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アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』と『艦隊これくしょん』の違いが興味深い。
2015-01-15 02:1051pt
最近、ちょこちょこアニメを見ています。何といっても先が楽しみなのは『ユリ熊嵐』ですが、他にもいくつか面白そうな作品があって、なかなか楽しい。
ぼくは地方在住なのですべてをリアルタイムで見るというわけには行きませんが、インターネットと衛星放送を駆使すればほとんど遅延なく大半の作品を見ることができるようです。いやー、ほんとうに素晴らしい時代ですね。それがセクシー。シャバダドゥ。
既に各地で話題が沸騰しているようですが、『アイドルマスターシンデレラガールズ』の初回が素晴らしい出来でした。このまま行けばかなりの名作が仕上がるんじゃないかな、と早くも期待は高まるばかり。
同じくソーシャルゲームをアニメ化した『艦隊これくしょん -艦これ-』のほうはもうひとつの印象が強いだけに、両作品の落差に着目してみたくなります。
そもそもソーシャルゲーのアニメ化、というか物語化にはどこかに無理があっておかしくないと思うのですね。
もともとがひとつの自然な物語を紡ぐように作られているわけではないわけで、それを一本の物語に仕立て上げることは、ある意味ではゼロから物語を作るよりむずかしい作業になるのではないかと。
それをみごとやってのけたように見える『シンデレラガールズ』のスタッフには感嘆するしかありません。それにしてもなぜここまでクオリティの高いアニメーションが仕上がったのでしょうか?
はっきりいって、事前にヒットが見込めるコンテンツだけに単純にお金がかかっているということも大きいのだろうけれど、あきらかにそれだけではない。とにかく仕事が丁寧なんですよね。愚直なまでに基本に忠実に制作されているイメージ。
おそらくこれも既に大きな話題になっていることだと思うけれど、数百人に及ぶ美少女キャラクターが登場している原作ゲームからあえて数人(実質2人)のキャラクターを選んで初回の物語を作り出した姿勢には驚かされました。
前作『アイドルマスター』の初回は主要なキャラクターを全員登場させて、ひとりひとりを紹介していった感じだったので、異なる方法論で作られている印象です。
で、これが実に決まっている。素晴らしい。あえていってしまうならば、『シンデレラガールズ』の初回に特別なケレンは何ひとつないともいっていいでしょう。
まず主人公を登場させ、その動機(モチベーション)を語り、ほかのキャラクターと絡ませ、ひとりひとりその個性を紹介していく――といった、あたりまえといえばあたりまえの方法論。
一切登場人物を紹介することなくいきなり物語を語り始めた『冴えない彼女の育て方』の初回(正確には第0回みたいだけど)あたりと比べても、むしろ地味とすらいえかねないやり方です。
しかし、正統には力が宿り、王道には魔法が生まれる。シナリオ的にはそこまで特別なことは何もやっていないにもかかわらず、『シンデレラガールズ』は強い印象を残す初回を生み出すことに成功しました。
じっさい、あらゆることがハイレベルに仕上がっているということは、ここまで強い印象を残すものであるということには、いまさらながら驚かされます。
もちろん、「シンデレラガールズ」というタイトルからもわかるように、これから膨大なキャラクターが登場するのでしょう。原作にはちょっとテレビアニメの枠に収まり切らないくらいのキャラクターが存在しているのだから当然です。
しかし、それらのそれぞれに魅力的なのであろうキャラクターたちに幻惑されることなく、まずはごく少数のキャラクターにのみ焦点を絞って物語を作り始めた監督以下スタッフの英断には心から拍手を送りたいと思います。
どうやら、この一作はソーシャルゲームを映像化するための方法論を確立させたといってもいいようです。つまり、「何が変わったわけでもない。王道の方法論を丁寧に実践するやり方はこれからも通用する」ということです。
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「時」の流れを彫刻した傑作『6才のボクが、大人になるまで。』を見た。
2015-01-13 23:3151ptども。4日間に及ぶスキー旅行から帰ってきました海燕です。正確にはそのなかでスキー場まで行ったのは1日だけで、それもひと滑りして帰ってきてしまったのですが、まあ、一応、名目はスキー合宿。
