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きっとあなたも涙する。『王女コクランと願いの悪魔』は今年のベストを争う感動の傑作だ。
2014-09-17 17:0051pt
ここにひとり子供がいるとしよう。早熟、聡明、その歳で世界の秘密は大方知り尽くしたと思い込んでいる子。つまりこの世は退屈な劇場、日々似たような劇が演じられるばかり、そう易々と見抜いたつもりになって、早くも人生に飽き始めたようすの十二歳。
さて、もしこの子に一編の物語を差し出し、世界の広さを思い知らせてやりたいとするなら、あなたはどんな話を選ぶだろうか? 現代文学の皮肉な一作? 本格推理の晦渋な名作? それともその年最高のベストセラー?
ぼくなら、そう、入江君人の最新作『王女コクランと願いの悪魔』を手渡して反応を待ってみたい。作者自ら最高傑作と語るこの一作は、波瀾万丈、抱腹絶倒、喜劇にして悲劇、小説を読むことの魔法に充ちている。
何より、子供なら夢中になって読み進めたくなるような強烈な物語の魅力がある。もし可能ならタイムマシンに乗って少年時代のぼくに読ませてやりたいくらい。
おそらく、相当に生意気な子供でも、一度読み始めたが最後、ページを捲るほどにひき込まれ、時間を惜しんで読み耽るに違いない。作家入江君人、掛け値なしの最高傑作である。
物語は、ある大帝国の王女コクランのもとに名なしの悪魔があらわれるところから始まる。悪魔はいう。何でも望むがいい、どんな願いでも叶えてやろう。
ところがコクランは金銀財宝など飽きるほど所有する身、しかも絶世の美貌のもち主、いまさら何ひとつ望むものはなかった。しかし、悪魔としては主人に何かしら願ってもらわなければ立場がない。
かくして、何としてでも願いをいわせようとする悪魔と、何ひとつ望むものがない王女は、日夜仲良く喧嘩しながら虚々実々のやり取りを繰り広げることとなる。
世にも不思議な物語の始まり。果たして悪魔が願いを聞き出すのが先か、それとも王女が悪魔を追い払うのが先か、コミカルでいて時に火花散るふたりのせめぎ合いは、読めば読むほど面白い。
だが、ただそれだけなら、既にたくさんの物語を通過して来ているであろうその子供にとっての「黄金の一冊」になるほどの作品とはいえないだろう。
たしかに切ないし、笑えるし、意外な展開に驚かされもする、文句なしのエンターテインメントではあるのだが、それだけなら、ようするにそれだけのことだ。この世に優れた娯楽作品は千も万もあるに違いないのだから。
だれかにとっての黄金の一冊になる本とは、ただ優れて面白いだけではいけない。そこにその作者だけが生み出せる狂気なり天才なり創造性なりが込められていて初めて、それは特別な本になる。
それでは、『コクラン』にその狂気と天才はあるだろうか? 紛れもなくある、と断言しておこう。数々の伏線を華麗に消化しながらスリリングに進んでゆく終盤の展開は、子供ならぬ練達の読み手をも唸らせる迫力に充ちている。
じっさい、読者の気持ちを捉えて離さない卓抜な技巧は、前作から見ても長足の進歩を遂げている。男子三日会わざれば刮目して見よではないが、いったいこの間に何があったのかと勘繰りたくなるほど。
そして何より、最後の最後に孤独な王女コクランを待つ過酷な運命は、多くの読者を驚愕させるだろう。
ほんとうに優れた物語とは、いくつもの伏線や描写を巧みに積み重ねてゆくために、後になればなるほど面白くなるものだが、『コクラン』もまさにそれにあたる。
さりげないひと言や、何気ないしぐさのひとつひとつが、意外な重い意味を伴って迫ってくるクライマックスの激動の展開は、よほどひねくれた読者をも満足させることと信じる。
じっさい、こんなふうに、ページを捲る手ももどかしく、先を知りたいと願ったのはいつ以来のことだろう。小説を小説たらしめ、読者をして次の話を早く読みたいと思わせる、あのドラマティックなダイナミズムが、ここにはたしかに存在している。
ああ、コクランの運命は? 最後の一ページ、一文字に至るまで、物語がだれて緊張感を失うことはない。素晴らしいストーリーテリングのマジックだ。
数々の事件を通して、王女コクランと願いの悪魔とは、しだいに相手の本質を知るようになっていく。コクラン。この世のものとも思えないほど美しい黒髪の少女。怜悧な頭脳と策略家としての資質を併せ持ち、策謀渦巻く宮廷で、多くのひとに命を狙われながらもなお生き延びている娘。
