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記事 355件
  • 奇妙な「男性特権論」を乗り越えるために。

    2022-06-28 10:43  
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     前の記事ではフェミニズムの影響を受けた論者の男性嫌悪的な傾向について書きました。
    https://note.com/kaien/n/n427400ec524c
     男性による男性存在そのものへの嫌悪。それは男性の自慰行為や性的想像力に対する否定として作用します。故に、森岡さんは「感じない男」であることしかできず、あらゆるクィアなそれを孕む性の豊饒さに対し感性を開くことは不可能なのです。
     赤坂真理さんの『愛と性と存在のはなし』では、男性であることに「罪悪感」を感じる若者の話が出て来ます。ここで語られている「罪悪感」とは、杉田俊介さんや森岡正博さんが感じているであろうとぼくが想像する感覚と同質のものであろうと思われます。
     「暴力的」とされる性であり、「特権」を背負っているとされる側であることの後ろめたさ。あるいは罪の意識。自分と同じ性の人間が無神経に異性を踏みにじって来たその歴史を背負って

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  • 男性のオナニーは「自傷行為」なのか? 自己嫌悪的男性論を考える。

    2022-06-23 05:29  
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     「男性論」について考えています。
     より正確には、女性も含めた「人間一般」について考えたいのだけれど、女性と女性性についての論考はフェミニズムによって一定の成果が出ている現状があるのに対し、男性と男性性に対してはさまざまな意味で考察が不足しているように思われる。そこで、とりあえず、まずは「男性論」について考えていきたいのです。
     しかし、あるいはこのように書いただけで、批判の余地があるかもしれません。すでに日本には男性の在り方を問う「男性学」の成果があり、またネットには「弱者」の立場に置かれている男性たちについて語った「弱者男性論」の系譜がある。それらの蓄積を無視するつもりなのか、と。
     もちろん、そうではありません。しかし、ぼくの目から見ると、フェミニズムの主張を無批判に鵜呑みにする感のある「男性学」にせよ、やたらに被害者意識ばかりが強い印象の「弱者男性論」にせよ、そのままでは納得しが

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  • 「食べる」とは何を意味しているのか。

    2022-03-29 17:27  
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     この頃、折にふれ「食」について考えたりします。
     このテーマに関してはいろいろなアプローチがありえるかと思いますが、たとえば「美食」といい、「素食」というときの、その「美味」とはどういうことなのかと考えたりするわけです。
     そしてまた、「食べる」とはそもそもどういうことなのか、とも。
     人間は、そして他のあらゆる生きものもまた、何らかのものを殺して食べることなしには生きていくことができません。
     その性質は、ある意味では「生」という営みに張りついた「原罪」といっても良いでしょう。
     それでは、ぼくたちは「食」という行為をどう受け止め、どう認識すれば良いのか。
     それはどこまでいっても「生」の邪悪さと醜悪さを思い知らせることでしかないのか。それとも、他の可能性があるのか。そんなことを、つらつらと考えます。
     「食べちゃいたいくらい可愛い」といったいい方がありますが、「性」と「食」とは、人間

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  • 人は人を赦すことができるのか?

