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動機がない人間は勝てない。アニメが垣間見せるきびしすぎる現実。
2015-05-19 02:2751pt
なかなか出来がいいアニメ版の『ベイビーステップ』を見ています。
原作ではしばらく前に通り過ぎてしまったお話であるわけですが、マーシャとか清水さんが登場しているのがひそかに嬉しい。
ふたりともなっちゃんを前に敗れ去っていったヒロインなんだけれど、十分にメインヒロイン張れるだけの魅力があるキャラクターだと思います。
ていうか、可愛いよなあ。マーシャも清水さんも。
なっちゃんの太陽のような輝きがすべてをかき消してしまうんですけれどね……。
リアルではあるけれど残酷だなあ。
それにしても、『ベイビーステップ』を見ていると、主人公であるエーちゃんの動機の強さが印象に残ります。
ペトロニウスさんも書いていますが、エーちゃんは決して選ばれた天才でもなんでもないんですね。
運動能力という意味では凡人でしかありえないかれが、それでも「選ばれた神々の領域」にまで才能を開花させていけるのは、ひとえに高いモチベーションがあったからです。
常に高度な向上心を持って自分をきびしく追い詰めていくかれのスタイルも、すべては「テニスが好きだから」という想いがあってこそ。
その動機の強さを見ていると、ぼくはどうしても『響け! ユーフォニアム』あたりを思い出すわけです。
こちらはまだ最新話まで追いつけていないのだけれど、『響け! ユーフォニアム』はいってしまえば普通のモチベーションしか持たない人たちの物語なんですよね。
自分自身のなかから「とにかくこれをしたい!」という欲望が湧き上がることがない人たちの物語、といえばいいかな。
そのジャンルの才能という意味では、エーちゃんと『ユーフォニアム』の少女たちはそれほど大きな差があるわけではないかもしれません。
しかし、動機の強度が決定的に違う。
エーちゃんはとにかく圧倒的にメンタルが強いのです。絶対的なメンタルを持っている人間とそうでない人間が勝負をすると、長期的にはもう勝負にならないくらいの差が付いてしまうのですよね……。
人間の動機には「内発的動機(内発性)」と「外発的動機(外発性)」があるといわれています。
内発的動機とは、自分の内側から沸き上がってくる動機のこと、外発的動機とは外部的な条件によって決まる動機のことですね。
この内発的動機がエーちゃんは驚異的に強い。こと内発性にかけては、ほとんど天才的といえると思う。
テニスの技術や才能ではなく、この動機の強靭さこそがかれの特別さでしょう。
だからこそ、後発のスタートでありながら、次々とライバルたちを打ち破ることができた。
だれよりも強く勝ちたいと思っている、というか思いつづけていることがかれの強みなのです。
で、だから『ユーフォニアム』は見ていて辛いものがあるんですよね。 -
善か、悪か? 百万人を殺した男の割り切れない素顔。
2015-05-19 01:3251pt
『アルスラーン戦記』がゲームになるそうですね。
アニメ化は数しれない田中芳樹作品でもゲームになったものはそう多くありません。
現代のハードであの世界がどう再現されるのか気になるところです。
その昔、メガドライブでシミュレーションゲームになっていたような気がしますが、きっと気のせいでしょう。ええ、そうに違いありません。
いずれにしろ漫画、アニメ、ゲームと『アルスラーン戦記』の世界がしだいに拡大していっていることはたしかで、いちファンとしては非常に嬉しいところです。
これで原作の新刊が出ると文句がないのだけれど、それはまあいうまい。
アニメも出来はいいですし、漫画はこのまま行くとおそらくミリオンセラーになるでしょう。
これで新たに『アルスラーン戦記』のファンになる人も数多くいるはずで、長年の読者として感慨深く思います。
それもこれも原作のストーリーがきわめて優れているからこそ。
全盛期田中芳樹作品の面白さはやはりただごとではありません。キャラクター小説の歴史に冠絶するものがある。
