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記事 22件
  • 岡田斗司夫語り。あるいは、オタクが着込む虚構のコートとは。

    2017-11-27 02:28  
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     岡田斗司夫さんに関する記事の続きです。いや、まあ、ほんとうは続けて書いているので、続きといってもじっさいにはひとつの記事の後半といっても良いのですが、それはともかく、続き。
     さすがに岡田さんのブログに対する文句だけで終わってしまっては良くないと思うので、さらに続きを書いてみます。
     岡田さんは、現在、50代後半から60代前半にあたるいわゆる「オタク第一世代」のひとりです。で、この「オタク第一世代」は、いまとなっては非常に明暗分かたれた印象だよなと。
     いままでしばしば岡田さんが揶揄していた庵野秀明さんがいまや日本を代表する映画監督にまでなったのに対し、岡田さんや唐沢俊一さんはスキャンダルにまみれていかにも情けない印象です。
     同じブロマガで書いている人に対してこうも書いてしまうのは問題があるかもしれないけれど、まあいいや、ぼくはただのひきこもりで一切のしがらみがない身だし。
     最近、岡
  • オリジナリティ・イズ・デッド。オタク第一世代による現代ファンタジー批判を考察する。

    2016-04-06 23:11  
    51pt

     ども。
     人気声優さんが出演しているという噂のアダルトビデオを見たものかどうか迷っている海燕です。
     いや、ぼく、声優さんについてはくわしくないから見てもしかたないのだけれど、下種な好奇心がうずくんですよねえ。
     さて、それとはまったく無関係ながら、きょうもウェブ小説の話です。
     いままでの内容をまとめた上で、ネットにおける混乱した言説を解きほぐす「交通整理」を試みてみようかと思います。
     キーワードは「オリジナル幻想」。
     ちょっと長いですが、最後まで読んでいただければありがたいです。
     まず、ウェブ小説や「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を巡る、山本弘さんや野尻抱介さんの発言を振り返ってみるところから始めましょう。
     山本さんはこんなことを語っていたのでした。

     どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないかという気がする。 
     じゃがいもなどの、この世界に普通にあるものや、エルフやゴブリンやドラゴンなど、ファンタジーRPGでおなじみの要素ばかり使っている。それを読んだ読者も「異世界とはこういうものだ」という固定観念に縛られている。 
     「異世界」と呼んでいるが、実は読者が知っている要素だけで構成されている。 
     想像力や創造力という点で、100年前のバローズより後退してるんじゃないだろうか。 
     もう少しだけ異世界を異世界っぽく描いてもばちは当たらないと思うんだが。

     一方、野尻さんはこんなことを述べています。

     トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。
     バローズが描く異世界は、少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた。それを読み取るだけでも素晴らしい読書体験になる。「はいはい、みなさんご存知のゲーム風異世界ですよ」とばかりに差し出すものとはちがう。

     これらは、両方ともいわゆるオタク第一世代のクリエイターによる、より下の世代の創作活動に対する批判だといっていいと思います。
     内容にも共通項が多く、いまのファンタジー(と呼ばれている小説やアニメ)は「想像力」が足りないというものです。
     そしてここでターゲットにされているファンタジーとは、一部のライトノベルや、「小説家になろう」などで発表されているウェブ小説のことだといっていいでしょう。
     これらの言説が面白いのは、山本さんにしろ野尻さんにしろ、自己否定に繋がってしまっている一面があることです。
     山本さんも野尻さんもかつては何作ものライトノベルを書いてきた作家なのだから、自分の作品もそういう「想像力を欠いた」側面がある。
     したがって、後発の作品を批判することは、天に唾するたぐいの発言といえなくもないわけです。
     それにもかかわらず、なぜかれらは後発の作品を熱く批判するのでしょうか。
     それは当然、自分の作品と後発の作品に何らかの差異を見出しているからでしょう。
     山本さんや野尻さんの発言を丹念に見ていくと、「たしかに自分の作品にも想像力に欠ける一面はあるが、それでも最近のファンタジーとは違う」という想いが透けて見えるような気がします。
     それでは、その「違い」とは何か。
     それは「だれも見たことがない異世界を想像し創造しようとする努力や工夫」だと思われます。
     つまり、山本さんも野尻さんも後発のファンタジーの「オリジナリティのなさ」を批判するとともに、そもそもオリジナルな異世界を作り出そうと努力しようとしない姿勢を非難しているのでしょう。
     なぜなら、かれら自身は多々ある制約のなかでも、少しでもオリジナルな世界を作り出そうと努力してきたという自負があるから、後発作家の「手抜き」が腹立たしく思えるのだと見ています。
     これを「老害」といって即座に却下してしまうこともできますが、ぼくはそういう不毛な年齢差別を好みません。
     むしろ、山本さんや野尻さんの意見には一理あると受け止めます。というか、無理もない話だと思うのですよ。
     かれらの目から何万ものゲーム風異世界を舞台にした冒険劇を見ていたら、どうしたってそれは「手抜き」に見えるでしょう。
     これに対して、「ゲーム風のキャラが出てこない作品もある」といってみてところで、山本さんたちが求めているのは「見たことがあるものが出てこない」世界ではなく「見たこともない何かが出て来る」世界を希望しているわけですから無意味です。
     しかし、だれも見たことがない世界? そんなものがほんとうにありえるでしょうか。
     実はここがこの話のポイントだと思うのです。
     山本さんはバローズを引いて、こんなことをいっていました。

     馬に相当する生物を、「ソート」と呼んでも、作中では何の支障もない。 
     だったら、じゃがいもに似た作物だって、たとえば「ボルート」とかいう名前で呼んでもいいんじゃないだろうか? 
     けっこう安直に異世界感が出ると思うんだが、なぜみんなそうしない? 

     ここで、山本さんはあきらかにじゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼ぶ工夫に意味があると考えているわけです。
     つまり、そういう工夫をすればそうしないよりもより想像力を発揮したことになるという思いがある。
     しかし、そう、どうやら山本さんが考える斬新な異世界とは、よく使われる固有名詞の代わりにオリジナルの名詞を使うといったレベルのことに過ぎないらしいのですね。
     いや、あるいはもう少し突飛な、たとえばあたりまえの馬のかわりに八本足の生物が出て来るとか、距離や単位が地球のものとはまったく違うとか、そういうレベルのことでもあるかもしれませんが、とにかく山本さんや野尻さんは、そのレベルで工夫されているに過ぎないバローズの世界を「そんな問題は100年も前にエドガー・ライス・バローズが通り過ぎている」とか、「少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた」などと評価しているのです。
     ぼくはバローズの小説を読んだことがないので、それがじっさいに「オリジナリティがあ」る作品なのかどうか判断することができません。
     しかし、少なくとも山本さんが書くレベルの工夫のことは、特にオリジナルだとは思いません。
     現代のファンタジー作家がバローズに倣おうとしないのは、そのやり方がむずかしすぎて真似できないからではなく、そういうことになんの意味も見出していないからだと思われます。
     だって、じゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼んだところで、それはしょせんじゃがいも(に似た作物)でしかないではありませんか。
     その程度のことが「オリジナル」と呼ぶに値するとは、ぼくはまったく考えない。
     それでは、真の「オリジナル」とはどんなものなのか?
     ぼくは究極的には「真のオリジナル」と呼んでいい作品など、この世に存在しないと考えます。
     もちろん、相対的に独創的な表現を駆使している作品はあるでしょう。
     が、そういった作品もどこかでほかの作品から影響を受け、あるいは自然世界のなんらかの現象を模倣しているのであって、純粋なオリジナルとはいえない。
     人間には純粋なオリジナルの表現は不可能なのだと考えるべきです。
     その意味で、この世のすべての表現は「二次創作」でしかないとはいえる。
     しかし、世の中には自分が作ったものは自分だけの表現であって、まさにオリジナルといえるものなのだ、と信じる人々がいます。
     その幻想をここでは「オリジナル幻想」と呼びましょう。
     ぼくがこの話で思い出すのは、竹熊健太郎さんと大泉実成さんの対談です。その対談のなかで、竹熊さんはこんなことを書いています。

