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スタジオジブリの宮崎アニメはなぜ面白くも辛いのか。
2015-04-14 19:4051pt
川上量生『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』読了。
これが、もう、超面白かった。実に素晴らしい内容なので、皆さん、読んでください。いや、いいもの読んだ。得した得した。
もっとも、「ぼくは」とても面白いと思ったけれど、ひとによってはあまりにあたりまえの内容だと思うかもしれず、また、まったく納得できないと感じる人もいるかもしれません。
それくらい、賛否を呼ぶ内容だと思います。
しかし、少なくともぼくにとっては非常に明快かつ爽涼に読める一冊でした。新書で安いので、ぜひ多くのひとに読んでもらいたいですね。
この本は著者の川上量生さんが、スタジオジブリで「コンテンツ」について学んだことが書かれています。
というか、この本一冊をかけて川上さんは「コンテンツとは何か」という問いに答えていこうとしています。
それがみごと答えられているかどうかはぜひ自分で読んでたしかめてもらいたいところですが、ぼくはちょっと違う始点からこの本を「活用」してみようと思います。
「面白い物語とは何か」という例のテーマを掘り下げるために、この本の内容を検証してみようと思うのです。
この本には、「ストーリーか表現か」と題した一節が存在します。ちょっと引用してみましょう。
映画をつくるとき、何をいちばん重視するかは人によって違います。鈴木敏夫プロデューサーは、よく会話のなかで「ストーリーか表現か」とひとりごとのように言うことがあります。
「すべての大監督は最終的に表現に行った」というのは、鈴木さんがよく使う言い回しです。
映画を見て、話のつじつまが合わないと文句を言う人がよくいるけれど、話のつじつまなんか合ってなくたっていいんだそうです。
興味深い話です。
なるほど、鈴木プロデューサーのいいたいことはよくわかる。
ほんとうに「表現」として凄い映画を見たとき、観客は細かい粗なんて気にならない。
観客が細かいことを気にしはじめるのは、ようするにその映画が気に入らなかったからだ、そういうことはできるでしょう。
それなら、「ストーリーか表現か」といえば、大切なのは表現であって、ストーリーは二の次なのでしょうか。
この本のなかでは明確な結論が出ていないませんが、少なくともクリエイターとは表現を重視する人々である、ということは書かれています。
なぜか。これも本文中に記されています。
ストーリーか表現かで、なぜクリエイターは表現にこだわるようになるのか、その理由は、ストーリーは表現に比べてパターン化されやすく、かつパターンの数が少ないからだとぼくは思います。
たとえばウラジーミル・プロップというロシアの民俗学者は、『昔話の生態学』という本で、昔話の構造を三一の機能と七つの行動領域に分けて説明しています。ようするに、昔話はたくさんあるけれど、それらはどれも、主人公がいてその助っ人がいるとか、悪役がいるとか、なにかを探すたびに出るとか、少数のパターンの組み合わせとして分類できるということを明らかにしたわけです。
ということは、たいていの物語はすでになんらかのパターンの繰り返しになっている可能性が高いのです。表面上は新しい物語のつもりでも、実は何度もくり返されている過去のパターンの焼き直しにすぎないということに、ストーリーはなりやすいのでしょう。
一流のクリエイターにとって、いままでなかった新しいコンテンツをつくりたいという欲求は本能のようなものではないでしょうか。
これも納得がいく話です。
ストーリーはパターン化しやすく、しかもパターンが少ない。これは一定以上、小説や映画を体験している「物語読み」なら、理屈ではなく実感として納得がいくことでしょう。
一般に、人間が共感しうる物語のパターンはきわめて少ない。
少なくともマスに向けてエンターテインメント作品を提供しようと思ったら、ごく限られたパターンをくり返すしか方法がない。
もちろん、あまりに定番のストーリーばかりでは飽きられてしまうから、表面上はあたかもまったく新しい展開であるかのように糊塗したりもするけれど、本質的にはわずかなパターンのリフレインであることを免れない。それは事実だと思います。
そもそも究極的に突き詰めていくと、新しい物語なんて生まれようがないんですよ。
たとえば、村上龍はすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という類型でできている、と喝破しています。
つまり、小説(や漫画や映画)のストーリーとは、登場人物を何らかの試練に合わせて、それを達成できるかどうかを見る、それだけのものだというのですね。
ここまで単純化してしまうと、たしかにどんな物語もこの放送から逃れられないように思える。
実験的な文学作品ならともかく、大衆向けのエンターテインメントなら殊にそうです。
だから、「ストーリーか表現か」と自らに問うたとき、「すべての大監督は最終的に表現に行」く。これはよくわかる話です。
表現が膨大な奥行きを持ち、いまなお新しい可能性を秘めているのに対し、ストーリーにはもはや探索するべき道はないともいえるのですから。
そう、たとえばハリウッド映画を見ればわかるように、マスに向けたストーリーテリングとは決まりきったものであるに過ぎないのだ。ひとまず、そういうことはできそうです。
しかし、ぼくはそれで納得することはできません。そうはいっても、やはり「面白い物語」と「そうでない物語」はあると思うのです。
ストーリーメイキングが数少ないパターンのくり返しであることは間違いないところですが、それでも「面白い物語」を生み出すことは簡単ではない。
大金をかけて良質なストーリーを研究しているはずのハリウッド映画ですら、あきらかに「出来のいいシナリオ」と「出来の悪いシナリオ」は存在するように見えます。
そして、それは「つじつまが合っているか、どうか」という問題だけではない。「つじつまは合っていないが面白いストーリー」は存在する。
つまり、作劇とは単なるつじつま合わせではない、ということです。
それにしても、なぜ、面白い物語をつくることは簡単ではないのでしょうか?
ひとつには当然、技術的問題が考えられます。少数のパターンの組み合わせとはいえ、それを緻密に行うことが簡単ではないことは当然といえば当然です。
少しでも「組み方」がずれてしまったらストーリーは台無しになりかねないのですから、繊細な心配りが必要なのです。
もうひとつ、たとえばスポンサーの意向などでストーリーは狂わせられやすい、ということもいえるかもしれません。
ハリウッドにはそういう事情で駄作に成り下がった作品がたくさんありそうです。
しかし、それらだけではない。現に、宮﨑駿個人の天才の表出と捉えられる一面が大きそうな宮崎アニメにしても、やはりストーリーが破綻した印象の作品は多い。
この理由も本文中に書いてあるのですが、宮崎さんははっきりとした「終点」を構想することなく物語を描き始めてしまうのですね。
小説家なら、それこそこれも本文中に例がある栗本薫のように、先を考えずに書き始めるというひとはいますが、プロの映画監督では類例がないんじゃないかな。
おかげで宮﨑駿の映画は、最後の最後になると「バルス!」で突然にラピュタ城が崩壊して終わりになるようなことになりがちであるわけです。
セキュリティという観点から見てあまりにひどい話だと思うわけですが。
とはいえ、『天空の城ラピュタ』はやはり何度でも鑑賞に値する名作です。
じっさい、くり返しテレビで放送されては好視聴率を記録している。多少つじつまが合っていないことなどだれも気にしない。
それはつまり、ストーリーに対して表現が優位だということの証明でしょうか?
結局のところ、宮﨑駿の手がける素晴らしいアニメーションさえあれば、観客はストーリーのことなど気にしないものなのでしょうか?
