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記事 21件
  • 暗くて内向的なオタクのススメ。群れず、つながらず、「孤独力」を磨こう。

    2015-07-15 05:08  
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     あるいはニコニコ動画の登場以来ということになるのかもしれない、「オタク」という言葉のイメージはずいぶんと変わった。
     それまでは「暗い/内向的な」イメージだったものが、いまでは「明るい/社交的な」イメージが強い。
     それはじっさいにオタク青少年たちの実像が変わっているからであるだろう。
     LINEやTwitterなどの発達にともなって「つながること」が重視されるようになり、アニメやゲームは体験をシェアして楽しむメディアへと変質した。
     それ自体は一概に良いこととも悪いことともいえない。ただ、そういう事実があるというだけのことだ。
     ひとついえることがあるとすれば、変化があったからには失われたものもあるということだろう。
     ぼくは基本的にこの変化を肯定的に受け止めているが、それでも時々、その失われたものが恋しくなる。
     みんなでわいわい騒いでひとつのコンテンツを共有し、明るく楽しむのは良い
  • 『けいおん!』、『響け! ユーフォニアム』に至る部活ものの系譜を考える。

    2015-07-14 12:31  
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     ペトロニウスさんが『帯をギュッとね!』を取り上げていますね。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150712/p1
     往年の『少年サンデー』の名作で、ぼくもくり返しこのブログで取り上げている作品です。
     いまなぜこの作品が取り上げられるかといえば、『けいおん!』、『響け! ユーフォニアム』と続く京アニの部活ものの文脈で語れるからなんですけれど、それはべつとしても、一本の漫画として純粋に面白い。
     何度もいっていますが、未読の方にはぜひ読んでいただきたい作品です。
     往年の『少年サンデー』には、『ジーザス』だとか『青空しょって』だとか『究極超人あーる』だとか『人類ネコ科』だとか『六三四の剣』といった、名作だけれど歴史に残るかというと微妙、というゾーンの作品がたくさんあって、ぼくとしては語りたい意欲があるんですけれども、いまとなってはなか
  • わずかなお金で幸福が買える5つの約束。

    2015-07-13 23:43  
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     インターネットは皮肉屋の集まり、ネットでは教条的な意見は陳腐な道徳的説教とみなされ軽蔑されることが少なくない。
     だから、ここでぼくが「幸せはお金では決まらない」といったら、さぞかしたくさんのシニカルな反論が返ってくるかもしれない。
     しかし、それはたくさんの統計調査によって立証された事実なのである。
     たしかに、収入と幸福に相関関係はある。ある程度は。
     だが、収入が一定額を超えると、そこから先は驚くほどわずかしか幸福度が上がらないというのが心理学者たちが出した意見だ。
     お金と幸福について書かれた論文は数多いが、そのほとんどが同じ結論に至っている。
     曰く、お金がまったくないことは不幸だが、一定額以上お金を持っていることは必ずしも幸福を意味しない。
     また、宝くじがあたるといった幸運なライフイベントの効果もすぐに切れてしまう。
     ひとはお金では幸せになれないのだ、と。
     冷笑家たちがどんなに笑い飛ばしても、この事実は揺らがない。
     このいささか道徳的に過ぎるようにも思われる結論にどうにか異論を提示しようとしたのが、『「幸せをお金で買う」5つの授業』の著者エリザベス・ダンとマイケル・ノートンである。
     もっとも、かれらはただお金を使うだけでは幸せになれないことを認める。つまり、かれらに先行する17000ばかりの論文に敬意を表する。
     しかし、そこからさらにひとつの問いをつなげるのだ。
     それでは、お金をもっとうまく使ったとしたらどうか?
     つまり、平凡な使い方では容易に幸せになれないとしても、より気の利いた使い方をすれば違ってくるのではないか?
     その気の利いた使い方とは、具体的に以下の五か条で表される。

