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記事 36件
  • 百億光年の真空をこえて。『四月は君の嘘』最終回が本気で泣ける。

    2015-03-25 20:08  
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     物語の初めには仄かな予感がただよう。
     その作品が何を伝え、何を訴え、何をとどけようとしているのか、すべてが春風のようにさわやかに匂う。
     『四月は君の嘘』。
     不思議と印象的なタイトルのその作品の場合、初めから既に見事な完成を示していた。
     A boy meets a girl――使い古されたあたりまえの王道を、衒いなくなぞった冒頭には、そこから始まる展開を期待させて余りあるものがあった。
     そしていま、アニメ『四月は君の嘘』は完結を迎えた。
     何もかもが生き生きとした色彩に満ちて輝くその終幕を見ながら、ぼくはこの作品に出逢えた幸福を思った。
     じっさいのところ、最終回において絶頂を迎えるテレビアニメはほとんどない。
     しかし、この物語はその希少な例外のひとつとして長く記憶されることになるだろう。
     無限にひろがっていくかに見える世界の、そのあまりの美しさに、自然と涙がこぼれ落ちそうになる、これはそんなアニメーションだ。
     世界のすべてに生命が宿っている――そう信じられることの幸せ。
     ぼくはいったい何を目撃したのだろう。
     ステージのすべてを青空が覆い、はるかな遠くまで音が響いてゆく。その奇跡の演奏の目撃者となることで、ぼくは「至福」を目にしたのだと思う。
     想いがとどくという至福。
     ほんらい一方通行でしかありえないはずの感情が相互に伝わりあい、限りなく響きあってステージを満たすという、演奏家だけがしる至福。
     その瞬間、ピアノはただ楽器であることをやめ、ヴァイオリンは単に道具であることを超えて、かれと彼女の想いで空間を満たす。
     秀抜な才気と膨大な修練に裏付けられた演奏は、そのとき、時を超え空間を超えて、はるか高空にまで響きわたってゆく――シンフォニー。
     もう怯えはしない。
     もう座り込んでひとり悩み苦しみはしない。
     なぜなら、かれはもう、ひとりではないのだから。かれは出逢ってしまったのだから。その、運命の少女と。
     ――ほんとうに素晴らしいものを見せてもらった。恐ろしく力が入った最終回であった。
     未見の方にはこの最終回だけでもぜひ見てほしい。アニメーション表現の粋を尽くした出色の一話がここにある。
     漫画『四月は君の嘘』がアニメ化されると目にしたとき、正直、そこまで期待してはいなかった。
     音楽もののアニメにするためにはそれなりの障害がある。なぜなら、漫画でただ「素晴らしい演奏」として描けば済むものを、じっさいに聴かせてみせなければならないからだ。
     無音の漫画で表現可能なものを、自由に音を表現しうるはずのアニメーションでは表現できないという矛盾がそこにある。
     ある意味でアニメーションは漫画より不自由な一面があるということかもしれない。
     しかし、この感涙の最終回を見るとき、ぼくはどうやら自分がアニメーションをあなどっていたらしいことに気づく。
     アニメーションは音と映像の芸術。線と音でもって世界のすべてを表現しうるのである。
     この演奏シーンの美しさは多くのひとを感動させることだろう。それはこの世界そのものがもつ底しれない美であり、空間をわたって伝わりゆくひとの想いの美だ。
     この世界はなんて豊かにカラフルなのだろう。人間とは、なんと素晴らしく美しい存在なのだろうか。
     その神に選ばれた指先をなめらかにピアノへ滑らせながら、主人公はくり返す。
     届け。
     届け。
     届け――この想いよ、あの人のところまでに届け、と。
     そして、 
  • どんどんひとが死んでいく物語は刺激的だろうか。

    2015-03-24 22:23  
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     ども。海燕です。
     どうやら風邪をひいたらしく、ふらふらしています。
     いまは薬が効き始めたようで正常になったけれど、さっきまでもうろうとしていました。
     失って初めてわかる健康のありがたさ。ぼくもいいかげん歳老いたので、健康に気を遣わなくては。
     さて、そういうわけできょうは特にネタはありません。
     そこで、最近ちょっと興味がある「デスゲーム」の話でもしようかと。
     デスゲーム。ある厳密なルールのもと、命を賭けてゲームを展開する物語の一ジャンルです。
     古くは山田風太郎があり、また横山光輝があるわけなのですが、現代的な意味でのデスゲームものの嚆矢はやはり『バトル・ロワイアル』になるでしょう。
     いまさら詳細に説明する必要はないと思いますが、この小説の目新しさはデスゲームの戦場を現代(一応は架空の国家ではありますが……)に持って来て、一般の中学生たちを主人公にしたところにあります。
     話の展開そのものは『甲賀忍法帖』や『バビル2世』に近いところがあるとしても、その文脈がまったく違っているのですね。
     先日のラジオでLDさんが話していましたが、デスゲームものが流行する背景には「生の不全感」があるように思います。
     「生きているということ」が満たされていないから、死が目の前にある極限状況に「生の燃焼」を求める。これは非常にわかりやすい話だと思います。
     デスゲームものの最高傑作のひとつである『DEATH NOTE』にしてからが、主人公夜神月が「退屈だ」と感じている場面から始まるわけです。
     社会を変えるとか新世界の神になるとかいった野望はあるにしても、あくまで「退屈な生」を充足させることが本来の目的。
     スリリングな戦いの日々はすべてそのためにあるのです。
     つまり、デスゲームものとは「生の不全感」を癒やす方法論のひとつだということ。
     その意味で、暴力に充足感を求める『ホーリーランド』とか『自殺島』といった作品に近いところにあるといえます。
     ここまでは、まあ、わかる。
     ところが、ぼくが見るに、最近のデスゲームものは「死」が非常に軽く扱われているように思えるんですよね。
     『少年マガジン』の『リアルアカウント』とか『神さまの言うとおり』あたりが象徴的ですが、「死」の描写がやたら軽い。
     あたかも文字通り「ゲーム」に過ぎないかのように見える。
     いや、ゲームであってもかまわないのだけれど、そのゲームに命がかかっているという切迫感が、『リアルアカウント』などには見られないと思うのです。
     これには異論もあるかもしれません。 
  • 『ソードアート・オンライン』奇跡の第四部「アリシゼーション」が凄すぎる。