しかし、コクランをコクランにしているものはただそれだけではない。彼女にはひとつの秘密がある。その秘密が明かされるときこそ、コクランのすべてがわかるときだ。
一方の悪魔にしても、決して単純な人格ではない。傲岸不遜、そして豪放磊落とも見える性格のこの魔界の貴族は、しかしコクランと同じく何かしら秘密を抱えているようでもある。その秘密もむろん、物語が幕を閉じる前に明かされる。
そしてついに語られるコクランが胸に秘めた願い――世にも美しく青褪めた彼女のくちびるがそのひと言を漏らすとき、あなたの目には涙がひかるかもしれない。ああ、そうだったのか、と。そんな想いを秘めて生きて来ていたのか、と。
ただ文字のなかにしか存在しない単なる架空のキャラクターが、紛れもない「実在の人間」へと変身する瞬間である。そう、コクランはいま、ぼくにとってひとりの実在する人間だ。
ぼくは彼女がこっそりと笑う顔を知っている。美味しいお菓子に舌鼓を打つときのようすを知っている。また、悪魔も、「幽霊」も、コクランの父たる国王も、この物語においては、ただの書き割りの登場人物であることをやめて、活き活きと生きている。
それはもう、主役や脇役、敵味方、善悪といった区分では測りきれない。だれもが自分にとって最善と思えることをしている。悪役ともみえる人物にしてからそうなのだ。
そしてコクランも自分にとって大切なものを守ろうとして決断する。その美しくも哀しい決意を知ったとき、ぼくは愕然と打ちのめされた。
だれが、このような子をこの世に生み出したのだ? 何が必然だ、何がそれぞれの正義だ、こんな小さな少女をこのような展開に追いやってよいほどの正義がどこにある?
だが、物語の外にいるぼくの義憤が物語を動かすことはない。窮地に追いやられたコクランを救えるものは物語のなかの登場人物たちだけ。
やがて最後の劇の幕が上がる。ひとつの死から始まるそのエピソードは、怒涛の迫力で読者を圧倒することだろう。いくつかの想いと、いくつかの願いが錯綜し、人々の野心と思惑が交錯するとき、ひとりの少女が犠牲の生贄としてささげられる――緊迫の瞬間!
そして悪魔は決断する。この世でただひとりのその少女のために。
作者はいたって上品に、しかし圧倒的な凄みをもって、宮廷で繰り広げられた陰謀劇の顛末を綴っていく。互いに愛しあい、想い合いながら、それでも時にすれ違う人々の切なさ、可憐さ、愛おしさ。その先にあるひとつの運命。
読者はその展開を読みながら、どうか、と願わずにはいられないだろう。どうか、この子たちを、幸せにしてあげてほしい、非情で冷たい世界の摂理を曲げることになるとしてもなお、物語構成の聖なる均衡を崩すことになるとしてもなお、と。
しかし、最後まで物語のバランスが崩れ去ることはない。すべては必然に従って幕をとじる。小さな満足のため息がくちびるから漏れる。ああ、ほんとうに素晴らしい小説を読んだ。美しい、奇蹟のようなお話を目にした。
果たしてこのまま全一巻で完結するのか、それともさらなる先へと続いていくことになるのかはわからないが、ともかく実に美しく終幕を迎えた作品である。
今年のベストの一角には必ず入って来る出来だと断言できる。だから子供よ、世界に退屈するよりも前に、この本を読んでみるといい。これは、時にひとが得ようともがいて得られないもの――真実の愛についての物語だ。
子供よ、この本がお前にとって、人生そのものの意味をも変えてしまう黄金の一冊になるかどうか、それはわからないが、十分にその可能性はあることと思う。
だから、さあ、読むがいい。この、冷ややかな王女と傲慢な悪魔の物語を。そして、やがて時が過ぎ去った時にでも想い出すがいい。あの時、ほんとうに夢中になって読み耽ったものだと。まさにこの本はそうするにふさわしい。
読み進めるほどにもっと読みたくなり、読み終えたときには満足とともに渇望感がのこる。これは、世にもまれな、そういう神秘な一冊だ。 -
オフ会告知。
2014-09-16 23:1951pt10月26日(日)に、このチャンネル初のオフ会を開きたいと思います。場所は東京吉祥寺の武蔵野公会堂第一和室、時間は午前10時から午後7時までを考えています。
http://www.musashino-culture.or.jp/sisetu/koukaido/washitsu.html
参加費はひとり2000円、参加予定者は上限20名程度を考えています。そんなに集まらないかもしれませんが、その時はその時で。ブログではできない話などもできるかも?