アニメはパルス王都エクバターナの陥落にまで話が進みました。
アルスラーンと黒衣の騎士ダリューンに加えて、軍師ナルサス、その弟子エラム、楽師ギーヴ、女神官ファランギースと旅の一行はほぼそろいました。
対するは侵略者ルシタニア王国軍30万。それになぞの銀仮面の男――この銀仮面の正体はもうすぐわかりますが、アルスラーンにとって宿命の難敵ともいえるこの男を巡って、物語は今後、二転三転していきます。
そのほかにも王都奪還を目ざすアルスラーンの前に立ちふさがる者は少なくなく、いまのところは線が細く頼りない少年に過ぎないかれはいっそう成長していかなければなりません。
この流浪の王子アルスラーンの成長物語としての面白さが『アルスラーン戦記』の魅力の一端です。
わずか14歳の無力な子供が、いかにして数々の宿敵をも凌駕する真の王にまで成長していくのか。
原作未読の皆さまには期待していただきたいと思います。
ところで、第7話にしてルシタニア王国の王弟ギスカールが登場しましたね。
この男、きわめて有能な軍人であり策謀家であり政治家であるというマルチタレントの持ち主なのですが、人格的に見ても実に面白いキャラクターの持ち主です。
パルス征服戦争、王都陥落、その後の戦争と続く悲劇の根源はすべてこの男にあるわけで、その意味では何十万もの命に責任を持つ大悪人ともいえるのですが、どうにも憎めない。
ええ、ものすごく悪いやつなんですけれどね(笑)。
この -
ハーフボイルドエッグが茹であがるまで。
2015-05-15 01:2351ptおととい、きのうと二日も休んでしまったのできょうは続けて更新することにします。
というのは半分は嘘で、ほんとうはいまひとつ書き足りないからもう一本記事を書こうかと。
あまり中身がある記事にはならないと思うので、読みたくない人は飛ばしてください。
さて、ブログというメディアはぼくに合っていて、基本的には楽しく書いているのですが、当然、不満もあります。
ブログで特に辛いところは、一本の記事という単位で読まれることです。
長いあいだ読んでおられる方はご承知かと思いますが、このブログはぼくの思考の軌跡をそのままに反映している一面があります。
つまり、ある記事で書いたことがその先の記事で発展し、あるいは反転し、形を変えてつながって行くということがひんぱんにあるわけです。
具体的にナンバーを振ったりはしませんが、あの記事の発展形がこの記事、といったことはわりあい強く意識しています。
ぼくとしては、全体でひとつの作品として捉えてほしいところなんですね。
しかし、じっさいにはある記事はそれ自体で完結したものとして読まれ、消費されます。
つまり、ほんとうは連続した思考の軌跡であるものがその一部だけを切り取って流通し評価されるわけです。
これがね、しかたないこととはわかっていても、ちょっと哀しい。
ぼく的には、ある記事単体が面白いとか面白くないとか、新味があるとかないとかではなく、果てしなく連続した思考の一断面を切り取ったものとして記事を読んでほしいわけなのですよ。
いや、わがままには違いないのですが、たぶんそうしないと、このブログはほんとうには理解できない。
なるべく平易な言葉遣いをするよう努めてはいますが、そんなにわかりやすいことばかり書いているわけじゃないと思うんですよね。
そもそも、書いているぼく自身がまだはっきりと形にはできていない思考の最前線の観念を、なんとか言葉の形に直して記事を書いているのだから、簡単に理解できたらおかしい。
それはたぶん、言葉にしづらいところを切り捨ててとりあえず言葉に直してみているからわかりやすく見えるだけのことだと思うのです。
そんな真似をしないで、考えたはっきり理路整然とまとまってから記事にするべきだという意見もあるでしょう。
それはそうだとぼくも思います。読むほうとしたらそちらのほうが断然読みやすいでしょうから。
ですが、 -
「正しさ」はどこまで正しいか。ぼくが議論より対話を求める理由。
2015-05-15 00:4151pt需要のなさそうな記事シリーズ最新版である。
さて、この世にはいろいろな主張があり、意見がある。