    2015-03-24 02:27  
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     ども。 何となくテレビゲームをプレイしたい気分になったので、『アサシンクリード』シリーズのナンバリングタイトル第四弾『ブラックフラッグ』を購入して来ました。
     新しいゲームを始めるときはいつもそうであるように、はてしなくひろがる世界に心踊ります。
     ただ、ヴィジュアル面では、やはりPS3の映像処理能力の限界は如何ともしがたい感じ。
     これがPS4だったらはるかにきれいなのだろうし、まだ見ぬ未来のゲームマシンではさらに美しい世界を仮想現実で体験できるのでしょうね。
     まさに『ソードアート・オンライン』。
     『SAO』の世界はもう既に夢物語ではなくなりつつあるのかもしれません。
     とりあえずSONYの「プロジェクト・モーフィアス」には期待したいところ。
     さて、『SAO』は現在、セールス1000万部を超え、ライトノベルの歴史上でも記録的な数字を叩き出しつづけているようです。
     ファンタジー世界を模した仮想現実空間で死の冒険を繰りひろげるというアイディアそのものはいまとなってはむしろ凡庸であるにもかかわらず、なぜ『SAO』はこれほど読者を惹きつけるのでしょうか?
     ――いやあ、これが正直、よくわからない。
     もちろん、『SAO』がでたらめに面白いことは論をまたないのだけれど、それにしてもいまどきめずらしいくらいのストレートな冒険小説であるわけで、「いまさらこういうのはちょっと……」という反応になっていてもおかしくなかったはず。
     じっさい、同種のアイディアを使用した作品はそこまであたっていないのだから、いったい『SAO』の何がそこまで特別なのか? はっきり言葉にすることは意外に簡単ではないようです。
     ひとつ考えられるのは、おそらく「いまどきめずらしいくらいストレートなヒーローものの冒険小説」であることが、かえってプラスに働いているんだろうな、ということです。
     『SAO』の最大の魅力が、主人公を務めるキリトという少年にあることは間違いないでしょう。
     長大な『SAO』のほぼ全作品に登場して無双しつづけるこの「黒の剣士」は、ほとんど孫悟空とかダルタニアンあたりに比肩する伝説的な存在感を有しています。
     ただ、どこか少女めいた容姿に、不世出の剣の腕前、などとその個性を並べあげると、むしろ凡庸なキャラクターに思える。
     なぜキリト少年だけがこうもスペシャルに読者を冒険へ誘うのでしょうか?
     いろいろと理屈は考えられるのですが、正直、やっぱりよくわかりません。
     すべては結局は『SAO』が「王道」の物語であること、そして「王道」はいつも最高に面白いのだということを示しているように思われます。
     しかし、その「王道」が限りなく通じにくくなっているのが現代なのであり、だからこそ何かしら「王道」をひねった作品が出現しているはずだったのではないでしょうか? 
     いったい『SAO』やキリトをほかの凡庸な「王道」的な物語と区別しているものは何なのでしょう。
     これはいまもってぼくの宿題で、はっきりした解答を示すことができていません。
     まあ、ひとつの決定的な答えがあるわけではなく、作家としての総合的な実力が抜きん出ていた結果なのかもしれませんが。
     じっさい、川原礫はその驚異的な執筆速度も含めて、現代最高のライトノベル作家といってもいいでしょう。
     特に物語がグレッグ・イーガンめいたオーバードライブを見せる第四部「アリシゼーション」の魅力は別格です。
     この「アリシゼーション」、電撃文庫版ではいまだに完結を見ていないのですが、ぼくはライトノベル史上最高のエンターテインメントだと思っています。 
  • このブログはいまどうなっているか?