実は、ぼくはそうは思わないのです。
一本のシナリオとして見たら、『ラピュタ』の問題解決方法は、相当に乱暴です。
いくらでもツッコミが入る余地があるし、伏線の処理にしてもエレガントとはいいがたい。
しかし、それでも『ラピュタ』には胸躍るストーリーがある。ぼくはそう思います。
つじつま合わせとはべつの時点で、『ラピュタ』は面白い物語なのだと。
それに比べると、やはり宮﨑駿の最近作、『ハウル』や『ポニョ』はいくらか辛いものがある。
もちろん、それらは表現のレベルでは素晴らしい傑作でしょう。『ハウル』の空中散歩、『ポニョ』の波乗り、それらはまさにまれに見る大天才作家の力量を直接に実感させられる映像美です。
しかし、やはり全体として見ると、いくらなんでも「わけがわからない」ように感じられるのです。
シナリオの「わかりやすさ」という次元で、やはり『ハウル』や『ポニョ』は『ナウシカ』や『ラピュタ』といった初期作品に一歩譲るのではないでしょうか。
その証拠に『ハウル』や『ポニョ』のシナリオは非常に要約しづらい。
それに比べると『ラピュタ』は「鉱夫の少年パズーが、空から落ちてきた少女シータと出逢い、彼女とともに冒険し、ついに天空の城ラピュタにたどり着いて、悪漢ムスカを倒す話」とでも要約できるでしょう。
ぼくの言葉を使うなら、話の「コンセプト」がわかりやすいのです。
コンセプト。
ふたつ前の記事で出て来た概念ですね。憶えておられるでしょうか。
ぼくはこう書いています。
学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。
『ハウル』や『ポニョ』では、この「伝えたいテーマやメッセージ」がはっきりしない印象があります。
平和は大切だといいたいのか? 子供は無邪気で素晴らしいといいたいのか? 釈然としないまま映画館を出た観客は少なくないでしょう。
もちろん、そういう観客は宮﨑駿が真に表現したいことを受け取るだけの力量がないだけだ、とはいえるかもしれない。
しかし、まさに川上さんが書いているように、マスに伝えるためには「わかりやすさ」が重要です。
『ハウル』や『ポニョ』は、表現のレベルでどれほど高度であるとしても、一個のエンターテインメントとして、やはりあまりにも「わかりにくい」のではないでしょうか。
「つじつま合わせ」の強引さという点では、『ナウシカ』や『ラピュタ』と『ハウル』や『ポニョ』の間に決定的な差はないかもしれません。
ですが、それでもやはり後期作品は初期作品に比べて難解な印象を受けます。ペトロニウスさんの『風立ちぬ』評を引用してみましょう。
実は本編を見ている最中に、さまざまなイメージが喚起されたのだが、大きなものは『ハウルの動く城』だ。当時、僕はこの作品を酷評している。
その理由は、「意味が分からないから」だった。
精確に言えば、どの文脈で宮崎駿が語りたいのかは、過去の作品の文脈を理解していれば、自ずとわかるのだが、そういう高踏的な作品読解は、アニメーションとしてだけではなく、物語として僕は好きではない。物語は「わかる」ように描いてほしい、というのが僕の好みだ。それが正しいとは言わないが、端的に「それ」を見て、少なくとも表面的にでも言いたいことがわからなければ、やっぱり物語としての整合性がないと思ってしまう。もう少し具体的に書けば、ハウルという青年は、戦争をとても嫌っているようなのだが、「なぜそういう意識を持つようになったのか?」と「それならば、あなたは何をするのか?(=どう行動に起こすのか?)」が全然描かれていないので、ハウルがただ単なる傍観者に見えてしまうのです。絨毯爆撃の凄まじい戦争シーンの悲惨さを描けば描くほど、ハウルという主人公視点が、それに対して、外から見ている受け身であることがわかってしまうし、立ちすくんで苦しんで、ただ動けなくなっているだけなのが伝わって、少なくとも映画という短い時間で起承転結なりドラマの展開が要求される媒体としては。で??ってしか思えなかった。
もちろん整合性が取れる作品は小さくまとまってしまうので、『崖の上のポニョ』や『千と千尋の神隠し』のような、何が言いたいのかわからないイメージの奔流であっても、もちろん凄い強度は存在する。とはいえ、やっぱり「全体を通して主張したい明快なメッセージ」という言語化の部分とアニメーションならではのタンジブルなイメージが両立してほしいというのが、僕の好みだ。表面の動物の脊髄反射のレベル・・・・ああ、これは菜穂子との恋愛の美しい話ね、といった次元だけで見てしまう人も多々いると思う(信じられないが、それが現実のリテラシーのレベルなのだろう。背中の方で女性の2人組がそういう会話をしていた…良い純愛映画だったね、、、と)が、「そこ」から順々に複雑なものへ連れて行ってくれる構造をしているかが、エンターテイメントの価値だと僕は思う。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1
とても慎重な書き方をしていることがわかりますが、ようするに『ハウル』は「意味がわからない」、もちろん過去作品のコンテクストを慎重に検討していくとわかるのだが、自分の好みではあまりにも「わかりやすさ」が足りないように感じられる、といっているのです。
ぼくはこの見方にほぼ同意します。川上さんはこう書いています。
実のところ、ぼくはストーリーが気になるのでジブリの作品にはいろいろ不満があったのです。『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』を映画館で見たときには、もちろんおもしろくはあったのだけれども、不満もいろいろありました。
この二本をあらためて自宅で見てみたのです。そうすると不思議なことに、今度はなんの不満もないどころか大傑作だったのが分かりました。
ようするに宮崎駿監督がどんな作品をつくろうとしたのか、正しい見方をわかっていなかったのでしょう。
少なくとも宮崎作品については、やっぱりストーリーなんかどうでもいいのです。もし、宮崎作品の魅力がストーリーにあったとしたら、こんなに何度もお客さんに見てもらえるわけがありません。これだけテレビで再放送をやっているのですから、視聴率が下がらないわけがありません。ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はないからです。
そうでしょうか。ぼくはここで根本的な違和を感じます。
はっきりいうなら「ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はない」とはいえないと思うのです。
この世には、わかっていても何度でも体験したくなるストーリーというものが存在する。ぼくはそう考えます。
なるほど、宮崎駿は「表現の人」であり、「ストーリーの人」ではないかもしれない。
だから、特別、つじつま合わせには拘らない。
宮崎アニメを見て「つじつまが合っていないし、終わり方が強引だから駄作なのだ」ということは、非常につまらない見方ということはいえるでしょう。
しかし、それにしても、一本の映画はストーリーと表現の双方から成り立っているわけであり、「ストーリーなんかどうでもいい」とまで悟れる観客はそう多くないのではないでしょうか。
大半の観客は「面白いストーリーを最高の表現で体験したい」と思って劇場を訪れるはずです。
そして、その場合の「面白いストーリー」とは「細かいところまで精密につじつまが合っているストーリー」という意味ではない。
「ハラハラドキドキ、わくわくするような展開が連続し、幸福な、あるいは切ない気持ちで劇場をあとにできるストーリー」の意味だと考えられます。
ふたつ前の記事で、ぼくはそういうストーリーを「落差」という概念で説明しようとしています。
それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
(中略)
そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。
そう、大切なのは「ドラマティック」ということ。
『ラピュタ』にはその「ドラマティックさ」があきらかにあった。
鉱夫としての平凡で退屈できびしい日常――そこに空からゆっくりと降りてくるひとりの少女! 冒頭からしていきなりドラマティックな名場面から始まるわけです。
それに対して、『ハウル』はどうか?
比較するならやはり印象が弱いといわざるえないのではないでしょうか。
なぜなら、『ハウル』では「善」と「悪」、「明」と「暗」といった対立概念が明確ではなく、そのコントラストがはっきりしないからです。
『ラピュタ』のムスカを単純に悪人といい切ってしまうのは間違いなのかもしれませんが、少なくとも物語のなかでは悪役として描かれており、かれに対決するパズー少年とシータには正義があるように観客には感じられます。
しかし、『ハウル』においては、もはや何が正しく、何が間違えているのか、いったい監督が何を伝えたいと思っているのか、一見したところでは判然としない。
つまり、『ハウル』はあまりにも複雑混沌とした物語なのです。
それでもなお、膨大な観客がこの映画を見に行くのはやはり宮﨑駿の天才的な表現力を見るためとしかいいようがありません。
しかし、だからといって、そういう観客たちがみな「ストーリーなどどうでもいい。表現の素晴らしさだけが問題だ」とまで割りきれているかというと、ぼくは否定的にならざるを得ません。
さて、この本のなかで、「表現の人」宮﨑駿に対立する「ストーリーの人」として受け取ってもいいのではないかと見える人物がひとりいます。
手塚治虫です。
「父は、自分は表現では勝てないことを分かっていたのでストーリーで勝負したんですよ」
そう、ぼくに語ってくれたのは手塚眞さんです。父とはもちろん手塚治虫さんのことです。
「父は東映アニメ、それこそ高畑さんや宮崎さんにはかないっこないから、アニメーションでは最初から勝負しなかったんです。でも、こっちはストーリーがおもしろいから、そこで勝負するんだって」
(中略)
どうせアニメーションの技術では勝てないので、制作費と製作時間を減らして、そのかわり手塚治虫原作のおもしろいストーリーで勝負することで、国産初のテレビアニメ放送を実現したのです。
この箇所を読むと、手塚治虫には宮崎駿や高畑勲ほどの表現の天才はなく、ただ「おもしろいストーリー」で勝負するしかない人だった、というふうに読み取れます。これは一面の事実でしょう。
しかし、逆にいえば、手塚治虫はストーリーという一点においては、アニメーションの申し子、線の魔術師たる宮﨑駿にすらアドバンテージを保つことができた、ということもできるわけです。
そう、手塚こそは実に戦後漫画界最大にしておそらくは最高のストーリーテラーです。
こと「おもしろいストーリー」を描くことにかけては、手塚は絶対の自負を持っていたと考えられます。