    1.経験を買う。
    2.ご褒美にする。
    3.時間を買う。
    4.先に支払って、あとで消費する。
    5.他人に投資する。

     これがつまり、「5つの授業」である。
     もっとも、これだけではなんのことやらわからないだろう。もう少しくわしく解説しよう。
     第1条の「経験を買う」とは、お金を「モノ」ではなく「経験」に支払うようにするという意味である。
     いまでこそシンプル・ライフが称揚されるようになったが、それでもまだ、幸せを手に入れるためにはモノを買わなければならないと思い込んでいる人は多い。
     モノはなんといってもそこに確固とした実体として存在しているという安心感がある。
     それが自分のものになるのなら、お金は惜しまないという人は少なくないだろう。
     それに対して、「経験」はいかにもあいまいである。
     たとえば、ロケットに乗って宇宙空間まで駆け上がり、わずか数分間だけそこから下界を見下ろすといった経験に数千万円の価値があると信じることは簡単ではない。
     それはたしかに胸躍る経験ではあるだろう。だが、あとには何も残らないではないか?
     それに比べて高級車や薄型テレビは、少なくとも数年のあいだは実体として残る。
     お金の使い道として、モノよりも経験を優先することはばかげているように思える。
     ところが、それがそうでもないのだ。
     なぜか? それはつまり、人間がきわめて順応性の高い生き物だからである。
     ひとは、どんなモノにもあっというまに慣れてしまうのだ。
     たとえば、高価な家に住んでいると、その家に対する満足度はしばらくは高いまま続く――しかし、生活そのものに対する満足度は一向に上がらないのである。
     それに比べて、経験にお金を使うなら、ひとは後悔をせずに済む。
     なぜなら、記憶の万華鏡のなかでは、何かしらの失敗や挫折すら美しく見えてくるから。
     ひとは「やらなかったこと」こそを悔やむ生き物なのだ。
     第2条の「ご褒美にする」は、そのお金の使い道を「ご褒美」として特別な体験にするということである。
     これも人間の飽きっぽさと強く関係している。
     ひとはただ味わうだけではあっというまに飽きてしまう。
     たとえば、美味しいチョコレートを山ほど食べられるといった経験をすると、ひと粒ひと粒のチョコのありがたみを感じなくなってしまう。
     ところが、ここでチョコを食べることを「ご褒美」に変え、簡単にはチョコを食べられないようにすると、そのチョコの美味しさは劇的に向上する。
     これを 
  • 『響け! ユーフォニアム』で考える百合論。

    2015-07-12 15:43  
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     『響け! ユーフォニアム』をようやく第8話まで見ました。
     一応、最終回まですべて録画してあるのだけれど、ついつい見るのが遅れてしまっています。
     いや、面白いんですけれどね。いつ見てもいいと思うと、すぐに見る気になれなくなってしまう。
     もっとも、アニメはやはりリアルタイムで追いかけるのが良いと思います。
     あまり放送から時間を置くといろいろネタバレも入って来るし、良くないことが多い。
     まあ、そういいつつ今季のアニメも消化が遅れているぼくなのですが……。
     『ユーフォ』の話でした。
     事前に話に聞いてはいたのだけれど、この第8話はまさに百合回。
     それもちょっとありえないくらい高いクオリティの神回。
     京アニが本気だすとここまでのものが仕上がるのか!とキョーガクの渦にひきずり込まれるかのような傑作エピソードでした。
     いやー、これは百合オタじゃなくてもずきずき来るわ。
     狙っているとしか思えない台詞もばんばん飛び出してくるし。
     いや、ほんと、いいものを見た。
     あるひと夏の、ふたりの少女の、交錯する想いと「愛の告白」。たまらないですね。
     ぼくはそんなにカップリング妄想をするほうではないけれど、このふたりのいちゃいちゃを見ていると、たしかにこれは恋愛だよなあ、と思ってしまいそうになります。
     ただ、ぼくは百合という言葉に、またジャンルそのものに微妙に距離を置きたいと思っていて、それはこういう「名前のない関係」を恋愛と置き換えることによって失われるものがあると思うからなんですね。
     友人、恋人、伴侶、先輩後輩、教師と生徒、同僚、仕事のパートナー――人間同士の関係は多くが名づけられているけれど、でも、同時に、この世には「まだ名前が付いていない関係」もあるはず。
     そういう関係性の繊細さを、恋愛として、あるいは性愛として読み替えることは、ある種の単純化に近い側面があるように思えてしまうのです。
     ここらへん、たとえば腐女子の人たちはどう思っているのだろう?と考えるのだけれど、まあそれはわからない。
     ただ、ぼくの視点から見ると、あれこれの関係を恋愛とみなしていく作業によって喪失するものは確実にある。
     それによって微妙で繊細で多様な何かが壊れてしまうように思えてならないのです。 あるいは、「百合」という言葉は、「名前のない関係」を名前がないままで語るためにあるのかもしれませんが――。
     ただ、そうはいっても、「名前のない関係」を名前のないまま放置しておくと物足りないこともたしかなんですよね。
     『ユーフォ』を見ていると、 
  • 友だちが少なければ寿命も短い。