    竹熊 例えば僕の世代から宮崎さんの作品を見ると、やっぱりパワーが桁違いに凄いんですよ。でも、オリジナリティーがないんだよね。つまり僕の世代が批評家的に見ると、宮崎さんの元ネタが分かっちゃう。僕らが創作をやろうとすると、元ネタを露骨に示して、パロディになってしまうわけですよ。ところが宮崎さんは、元ネタがあるにしても、それを自分の「オリジナルと信じて」出せるわけ。そこが下の世代である僕にしても庵野さんにしても、できないところです。心底、これは俺のオリジナルだと信じて、世の中に提示することができないんです。
    大泉 庵野秀明の場合はエヴァの時に、その時の自分の状態を「ドキュメンタリー」にして、作品化しなければならなかった。少なくとも自分はオリジナルだから。
    竹熊 それをやるしかなかった、彼の場合はね。基本的にクリエイティブって全部パクリですからね。元ネタがないクリエイティブはありえませんから。作者が天から降ってきた霊感だと感じられるものでも、それは過去の人生で触れてきた多くの作品や、知識や、出来事が元ネタにあるわけですよね。それを「パクリ」と自覚するか、それも天から降ってきた霊感のように信じられるかどうかが、「本物のクリエイター」とパロディ世代の分かれ目だと思うんですよ。
     手塚(治虫)にしてもなんにしても、彼らは霊感を信じている。創作することに対する疑いがない。そこは世代の差としか言い様がありませんね。だから、僕もオタク第一世代とか新人類とか言われましたけども、そう言われる僕たちは批評家にはなれるにしても、創作家にはなれないですね。なったとしてもエクスキューズのある創作(パロディ)しかできない。80年代からこのかた、ずっとそうだったんじゃないですかね。僕の場合は、それが『サルまん』だったわけですけども。
    http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1123.php

     つまり、オリジナル幻想には世代的な差があるということですね。
     宮崎駿とか手塚治虫の世代、プレオタク世代とでも呼んだらいいでしょうか、その頃のクリエイターたちは自分の作品を「天から降ってきた霊感だと感じ」て創作していた、しかし、それより下の作品はそこまで無邪気に自分の作品のオリジナリティを信じることができない、という話です。
     もちろん、宮崎駿とか手塚治虫の世代が純粋にオリジナルな作品を生み出せていたのかというと、違う。
     やはりかれらの作品にも「元ネタ」はある。その意味で、宮崎駿といえど、手塚治虫といえど、パロディ的、オマージュ的に創作しているわけです。
     しかし、この世代のクリエイターたちがのちの「パロディ世代」のクリエイターと決定的に違うのは、そのしょせんパロディでしかありえない作品を、ほんとうに自分のオリジナルだと信じていることです。
     それはしょせん錯覚であり、幻想であるかもしれませんが、下の世代のクリエイター、たとえば庵野秀明にとっては、その錯覚すら不可能なことなのです。
     だから、庵野さんたちの世代は「パロディ」とか「オマージュ」といった作法にこだわる。
     先行する無数の作品から引用をくり返し、「あえてやっている」自分を演出する。
     それしかできないのです。
     いいえ、最終的には庵野さんはその境地にも飽き足らず、その「パロディ」を乗り越えて「自分自身という最後のオリジナリティ」を表現するためにある種の「ドキュメンタリー」として『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出したわけですが、それは血反吐を吐くような作業だったことでしょう。
     ちなみに、これらの経緯に関しては『パラノ・エヴァンゲリオン』、『スキゾ・エヴァンゲリオン』という二冊の対談集にくわしいです。
     最近、電子書籍化されたそうなので、興味がおありの方はぜひどうぞ。
     さてさて、世代的には山本さんも野尻さんも庵野さんと同じく「オタク第一世代」に属しているものと思われます。いま50代くらいの人たちですね。
     この世代は、たしかに上の世代ほど無邪気にオリジナル幻想を信じてはいないはずです。
     何しろ、山本さんにしても、野尻さんにしても、たとえばJ・R・R・トールキンやアーサー・C・クラークの先行作品を参照しながら作品を作って来たのですから(『ふわふわの泉』なんて、タイトルといい、アイディアといい、『楽園の泉』のパロディですよね)。
     よほど鈍感でない限り、その自覚があるはずです。ぼくはまさか自覚がないとは思わない、きっとそれはあることでしょう。
     ただ、おそらくかれらは、それでも自分たちの作品は先行作品のデッドコピーではない、と信じている。そこにプライドを抱いている。
     だからこそ、より下の世代の作品の、先行作品のデッドコピーに徹したとも見える「オリジナリティの欠如」が気になるのだと思うのです。
     ようするにかれらから見ると、自分たちが努力し、工夫したポイントで手を抜いているように感じられると思うのですね。
     かれらにしてみれば、その点こそが「単なるパクリ」と「面白いオマージュ」を分かつ聖なるポイントなのであって、そこを省くとは何事か、という想いがあるのだと思う。
     ですが、これはじっさいには手を抜いているというより、その手の工夫に価値を見出していないと見るほうがより正確だと思われます。
     そう、オリジナル幻想を無邪気に信じられたプレオタク世代、そこに疑念を感じながらもなんらかの工夫を凝らして少しでもオリジナルな表現を工夫した「パロディ世代」であるオタク第一世代と来て、それ以降の世代はもはや自分たちの表現の「オリジナリティのなさ」に悩みすらしなくなっているのです。
     ちなみに、オタク第一世代による「お前たちはオリジナリティがなくてけしからん!」という批判に対し、反発し、反論するのはオタク第二、第三世代くらいまでではないかと思ったりします。
     第四世代となると、もはや第一世代の人たちが何をいっているのかピンと来ないから腹も立たないのではないでしょうか。
     いい換えるなら、この世代においてはオリジナル幻想は蘇りようもないほど完全に死んでいるということです。
     オタク第二世代はまだしも、第三・第四世代はもはや「パロディ世代」ですらありません。
     その証拠に、山本さんたちが批判する最近のファンタジーは、もはや「元ネタ」を明確に引用することがありません。
     ただ、あきらかにオリジナルではありえないことが見え透いた「どこかで見たようなファンタジー」を平然と展開する。
     オリジナリティ・イズ・デッド。
     ですが、だからといって山本さんなり、野尻さんの批判が端的に間違えているということではないと思うのです。
     むしろ、かれらの批判は、かれらの価値観では正鵠を射ている。
     しかし、問題なのは、その価値観そのものが古びて過去のものになってしまっているということです。
     もはや、最先端のファンタジーではその表現の前提となっている「パクリ」は問題視されていない。というか、ほとんど意識すらされていない。
     だからこそ、「どこかで見たようなファンタジー」が氾濫することになっているわけです。
     ただ、ここでひとつ浮かぶ疑問があります。
     オリジナリティがないのは当然として、オリジナルに見せかける工夫すらしなくなった作品のどこが面白いのか?
     いったい読者は何を求めて「現代日本のファンタジーの多く」を読んでいるのか?
     その答えは、奇しくも山本さんが否定的な文脈で使っている「なじみの世界」という言葉にあると思われます。
     そう、「小説家になろう」などの読者はまさに「なじみの世界」を求めてファンタジーを読んでいるのだと思うのです。
     これは考えてみると奇妙なことです。
     異世界ファンタジーとは、「異」世界のファンタジーなのであって、どこかに異質なところ、見なれないところがあることが自然なわけですから。
     しかし、日本でファンタジーというジャンルが勃興してはや30年余り、小説と漫画とアニメと、なによりゲームを通してファンタジーの表現はあまりに拡散し、陳腐化しました。
     もはやファンタジーといえば、だれでもエルフとゴブリンとドラゴンといった世界を連想します。
     ゲーム的なファンタジー世界は「なじみの世界」となったのです。
     そう、読者が心からの安心感を持って旅に出かけることができるほどに。
     もちろん、その世界には退屈な日常を覚醒させるようなセンス・オブ・ワンダー、「発見の喜び」はありません。
     読者なり視聴者は、その世界に出かけて、なんとなくだらだらと状況を楽しむのです。
     いや、たしかになかには破格に娯楽性の高い作品もあるでしょう。
     ですが、たとえば「小説家になろう」で大量に生産されているファンタジーのほとんどは、そこまで独創的な仕事とはいえないと思います。
     そんなものが面白いのか。
     面白いのです。
     もっとも、それは既存のエンターテインメントの面白さとはまた一脈違うものであるかもしれません。
     既存のエンターテインメントが、SFであれ、ファンタジーであれ、灰色の日常を輝かせるセンス・オブ・ワンダーを追求していたとするなら、最近のファンタジーなりウェブ小説が提供するものは、「だらだらした日常の安心感」とでもいうべきものです。
     見なれたなじみの世界へ行って、ちょっとした冒険を楽しむ。いわゆる「なろう小説」は多くがそういうものでしょう。
     それを堕落と捉えることはたやすいでしょうが、無意味なことです。
     旧世代とはエンターテインメントが持つ意味が決定的に変わってしまっているのですから。
     何が変わったのか。
     簡単にいうなら、いま、エンターテインメントは日常化したのです。
     かつて、エンターテインメントを楽しむということは、日常のなかに非日常的なひと時を約束するものだったでしょう。
     また、そういう体験をもたらす作品こそが傑作とみなされていたと思います。
     ですが、いまやエンターテインメントを消費することは、少なくともアニメを見たり、漫画を読んだり、ウェブ小説に耽ったりすることは、日常の一部に組み込まれた営為なのです。
     ぼくはそう思っている。
     それでは、なぜ、エンターテインメントは日常化したのか。
     それは、まずエンターテインメントの絶対量が大きく増えたということ、そして高速で定期的にエンターテインメントを提供するインターネットというメディアが普及したことが原因だと思われます。
     毎週放送されるアニメを見る。同じく毎週刊行される漫画雑誌を読む。そして、毎日更新されるウェブ小説を読む。
     これらは容易に「習慣」となり、日常の一部を構成します。
     そしてまた、膨大な量が提供されることによって、消費者は自然と「いくらがんばっても全部を消費しようがない」状況に置かれ、フィクションを消費する体験は特別性を失ったと思うのです。
     これは、音楽配信サービスの普及によって、音楽体験が特別さを失ったことと近いでしょう。
     とはいえ、ほんとうに素晴らしい傑作なら、いまでもぼくたちは「心で正座」して読むわけですが、「なろう小説」の大半はそういう性質のものではない。
     野尻さんなどがいうように、それらは、いってしまえば凡庸な、オリジナリティに欠ける仕事です。
     しかし、いい換えるなら、その魅力はその没個性さにあるともいえるのです。
     だから、「小説家になろう」で見られるいくつかの例外的に面白い作品を例に取って、こういう作品があるから「なろう」は素晴らしいと語ることはあたっていない。
     やはりなんといっても全体の99%を占める「凡作」の山こそが「なろう」の魅力なのです。
     いま、「凡作」と書きました。
     けれど、これは旧来的な価値観に則れば凡庸な作品といえるということであって、「なろう」を読む読者にとって無価値な作品ということではない。
     なんといっても「なろう」という「場」は、そういう作品によってこそ維持されているのですから。
     そもそも、SFであれ、ミステリであれ、ホラーであれ、ファンタジーであれ、ジャンルフィクションというものは、ある意味では凡人のためにあるわけです。
     天才はジャンルなんてなくても自分で独創的な世界を切り開いていきますから。
     もちろん、見方を変えればそれすらも純粋なオリジナルとはいえないわけだけれど、少なくとも独創的であろうとする「志」は高いとはいえる。
     ジャンルフィクションはそういう「志」を持たない作家に、ロケットや、宇宙人や、密室や、吸血鬼や、エルフを提供する。
     これらの素材を使いこなせば、比較的凡庸な作家でもちゃんといい作品を作れるというわけです。
     「なろう」はジャンルフィクションが持つそういう特性を極限まで特化した「場」であるといえます。
     個々の作品ではなく、その「場」そのものを楽しむという読者は多いことでしょう。
     そういう読者は「なろう」という「場」に日常的に出入りして、そこからお気に入りの作品を探し出しては耽溺します。
     はっきりいってそれらは旧来の価値観から見れば他愛ない作品であるかもしれません。
     ですが、エンターテインメントが日常化したいま、それらの作品を日常の一部として味わうことには意味があるのです。
     もちろん、何万という作家のなかには、特別に才能がある人も混じってはいることでしょう。
     そもそもジャンルフィクションには、時々、「お前はこの仲間じゃないだろう」といいたくなるような、特別な存在感を持つ作家が混じって来たりするものなのです。
     ぼくはそういう作家たちを、大森望さんの言葉から採って「魔法の名前」と呼んだりしています。
     まあ、SFでいうスタージョンとかティプトリー、コードウェイナー・スミスあたりのことですね。
     ミステリにおいては麻耶雄嵩、ジャンプ漫画においては諸星大二郎、エロゲにおいては瀬戸口廉也なんて作家が、その「特別なる1%」にあたるとぼくは考えます。
     「小説家になろう」にここまで特異な存在がいるかどうかは知らないけれど、近い存在を挙げるとしたら『魔法科高校の劣等生』の佐島勤さんあたりでしょうか。
     『Re:ゼロから始まる異世界生活』だとか、『本好きの下克上』あたりもかなり異端の雰囲気を放っていますね。
     ただ、そういう異端の作家をジャンルや「場」の代表として語ることは違うかな、という気がします。
     異端の傑作は、ある意味で語りやすい。いってしまえば、『孔子暗黒伝』のほうが『ダイの大冒険』より遥かに語りやすいわけです。
     ですが、それらだけを特別視することはただ語りやすい作品だけを語るという罠に陥ることでもある。
     だから、特にぼくなどは「凡庸な」「オリジナリティのない」作品をどう評価し、どう語るかという問題を真剣に考えなければならないと考えています。
     旧来的な価値で見れば凡庸な作品にも、少なくとも日常の一部として人生をより豊かにするというバリューがあることは、先述した通り、あきらかなのですから。
     もちろん、 
  • 甘ったるい萌えアニメに腰までひたっても、なお。