    2015-03-23 22:09  
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     ども。ここ2日間、甥っ子(5歳)と姪っ子(2歳)の相手をしてヘトヘトになっている海燕です。
     子供というのは、あれですね、人の形をしたモンスターですね。
     ヒューマノイドタイフーンとはこのことか。これがあと4日間続くのだと考えると泣きそうになります。
     まあでも、ぼくは1週間弱でしかないけれど、両親は20年とか相手をしつづけるルールであるわけで、人の親になるということはほんとうに大変なことだな、と痛感します。
     まあ、後半の10年は相対的に楽にはなるだろうけれど、それでもね。
     いや、ほんと、子供の世話をするのは大変ですわ。
     しかも、恐ろしいことにぼくのきょうのお仕事はこれから始まるのだという(笑)。
     まあ、この記事のことなんですけれどね。いやー、一日遊ぶと義務が重たいな。
     ただ、子供の相手は肉体的には疲れるのだけれど心理的にはいい気分転換になる側面もあるような気もします。
     やっぱり何もやることがないことがいちばん辛いですね。
     毎日毎日だらけていられるのは一種の特殊な才能というべきで、大半の人は「何もするな」といわれても何かしたくなると思います。
     だからこそひきこもりが辛いわけです。
     ぼくも本を読んでアニメ見てブログを書くこと以外何もすることがないというのは意外に辛いんですよ。
     「作業(義務)」と「遊び(権利)」がバランスよく配分されているのが健全な日常というもので、どちらが欠けても辛くなるのかもしれないなあ、と思います。
     「一切仕事をしなくてもいい」なんていわれても、きっと楽じゃないと思いますよ。
     もちろん、ハードな仕事をしている人はそれはそれで大変なのだけれど、それとは別種の苦しさがあるはず。
     まあ、人はみな自分がいちばん大変な思いをしていると考えたがるもので、他人の苦しみにはなかなか理解を示さないわけですが――。
     さて、そういうわけで、きょうはひさしぶりにブロマガの現状報告をしたいと思います。
     今月から有料会員を増やすべく、トライアル&エラーを始めたのだけれど、どうなっているのか? 興味があるという方もいらっしゃるでしょう。
     結論からいうと、会員は順調に増え始めています。あまり長期の具体的な数字を示すことはよしておきますが、とりあえず過去4日間で11人増の0人減という数字を記録しています。
     きょうはまだ終わっていないわけだからまだ増えるかもしれない。
     これは大した数字じゃないように見えるかもしれませんが、1年間このペースを維持できたらそれだけで会員が1000人を超え、300万円近く収入が増加することになります。
     いやまあ、 
  • アニメ『デレマス』は物語の構造的課題をどう乗り越えるか。

    2015-03-23 02:17  
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     いささか遅ればせながら『アイドルマスターシンデレラガールズ』最新話を見ました。
     今回は小学生ふたりを含む凸凹アイドルトリオ「デコレーション」のお話。
     おじさん、小学生がへそ出しファッションというのはマジでどうかと思うな、というのは置いておくとして、プロデューサーとアイドルのディスコミュニケーションから事件が起こる『デレマス』の典型的なエピソードでした。
     携帯電話があるにもかかわらずなぜかはぐれてしまうデコレーションと武内Pのすれ違いが見どころなのですが、さすがにシナリオに無理があるような気がしなくもないw
     いくらなんでももう少しちゃんと連絡とれるでしょ。
     いつものごとく武内Pの不器用さがほほ笑ましい、といいたいところですが、危うく仕事に穴を空けるところだったわけで、Pの責任は重大と思われますね。
     いやー、さすがにこの人、コミュニケーション能力なさすぎじゃないでしょうか。
     人間として誠実なのは間違いないとしても、ここまで事態解決能力に難があるのは問題なんじゃないかと。
     武内Pというキャラクターはアニメ版『デレマス』の大きな発明で、非常に魅力的ではあるんだけれど、この不器用さは社会人としてどうなんだと思わなくもない。
     いや、そういうことをいうのは無粋だというのもわかるんですけれどね。
     そもそも『デレマス』は前作『アイドルマスター』に比べて構造的にカタルシスが生まれにくいところがあるように思います。
     『アイマス』は無名の事務所に所属するアイドルたちが無名のところからメジャーへ駆け上がっていく展開に快感があったわけですが、『デレマス』は初めから大企業に所属しているわけですから、ある程度、成功が約束されている側面がある。
     もしこれでまるで成功しなかったらよほどプロデューサーが無能なのか、アイドルたちに魅力がないかということになってしまうと思うんですよ。
     仮に『デレマス』がこの先、前作と同様のテーマを追いかけて行くことになるとしたら、前作より甘い初期条件で物語を始めていることは大きな問題だと感じます。
     だから、この先また何かひと工夫があるとは思うんだけれど、全体の4割程度を消化したいまの段階(たぶん)でその工夫が見えて来ないということには、ちょっと歯がゆく思えなくもない。
     もちろん、このままあっさり大成功して終わるはずはないので、何か仕掛けてくるとは思うんですけれどね。
     まあ、大企業の大きなプロジェクトが背景になっているという設定からは、必然的にその企業のなかでの過酷な競争があって――という話になりそうなところなのですが、おそらく『デレマス』も前作同様に理想論のファンタジーで押し通されるはずで、そういう話にはならないでしょう。
     ここらへん、甘いといえば甘いのだけれど、ぼくはこのシリーズにはファンタジーをこそ期待しているので、特に文句はない。
     ただ、最終的にファンタジーが勝つにしても、まったく何の障害もなかったら当然ながら物語として面白くない。
     したがって、何かしらの形で「現実」が見えて来ないといけないと思うのですが――どうするのだろうね、うーむ。
     前作は、各々のアイドルそれぞれに個性もあれば人気の差もあるという「現実」と、みんな仲間! 家族! という「理想」のコンフリクトが大きな魅力でした。
     最終的に「理想」が勝利し、美しいファンタジーとして終幕することになるのですが、ぼくはそのことに何の文句もありません。
     やっぱり、フィクションなんだからフィクションのマジックを見せてほしいわけなのですよ。
     現実ってこういうものだよね、仕方ないよね、というだけではあえて物語という形で語る意味がないではありませんか?
     そういうわけで、『アイマス』や『デレマス』が理想を追求するファンタジーであることを批判するつもりは一切ないのだけれど、あまりに甘ったるいとやはり問題ですよね。
     前作がほんとうに感動的だったのは、きびしく押し寄せてくる「現実」を前にしてもなお、どこまでも「理想」を追い求めるその姿勢に美しいものを感じたからでした。
     今回はそれに比べると余裕がある気がしてしまうんですよね。
     前回の杏の描写にしても、 
  • 『SAO』、『ログホラ』、そしてSEKAI NO OWARI。ファンタジー的想像力の彼方にあるものとは。