あと、今回は基本的に新規参入者中心で行こうと思います。ぼくの個人的な友人連中はまあ来なくてもいいかな、と(笑)。そうしないと知り合いだけで固まってしまいそうですからね。
参加希望者は「kenseimaxi@mail.goo.ne.jp」までその旨、メールをお願いします。海燕とTwitterなどで約束しているひともあらためてメールをいただきたいところです。
ちなみに内容的にはことさらのイベントはなく、ただひたすらしゃべったりお菓子食べたりするだけの内容となるはずです。ぼくのオフ会はいつもそうなんですけれどね。
では、参加希望、お待ちしております。 -
しずかに海の底に沈んでいくかのように。
2014-09-15 12:0051pt
ふしぎな小説だ。ちまたでは「鬱小説」の書き手として知られる唐辺葉介の作品なのだけれど、少なくともぼくは辛いとも苦しいとも思わなかった。
もちろん、半端でなく過酷な描写が続くのでひとによってはきびしいと感じるのだろうが、ぼくとしてはそういうものだとは思わない。
唐辺葉介『つめたいオゾン』。これは、崩れてゆくひとの輪郭についての物語だ。
この作家が世に出た『PSYCHE』からずっとこの作家の作品を追いかけて来たわけなのだが、いま、ようやく理解できた気がした。
唐辺葉介名義の作品が、瀬戸口廉也名義で発表した『SWAN SONG』と何が違うか。火のように苛烈な意志を持って運命に抗うキャラクター――つまり、尼子司がそこにはいない点が違うのだ。「尼子司がいない『SWAN SONG』」。それが唐辺葉介作品なのである。
未プレイの方のために説明しておくと、『SWAN SONG』は一部でカルト的な人気を博したゲームで、ぼくなりの解釈によると、過酷な運命に対し抵抗しようとすると青年尼子司と、しずかにすべてを受け容れようとする女性佐々木柚香の相克の物語である。
『つめたいオゾン』は、この上なく過酷な現実を描き出しているという点では『SWAN SONG』と同じなのだが、運命に抵抗しようとする主人公がそこにはいない。
だから、あくまでもしずかに運命の残酷さを許容し、崩れ、壊れていこうとする人々の物語となっている。その意味ではひとかけらの救いもない。
しかし、自己満足的に登場人物を苛んで喜んでいる次元の物語ではまったくない。そうではなく、作者が残酷な描写を通して描き出そうとしているものは、その圧力に晒されて崩れ、壊れ、ついには失われてゆく儚く脆い想いであるように思える。
この小説のテーマは、人格の融合だ。あるひとりの少年と、少女の人格が混ざり合い、ついにはひとつになってしまうプロセスを描いている。
SFとしてはごくありふれたアイディアである。しかし、これが唐辺葉介の手にかかると、ある種の透明な哀切さを帯びて迫ってくる。
作者は、べつだん、サイエンス・フィクションとしての新味を狙っているわけではないだろう。そうではなくて、儚く崩れてゆく人格の哀しみを繊細に描き出すことが目的であろうと思われるし、それは成功している。
この小説は三章構成になっている。まず、初めに俣野脩一という少年の物語が綴られ、続いて中村花絵という少女の物語が続く。そして、第三章において、ついに出逢ったふたりの精神がしだいに融合してゆく過程が描かれる。
少年と、そして少女が、その人生において懸命に積み上げていったものが波にさらわれるようにして失われてゆく過程を淡々と綴っている、と見ることもできる。
そう、この小説の、というか唐辺作品の特徴をひとつ挙げるとするなら、決して文章が感情的にならないことだろう。唐辺葉介の綴る文章は、どこまでもしずかで、諦念に充ちている。
この、何というか体温が低い感じ、次々と起こる出来事の悪夢的なまでの残酷さ、醜悪さに対する主人公たちの主観の静謐さこそが作家唐辺葉介の最大の特徴だと思う。
かれの主人公たちは、総じて酷烈を究める運命に対して受動的であり、また許容的である。どんなひどいことが起こっても、何もかも仕方ないこととあきらめているように見える。
今回、ふたりの主人公のうち特に中村花絵には、それこそ「鬱小説」と呼ばれるにふさわしい過酷な事件が振りかかる。しかし、花絵はそれで苦しみはするものの、取り乱したりすることはない。あくまで彼女はすべてを受け入れてゆくのだ。
この、正常な情緒が麻痺したような描写は、たしかに「鬱」のそれであるかもしれない。そういう意味では、この作品こそは正しい「鬱小説」ということになるだろう。
ぼくもそうだが、この小説の雰囲気に共鳴したり共感したりするひとは、人間としてあまり健康ではないということになる。べつだん、中二病めいた誇りを込めてそういうのではなく、ここで描かれているのは、生命としてあまりに脆弱なありようであるように思うのだ。