    2022-03-19 22:50  
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    「でもわたしは赦すの 父上も上皇さまも法皇さまもみんな 赦すだなんて偉そうね でも どちらかがそう思わねば 憎しみ 争うしかない でも わたしは世界が苦しいだけじゃないって思いたい だからわたしは赦して 赦して 赦すの」――アニメ『平家物語』より
     何だかちょっと思い至ったことがあるので、いささかならず長くなりますが、読んでみていただければ、と思います。 どこから話しはじめたら良いか、そうだな、ぼくはいままで「敵」とか「怒り」とか「憎しみ」といった事柄をめぐる問題について長いあいだ考えていたんですね。
     この場合の「敵」とは「自分を殺しに来る存在」というイメージです。直接的に殺すわけじゃなくても、パワハラする上司とか、いじめをしかけてくる同級生とか、Twitterで攻撃してくるアカウントとか、そういう存在が「敵」にあたります。
     幸村誠さんの傑作マンガ『ヴィンランド・サガ』に、「敵なんていないんだ」みたいな話が出て来るのですが、ぼくはそんなのウソじゃん、と思っていたわけですよ。世の中、「敵」ばかりじゃん、と。
     話題騒然の少年漫画『タコピーの原罪』を、ぼくが特に面白いと思わないのは、あれはようするにこの世界のありのままの姿をそのままに描いた、ただそれだけの作品だと思ったからです。
     たしかにぼくのいうところの「戦場感覚」の作品ではあるけれど、「それ以上の何か」がないと、ほんとうの傑作とはまでは思わないかなあというのがぼくの評価でした。
     あの作品に出て来るしずかちゃんにしろ、まりなちゃんにしろ、よくわかるんですよね。だれかが自分を、あるいは自分の大切な存在を「殺しに来ている」とき、仕返しに殺そうとするのはあたりまえのことじゃないのか。ぼくはそう思う。思っていた。
     それが「敵」という概念。そう、たとえば、だれかが自分の大切な家族や恋人や友人を殺したとき、あるいは自分を殺そうとしてきたとき、それでもあいては「敵」ではない、といえるのか。
     アニメ『平家物語』の徳子はすべての被害を一身に受け止めて「わたしは赦す」というのだけれど、本当に人間に「赦す」なんてことができるのか。できるとして、「赦した」人間はその分の負債を負うだけではないのか。その理不尽。
     アパルトヘイト後の南アフリカで被害者の「赦し」によって加害者の罪を減じる「真実和解委員会」という裁判形式があるらしいのだけれど、人が人を「赦せ」るなんてぼくには信じられなかった。
     たとえば、いま、ウクライナで家族を殺された人たちは、ロシアを、あるいはプーチンを赦すことができるのか。仮にできるとしても、なぜ赦さなければならないのか。そういうようなことを、ずーっと考えていました。
     ベストセラーの『嫌われる勇気』によると、アドラー心理学には「共同体感覚」という概念があるといいます。これはすべての人を、人以外の宇宙すべての存在までも「仲間」だと捉えるその先にある感覚だと説明されます。しかし、あきらかな「敵」を「仲間」だと考えることなど本当にできるのか。
     ぼくはそこをほんとにずーっと疑っていたわけです。ぼく自身、「どうしても赦せない」と思う相手はいくらでもいたし、そういう「敵」のことを「仲間」だと捉えることはできそうにない。
     その「怒り」や「憎しみ」は限りなく苦しいのだけれど、一方で相手が「自己正当化」し、自分自身をだまして自分を「絶対の正義」だと考えていると思うとやはり腹が立つ。そのように「自己欺瞞の箱」に入っている人間のほうがよっぽどラクできているじゃないか、と考えたわけです。
     そういうことを延々と、かつ悶々と考えつづけて、もうへたすると10年くらいになるかな。で、考えに考えたあげく、結局、ぼくもやっぱり「敵」はいないのかもなあ、というところに考えが至るようになりました。
     ここから先はちょっと遠くから話をすることになりますが、この世界は、「自分」と「自分以外すべて」に分けることができますよね。で、「自分」はある程度のところまでコントロールできる一方で、「自分以外すべて」はほとんどコントロールできない。
     したがって、そのコントロールできない存在のなかで、自分に益をもたらす者を、ぼくたちは「味方」だと思い、害をもたらすものを「敵」だと考える。そういうことなのだと思います。
     しかし、よくよく考えてみると、じっさいには、ほんとうに「敵」と「味方」がいるわけではなくて、「自分以外」の存在はその人の意図や利益に従って動いているわけです。その結果、衝突や軋轢が生まれるに過ぎない。
     『ヴィンランド・サガ』における「敵なんていないんだ」というのはつまりこういうことだと思う。そこまではぼくも理解できる。納得できる。
     でも、それでも、非戦を望む『ヴィンランド・サガ』の主人公トルフィンに対しては「それでは、自分の家族や恋人を殺されても怒らないのか。憎まないのか」という風に突きつけてやりたいと思ってしまう。そこに欺瞞があるんじゃないのか、と思っていたんですよね。
     しかし、ぼくはいま、わりと自分の「敵」に対して怒ったり憎んだりする気持ちが薄れてきているのを感じる。いままでどうしても手放せなかったその「執着」が少しずつ薄くなってきているというか。その前に何年にも何十年にもわたる歳月があるんですけれどね。
     ぼくは中学生時代にかなりひどいいじめにあっていて、それからずっと消せない「怒り」と「憎しみ」を抱えていたような気がします。そしてなぜぼくがこんな不当な、理不尽な目に合わなければならないのかという、「運命と世界に対する敵意」も。
     でも、40歳を過ぎて、人生も半分終わったいまになって、やっぱりこの世界に「敵」はいないということなんだろうな、と腑に落ちた感じがするんですよね。
     たしかにぼくに、あるいはぼくの大切な存在に加害してこようと来る人はいる。そういう人はいかにも「悪意」と「自己正当化」で凝り固まっているように見える。そういった存在に大して無防備でいたら殺されてしまう。
     それは事実でしょう。たとえば、まさにウクライナがロシアに対して無抵抗ではいられないように。もし無抵抗なままでいたら自分自身はもちろん、自分にとって大切なあらゆる価値を奪われるわけですよね。それを許すことはできない。
     いま、ウクライナの多くの男性たちは、あるいは女性たちまでもそうかもしれませんが、次々と勇敢に義勇兵となって最前線で命がけで戦っているようです。
     この行為を非難することはできないでしょう。自分の国を、領土を、家族を、愛するものすべてを加害者から守ろうとすることは完全に正当だとぼくも思います。このとき、戦わなければ、立ち上がらなければ、何ひとつ残らない。戦うべきだ。
     しかし――それでも、なお、ぼくはこの世に「敵」などいないとも考えるようになりました。つまり、ロシアは、あるいはプーチンは、ウクライナ人にとっての「敵」ではないと考えることができるということです。
     それはどういうことか。ようするにこの場合の「敵」国、「敵」軍に対して、戦い、退ける必要はあるけれど、だからといってべつだん、「怒り」や「憎しみ」を持って立ち向かわなければならないとはかぎらないということなのです。
     おそらくこれはいかにも欺瞞的な話に聞こえることでしょう。「怒り」や「憎しみ」を持たずして、人が人を殺し領土を守ることができるものなのか、と思われても無理はありません。
     しかし、ぼくはいま、「できる」と考えています。「戦う」、「立ち向かう」、「抵抗する」という行為が「敵」へのどす黒い「怒り」や激しい「憎しみ」に彩られていなければならないわけではない。
     むしろ、人は自分の「怒り」や「憎しみ」を正当化するためにこそ、相手を「敵」とみなすと考えるべきではないでしょうか。あいつは殺されてもしかたない邪悪な存在なんだと思わなければ、たとえ殺されそうになっても、殺し返すことはできないのではないか。