この歳になってスノーボードデビューを遂げたわけなのですが、それはもう転ぶわ、転ぶわ、転ぶわ、さんざんひどい目に遭いました。
そもそも滑る方法はわかっていても止まる技術を持っていないから、ストップするためには転ぶしかないんだよね。
で、じっさいにやってみるまで想定していなかったんだけれど、スノボって両足が固定されているからいったん転ぶと立ち上がるのが大変なのです。
それはもう七転八倒。正直、「楽しい」とか「爽快」と感じられるレベルにまで到達できませんでしたが、いつか機会があったらリベンジしてみたいと思います。
それにしてもちょっと運動しただけでこうもどっと疲れるのだから、スポーツ漫画の主人公って大変だな。
ちなみに雪上でジタバタしてところを、上から来た女性にぶつかられるハプニングなどもありましたが、恋は芽生えませんでした。ふしぎだなあ。
さて、予定では3日目に新潟に帰ってくる予定だったのですが、気が向いたのでその足で東京まで行ってしまいました。荷物は宅配便で自宅まで郵送してしまったので、まさに身ひとつ。ホテルすら予約していません。
それでもサイフとスマホさえあれば何とかなってしまうあたりが現代の旅の気楽さですね。お金の力は偉大としかいいようがありません。
東京では友人の子供に逢ってなつかれたり(実はわりと子供に好かれる海燕さん)、食べログ全国一位のラーメンを食べて来たりして、いま、うちに帰ったところというわけです。
で、東京滞在中に見て来たのが映画『6才のボクが、大人になるまで。』。これがまた素晴らしい作品でした。ちなみにこの映画、いま全国で日比谷のシャンテでしか公開していないので、たまたま東京まで足を運ばなければ見る機会がなかったことになる。出逢いは奇跡ですねー。
映画のストーリー自体は、ごくありふれた、むしろ他愛ないともいえる代物です。あるひとりの少年の6歳から18歳までの12年間を追いかけただけの内容。
べつに傑出した天才少年だとか宇宙人の生まれ変わりだとかではない、ごく平凡な少年の人生でしかないので、特に映画的に目立つプロットは存在しません。
それにもかかわらず本作が強烈な映画的ケレンを感じさせるのは、ひとえにその12年間を撮12年かけているという特殊な撮影方法のおかげでしょう。
何とこの映画、12年の物語を描くために、じっさいに12年を費やしているというとんでもない作品なのです。
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「755」が面白い。
2015-01-10 11:2751ptども。何となく始めてみた「775」がなかなか面白いです。この手のサービスは使ってみて初めて使い勝手がわかることも多いわけですが、「755」はなかなかいい感じ。非常にユーザーフレンドリーにできている印象です。
それでは、具体的にどのようなSNSなのか。簡単にいってしまうとTwitterなりブログとLINEの中間くらいのイメージですね。つまり、完全に一般公開のメディアと完全にプライベートなメディアの間にある印象です。
基本的にはすべてのやり取りは公開されているものの、会話に参加できるのは管理者が指定した「友達」だけ、という点がそういう印象を生み出しているのだと思う。
この「友達」になるためには(電話番号を登録している相手以外は)いちいちIDを検索して相手を探し出す必要があって、その点が面倒なようでいて実は荒らし対策になっている感じ。
「友達」になるための敷居を一段階上げることでそうそ -
きょうも漫画が読み切れない。
2015-01-09 06:5651pt
ども。海燕です。このところ頑張って更新している甲斐あってか、お陰さまで会員が少しずつ増えています。ほんとうに少しずつなのが辛いところですが、このペースを延々と守っていればいずれは1000人、2000人という会員数にも到達する――かも。
ただ、いまのペースはぼく的になかなか大変。いち記事の文章がいままでの倍くらいになっているので、けっこう疲れます。
そんなぼくからすると膨大な本を出している一部の作家さんは神の如しですねー。西尾維新さんとか、書くのも速いのだろうけれど、それ以上に長時間集中していられる能力が凄い。ぼくは2~3時間も集中しているとわりとグッタリします。
そういえば、下の記事に「まず額に汗して働け」とかいうタグが付いていましたね。この手の上から目線でひとに説教したがるひとは時々出現するのだけれど、いったい何なんだろう。時空乱流に巻き込まれて石器時代からタイムスリップして来たのかしら? ふしぎだなー。