フラジャイル――脆い、壊れやすい、を意味するこの言葉が、あるいは唐辺葉介の小説を説明する時、最も適切な言葉であるかもしれない。
かれはフラジャイルなる精神が、世界に満ちるあまりにも凄まじい暴力に耐えかねて失くなってゆくさまを、ただしずかに描く作家なのである。
「尼子主がいない『SWAN SONG』」であるこの作品は、『SWAN SONG』とはそうとうに異質な印象を与える。しかし、同じ世界観であることは間違いない。ただ、眺める角度が違うだけだ。
この世界はあまりにも醜悪で残酷で耐えられないほどの喧騒に満ち満ちた場所である、という世界観を、尼子司ではなく、佐々木柚香の視点から眺めているのが、唐辺葉介の小説なのだと思う。
少なくとも、唐辺葉介名義になってからの作品はいずれも、運命と戦うのではなく、運命を受け入れることを選んだ人々を描いている。しずかで、冷たく、それでいてほのかにあたたかいような、ふしぎな読後感をのこす作品ばかりだ。
こうなって来ると、むしろどこから尼子司というキャラクターが生まれてきたのか気になる。おそらく、瀬戸口廉也である唐辺葉介のキャリアにおいては、尼子司というキャラクターのほうが異常な特異点であるのかもしれない。そう考えると、しっくり来る。 -
小説というスープに、ひとさじの狂気を。
2014-09-14 21:0151pt
何となく書店でタイトルがひっかかって、水沢あきと『アイドルとマーケティングの4P』を読んだ。ぼくはじっさいのアイドルには何の興味もない人なのだが、どういうわけか虚構のなかのアイドルには妙に惹きつけられる。
角川が一時期たくさん作っていたアイドル映画なんかも妙に好きだ。当然、作品の出来はそれほどでもないものが多いのだけれど、そのいまひとつの出来にも心惹かれてしまう。実はけっこうアイドルが好きなのかもしれない。
が、それはいい。『アイドルとマーケティングの4P』の話。ぼくは普段、このブログでは特に面白かった作品を中心に語っている。そうでなければ読む方も退屈するだろうし、ぼくにしても「ここがこうダメだった」などと語ったところで大して意味があるとも思えない。
しかし、この小説は、正直、そこまで面白くはなかった。決して稚拙でも下手でもない、物語作りの常道を押さえて書かれているのだが、どういうわけかあまり心躍らないのだ。
だが、今回はあえてこの作品を取り上げて、少し分析めいたことを行ってみようと思う。というのも、この作品を通して、小説というか創作の不思議が見えてくるように思われるからだ。
何がいいたいのか。特に面白いとは思わなかった『アイドルとマーケティングの4P』なのだが、特にどこが悪いとも思わないということなのである。
プロットも悪くない。キャラクターも悪くない。アイディアもよく考えられている。が、だから面白いかというと――もうひとつ、ということになってしまう。
この小説を読んでいてよくわかったのは、小説は、あるいは漫画でも映画でも、減点法で語ることはできないということだ。ある基準を用意して、そこが上手に書けていないとマイナスするという評価では、小説の面白さを捉えそこねる。
つまり、面白い作品はいくら大穴が空いていても面白いし、その反対もまたいえるということなのである。
ただスタンダードに小説技術の方法論をなぞっていっても決して傑作も話題作も生まれない。むしろ、才能ある作家が自分の欲望のままに書いた作品のほうが高い評価を受けたりする。
ここらへんが不思議なところで、きょうに至るも小説の書き方は厳密に形式化されていない。多くの人がそれを試みたし、自分はそれに成功したと称する人物も少なくないが、じっさいにはだれもベストセラーを出しつづける方法論など知らないのだ。だからこそ小説は面白い、ということもできる。
もちろん、技術的に洗練された作品を書くことにこだわりを見せる技巧派の作家もいるとは思う。そういう作家は、あくまでビジネスとして、プロフェッショナルに作品を生み出すことを請け負っているのかもしれない。
しかし、そういう作家にしても、いままでこういうやり方で成功してきたからこれからもそれを続ければいい、とは考えていないと思う。もしそう考えるなら、その書き手の行く末は奈落でしかない。
なぜなら、既存の方法論とは、あくまで「過去の」方法論であって、未来においては通用しなくなっていくものだからだ。時は流れ、時代は移ろっていく。
もちろん、そういう時代の変遷を超えた確固たる方法論も、「ある程度は」存在するだろうが、流行小説の最も重要な部分は、決してはっきりと確立できないところに存在している。
じっさい、どれだけの流行作家が生涯にわたって作家業を続けられるかと考えてみればそのことは一目瞭然ではないだろうか?