    2016-04-04 09:00  
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     さて、昨日の記事に続いて、ペトロニウスさんが最新記事のもうひとつの論点として挙げている「向上心がない物語はダメなのではないか」という話を語りましょう。
     これは、20年くらい前から延々と形を変えていわれつづけていることのバリエーションだと思うのですが、まあ、じっさいのところ、どうなんでしょうね?
     元々の野尻さんの発言は「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ」というものでした。
     「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品」とは、具体的には『このすば』のことらしいのですが、これがほんとうに問題なのかというと、正直、ぼくにはよくわからないです。
     たしかに、こういう作品ばかりになってしまったらいかにも退屈だし、良くない状況だとは思う。
     しかし、現実にそうなっているかというとね、なっていないんじゃないでしょうか。
     ここ最近ヒットしたアニメなりウェブ小説を見ていくと、必ずしも甘ったるいばかりの作品がウケているとはいえないと思うのですよ。
     もちろん、ぼくはそのすべてをチェックしたわけではないのでたしかなことはいえませんが、少なくとも『進撃の巨人』もあれば『魔法少女まどか☆マギカ』もある、『SHIROBAKO』もあれば『1週間フレンズ』もあるわけで、業界全体が一色に染まっているとはいいがたいでしょう。
     むしろ、過去に比べても多彩な作品が提供されるようになって来ていると思います。
     もし、それらの作品が一色に見えるとすれば、やはりパッケージの問題でしょう。
     現代のアニメには色々な作品があるけれど、そのほとんどに何らかの形で美青年や美少女が出て来ることもたしかで、そのキャラクターたちの画一的なイメージが作品に多様性がないという印象を与えているのだと思います。
     じっさいには、当然、キャラクタ―デザインにある程度の差異があるのですが、それは「わかる人が見ればわかる」種類のものであることもたしかです。
     わからない人が見ればやはり似たり寄ったりに思えるでしょう。
     そして、そのパッケージの印象を、野尻さんは「かっこ悪い」といって批判しているのだと思います。
     これは良く考えるとなかなか深い問題で、一理はあると思う。ただ、いまさら美少女を出してはダメだといってもね、それは届かないことでしょう。
     それに、ここ十数年くらいで、アニメに登場する美少女たちも(決してリアルになったわけではないにしろ)相当に多様化が進んでいると思うのです。
     ここらへんは「暴力ヒロイン問題」と密接な関わりがあるのですが、たとえば『俺妹』の桐乃なんかは一方で強烈な反発を受けるくらい過激なキャラクターであるわけですよね。
     そういうキャラクターもいまは例外とはいえないくらい普通に存在している。
     まあ、その手のキャラは必然的に「女の子は天使じゃないと許せない派」からは過剰な反発を受けるわけですが、そうかといっていなくはならない。
     あいかわらず色々な形で出て来ては視聴者の自意識を告発したりするわけです。
     そういう告発に耐えられない視聴者層はたしかにいます。
     しかし、いまとなっては、その手の告発すら平気で受け止められる視聴者層も熟成されて来ているように思います。
     野尻さんは「コンプレックスまみれの視聴者」と決めつけていますが、これはアニメ視聴者に対するかなり古いバイアスです。
     かつてはともかく、いまは特に大きなコンプレックスがないアニメ視聴者も相当の割合でいるはずです。
     そういう視聴者は必ずしも慰撫だけを求めてアニメを見ているわけではない。
     いや、当然、見ていて不快になるようなものを求めているわけではないでしょうが、野尻さんが考えているほど甘ったるいばかりの物語を求める「弱い」視聴者層ばかりではないと思う。
     その証拠に、『このすば』の主人公もさんざんあざけられ、ばかにされ、笑い者にされているではありませんか。
     まあ、たしかにかれはご都合主義的に美少女といっしょに旅をすることにはなります。
     ですが、その旅も美少女も必ずしも主人公を慰め、いい気分にさせてくれるだけの装置ではない。
     一見してそう見えるにしろ、じっさいには色々あるのであって、その色々が作品の個性となっています。
     「いや、そうではなく、もっと視聴者の自意識の欺瞞を徹底して告発するきびしい物語が必要なのだ」という意見もあるでしょう。
     それもわからなくはない。ある程度は共感できる意見です。
     しかし、 
  • ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