それでは、その「おもしろいストーリー」とはどういうものなのか。パターンが少なく、あっというまに陳腐化してしまうはずのストーリーで、手塚はなぜ衆に抜きん出た存在であることができたのか。
そのひとつの答えが、先の「コントラスト」ということです。
手塚は巨大な「対照性」のあるストーリーを生み出す天才だったのです。
その才能の稀有さ、貴重さは、実にアニメーションにおける宮﨑駿に匹敵するものとぼくは考えます。
これだけでは抽象的に思えるかもしれないので、具体的な作品を見てみましょう。
なるべく有名なエピソードが良いと思うので、『ブラック・ジャック』から「ふたりの黒い医者」を選びたいと思います。
ブラック・ジャック永遠のライバル、ドクター・キリコ初登場の話です。
とても有名な話なので、おそらくご存知かと思いますが、そうでない方は↓を読んでみてください。
http://bkmr.booklive.jp/manga-sociology-01-euthanasia
このラストシーン、ブラック・ジャックが絶望的な葛藤のなかで「それでも私は人をなおすんだっ 自分が生きるために!!」と叫ぶ場面は、伝説的な名場面としていまも語り草になっています。
それでは、このシーンの何がそれほどひとの心を打つのか。いろいろあるでしょうが、そのひとつが「コントラスト」です。
このシーンでは、ある階段の上段にいるキリコと、下段にいるブラック・ジャックが対象されて描かれています。
この上下の差が、即ち、死と生、勝利と敗北、運命と人為といった対立項を読者に強く印象づけるのですね。
ここで読者は一転して敗者の地位に立たされたブラック・ジャックに強く共感し、かれの感情に同調します。
手塚が作劇の天才としかいいようがないのは、この最後のコマで、その前のコマで高らかに哄笑していたキリコがもはやブラック・ジャックになどなんの興味もないといわんばかりにしずかに去っていこうとしているところです。
つまり、ここには「宣言」と「沈黙」という対立項もあるわけです。
まとめるなら、「死を司り、運命を信じ、ついに勝利したキリコの沈黙」と「生を守ろうとし、人為の限りを尽くし、それでも敗北したブラック・ジャックの宣言」が対峙していることになる。
これこそが、まさに手塚的な「おもしろいストーリー」を象徴するワンシーンといえるでしょう。
いや、これは手塚の「表現」の次元の話ではないか、「ストーリー」の次元の魅力とはいえないのではないか、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
このワンシーンだけならそうといえるかもしれません。
しかし、このシーンの前にここに続くストーリーがあり、そこではブラック・ジャックはキリコが殺そうとした患者の治療に成功した「勝者」であったのです。
それなのに、一瞬でかれは「運命」の前に「人為」のむなしさを思い知らされる「敗者」の地位にまで突き落とされる。
その「落差」にこそ読者は痺れるような快感を覚えているのであって、これはやはり「ストーリー」の次元で生み出された名場面といえるかと思います。
冷静に考えてみれば、せっかく助けた親子が突然死んでしまうという展開は、伏線も何もない、シナリオ技法の点からはちょっと問題があるような展開です。
しかし、それが巨大な「落差」ある展開を生み、強烈な「コントラスト」を感じさせる結末に至るとき、ひとはもはやそんなことを気にしないのです。
むしろ、「一切伏線がないこと」こそがこのエピソードの真骨頂だといえるでしょう。
物語を面白くしようと思ったら、「落差」や「コントラスト」はかくも大切だということ。
波乱万丈の映画を「ジェットコースター」に喩えることがありますが、迫力あるジェットコースターとは緩急や高低に富んでいるものです。
物語も同じ。「落差」がない展開は、どんなに巧みにつじつまが合っていても面白くないのです。
なるほど、ストーリーは表現にくらべバリエーションに乏しく、パターン化して陳腐になりやすいことはたしかでしょう。
しかし、同じパターンであっても、「落差の差」、「コントラストの差」というものは存在しえる。
そして、その差は実に見過ごせないほど大きなものなのです。
たしかに、ストーリー作りは表現ほど「自由」ではないかもしれない。
それは「始点」と「終点」、そして「結晶点(クライマックス)」を意識して厳密に構成しなければならないものだからです。
その意味で、ストーリーテリングとは表現とくらべて「窮屈」なものである、ということもできるでしょう。
それはどこか数学の公式や音楽の作曲めいたところがあって、何かがちょっとでも狂うともう完璧とは見えないのです。
そして、それにもかかわらず、一瞬で完璧なシナリオを作り出してしまう手塚のような天才もいるところも数学や音楽と似ています。
モーツァルトは即興でみごとな曲を作ることができたといいますが、手塚はさしづめ「作劇技術のモーツァルト」ということができるかもしれません。
この天才的な「劇的な落差を生み出すことの天才」があってこそ、手塚は宮崎駿といった「表現の天才たち」に勝負を挑むことができたのだ、と考えてみると面白いでしょう。
戦後のエンターテインメントをざっと眺めてみると、ぼくにはもうひとり、「ストーリーの人」といいたい巨人がいます。
黒澤明です。
黒澤がシナリオを重視したことは有名で、「シナリオが一流なら、監督が仮に二流三流でもいい映画はできる。だけどシナリオが三流なら、一流の監督がいくら頑張ってもうまくいきませんよ」といった発言がいまに残されています。
かれはじっさい、脚本づくりに膨大な時間と労力を費やしたといいます。
『コンテンツの秘密』のなかでは、この黒澤も最後には表現を選んだということが書かれています。
これはたしかにそうだろうとぼくも思います。晩年の作品を見ると、「黒澤も最後には表現に行った」ということはできそうに見えます。
しかし、ぼくは思うのです。それは必ずしもマスに歓迎される変化だったのではないのではないか、と。
もちろん、一個の芸術作品としては『乱』は素晴らしい。『夢』は美しい。そういうことはできる。
しかし、より一般的な視聴者にとってやはり黒澤明といえば、『天国と地獄』であり、『椿三十郎』であり、『七人の侍』なのではないか。
それは宮﨑駿といえば『ナウシカ』であり『ラピュタ』である、ということとどこか共通したものがあるのではないでしょうか。
たしかに、大黒澤も最後には表現に行ったひとりではあるでしょう。
しかし、それは「緻密な構成力」が衰えたために、そういう方向に進まざるをえなかったという一面もあるように感じられます。
そう、ぼくには厳密な意味での物語の構成力とは歳を取るにしたがって衰えていく種類の知的能力であるように思えるのです。
その証拠に、巨匠とされる人の晩年の作品を見ると、どれも長い。これは短く無駄なくタイトにまとめあげるスキルが衰えているということなのではないでしょうか。
ぼくひとりがそう考えているわけではなく、たとえば『ファイブスター物語』の永野護などは、連作短編エピソードである「ザ・シバレース」を描いた理由を、こう述べています。
「ザ・シバレース」を描いた理由のひとつとして「運命の3女神」での反省があった。
「運命の3女神」はとにかく長くなりすぎた。当時、作家として、シナリオライターとして、自分にはものすごい恐怖感があって。昔から作家や脚本家に、40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多いような気がしていて。実際に多くの作家や脚本を書く映画監督が、つくる話がどんどん破綻してしまっていくのを見ていたからね。まあ、小説でも映画でも実際にはつじつまを合わせる必要はないんだけど、それを飛び越えるくらいの勢いで破綻しているケースを見てきた。
「アトロポス」を書き終えたころはもう30代半ばだったし、そういった不安から30代のうちに自分に足かせをつけて膨大な短編を残しておかないとって思ったんだ。
若い作家と年齢を重ねた作家の違いを考えると、若い作家は勢いで膨大な短編を生み出しているんだよね。O・ヘンリーもそうだし、ジョン・アーヴィングもそうだし。近代作家もすごいいっぱい短編を書き残しているよね。そういったことを含めて、「ザ・シバレース」を描こうと思った。
「40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多い」。これは、ぼくの印象と重なります。
たとえば、あれほど天才的な物語作家であった栗本薫にしても、40代ごろからその作品は冗長化の一途をたどった印象が強い。
しかし、それも当然といえば当然のことです。物語づくりとは「窮屈」なもの、年を取り、巨匠と呼ばれるようにまでなって、そういう「窮屈さ」を引き受けようとするクリエイターはそう多くはないということなのでしょう。
永野護にしても、短編をつくる作業を「足かせ」をつけると表現しています。
これは「窮屈さ」をひき受けるということとほぼ同じ意味でしょう。
ぼくはそういう永野をほんとうに偉いと思うのですが、それはまたべつの話。
とにかく、ある程度の自由が許される「表現」にくらべて、「ストーリー」を作ることは「窮屈」であり、歳をとった作家はその「窮屈さ」に耐えられなくなっていくのではないか、という話です。
しかし、やはり作家にとって「おもしろいストーリー」はひとつの強力な武器であるわけで、仮に表現がクリエイターの権利であるとすれば、ストーリーはクリエイターの義務。そういうふうにいえるかもしれません。
さて、このようにストーリーの良し悪しには「つじつまの整合性」のほかにも「波乱万丈さ」という基準があるわけですが、そんなハラハラドキドキのストーリーにしても、川上さんのいうように「分かってしまえばもう見る必要はない」のでしょうか。
実は、ぼくはこの点についてもそうは思わないのです。
これはつまり、ひとは先の展開がわからないからそれが気になって画面を注視するわけ「ではない」ということです。
いや、もちろんそういう側面は強いでしょうが、それがすべてかといえば、決してそうではない。
むしろ、先の展開がわかっているからこそ、それを見たくて画面に集中してしまう。そういうことがありえるとぼくはいいたい。
表現という一点を取るなら、スタジオジブリの作品でも後期の作品のほうが、やはりそれなりのお金をかけているぶん、川上さんがいうところの「情報量」が多く、魅力的であるはずです。
初期の『ナウシカ』や『ラピュタ』、つまりスタジオジブリ以前の作品は、それにくらべれば情報量的にシンプルでしょう。
となると、必然的に後期作品のほうが初期作品より「再視聴、再々視聴に耐える」ことになりそうです。
しかし、じっさいには必ずしもそうなっていないのではないでしょうか? 表現としていまではそこまで情報量が多いように見えない初期作品も、後期作品以上に「再視聴、再々視聴に耐える」ものである。こういったとして、反論はそこまで大きくないのでは?