小説を軌道に乗せるためのレールはたしかにあるだろう。しかし、ほんとうにその作品を傑出したものにするためには、そういうあたりまえのレールから作品をどこかしら逸脱させるものが必要になって来るのだと思う。
ぼくはそれを「才能」とか「狂気」とか「クリエイティヴィティ」と呼んだりする。これが、ぼくには致命的に欠けていて、だからぼくがひとりで書いたオリジナルの小説はなかなか面白くならない(同人誌は共同作業なのでまたちょっとべつ)。
つまりは、ひとさじの狂気が振りかけられていなければ、決して小説というスープはほんとうに美味しいものにはならないわけなのだ。 -
1文字1円!で文章執筆のお仕事をひきうけます。
2014-09-13 13:3451ptえー、この記事は金儲けのことだけを考えた黒い記事ですので、おもしろい内容を期待している人は飛ばしてもらっていいかもしれないです。
金儲け。そう、お金が欲しい! マネーマネーマネー! というわけで、何かお金を稼ぎだす手段がないかなーと思っているのですが、やはりぼくは文章を書くことしかできないわけです。
それもまともなライター仕事などはどうもあまりうまく行かないということがわかって来たので、自主的に仕事を募集してみようかと思ったしだい。
ブロマガはそこそこの収入にはなっているけれど、そろそろ数字的には行き詰まっているんですよね。もうアクセス数がまったく増えないので、これはちょっと、短期的にはどうしようもないかな、って感じです。現状維持が何とか。
ただそれでもありがたいことは間違いないので、そこにプラスしてもう10万円くらい稼ぎ出せると、まあ、同世代のサラリーマン正社員くらいの収入になるかな、という感じ。独身で特にお金を使う要件もないので、とりあえずはそれくらい稼げれば十分です。
そこで、てれびん(http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-1b25.html)に倣って、お金を取って文章執筆しようかと!思うしだいなのですね。
【仕事受付:文章執筆】あなたのアイディアを言葉にします! 作文でもブログの記事でも、依頼された内容で文章を書きます(専門知識を要するものは無理ですが)。提出した文章を改変するのもお客さまの自由! 何でも書きますよー。
【料金】4000字まで10000円。それ以降、1文字1円! 執筆の際は守秘義務を負うこととしますが、守秘義務がいらないなら2000円を値引きします。
【文章修正】3回まで可能(チャット、Skypeにて相談あり)。
【連絡】Twitterアカウント:@kaienないし、メールアドレス:kenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。
というわけです。価格は以後変えるかもです。では、よろしくお願いします。お気軽にどうぞ。(この下に文章はありません)。 -
オタクはどこまで深い友達同士になれるのだろうか?
2014-09-12 00:3251ptこの記事。
http://nagisaya.livedoor.biz/archives/52291537.html
2ヶ月くらい前に話題になった文章のようですが、ぼくは最近読んだのでいまさらながらに取り上げてみます。「オタク同士の友人関係で気をつけたいこと」というタイトルで、まさにそのままの内容となっています。
過去、オタ友達と喧嘩別れした時の状況を考えてみると、そこには一つのオタク特有の原因があるような気がします。オタクゆえに相手が許せないという事と、オタクゆえに人間関係より優先させてしまうものがあると言うことです。
(中略)
しかし、絶対にやってはならない事がひとつだけあります。それは相手の好きなものを貶す事です。自分の好きなものを良く見せる為に相手のすきなものを悪く言うなんて人がオタクの中には多いです。さらにはそれを教えてやる事が親切だと思ってさえいます。しかし、自分の好きなものを貶されて喜ぶ人はいません。オタクだからなお、自分の好きなものを悪く言われるのは許せなく思います。
というのが、趣旨ですね。そして、ここから発展させて、以下の五箇条の結論が出ています。
1)相手の好きなものを尊重する。たとえ自分が嫌いであっても貶さない。
2)自分の我を通す事より、相手との人間関係を尊重する事のほうが大切。
3)どちらかが叩きつぶされるまで戦うような事はしない。そうなる前に止める。
4)相手を迎合させようとせず、相手を理解しようとする。その上で人間関係を築く。
5)友人に甘え過ぎない。親しいからこそ礼儀を重んじる。
ぼくとしてはほぼ納得がいく結論なんのですが、「1」の「たとえ自分が嫌いであっても貶さない」だけには、仄かな違和を感じます。「貶す」っていうのが、そもそもどういうことか、という話ですね。
ただ作品の欠点や瑕疵を指摘することは「貶す」ことにあたるでしょうか? この場合でいうと、おそらくそれも「貶す」とみなされることになると思うんだけれど、ぼくとしては「貶す」とか「褒める」といった言葉そのものに違和を感じざるを得ません。
ぼくはいつも、何か作品を評価する時、「褒める」とか「貶す」とかいった次元では語っていないという自己認識があります。
その作品がぼくの目から見てどのように見えるのか、その様相を時に淡々と、時にパッションを込めて語っているだけで、主観的には褒めているわけでも貶しているわけでもない。
ただ、肯定的な語りは褒めていると受け取られやすく、批判的な語りは貶していると受け止められやすいというだけでね。
ぼくにとっては、「この作品のこの箇所にこういう構造的な欠点がある」と指摘することは、べつに作品を貶していることではないし、まして作者を侮辱していることではさらさらないわけです。そういう受け取られ方をすることは仕方ないとは思うけれどね。
だから、「相手の好きなものを貶さない」というルールは尊重するとしても、「でも、問題点を指摘するのはいいよね?」と思ってしまうところはある。
もちろん、ぼくが欠点とか問題点だと思う箇所を、相手もそう思っているとは限らないわけで、そこに何かしらの議論が起こる可能性はあるでしょう。
しかし、そういう議論を交わせる関係こそ、真に成熟した「オタク友達」といえるのではないでしょうか? -
ひとはどこまで共感することができるか?