そのなかにはほぼだれでも正しさを認めると思えるものもあれば、かなり突拍子もないものもある。
ここで問題にしたいのは、前者の、大方の人に対してそれなりに説得力があると思われる「正しさ」のことだ。
たとえば「ひとを差別してはいけない」といった主張は、どこからどう見ても正しいように見える。
正しさ指数100%で、どんなに拡大していってもどこまでも無条件に正しさが続く。そんな気がする。
少なくともこの現代社会に生きている人で「人間を差別するべし!」とする人はほとんどいないはずである(そのわりに差別自体はなくならないわけだが)。
しかし、ほんとうに「差別反対」は純度100%の「どこまでも正しい」主張なのだろうか? ぼくにはそうは思えないのだ。
「差別反対」が絶対的に正しいとすれば、この世にはいかなる差別もあるべきではないことになる。
ぼくは人間にそんな社会が構築可能だとは思わない。
やはりひとには好き嫌いがあるし、どこかで完全に公正ではいられないところもある。
完璧に差別が撤廃された社会などとてもできるものではないだろう。
仮にそういう社会が成立したとしても、相当に息苦しい社会であることも考えられる。
やはり「ひとを差別してはならない」という「正しさ」も程度の問題だと思うわけだ。
もちろん、だから「差別反対」と唱えることに意味がないことにはならない。
「差別反対」はおおむねは正しい理屈なのだから、可能な限り大きな声で唱えるべきだろう。
しかし、それには限界があることをわきまえておくべきではないか。
それがどこにあるかはひとによって意見が違うところだろうが、「とりあえずあることはどこかにある」、「完全に無条件の正しさではありえない」と考えておくほうが、その逆の考え方をするより、ずっと安全だと思う。
ほかにもたとえば「戦争をしてはいけない」とか、「子供をしいたげてはいけない」というのも、いかにも「どこまでも正しい」主張であるように見える。
だが、人類史上すべての戦いはすべて絶対悪そのものであり、また、今後未来永劫すべての戦いは絶対悪でありつづける、となると、「ほんとうにそうか?」と思えて来る。
また、「子供をしいたげてはいけない」のは当然だが、ほんの少し叱ってみせることも決して赦されないとなったら、害悪のほうが大きくなってくるかもしれない。
これらのわりあいに「どこまでも正しい」ように思われる主張も結局は程度問題に過ぎない。
何がいいたいのか。
ようするに、「どんなに拡張していっても正しいままの正しさというものはないのではないか」、「どんな正しさもどこかに限界を抱えているのではないか」と問いたいのだ。
「無条件の正しさ」は存在しないということ。
いわゆる価値相対主義か、と思われる読者もおられるかもしれないが、必ずしもそうではない。
たとえば、3歳の子供が親に殴り殺されたといった場合、それは99.9%、その親が悪いに決まっている。
「親に責任があるとも子供に責任があるともいい切れない」などという玉虫色のいい草はいかにも胡散臭い。そんなわけがないだろう、とぼくも思う。
しかし、だ。 -
ひとはなぜこうも正義に酔い、極論に走るのか。
2015-05-11 21:2551pt
『減速して生きる ダウンシフターズ』という本を読む。
人生のギアを下げ、「減速」して生きる人々・ダウンシフターズについて書かれた本だ。
といっても、インタビュー集のようなものではなく、ほぼ著者の生き方が淡々と綴られているだけである。
否応なくダウンシフトして生きているぼくは非常に共感するところもあるのだが、一方で著者の主張が素朴すぎるように思えて苛立つところもあった。
戦争反対、環境優先、無農薬の美味しい野菜を、といった主張のひとつひとつはたしかに正論なのだが、それが全部合わさるとどうにも胡散くさく感じられてしまう。
あまりにもきれいすぎる理屈であるため、現実を無視しているように感じられてしまうのだ。
人生のダウンシフトは悪くない考えだと思うが、それを経済とか政治の問題とダイレクトに結びつけてしまうと、どうにも違和を覚えずにはいられなくなる。