それはなぜかといえば、「あるコンセプトに基づくストーリー」の力だと思うのです。
「つじつま合わせ」という点でいえば特に優れているとも思えない宮崎アニメですが、それでも、少なくとも初期作品、あるいは前期作品には「おもしろいストーリー」があった、とぼくは思います。
つまり、そこでは「落差」や「コントラスト」を生み出すドラマツルギーが、わかりやすくシンプルな形で作用していたと考えるわけです。
たとえば、あの有名なパズーとシータが「バルス!」と叫び、ラピュタ城が崩壊してゆくシーン。
あのシーンはいまではテレビ放映されるたびにTwitterでシェアされ、何十万もの人がともに「バルス!」と叫ぶことになっているわけですが、これは当然、その人たちが『ラピュタ』を既に見ていて、先の展開を知っていることを意味しています。
かれらはすべての展開を知ってなお、「バルス!」の瞬間をわくわくと待ち望みながら『ラピュタ』を見ているわけです。
なぜこんなことがありえるのでしょうか? それは、物語という「波」に乗ることが気持ちいいからだとぼくは思います。
そう、川上さんがいう「脳に気持ちいい表現」があるように、「脳に気持ちいいストーリー」というものもまた存在するのです!
ぼくはそれを「波」に喩えます。
つまり、上がったり下がったりという「落差」のある展開を楽しみつづけることは、ある種の「波」に乗ることに近いものがあるように思うのです。
この「波乗り」の快感が忘れられなくて、多くのひとはくり返し同じ映画を見るのではないでしょうか。
世の中には、手塚や、ある時期までの黒澤のような物語作家(ストーリーテラー)と呼ぶべき作家たちがいます。
「表現」より「ストーリー」により長けたクリエイターのことです。
もちろん、手塚や黒澤は「表現」においても天才的な人物だったかもしれませんが、かれらがなぜ大衆の心を掴んだかといえば、魅力的な「波」を生み出す才能を持っていたからでしょう。
たとえば田中芳樹。
もっというなら奈須きのこ。
田中は、表現力という点だけを取れば、おそらくそこまで優れた作家ではありません。
それほど文章がうまいわけでもないし、あまり表現のセンスが良くないところがある。
奈須きのこに至っては、文章力という一点だけを取るなら、はっきりと稚拙です。
特に初期は読むのが辛いくらいなのですが、それでも、田中や奈須はベストセラー作家になりおおせました。
なぜ、そんなことが可能だったのか。それは、かれらが物語作りに比類ない天稟を備えていたからです。
かれらは魅力的なストーリーを生むことに特化した才能と技能をもつ物語作家なのです。
西洋では、ロバート・A・ハインラインとか、スティーヴン・キングなどがそういう作家にあたるでしょう。
物語作家は落差(高低差)の大きいストーリー(波)を生み出すことに長けています。
ある場面、もっというならあるひと言にそれまでのすべての展開が「結晶」するように緻密にドラマを紡いでいく、そういう才能のもち主なのです。
たとえば、『銀河英雄伝説』の「ラインハルトさま、宇宙を手にお入れください。それと、アンネローゼさまにお伝えください。ジークは昔の誓いを守ったと」といったセリフ。
あるいは『Fate/stay night』の「いくぞ英雄王――――武器の貯蔵は充分か」というセリフ。
これらは、そのひと言に向かってそれまでのすべての物語が収斂していく、そういう言葉です。
LDさんの言葉を借りるなら、これらのひと言こそが、その物語の結晶点、クリスタライズ・ポイントであるわけなのです。
こういう「波」の頂点ともいうべきセリフなり場面を生み出すことができ、しかもその前後の「波」がそこに自然につながっていくように計算して構築できる才能、それが物語作家の資質です。
だから、奈須きのこの文章技術をいくらばかにしたところで意味がない。それはまったく筋違いの批判です。
いい換えるなら、名ゼリフとか名場面というものは、それ単体で成り立つものではないということ。
そこに向かって徐々に高まっていった物語のテンションがついに最高潮に達する、その瞬間をみごとに捉えたセリフや場面が名ゼリフと呼ばれ、名場面と呼ばれるだけのことなのです。
その瞬間には実に堪え切れないカタルシスがある。しかし、それはそれ単体で成り立っているわけではない。
物語とは「波」。
山あり谷ありで初めて成り立つもの。
だからこそひとは既に展開がわかっていて、しかも表現として特別に情報量が多いわけでもない同じ物語をくり返しくり返し楽しんだりするのだとぼくは考えます。
ストーリーはたしかにパターン化しやすく、一見すると簡単に模倣できそうに見える。
だから、物語作家はしばしば低く見られ、ストーリーの価値は軽く受け取られることもある。
しかし、そうではない、優れた物語作家とは天才的な表現者と同じくらい貴重な存在なのだ。ぼくがいいたいのは、そういうことです。
それでは、 -
もっと新しさを! 映画『ゴティックメード』は自己否定/自己破壊のプロセスそのものだ。
2015-04-05 17:2851pt
何か良い作業BGMはないかな、ということで『花の詩女 ゴティックメード オリジナル・サウンドトラック』を借りて聴いています。
監督の意向により円盤が発売されていない作品なので、いまのところ作品を思い出すよすがとなるものはこのサウンドトラックと設定資料集くらいしかない。
『ゴティックメード』が『ファイブスター物語』と直接につながる作品であることがあきらかになったいま、円盤を発売すれば売れると思うのですが、原作・脚本・監督の永野護にはそんなつもりはさらさらないようですね……。
『ゴティックメード』は『ファイブスター物語』でいうところの星団暦451年の物語です。
本編のストーリーからおよそ2500年前の話ということになりますね。
それだけならまだいいのですが、この映画『ゴティックメード』を境にして『ファイブスター物語』の世界はその様相を一変させることになります。
それまでは騎士と生体コンピューター・ファティマ、それに巨大戦闘ロボット・モーターヘッドが活躍する世界でした。
しかし、ファティマは「オートマティック・フラワーズ」と呼ばれるようになって「アシリア・セパレート」という新たな戦闘服をまとい、何よりすべてのモーターヘッドが「ゴティックメード」へと姿を変えるのです。
それまでにもその展開を予感させるものはありました。
映画『ゴティックメード』の冒頭に現れるナイト・オブ・ゴールドらしき、しかし微妙に違うロボットは何なのか?
『ゴティックメード』の世界が星団史のどこかに位置づけられるとして、なぜこの巨大ロボットはモーターヘッドではなくゴティックメードと呼ばれているのか?
映画本編で一切活躍しないゴティックメードたちはいったい何のためにデザインされたのか?
しかし、ぼくを含むほとんどの視聴者がその微細な違和感をあたりまえのように捨て去ってしまったのでした。
そのときは、まさか永野護が世界ひとつすべての設定を捨て去り、リファインするつもりだなどとは想像すらできなかったのです。
かつてそんなことをやってのけた作家はなく、あるいはこの後もないかもしれません。
しかし、よくよく考えてみれば、その作業は「平行世界」を取り扱って来たゼロ年代からテン年代にかけてのアニメや漫画とシンクロするものでした。
ただ、永野は「平行世界」などという使い古された概念を使用することなく、一切の説明もなしに世界を入れ替えてしまったのです!
いままでも突然に超未来の話になったり、異宇宙、さらには神々の世界から物語が始まったりと、あらゆる意味で衝撃的な展開を遂げてきた『ファイブスター物語』ですが、それにしてもこれほどの展開を想像できたものはだれもいなかったでしょう。
連載30年にしてなお自分自身をアップデートしつづける。
ほかのクリエイターたちが追いついてきたならさらにまたひき離す!
その、想像力の冒険。
結果としてファティマやロボットのデザインはいままでにも増して異形となり、ある種、ピーキーな属性を持つに至りました。
好きなひとにとってはとてつもなく格好良く思える一方、そうでないひとにとってはまさに異常としか感じられないデザインではあるでしょう。
しかし、それでいいのだ、それこそが斬新ということなのだ、「超一流(プリマ・クラッセ)」でありつづけるということはそういうことでしかありえないのだ――そこに永野のその壮烈な宣言を感じないわけには行きません。
いままでにも -
天才よりも貴重な凡才とは何ものか?