2014-09-10 16:3651pt
森絵都『君と一緒に生きよう』を読む。森は、何十冊もの本を上梓している直木賞作家であり、ぼくが個人的に好きな作品もあるが、この場合、そのことはあまり関係がない。
より重要なのは、彼女が二匹の犬の飼い主であるということ。スウと、ハク。ある愛犬と別れる際、「もう二度と犬なんて飼わない」と誓った彼女にその誓いを破らせた犬たち。この本は、そんな犬たちの「母親」である森が綴った人と犬との記録である。
人と、犬。それぞれ異なる種であるはずのふたつの存在は、しかし、時に互いを必要としあうことがある。人は犬の想いに共感し、犬は人の哀しみに共鳴する。その不思議。
ある意味でこの本の続編ともいえる『おいで、一緒に行こう』と合わせて、犬好きの方にはお奨めできる一冊である。
こういう本を読むとき、ぼくはいつも共感について考える。共感とは何だろう。ひとの想いに共振すること。そうだろうか? しかし、森のように同じ人間ではない犬の想いに共感する人もいる。犬だけではなく、猫や、鳥に共感する人もいることだろう。
フィリップ・K・ディックだったか、捕らわれたゴキブリにすら共感し、それを飼っていたという作家の話を聞いたこともある。人は果てしなくどこまでも共感の範囲を広げていける生き物であるようだ。
とはいえ、ぼくのような普通の人間の共感範囲は限られている。同じ人間に対してすら、なかなか共感を寄せることはむずかしい。時には怒りや憎しみに囚われ、実在しない「敵」を生み出すことすらある。狭隘な自我の虜囚。
しかし、この世には、ごく少数ではあるだろうが、人並み外れた共感力を持つ「共感の天才」とでも呼ぶべき人々がいる。宮沢賢治がそうだったし、金子みすゞもおそらくそうだったのだろう。かれらはときに無生物にすら共感を注ぐ。
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。
下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。
中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。
雪という無生物にまで想像力を働かせ、「さむかろな。重かろな。さみしかろな」と「共感」してしまう、この異常に鋭敏な感受性が、金子の作品のなんともいえない魅力である。
金子や賢治のような天才は、いわば果てしなくどこまでも広がる無限射程の共感能力を持っているのだ。そのような天才的な共感力を持って見てみれば、この世はすべて共感の対象である。
すべての人間はおろか、あらゆる生き物、それどころか無生物すらも、愛を注ぐべき対象として浮かび上がってくるのだ。時々見かけるあの野良犬も、となり街に咲く桜の花も、しずかにそびえ立つ電柱も、遠い空の彼方の星々すらも、すべては「時」の侵食を免れず、やがてはその命尽きて消えていく儚い存在に他ならない。
その意味ではこの宇宙全体が、ぼくとともに時のなかを駆け抜けてゆく同胞なのだということ。『ヴィンランド・サガ』で語られたように、この世に敵などいない。すべてみな友であり、仲間であるのだという実感、それが、ぼくがいうところの「戦場感覚」の行き着く究極の地点だ。
そこにはもはや「戦い」の感覚はない。この宇宙のすべての存在が限りなく愛おしく、かけがえなく、それでいていつか失われてゆくものなのだという想い――ぼくが「ポラリスの銀河ステーション」と呼んだ境地である。
最近読んだ『嫌われる勇気』によると、アドラー心理学では「共同体感覚」という言葉があるという。この共同体感覚とは、ぼくが云うところの「戦場感覚の向こう側」、「ポラリス」と近いところにあるものなのではないだろうか。もはや敵もなく、味方もいない、すべては平等で、差別も価値判断もない世界。
金子みすゞは詠う。
私は好きになりたいな、
何でもかんでもみいんな。
葱も、トマトも、おさかなも、
残らず好きになりたいな。
うちのおかずは、みいんな、
母さまがおつくりなったもの。
私は好きになりたいな、
誰でもかれでもみいんな。
お医者さんでも、烏でも、
残らず好きになりたいな。
世界のものはみィんな、
神さまがおつくりなったもの。
この世のあらゆる森羅万象の存在へと注ぐ、無限射程の愛と共感――しかし、決してそれは人がたどり着けない境地でもある。それは「死」に限りなく近い世界だからだ。 -
「第四の『攻殻機動隊』」はどこに着地したか。
2014-09-08 22:2451pt