ダウンシフトのほかにも、シンプルライフとか、スローライフとか、ロハスとか、清貧とか、プア充とか、貧乏道とか、「お金を使い過ぎない生活」を称揚した言葉は多い。
それらは往々にして「物質文明からの解放」や「持続的でない資本主義サイクルからの脱出」をうたっている。
しかし、ぼくはそこにどうしようもなく欺瞞を感じ取ってしまう。
それは人間のきれいな一面だけを切り取ってそこだけを称える思想であるように思えてならないのである。
ダウンシフト、シンプルライフ、プア充、いずれも大いにけっこうだとは思うが、行き過ぎると巨大な欺瞞を抱え込むことになるのではないか。
昔から思っていた。どうしてひとはこう極端に走るのだろう、と。
以前、タバコについて記事を書いたことがある。
どうして愛煙家と嫌煙家はああも不毛な議論を続けるのだろうかという疑問について書いたつもりだった。
愛煙家は嫌煙家を「禁煙ファシスト」と呼び、嫌煙家は愛煙家を「ニコチン漬けの哀れな病人」と決めつける、その構図にぼくは深刻な疑問があったのである。
その記事はどうやら愛煙家を擁護するものと受け取られたらしく、その文脈で賛否両論があったが、ぼくがいいたいのはそういうことではなかった。
ある人が愛煙家でも嫌煙家でもべつにかまわない。それぞれの人にそれぞれの立場があることだろう。
ただ、それならなぜ、少しでも相手の立場に立って相手寄りの姿勢で考えることができないのか。
なぜ、これほどまでに相手を軽蔑し、憎悪し、レッテルを貼り、一方的に攻撃しなければならないのか。
そうぼくは問いたかったのである。
タバコに限らず、憲法問題でも原発問題でも環境問題でもそうだ。
それらはそもそも -
運命はいつも極限の二択を突きつけてくる。選べ。「立ち向かう」か「座り込む」か。
2015-05-11 03:0851pt
いま、『3月のライオン』の連載が非常にタイムリーな話題を扱ってくれています。
以下、ネタバレあり。
さて、今週号の『ライオン』は主人公である桐山零くんのこのような独白で始まります。
人生はいつも
「立ち向かう」か「座り込む」かの
二択だ
何もしないでいても救かるなら 僕だって そうした
――でも そんな訳無い事くらい 小学生にだって解った
だから 自分が居てもいい場所を 必死に探した
自分の脚で立たねばと思った
一人でも
生きていけるように
誰も
傷つけずに すむように
ここで桐山くんはダメ人間の川本父と対峙しながらこう考えているわけです。
一見して、非常にきびしい内容であることがわかります。
つまり、人生における「立ち向かう」と「座り込む」の二択で、自分はいつも「立ち向かう」ことを選んで来た、それは自立してひとを傷つけないようにするためだった、ということだと思います。
ここにはあきらかにその都度の選択肢で常に「座り込む」ことを選んで来た(ように見える)川本父に対する批判が見て取れます。
ある意味で零くんはここで自分自身のシャドウと向き合っているといえる。
川本父はもしかしたらそうだったかもしれないもうひとりの自分の姿なのです。
しかし、それでもなお、零くんと川本父は決定的に違う。
それはつまり人生の志の差なのだということは前回で語られました。
零くんには長期的な視点があり、川本父には短期的なそれしかないのだ、と。
これはじっさい、連載をここまで追いかけてきた読者にとっては説得力ある話です。
なんといっても、読者は零くんがこれまでズタボロになりながら努力する姿をさんざん見て来ているわけですから。
そのかれがいう「自分の脚で立たねば」という言葉からは非常に強い印象を受けます。
しかし、同時にこれは「そういうふうにできない」人間を切り捨てる話にもなりかねないわけです。
ネットでこういうことを意見にして書くとものすごく叩かれますよね。世の中にはそうできない人間もいるんだ、お前は弱者を切り捨てるのか、と。
つまり、非常に微妙な問題を孕んだエピソードがここにあるということ。
ぼくの意見をいわせてもらうなら、 -
映画『ビリギャル』は「「努力しない人間がダメなのだ」というディストピア的「努力主義」」とは真逆の快作だ。
2015-05-11 00:3151pt
有村架純主演の映画『ビリギャル』を見て来た。