2015-04-01 04:4551pt
『ファイブスター物語』の作家として有名な自称天才デザイナー永野護に、こんな発言があります。
永野護というキャラクターデザイナーを起用するときに求められるのはただひとつ。簡単なひと言で済む。
「いままでに誰も見たことのないような、すっごい奴をつくってくれ」
これは僕がかつてとあるアニメ製作会社にいたとき、当時の上司、山浦氏から言われたことばです。
それに対して僕は
「あ、そういうのなら簡単です。いちばん得意ですから」
いやー、ぼく、このひとのこういうところ、大好きだなー。
傲岸不遜。あるいはひとによって「なんていやな奴だ」と思うかもしれないけれど、ぼくはこういうひとだから好きなのです。
ナガノのファンはみんなそうなんじゃないかな。わかりませんが。
ここにあるものは、どこまでも傲然と自分の天才を誇る態度です。
「実るほど首を垂れる稲穂かな」なんて精神はまったくない。
「どうだ。おれはすげえだろ」という子供のように真っすぐな自負があるだけです。
「どうせおれなんて……」とかひねくれがちなぼくなどから見ると、実に爽やかに思えます。
もちろん、「才能があるからそういうことがいえるんだ」という意見はあるでしょう。
しかし、いった以上はやらなくてはならないわけで、「謙虚」に振る舞っているほうがひととしてよほど楽なのに違いありません。
それにもかかわらず、永野護はビッグマウスによって自分にプレッシャーをかけ、追い込んでゆく。
そして結局、「万人を納得させる」とまでは行かなくても、ともかく口先だけの男ではないと思わせるところまではやってのけるのです。
素晴らしい生き方だと思います。もちろん、凡人に真似できるものではないことはたしかだけれど、ぼくはこういう傲岸な人間に対してあこがれがある。
まだ新潟では未公開なのですが、映画『イミテーション・ゲーム』の主人公アラン・チューリングもまたその種の「傲岸な天才」のひとりだったようです。
しかし、チューリングの場合はあまりに不遜すぎたために、周囲の理解を得られず、どんどん孤立していってしまいます。
映画がどのような結末を迎えるのかぼくはしりませんが、じっさいのチューリングの人生は悲劇に終わっています。
才能はあっても社会性がない人物は往々にしてこういった結末を迎えることになるようです。
しかし、それはかれら自身だけの責任なのか? 社会の側に問題はないのか? ぼくはあると思うのです。
社会の側が十分なクッションを持っていれば天才と衝突することはないと考えます。
チューリングを演じたベネディクト・カンバーバッチはその前に天才探偵シャーロック・ホームズを演じています。
シャーロックも奇行の目立つ天才ではありますが、しかし、社会的に孤立し切ることはありません。
ぼくはそこにはワトスン博士という「偉大な凡人」の存在を見ます。
ワトスンのような「偉大な凡人」がクッションとして間に挟まることによって初めてその真価を発揮する才能というものもあるのではないか。
ぼくはここで、田中芳樹『七都市物語』に登場するユーリー・クルガンのことを思い出さずにはいられません。
クルガンは秀抜な軍事的天才のもち主でありながら、その性格の悪さがたたってだれにも好かれません。
しかし、ただひとり、上司のカレル・シュタミッツだけがかれを信頼し、登用します。
クルガンの描写はこんな感じ。
彼は誰に対しても、冷淡で辛辣だった。自分自身に対しても、あるいはそうかもしれなかった。いつも不機嫌で、自分を「不遇な天才」と信じこみ、人を見る目のない上司たちを豚や猿と同一視しているようだった。その男を参謀長にすると聞いて、シュタミッツの知人たちは一瞬絶句し、そのあと翻意するようすすめたが、シュタミッツは我意をとおした。
これ以後、カレル・シュタミッツ司令官代理は、ユーリー・クルガン参謀長の立案した作戦にOKサインを出すだけの役割を自らに課する。「不遇な天才」が才能を完全に発揮しえる環境をととのえる――それが自分の責任だと、三つ子の若い父親は考えたのである。
クルガンのほうは、司令官代理の配慮を承知していたが、だからといって謝辞をのべるでもなかった。それができる性格なら、クルガンの敵と味方は、比率を逆転させていたであろう。
「昔、トーマス・アルバ・エジソンという男がいて……」
と、クルガンは知人に語ったことがある。
「刑務所に電気椅子をセールスしてまわった男だが、そいつが言った。天才とは九九パーセントの汗と一パーセントの霊感だ、と。低能の教育者どもは、だから人間は努力しなくてはならない、と生徒にお説教するが、低能でなくてはできない誤解だ。エジソンの真意はこうだ。いくら努力したって霊感のない奴はだめだ、と」
こういうところ、さすが田中芳樹はわかっているなあ、と思わせられますね。
クルガンは非凡な天才ですが、かれのその抜きん出た才能はシュタミッツという「偉大な凡人」を得て初めて発揮されるのです。
シュタミッツは -
いちばん恥ずかしいところを晒せ! 真夜中のポエムをひとに読ませるべきたったひとつの理由。
2015-03-07 10:1051pt
きょうは「羞恥心」について話をしたい。一般にひとが備えている恥ずかしいと感じる気持ちのことだ。一説によるとアダムとイヴが知恵の果実を齧った時に生まれたというが、国家も宗教も超えて存在する人間の最も人間らしい想いのひとつである。
たとえば洋服の下の裸を見られたとき、ひとは恥ずかしいと感じる。あるいは、秘密の日記を見られたとき、さもなければ、本棚の奥に隠していた秘密のエロ本コレクションを見つかったときなど、多くの人は羞恥心を感じ、叫び出したいような気分になる。その気持ちをまったく理解できないというひとはほとんどいないはずだ。
しかし、これはひとが生まれつき備えている感情ではない。現実に赤子は裸でいても恥ずかしいとは思わないし、人前でも平気で排泄する。あたりまえといえばあたりまえのことだが、羞恥心とは人間が作り出した文化に由来する感情に過ぎないのである。
それでは、人間にとって最も恥ずかしいこととは何か? いろいろな答えが考えられるだろうが、ぼくはそれは心を覗かれることだと思う。
心の奥底のだれもが抱える秘密の部分、そこに必死に隠しているものを見られることほど恥ずかしいことはないのではないか。それに比べれば肉体的欠陥を見られることなど、どうということはないとすらいえる。
自分がほんとうは何を好きで何を嫌いなのか、何を美しいと感じ、何に怒りを覚えるのか、その、きれいごとではないほんとうのところを晒すことは途方もなく恥ずかしい。なぜならそれは、いかなる虚構でも守られていない裸のその人自身だからだ。
人前で裸になることもたしかに恥ずかしいが、精神的に裸になることはそれ以上に恥ずかしい。心のストリップは肉体のストリップ以上の屈辱を伴うのである。
何年か前に『サトラレ』という漫画が流行ったことがあった。この作品の主人公たちは、自分の心のなかを無意識に周囲に漏らしてしまう人々、「サトラレ」たちだった。
物語のなかではかれらは自分がサトラレであることを気づかないよう守られている。なぜなら、自分の心の中をそのまま覗かされていることを知ってしまったならば、羞恥心で自殺しかねないからだ。心こそは人にとって究極のプライバシーエリアなのである。
しかし――人が人と交流するということは、そのプライバシーをある程度開陳するということである。自分のことを一切知らせないで相手のことを知ろうとすることには無理がある。だれかと語り合うためには、どこかで、自分はこういう人間なのだと知らせなければならない。
まして、何か作品を創造し、人の心を揺さぶろうなどと考えた時には、自分をオープンにせざるを得ない。アートとは心のストリップショーなのだ。
何か作品を創造し、それを発表したならば、その人の人生、教養、価値観、偏見、感情、自負、傲慢、それらすべてがつまびらかにならざるを得ない。また、そうでなければ決して人の心を打つものは作れない。
だからこそ、アーティストという名のストリッパーには自分の本心を晒す勇気が必要となってくる。
自分の高潔さ、偉大さ、賢さ、自己犠牲の精神などだけ晒せるならいいが、じっさいにはそうは行かない。そういったプラスの側面を晒す時には、無知、卑小さ、愚劣さ、エゴイズムといったマイナスの側面をも晒さなければならないのである。
なぜか? それはつまり、心のストリップショーにおいて大切なのは、最後の一枚まですべての衣服を脱ぎ捨てることだからだ。一枚でも身につけている限り、魅力的なショーとはなり得ないのだ。
その人の最も秘められ隠されたグロテスクな陰部をこそ観客は見たがる。そこを隠していてはショーは成立しないのである。
しかし――それは何と恥ずかしい、痛々しい、格好悪いことなのだろう。自分の最も隠したい、醜い場所をこそ晒さなければならないとは、何という拷問だろう。
人はそのさまを見て笑うに違いない。何と無知な人間だ、愚かな精神だ、虫けらにも劣る恥ずかしい奴なのだ、と。それはまさに衆人の視線のなかで全裸となるに等しい行為だ。
おそらく賢い人間はそんな真似をしないに違いない。賢い人間は、自分は衣服をまとったままで、他人の裸を笑うのである。そうすれば、自分の陰部は隠したままで、他人の陰部の形を嘲ることができる。パーフェクトに安全で、絶対に傷つかない賢いやり方である。
こういう人のあり方を、ぼくは「利口」と呼ぶ。一方、自分のすべてをさらけ出す行為は、これはもう「バカ」としかいいようがない。必然的に傷だらけになり、最後にはズタボロになってしまうスタイルといえる。
人はどのように生きるべきなのか、「利口」が良いか、それとも「バカ」を尊ぶべきか、それは人それぞれであることだろう。しかし、ぼくは断然、「バカ」を選ぶ。