さて、最近、電子書籍で漫画を買いまくっていて、なかなか読み切れません。大長編少年漫画とか買うと高くつくので、主に萌え系とか日常系の癒やし作品を狙って買っているのですが、それでも全部は読めない。いまたしかめてみたところ、
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「755」を始めてみた。
2015-01-08 21:4751ptCMで話題らしいスマホトークアプリ「755」を始めてみました。まだよく使い方がわかっていませんが、とりあえずトークを始めてみた。以下のQRコードから飛べます。良ければフォローしてみてください。
http://7gogo.jp/lp/1khpuuXM3waWkVIvojdMdG==
だれもフォローしてくれないようだったら寂しいからやめます(笑)。フォローするとトークにコメントを付けられるのかな? まだよくわかっていませんが、使い勝手はいいかも。
――えーと、ちょっとわかってきた。つまり、「一般公開されるLINEグループ」みたいな感じなのでしょう。ということは、読まれていることを意識しないといけないということだな。
とりあえずトークの参加者はぼくだけ。ここにぼくの友達が加わったりするかもしれません。何もかも未定。
ちなみにこのあいだ始めた写真共有アプリPicseeはなかなか盛り上がっ -
異色、異様、異形、異常――幾原邦彦、狂騒と耽美の最新作『ユリ熊嵐』を見ろ!
2015-01-08 15:5451pt
やあみんな、殺戮と学園と女の子のアニメのお時間だよ! というわけで、幾原邦彦監督の最新作『ユリ熊嵐』が始まりました。
ユリ熊嵐! タイトルからしてまともじゃねえスメルを放ちまくっているわけですが、まあ、アニメは見てみるまでわからないものです。
寡作ながらオリジナリティあふれる作風で知られる鬼才イクハラの最新作ということで、放送前から一部で熱烈な注目は集まっていたわけですが、じっさい放送されたものがどうだったかというと――うん、やってくれたね!
凄い、凄い、凄すぎる。これぞまさにわけがわからないよアニメ! 平行して放送しているほかの傑作駄作がみんなまとめて凡庸に思えて来る異形の設定、異色の演出、まあとにかく凄いとしかいいようがありません。
具体的にどこが凄いのかというと、えーと、どこだろうね。正直よくわからないというか、何がどうして面白いのか、いやほんとうに面白いかすらさっぱりわからないのだが、とにかく凄いことは違いない。クマショーック!
というわけで、衝撃的な作品ではありました。まだ見ていない、録画もし忘れたという方は、近日中にニコニコでも放送されるので、ぜひ、ぜひぜひ見てみてください。ちょっとほかに類例のないイクハラワールドが味わえます。うん、頭おかしい。
それはまあ、『少女革命ウテナ』を初めて見た時にはこれ以上のショックがあったかもしれない。『輪るピングドラム』の言語センスはもっととんがっていたかもしれない。
そういう意味では本作が特別新しいとはいえないかもしれない。いつものイクハラアニメ、イクハラワールド、そういって済ませることもまあ不可能ではないだろう。
しかし、現実にそこにある映像のインパクトは、ありとあらゆる小賢しい理屈を吹き飛ばす! 何なんだよこれは! 新しいとか古いという以前に、独創的すぎてほかの作品と比べることすらできない。まさに幾原邦彦独創の世界。
「ユリ」と「熊」と「(透明な)嵐」が三すくみで関わりあう話になりそうなことはわかるのだが、逆にいうとそれ以外は何ひとつわからない。
並の監督なら説明に何話かかけそうなめちゃくちゃ設定をAパートだけで終わらせて、Bパートではその設定が崩れていくさまを描く、このパワフルなスピード感! 視聴者がついていける限界寸前のラインだろう。
良くも悪くもマイルドなエンターテインメントに収束しつつある最近のテレビアニメではめったに見られない代物だ。いや、ほんと、何を食べているとこういうことを思いつくんでしょうね。思いついたとして、どうやってスタッフにアイディアを伝えているのであろうか。
とにかくひとついえることは、この異才に常識などというつまらない言葉は通用しないということだ。この人は自分がやりたいようにしかやらないのだ。
くり返すが、耽美なようでもあり、お笑い以外の何ものでもないようにも思えるその独自な世界は、ある意味で見なれたものだということもできるだろう。