それは「もうひとつの歴史」の物語。21世紀に入ってからの二度の世界大戦を通して義体化及び電脳化の技術が長足進歩し、人々がアイデンティティの侵犯に怯える2020年代日本、その裏社会を舞台としたサイバーパンク・ハードボイルド・ロマン。
その頃、世界有数の義体使いにして超ウィザード級の電脳ハッカーでもある「少佐」こと草薙素子は、「サルオヤジ」荒巻が率いる公安九課との折衝を繰り返しながら、自分自身の独立部隊設立をもくろんでいた。
やがて孤独な彼女のもとに個性派ぞろいの精鋭たちが集まって来る。バトー、ボーマ、パズ、サイトー、イシカワ、それにトグサ。そしていま、ついにメンバーを集め終えた素子のもとに最大の難事件が迫り来る。
それは「ブリキの少女」エマと「カカシの男」ブリンダジュニアを巡る奇怪な事件だった。そして事件の裏にまたも見え隠れする最高のハッカー「ファイアスターター」の影。はたして素子はどのようにして「攻殻機動隊」を生み出すのか――?
というわけで、日本がバブルに踊る80年代末から延々と続く『攻殻機動隊』の最新作、『攻殻機動隊ARISE』最終話を観ました。これでシリーズは完結となるのですが、シリーズはさらなる新作劇場版へと続いていくようです。
『ARISE』最終話のタイトルは「Ghost Stands Alone」、テレビシリーズ「Stand Alone Complex」への橋渡しとなるエピソードであることを暗に示しているわけで、新作劇場版は神山監督による「Stand Alone Complex」完結編かな、などと考えたりします。最近、神山さんの活動もあまり報告されていないしね。
しかしまあ、その話の前に『ARISE』の話を片づけてしまいましょう。『ARISE』は草薙素子が「攻殻機動隊」公安九課の一員となる以前の物語と位置づけられています。
一連の『攻殻機動隊』シリーズのプレ・ストーリーといえるわけで、さすがの天才捜査官の草薙素子もまだまだ未熟という設定。この作品をどう評価するかはこの素子の性格づけをどう評価するかでおおかた決まってくると思う。
原作漫画と映画版で人工知性「人形使い」と合体し、神のような存在にまで進化した草薙素子のイメージを追い求めるなら、今回の作品は物足りないかもしれません。
しだいに成長し才能を見せつけてくるとはいえ、『ARISE』の素子は超人的なスーパーヒロインというよりどこか少女の危うさを残したひとりの女性。もちろん意図してそう演出されてはいるのだろうけれど、以前の素子が好きな方は違和を感じることでしょう。
若き日の素子は第3話ではラブストーリーをも演じ、お姫様抱っこまでされています。正直、ぼくもどうなんだろうと思わないこともないのですが、終わってみればより感情的で美少女ヒロインに近い草薙素子も悪くはない印象。
ちなみに今回は脚本が全編通して『マルドゥック・スクランブル』の冲方丁。そこら辺も新しい素子のイメージに一役買っているのかもしれません。
また、プロットと人間関係は例によってアニメ映画としては超複雑に入り組んでおり、初見で把握しきるのは困難。ぼくはたぶん半分くらいしか理解していません。
もう一度最初から見なおしたら別かもしれないけれど、これから観るという人はあまり間を置かずに続けて観るといいと思いますよ。
で、ぼく個人の『ARISE』の評価は「なかなかの良作」という程度。今回は一話ごとに監督が変わっているせいか、各話ごとに出来のばらつきが激しい印象なのですが、 -
メキシコ人漁師のジレンマ。
2014-09-03 19:0051ptたぶん知っているひとのほうが多いと思うけれど、メキシコ人の漁師を主役にした有名なコピペがある。以下のような内容だ。
メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」
と尋ねた。
すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、 漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」
なかなか皮肉が効いた内容だが、さて、あなたはメキシコ人とアメリカ人、どちらの生き方が合理的だと思われるだろうか。
まあ、もちろん、その答えはそれぞれの人の人生観に依存するので、間違いなくメキシコ人が正しいとか、アメリカ人が優れているということはできないだろう。
そのことを踏まえた上で云うなら、ぼくはアメリカ人のアドバイスに従う道を選ぶかな、と思う。金が欲しいのか?と云ったら、必ずしもそういうわけではない。まあ、お金は欲しいけれど、一定額があれば十分だと感じる。