自分も「バカ」でありたいと思うし、「バカ」を晒している人をこそ尊敬する。「利口」なあり方は、賢いとは思うが、リスペクトには値しないと考える。
あるいはそれは偏見かもしれない。「バカ」のほうがより偉いという下らない思い込みに過ぎないかもしれない。しかし、それでもぼくは「利口」より「バカ」を取る。なぜなら、いままでじっさいにぼくを感動させた創作作品は、いずれもすさまじく「バカ」な代物だったからだ。
自分の欠点を晒し、汚点を見せつけ、偏見を隠さず、傲慢を示した人々の作品だけが、ぼくの心を鋭く射抜いたのである。
ぼくはそれらの作家と作品を尊敬し、自分もまた「バカ」であろうと試みて来た。その成果が即ちこのブログとその前のブログ「Something Orange」である。
しかし、自分がほんとうに「バカ」になれたかどうかといえば、これは微妙なところだろう。どこかで自分のほんとうに恥ずかしい部分は隠そうとしてしまっているかもしれない。
何かの作品をひとに奨めるとき、ぼくはほんとうにいつも本気だっただろうか。時には「仕事だから」とか「読む人のためを思って」といったいい訳を用意して自分をごまかしていたのではないか。そう思うと、忸怩たるものがある。
しかし、プロフェッショナルなクリエイターにとってすら、自分のすべてをさらけ出すことは簡単なことではない。しかし、ぼくはその自己開示に成功した「バカ系」の作品をこそ好きなのだ。
たとえば、高河ゆんに『恋愛 REN-AI』という長編がある。ぼくがいままで読んだあらゆる漫画のなかで、最も好きな作品のひとつである。
しかし、ぼくは長い間、自分がなぜこの作品を好きなのか、説明することができなかった。いまならできる。『恋愛』は極端なまでに「バカ」な漫画だからだ。作者が一切照れることも衒うことも恥ずかしがることもなく自分の価値観をオープンにしている作品だからなのである。
この物語の主人公は、たぐいまれな美少年、田島久美(ひさよし)。しかし、かれは現実の女性ではなく、テレビのなかのアイドルに恋をしている。やがて、かれはその恋を叶えるため、自分自身もアイドルとして芸能界に乗り込んでいく。
あるとき、女友達から「恋愛はいつか終わるのだから、終わり方こそが大切だ」といわれた久美は、こう応える。「関係ないね、ぼくの恋愛は終わらないよ」。
ああ、何て「バカ」で、恥ずかしいセリフなのだろう! ここには「成熟した恋愛感情」とか「大人の恋心」といいたいようなものはかけらも見あたらない。ひたすらに、少女漫画を読み過ぎた男のような思い込みの激しさが見られるだけである。
あたりまえの漫画家なら、だれか第三者の視点を用意して、このセリフを茶化してみせ、自分を弁護することだろう。つまり、「これはあくまで作中のキャラクターのセリフであって、作者自身はこんな青くさいことは思っていないよ」というポーズを取り、裸の自分を守るわけである。
しかし、高河ゆんはここで完全なる確信を込めてこのセリフを書いている。一片の弁解も、自己弁護も、ここには介在しない。ぼくにはそのように思われる。
この漫画では、ほかにもとんでもない「恥ずかしい」セリフや行動が頻出する。そもそも一介の少年がアイドルの少女に恋をし、彼女を恋人にするため芸能人になる、というストーリーそのものが限りなく青くさく恥ずかしいし、痛々しい。
しかし、ぼくはいいたい。だからこそこの漫画はすばらしいのだ、と。『恋愛』という作品の魅力はまさにその確信の強さにある。高河ゆんはこの主人公の行動や言動を本気で格好いいと思っていて、そのように描いているのだと信じられる。そこがこの漫画の魅力だ。
しかし――そのしばらく後に描かれた姉妹編の『恋愛 CROWN』では、もうその確信は消えている。象徴的なことに、この漫画のあとがきでは、作者自身が久美に対し「恥ずかしい」と語りかけるシーンが存在する。
これはぼくにはある種の「いい訳」と受け取られてしまう。そして、その種の「いい訳」を挟んだ途端に、あれほど輝かしかった『恋愛』という漫画は、ただのありふれた恋愛漫画のひとつまで落ちるのだ。ぼくは『恋愛』は大好きだが、『恋愛 CROWN』はさほど評価しない。
『恋愛』だけではなく、ぼくの好きな作品は、どれも決定的に「バカ」である。自分の自意識を守っていない。たとえば、永野護の『ファイブスター物語』。
『恋愛』とはまったくベクトルの違う作品だが、これも作者が「自分が本気で格好いいと思うもの」だけを描いているという点が共通している。
永野護は、自分が生み出したナイト・オブ・ゴールドやツァラトゥストラ・アプターブリンガーといったロボットを、あるいはエストやクローソーといった美少女たちを、本気で美しいと考えていると思う。
たとえ、人から見ていかにもその姿が異形に見えるとしても、かれにとっては関係ないのだ。たとえ世界が「こんなもの格好悪い」といっても、かれは自分の生み出したものの格好良さを信じるに違いない。
何というナルシシズムであり、恥ずかしさだろう。しかし、まさにそうだからこそ、ぼくは永野護の漫画を好きなのだ。
あるいは、栗本薫でも、田中芳樹でも、司馬遼太郎でもそうである。栗本薫はアルド・ナリスを世界一美しいキャラクターだと本気で信じていただろうし、田中芳樹もオスカー・フォン・ロイエンタールほど格好いい男はいないと信じているだろう。
司馬遼太郎も土方歳三や高杉晋作をこの上なく理想的な男子のあるべき姿、と確信していたに違いないとぼくは信じることができる。ぼくはそういう「確信」が好きなのだ。
客観的に見れば、ほんとうに美しいか、格好いいか、理想的かどうかなど、測りようもないことである。だから、それらの価値観はあくまで作者の思い込みということになる。自分で生み出したものを、自分で美しいとか、格好いいと思いこむとは、何と恥ずかしいことなのだろう。
(ここまで4429文字/ここから4297文字) -
斬新にして異形。数々の「ゴティックメード」が初披露される記念碑的画集がついに刊行!
2014-03-25 05:4753pt
うっす。海燕です。小旅行から帰宅してからずっと『ファイブスター物語デザインズ4』を読んでいます。
これは永野護の漫画『ファイブスター物語』の設定画集第13弾にあたるもので、価格は5000円以上します。まあでも、同じ設定画集の『ナイトフラグス』は7500円したから、それを考えれば決して高くはない。
そもそも高かろうが安かろうが買うのだから、値段は大した問題ではないのです。いやまあ、ほんとうは大問題だけれども、とにかく永野護の画集が出たら買うのだ。
特に今回の画集は過去三作の『デザインズ』にも増して価値がある。なんといっても、『ファイブスター物語』の世界観全体が、モーターヘッドと名づけられたロボットが闊歩する世界から、「ゴティックメード 覇者の贈り物」と呼ばれるロボットが動きまわる世界へ、完全に変更されたそのあとの画集だからです。
当然、いままでまったく未公開だったゴティックメードたちの画像がたくさん公開されるであろうという期待があったのだ。しかし、蓋を開けてみれば、いささか肩すかしな内容だったというのが正直なところ。
既に『ニュータイプ』で公開されていた画像が大半で、新作ゴティックメードの画像はほとんどないんだものなあ。それはまあ、ファティマ(オートマチック・フラワーズ)やら「詩女」の画像はたくさん載っていますが、ぼくとしてはもっと新作ゴティックメードのイラストが見たかった!
それでも特に5040円が高いと思わないあたり、ぼくは根っからのファンなのだと思う。それはもう、20年以上続けて読んでいますから、思い入れもひとしおなのです。そのうち10年くらいは連載が休止していたような気もするが、気にしない、気にしない。
そういうわけで、新しい発見はそれほど多くない画集でした。まったくの新デザインのゴティックメードは、次の『デザインズ5』に回されるらしい。買うよー。
ただまあ、あらためて公開された「ダッカス・ザ・ブラックナイト」やら「ホルダ19 メロウラ」やらのデザインの美しいこと、美しいこと。やはり驚かされるものがある。
ある意味では異形とも云える恐ろしく偏ったデザインなのだけれど、それはそれでバランスがとれているのである。もちろん、あまりに異様な姿だと感じるひともいるに違いない。
しかし、あえてぼくは云う。これこそめちゃくちゃかっこいいデザインなのだと。永野護が30年近く前に生み出したナイト・オブ・ゴールドやLEDミラージュなどの「モーターヘッド」のデザインは、時代とともに古くなり、あたりまえのものになっていた。
その当時としてはあまりに斬新であったであろうバッシュにしても、破裂の人形にしても、いまでは清新なインパクトを与えるものではなくなっていたのだ。
それはすべてのクリエイターがいつか辿り着く道。大半の作家は「それでもいい」として、時代が変わってしまったことを受け入れるに違いない。
じっさい、時の変遷を経てなお、モーターヘッドは美しい。ある種の様式美とも云うべき、クラシカルな美しさ。初めて発表されたときのセンス・オブ・ワンダーはすでにないかもしれないが、それでも時代に合わせてリファインされ、十分に美しいと云えるものに仕上がっていたのだ。
その不変の美に満足していない者は、それこそ永野護本人くらいであったかもしれない。しかし、それでもなお、永野にとっては「古くなった」ことは致命的と受け取られていたに違いない。
そして、全設定、全デザインの一斉リファインという、暴挙とすら思われかねない革命的な出来事が起こることになった。
それはゼロ年代、テン年代を通して百花繚乱の様相を見せた「平行世界もの」に対する永野からのアンサーであったように思う。
「一切何の説明も準備もなく、ある物語世界を並行世界に移行させる」という、異常に切れ味するどい展開! これは、たとえば -
社会に「そこで死んでいけ」といわれたら?