庵野秀明は『エヴァ』テレビシリーズから『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』へ移り変わるその間に変わったように思える。それに比べれば、幾原邦彦はある意味で何も変わっていないかもしれない。
奇妙奇天烈でわけがわからない、アニメーションならではの荒唐無稽な世界――ひとことではいえない暗黒と残酷と耽美とギャグが入り交ざった空気。あいかわらずの幾原だ。そういうことはできる。
でも、これはやっぱり凄すぎだろ。エンターテインメントとして面白いのかどうかははっきりいえないけれど、何このアヴァンギャルド。娯楽作品としてギリギリのところを遊泳するぼくたちのイクハラが還って来たのだ。素晴らしい。
まあ、趣味が合わないという人はたくさんいるだろうけれど、ぼくは大好き。この残酷さ、このエロティシズム。
きゃりーぱみゅぱみゅも裸足で逃げ出すというか、狂気と前衛がいい感じにミックスされた世界は、たしかに十年一日で変わっていないかもしれないが、それにしてもちょっとだれにも真似できない作風である。そこらへんのエロ同人誌が束になってもこのエロさは出せないだろうなあと思う。
断絶のコートのジャッジメント――ライフ・セクシー、ライフ・クール、ライフ・ビューティーって何なんだよ。意味がわからねえよ。いいかげんにしろ!
いや、ほんと、いち視聴者としてはひたすらそのとんがりまくった才覚に翻弄されるのみ。どこからこういう発想が出て来るのか、天才とは恐ろしいものです。
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ネットでお金を稼ぎだすことは正しい。
2015-01-07 22:4551ptども。年が明けてから20000文字以上更新していますねー。この調子だと、1ヶ月でだいたい本1冊分くらい書ける計算になります。
「小説家になろう」あたりではもっとハイペースで更新している人がいますから、そんなに大したことではありませんが、ぼくとしてはかなり頑張っている感じです。
ただ、書かないのも良くないけれど、書きすぎるとそれはそれで読み切れなくなる心配があるわけで、むずかしいところです。まあ、書かないで会員が減るより、書きすぎて減るほうがまだ良いかなとは思いますが……。
また、何より記事の質が最優先されるべきなのはいうまでもないことです。一時期やたらたくさん更新していた時はクオリティが付いて行かなかった感じなので、今後は質にこだわって書いて行きたいと思います。
あまり数を書きすぎると一本一本の記事が薄くなってしまうんですよね。
ぼくの目標としては、ネットだけで年収数百万円くらいは稼ぎたいので、ちょっと本腰を入れて頑張りたいところです。最終目標は会員数3000人くらいなんだけれど、まだまだ遠いなあ。とりあえず1000人を超えないと、何をいっても説得力がない。
そろそろブロマガのシステム全体も変わって来るかな?という予感がしているのですが、これ以上状況が悪くなるということはたぶんないでしょう。良くなることもないかもしれませんが。
世の中には「ネットを利用した金儲け」を嫌う嫌儲といわれる人たちもいますが、「ネットでお金を稼ぐこと」は正しいことだとぼくは思います。
そもそもあらゆるコンテンツがタダだということのほうが不自然なのです。対価をもらうに値するコンテンツは有料にして経済を回してこそ得られるものもあるでしょう。
もちろん、99%のコンテンツが無料で流通しているネットにおいて残り1%であろうとするなら、容易に読んでもらえるものではありません。
ましてぼくなどは「きっと何者にもなれない」いちブロガーでしかありません。また、ニコニコ生放送なども積極的に利用してはいません。ほぼテキストだけで勝負している現状です。
しかし、まさにそういう悪条件がそろっているからこそ「夢」がある。そう思います。もしぼくができるなら、ほかの人にもできることでしょう。何者でもない何者でもないままネットを利用し生活していくことが可能であると証明されるのです。
いうまでもなく、いまでもアフィリエイトなどを利用して生活している人はそれなりの数がいます。しかし、会員制の有料テキストにはアフィリエイトとはまた異なる魅力があると感じています。
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『四月は君の嘘』と表現のエスカレーション。
2015-01-06 23:4351pt
漫画『四月は君の嘘』が完結を目前にしています。ぼくとしてはかなり面白い作品だったのだけれど、もうひとつ「軽い」印象を受けるうらみもありました。