    2015-07-12 00:12  
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     石川善樹『友だちの数で寿命は決まる 人との「つながり」が最高の健康法』を読み上げました。
     ハーバード大学で学んだ予防医学の研究者である著者が、ひとの寿命はいかにして決まるのかについての最近の研究成果を紹介した一冊。
     著者によると、実は運動不足だとか血圧といった要素だけでは「病気の引き金」を説明しきれないのだとか。
     たとえば、心臓病の危険を高めるリスクファクターはいままでにいくつも見つかっているけれど、それらすべてを足し合わせても心臓病の発生の半分も説明できないといいます。
     そう、何か病気の原因となる「サムシング」があるはず――そして、この本のテーマである「つながり」こそが、その「サムシング」なのだ、と話は続きます。
     あなたはたぶん喫煙がからだに悪いことを知っているでしょう。
     一部には頑固に認めたがらない向きがありますが、いまでは大半の人が喫煙の害を承知しています。
     しかし、著者が説明するところでは、孤独は喫煙よりもからだに悪いのです。
     これは著者がかってにそう主張しているわけではなくて、ブリガム・ヤング大学のトランスタッドという研究者の研究によっています。
     「メタアナリシス」という手法を駆使したその研究によれば、「お酒を飲みすぎない」とか「からだを動かす」といった要素よりも、「「つながり」があるかどうか」のほうがはるかに大きく健康に影響していたらしい。
     ちょっとにわかには信じがたい話ですが、「つながり」の多寡は健康にダイレクトに影響を与えるのです。それも、喫煙や運動といった一般に知られている要素以上に強く。
     論理的にいって、あなたが長生きしたかったら、たばこをやめたり運動を始めたりするより前に、友達を作ることが有効だということになります。
     「嘘だろ?」といいたくなるところですが、れっきとした複数の研究によって導き出された法則なのです。
     ほかにも、寿命と「つながり」に関しては次のようなことがいえるといいます。

    ・「つながり」が少ない人は死亡率が2倍になる。
    ・同僚があなたの寿命を決めている。
    ・「つながり」が単調な男子校出身者は早死にする。
    ・お見舞いに来てくれる人の数で余命が変わる。
    ・女性が長生きなのは「つながり」を作るのが上手なことも関係する。
    ・たくさんの「つながり」を持つほど長命である。
    ・「つながり」が幸せ感を高めてくれる。