結論から書くと、実に素晴らしかった。今年のベストを争う出来。
まあ、そもそも今年はあまり映画を見ていないから偉そうなことはいえないのだけれど、それにしても実に爽快な映画体験だった。
花丸をつけてあげよう。うりうり。
この映画の原作は皆さんご存知のベストセラー、『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』。
ぼくは未読なのでその内容についてはなんともいえないのだが、映画の骨子がこの本を元にしていることは間違いない。
しかし、映画はあくまで原作からは独立した一本の映画として成立するよう絶妙な工夫が凝らされている。
できすぎた話といえばそれまでなのだが、映画はとはいかにそのできすぎた話をリアリティをもって描けるかであると考えるぼくにとっては、最高の一本だった。
じっさい、この作品の世間的な評価は非常に高い。
Yahoo!の映画サイトでは平均点が5点満点中4.46点と怒涛の高評価だし、各種映画サイトでも絶賛されている。
しかし、ヒットしているだけに批判も少なくないようだ。
それ自体はしかたないことだが、その内容がどうにも納得が行かないものが多い。
個人的には『STAND BY ME ドラえもん』のとき以来の納得いかなさ。
たとえば、「映画 ビリギャル」で検索すると、公式サイトの次の次に来るのがこの記事だ。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20150508-00045523/
そこには、こう書かれている。
「ビリギャル」がヒットする日本社会の一面として、いまだに6人に1人にのぼる子どもの貧困が日本を蝕んでいることには無自覚でありつづけ、「貧困は自己責任」「学歴も自己責任」「努力しない人間がダメなのだ」というディストピア的「努力主義」の根強さがあるのだと思います。
一見するともっともな指摘であるように見える。
映画を見ていない人に対しては説得力があるだろう。
しかし、映画を見終わったあとだと、「なぜそうなる?」としか思えない。
そもそもこの箇所を読むだけではこの指摘が原作に対してなのか映画に対してなのかわからないのだが、この記事全体が「いま有村架純さん主演の映画「ビリギャル」がヒットして」いるという記述から始まっていることを考えると、やはり映画についても語っていると考えるべきだろう。
そして、原作に対してはともかく、映画に対する指摘としては、これは端的に間違えている。
特に解釈が分かれるような問題ですらない。
映画全体を通して、「努力しない人間がダメなのだ」と考える主人公の父親や教師が「間違えた価値観のもち主」として描写されていることはあきらかだからである。
特に有村架純演じる主人公さやかを見下し、クズだといい切る教師などあからさまな悪役で、まさに「ディストピア的「努力主義」」を象徴するキャラクターである。
さやかはそういった「ディストピア的「努力主義」」に対し強い反骨心を抱くからこそ、自分でもやればできるところを見せようと努力を始めるのだ。
彼女の努力は自発的なものであり、だれにも強いられていない。
そしてまた、ここには「努力する人間だけが尊い」とするような価値観はまったく見て取れない。
もちろん、いろいろな事情はあったとはいえ中高一貫の私立校に入学し、その後毎日のように塾に通い、慶応大学に入学するさやかは貧困家庭の子供と比べて「恵まれた環境」にいることはたしかだろう。
しかし、ひとはだれだってより恵まれない環境にいる人物と比べれば恵まれた環境にいるのだ。
論理的に考えれば最も恵まれない環境にいるのは死者であり、そうである以上、生きている人間はすべて恵まれていることになる。
しかし、だから個人の努力などたいしたことではないといってしまうのなら、それこそ「ディストピア的」な発想というしかない。
どんな「恵まれた」環境にいたとしても、個人の努力は努力として認められ尊重されるべきである。
もちろん、それは「だから努力しない人間には価値がないのだ」などという話ではない。
あたりまえのことではないか?