    2015-03-22 03:12  
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     ペトロニウスさんが最新記事でSEKAI NO OWARIを取り上げていますね。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150321/p1
     SEKAI NO OWARIはたしか新潟にもツアーで来たりしているはずなので、たまに視界の端っこに入ったりするアーティストなんですけれど、なるほど、ゲームと仮想現実の文脈で見るのは面白いです。
     たしかにSEKAI NO OWARIが歌う「ファンタジー」って、ゲーム世代のファンタジーだよなあ、という気は強くする。
     べつだん熱烈なファンというわけじゃないし、何曲か聴いて感じただけの印象ですが、まあ、『ドラゴンクエスト』の世界ですよね。
     ただ、『ドラクエ』的なイマジネーションというものは、いまではもうひとつ『ドラクエ』を超えて普遍化したものだと思うんですよ。
     ぼくたち以降の世代は、仮に『ドラクエ』をプレイしたことがないとしても、その想像力を確実にシェアしているんじゃないか。
     「小説家になろう」で広く見られるファンタジー作品などはその典型であるわけですけれど、年代的に必ずしも『ドラクエ』がメジャーでない若い世代にとっても、やっぱり『ドラクエ』的なファンタジーは親和性が高いものなのだろうと思うのです。
     『ドラクエ』に始まり、一般化し、普遍化し、日本中に広がっていったひとつの「世界観」があるということですね。
     その「世界観」はもはや膨大な数のファンタジー作品に影響を与えていて、若い世代にとっては「原風景」とすらいえるものとなっている気すらします。
     どういえばいいのかな、何かきれいな風景や、神秘的な物体を見ると、ぼくなどはすぐに、ああ『ドラクエ』だ、『ファイナルファンタジー』だ、『ゼルダの伝説』だ、というふうに思う。
     でも、それってほんとうは順序が転倒していることなんですよね。
     ほんとうは現実に美しい景色や神秘なモノが存在していて、それを引用してゲーム的なイマジネーションが紡がれていったのだから。
     ただ、いまのぼくたちにとっては現実の自然よりも虚構のゲームのほうがはるかに身近になってしまっていることは、良し悪しはともかくもう完全な事実ですよね。
     たとえば「戦争」というと、まず『ガンダム』が思い出される、みたいな現象に近いかもしれません。
     いまのぼくたちにとって、ゲームの世界が「もうひとつの現実」であり、「いつかそこにいたことがあったかもしれない世界」と感じられることは争えない事実でしょう。

     たぶんですね、、、この作詞の感性って、『RPG』や『眠り姫』もそうなんですが、ゲームの世界をも一つの「現実」として前提として考えている感性なんだと僕は感じるんですよ。『眠り姫』とかも、僕らはたくさん冒険したよね!というフレーズは、僕には、ロールプレイングゲームやネットのゲームの世界で、異世界転生というか「もう一つの現実」を生きたことが、現実と等価かそれ以上の価値をもって世界を生きている人の感性が、自然にナチュラルに描かれているですよね。