    2016-04-03 13:20  
    51pt

     ペトロニウスさんの最新記事が例によって面白いです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1
     長い記事なので、いちいち引用したりはしませんが、つまりはウェブ小説は多様性がないからダメだ!という意見に対する反論ですね。
     ペトロニウスさんは「OS」と「アプリ」という表現で事態を説明しようとしています。
     つまり、物語作品には「物語のオペレーションシステム」ともいうべき根本的なパターンがある一方で、その「OS」を利用した「物語のアプリケーション」に相当する作品がある。
     そして、新たに「OS」を作り出すような作品は少なく、「アプリ」にあたる作品は数多い、ということだと思います。
     この場合、「OS」にあたるパターンを作り出した作品は「偉大なる元祖」と呼ばれることになります。
     ペトロニウスさんはトールキンの『指輪物語』やラヴクラフトの神話体系がそれにあたるとしているようですが、ほかにも、たとえば本格ミステリにおけるエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、モダンホラーにおけるスティーヴン・キング、SFにおけるH・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌといった存在が「OSクリエイター」にあたるでしょう。
     オタク系でいえば『機動戦士ガンダム』は「リアルロボットもの」というジャンルを作りましたし、『魔法使いサリー』は「魔法少女もの」の嚆矢となっています。
     最近の作品ではVRデスゲームものにおける『ソードアート・オンライン』、日常系萌え四コマにおける『あずまんが大王』などはまさにOS的な作品ということができるでしょう。
     これらの作品のあとには、まさに無数のアプリ的な作品が続いているわけです。
     こういった「OSクリエイター」はまさにあるジャンルそのものを作り上げた天才たちであり、その存在は歴史上に燦然と輝くものがあります。
     しかし、逆にいえば、このレベルの業績はそう簡単に挙げられるものではない。
     ある種の天才と幸運と時代状況がそろって初めて「ジャンルを作り出す」という偉業が成し遂げられることになるわけです。
     また、こういった「OS的作品」にしても、100%完全なオリジナルというわけではない。それ以前の作品にいくらかは影響を受けているわけです。
     さかのぼれるまでさかのぼれば、それこそ聖書や神話といったところに行きつくことでしょう。
     その意味では、この世に新しい物語とかオリジナルな作品は存在しない、ということができると思います。
     つまりは単に「OS的な作品」はその存在の巨大さによって模倣される割合が相対的に高いというだけのことなのです。
     ある意味では、それ以上さかのぼれない「究極のOS」は人類文明発祥時期の古代にのみ存在し、それ以降のOSは「OS的なアプリ」に過ぎないといういい方もできるでしょう。
     あるいは、神話や聖書の物語こそが「究極の一次創作」なのであって、それ以降の作品はすべて二次創作的なポジションにあるといえるかもしれません。
     いや、おそらくはこのいい方も正確ではないでしょう。
     ようするに人間が考えること、あるいは少なくとも人間が快楽を感じる物語類型は似たり寄ったりだということです。
     古代の作品、たとえば『イリアス』がオリジナルのOSであるように感じられるのは、たまたまその発表時期が古いからであって、必ずしものちの作品が直接に『イリアス』を模倣しているわけではありません。
     人間は放っておけば似たようなことを考え出し、発表するものなのです。
     ただ、何かしらOSにあたる作品があればそれは模倣され、「影響の連鎖」がより見えやすくなるというだけです。
     もちろん、OSとアプリの差はわずかなもので、アプリにあたる作品もまた模倣されます。
     神話のような原始的な物語を一次創作とし、OSにあたる作品を二次創作、アプリにあたる作品を三次創作とするなら、それをさらに模倣した作品は四次創作とか五次創作と呼ばれるべきでしょう。
     具体的な例を挙げるなら、謎解き物語の嚆矢であるところの『オイディプス王』を一次創作とするなら、そこから近代的な本格ミステリを生み出したポーの「モルグ街の殺人」は二次創作、それを模倣した本格ミステリの作品群、たとえばアガサ・クリスティやエラリー・クイーンの作品は三次創作、そこから影響を受けた日本の新本格は四次創作、それを破壊しようとした若手作家による「脱本格」は五次創作、ということになるでしょうか。
     まあ、じっさいにはこれほどわかりやすく「×次」と名づけることができないのは当然のことです。これはすべてあえていうなら、ということになります。
     こういった「模倣の連鎖」が良いことなのか? もっとオリジナリティを重視するべきではないのか? そういう意見もありえるでしょうが、それはほとんど意味がありません。
     こういう「影響と模倣の系譜」をこそひとは「文化」と呼ぶからです。
     ある意味では地上のすべての創作作品がこの「影響と模倣の一大地図」のどこかに位置を占めているということになります。
     その意味では純粋なオリジナルとは幻想であり、新しい作品などこの世にありません。
     オーソン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」ではありませんが、比類を絶した天才を人類文明とまったく無縁のところに閉じ込めて一から創作させたなら、あるいはまったく新しいOS的作品を生み出すことができるでしょうか。
     いいえ、決してそんなことにはならないでしょう。
     なぜなら、先にも述べたように、人間は放っておけば似たような物語を生み出すからです。
     いい換えるなら、人間の脳こそが「究極のOS」なのであって、そこから生み出される物語は神話であれ聖書であれ、アプリにしか過ぎないということになります。
     たとえば『ドラゴンクエスト』は多くの模倣作品を生み出したという意味で「OS的作品」であるといえます。
     しかし、『ドラクエ』が究極のOSなのかといえばそんなことはなく、それもたとえば『Wizardly』やスペンサーの『妖精の女王』といった先行作品の影響を受けているのです。
     その意味では、オリジナルかどうかを問うことにはまったく意味がない。どんな作品もどこかしら他作品の影響を受けているに違いないのですから。
     シェイクスピアが同時代のほかの作家の作品を模倣して新作を生み出していたことは有名です。
     偉大なシェイクスピアですらそうなのですから、この世に新しいOSなどありようもないということはできるでしょう。
     ただ、だからといってオリジナルさになんの価値もないかといえば、そんなことはないでしょう。
     ペトロニウスさんが書いているように、ようは程度問題なのです。
     完全なオリジナルなどというものがありえるはずもないけれど、だからといって一字一句までコピペしただけの作品が許されるわけでもない。
     ある程度はコピーであることを受け入れた上で、何かしらのオリジナルさを追求することが、現実的な意味での創作活動ということになるでしょう。
     それでは、その「オリジナルさ」とは何か。
     これは、『ヱヴァ』の庵野秀明監督が20年前に答えを出しています。すなわち、「その人がその人であること」そのものがオリジナルなのだと。
     『新世紀エヴァンゲリオン』は『ウルトラマン』や『ガンダム』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』といった先行作品の模倣にあふれた作品です。
     その意味で、まったく新しくないアニメだとはいえる。
     しかし、同時に『エヴァ』ほど個性的な作品はめったにないことでしょう。
     さまざまな設定やシチュエーションが先行作品からのコピーであるからこそ、庵野監督独自の個性がひき立つのです。
     これについては、『東のエデン』の神山健二監督が述べていたことが思い出されます。
     神山監督は、既に押井守監督による傑作劇場映画が存在する『攻殻機動隊』というコンテンツをテレビアニメ化するというオファーを受けたときに、あえて押井監督と同じものを目指したのだそうです。
     普通、クリエイターならまったくだれも見たことがない『攻殻』を、と考えることでしょう。
     しかし、神山さんは意識して先行作品を模倣した。その結果として、逆に押井さんと違うところ、つまり神山さんだけの個性が浮かび上がったというのです。
     この話はきわめて示唆的です。
     つまり、同じようなシチュエーションを活用したとしても、まったく個性がない作品が出て来るとは限らないということ。
     むしろ、才能あるクリエイターであれば、同じようなシチュエーションを設定すればするほど、その人だけの個性が浮かび上がるものだということです。
     これは、同じようなシチュエーションを多用するジャンルフィクションがなぜ面白いのか、という問いへのアンサーでもあります。
     ある前提条件を徹底してコピーすればするほど、作品のオリジナリティは際立つ。少なくとも才能ある作家ならそうなるのです。
     美術史では聖書や神話など同じ題材を使用した作品が多数あります。
     ですが、同じ題材を使っていてもクリムトとピカソではまったく表現が違う。
     むしろ同じ題材を使うからこそわかりやすくその差異が際立つわけです。
     これが「ジャンル」というもの、「文化」というものの面白さです。
     しかし、それならば、なぜ「ウェブ小説はオリジナリティに欠けている」といった批判が寄せられるのか。 
  • 究極の異世界ファンタジーとは。

