ、「そうだ」と答えたら「車から下りろ」と。そのクセに「金は払え」と。頭にきて一銭も払いませんでしたが。当たり前でしょ』
     『仮に日本で韓国人観光客がタクシーに乗って運ちゃんに「韓国人は下りろ」と言われるだろうか?タクシーだけじゃない。プサンでサウナに入っていたら、同じように「日本人か?」と尋ねられ追放された。あの時の印象が忘れられない。一部の人の対応かもしれないが日本人旅行者が減るのも無理はない』と発言し、賛同コメントが多数ついてる。
     なんで野口氏はこういう思考になるんだろ。そこには日本が軍事的な圧力をかけて韓国を併合したこと(韓国側の併合容認派が考えていたのは、あくまでも「対等合併」)、独立運動に身を投じた人を多数殺害したこと、「皇民化」を押し付け文化を侵略した事実、その他あまりにも多くの負の歴史が完全に欠如している。僕だったら「どうしてこの運転手は、ここまで日本人に怒っているのか」と考えるし、「過去の歴史が理由なら、日本政府の謝り方が、相手の心に届くものになっていないのでは」と思考する。自虐的云々以前の問題だ。
     加害側・被害側としての立場を考慮せず、『仮に日本で韓国人観光客がタクシーに乗って運ちゃんに「韓国人は下りろ」と言われるだろうか?』と、歴史を無視した例え方をして、疑問も感じずツイートしていることが、同じ日本人として辛い。野口氏は環境保護運動に尽力したり、南方の戦跡で旧日本兵の遺骨を拾う活動をしたり、敬意を払う部分があるだけに残念。
    http://kajipon.sakura.ne.jp/

     この意見は正しいのか。ちょっと考えてみよう。結論からいうと、