     しかし、当然ながら、ひとりひとりのロシア兵、あるいはすべての大元であるプーチン大統領ですら、「悪」とレッテルを貼って済ませられるほど単純な存在ではありません。かれらにはかれらの理路があり、正義があり、欺瞞があり、執着があるのです。
     ぼくは「だから、お互いさまだ」とか「かれらを赦すべきだ」といっているわけではありません。かれらにどんな理屈があろうと、それでも殺し、退けなければならない。そういう局面は現実にある。それが戦場というものでしょう。この世の地獄。
     あるいは、かつてぼくが「戦場感覚」というタイトルの本でそう考えたように、この世界そのものが戦場のメタファーで捉えられるかもしれません。人と人の利益は対立しあうもので、しばしばだれかを殺さなければ生きていけないのが現実。この世は戦場。この世は地獄。そうではないでしょうか?
     ぼくはそう思うんですよね。いじめられっ子がいじめっ子に対し抵抗しなければ自殺にまで追いやられるでしょう。ロシアに対するウクライナがそうであるように。まりなちゃんに対するしずかちゃんがそうであるように。
     だから、人は戦わなければならない。だれかを殺して自分を、そして自分の大切なものを守らなければならない。そういうことは実際にある。それは「善悪」では捉え切れないこの世の絶対の真実、いわば「グランド・ルール」である。そう受け止める。
     その「大宇宙の黄金律」ともいうべき絶対のルールは人には変えられない。それは神さまがこの宇宙を生み出すときに決めたことなのであって、人にはどうしようもないことであるように思われます。
     だから、人は戦い、殺しあわなければならないことがある。それはマクロな「戦争」というレベルでもそうだし、ミクロな「教室」、あるいは「家庭」というレベルでもそうです。殺さなければ、殺される。そのとき、ぼくたちは「殺す」ことを選択せざるを得ない。
     『ヴィンランド・サガ』にしろ、あるいはその前の『プラネテス』にしろ、やはりその点はまだ突き詰めが甘いように思われる。
     生きていればどうしたって殺すか、殺されるか、あるいはその選択肢そのものを避けて逃げすべてを喪うか、選ばざるを得ないときがあるのではないか。それは人間にはどうしようもない「摂理」なのでは。ぼくはそういう風にしか捉えられない。
     ぼく(たち)はそういう戦場のような世界に生まれ落ちてしまった。それが現実。そうなら、絶望するしかないのか。あるいは、どうにか適応し殺しあいを続けるか。さもなければ、「争いをやめられない人間は愚かだ」とひとり高みに立ってうそぶくのか。
     そうではない、といま、ぼくは思う。人には、争い、戦わざるを得ないときがある。ただ、それでも、その過酷なルールによって縛られた「この世界」に対しどう考え、受け止めるかは選ぶことができるのだ、と。
     目の前の相手を、究極的にはこの世界そのものを憎むべき「敵」として捉えるか否か、それは自分の意思で選択できる。そして、その選択こそが、人間のもつ唯一にして最大の崇高さなのではないでしょうか。
     現実として、だれかと戦わなければならないときはある。だれかと殺さなければならないときはある。しかし、それでも、そうだからといって「漆黒の敵意」に捕らわれる必要はない。ぼくたちは自ら選ぶことができる。
     相手を「邪悪な敵」と見做して単純化し、「怒り」や「憎しみ」に塗りつぶされるか。あるいは「不運にも対立することとなった同じ人間」と見做して「哀しみ」や「憐れみ」を抱くか。
     そう、人はだれかを「憎む」かわりにこの世界の摂理を「哀しむ」ことができる。
     相手はあなたを殺そうとするかもしれない。それどころか、あなたのいちばん大切なものをののしり、嘲り、揶揄し、踏みにじるかもしれない。それに対しては、抵抗しなければならないでしょう。しかし、だから相手を「敵」と見做し憎むかどうかはべつだ。
     ぼくたちは「憎む」かわりに「哀しむ」ことができる。それはいかにも「女々しい」ことに見えるかもしれない。「弱々しい」態度に思われるかもしれない。じっさいそういう側面はあるでしょう。
     そもそも、自分の持っているものを命にかけてでも守り通さなければならない、その意識がいわゆる「男らしさ」の起源だと思われます。それは男たちにとって最大の誇りであるあると同時に、一方で「有害な男らしさ」といわれるものの源泉でもあります。
     ソーシャルメディアを見ていると、しばしば「いざとなったら戦うのは男なのだ」といった意見を見かけます。これは一面で反論しがたい理屈であるように思える。そしてまた、「だからこそ、この世界から争いがなくならないのだ」ということも本当でしょう。
     怒りに怒りを、憎しみに憎しみを返しつづけるかぎり、争いはなくならない。だからといって、「敵」を「赦す」ことはあまりにもむずかしい。ぼくたちはどうしようもないジレンマに捕らわれて「だから結局、戦うしかないのだ」というところに追いやられていく。
     それはある意味で、正しいことなのかもしれない。何度も繰り返しますが、「戦わざるを得ない」、あるいはそうでなければすべてを失うことを覚悟しなければならない局面は、この世界で生きる限り、かならず存在するのです。「無抵抗」は即ち死を意味します。
     だから、ぼくは「戦い」を否定しない。「戦士としての生き方」を、「直接的、間接的な殺人」を否定しない。ただ単に「人殺しはやってはいけない悪いことなのだ」といっても、問題は解決しないからです。
     ですが、どうしてもこの戦場のような世界で戦士として生きなければならないというのなら、だれかと戦い退けつづけなければならないというのなら、せめて「高潔なる戦士」であることを選びたい。
     「激しく煮えたぎる漆黒の憎しみ」ではなく「かぎりなく深い藍色の哀しみ」を抱き、そうであることに耐えつづけながら戦うこと。決して「怒り」や「敵意」に逃げずに争うこと。守ること。抗うこと。それがぼくが考える「戦場感覚」の一つの答えです。
     怒るのではなく、憎むのでもなく、哀しみを哀しみ尽くすこと。そのとき、初めて多くの「男性」たちは、「自分は女子供を守るため戦っているのだ」という強い自負とうらはらの「弱々しい存在」への蔑みと見下しを乗り越えることができるでしょう。
     この世は修羅の、戦いの世界。それはその通りです。しかし、それでも、この世界に「敵」はいない。「敵」とは、人の心が作り出す幻想でしかない。いるのは、不幸にも戦わなければならなくなった誰かほかの人間だけ。その哀しみを哀しもう、とぼくは思います。
     おそらく、そのとき、人はだれかを「赦す」ことができるのではないでしょうか。ぼくはそういうふうに感じる。で、ぼくもようやく30年間くらい抱えていた「怒り」を捨て、初めて「人を赦す」ことができそうに思います。
     この世にはたしかに僕を殺そうとして来る存在がある。嘲り、罵り、踏みにじろうとする者もある。それは「敵」のようにも思える。しかし、そうしたければ、そうするが良いでしょう。それはぼくのコントロールできない領域だ。
     たしかにそのとき、ぼくは自分と自分の大切なものを守るため、立ち上がるしかない。戦うことを選ぶしかない。しかし、ぼくはそれでも相手を憎まない。蔑まない。決めつけない。それは相手のためではなく、自分自身の尊厳のために。少なくともそうしたいと思う。
     あるいはこの宣言自体が傲慢そのものかもしれませんが、ぼくは「戦い」、そして「赦す」だろう。それはこの戦場のような過酷で残酷な世界をも赦し、そしてその世界と「和解」を遂げることでもある。 そのとき、ぼくは自分の生を祝福することができるだろう。この世界に生まれて来て良かった。何の衒いもなくそういえるだろう。それが、それこそが、「戦場感覚」。
     と、そのようなことを考えました。いかがでしょうか。もし、ご意見があれば、よろしくお願いします。では。 おしまい。 

