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  • 恋愛工学とは非モテを「妄想加害男子」にパワーアップさせる理論である。

    2016-09-15 09:19  
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     トイアンナさんの『恋愛障害 どうして「普通」に愛されないのか?』という本を読みました。恋愛に関して色々なトラブルを抱え込みがちな性格が、「恋愛障害」として整理されていて、非常に面白かったです。
     この本では男性と女性それぞれの恋愛障害を扱っているのですが、ぼくは男なのでまず男性に絞って見てみると、恋愛障害男子には、大別して「妄想男子」と「加害男子」があるとされています。
     妄想男子とは恋愛に関してネガティヴな妄想を抱いていて、そのために恋愛に積極的になれずにいる男性の事。そして、加害男子とは女性をモラハラ(モラルハラスメント)で傷つけたりセックスの道具として利用しつくす男性の事です。
     まあ、前者は非モテで後者はヤリチンかな、と思うのですが、ここではそのいずれもが「障害」として定義されています。
     ときに女性を傷つけるこのような男性たちもまた、自ら望んでそうしているのではなく、心に負った何らかの傷や認知の歪みのためにそう行動せざるを得ないのだという理屈です。
     ぼくはこの本を読んですぐに藤沢数希さんの「恋愛工学」のことを思い出しました。というのも、恋愛工学のロジックとはここでいう加害男子が女性を落とす方法論なのだと感じたからです。
     もっというなら、恋愛工学とは、妄想男子(非モテ)を加害男子(ヤリチン)に「成長」させるための理論であるといえるかもしれません。
     ただし、妄想男子の妄想を解決してくれる類のものではまったくないので、より正確には妄想男子を「妄想加害男子」にパワーアップさせる理論であるといったほうがいいでしょう。
     それでは、その「妄想」とは具体的にどんなものなのか? とりあえず、前回引用した藤沢さんのインタビューにおける発言を再度掲載しておきましょう。

    藤沢:女性が、自分のことに夢中になっている男性を嫌うのは、生物学的な理由があります。動物のメスは、優秀なモテるオスの子を生み、その子がさらにモテることによって、自分の子孫が繫栄することを本能的に求めます。だから、非モテコミットに陥っている男性は、他の女性に相手にされない非モテ遺伝子を持った劣等オスにしか見えないのです。劣等オスの子を産んだら、子も非モテになって、子孫が繁栄しなくなるかもしれません。それは、メスにとって、なんとしても避けたいことなのです。

     これです、これ。まさに妄想。この思想は世の妄想男子が抱え込んでいる妄想のなかでもかなりメジャーなものではないかと思います(ひょっとしたら藤沢さんのおかげでメジャーになったのかもしれませんが)。
     藤沢さんは「生物学的な理由」といっていますが、まあ、ある種の疑似科学ですね。信じちゃう人は信じちゃう類の意見です。
     ようするに「女に知性や理性なんてものはない。あるように見えるのは見せかけだけだ。女はより強い男とつがって子孫を残すことしか考えられない。なぜならそれが遺伝子の命令だからだ」という意見であるわけで、これは女性に対する徹底した不信と蔑視であるといっていいでしょう。
     いや、恋愛工学理論においては男性もまた遺伝子の欲求に従ってより多くの子孫を残そうと動いているに過ぎないことになっているのですから、恋愛工学の根底には女性というより人間存在そのものに対する不信があるといえるかもしれません。
     この種の「妄想」はじっさい非モテ界隈ではよく見かけるもので、恋愛工学のキー概念は本田透さんの著書でも同様のものを見ることができます。
     ただ、本田さんはそこで「オタクになること」を選び、自分の萌え妄想のなかで生きていくことを選んだのに対し、藤沢さんはあくまで女性に対してアプローチしていくことを選んだ。その差があります。
     それにしても、こうして並べてみると『電波男』と『ぼくは愛を証明しようと思う』の表紙デザイン、そっくりだな。妄想男子の妄想の中身は共通項があるということですかね。
     さて、以下に恋愛障害と恋愛工学の関係について書いていこうと思ったのですが、検索してみたらすでにまったく同じことを書いている人がいたので、まずはその記事から引用させてもらいます(ちなみに見出しは再現できないので、省略してあります)。