     
  • アニメ『うしおととら』を見て『少年サンデー』銀の時代を思い出す。

    2015-07-10 04:38  
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     アニメ『うしおととら』第1話を見ました。
     うーん、なかなか面白かった。第1話の段階では序盤もいいところなのですが、既にいろいろな伏線が登場していて興味深い。
     90年代にこの連載を追いかけていた頃はまさか20年後にアニメ化されようとは夢にも思っていませんでしたが、いまの時代のクオリティで映像になるのはそれはそれでよろしいかと。
     ここから始まる壮大なストーリーにわくわくしますね。
     全33巻を3クールでアニメにするということで、おそらくたくさんのエピソードが省かれることになるかとは思いますが、まあそれもそれで良いんじゃないでしょうか。
     この機会に原作を読み返してみようかなあ。新しい発見があるかもしれない。
     それにしても、現代にアニメになると現代ふうの作品に見えてくるあたりが面白いところで、うしおが蔵でとらと出逢うシーンは『Fate』を連想させられてなんだかおかしい。
     いや、もちろん時系列は逆なんですけれどね。
     うしおは衛宮士郎とは決定的に異なる純粋なヒーローであるわけですが、それでもどこか『うしおととら』という作品が後年に与えた影響を忍ばせるものがあります。
     次回以降が楽しみ。
     ちなみにこの『うしおととら』が連載していた頃の『サンデー』はひとつの絶頂期でした。『帯をギュッとね!』とか、いま読んでも最高だと思うのですが、鮮明に記憶している人は多くても、あらたに読もうという若い読者は少ないでしょうね。残念なことです。
     ぼくもこの歳になると、昔の面白かった漫画や小説がいまの読者に知られていないことがもどかしく思えることがあります。
     もちろん、一面では仕方ないことなのだけれど、リアルタイムで連載していない作品はあっというまに過去になってしまうのですよね。
     『DEATH NOTE』ですら10年前なんだものなあ。時が経つのは恐ろしく速い。その前の『ヒカルの碁』は――とか話しだすとキリがない。
     こういった何十年も前の作品だけではなく、つい最近まで連載していたり放送していたりした作品ですら、「過去の遺物」的に扱われやすいご時世があると思います。
     それだけ作品の消費スピードが増したということでもあるでしょうし、次々と新しい面白い作品が登場しているということでもあるでしょう。
     それが一概に悪いことだとはいえない。けれども、時には「いま」から視線を逸らして、なつかしの、しかしほんとうに面白かった作品について語るのも一興なのではないでしょうか。
     『うしおととら』の勧善懲悪な少年漫画王道のストーリーは、いまの目で見るといくらか古くさく思えるかもしれません。
     ですが、 
  • あなたは、なぜ、コミュニケーションに失敗しつづけるのか。

    2015-07-07 02:44  
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     いつになく「つながり」がもてはやされる時代である。
     LINEやFacebookを初めとするSNSの発達で、ひとは24時間だれかとつながっていることができるようになった。
     テクノロジーはついに人々の心から孤独を駆逐しつくしたように見える。
     それでいて、多くの人が「つながりつづけること」に泥のような疲労を感じてもいる。
     それが現代。
     人々はかつてなく長いあいだ他者とつながりながら、その一方でより深いつながりに飢えている。
     そして、それにもかかわらず、ほとんどの人はどうすればほんとうにつながったことになるのかなんて、知りはしないのだ。
     高石宏輔『あなたは、なぜ、つながれないのか』は「つながり」の作法に着目し、それをどこまでも詳細に解体していった一冊。
     ある人とある人が向かい合い、話し合う、それだけのことのなかにどれほどの情報量のやり取りがひそんでいるのか、あらためて自覚させられる脅威の一冊だ。
     ひととひとが向き合ってコミュニケーションを取ろうとするとき、そこには自然とある種のパワーゲームが発生する。
     どちらが会話の主導権を握るか。相手をどのようにして威圧するか。あるいは、どのようにして相手の精神をコントロールし、自分の思うままの反応を引き出すか。
     それらは剣や銃ではなく言葉を利用して戦いあう決闘に似たところがある。
     己の身体と知性の限りを尽くして相手を圧倒しつくそうとする男性的なゲーム。
     しかし、本来、ひととひとのやり取りはこのような力のぶつけあいに留まるものではない。
     ただ自分の弱点を隠し、相手の弱点を狙うといった戦術だけが有効なわけではないのだ。
     それは本来、「その人のことを知りたい」という純粋な好奇心から発して、非敵対的に続いていく共同作業である。
     それは「心を開く」ところからスタートする。相手との接触で自分が変わっていくことを許すこと。
     過剰に自分を防御して相手だけを変えようとするのではなく、自然な変化を受け入れること。
     それが、コミュニケーションだ。 いわゆる「コミュ障」だけがコミュニケーションを苦手としているわけではない。 世の中には、だれより饒舌に話しながら、一切、意味のある会話をなしえない人間もいる。そういう人物も広い意味での「コミュニケーション弱者」に入るだろう。
     世の中には、 
  • アニメ『Charlotte』は情報圧縮の果てにどんな快楽を紡ぐのか。