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  • ToDoリストに「生きる」と書き込む。

    2022-03-14 19:00  
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     どうも、おひさしぶりです。数ヶ月にわたってブログを休止してしまって申し訳ありません。
     そのあいだ何をしていたかというと、べつのブログを運営していたりしたのですが、さすがに良心が痛むのでこちらのブログを更新しようと思います。
     今後は定期的に更新することをめざします。まあ、いいかげんもはや信用してもらえないかもしれませんが……。
     さて、ぼくが無意味に日々を過ごしているあいだに、コロナ禍は何度目の流行と終息を見せ、ロシア軍はウクライナに侵攻し、世界はまるで違うところに変わってしまったわけですが、その最中、ぼくはいつものごとく自分の無為さにうんざりしていました。
     こうも無気力な日々を送っていると、さすがに改善して計画的な人生を送ろうと思うわけですが、どうにもうまくいかず、あい変わらず無価値な毎日が続くばかり。
     そこで考え出したのが「ダメ人間ライフハック」という方法論でした。
     ダメ人間ライフハックとは! ダメ人間が、ダメ人間のままより良く生きていくやり方のことです。
     ダメ人間をやめられないのなら、どうにかダメなままで状況を改善できる方法がないかと考えたわけです。
     そこでまず、「ダメ人間ToDoリスト」なるものを考えつきました。これは通常のToDoリストアプリを使うやり方なのですが、ふつうと違うのは日常生活のありとあらゆる些細なことまでリストアップすること。
     「顔を洗う」とか「体重計に乗る」ということまでいちいちリストに入れることによって、そういったことを「習慣化」しようとしているわけです。
     何しろ、ダメ人間はこういったことすらも時に忘れがち。自宅にひきこもっているとなおさらです。
     で、これは効果がありましたね。ふつうの人にはばかばかしいものとしか思えないかもしれませんが、このリストによって自分の日常の習慣の一々が可視化されたわけです。それには大きな意味がある。
     ちなみに、このリストのいちばん上には「生きる」という項目が入ります。この項目はとりあえず毎日起きた瞬間にチェックできるわけで、「ただ生きているだけで価値がある」ことの確認になる。それは自己肯定感にとって大変に良い作用があるのですね。
     「ダメ人間ToDoリスト」、ぼくはスマホが起動するのと同時に起動するように設定しています。なかなか計画的に行動できないという人にはオススメのやり方ですね。
     しかし、そうやって「ダメ人間ライフハック」について考えているうちに、そもそも「ダメ人間」という概念そのものに疑いを感じ始めて来ました。
     ぼくはほんとうに「ダメ人間」なのだろうか? それ以前に、「ダメ人間」としかいえない人間と「普通の人、あるいは立派な人」がいるという考え方は正しいものなのだろうか、と。
     たしかに、弱い人、ダメな人と強い人がいることは一見すると自明に思えます。トップアスリートやアーティストのように、強い意志をもって一貫して夢を追う人間がいる一方で、すぐに挫折して投げ出す人もいることはたしかです。
     この「意志力」、あるいは「自制心」、専門的には「実行機能(エグゼクティヴ・ファンクション)」などと呼ばれる能力を調査した試験に、有名な「マシュマロ・テスト」があります。
     これは子供たちの自制心をお菓子のマシュマロによって調べた調査で、数十年にわたって継続的に調べられた結果、「実行機能」の強弱が人生を大きく左右することがわかりました。
     つまり、子供の頃、目の前のマシュマロを我慢できるような人間は長じても成功する確率が高いということです。
     これはいかにも救いのないあたりまえの結論とも思えます。ようするに子供の頃から意思が強い人間と弱い人間は決まっていて、それで人生は決まってしまうのだ、とも思われるからです。
     ですが、じつはこの「意思の力」によるセルフコントロールはさまざまな方法によって強化することができるらしいのです。
     単純に遺伝や環境によってすべてが決まってしまうというわけではない。
     辛い状況に耐え、努力し成長しつづけるような行為は単純に「意志力」によって成し遂げられるというよりは、具体的な方法論があると考えるべきでしょう。
     ある人にとって快適な状況を「コンフォート・ゾーン」と呼ぶのですが、人間は成長するためにはその「コンフォート・ゾーン」から出て厳しい状況に耐えなければなりません。
     たとえば、バスケの選手として大成するためには地味なシュート練習が必要になります。
     そのとき、耐える力はいかにも「根性」とか「意志力」によって決まって来るようだけれど、じつは必ずしもそうではないということ。
     この「コンフォート・ゾーン」はたとえば真冬のこたつに喩えることができるでしょう。
     ぼくはそれを「こたつ理論」と呼んでいるのですが、つまり欲しいものはこたつの外にあって、それらを手に入れるためにはこたつを出つづけなければならないというわけです。
     しかし、いったんこたつに入ってぬくぬくしてしまうと、その外に出るためにはものすごい力を必要とすることは、皆さんご存知のことだと思います。
     したがって、たしかにここから素直に考えるとこういう理屈になりそうです。「こたつ」の外に出て寒さに耐えることができる人は意思が強い立派な人だ。反対にいつまでもこたつでぬくぬくしている人間は意思が弱いダメ人間である、と。
     ところが、この考え方はやはり一面的なのです。この見方だと、快適な「こたつ(コンフォート・ゾーン)」の外に出て活動するモチベーションの有無を属人的に考えています。
     つまり、人間には、イソップ童話の勤勉なアリと怠惰なキリギリスのように、勤勉なタイプと怠惰なタイプがいる、と。いかにもあたりまえのことのようにも思える。
     ですが、心理学的に見ると、必ずしもそうとはいえないらしい。
     いわゆる「モチベーションの心理学」によると、人間の行動のモチベーションはその生涯で何千回、何万回となくくり返される「学習」の成果が大きいとか。
     つまり、あるアクションを取ったとき、成功や賞賛という「正の報酬」を得られた人は「努力は報われる」と「学習」し、「自分ならできる」というポジティヴなアイデンティティを獲得、そのアイデンティティにもとづいてさらに努力するという好循環が働く。あるアクションで失敗した人はそのまったく逆というわけ。
     ようは意志の強い人と弱い人、勤勉な人と怠け者、アリタイプの人間とキリギリスタイプの人物がいるのではない。すべては人生を通し、何千回、何万回とくり返された「フィードバック・ループ」という名の「学習」の結果である、と考えられるわけです。
     思うに、いわゆる「社会的ひきこもり」はネガティヴな「フィードバック・ループ」が習慣化した最も極端な形だといって良いでしょう。
     「自分には問題を解決できる能力がある」という感覚を「自己効力感」といいますが、ひきこもりの人間はその自己効力感がかぎりなく低下し、ひたすら「自分はダメな人間だ」とか「何の能もないんだ」という極端な「メタ認知」に陥ってそれがアイデンティティになる。
     そしてその結果としてより行動するモチベーションが下がっていくということになっているわけです。
     良く人は習慣の動物だといわれますが、「負の学習」をもたらす「悪い習慣」のくり返しが常態化した結果がひきこもりだともいえるでしょう。
     ぼく自身がそうだからいうのですが、こういうひきこもりに対し「あなたにだってできることはある」などと口先でいってみても、あまり意味がない。なぜなら、体験による「学習」が強烈すぎて、単なる言葉はむなしく響くからです。
     結局のところ、体験は体験によって上書きしていくしかないのではないでしょうか。
     そのために先述のダメ人間ToDoリストに書くような「小さな習慣(ミニ・ハビッツ)」が重要だと思うのですね。
     で、究極的には「生きる」ことが「最小で最優先の習慣」なのではないかとぼくは考えます。「生きている」ことが人生の最大の成果ですよね。
     「顔を洗う」とか「体重計に乗る」といった「小さすぎる習慣」をいちいち確認することはいかにも無意味に思われるかもしれません。だれでも毎日、なかば無意識にやっていることですから。
     しかし、じっさいやってみると、このToDoリストによる確認には意味があることがわかります。少なくともぼくにとっては大きな意味がありました。
     アメリカの心理学者スキナーが提唱した「スモールステップの原理」のように、小さなステップで現状を改善していくことが大切なのだと思います。
     弱小だったイギリスの自転車チームをツール・ド・フランス優勝にまで導いたといわれる1%の改善の積み重ね、「マージナル・ゲイン」も同じことですね。
     わずかな積み重ねが「複利」でたまっていくと、信じられないような大きな効果に至ることがありえるということ。
     これはぼくがバイブルにしている『ベイビーステップ』の主人公エーちゃんのやり方でもあります。
     ひたすら目の前だけを見て少しずつ少しずつ成長していく。そのやり方はいかにもカメの歩みとも見えますが、その実、最速の成長をもたらすのです。
     もちろん、その反対に最初に大きな目標を掲げてそこへ向け邁進する方法もあるでしょう。たとえば『ONE PIECE』のルフィのように。
     まだ何者でもない頃に「海賊王のおれはなる!」と宣言し、少しずつその領域に近づいていくかれを見ていると、大きな夢を掲げることは素晴らしいことのように思われて来ます。
     しかし、よくよく考えてみると、海賊王になることを目ざしているのはべつにルフィだけではないのですよね。
     レースに参加する者はだれもが勝利を目ざしているわけで、大半の海賊が海賊王を目ざしているといっても良いはず。
     ということは、その上で勝敗を分ける条件は「大きな夢を掲げているかどうか」ではないわけです。
     勝利とか成功とは膨大な「スモールステップ」の実践によってたどり着くもの。そして初めに大きな夢を掲げるほど、「圧倒的な才能の違い」といったものに打ちのめされてしまいがちです(いわゆる「グレートネス・ギャップ」)。
     最近、何らかの成功や達成のためには「グリット」というものごとをやり通す力が重要だといわれるようになりました。
     その「グリット」を持続させるためにはやはり「スモールステップ」で成長することが必要なのではないでしょうか。
     塊を小分けにしていくように課題を細かくしていくことを「チャンクダウン」といいますが、ある大きな問題を解決するためにはその「チャンクダウン」と「マージナル・ゲイン」が必要なのです。
     そして、大切なのは「スモールステップ」を日常的に実践し「つづける」ことであり、そのためには「習慣化」が必要になる、と。
     たぶん、この「習慣化」を「意志力」の問題であるかのように考えてしまうとうまくいかないのでしょうね。
     その他にも色々と資料を読み耽ったのですが、「意志力」という概念は非常にあいまいです。
     何度もいいますが、一見すると相対的に意思が強い人間、弱い人間はいるように思えるし、じっさいに遺伝的に強力な「実行機能」を持つ人がいることもわかっているらしいのですが、しかしそれがすべてではないことも「マシュマロ・テスト」などによってわかってきた事実なのです。
     すべての鍵は「習慣化」にある。何もかも毎日の習慣によって決まってきます。
     たしかに「知能指数」や「身体能力」にはそれぞれ大きな遺伝的な格差が存在するでしょう。すべての人が同じだけの潜在能力を持っていて、「才能」なんてものは存在しない、とはとてもいえそうにない。
     ですが、その人のポテンシャルを限界まで引き出すのはやはり「実行機能」によるセルフコントロールの問題なのです。
     また、そのポテンシャルそのものが行動によって変化する可能性があります。知能には成長の余地がなく、あらかじめ決まっているという考え方を「固定的知能観」というのに対し、知能にも変化と成長の余地があるという考え方を「拡張的知能観」といいます。
     で、「拡張的知能観」で自分を捉える人のほうがより早く成長しやすいともいう話もあります。
     ただ、そうやって成長することができても、自分を制御できなければ、どんなに成功しても最後には破滅が待っている。そのことは、スキャンダルで失敗した有名人などを見ていれば歴然としていることでしょう。
     とはいえ、人間は自分を制御し切れないものでもあります。人間が必ずしも合理的な行動を選択するわけではないことは、行動経済学などでも語られている通りことですが、ぼくはそれは必ずしも悪いことではないと思う。
     たしかに諸々の「依存症」のように、まったく自分をコントロールできなくなってしまうことは人生にとって大きなマイナスです。
     ある程度は自分を制御して生きていく必要がある。それはたしか。
     そして、そういう「実行機能強者」がより良い人生を歩みやすいことは「マシュマロ・テスト」の結果を見てもあきらかでしょう。
     しかし、それでは人生において、そのような「成功」や「達成」がすべてなのかといえば、ぼくはそうは考えない。
     およそ世間で流通している「成功哲学」や「自己啓発」は「自分をうまく制御して成功を目ざしましょう」と誘いかけてくるものですが、その価値観はどこか安っぽく薄っぺらいものがある。
     仮に人生の「目標」がカネや地位というわかりやすい成功だとしても、人生の「目的」はカネでも地位でも名誉でもないとぼくは思います。
     ルフィにしても、「海賊王になる」ことは「だれよりも自由に生きる」という目的にたどり着くための目標に過ぎないといっても良いはず。
     「努力」と「成功」だけを良しとする価値観は、どうしても失敗した人に対する差別や蔑みにつながります。
     けれど、人間は単なるプログラムに従って動くロボットではない。人間というあまりに複雑な存在の意志には、どうしても自分の力ではコントロールし切れないなぞの部分が残るはずです。
     ぼくはそれを「魔が差す」という表現から採って、「魔(デーモン)」と呼んでいます。
     京極夏彦の『魍魎の匣』では「魍魎」と呼ばれていましたが、同じような概念だと思います。
     人の心にはつねになぞめいたデーモンが住んでいて、善にせよ、悪にせよ、思いもかけないようなことを囁きかけてくる。それが人間の奥深さではないでしょうか。
     文学にしろ、哲学にしろ、このデーモンの存在を前提としているからこそ意味があるのであって、人間がただしゃにむに自己利益だけを目ざす存在でしかないのなら、そもそもそんなものは必要ないということになると思います。
     ここからいまは亡き立川談志の「業の肯定」という落語論と、『文七元結』における「利他」と「贈与」の話につなげ、ジャック・アタリの「合理的利他主義」や、親鸞聖人の「自力」と「他力」を巡る話に持っていきたいのですが、さすがに長くなってきたのでまたあらためて語ることとします。
     究極的には「良い人生(グッドライフ)」とは何か?というテーマに回帰する話題でしょう。
     次はここら辺をプラトンとかニーチェとか『夜と霧』あたりを参照して語ることとしたいと思います。よろしくお願いします。では。 

