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TYPE-MOONは『Fate』を乗り越えられるのか?(2128文字)
2013-07-17 20:2653pt
TYPE-MOONの『Fate/stay night』がみたびアニメ化するようだ。制作は2006年放送のテレビシリーズ、及び2010年に公開された劇場版アニメ『UNLIMITED BLADE WORKS』を手がけたスタジオディーンに代わり、劇場版『空の境界』などを扱ったufotableが引きうける。
ネットではいままで映像化されていない『Fate』第三のルート、『Heaven's Feel(桜ルート)』が取り上げられるのではないかともっぱらの噂だ。いままた同じ物語を繰り返すとも思われないから、妥当な推測と思われる。
いままで『Fate』シリーズは上記の二作品のほか、『Fate/stay night』の前日譚にあたる『Fate/Zero』がアニメ化されている。
また、番外編(というかなんというか)の『Fate/kaleid liner プリズマ・イリヤ』も現在、アニメ版が放送中である。出せばあたる人気シリーズとしかいいようがない。
しかし、『Fate/stay night』が発売されたのはすでに2004年のこと。すでに9年も前なのである。おそらく新アニメは2014年の放映になるだろうから、そこから考えると10年前ということになる。
そして、この9年間、TYPE-MOONはひたすら『Fate』の派生系を出しつづけることに終始していた印象がある。
もちろん、高い評価を得た『魔法使いの夜』はある。しかし、ボリューム的に見ても、あの作品を『Fate』に匹敵するものとみなすことはむずかしい。
過去9年の間、TYPE-MOONは結局、『Fate』と同等か、それ以上の質と量の作品を発表することができなかったといっていいと思う。
たしかにそのあいだ『Fate』の枝葉は豊かに茂っていった。なかでも『Zero』は、質的に『Fate』を上回る力作だったかもしれない。
どこまでが虚淵玄個人の才腕で、どこからがTYPE-MOOMの助言によるものなのか、それはわからない。しかし、とにかくあの作品は広い意味での「二次創作」の最高峰を見せてくれた。
闇黒の大河のような壮絶無比な物語は、『Fate』を補完し、その世界をさらにひろげるという意味でも、重要な成果だといえるだろう。少なくとも並大抵の二次創作とはあまりに次元が違う出来であることはたしかである。
あるいは、「魔法少女もの」という色物的設定で発表された『プリズマ☆イリヤ』にしても、意外にそのクオリティは低くない。ぼくはまだアニメは見ていないが(録画はしてある)、漫画版は実に楽しく、面白く見ることができる安心、安定の仕上がりである。
『Fate』の世界を作った二次創作ものとしては、十分な出来といえるだろう。
しかし。やはり、多くのユーザーは『月姫』、『Fate』に量的に比肩する第三の作品を待望しているのではないだろうか。
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世界は子供たちの亡骸の上に築かれている。(2542文字)
2013-04-07 08:2453pt
どう言えばいいのだろう、どう語れば伝わるのだろう。世界について。人間について。
ぼくはいままで一貫して「非モテだろうが、オタクだろうが不幸だとは限らない。むしろ幸福でさえある」という意味のことを語ってきたわけですが、こういうことを書くと激烈な反論が返ってきます。
その内容はそれぞれですが、あえて集約するなら「お前は幸福かもしれないが、おれは不幸だ! ひとのことを軽々しく幸福だなんて言うな!」ということになるようです。まあ、ごもっとも。自分でそういうからには不幸なのでしょう。
しかし、それではぼくはそういうひとたちに対しどう言えばいいのでしょうか? 「そうですね。あなたは一生不幸で救われず、あらゆる幸福と縁もなく可哀想なまま死んでしまう運命ですね。さようなら」といえば満足なのか?
そうではないでしょう。それなら、幸福になることを目ざしたほうがいいと思うんだけれど、何といおうと「いや、おれ(たち)は不幸だ」といわれてしまう。
まあ、どんな人生を送ろうがそのひとの自由ですから、不幸でいたかったらそうしてもいいのですが、それなら周囲を妬んで攻撃したりしないでほしいものです。「リア充爆発しろ!」。なんでリア充だからっていって爆発しなければならないか? だれに迷惑をかけているわけでもないのに。
そんなことをいっているから、あなたは「不幸で可哀想な自分」から脱却できないのですよ、といいたい。ネタで言っている分にはいいんだけれど、ネタは気をつけないとあっというまにベタ化するものだからね。
人間は幸福で充足した「リア充」とか「モテ」と、不幸で哀れな「非リア」とか「非モテ」に分かれるというほどシンプルには分かれていません。人間の幸不幸はそんな区分とは関係がない。
だからペトロニウスさんは「勝ちは必ずしも勝ちではなく、また負けが負けであるとも限らない」というのですが、この価値観は伝わらない人にはまったく伝わらないことでしょう。
「そうはいっても、勝つほうがいいに違いないし、負けたくないに決まっているじゃないか」といわれて終わり。でもね、そうじゃないんですよ。世界も人間もそんなシンプルにできていない。単純な「勝ち」とか「負け」といった二極的な価値観で語り切れないところにこそ、人生の妙味はあるのだと思うのです。
「そうはいってもおれは不幸だ。辛くて苦しいんだ。リア充の奴らには爆発してもらわなければ気が済まない」というひともいるでしょう。しかし、それをいうなら世界には五歳で難病に倒れ死んでいく子供もいるのです。スモーキーマウンテンでゴミをあさって短い一生を終える運命の子供もいる。
幼児期にレイプされ性奴隷として人生を過ごす女の子もいれば、少年兵士として洗脳され利用され銃弾に斃れた子供いる。もしあなたが「あいつらばっかりモテてずるい」というのなら、その子供たちは「お前らばっかり生きていられてずるい」という権利があるはずです。
その子供たちにこそ、「お前らは卑怯だ。幸福を独占している。お前らなんかに自分の気持ちはわからない。お前らも自分と同じように不幸になってしまえばいい」と叫ぶ権利があるでしょう。でも死者は何も叫ばない。何か叫ぶことすらできない。ぼくたちの社会はそういう死者たちの亡骸の上に築かれている。
「だからお前は我慢しろ」ということではありません。不幸比べはそういう話にしか繋がっていないということ。あなたはだれかが持っていて自分が持っていない幸福を妬むかもしれないけれど、でも、そういう自分もまた、持っていないひとから見ればうらやましくてたまらないものをたくさん持っているのだと気づいたほうがいい。
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