    2015-07-05 01:44  
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     アニメ『Charlotte(シャーロット)』を見る見る。
     ――えーと、なんだこれ(笑)。第1回から飛ばしてくるなあ。
     今回、情報をまったく仕入れないで見ているので、『Angel Beats!』に続く麻枝准さんシナリオのアニメということくらいしか知らないのですが、いやー、これはクオリティが高い。
     ほんとうに冒頭から飛ばす飛ばす。
     ひと昔前だったら「なんだこれ?」という評価を受けたのではないかと思うのですが、いまならこの程度は十分に「あり」なのでしょうね。
     なかなかすごい展開が赦される時代になったものだ。
     物語が始まるとあっというまに主人公が(なぜか)ある種の異能に目覚め、その能力を活用してのし上がっていくあたりでは『DEATH NOTE』とか『コードギアス』っぽい異能ピカレスク・ロマンっぽく進むのかと思いきや、物語はあっというまに斜め上の方向へ。
     まあ、第1話が終わってみれば順当な展開といえなくもないのだけれど、極端にスピーディなやり取りに圧倒されます。
     いまさらいうまでもない話ですが、この圧縮された展開は膨大な学園異能ものの積み重ねの上に成り立っています。
     ある展開が複数の作品で使用され、読み手にとって「常識」になるとそれは「お約束」として飛ばすことができるというわけですね。
     ちょっと「小説家になろう」における「転生トラック」(トラックに轢かれると異世界に生まれ変わるというお約束展開)を思わせるものがあります。
     とにかく、この定石展開を「お約束」としてショートカットしてきたからには、そうではない物語を描く意志があると見ていいでしょう。
     この先も情報圧縮がくり返されるのかどうかわかりませんが、新しい時代の新しい作品へ向かおうとする姿勢そのものは高く評価したいところです。
     なんといっても麻枝准シナリオなので、このスタート地点からどのようなゴールへ行き着くものか予想を許さないものがあります。
     麻枝さんといえば、『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』などのゲームで知られるある種、天才肌のクリエイター。読者の予想を吹っ飛ばす超展開で知られる人でもあります。
     今回もおそらくひと筋縄ではいかないシナリオが待っていることでしょう。楽しみ、楽しみ。
     良くも悪くも通常のエンターテインメントの枠組みから逸脱した作品を描く人なので、今後、どういうものを見せてくれるのか期待は高まるばかりです。
     それにしても、 
  • 『ダンまち』にリアリティはあるか。