音楽ものと青春ものと恋愛ものと難病ものを組み合わせた贅沢な物語であるにもかかわらず、いまひとつ心に残るものが弱いというか。
ぼくは技術的にどこがどう問題だと指摘できるほどの「目」を持ってはいないけれど、精神世界の深層を描き出すほどの深みはなかったのではないかとは思う。
ただそのかわり青春の爽やかさをあわざやかに見せてくれてはいたと思うので、決して凡庸な作品とはいえないかと。現代最高のリア充漫画ですね。リア充の良さというものをこれほど思い知らせてくれる漫画はない。いや、ほんと。
さて、この漫画の最新回についてぼくの友人の地獄的生命体てれびんがちょっと面白いことをいっていたので、その話をしたいと思います。
てれびんがいうには、主人公がおそらく作中最後になると思われる演奏を行う最新話の時点で、主人公の「格」が十分に高まったように思えなかった、というのです。
どういうことか。それはつまり、主人公の「凄さ」を十分に描ききれなかったということなのではないかと思うのです。物語の都合上、「いままでのどのピアニストよりもはるかに凄い」という描写になっていなければならないのに、そこまでは届かなかった、と。
ぼくは必ずしもそうは思わないのですが、てれびんの見方だとそういうことになるらしい。
なるほど、まあ、わからなくはない見方です。一般にエンターテインメント漫画とは、物語が先へ進むにつれ、「より凄いもの」を見せていかなければならないという縛りを持っています。
もちろん、「いつも同じようなもの」を見せてマンネリの魅力で読ませる漫画もある。しかし、そういう作品は一定の人気は得られても、大ヒット作になることはないでしょう。だから、エンターテインメント漫画の表現は常に進歩していかなければならない宿命を持ってい。
このことはジャンルを問いません。バトル漫画では「もっと凄い敵」を出して「もっと凄いバトル」を演出しなければなりませんし、料理漫画では「もっと凄い料理」を出さなければならない。そしてピアノ漫画では「もっとすごい演奏」というわけです。
少年漫画ではしばしば「パワーのインフレ」が起こるとされますが、それも結局はこの「凄さのエスカレーション」のいち形態なのだと思います。
さて、この「凄さのエスカレーション」を解決するためには、基本的に以下の三つのやり方しかないと思います。
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トラウマからささやかな幸せへ。脱『エヴァンゲリオン』的人間観の時代。
2015-01-06 18:2551pt
新年も早くも一週間が過ぎ去ろうとしていますね。30歳を過ぎてから、いいかげんにしろと思うくらい時の流れが早くなったような気がします。
このまま何もしないでいると、簡単に40になり50になり60になってぽっくり逝くのでしょうね。ああ恐ろしい。
今年は西暦2015年、いろいろな人が語っている通り、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の舞台となっている年です。しかし、ぼくはそれにもかかわらず、『エヴァ』的なるものは既に終わったのではないかと思っています。
というか、昨年か一昨年あたりで『エヴァ』に象徴される方法論は完全に終わったのかな、と思うんですね。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』はタイトルこそ同じでも全く新しいことにチャレンジしている作品ですから「終わった」とか「もう古い」ということはできないけれど、『エヴァ』テレビシリーズが象徴していた考え方はさすがにもう完全に時代遅れになっただろうと。
ここでいう『エヴァ』が象徴する考え方とは、「トラウマ」によって生み出される負の情念が支配する人間観のことです。
皆さんご存知のようにトラウマとはある人が過去に負った心的外傷のことを指しているわけですが、『エヴァ』においてはこのトラウマが非常に重要だった。
シンジにせよ、アスカにせよ、ミサトにせよ、ゲンドウにせよ、過去に何らかのトラウマを背負っていて、そのトラウマに支配された人生を送っているわけです。
『エヴァ』の物語に対してはよく「狂気」という言葉が使われますが、作品世界に狂気をもたらしていたのはまさに数々のトラウマであっただろうと思います。
いいかえるなら過去が現代を支配するというのが『エヴァ』の人間観、ひいては世界観だったといっていいでしょう。