     そう――SEKAI NO OWARIの歌詞の感性は、いまやごく普遍的なものでしょう。
     「ゲームでの冒険」は現実の冒険と等価である、と信じることができるセンスは、広く共有されていると思う。
     もっとも、こう書いてみてあらためて「その感覚はほんとうだろうか?」と思うことも事実です。
     これは『ログ・ホライズン』の記事で書いたことですが、現代で流通しているファンタジー的な想像力はそのほとんどが「コピーのコピーのコピー」であるに過ぎません。
     その源流にまでたどっていけばたしかにオリジナルがあるにせよ、それと比べたらはるかに色褪せた想像力でしかありえないと思うのです。
     これには異論もあることでしょう。
     アニメやゲームのヴィジュアル的な解像度は増すばかりであり、迫真の作品が次々と出て来ている。
     たとえそれが「コピー」であるとしても、圧倒的な薄力をもった作品もあるはずではないか、とか。
     しかし、そうはいっても、ぼくたちはファンタジーゲームをあくまで「ゲーム」として、「フィクション」として割り切った上でプレイしている。
     一方で、ぼくたちが単にファンタジーゲームのジョブのひとつとして扱っている「騎士」とか「魔法使い」とか「占星術師」とかが現実の存在だった時代があるのです(占い師は一応いまでもいますが)。
     もっというなら、森の奥に妖精が住んでいるかもしれないと信じられる時代が現実にあったし、どこか遠くにドラゴンがひそんでいるかもしれないと考えられた時代もあったわけなんですよ。
     そういう時代において、魔法使いや妖精やドラゴンや吸血鬼は紛れもない「実在」の存在であって、ファンタジーはただの遠い世界を描いた夢の話ではなくまさに「真実」の物語だった。
     もちろん、あるいはその時代の人々もそれらはしょせん迷信の産物に過ぎないと考えていたかもしれない。
     しかし、それにしたって、高度産業文明に守られて自然から切り離されたぼくたちとは「魔法」のリアリティが格段に違っていたはずなんですよね。
     そこにはじっさいに自然があり、脅威があった。
     森の奥には何がひそんでいるのかわからなかった。
     海の向こうには何が生きていてもおかしくないと思えた。
     そういう広い意味での「自然」に接した体験に由来するファンタジーを、ぼくは「本物」と呼びます。
     そして、きょう流通しているファンタジーのほとんどは、ひとつの作品としてどんなに優れているとしても、そういう意味ではやはり「コピー」なのです。
     現代人そのものが「コピー」に囲まれて人工の世界を生きている存在だといってもいい。
     それが「生の不全感」へつながっていくこともある。
     しかし――ここが重要なところなのですが、「コピー」が「本物」になりえる瞬間もまたあると思うのです。
     ほんとうは「フェイカー」であるに過ぎない衛宮士郎が、本物の神話の英雄であるギルガメッシュを破ったように、といえば良いでしょうか。
     なぜそんなことが起こるのか? それは、 
  • 『僕は友達が少ない』、『妹さえいればいい。』の平坂読はなぜ批判されつづけるのか?

    2015-03-21 19:53  
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     平坂読の最新作『妹さえいればいい。』をくり返し読み返している。
     面白いなー。面白いなー。
     一般文芸とはまったく異なるライトノベル特有の世界なのだけれど、ぼくとしては非常にしっくり来る。
     作中では主人公がAmazonレビューを罵倒していたりもするのだが、じっさい、この小説のAmazonレビューを見ると「まあ、罵倒したくもなる気持ちもわかるよな」と思えて来る。
     もちろん、普通に読んで評価している人もいるのだけれど、★ひとつ付けているレビュアーとか、あきらかに本編を読んでいないものなあ。
     まさに「アマゾンレビューは貴様の日記帳ではない!」といいたいところ。
     一方で「小ネタの連続ばかりでストーリー性が薄すぎる。その割には変な商売っ気だけはやたらと豊富」という★★の評価もあって、これは非常によく理解できる。
     普段からライトノベルを読みなれていない人が読むとこういうふうに思うだろうな、と。
     ただ、ある程度この手の小説に慣れている人間から見ると、やはりいくらか筋違いに思えるのもたしか。
     「普通の小説であれば、おそらく必要不可欠の要素である一冊の本を通してのストーリーと言うべき物が全く無いのである」ということなのだが、すいません、平坂読の作品は「普通の小説」ではないのです。
     『妹さえいればいい。』をあえてジャンル分けするなら、いわゆる「日常もの」にあたるだろう。
     この作品に「一冊の本を通してのストーリー」がないという指摘は正しいが、そういう物語は既に膨大な数が出ており、しかも読者に受け入れられているのだ。
     『ゆゆ式』にも狭い意味での「ストーリー」らしきものはほとんどないが、いまさらそれを問題視する人はほとんどいないと思う。
     たとえば『To Heart』あたりから数えるとすれば、オタク文化はもう既に20年くらい日常ものを描いている。
     『あずまんが大王』から数えると15、6年かな。
     一般的な意味での「ストーリー」がほとんど存在しないように見えるプロットは、ラノベ慣れしていない人にはさぞ奇妙に見えるだろうが、実はそれなりの歴史と伝統を背負っているのである。
     また、作中にオタクネタをやたらと散りばめるのも、既に何年も前に確立された方法論だ。

    そのストーリー性の薄さの代わりにやたらと詰め込まれていたのがラノベネタである
    ラノベ作家を主役にした作品なのだから当然だろうという方もいるだろうけど、ここで言う「ラノベネタ」というのが現実に出版されたラノベなのだから仰天させられた