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  • 結婚の夢と現実を描く映画『ストーリー・オブ・マイライフ』が傑作。

    2021-06-10 23:51  
    300pt
     映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』を観た。観てしまった。
     タイトルの通り、オルコットの名作『若草物語』の映画化である。ぼくはあまりくわしくないが、過去、何度も映像化されている作品であり、日本でも「名作劇場」枠でアニメになっている。この映画はその最新のバージョンというわけだ。
     ただ、現代において、古典的な傑作を映画にする以上は、何かしら新たな解釈を求められる。だからぼくは最初、さてお手並み拝見といった感じで余裕しゃくしゃくに観ていたのだが、シリアスなテーマが浮かび上がって来るにつれてしだいに余裕がなくなり、最後には真剣に観入った。
     いやあ、これは素晴らしいですわ。まさに現代の傑作。ハリウッド映画ってまだこんなに美しい映画を撮れるのだなあ。凄い。
     物語の基本的な骨子は良く知られている『若草物語』そのままだ。メグ、ジョー、ベス、エイミー。それぞれ異なる個性を持つマーチ家の四人姉妹の少女時代が暖かな映像とともに綴られる。
     この四人の性格描写が絶妙で、長女としての責任を感じ大人びたメグ、奔放で破天荒なジョー、内気でおとなしいが優しい心を持ったベス、しょっちゅうジョーと喧嘩している勝ち気で頑固なエイミーと、四者四様のキャラクターが丹念に描かれていることはご存知の通り。
     しかし、この映画ではただオルコットの『若草物語』をそのまま再現するに留まらず、彼女たちの過去(少女時代)と現在(大人になってから)を交錯させながら描写することで、女性の生き方のむずかしさを描き切っている。
     女性の幸せが「結婚」にしかないと見られていた時代、自由な生き方を貫くにはどうすれば良いのか? はたしてほんとうに愛さえあれば人は幸せになれるのか?
     「愛」という感情と「結婚」という制度から構成されるいわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーに正面から疑義を突きつけていく展開は、まさに端正なフェミニズム映画といって良いだろう。
     もっとも、必ずしもそのような頭でっかちな解釈で見る必要はないかもしれない。何といってもそれぞれ負けず劣らずに美しく可憐な四人の少女たちを見ているだけで楽しい。
     長女メグを演じたエマ・ワトスンを初め、あたりまえのようにハリウッド映画らしい美人女優がそろっていて、きわめて花やかな映画である。
     ただし、『若草物語』のストーリーをまったく知らないと、過去と現在が錯綜する内容、特に序盤はいくらか混乱する可能性がある。おそらく、制作側は観客が『若草物語』の筋書きをそれなりに知っていることを前提に映画を作っているのだろう。
     そこは欠点といえば欠点なのだが、映画全体の素晴らしさを考えればささやかな瑕疵に過ぎない。これから観る人はひとつの愉快なエンターテインメントを観るつもりで気軽に鑑賞してほしい。
     物語の実質的な主人公は作家を目指すジョーである。四人姉妹のうち最も男まさりで自由闊達な性格をした彼女は、作家として身を立ててひとりで生きていくことを望んで幼馴染みのローリーのプロポーズも断わってしまう。
     だが、どうにかニューヨークに出て作家にはなったものの、「刺激的な」作品を求める編集者に合わせ、どうしようもなく俗悪なストーリーを綴る日々が続いている。
     いったい自分は何をやっているのか? 心中では疑問に思いながらも家族を養うためといいわけして自分の心をごまかしつづける彼女のもとに、妹のベスが病に臥せっているという報せが届く。ジョーは仕事を投げ捨てて家に帰るのだが、というところから物語は始まる。
     そこに昔日の家族の想い出の回想がインサートされていくわけだ。そのジョーたちの少女時代は全体に暖かな色調で描かれているのだが、一方で「現在」は寒々としたカラーが貫かれている。
     四人が四人とも、貧しい生活ではあっても、それぞれに自由で素直でいられた少女時代と、それぞれ生活の現実に追い立てられている大人時代が対比されているのである。
     そういう意味では、ロマンティックなラブストーリーに終始する作品ではまったくない。むしろ、「アンチ・ラブストーリー」といったほうが良さそうですらある。
     そう、全体を通して観てみると、この映画のテーマはあきらかだ。女性にとって「自由」と「結婚」は矛盾する、自由でありつづけたいと願うなら安易に結婚したりしてはいけないということなのである。
     ジェンダーフリーやリベラリズムが浸透し、女性もまたさまざまな生き方を選択できるようになった現代でもなお、どうしても愛や結婚に夢を見がちな女性たちに向け、シビアな現実を突きつけているといえるだろう。
     いや、ほんとうに凄い映画だ。感心したし、感動もした。しかも、物語そのものは単純に面白いのだ。うーん、素晴らしい。
     さて、この先は映画のクライマックスのネタバレを含みます。また、ここからは300円の有料部分となっているので、その点、よろしく。サブスクリプションに入会してもらうとこの記事はもちろん、他の記事の有料部分も読めます。 
  • 「生きものに感謝して食べる」って変だよね?