これは1999年を間近に控えた90年代中盤としては非常に説得力のある世界観でした。ぼくもその深刻きわまりない世界観に釘付けになっていたことを思い出します。
しかし、世界のマクロ状況は移り変わり、それはミクロな生活にも影響を与えます。したがって『エヴァ』から20年が過ぎ去ったいま、その種の考え方は、さすがに通用しなくなって来ていると思うのです。
この20年間で何が変わったのか。それはトラウマという過去の傷の支配を背景にした暗い世界観が魅力を失ったということなのではないかと思います。
それはつまり多くの人が「トラウマとかもういいよ」と思い始めたということなのではないでしょうか。みな、過去の出来事に延々と支配されつづけるという不健康な世界観から脱出したいと考えるようになったと思うのですよ。
殊に昨年はトラウマという概念そのものを否定するアドラー心理学が流行しました。ぼくもそのきっかけとなったベストセラー『嫌われる勇気』を絶賛していますが、これは非常に象徴的なことだと思うんですね。
もういいかげんトラウマ比べを続けるような暗い時代ではなくなりつつあるということを意味していると思うのです。もう時代はいかなる意味でも世紀末ではありません。新たに制作された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の内容を見てもわかるように、より成熟した世界観でもって物事を語る時代が訪れたのです。
だからこそ、ぼくなどはくり返し「幸せになった」とか「不幸になることはあきらめた」と語るわけです。
一昨年の映画『風立ちぬ』の完成と公開あたりがひとつの節目だったでしょうか。時代は「過去のトラウマに支配され、何もできない」というモードから完全に解放され、「目の前の現実に積極的に関与する」モードに移り変わったように思います。
もちろん、これは時代の空気というか雰囲気の話でしかなく、客観的に論証できるかといえばできないのですが、ぼくは感覚的に時代の開放感を感じています。
たとえその果てにあるものが王国の残骸でしかないにせよ、それでもなお世界とその問題に関わっていくのだ、ぼくは『風立ちぬ』にはそのような意思を感じましたし、それは新たに来る時代を象徴するものだと考えます。
もちろん、それはただ闇雲に自分の道を選択すればいいということではなく、深慮熟考が必要とされることに変わりはないのですが、それでも「何も選ばない(エヴァに乗らない)」ということが最善だとする時代ではなくなって来ているだろう、ということです。
『進撃の巨人』のヒットなどもありますしね。庵野さんも結婚して何だかすっかり幸せそうだしなあ。いや、仕事が大変なのは間違いないだろうけれど、それは自分で選んでことである上に、ある意味で「まっとうな試練」です。「不幸」というような性質のものではないと思う。
『エヴァンゲリオン』的なるものは終わった、とぼくがいうのはそういうことです。ついに完全に新しい時代が幕を開けたように思うのです。
とはいえ、なかにはそう簡単に変わることのできない人もいます。だから、物語もまた完全に一新されるわけではない。前の記事で取り上げた『恋愛しませんか?』みたいな物語はそういう状況を象徴しているようにも思います。
『恋愛しませんか?』はまさにトラウマの物語です。じっさいには何の障害も問題もないとしか思えないにもかかわらず、過去のトラウマに支配され、前向きに生きることができない人物が主人公です。
そのかれに天使のような女の子たちが一方的に好意を寄せてくれるという、いわば「どうしようもないぼくに天使が降りてきた」系の物語ですね。
ぼくはそのご都合主義そのものを問題にしたいとは思いません。ご都合主義最高! ビバご都合主義! だって、ほんとうに天使のような女の子が降りてきたらいいと思うじゃないですか(降りてこないけれど)。
でも、「どうしようもないぼくに天使が降りてきた」なら、さっさとその天使を捕まえてしまうべきだと思うんですよ。「過去の傷がうずくのだ」なんて中二病みたいなことをいっているヒマがあるなら、さっさと告白して付き合って押し倒してラブラブになってしまえばいいじゃん、と。
いやまあ、そこに何かしらの問題なり障害があるのなら、それを解決する必要が生じるでしょうけれど、『恋愛しませんか?』の場合は特にそういうものがあるようには思われないのですね。
だったら、せっかく幸運が降りかかってきたんだから、それをキャッチするのに躊躇するのはおかしい。何を考えているのかわからない。ぼくはそんなふうに思います。