    2015-07-04 03:39  
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     テレビアニメが続々と最終回を迎える季節です。
     『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』を最終話まで観終えました。
     「例の紐」絡みで、今季、ひときわ話題になった作品ですが、そこらへんのわりとどうでもいい事情を除いても、十分以上に面白い作品でした。
     やっぱり成長物語はいいなあ。
     少年の成長物語はいつの時代も通用する普遍的な物語パターンですが、『エヴァ』の挫折とかいろいろあってしばらく屈折を余儀なくされていた印象があります。
     しかし、本質的には廃れることがないパターンであるわけで、『ダンまち』は非常に素直な展開をたどっているといえるでしょう。
     主人公であるベルくんの前にはつぎつぎと試練が襲いかかってくるわけなのですが、かれは間一髪でその危機をくぐり抜けつづけます。
     現実にはこううまくは行かないだろうと思うところですが、一本のお話として見ている限り、非常に面白い。
     こういう、主人公の成長に合わせるかのように敵や試練もスケールアップしていくパターンのことを、「階梯的な物語構造」と呼びます。
     お話の展開が階段になっているわけですね。
     一方、そうではない、主人公の成長度合いを無視して試練が襲ってくるパターンの物語を「新世界の物語」と呼んでいます。
     『進撃の巨人』のヒットなどを見ると、時代は「新世界の物語」を求めているのかな、と見えたこともありました。
     しかし、あたりまえといえばあたりまえのことですが、主人公の成長を無視して試練が課されてしまう「新世界の物語」では、まともな物語展開は望めません。
     常に一歩先に「死」が待っているかもしれないのが「新世界の物語」であるわけです。
     そこで「壁」が関わってくるという話をしていたわけなのですが、それにしても「新世界の物語」を本気で突き詰めるとシャレにならないことになってしまいます。
     それはリアルではあるかもしれませんが、物語として面白いものではありづらいでしょう。
     つまり、「新世界の物語」とは行き止まりの物語構造でしかありえないのです。
     それでは、どうすればいいのか?となったときに、ひとつの選択肢として「ふたたび階梯状の物語を描く」というものがある。
     それは「新世界の物語」ほどリアルでもシリアスでもありえないかもしれないけれど、やはり魅力的な物語パターンであることには違いないわけですから。
     ここで大切なのは「リアル」とは何かという話だと思うのですね。
     冒険物語におけるリアルを突き詰めていくと、ありえないほど過酷な状況が突然に襲いかかってくる「突然死」の描写こそがリアルだという結論に至りかねない。
     だけれど、 
  • ドラマ版『DEATH NOTE』の改変が「あり」か「なし」かとは別次元で面白い。

    2015-07-02 23:46  
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     ドラマ版『DEATH NOTE』のあらすじが公開されて話題を呼んでいるそうです。

     夜神月(窪田正孝)は、警視庁捜査一課に勤務する父・総一郎(松重豊)と妹・粧裕(藤原令子)と暮らすどこにでもいるような大学生。弥海砂(佐野ひなこ)が所属する「イチゴBERRY」のライブに行く以外は、学業とアルバイトに精を出す日々だ。
    http://www.ntv.co.jp/drama-deathnote/story/index.html

     「どこにでもいるような大学生」。
     うん、うん……。あらすじの段階からいきなり不安を煽りますね。
     まあ、でも、ドラマがオリジナルの展開をたどることに文句はありません。
     いまさら原作のストーリーをなぞったところで連載時のサスペンスはもうないし、「原作を改変するな!」とはまったく思わないのですが、このレベルで変えちゃうなら「夜神月」とか「ニア」といった名前を使用することもない気はする。
     オリジナルの名前を使えばいいじゃんね。
     ところで、メロは存在そのものを抹消されてしまったのだろうか……。
     まあ、たぶん普通にありふれた失敗作として終わるでしょうが、一発逆転で原作読者をも驚かせる意外な展開が続く可能性もなくはない、かな? 期待せずに放送を待ちたいと思います。
     それにしても、このドラマ版の設定を見ると、原作がヒットした理由が逆によくわかりますね。
     『DEATH NOTE』の根幹にある「名前を書くとそのひとが死ぬノート」というアイディア自体は、実はそこまで秀でたものではないと思うのです。
     いや、ひとつの秀抜なアイディアではあるにせよ、いってしまえばそれだけのことでしかない。
     『DEATH NOTE』が傑作になっているのは、そのアイディアを物語レベルに昇華する段階での手際が飛び抜けているからでしょう。
     まず、