    2021-06-08 06:16  
    300pt
     いま、YouTubeで配信されている『100日後に食われる豚』という動画が話題らしい。
     「らしい」と書くのは、ぼくがこの動画にたいした興味もなく、きちんと調べてもおらず、くわしいことを知らないからである。
     タイトル通り、100日後に殺して食べる予定の可愛い豚の姿を配信しつづける動画らしいのだが、ほんとうにまったく興味が湧かないので、詳細に検索するつもりにすらならない。
     ウケ狙いのアイディアとしてはよくできているし、それはたしかにバズるだろうとは思うけれども、他人の動画がいくらバズったところでぼくには1円も入って来ないからね。まあ、どうでもいいといえばどうでもいい。
     が、この動画を巡る言説には興味がある。ぼくが見るところ、否定的意見としては「悪趣味だ」というものが多く、逆に肯定的意見には「食育として意味がある」といったものが多いようだが、両者ともじつに面白い。
     なるほど、こういう動画に対してはそういうふうに考えるのが一般的なのだなあ、と感心させられる。みんな、意外と善良なのか、それとも動物に対しては人間に対してほど非情になり切れないだけなのか、どっちなんだろ。
     ちなみに、この企画に携わっている某企業の社長はインタビューでこのように語っている。

    S社長 いま流行っているSDGs(持続可能な開発目標)の中に、食品ロスをなくそうという目標があります。教育の現場や企業など様々な取り組みがありますが、その取り組みの意義を十分にPRできていないと見ています。楽しんでもらいながら、食品ロスに関して自分たちの行動を見直すきっかけをつくってもらいたいと思い、企画しました。私たちが食べているものの中にある命の尊さを考えてもらいたいと思っています。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/5e6869fdb456eb473eaa4282ff2ddfa230bf17ad

     ふむ、「命の尊さ」と来たか。何だろ。べつに食べても食べなくてもどっちでもいいとは思うのだけれど、こういう露骨に白々しいことはなるべくいわないでほしいですね。
     さすがにここまで胡散臭いことを堂々と語られると、ぼくのなかの消えやらぬ中二病ゴコロが反発しだしてしまう。
     いや、だって、ほんとうに命が尊いというなら、その尊いものを殺して食べちゃダメでしょ。尊い、尊いといいつつ一方的に生き物を殺害して美味しく食べちゃう行為にはどう考えても矛盾があるのでは、と思うのだ。
     ただ、もちろん、ぼくはだからこの豚を食べるべきではないとか、もっというなら人間は肉食をやめるべきだとか、そういうことをいうつもりはさらさらない。また、自分自身も肉食をやめようとは考えない。だって、焼き肉も唐揚げも美味しいものね。
     単に「命の尊さ」を掲げながら一方でその尊い命を食べることにはどうにも無理があるのでは、と感じるだけなのである。
     もっとも、このように語るとすぐに反論が返って来そうではある。そうではない、ここでいう「命の尊さ」とは、命のことを尊いと感じる知性を持ちながらも、それを食べることなしでは生きていくことができない人間が感謝の気持ちを抱きつつ命をいただくことを指しているのだ、命を尊いと感じることと命を感謝しながらいただくことは、べつだん何も矛盾していない、とか。
     そう、「命の尊さ」が云々と語るとき、必ず出て来るのがこの「感謝」というフレーズである。上記のインタビューにもこの言葉が登場する。

    ――「かわいそう」というコメントもありますね。
    A 想定の範囲内です。動画を投稿し始めたときは低評価が多かったのですが、4日昼時点での高評価は最大で92%、低いものでも66%です。視聴者の視点も変わってきているのかなという印象です。コメントでも「ブタはいつも食べているし、命に感謝しないといけない」、「いただきますを心を込めて言いたくなった」という感想が増えています。

     つまり、そこには何やら、人間は生き物のたったひとつしかない命をいただいているわけなのだから、その生き物に対するありがとうという気持ちを持って食さなければならない、という道徳があるらしいのだ。
     だが、あるいは申し訳ないことかもしれないが、ぼくはこの種のモラルもかなり怪しいシロモノだと考える。そもそも「いただきます」とはいうものの、ぼくたちが動物から命を「いただいて」いるというのは大いなるウソだろう。
     「いただく」とは「もらう」の謙譲語である。人間に食べられる動物たちはだれも「ぼくの命をあげるよ」などと許可を出してはいないのだから、人間が動物から「命をもらっている」という考え方はおかしい。「動物の命を一方的に奪って食べている」というほうが正確だ。
     どうも「動物を殺しているのだから感謝しなければならない」という道徳理念は、「自分が快適に生きるためだけに、ほかの動物を一方的に殺して食べている」という事実から目を背けるために利用されている気がしてならない。
     その意味で、ぼくは「食育」という概念に対してもかなり懐疑的である。子供たちに食の教育をほどこすなら、だれよりも大人たち自身が「生き物を食べるとはどういうことなのか」と真剣に考えなければならないと思うのだが「感謝の念さえ持っていれば殺して食べてもいい」というかなり倒錯的な観念で思考停止しているようにしか見えないからだ。
     いや、動物の殺害を「感謝」で正当化するのはやっぱり無理でしょ。一方的に殺して食べておいて「わたしの食欲を満たすために死んでくれてありがとう」などといいだすのはどうにもグロテスクではないだろうか。
     ただ、どうやらこの「感謝」という概念が「食育」の中核をなしていることはたしかで、農林水産省のウェブサイトを見ると、このように書かれている。