     とあるのだけれど、これはべつに『妹さえいればいい。』の独創ではなく、いまのライトノベルにおいてはむしろスタンダードな方法論であるわけなのだ。
     そしてそういうやり方が採用されているのは「商売っ気」というより、単純に読者が喜ぶからだろう。
     じっさい、ぼくは217ページ5行目のネタで死ぬほど笑った。
     この種のジャンル自己言及はジャンルを狭いターゲットに向けて閉じていくから良くないという評価もあるとは思う。
     しかし、それをいいだしたらSFとかミステリが自己言及を重ねながら進歩していった歴史も否定されなければならないことになる。
     新本格ミステリなんて全部ダメになるんじゃないですかね?
     綾辻行人のクリスティネタとか有栖川有栖のクイーンネタは良くて、平坂読の『Fate』ネタ、『ソードアート・オンライン』はネタは良くない、という理由もないだろう。
     まあ、そんなことばかりやっていたから本格ミステリは商業的に衰退したんだ!といわれると一理ある気はしますが……。
     ここらへんはもうちょっと深堀りしないといけないテーマかもしれない。
     そういうわけで、このレビューの批判的な「読み」は、何をいいたいかは非常によくわかるのだけれど、あまりにもいまさらな指摘に思える。
     ラノベを読みなれていない人がそういうふうに感じることは非常に無理がない話ではあるのだが、現在のラノベではこの程度のことは善かれ悪しかれ常識なのである。
     つくづく思うけれど、ライトノベルを読むためにはライトノベル特有のリテラシーが必要なんだよなあ。
     「タイムパラドックスって何?」という人がSFには向かないように、「密室殺人ってどういうこと?」という人がミステリには適さないように、ライトノベルを読むためにはそれなりの知識と感性が必要になるということなのだろう。
     まあ、それが良いことなのかどうかということは、先述したようにたしかに議論の余地があるだろうけれど……。
     しかし、一方で『妹さえいればいい。』は非常に間口が広い作品でもあると思う。
     たしかにラノベ特有の異色の方法論を用いて入るのだが、見方を変えればほんとうにただの青春小説だからだ。
     オタク版『ハチミツとクローバー』だよなあ、と思うくらい。
     たしかに 
  • ピンを打たれた蝶のように。石田衣良『水を抱く』に堕落の悦びと慄きを見た。

    2015-03-21 03:10  
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     ぼくは普段あまりアルコールをたしなまない。
     どうにも気分よく酔えない体質だし、特に美味いとも思わないのだ。
     しかし、時には琥珀色の洋酒でも流しこみながら読んでみたいと思う小説がある。
     石田衣良の性愛小説『水を抱く』はまさにそんな不埒な一作。くらりと視界が歪むような酩酊感がこの作品にはふさわしい。
     石田はいままでにも何作か性を主題に据えた作品を物している。
     幾人もの女たちに体を売る娼「夫」の若者を主人公にした『娼年』と『逝年』の二部作がそうだし、大人の恋を描いた『夜の桃』もその系譜に位置付けられるだろう。
     『sex』という直截的なタイトルの短篇集もあるくらい。
     しかし、『水を抱く』はそのいずれとも違う。それでいて実に秀抜な仕上がりである。
     かぎりなくなめらかでありながらどこかに心さわぐざらつきを秘めた読み心地は、高価で贅沢な革張りの椅子のよう。
     読み進めるほどに昏い頽廃の夜を巡る懶惰なひと時を味わえる。小説を読む歓びである。
     主人公は国内屈指の医療機器メーカーに務める青年、伊藤俊也。
     その名前と同じく平凡な若者で、最近、恋人に別れを告げられたばかり。
     だが、かれの平和で退屈な日常は、ネットで知り合った凪という女と出逢ったことから呆気なく歪み、崩れてゆく。
     その紛れもなく破滅の予感を秘めた、それでいて底しれず蠱惑的な日々がこの小説の読みどころである。
     ひとはなぜときに破滅に魅いられ、危険に陶酔するのだろう。
     俊也はその先に待つものが凄惨なまでの地獄であると知りながら、どうしようもなくエロティックな深淵に堕ちてゆく。
     あたかも少女に採取されピンを打たれた蝶のように、かれの心は凪に釘付けにされてしまったのだ。
     くり返す快楽と頽廃の日々。刺激的なプレイの数々に惑溺するうち、俊也の日常はしだいに狂ってゆく。
     やがてビジネスとプライヴェートの双方で試練が訪れる。
     そして、それにもかかわらず俊也はさらに深く凪に溺れてゆくのだった――。
     石田衣良の描く性愛小説は、どんなに倒錯的なプレイを描き出しても小説としての品格が失われないところに特徴がある。
     それでいて、そこで活写される淫らで妖しい世界は、ひとを捉えて離さない邪な魅惑を秘めている。
     性教育の教科書では捉えきれない性愛のダークでビターな一面。
     倒錯と変質だけがもたらす刺激もまたあるということ。
     俊也は凪と知り合うことで、初めてその深淵のほんとうの深さを知る。
     危険とうらはらの快楽。
     ただペニスとヴァギナでつながるだけではなく、心のいちばん深いところをさらけ出して触れあうことの途方もない悦び。
     それはただコミュニケーションというにはあまりにあやういスタイルかもしれない。
     しかし、それでいてかれがいままでに経験してきたどうにもぱっとしない恋愛とは桁外れに刺激的な悦楽の形だった。
     いままで俊也が経験してきたベッドを共にしたその瞬間から色褪せてゆく恋とは異なり、凪は深く掘れば掘るほどに新しく湧き出てくる清冽な泉なのだった。
     ところが、彼女には大きな秘密があって――と、物語は続く。
     ここら辺りのストーリーテリングの技巧はやはり卓抜なものがある。
     とはいえ、それ以上に印象深いのは、繊細な言葉遣いで綴られる性愛の描写だろう。
     快楽とは薄められた苦痛であるに過ぎないといったのは誰だったか。 
  • そしてぼくたちはリア充にたどり着いた。『はがない』平坂読の最新作がマジで新時代を切り開いている件。