    2016-03-23 08:27  
    51pt

     山本弘さんが「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を批判的に語って話題になっているようです。
    http://togetter.com/li/952223
     いきなりですが、この意見が、炎上とは行かないまでも賛否を呼ぶ背景には、わりと典型的なディスコミュニケーションの問題がある気がしてなりません。
     というか、ある意見が非難を集めるときは、しばしばそこに何かしらの誤解が生じていると思うのですよ。
     これは非常にむずかしい話ではあるとも考えるのですが、だれかの意見を理解しようとするときには、ただ言葉の表面だけを追っていけばいいというものではなくて、その奥底にある「その人がほんとうにいいたいこと」を慎重に探っていかなければなりません。
     しかし、それと同時に、かってに憶測をたくましくして、その人がいってもいないことをわかったと思ってはいけないのです。
     この一見矛盾する条件を満たそうと努力することが「読む」ということなのであって、ただあいまいな印象だけを受け取るとそこに誤解が生まれます。この場合もそのパターンだと思う。
     論者である山本さんとそれを批判するほうで、認識にずれが生じている可能性が高い。
     ぼくはこういうやり取りを見るたびにもう少しどうにかならないかなあと思うのです。
     情報を発信する側と受け取る側のどちらに責任があるともいえないし、またどちらにも責任があるともいえるというケースだと思うのですが、責任の所在はともかく、あまりにも話が不毛すぎる。
     だれもが自分だけは正しい、自分だけは正確にひとのいわんとするところをわかっていると思い込んでいて、結果として誤解が広まっている。
     このパターンを、いったいどれくらい見てきたか。
     ネットで「議論」とか「論争」と呼ばれているものの正体は、大抵が放置されたディスコミュニケーションに過ぎないのではないかと思うくらいです。
     こういうやり取りを見ていると、簡単にひとのいわんとするところを理解したつもりになってはいけないのだなあと思いますね。
     もちろん、ぼく自身、山本さんのいわんとするところをわかっていると思ってはいけなくて、誤解が生じていると思うこと自体が誤解なのかもしれませんが……。
     それはともかく、「どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないか」という意見は、ある程度は正しいものだと思われます。
     山本さんは作家ひとりにつきひとつの世界があってもいいという前提で考えているわけで、それに比べれば「現代日本の異世界ファンタジー」の多くはよりシンプルに規定された世界を描いているに過ぎない、これは想像力の貧困じゃないか、という指摘は、まあありえると思う。
     問題は 
  • 人類の能力がすべて人工知能に抜き去られたとき、人間に何がのこるか?

    2015-06-22 22:46  
    51pt

     海に沈む夕焼けを見るために海岸まで歩いて行って来た。
     結局、雲が厚く、夕日が沈むところは見られなかったけれど、落日に照らされた雲が一刻一刻と色を変えるさまはうつくしかった。
     いいものを見た。またこんど、晴れた日にここを訪れよう。
     さて、いうまでもないことだが、海岸の夕焼けなんて見たところで一銭にもならない。
     また、だれかに褒めてもらえることもありえない。無意味といえば、この上なく無意味な行為だ。
     しかし、そうはいっても人生を多少なりとも豊かにするのはこういう無意味なことの積み重ねなのだろう。
     幸い、売るほど時間があるぼくはいくらでも無意味な行為にいそしむことができる。
     だから、テトラポットの上に座り、道すがらセブンイレブンで購入したサラミとチーズを食べながら落陽の芸術に感嘆したのであった。
     いや、しかし、海岸まで歩いていけるところに住んでいるというのは贅沢ですね。
     それにしても、「意味」とはなんだろう?
     世の中には、さも深い意味がありそうな事柄がたくさんある。だが、じっさいにはそれらにたいした意味などありはしない。
     人類の存在にしてからが、進化の樹形が生み出したある種の偶然の産物であるに過ぎないわけで、それ以上でも以下でもないのだ。
     そうであるからには、個人の社会的使命がどうとか、失笑するしかない出来の悪いジョークでしかありえない。
     べつだん、ある個人がどうがんばろうと、がんばるまいと、社会全体に大した影響を及ぼせるわけではない。
     また、いくらか影響を及ぼせたところで、それにさしたる意味があるわけではないのだ。
     ぼくのいうことはいくらかニヒリズムめいて聞こえるだろうか。そうではない。
     まともに現実を直視するのなら、ひとのやることなすことに格別の意味がないということには向き合わざるを得なくなる。
     あたりまえのことだ。天までそびえ立つビルになんの意味がある? 海底を貫通するトンネルにどんな意味があるというのか?
     それらは、ひとの力の巨大さを示すある種のモニュメントであることはたしかだろう。
     しかし、それも、ただそれだけといえばそれだけのことだ。しょせん時の波濤にさらされればいつかは崩れゆく砂の楼閣であるにすぎない。
     そして、そうであって何が悪いというのか。
     ひとのやることがすべて無意味だとしても、だからそこに価値がないということにはならない。
     価値はある。あきらかにある。より正確にいえば、そこに価値を見いだすことは可能なのである。
     なぜなら、価値とはひとがさだめて見いだすものにほかならないからだ。
     もしそこに「すごいものを作ったものだ……!」という感嘆があるのなら、意味などなくてもなんの問題もない。
     ミケランジェロのピエタにそれが生み出されなければならなかった宇宙的意義はあるだろうか?
     もちろん、あるはずもない。しかし、それはどこまでも気高く美しい。ただそれだけで十分ではないか。
     この先、人工知能が発達していくと、いままで人間しかできなかったことすべては機械によって代替可能になるだろう。
     「人間のみが持つ人間らしさ」という幻想が剥がれ落ちてゆくわけだ。
     それは絵画や音楽といった芸術分野をも含むに違いない。人間はここで「すべてにおいて機械に追い抜かれた自分たちの存在になんの意義があるか?」という問いと向き合わなければならなくなる。
     山本弘のSF長編『アイの物語』では 
  • 「オタクはクリエイターより偉い」。岡田斗司夫のロジックを考える。