    食育基本法においては「食に関する感謝の念と理解」(第3条)として「食育の推進に当たっては、国民の食生活が、自然の恩恵の上に成り立っており、また、食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて、感謝の念や理解が深まるよう配慮されなければならない。」としています。また、平成28(2016)年3月に作成された第3次基本計画においても、重点課題の一つとして、新しく「食の循環や環境を意識した食育の推進」を定め、「食に対する感謝の念を深めていくためには、自然や社会環境との関わりの中で、食料の生産から消費に至る食の循環を意識し、生産者を始めとして多くの関係者により食が支えられていることを理解することが大切である。」としています。
    https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/wpaper/h28/h28_h/book/part1/chap1/b1_c1_2_01.html

     いったい何に対する「感謝」なのか少しあいまいだが、どうも「自然の恩恵」に対するものでもあるような書き方である。
     しかし、あくまで意地悪く思考を進めるなら、「恩恵」とはいっても、自然動物はべつに対しどこまでも寛容に人間に自分を食べることを許して自分を恵んでくれているわけではない。
     「恩恵」とか「恵み」とはあくまで人間の視点から見てそういうふうに見えるというだけであって、一般に動物はみな、人間と同じように、もっと生きていたい、ほかの動物に食べられたくなどないという本能を抱いて生きていることだろう。
     それをあっさり殺して美味しく食べてしまうことを「恩恵」などと呼ぶことは、やはり少しくおかしい。
     とはいえ、だからといって「どうせ人間の身勝手で殺していることには違いないのだから、一切感謝したりする必要はない」というふうにシニカルな考えかたをすることも極端ではある。
     自分という人間が、生物が、ただ自分の欲望を満たすためだけに、ほかの生き物の命を奪いつづけて生きているという現実を淡々と直視した上で、その、素直に考えるなら恐ろしいともおぞましいとも罪深いとも受け取れるであろうことをどのように解釈していくべきなのか、何らかの哲学が必要になるところなのだろう。
     ぼくじしん、べつだん、何か簡にして要を得た究極の答えを持っているわけではない。ただ「感謝することが大切だ」という考えが安易に流れるなら、それは「とりあえず感謝さえしておけばいい」という思考停止と変わらないことになってしまうだろうとは思う。
     この世界は人間の目から見て残酷に思えるシステムでできているわけなのであり、人間にその残酷さを消し去ることはできない。また、はたして消し去るべきなのかどうかもわからない。
     そのことを明確に認識し、正確に洞察してなお、考えつづけることをやめない姿勢こそが大切だろうというのがぼくなりに思うところだ。それもまた、ひとつの欺瞞だといえばそうかもしれないが。
     さて、ここまでが、この記事の前半の無料部分。ここから先は『100日後に食われる豚』の「悪趣味さ」について、それははたして批判されるべきものなのかと考察していく。また、「ペット」と「家畜」の区分についても考えを進める。
     300円ほど払っていただくと読めるようになるので、ぜひどうぞ。ちなみにサブスクリプションに入ってもらうとほかの記事も含めて読めます。良ければよろしくお願いします。 
  • ほんとうに映画は幼稚な観客向けになったのか? 過去を美化し現在を否定する言説の問題とは。

    2021-06-04 02:25  
    50pt
     こんな記事を読んだ。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83706
     「「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647)の続編で、「映像作品の観客が幼稚になってきている。あるいは、幼稚な観客の感想がネットによって可視化され、それが作品にフィードバックされた結果、作品もまた説明過多の幼稚なものになって来ている」という趣旨である。
     一読、なるほど、と思わせられる。たしかに、テレビ番組などは「説明過多」の傾向があるし、そこから論理的に考えるとそういう結論が出て来る。いや、まったくいまどきの映像作品は幼稚かつ低俗で困ったものだ……。
     うん? ちょっと待て。ほんとうにそうだろうか? この記事、論旨そのものはきわめてロジカルだし、うっかりするとつい安直に追随して「昔は良かったなあ」とかいいたくなる誘惑に満ちているのだが、それだけにここは眉に唾をつけて読んでみることにしたい。
     そうすると、色々と怪しい個所が見えて来る。たとえばこの記事の結論は、こうだ。

    「変えた、と言えば『シン・エヴァンゲリオン』がいい例ですよ。1995~96年のTVシリーズから25年間、ずっと“説明しない”でおなじみだった庵野秀明監督でしたが、『シン~』の終盤では、主要キャラクターが順番に登場して、心情をセリフで丁寧に説明してくれました。
    こんな親切な『エヴァ』は初めてです。庵野さんは常に時代に寄り添う人だから、“今はこういうターンだ”と思って、あえてそうしたんじゃないでしょうか」(佐藤氏)

     一瞬、たしかにそうだな、庵野さん変わったな、と思いたくなるのだが、ほんとうにそういえるのか。
     庵野秀明監督作品、特に『エヴァ』が「説明しない」作品だったことは事実だ。しかし、それは物語の背景設定について説明しないということであって、登場人物が心情をセリフで説明する側面がないということではないだろう。
     むしろ、『エヴァ』で名ゼリフとされているものは直接的に心情をセリフで説明したものが少なくない。何しろ第一話から「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」である。
     これは主人公・碇シンジの「そこから逃げ出してしまいたいけれど、逃げてはいけないと思う気持ち」をダイレクトにセリフで説明しているわけで、とても『エヴァ』が「セリフで説明しない」スタイルだとはいえない。
     よくよく考えてみると『エヴァ』の特徴はその直接さにあるとすら思えて来るくらいだ。たとえば「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」のようなきわめて直接的なセリフは、どう考えても「登場人物の心情をセリフで説明」しているものだろう。
     そしてまた、物語の背景設定について説明を省いていることは『シン・エヴァ』でも同じである。あいかわらず「ゴルゴダ・オブジェクト」だの何だの、よくわからない専門用語が膨大に登場して観客を幻惑する。情報過多で一回見ただけでは把握し切れないスタイルは何も変わっていないのだ。
     たしかに『シン・エヴァ』にはきわめて「親切」な印象があるのだが、それは「登場人物が急に自分の心情をセリフで説明するようになったから」だとはいえないとぼくは考える。
     それでは、それまでの『エヴァ』と『シン・エヴァ』では何が違っているのか。それは、ひとつには登場人物のコミュニケーションが円滑に行われているということなのではないか。
     この記事は『シン・エヴァ』について語ることが趣旨ではないのでこの作品についてこれ以上は踏み込まないが、『シン・エヴァ』を例に出して「庵野監督はリテラシーが低い層にも通じるように心情をセリフで説明するようになって来ている」とはいえない。
     そもそも、前編で佐藤氏自身が語っている「口では相手のことを『嫌い』と言っているけど本当は好き、みたいな描写が、今は通じないんですよ」というのがほんとうなら、『シン・エヴァ』のアスカのシンジに対する態度はいまの観客には「通じない」はずではないか。
     『シン・エヴァ』におけるアスカの心情はそれこそセリフではほとんど説明されていない上に、愛情と嫌悪がないまぜになった非常に複雑なものである。もし佐藤氏のいうことが正しいのなら、それは「誤読」されて当然のはずなのだ。
     しかし、あの描写を見て「アスカはシンジのことが心から嫌いだから辛くあたっているんだな」といった感想を抱いた人はほとんどいないものと思われる。
     じっさい、ネットでは「アスカが何を考えているのかさっぱりわからなかった」といった感想は見かけない。つまりは、観客はアスカの「説明されない」複雑な心情を正確に把握することができているわけだ。
     ほんとうにいまはそういう描写が通じないのか、非常に疑わしいのではないか? ぼく個人の実感としては、むしろ現代のアニメは、特に京都アニメーションあたりの作品を代表格として、かつてでは考えられないくらい繊細な描写を行うようになって来ていると感じている。
     『リズと青い鳥』とか、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』とかね。『リズと青い鳥』なんて、相当にリテラシーが高くないと理解できない非常に高度な脚本だ。
     また、昔のアニメやドラマや映画がそれほど知的だったのかというと、「ぼくの実感は逆」なのである。昔、そうだな、たとえば80年代とか90年代くらいのフィクションは一般にもっと「幼稚」だったとぼくは思っている。
     もちろん、その頃の作品も色々あったので、それを乱暴に総括して幼稚だの低俗だのいうことはできないことは当然だけれど、少なくとも大衆向けにヒットした作品には知的な意味ではろくでもないものが少なくなかった。 