    2015-03-20 11:02  
    51pt


     天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというけれど、しかし現実には人間は平等なんかじゃないよね――と一万円札のおっさんは言った。 そのとおりだなーと京は思う。 人間は平等なんかじゃない。 可児那由多は、あたしよりも価値がある。
     平坂読といえばベストセラーシリーズ『僕は友達が少ない』(通称「はがない」)で知られているライトノベル作家だが、先日、その平坂の最新作が出た。
     「妹さえいればいい。」というわかりやすいタイトルに「日常ラブコメの到達点」というコピーが付いている。 『はがない』がわりと好きなぼくは「またまたまたまた」と思いつつ、読んでみた。
     ――素晴らしい。
     ぼくはブロガーとして、小説や漫画や映画についての意見を文章にまとめあげることを仕事にしていて、どんな作品のことであれ一応は饒舌に語り上げるテクニックは身につけているつもりだ。 だが、ほんとうに凄い作品と出逢ったときは「やばい」しか言葉が出ず、「やばいやばいやばいやばい」と書いては消し去る作業をくり返すことになる。
     『妹さえいればいい。』はまさにそんなやばい一作。 読み進めるほどに幸福感がつのり、「これはすごいのでは……?」という思いが「すげえ!」に変わっていった。
     いやあ、これはほんとすげえっすよ。 「やばい」とか「すげえ」とか抽象的な言葉ばかり使って内容がない書評はろくなものではないが、ついついそういう表現をしてしまうくらい面白い。
     2015年で接したすべての創作作品のなかで暫定1位。 べつだん、ぼくはライトノベルの栄枯盛衰自体はどうでもいいのだけれど、こういうものを読むと「ラノベ、まだまだいけるじゃん」と伊坂幸太郎作品のコピーみたいなことを思う。
     そういうわけなので、このブログの読者の皆さん及びどこからかリンクで飛んで来た方々はぜひ読んでみてください。とってもオススメです。
     あ、ライトノベルそのものに特に興味のない方はけっこう。 あらゆる意味でライトノベルでしかありえない表現をまとめあげた特濃の一作なので、ラノベ初心者は内容のクレイジーさに付いていけない危険がある。
     というか、そういう人は冒頭2ページくらいで読むのをやめると思う。ためしにそのあたりをちょっと引用してみよう。

    「お兄ちゃん起っきっき~」
     そんな声が聞こえて目を開けると、俺の目の前に全裸のアリスが立っていた。
     アリスというのは今年14歳になる俺の妹で、さらさらの金髪にルビーのような真紅の瞳が印象的な、文句のつけようのない美少女だ。
    「ん……おはようアリス」
     頭がぼんやりしたまま俺が挨拶をすると、アリスはくすっと笑って、
    「眠そうだにゃーお兄ちゃん。そんなねぼすけなお兄ちゃんには――」
     アリスの顔が俺に急接近してきて、そのまま――チュッ。
    「……!」
     アリスの柔らかい唇が俺の唇に押し当てられ、眠気が一瞬で吹き飛んだ。
    「目が覚めっちんぐ? お兄ちゃん」
     唇を離し、アリスは悪戯っぽく微笑む。その頬は少し赤い。
    「今日の朝ご飯はアリスの手作りだりゃば。冷めないうちに早く来てにゃろ」

     うん、頭おかしいですね。 大成功を収めたシリーズものの次の作品を、「お兄ちゃん起っきっき~」で始める平坂先生のアグレッシヴさにはマジで尊敬を覚える。
     ほんとうはこの先にさらなる狂気の世界がひろがっているのだが、それはゲンブツで確認してほしい。
     もちろん、すべてはあくまでネタであり、上記は主人公が書いた小説の一節という設定なので、この一節を見て「やっぱり読むのやめておこうかな」と思った人もどうか読んでやってください。
     いや、この種のギャグをまったく受け付けないという人は無理をしなくていいけれど、たぶんこれがこの小説における最初にして最大の障壁なので、ここで挫折してしまうのはもったいない。 繰り返すが、ぼく的には年間ベストを争う傑作なのだ。
     どこがそんなに面白いのか? 色々あるけれど、ようするにこの小説、才能と実力を兼ね備えたリア充連中がキャッキャウフフしている描写がひたすら続くリア充小説なのだ。そこがいちばん凄くて面白い。
     主人公は妹萌えが狂気の域に達しているライトノベル作家・羽島伊月。 かれとかれのまわりに集まってくるライトノベル業界の残念な奴らがたまに仕事をしながらひたすら遊んでいるという、それだけといえばそれだけの内容である。
     しかし、これが面白い。ほんとうに面白い。 ライトノベルの主人公をライトノベル作家にするのも、有名無名の実在作品を取り上げて作中に散りばめるのも、過去に作例があり、特に新しくはないのだが、この衒いのないリア充感は確実に新境地をひらいている。
     この小説のテーマはそのまま「メインテーマ」と題された一章に記されている。