この映画ではほとんど努力しようとしない人間や、努力しても失敗してしまう人間も描かれている。
決して努力しさえすれば必ず成功するという話ではない。
そして、そもそもぼくにはさやかがそこまで極端に「恵まれている」ようには思えないのだ。
彼女は実の父親からクズ扱いされており、その父親との軋轢が彼女を動かすひとつのモチベーションとなっている。
また、周囲も必ずしもさやかに対して甘くはない。
もちろん、「もっと辛い環境にいる人もいる」ことはたしかだが、だからさやかの苦しみが取るに足らないものだとはいえない。
もしいうのだとすれば、それこそひとの苦しみを簡単に比較して一方を軽く見る愚を犯していることになる。
さやかの父親や教師が悪役的に描かれているとするなら、シナリオ上、その対局にいるのがさやかの母ああちゃんである。
ああちゃんはどこまでもさやかを受け容れ、見守り、その意思を尊重しつづける。
映画の全編を通して彼女は一度も「勉強しろ」とはいわない。
むしろ「辛いのならやめてもいい」、「成功するかどうかは問題ではない」という意味のことをいう。
そして、さやかが学校でどんなに問題を起こしても「この子はほんとうにいい子なんです」と切々と語りつづけるのだ。
彼女の姿勢のどこを切り取っても「ディストピア的「努力主義」」は見あたらない。
むしろ、その対極にある価値観としか思われない。
そこにはただ無条件に娘を愛し、尊重し、その可能性を信じる母の姿があるばかりである。
いったいこの映画のどこを見たら「「ビリギャル」がヒットする日本社会の一面」が見て取れるのか、ふしぎなほどだ。
また、この記事ではこうも書かれている。
「ダメな人間などいない」ということに本当の意味で共感するのなら、「駅前トイレで寝泊まりするトリプルワークの女子高生らの貧困を深刻化させ格差拡大し経済成長損なう安倍政権」「自販機の裏で暖を取り眠る子ども、車上生活のすえ座席でミイラ化し消えた子どもたちの声が届かない日本社会」を改善するために「子どもの貧困」を根絶することにも共感を寄せて欲しいと思います。
たしかにその通りではあるが、でも、なぜこの作品に限り特にこう述べる必要があるのかわからない。
この種の理屈が成り立つなら、どんな映画を見るときでもいつも恵まれない貧しい子供たちのことを思い浮かべるべきだということになってしまうだろう。
『ローマの休日』などしょせん恵まれた連中の他愛ない恋愛話ではないか?
『スター・ウォーズ』も社会の貧困層を丹念に描いていないという問題を抱えているのでは?