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  • この世に「絶対悪」は存在するのか?

    2021-06-01 12:35  
    50pt
     先月はまったく記事投稿ができず、ごめんなさい。このような状態のブログにお金を払いつづけている皆さんに感謝を。ありがとうございます。そして、ほんとにごめんね。良い記事を書こうと思うほどどうしても手が止まってしまうのですよね。とほほ。
     さて、そういうわけで、今月一本目の記事から始めます。
     いま、Twitterを中心に「一般社団法人この指とめよう」という組織が話題になっています。これ(↓)ですね。
    https://yubitome.or.jp/
     「ネット(SNS)における誹謗中傷をやめよう」という、それ自体はだれにも文句のつけようがない立派なココロザシを掲げた団体なのですが、その理念を掲げる当事者本人たちが過去にさんざん誹謗中傷を行ってきたことを各方面から指摘され、まさに議論百出の状態にあります。
     その全体はもちろん把握し切れないのですが、「おまえがいうな!」という指摘は完全に正当なも
  • 電子書籍シリーズを始めたよ。もし良ければ買ってくださいのお願い。

    2021-05-21 23:50  
    50pt

     「サークル・アズキアライアカデミア」の電子書籍シリーズ「アズキアライアカデミアブックス」の第一弾として『「小説家になろう」の風景【新装版】 未利用者でも理解できる! 日本最大の小説投稿サイトの野蛮な魅力』が出ました。
     われらアズキアライアカデミアによる電子書籍出版の第一弾ということになるわけですけれど、まだ色々なことが未定で、たとえば出版社部分の名義は「アズキアライアカデミアパブリッシング」とか何かに変えるかもしれません。その点はご了承ください。
     ちなみに内容的には「旧装版」とは表紙が違っているだけで、ほかは何も変わっていません。せいぜいあきらかな誤字脱字を直したくらいです。さすがに申し訳ないので、もう一章か二章くらい、加筆修正をしたいなあと考えています。
     いまはちょっと試験勉強で忙しいので、もうしばらくしたらきっと書くぞ。
     本の中身は、「なろう」の研究というか、分析ですね。「なろう」についての論考はたくさん出ていますが、クリティカルに本質を捉えたものはなかなかない気がします。
     この本がそうだ!というつもりはさらさらありませんが、まあ、がんばって書いたものなので読んでいただけたらありがたいと思います。
     「旧装版」の出版からまだ一年も経っていないにもかかわらず、すでに情報が古くなっているところもありますが、それは加筆でどうにかフォローしたいところです。アニメ版『無職転生』の話題とかね。
     それにしても、自分が書いたものがAmazonに並ぶのはなかなか良い気分ですね。いや、いままでもたくさん電子書籍を出しては来ているのですが、過去の本はすべて自分で装丁を描いているので、いずれもどうしようもなくしろうとくさい表紙で、あまり本を出したという気になれなかったのですね。
     それと比べ今回はそこをプロに頼んでいるので、さすがに完成度が高く、「ふふーん」と鼻歌のひとつも歌いたい気持ちになります。歌わないけど。やっぱり何でもケチらずプロに頼むべきところは頼んでみるものだ。
     ちなみに第一弾ということは当然ながら第二弾以降もあるわけで、色々と企画を練っているところです。アズキアライアカデミアの本となると著者はぼくだけではないわけで、まあ、色々なものを出したい気持ちはあります。
     じっさいにどこまで実現するかはまだわかりませんが、少なくとも一冊出してそこで終わりということにはならないはず。今回は古い本の「新装版」に過ぎませんが、新刊のことも考えています。ちょっとまだ企画がまとまり切っていないのですが……。
     もうタイトルを出してしまいましょうか。『シュミ充になる! 灰色の日常をカラフルに色取る新時代オタクライフスタイル・マニュアル』というのです。
     「マインドフルネス」とか「フロー理論」とか「ゲーミフィケーション」とか「ロゴセラピー」とか「ナラティヴ・アプローチ」とか「弱者男性論」などというテーマを扱いたいなあとぼんやり考えているところです。
     つまりまあ、趣味を究めて幸せに暮らそう!という趣旨の本ですね。フィクション作品からは『弱キャラ友崎くん』、『その着せ替え人形は恋をする』、それから来月あたりメディアワークスから出る『オタク同僚と偽装結婚した結果、毎日がメッチャ楽しいんだけど!』などを取り上げるつもりです。いや、何もかも未定なんですけれどね……。
     ブログの過去ログも膨大なものがあるので、それらも少しずつ本として整理していけたら良いなあと漠然と考えています。1冊12万文字の980円くらいで出そうかなあ、とか考える。
     ちゃんとした表紙で出せば少しは売れるんじゃないかな。売れるといいな。まあ、売れなくても電子書籍だからリスクはないんだけれど。
     などと弱気のことを思ってしまうのですが、アズキアライアカデミアから出した同人誌は相当の冊数が売れているので、ぼくの本だってちゃんと宣伝すればそこそこ売れてもおかしくないと思うんですよね。
     1巻につき300冊くらい売れてくれると、それだけでぼくの生活はだいぶラクになるんだけれど、さすがに無理な話かなあ。うーむ。最初から本にするつもりでブログで連載企画をやるというのもありですね。夢は広がる。この際、キビシイ現実は見ないことにしておきましょう。
     ちなみに、上記の『オタク同僚と偽装結婚した結果、毎日がメッチャ楽しいんだけど!』は傑作なので、オススメです。ペトロニウスさんから教わったのだったかな?
     「カクヨム」で連載していた作品なのだけれど、ぼくは何となく読み始めたら嵌まってしまって最後まで読み終えました。非常に面白かったです。オタク自己言及系の作品としては、『その着せ替え人形は恋をする』と並んで最先端の一作ですね。
     というか、ここまで来るともうオタクという概念はあまり意味を為さないところがありますよね。どう見たって超絶リア充なわけで。かつてのオタク暗黒時代を知っている人間としてはもう涙なしでは読めません。ぼくたちは、幸せになったんだ。
     というあたりで、今日はトートツに終わります。あしたは試験なのです。でわでわ。