    2015-01-26 13:55  
    51pt


     てれびんに指摘されたのだけれど、最近、ずっと自意識の話をしていてワンパターンですね。いいかげん他の話題に行きたいところですが、敷居さん(@sikii_j)がTwitterで「納得いかん!」とシャウトしていたので、もう少しだけ岡田さんの話を続けたいと思います。
     いや、じっさい書くことは色々あるんですけれど。ただまあ、ぼくは直接逢って人柄をたしかめたわけではないので、あくまで以下に書くことはぼくの妄想という域を出るものではありません。「こういう人なんじゃないかなあ」という推測でしかないわけです。そのことを前提としてお読みいただければ、と思います。
     まず、岡田さんの人生の目的が何なのかという話なのですが、ぼくはべつだん、かれが「何かを笑い飛ばすこと」を目的にしていたとは思いません。
     この場合、「笑い」は目的というよりはむしろ手段でしょう。それでは目的は何かというと、「その人物より上に立つこと」だったんじゃないかな、と。
     つまり、何かを笑い飛ばすことによって、間接的にその存在より上に行く。そして「偉い」「賢い」「強い」「大人の」自己イメージを周囲から認めてもらう。それが目的だったのではないか。
     究極的には「だれよりも賢くて偉い自分」というセルフイメージを確立したかったのではないかと思うのだけれど、まあ、はっきりとはわかりません。
     ただ、岡田さんがひとの悪口をいうのが大好きだったことはいくらでも証拠があります。たとえば『史上最強のオタク座談会 封印』には、こんな発言があります。

    岡田 こないだ『アニメガベストテン』とかあるじゃないですか。あれに俺ゲストで出たんですよ。そしたらね、その時××××××もゲストやったんですよ。で、「はじめまして」と言うてCDくれるんですけどね、「岡田斗司夫さん」いうてサインしやがるんですよ。それがなかったら売れたのに(笑)。書くなよ、オマエ! ババアが! めちゃくちゃ腹立って(笑)。

     ちょっとこの人は何をいっているんだろう、という感じですが、もらったCDに為書きをされると売って金にできない、だからそういうことをする奴は性格が悪いといっているわけなんですね。
     本人のつもりではハイセンスなジョークなのだろうな、と思うんですけど、本気でいっているのだとしたらひどい話です。「書くなよ、オマエ! ババアが!」じゃないよね。
     こういう発言は山ほどありますね。というか、この本一冊全部、この種の発言なんですけれど。
     で、まあ、こういう発言の裏にある想いは「人の上に立ちたい」というものだったとぼくは考えるわけです。権力志向というか。FREEexみたいな組織を作ったり、「オタクの王さま=オタキング」を名乗ったあたりからはそこらへんの心理が読み取れると思います。
     オタク全体がある種の知的エリートとして社会に認められ、自分はその上にトップとして君臨する。どこまで本気だったかはともかく、岡田さんの野望とはそういう性質のものだったと考えていいのではないでしょうか。
     ぼくとしては岡田さんはやっぱり自分の知性を認めてほしかったのではないかと考えています。漫画『アオイホノオ』のなかにもそんな描写があるようですけれど。
     最近の岡田さんにはそういうイメージはないかもしれませんが、唐沢俊一さんとの対談集『オタク論!』とか、先ほどの『史上最強のオタク座談会』のシリーズなどを読むと、「口の悪い岡田斗司夫」をたくさん見つけることができます。
     ぼくはそういう言動はやはりそれによってその対象より上に自分を置きたいという欲求の表れと考えるわけです。もちろん、これはべつだん岡田さんだけのことではないですけれどね。
     たとえば庵野秀明や宮﨑駿は岡田さんにとって同世代ないし上の世代の天才的なクリエイターですが、岡田さんはかれらの作品の拙劣さを笑い飛ばすことによって擬似的にかれらより上に立つことができるわけです。
     「まったく、宮さんにも困ったものだよね(笑)」みたいなセリフをさらっといえれば、そういう岡田さんを凄いと思う人はかなりいることでしょう。
     じっさい、岡田さんはクリエイターより「客」のほうが上なのだ、とはっきり主張しています。『オタク学入門』からその一節を抜き出してみましょう。

     このように、オタク文化の頂点に立つのは教養ある鑑賞者であり、厳しい批評家であり、パトロンである存在だ。
     それは作品に美を発見する「粋の眼」と、職人の技巧を評価できる「匠の眼」と、作品の社会的位置を把握する「通の眼」を持っている、究極の「粋人」でなくてはならない。つまり、僕がこの本の中で一貫していってきた一人前のオタク、立派なオタクということになる。
     立派なオタクはオタク知識をきちんと押さえていて、きちんと作品を鑑賞する。当然これは、と目をかけているクリエイターの作品に関しては、お金を惜しまない。逆に手を抜いた作品・職人に対しての評価は厳しい。
     これらの行動は決して自分の為だけではない。クリエイターを育てるため、ひいてはオタク文化全体に対して貢献するためでもある。そこのところをオタクたちは心得ている。
     もちろん、クリエイターたちやマスコミの中にはオタク文化を西洋のサブカルチャーの一部と勘違いしていて「クリエイターは文句なく偉い」と考えている連中が多い。「作品はクリエイター様の心の叫びだ。ありがたく拝見しろ。わからないのはお前が悪い。顔を洗って出直してこい!」ここまであからさまではないにしろ、多くのクリエイターはこういう風に勘違いしている。
     その勢いに呑まれている中途半端なオタクも多いが、実は違うのだ。やたら料理人を持ち上げたらその店はダメになってしまう。ちゃんと自分の舌で評価してこそ、よりおいしい料理が望めるというものだ。つまり職人の芸をきちんと評価する、という形が健全な文化の育成につながることになるということだ。

     オタク文化の頂点に立つ「教養ある鑑賞者であり、厳しい批評家であり、パトロンである存在」としてのオタクたち、そのさらに頂点に自分が立つ。岡田さんとしてはそういう夢を抱いていたのかなあ、とこの文章を読むと思わせられます。
     で、なぜそんな大望を抱かなければならなかったのかといえば、それはやはり岡田さんの心に何かしらのルサンチマンがあったからなのではないでしょうか。
    (ここまで2602文字/ここから2695文字) 
  • 冒険宇宙小説の快作! 『夏葉と宇宙へ三週間』。

    2014-05-03 17:23  
    51pt


     山本弘『夏葉と宇宙へ三週間』を読み終えました。日本SF作家クラブ創立50周年を記念して、日本SF作家クラブと岩崎書店とのコラボレーションによって刊行されるジュヴナイルSF小説のシリーズの一冊ですね。
     いま、その日本SF作家クラブではちょっとした騒動が起こっているそうですが、それは、さておき。『夏はと宇宙へ三週間』です。
     いやー、もう、このタイトルからしていいよね。可愛い女の子と宇宙へ三週間のトラベル! このシチュエーションにあこがれない少年がいるだろうか。いや、いない(断言)。すべての少年は宇宙旅行に憧憬を抱くものなのだ(ふたたび断言)。
     で、内容はこのタイトルが表している通り。ある日、地球の海にやって来た宇宙船に吸い込まれてしまった少女夏葉を追いかけ、いっしょに宇宙へ飛び出してしまった少年の、三週間の冒険が描き出されています。わくわく、どきどき。
     もう、少年の日の自分に読ませてあげたいようなシチュエーションの連続! 宇宙の命運を巡る壮大な戦争あり、意外な結末あり、学園ラブコメあり(?)で、実に楽しい作品に仕上がっています。
     すまき俊悟のキュートなイラストも素晴らしく、ほんとうに子供の頃にこれを読みたかった、と思わずにはいられません。冒険SFはこうでなくっちゃ!
     晦渋な大人向けのSF小説に頭を絞るのもいいけれど、やっぱりぼくは「こっち側」の人なんだよなあ。陳腐といわれようと、未知なる世界! 広大なる宇宙! そういう条件がそろった小説を読みたくなるのです。
     とはいえ、子供向けではあっても、テーマそのものはいつもの山本弘。全編にわたって「人間の幸福とは何か?」、「ひとにとって自由意志とはどのくらい重要なのか?」、「なぜひとは争いあい傷つけあうのか?」といったハードなお話が繰りひろげられます。
     ぼくはこのひとの長編はほとんど読んでいるのですが(単行本未収録の短編はさすがに追い切れない)、まあ、いつも語っている内容は同じといえば同じなんですね。
     山本さんの作品の根底には、人間の愚かしさに対する尽きせぬ怒りがある。なぜ、こんな簡単なことがわからない!といいたげな苛立たしげなトーンは、山本作品を通底しているものです。
     うん、山本さんが有川浩さんの作品を好きだというのはよくわかる。ちょっと方向性こそ違うけれど、似たような種類の怒りを感じます。
     それはもう、ノンフィクションの著書でも、ブログでもくり返し怒っているので、よっぽど気に喰わないんだろな、と思いますね。
     すでに50歳を超えているはずの作家さんなのですが、そこはめちゃくちゃ青くさい。ぼくの好きなほかの作家、たとえば田中芳樹や栗本薫あたりだと、「人間はいつまで経っても争いあうことをやめられないかもしれない」という問題があったとき、 
  • 『風立ちぬ』問題。あるいは『劇場版魔法少女まどか☆マギカ』は蛇足だったのか。