これもごくあたりまえのことだが、何もすべての映画が子供の貧困をテーマにしていなくても良いし、すべての観客が常に子供の貧困について考えこみつづける必要もないのである。
もちろん、子供の貧困は喫緊の課題であるのだろうし、それに多くの人が関心を持つことは必要なことなのだろう。
しかし、だからといって内容的にまったく関係がない映画を取り上げてあげつらわなければならない理由はない。
いや、本文中に映画そのものの感想がなく、ただほかのサイトの感想を引用しているだけであり、映画の内容については確定を避けるような書き方をしているところを見ると、この書き手はそもそも映画を見てはいないのだろう。
おそらく原作は読んでいて、「きっと映画も原作と同じような内容だろう」と考えてこの記事をアップしたのではないか。
個人的には、なぜ、映画を一見してから書くことができなかったのかと思う。
あるいは、映画のことは話題に挙げないようにすれば良かっただろう。
しかし、じっさいにはそのいずれでもなく、より映画の内容を軽視した記事となってしまっている。
ここには映画に対するあからさまなあなどりがある。
この記事や、そのほかの映画『ビリギャル』に対する的外れに思える批判を見ていてわかるのは、ただ「映画を取り巻くもの」だけを見て映画を見ず、見たつもりになっている人間がたくさんいるという事実だ。
その種の人は「映画を取り巻くもの」、たとえば映画の原作や、宣伝や、モデルだけを見て映画を判断し、映画そのものは見ない。
仮に見たとしても偏見を通してしか見ないので見ていないのと同じになる。
そこにあるものは、さやかのまわりの大人たちが、さやかの外見だけを見て先入観を抱くのとまったく同じ構図である。
ぼくはそういう姿勢は好きではない。
上記の記事の書き手もそうなのかもしれないが、そもそも映画を自分の目的のために利用することしか考えていない人物には強い反感を抱く。
たしかに子供の貧困問題の解決は重大な問題なのだろうが、だからといってその高邁な目的のためには一本の映画の内容などどうでもいいということにはならない。
どっちも大切に決まっている。
ただ、こういう人は大勢いるらしいことも事実である。
かれらにとっては社会をいかに改革するかのほうが一本の映画より重たいことは自明の事実なのかもしれない。
そうだとしたら、ぼくはそういう姿勢に反発しつづけるだろう。
ひとを偏見で見てはいけないように、映画のことも先入観で判断してはいけない。
「映画を映画以外の価値で裁くことなかれ」。
ぼくはこの原則を「海燕の十戒」の第一として掲げ、きびしく守っていくつもりだ。
映画は映画として優れていることが第一である。それ以外のどんな偉大な目的のためにも踏みにじられてはならない。
ぼくは、そう信じている。 -
限られた時間を何に使うことが正しいのか?
2015-05-10 03:3851pt
WiiUの『ゼノブレイドクロス』が面白いです。
広大なフィールドを縦横無尽に駆け巡る正しい冒険ロールプレイングゲーム。
マップの広さと情報量の膨大さが圧倒的で、ある意味、「おれのかんがえたさいきょうのてれびげーむ」みたいなところがある。よくこんなゲーム作ったな、モノリスソフト。
前作『ゼノブレイド』の時点で十分に広大さと膨大さを兼ね備えた作品だったわけですが、今回は前作の数倍の容量があるらしく、もうなんというか頭がおかしい世界に突入しています。
とりあえず20時間くらいプレイしてみたんだけれど、あきらかにまだ序盤。たぶんクリアまで100時間では終わらないでしょう。
クエストを端から制覇していくと300時間かかるという話もあるくらいで、ミヒャエル・エンデ『モモ』の時間泥棒のことを思い出さずにはいられません。
いや、楽しいんですけれどね。それでも300時間はないよなあ。
毎日一生懸命プレイしていても半年くらいはかかってしまう計算。
それだけの時間があったらアカデミー賞とカンヌ映画祭の受賞作片っ端から見れるぞ。
ただ、もちろん、映画を見ることがゲームをプレイすることより上等な時間の使い方だとは一概にはいえないでしょう。
こういうゲームをプレイしていると、「有効な時間の使い方とは何か?」という問題に突きあたります。
ぼくはほとんど働いていないぶん、ひとよりたくさん可処分時間を持っていると思うんだけれど、それではその時間を何に使うか?というと案外むずかしい。
これはその人の人生のテーマにかかわる問題なのですね。時間という資産を何に投資するかという問題。
まあ、自己啓発本なんかだと「自分を成長させることに使うのだ」と書いてあるし、たしかにそれは正しいのだけれど、では、いつまで成長を志しつづけるのか?