2014-01-07 12:3653pt
そうすると、部族社会で殺し合っている人々の願いは、統一なんですね。国際社会は、統一国家として独立して初めて、意見を述べることができる。ところが、部族社会というのは、言い換えれば、統一のシンボルが部族(=血縁とか)による社会だということで、国民的アイデンティティを統合するシンボルを欠いているんですね。アフリカとか中東の地域を非常に遅れた地域として蔑む気持ちが先進国に生まれるのは、この統合国家と視点シンボルを独力で築き上げる、、、言い換えれば、国家という部族での利害を超えた幻想の「正しさ」を生み出すことのできない人々という意識があり、これは、たぶん鶏と卵の議論ではあるものの、否定できない。
http://ameblo.jp/petronius/day-20071202.html
ペトロニウスさんのこの話を枕に、『ファイブスター物語』の話をしよう。
ぼく、この作品、大好きなんだけれど、何しろ異常にややこしい設定が絡んでいるため、詳しく話そうとすると未読の人にとっては何が何だかわからないことになってしまうんですよね。そこで、未読の人にはいいたい。
読め!
話の進展が遅かったり、時々何年もの休載に突入するという欠点はありますが、天才永野護による日本を代表する傑作です。この機会に読んでおきましょう。
その『ファイブスター物語』の第6巻から第8巻にかけて、主人公であり超大国A.K.D.(アマテラス・キングダム・ディメンス)の皇帝である天照が、ある湿地で行方不明になる事件が語られている。
当然、A.K.D.は軍隊を発進させて天照の身柄を確保しようとするが、運悪くドラゴンが生み出す「命の水」を求めるシーブル国軍と戦闘に陥ってしまう。
しかし、天照が行方不明という情報を流せば国際紛争の契機にもなりかねない。そこで、司令官たちは下に何ひとつ情報を漏らすことなく戦闘を強要せざるを得なくなる。
さて、ここで上の記事に繋がる。
この際、A.K.D.の戦車隊が、巨大な戦闘ロボット、モーターヘッドに戦車で突っ込み、玉砕していく場面がある。もちろん、彼らは戦車でMHに勝てないことを知っている。
それは、天照が一国の国王という次元を超えて、A.K.D.そのものだからである。戦車隊のリーダー、ユーリ・バシュチェンコの言葉を引用しよう。
「マラーホフ!! ファジーチェフ! グリロローヴィチ! ベリヤエフスキー!! 各戦車隊長聞け!! この作戦はA.K.D.の威力制圧などではないっ!! 我がA.K.D.の存亡をかけた戦いなのだ!! 敵MHを止めよ!! 各主砲はビラケルマモードにせよ 一発でも多くの弾をMHに当てろっ!!」
ここまで聞いた部下たちからは、「ムチャ言うなよ!! MH相手によ~~っ 死ねってか?」という声が上がる。当然の反応である。しかし、バシュチェンコの次の言葉を聴いて、彼らは当然のように死地に赴く。
「湿地で救出を待っておられるのは我らが光皇その方である!! 戦車隊!! いやA.K.D.軍人としてその働き 陛下にお見せしろ!!」
なぜこの言葉を聞いて部下たちは無謀な命令に従う気になったのか? それは、天照がA.K.D.の統帥であり、スーパーカリスマであるからだけではない。
このことを理解するためには、A.K.D.が天照家が治めるグリース王国を初めとする十の国家から成る連合国家であることを頭にいれておく必要がある。
デルタ・ベルン星一つを有するこの国は、実に一千年に渡って天照に治められている。逆にいえば、その間、デルタ・ベルンは平和だったということだ。
ジョーカー星団のほかの大国、フィルモアやハスハさえもしばしば戦乱に巻きこまれていることに比べると、これは凄まじい格差である。しかし! もし、ひとたび天照帝その人の身が失われたなら、そのすべてが一気に崩壊するかもしれない。
つまり、A.K.D.にとって天照こそが唯一の統合のシンボルなのであって、その天照が失われたなら、A.K.D.の平和も繁栄も供に失われ、デルタ・ベルンは再び戦乱の世に帰って行くかもしれないのだ。
戦車でMHに突入した戦車隊の隊長たち、天照ひとりを守るためでなく、A.K.D.を、その平和を守るために彼らは死地に赴くのである。ほんの数秒、数十秒でも天照の身柄を危険からそらすことが出来たなら、その死には意味がある。
そして、逆に、兵士を指揮する側は、何千、何万の兵士を殺そうと、天照ひとりを守らなければならない。しかも、その理由を兵士に説明することは出来ない。
当然、兵士たちのモラルとモチベーションは低下していくばかり。しかし、それでもなお、天照の存在はすべてに優先する。人命よりも! 人道よりも! 倫理よりも道徳よりも! 天照のほうが重要なのだ。
しかし、かれらは知らない。やがて、その天照帝そのひとによって、ジョーカー太陽星団に史上最大の大戦争の火蓋が切って落とされることを。星団暦3159年。星団統一戦争、モナーク・セイクレッドの始まりである。
――というような記事を、以前、書いたのですが、これは「マクロの大義」についての記事なんですよね。
まあ、つまりアマテラスの帝という個人には、何千何万の人命を超越した価値があるということで、それは民主主義社会に生きるぼくたちから見るといかにも愚かしくも見えるのだけれど、そうじゃないというお話。
ぼくはこの記事をある種の現代的価値観へのカウンターとして書いたと思うんだけれど(もう忘れた)、最近の話をしていてふと思い出し、見つけ出しました。
ここでは「マクロの大義」は「ミクロの人生」より重要なのだ、というような文脈で作品を語っているのだけれど、もちろんそうではないという価値観もありえます。
何といっても、アマテラスひとりを救い出すために現実に無数の人々が死んでいるわけで、そしてその死んだ兵士たちひとりひとりにとって自分の人生は代替が効かないものなのです。
べつに「マクロの大義のために死ね!」といわれる謂れはないよな、と。いや、かれらは軍人だからそういう義務があるかもしれないけれど、ぼくたち一般大衆はちょっとマクロの大義のために死んでくれといわれても困ってしまうよね、と。
しかし、同時に国家運営などのマクロ的決定はミクロの個人への情に流されて決定されてはいけないことも事実なのです。「こいつら可哀想だから保障を増やしてやろう」とかいうことで決めてはならない。アマテラスその人は決してその点を間違えない人物という設定なんですけれどね。
で、ここでちょっと話が飛躍するのですが、「マクロの大義」が「ミクロの個人」を圧殺しようとする時、ミクロの個人にどのような抵抗ができるかと考えるんですね。
ここで、抵抗するな、マクロに殉じろということもできるんだけれど、まあやっぱりそれは無理だと思うんですよ。「希望は、戦争。」(http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html)でもないけれど、社会全体が自分を見捨てたと感じたら、それでも社会に忠誠を尽くしつづける気にはなれないよなーと。
そこで戦争とかテロリズムを希望したとしても、論理的に批判し切ることはむずかしいんじゃないでしょうか? また仮にそうしたとしても、「じゃ、おれは非社会的存在になることを選ぶよ。社会はおれに何もしてくれないし」といわれたらそれまで。
「お前に裂くリソースはないからそこで死んでいけ」といわれた人間が、おとなしく死ななければならない理由もないよなと。
まあでも、 -
才能より貴重な精神。すべての過去を捨て去り『ファイブスター物語』は「超一流」を目指す。(2209文字)
2013-10-14 07:0053pt
【壮麗なる野心】
永野護の『ファイブスター物語』がいよいよ長い助走を終え、「本編」を再開した。
いままでせっかく新たにデザインされたらしいゴティックメードたちがまるで出て来ない展開が続いていたのだが、今後はどんどん登場するのではないか。楽しみだ。
しばらく前に騒動になったように、この作品は連載再開にあたって、あらゆる設定が一新されている。
いままで長年にわたって積み上げられてきた膨大な情報が、ことごとくリファインされたのだ。
ナイト・オブ・ゴールドは帝騎マグナパレスとなり、LEDミラージュはツァラトゥストラ・アプターブリンガーとなった。
なぜそうなったのかという理由はない。「古くなったから変えました」というだけのことだろう。物語世界全体が、一瞬でパラレルワールドに移行してしまったかのような衝撃。
賛否両論はあるだろうが、ぼくは肯定的に受け止めたい。そこには、現状に甘んじることをよしとせず、新たなフロンティアを切り開いていく炎のようなチャレンジスピリットが、「開拓の精神」があるからだ。
ほんとうに、永野護という作家は、なんて自分にきびしいひとなのだろう。そのまま、モーターヘッドを中心とした世界を描いていれば、どこからも文句は出ないところなのだ。
ファンならだれもがかっこいいと認めるデザインがいくらでもあり、それは永野が何十年にもわたって積み上げてきた「財産」なのである。
それなのに、そのすべてをあたりまえのように -
少年の夢と少女の視点は補完しあう。永野護、宮崎駿、虚淵玄の世界を比較鑑賞する。(2174文字)
2013-08-18 18:3353pt
宮崎駿はどこまでも純粋に「少年の夢」を追いかけつづけるクリエイターだ。
少年の夢とは、たとえば世界の救済、囚われの少女を塔から救い出すこと、あるいは空を翔ぶ城――男ならだれもが幼い日に夢みるロマンだ。