いや、過去のトラウマがあるせいでどうしても積極的になれないという話もわからないではないですよ。でも、いってしまえばそんなに大したトラウマであるようには思われないんですよ。
ちょっと同級生の女の子にからかわれたというだけで、それもほんとうに悪質な「いじめ」とかではない。ちょっとしたタチの悪いイタズラという程度です。
そんなものに一生を支配されて、目の前で可愛い巨乳の女の子がラブ光線を放っているのを無視し、ネクラなオタク人生を送るなんてばかげている。そうは思わないでしょうか? ぼくは思うのです。
いや、べつに「二次元より三次元を選ぶほうがまともだ」とかそういうことをいいたいわけじゃなくて、二次元を選んでもいいんだけれど、その理由がちゃちなトラウマとかじゃダメだろうと。幸せになれるチャンスがあったらさっさと幸せになってしまえよ、と思うんですよ。
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オタクだって幸せになってしまえばいいと思うのだ。
2015-01-06 01:5851pt
正月も終わりましたねー。そろそろふたたび日常が始まる感じです。もっとも、ぼくの場合は何も始まらないし終わりもしませんけど。ええ、変化に乏しい人生を送っています。
しかしまあ、さすがに何ひとつ行動しないというわけにも行かないので、漫画を読んだりテレビ番組を録画したりしています(笑顔)。
とりあえず『アイドルマスター シンデレラガールズ』と『艦これ』は録画したので、いずれリアルタイムで感想を書いたりしようかと。
漫画は電子書籍で大人買いしたりしています。この便利さは癖になりますね。欲しいと思った時にすぐ手に入ることや場所を取らないことはもちろんですが、何より、きちんと場所を把握できるようにしなくても本がどこかに行ったりしなのがいい。
ただ、Kindleアプリには本を整理する機能が付いてないので、何千冊とか買うとわけがわからないことになってしまいそうではあります。
ここらへん、改善の余地があると思うんだけれど、Amazonにしてはイマイチなシステムのままですね。フォルダで分けられるようにしたりしないんだろうか。
まあそういう欠点はありつつも、非常に便利であることは間違いないので、ぼくとしては既にほぼ本はタブレットで読むものという認識になっています。いまとなってはiPadのほうが紙より軽いし綺麗ですからね。
さて、そういうわけでKindleで買ってiPad miniで読んだのがタチバナロク『恋愛しませんか?』。タイトルからわかるように恋愛漫画なのですが、オタネタが散りばめられていて半分はオタク漫画といった印象です。
このところぬるめの恋愛/萌え漫画を中心に漫画を読んでいるのですが、これはそのなかでもかなりぬるいですね。長く浸かっていると心がぽかぽかします。
それでは、面白いのかというと――いやー、これはどうなんだろ……。さすがに内容的に古すぎるんじゃないかなあ。
二次元にしか興味がないオタクの主人公がアキバのメイドカフェでメイドをしている女性から「わたしと一ヶ月の間、お試し恋愛をしてみませんか」と誘われる話なのだけれど、設定といい、内容といい、ちょっと一昨年の漫画とは思えないようなところがある。
二次元に逃避してオタクやっているという主人公の設定がもう時代遅れなんじゃないかと思うんですよね。もちろん、現代にもそういう人はいるでしょう。
しかし、美少女ゲーム愛をどこまでも肯定的に描き切った『神のみぞ知るセカイ』の後でこの漫画を読むことはちょっと辛いかな、と(もっとも、連載期間は重なっているはずだけれど)。
ここでのギャルゲオタクはトラウマからの逃避の手段でしかなくて、ネガティヴな意味合いが強い。それはもう、この時代の風潮にマッチしていないんじゃないかと思うのです。
いや、当然、いくら時代が変わったとはいってもルサンチマンに駆動されてアニメを見る人がいなくなったわけではないでしょう。だけれど、そういう人はいまでは主流ではない。
べつだん、現実から逃れるためにオタクをやるのが悪いとはいわないものの、もうそういうあり方はメインストリームではありえないだろう、ということです。
さらにこの主人公の場合、なぜか一途に好意を向けてくれる後輩の女の子がいるので、普通に彼女と付き合えばいいんじゃね?と思ってしまうわけなのですね。
まあかれはそのあからさまなアプローチにまったく気づかないいわゆる「鈍感系主人公」なんだけれど、ここまで鈍感だともはや罪としかいいようがありません。
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