一生、「もっと成長すること」のために時間を費やしてしまったらそれはそれでもったいないんじゃないかな、とぼくは凡人らしく思うわけです。
人生のすべてを「いつか訪れる将来」のために使うってどこかおかしいですよね。
仕事で人生を使い切ってしまうのも同様の理由で愚かしく思える。
「お金を稼ぐこと」に全勢力を注いで、その稼いだお金を使って人生を楽しむことができないのは、どこか本末転倒ではないでしょうか。
そうかといって、遊びだけにすべてを使ってしまうのもまたばかげている。
いや、 -
ハッピーエンド名作小説99(1)北村薫『空飛ぶ馬』。
2015-05-08 08:1851pt
ゴールデンウィークが明けて申請が通り、晴れてチャンネル名が「ハッピーエンド評論家・海燕のチャンネル」に変わりました。
これでようやく自称評論家としての作業を開始できます。
いろいろな活動が考えられるわけですが、とりあえず99作の小説を書評して電子書籍を刊行するところから始めたいと思っています。
タイトルは「読むだけで幸せになれる! ハッピーエンド名作小説99」にしたいところ。
99作も書評するのは大変でしょうが、最低限それくらいは書かないと卑しくも評論家を名乗ることはできないとも思います。
この記事はそのための第一弾。初めの作品として、北村薫『空飛ぶ馬』を選ぶことはおそらく正しい選択でしょう。
およそあらゆる推理小説のなかでも、この作品ほど爽涼な結末を意図して選択された作品は数少ないはずだからです。
そもそもミステリというジャンルは、通常、どこか苦かったり哀しかったりする -
ひとつの地獄。
2015-05-08 03:0251ptはてなの匿名ダイアリーで話題になっている記事を読みました。
俺には生きる目的がない。夢もない。ただ漫然とゲームやアニメ等のコンテンツを浪費し、飯を食って生きながらえてしまっている。死にたい。
http://anond.hatelabo.jp/20150507012413
あー、はい。このパターンですね。
ペトロニウスさんがいうところの「内発性が壊れている人」の典型的な一例でしょう。
いまの世の中、こういう人は意外にありふれているのかもしれません。
たぶん生きるエネルギーを生み出す回路が壊れているということなのだと思うけれど、いったんこの隘路に嵌まり込むと抜け出すことはむずかしい。
いや、その気になれば一瞬で脱出できるのかもしれませんが、本人がなかなかその気にならないですからね。現実的にはむずかしいと思います。
なので、ぼくの結論は「可哀想だけれど、どうしてやることもできない」ということになります。
すべては本人の自意識の問題で、しかもかれ自身にその自意識を変えようという動機がないのだから、どうにかなるはずもない。
本人は「俺がこの詰み状態から抜け出すには、俺のことを受け止めてくれるそこそこかわいい未婚女性と、ネットやゲームに張り付くよりも楽しく生産的な何かが必要なのだろう。あと金。」と書いているけれど、彼女ができても金が降ってきても本人がいやな奴であることは変わらないから救われない。
そして、いやな奴でなくなる努力をしようという気もないから、やっぱりどうしようもない。
たしかに完全に詰んでいますね。王手詰み。チェックメイトです。
ただ、その一方で本人が本心から救われたいと願うのならどうとでもなるだろうとも思います。
結局のところ、「本人に事態を打開する意思がない」という一点だけが問題なのだから、本人が変わればいろいろなことが好転するでしょう。
しかし、それでもひとは変われないんだよなあ。
なんとも救われない話ではあるけれど、閉ざされた檻から出て外の世界と向き合うくらいなら檻のなかで餓死することを選ぶ人はいくらでもいるんですよね。
ぼくはべつだん、そういう人を責めるつもりはないけれど、「助けてくれ」といわれてもどうしてあげようもない。
なぜなら、その人を助けられるのはその人自身だけなのだから。これは、そういう種類の地獄。
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