それでは地位が欲しいのか? そういうわけでもない。ひとの上に立つなんて、あきらかにぼくは不向きなタイプだ。それでも、ぼくはやはり「メキシコの田舎町」を出て、世界を知りたいと思う。
やはり、何といっても「メキシコの田舎町」に住んでいるだけではわからないことが星の数ほどもあると思うのだ。もちろん、そうやって世界へ出て行っても、ただ苦労を背負うばかりで、最後にたどり着くところは同じなのかもしれない。
メキシコ人は、内心でアメリカ人の愚かしさを笑っているかもしれない。「バカな奴。結局はこの穏やかな生き方にたどり着くことになるのに、なぜそのために苦労しなければならない?」と。
その意見には一理がある。しかし、人生にはメキシコの田舎町で釣りをしているだけでは体験できないことがあることも事実なのだ。
「メキシコの田舎町」の生活は、たしかに穏やかで平安だろう。さまざまな艱難辛苦を乗り越えた者が最後に求めるものは、結局はその平安であるのかもしれない。
だが、それでも、すべてを経験した上で平安を求めるのと、初めから平安に安住することとは違うと思うのだ。
あるいはメキシコ人は「もう既にすべてを持っている」と思っているかもしれない。しかしかれは、ニューヨークのビルの上から見下ろす景色を知らない。ロサンジェルスの公園で啼く小鳥の声を知らない。
何より、ひとの上に立ち、責任を負って仕事をする喜びも、金銭が生み出す大きな興奮も知らない。そんなものに何の価値があるのか、と思われるだろうか? ぼくもそう思う。
責任ある仕事も、莫大な金も、いまのぼくはべつに欲しいとは思わない。しかし、 -
九月の初めの火曜日、これからの自分について話してみる。
2014-09-02 19:0051ptクリエイティヴな才能、というものについて考えている。きっかけはきょう見たNHKの『プロフェッショナル』。今回はUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)のマーケターの話だったのだが、そのかれがいうのだ、自分にはクリエイティヴな才能はないと。
何百億という金を動かして、とびきりスリリングなエンターテインメントを演出する異才にクリエイティヴィティがない? ウソみたいな話だけれど、たぶん、本人の主観としてはその通りなのだろう。
じっさい、クリエイティヴィティという奴は生まれつきの才能が重要。面白くない奴が書くシナリオは、どういじったって面白くならない。もちろん、特別な才能のもち主が根っこから書き換えない限り、という話だけれど。
とにかく、創造という名の破壊を成し遂げる天才は、この世の中でもとてつもなく貴重なものなのだ。ダイヤモンドなんてものじゃない。もっともっと少なく、偉大なシロモノ。
さて、不幸なことにぼくは(ぼくも)その才能を持って生まれなかった。天にまします神さま、痛恨のミステイク。だって、ぼくは並外れた天才でも持っていなければ生きていけないような欠陥人間なのだ。そんな人間がひとかけらの才能も与えられずに、どう生きていったらいい?
じっさい、それでいまでも迷っているくらいなのだが、とにかくぼくにはクリエイティヴの才能はない。この手をどう使ってもしょせんは何も生み出せないということ。
それでもぼくはこれからも小説を書きつづけるつもりだが、たぶんぼくには生涯、ゼロから世界を生み出すブラックマジックは体得できないかもしれない。ああ無情。
まあ、それは仕方ないので、そういうものだと受け止めてあきらめるしかないのだけれど、それでもやっぱり書くことは好きだ。たとえ、この手で高空をひき裂いて怪物を呼び出したり、深い湖の底に眠る城のことを物語ることはできないにしても、書くことはぼくにとって生きることに等しい。
さらりと軽く、ひと息に読めるような文章を書きたい。あるいはエロティックな官能に充ち、読むほどにかぐわしく感じるような言葉を綴りたい。そう思って、いままで色々と書いてきた。
繰り返す。ぼくには、無から有を生み出す才能はない。一応、創作の理論は知っているが、その理論の領土から新たな一歩を踏み出すことがどうしてもできないのだ。
そういう人間はどうやって勝負したらいいか? 考えに考えたのだが、おそらく「編集」に頼るしかないのだろう。それがぼくがいちばん得意な作業なのだろうという気がする。ほかのことに比べれば、という程度ではあるにせよ。
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