    2014-03-31 11:44  
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     昔、「『3月のライオン』の差別構造と物語の限界。」と題して、以下のような内容の記事を書きました。

     ああ、長い夜だった。というわけで、昨日の夜、かんでさんとLDさんで「物語」の問題について話しあったわけですよ。予想外に盛りあがり、また収穫のある内容となったので、この日記で報告しておきたいと思います。
     そもそもの発端はかんでさんの『3月のライオン』批判です。
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1754961239&owner_id=276715
     ぼくが考えるにその批判の要点は以下の二点、
    1.作中のいじめの描写が甘い。ひなたはいじめにあいながら「壊れて」いない。これはいじめの実相を表現しきれていないのではないか。
    2.作中では作劇の都合上、いじめっこ側の権利が狭められている。本来、いじめっこ側にも相応の権利があるはずなのだが、それが描写されていない。
     であったと思います。
     これに対して、ぼくは作品を擁護する立場から、以下のように反論しました。
    「たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。」
     つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。
     で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。
     ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。
     『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。
     しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。
     これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。
     LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。
     とはいえ、「世界の真実を比較的そのままに描く物語」というものも存在しえるかもしれません。話のなかでは、それは「芸術」といわれていましたが、ここでは「リアリズム」と呼びたいと思います。
     つまり、俗に「物語」と呼ばれているもののなかには、「世界の真実を比較的歪めずそのままに描くもの=リアリズム」と、「世界の真実をある視点から歪めて読者の共感を誘うもの=物語(エンターテインメント)」が存在するということができます。
     そしてかんでさんは「リアリズム」寄りの立場から、ぼくとLDさんは「物語(エンターテインメント)」よりの立場から話をしました。しかし、もちろん両者とも完全にそれぞれの立場にわかれているわけではありません。ある程度たがいの立場を察し、理解しあうことはできるのです。
     そこで、ぼくは「物語」の「あやうさ」を指摘しました。われわれ日本人には、じっさいにある「物語」に先導され、挙国一致体制で「物語」に殉じた記憶があります。先の大戦がそれです。
     そのとき、「天皇は偉大だ」とか「日本人は優れた民族である」といった「日本人の視点」によって切り取られた「日本の物語」が日本一国を支配したのでした。その物語にともに熱狂しない人間は「非国民」とされ、排斥されました。これこそまさに「物語」がもつあやうさです。
     「物語」はひとを扇動し、熱狂させますが、だからこそひとを非理性的なところへ連れていってしまうのです。「物語」にはひとつの「正義」だけを唯一の正解のように見せてしまう「力」があるのです。
     歪んだレンズを通せば歪んだ世界が見える道理なのですが、その歪んだ世界を真実の世界と錯覚してしまうかもしれないところに「物語」のおそろしさはある。
     しかし、同時に、そうとわかってなお、ぼくやLDさんは「物語」が好きであるわけです。その「歪んだレンズ」に映しだされるふしぎな景色に、それが残酷であり危険であるとしりながらも驚嘆せずにはいられないのです。
     ここらへんは非常に微妙な話になるのですが、世界は「物語」の押し付け合いによってできているという側面があります。たとえばアメリカにはアメリカの「物語」があり、アラブ諸国にはアラブ諸国の「物語」があるように、複数の「視点」があれば複数の「物語」が存在しているものなのです。