多くのひとはやがてその日の情熱を失い、あたりまえの日常のなかに人生を埋没させていくのだが、この老天才作家の想像力は枯れることがなかった。
かれが70歳を過ぎたいまでも少年めいたロマンを保ちつづけていることは、映画『風立ちぬ』を見ればよくわかる。
しかし、きょうではピュアな少年の夢を叶えることはむずかしいことも事実だ。
それは暴力や戦争、そして帝国建設に直結していく想いだからだ(ラピュタ王を目ざしたムスカ!)。
しかし、そういう問題点を認識したうえで云うなら、ぼくはやはり「男の子の物語」が好きだ。そういう少年にしか感情移入できないと云ってもいい。
コナンが好きだし、ルパンが好きだ。パズーが好きだし、堀越二郎が好きだ。
ほかの作家の作品で云えば、『グイン・サーガ』のイシュトヴァーンが好きだし、『燃えよ剣』の土方歳三が好きだし、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエンも好きだ(ぼくのハンドルネームはカイエンから採っている)。
どこまでも純粋で美しい少年の夢に殉じて一生を終える男たちの生きざまが好きでならない。
しかし、そういう「男の子の物語」ばかり見ていると、やはり物足りなくなる。そこに「少女の視点」が欠けているからだ。
これはべつに政治的正しさとか倫理的正当性といった話ではなく、自分の趣味の問題として云うのだが、「男の子の物語」ばかり見ていると、そこに「女の子の物語」が欠けていることに残念さを禁じえない。
あたりまえのことだが、少年の夢があれば少女の視点があり、男の子の願いを叶える物語があるなら女の子の祈りに通じる物語があるのだ。
ぼくとしては、少年の夢と少女の視点が拮抗した物語を見たいと思う。
いずれかに偏るのではなく、両方が緊張感をもって対決する世界を見てみたいと望む。
しかし、現実には少年の夢を描いた物語では、やはり女の子たちは脇に追いやられることになりがちなのではないか。
『Fate/Zero』が典型的で、あの小説を読んだひとが最も印象にのこるのは、征服王イスカンダルのキャラクターとエピソードだと思う。
イスカンダルのサーガは典型的な「男の子の物語」で、かれは夢に生き、夢に死ぬ。
かれの夢とは世界征服。まさに男の子がそのままになったような男で、イスカンダルはあった。
いまどきこういう男子は貴重だから、イスカンダルは非常に印象的なキャラクターとして成功していると云える。腐女子人気が沸騰したこともよくわかる。
しかし、そこに被害者の視点がない。イスカンダルが征服した土地にいた人々の想いは、そこではまったく描かれていない。
なるほど、男たちはかれの夢に魅せられ、ともに歩んでいこうとしたかもしれない。それがイスカンダルの軍団を形成していったかもしれない。
しかし、女はどうか? 少女や妻や母親たちはどうなのか?
おそらく彼女たちの平和な生活はイスカンダルの征服によって蹂躙されたはずだ。
イスカンダルは決して征服や略奪や陵辱を悪と見做してはいないように見える。
かれが赴いたところ、悪夢のような地獄が誕生したはずだ。そこで女たちはどうしたのか、その視点が必要だと思うのだ。
くり返すが、ぼくはそれが倫理的に重要だという理由で少女の視点を求めているわけではない。
そうではなく、少年と少女の両方の視座がそろって初めて、物語に緊張感が生まれると思うのだ。
そういう意味では、永野護監督の『ゴティックメード』は良かった。
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その勇気はどこから来るのか。絶対基準がない社会で無難を飛び越えてゆく天才たちの肖像。(2188文字)
2013-04-30 10:4453pt
先日、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のDVDとBDが発売になりました。Amazonなどを見るかぎり、ほぼ絶賛一辺倒だった「破」から一転、賛否両論に分かれている模様。それももう「賛」と「否」が戦争でも起こしそうなほど強烈に対決しあっている。
いやいやいやいや、このサツバツ! これこそ『ヱヴァンゲリヲン』ですね。まあ、内容が内容ですから、殺伐とすることも当然といえるでしょう。
ひたすらに憂鬱だったテレビシリーズ及び旧劇場版から一転、かつてないヒロイックなエンターテインメントを演出し、時代の空気を見事に捉えたかと思えた前作をさらにひっくり返す怒涛の展開。一本すべてを主人公を落とすために使うという、娯楽映画としてふつうに考えればありえない構成。
いずれも「まさにこれぞエヴァンゲリオン!」ながら、ついていけないファンが続出することもあまりにも当然というしかありません。いいかげん慣れている古参のファンですら「ようやる」と唸らざるをえないくらいですからね。
「序」「破」とおおむね高評価の作品を積み上げてきて、第三作の「Q」でこの冒険、ほんとうに庵野監督及び制作スタッフの頭のなかはどうなっているのだろうと思ってしまいます。
興行収入的には「序」も「破」も大きく超え、50億円オーバーという記録的な数字をたたき出しているのだから「勝負に勝った」といえないこともないけれど、これは多くのひとが期待した『ヱヴァンゲリヲン』ではないはず。
もっとシンプルでわかりやすい映画を作りつづけていれば自然、平均的な評価も高くなったはずなのに、その可能性を平然と捨て、挑戦的に、冒険的にチャレンジしつづける。こういう姿勢には何かそら恐ろしいものを感じずにはいられません。
結果として「Q」に対してはありとあらゆる批判と罵倒が集中することになったと思いますが、しかしなんぴとたりともこの作品を「無難な凡作」ということはできないでしょう。というか、これほど「無難」から遠い作品もないものと思われます。
連載再開にあたって『ファイブスター物語』の全設定を一新した永野護もそうだけれど、常に自分の持っているすべてをベットしてさらなる展開を求めつづけるこのひとたちの勇気はいったいどこから来るのでしょう? わたし、気になります!
いやまあ、ほんとうはわかっていることではある。「無難」という道は、最も安全に見えて、実は最もダメな道なのだということ。挑戦することを忘れたとき、ひとは死ぬのです。「いま持っているもの」を守りに入ったとき、そのひとはクリエイターとしてはもう終わっているのです。
たとえどれほどの資産と名声を持っているとしても、それをすべて投げ捨てて「新しい領域」へ入っていけるもののみが超一流(プリマ・クラッセ)の名にふさわしい。庵野さんや永野さんはそういう種類のクリエイターなんでしょう。
ひとはかれらを「天才」と呼ぶけれど、決して神に与えられた生まれながらの才能だけで勝負しているわけではない。むしろ、たゆまず自分を更新しつづけるそのきびしさこそがほんとうの才能なのだと思う。素晴らしい!
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ノルガン・ジークボゥとは何者か? 『ファイブスター物語』考察。(1988文字)
2013-04-27 08:4453pt
以下、例によって永野護『ファイブスター物語』を知らないひとには一切無用の考察。連載再開にあたって、突然、一切の設定が変更され、しかし物語そのものは何ら変わることなく進んでいくことになった『ファイブスター物語』。さて、来月の展開はどうなるのでしょう?
この作品には、ひとつ他にない大きな特徴があって、それは「年表その他の設定により未来の情報がわかっている」ということです。ついに開幕した魔導大戦(マジェスティック・スタンド)にしても、アトールの巫女、じゃない、「時の詩女」マグダルの活躍によって星団暦3075年に集結することがわかっています。
さらにその先の3100年にはボード・ヴュラードことミッション・ルース大統領が亡くなることもわかっていますし、3159年に大侵攻(モナーク・セイクレッド)が始まることも、その数百年後に天照がコーラス王朝を倒し星団を統一することも、すべては規定事項です。
これはロボットやドラゴンに関する設定がことごとく変更されたとしても変わらない、『ファイブスター物語』の究極の根幹ともいうべき設定なのです。まあ、こんなことはこの文章を読んでいるひとにとっては常識の範疇に入ることでしょう。
さて、その『ファイブスター物語』の「未」登場人物のなかにノルガン・ジークボゥという名の青年がいます。いまだに本編には登場していないのですが、連載中団から現在に至るまで少しずつ明かされてきた設定によってその存在があきらかとなった人物で、ファンの間では未来のフィルモア帝国皇帝レーダー9世(ナイン)なのではないかといわれているんですね。
レーダー9はフィルモア帝国最後の皇帝で、天照とLEDミラージュ、じゃない、ツァラトゥストラ・アプターブリンガーによる侵攻に抵抗したとされる人物です。結局、天照とツァラトゥストラには勝てず、さらにこの戦いに際してカラミティ星は崩壊し、フィルモア帝国は滅亡してしまうことになります。
連載がそこまで描かれるのかどうか限りなく怪しい、描かれるとしても何がどうなっているのやらさっぱりわからないような遠い未来、数百年後のエピソードなのですが、それでもそんな先の展開の伏線をきっかり敷いてくるあたりがF.S.S.の恐ろしさ。
この作家は本気で数千年の物語を描き尽くそうとしているのです! 絶対に描き切れないことがわかり切っているのに……。
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