     才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。
     誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。
     一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。
     この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。

     ここには「容姿」や「才能」や「金」に恵まれた人間が特別で、そうでない人間は不遇だという価値観がない。 「リア充」対「非リア」といったわかりやすい対立軸がさりげなく、しかし明確に解体されている。
     これはリア充を仮想敵にした上で、その実、かぎりなくリア充的な日常を描いていた『はがない』から確実に一歩を踏み出しているといっていいだろう。 もはや 
  • 愛が理想をくじくとき。『まどマギ』と『風立ちぬ』の相違点について。

    2015-03-19 02:04  
    51pt


     一般に、男性作家は男性に都合のいい話を描き、女性作家は女性に都合のいい話を描くものです。あたりまえといえば、あたりまえのこと。
     もちろん、より公正な視点から物語を綴る作家もいるでしょうが、高尚な文学作品はしらず、通常のエンターテインメントではどうにもそういうふうになりがちなのではないでしょうか。
     たとえば宮﨑駿が監督した映画『風立ちぬ』などは、とても男性に都合のいい話だったと思います。 人物も世界も、すべてが男性主人公の「少年の夢」の輝きを照らしだすために存在しているような印象があった。
     ぼくはそのご都合主義的な開き直りが嫌いではありませんが、ふと、女性の目にはどう見えるのだろうと感じることもあります。
     非常にスタンダードな「男のロマン」の物語であるように見えるだけに、あるいは女性から見たらなんと身勝手な、と思えるのではないでしょうか。
     とはいえ、ぼくは男なのでやはり「男のロマン」の物語を好ましく感じます。 ある天才的な主人公が、大人になってなお、少年時代の夢を純粋に追い求めつづける――そういう「少年の夢」の物語がとても好きです。
     それは、まさに『風立ちぬ』がそうであったように、現実世界の理屈と衝突してときに血まみれの夢と化すことでしょう。 しかし、そうであればあるほどその純粋さは際立つわけです。
     『風立ちぬ』のほかには、漫画『プラネテス』のウェルナー・ロックスミスあたりがそういうキャラクターにあたるでしょうか。
     人道をも倫理をも汚辱してなお、自らの夢をどこまでも追いかけつづけるという奇怪な類型。 ぼくはそこにとても美しい、あえていうなら人間的なものを見るのです。
     『ジョジョの奇妙な冒険 スティール・ボール・ラン』のリンゴォ・ロードアゲインもそういう「男の美学」を体現したキャラクターでした。
     そういう態度そのものが、一面から見れば呪われたものであると理解してなお、ぼくはやはり「少年の夢」に強く惹かれます。 ある意味では男性のエゴイズムでしかないのかもしれませんが。
     それとは違うものの、「すがりつく女性を振りほどいて、ひとり死地へ向かう」というのも「男のロマン」のひとつのパターンですね。 『あしたのジョー』がこれに近いし、司馬遼太郎の『燃えよ剣』などもこのパターンに入るのではないでしょうか。
     最近の作品では、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエンとミース・シルバーの物語がまさにこれそのままでしたね。
     男という生き物は、どうも死にロマンを見いだす「死にたがり」の傾向があるようで、美しく死にたいという欲望はかなり普遍的なものであるようにも思えます。
     ダグラス・カイエンはすがりつくミース・シルバーを気絶させ、騎士としての大義のため、ひとり邪悪な魔導師ボスヤスフォートとの決戦へと向かいます。 男の目から見ると非常に格好良く見えるのですが、あるいは女性から見ると違う風に見えるかもしれません。
     永野護は男性作家のわりには妙に女性心理に理解が深い作家だと思いますが、ここではあくまで「男のロマン」を優先させた描写をしています。
     おそらく女性読者には不評だったかもしれないと思うわけなのですが、まあ、『ファイブスター物語』全体がそうやって男性の夢をロマンティックに描いている傾向はありますね。だからこそ好きなのかもしれません。
     しかし、あたりまえのことですが女性には女性の想いがあって、それはそれでものすごい重みを持っているわけです。 ところが、いままでの「男のロマン」の物語では、女性の役割は脇役というか、あえていうなら添え物に留まってしまうことが常でした。
     ぼくはそこに微妙に不満があって、「ひとり死を決意した男を翻意させる方法はないのだろうか?」ということをずっと考えていました。
     個人的にこの文脈で革命的だったのが『神様のりんご』(『どんちゃんがきゅ~』)というゲーム。 ここでは、まさに「少年の夢」の完遂のため、すべてを捨て去ることを決意した男に対し、少女が死に物狂いで抵抗します。
     そこには「少年の夢」に匹敵する「少女の想い」が、「男のロマン」に対抗しうる「女のパトス」が描かれていたように感じられて、ぼくはとても好きな作品なのですが、まあ、どマイナーなのであまり詳しく語ることはやめておきましょう。
     で、もうひとつ、この文脈で革新的に感じられたのが、『魔法少女まどか☆マギカ』です。