     ぼくがここで云いたかったのは、物語、あるいは少なくともエンターテインメントとは人間の認知能力の限界を反映したものだということです。
     もしあらゆる事象をあらゆる側面から同時に知ることができる全知の存在がいるとすれば、かれは物語を必要としないでしょう。ひとは自分の視点からしか世界を見ることができないために、物語を必要とするのです。
     つまり、ひとは神ではなく、物語という娯楽にはその限界が濃厚に反映されているということです。物語とはある視点から世界を切り取り、その視点に感情移入させ、感情を高揚させる方法論です。
     これはあきらかにアジテーションの方法論であって、倫理的に考えるならあきらかに問題があります。
     じっさい、さまざまなエンターテインメントは過去、集団を動員するためのアジテーションとして利用されてきた。いまでもハリウッドや中国あたりの映画などは、右寄りにせよ左寄りにせよ、製作者の政治思想を主張するために利用されている一面があるでしょう。
     つまりは物語の性質上、「比較的中立」の作品はありえるかもしれないにせよ、「完全に中立」なものでは決してありえないのです。
     まして、エンターテインメントとは、いかにひとを熱狂的に一方向に駆動させるかで評価が分かれる表現です。
     あるエンターテインメント作品が「面白い」とは、ひとをより感情的にさせ、理性的判断を麻痺させているに等しい、と云ったら、乱暴な断言と云われるでしょうか。しかし、そういう一面はあるはず。ただインテリジェントなだけでは、十分に面白いエンターテインメントとは云えない。
     そのように考えていくと、LDさんの云う「エンターテインメントの残酷さ」の正体がわかって来ます。あえて云うなら、エンターテインメントとは、人類の倫理的欠陥を象徴するものなのです。
     人間は本質的には倫理的にできていない。エンターテインメントについて考えていくと、その事実が浮き彫りになる気がします。
     どういうことか。ここで思い返してもらいたいのは「差別」の問題です。究極的な倫理を考えるなら、一切のひとを差別することなく平等に扱うことが「倫理的に正しい」ことでしょう。
     しかし、それは人間にはできないのですね。自分の視点から見て、より親しいひとにはより共感を覚え、より遠いひとにはあいまいな感情しか感じない――それが人間の当然の実相です。
     たとえば、ぼくたちの多くは家族が亡くなったら哀しみを感じる。その一方で、遠いアフリカの地の子供たちの死には何の痛痒も感じない。これは差別ではないでしょうか? ぼくは差別だと思う。
     ぼくが「ひとが差別から無縁ではいられない」と云うのは、そういう意味です。もしぼくたちがアフリカの子供たちに自分の家族と同程度の共感を得られるなら、アフリカの問題は既に解決されているかもしれません。その問題とはぼくたちの差別心が表面化した問題と云えなくもないわけです。
     それがあまりにも極端な例だと思われるのなら、べつの例を挙げましょう。ぼくたち日本人は3月11日になると、東日本大震災の犠牲者たちについて思いを馳せます。
     もちろんひとによって程度は違うでしょうが、ある程度は何かしらのことを考えるというひとが大勢を占めるのではないでしょうか。
     もし、「東日本大震災の犠牲者? しょせん他人ごとだからおれは知らないよ」と云ったら、「なんてひどい奴だ!」とバッシングされることは間違いないでしょう。
     ですが、考えてみれば、世界中至るところで悲劇は常時起きているわけです。なぜ、東日本大震災の死者のことは悼むのに、スマトラ沖地震の犠牲者のことは悼まないのか? ニュージーランドの地震の死者はいいのか?
     こう考えていくと、結局、ぼくたちは「日本人」と「外国人」で線を引き、差別しているという事実に気づかざるをえない。
     かつてTHE YELLOW MONKEYは「乗客に日本人はいませんでした」というフレーズに非難のトーンを込めて歌いましたが、じっさい、大半の日本人にとって、「同じ日本人」の動向のほうが、遠い外国の悲劇より、ずっと興味をそそられるものであるに違いありません。
     逆に云えば、遠い外国で起こっている限り、どんな悲惨な、残酷な、悪夢のような事件も、「大変だねえ」と他人ごとのように云ってスルーできるということ。これが差別でなくて何でしょう。
     倫理的に考えればあきらかに正しくない態度です。しかし――そう、それでは、ひとが取りうる最も倫理的な態度とはどういうものかと云えば、常に、世界中のあらゆる死者のことを嘆いていかなければならない、ということになりますよね。
     「世界にひとりでも不幸なものがいるかぎり、自分も幸せではない」という、ある意味で仏教的とも云える態度ということになるでしょう。これは宮沢賢治や金子みすゞの態度です。
     かれらはその天才的とも云える共感能力によって、ありとあらゆる存在の苦悩を感じ取ることができました。それが人間はおろか、あらゆる生物や、無生物にすら及ぶことはご存知のとおり。
     しかし、それはひととして不可能な態度と云うしかない。じっさい、金子みすゞなどは26歳にして自殺して亡くなりました。
     そのように突き詰めて考えていくと、物語というかエンターテインメントそのものが、人間の非倫理性を反映した「倫理的に正しくない」ものなのではないかというところに行き着かざるを得ません。
     さらにその考え方を先鋭化させていくと、最終的には「人間否定」に行き着きます。人間の不完全さそのものが戦争や差別やあらゆる問題の根源である、というのですね。
     この境地に到達した作家として、ぼくが思い浮かぶのが山本弘です。かれの最高傑作とされる(自分でそう云っていた)『アイの物語』は、人間に対する絶望に満ちています。
     この物語で描かれるのは、人類の衰退と、マシン(自立型ロボット)との世代交代です。ここで山本さんは、人間の愛の不完全さ、その差別性を俎上に上げ、それを超越した「完全な愛」を持った存在としてマシンを登場させています。少なくともぼくはそう解釈しました。
     ひとは上記のような理由で差別的にしかだれかを愛することができませんが、マシンは非差別的に愛することができるということのです。
     その愛が具体的にどのようなものなのか、それは作中で描かれていないので、よくわからないのですが、とにかく山本さんは「そういう愛は、人間には不可能だが、理論的には存在しえる」という立場に立っているようです。ぼくは理論的にも不可能だと思うのだけれど……。
     ともかく、長年、生まじめに人間の愚かしさと向き合ってきた山本さんが、このような「人間否定」の境地にたどり着いたことはよくわかります。
     この物語の結末において、人類は衰退し、最終的には滅亡していくであろうことが示唆されています。ぼくは山本さんは「愚かしい人間より、機械のほうが優れている」と云っているのだと解釈するしかありませんでした。何という絶望でしょうか。
     『ヴィンランド・サガ』でも、覇王クヌートはひとの愛が差別でしかありえないことを嘆いていましたが、まさに同じ理由で、山本弘は人間存在を否定するのです。
     「アイの物語」というタイトルもそう考えるとなかなか趣深い。結局のところ、物語とは愛であり、愛とは物語なのではないでしょうか? 愛も物語も、ともに神ならぬ人間存在の限界を示す概念であり、そして「人間らしさ」そのものです。
     だから、「物語とはある視点から世界を限定的に切り取るものであり、人間の差別精神そのものである」ということが云えると思うわけです。
     それでは、どうすればいいのか。開きなおって「物語は初めからそういうものなのだから、一切、政治的な配力はしなくても良い」と云ってしまうのか。
     しかし、そこまで割り切れるひとはなかなかいない。そこで、作中にエクスキューズを仕込むという手が良く使われます。
     たとえば、アメリカの正義を訴える戦争映画のなかに、「戦争の悲惨さ」の描写を入れておく。そうすると、「ああ、この映画は戦争の悲惨さを訴える視点をちゃんと確保しているのだな。決して戦争を礼賛した映画ではないのだな」と視聴者は安心し、よりシンプルに映画に入り込むことができる。
     つまりは、作品に複数の視点を用意することによって、ひとつの視点からのみ描き込まれることのヤバさを軽減させているのです。
     そういうエクスキューズのある作品が物語として上等である、という考え方はあるでしょう。たとえば、戦争反対の思想を織り込んだ戦争映画は上等だが、「戦争最高! アメリカ万歳! ヒャッハー!」というだけの作品は下等である、と。
     ある意味では納得できる考え方です。物語をそのテーマ性によって判断しているわけですね。しかし、それってくだらなくないか?ともぼくは思うのです。
     そもそも、テーマによって映画の良し悪しが測られるなら、初めから映画など作る意味がない。そのテーマだけを語っていれば良い。少なくともエンターテインメントを志すならそういうことになります。
     どう云いつくろおうと、エンターテインメントの醍醐味は観客の感情を昂らせるところにあるのだから、その「エンターテインメントとしての強度」を無視してテーマ性だけを語ることは本末転倒であるように思える。
     これはたとえば「反原発の思想にもとづいているから良いメッセージソングだ」といった価値観にもひそむ矛盾です。どんなに正しい、偉い思想にもとづいていても、くだらない曲はくだらない。そうではありませんか?
     つまりは、ぼくは思想は思想、エンターテインメントとしての強度は強度で分けて考えるべきだと思うのです。もっとも、ここらへんはむずかしい。それなら、エンターテインメントとしての強度があれば、どんなに思想的に歪んだ作品でも受け容れられるかというと、たしかに悩んでしまう一面はあります。
     ぼくは受け容れられると思うのだけれど、無条件にそうか、と云われると必ずしもそうは云えないかもしれない。悩ましいところですね。
     最近の作品で、巧みなエクスキューズを用意したことで好評を得た作品と云うと、『魔法少女まどか☆マギカ』の劇場版が思い浮かびます。この映画は、テレビシリーズにおいては残されていたある倫理的問題にみごとにエクスキューズを付けました。
     即ち、「まどかの行為の暴力性に対し、製作者サイドは無自覚なのではないか?」という批判に対し、「ちゃんと自覚しているよ」と答えてみせたわけです。
     作中、暁美ほむらはある意味で非倫理的な、邪悪と云ってもいい行動に出ますが、それはあきらかな「悪」として描写されているため、視聴者は不安になりません。ここに倫理的問題は存在しない、悪は悪として描かれている、というふうに考えるのです。
     しかし、ある意味で、この映画そのものが単なるエクスキューズに過ぎなかった、蛇足である、という意見は成り立つでしょう(ペトロニウスさんあたりはこの立場に立つのかも)。
     なぜ、いちいち「倫理的いい訳」を用意しなければならないのか? 口うるさい視聴者から「より倫理的に正しい」と認めてもらうことがそんなに大切なのか? ぼくとしてはそう考えなくもない。
     近頃、その倫理的問題がクローズアップされた作品に、宮﨑駿監督の『風立ちぬ』があります。『風立ちぬ』は、 
  • 世界を地獄と見るか楽園と捉えるか。そのヴィジョンにより、ひとは変わる。(2441文字)

    2013-04-14 01:47  
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     あれ? おかしいな。URLの自動リンクが実装されたのかと思ったけれど、されていないみたいだぞ。でも、一部のURLは自動リンクされているし。どういうこと??? うーん、謎です。
     まあいいや。さて、まあ、今日も頑張って更新していくつもりなのですが、おそらく送られてくる文章の量が膨大すぎて多くの読者さんが一々読んでいられない状況だと思います。
     いわなくてもわかると思いますが、すべて読む必要は全然ないですからね。一応、一定のクオリティは保って書いているつもりだけれど、それでも記事ごとに出来不出来はあるだろうし、興味をひくもの、ひかないものは分かれるだろうから、気になるものだけ読んでもらえればオーケー。
     普通のブロマガのかるく数倍の分量があるので、一部をつまみ食いするだけでも十分値段のもとが取れるかと。もともと月額315円程度ですしね。
     どうしてこんなにひんぱんに更新するかといえば、ひとつにはアクセスがほしいからで、もうひとつには読んでくださる方へのサービスなのですが、「あまりにたくさん送られてきてウザいよ」という方もいらっしゃると思います。
     そういう方はメール配信は切ってブログで読んでもらうといいかも。まあ、ちょっといまのブロマガは一覧性に欠けるのが難点ですが。もう少し過去ログを調べやすいシステムにしてほしいですよね。
     さて、きょう最初の記事はまだ気合が入っていないので(というか、いま深夜なので感覚的にはきのうの続きなのですが)、気軽な話題から入ろうかと思います。まあ、ぼくが最近なんとなく思ったりしたことですね。「世界が本来どうあるべきかに関する認識の差によってひとの態度は変わってくる」という話なんですけれど。
     こう書くと重たい話みたいだな……。そうでもないんですけれどね。どういうことかというと、「世界とは本来どうあるべきものなのか」というヴィジョンがひとによって全然違っているよね、ということです。
     つまり、世界とはもともと地獄のような場所なのだと考えているひともいるし、あるいはそうではなく、世界とは理想的な楽園であるべきものなのだ、と考えているひともいる。そのどちらが正しいというわけではなく、そういうものだよね、ということです。
     政治思想的にいうなら前者が右翼的で後者が左翼的ということになるのかなとも思いますが、はっきりしたことはわかりません。