     恋愛工学では、決して、相手方女性の気持ちを考えてはいけない。真剣に考えれば考えるほど、相手が可哀想になって、ためらってしまい、その結果、何も手出しができなくなるからである。したがって恋愛工学の実践者は、自らの心をマシーンにして、ことをなさなくてはならない。
     まずはじめにすることは、 「目の前にいる女性をけなすこと」、これである。
     見た目、容姿、振舞い、話し方、仕事、趣味、なんでもいいので女性をけなす。けなすことによってまず、自分が相手方に対して優位な立場にあることを植え付ける。相手方女性がそこで傷つくのも、恋愛工学の手続きの一環である。
     傷つけることによって女性を動揺させる。
     動揺させることによって女性に、「この人は何か普通の男と違う♡」と思わせるのである。
     これは、普段けなされる機会の少ない女性、男から「かわいい」「きれいだね」と褒めてもらうことの多い女性、すなわち恋愛偏差値の高い女性に対して、絶大な効果を発揮すると言われている。
     けなした後、その次には、ちょっとした褒め言葉を与える。これは本心でなくともよい。あくまで工学的マシーンと化し、適当な点をでっちあげ、相手に心の報酬を与えるのである。
     ここで、恋愛工学士は、決して相手に媚びてはいけない。なぜなら女性をつけあがらせるからである。あくまで相手方が男性である自分より下位の存在であり、自分に対して抵抗できない存在であり、人間的に価値の低い人物であることを前提として女性に接する。
     すなわち相手方に、人間としての尊厳がないことを前提としたうえで温情主義的に褒める、という点にポイントがある。
     傷つけられた後、褒められる、これによって女性は、心が動揺し、ドキドキする。そしてこのドキドキを、男性への恋愛感情であると思い込むのである。
     いやむしろ、恋愛工学が説くのは、けなされ、雑に扱われ、傷つけられ、精神的に振り回されることによって生じる感情こそが、真の恋愛感情であるということ、これである。
     自分をけなすような権限のある男性が、自分を温情主義的に賞賛してくれる。
     これこそ、女性の快楽であり、恋愛感情が芽生える瞬間であり、恋愛工学の肝である。
    http://books.nekotool.com/entry/love-affair-disorder

     そうなんですよ。どうも恋愛工学では「女性をけなすこと」が重要な戦術とみなされているんですね。けなした上で、褒める。そうすると女性はドキドキして相手を好きになってしまうと。
     うん、それモラハラですよね、と思うわけですが、恋愛工学が「妄想加害男子」を生み出すための理論である以上、こういう戦術を用いることは必然です。
     ええ、まともなプライドがある女性だったら初対面の男からいきなりけなされたら「ふざけるなバカ野郎!」としか思わないでしょうが、その一方でこの戦術が通用する女性たちはたしかに一定数いると思います。
     そうじゃなかったら少女漫画や少女漫画原作の映画でドS男子だの壁ドンだのが流行ったりするわけないもん。最近やたらに見かけるドS男子は典型的な加害男子の一類型であるわけですが、そういう男性に惹かれる女性はたしかにたくさんいるわけです。
     で、なぜ、こんなめちゃくちゃな理論が時として通用してしまうのか? それは『恋愛障害』を読めばあきらかなように、女性側もまた恋愛障害を抱えているからです。
     『恋愛障害』では、「愛されない女性はパターン化できる」として、「愛されない女性」の特徴をいくつも挙げています。
     それは「いつも複数の男性と同時に付き合う」であったり、「恋愛したいが、異常な奥手」であったり、「自分を殺す「尽くし系女子」」であったりするのですが、共通しているのは強烈な「寂しさ」を抱えていることです。
     ひとりでいると寂しいから、手近な恋愛を求めてしまう。「愛されているという確信」が欲しくて、それを歪んだ形で叶えてしまう。そういうアダルトチルドレン的な「障害」を抱えた女性が(たぶんたくさん)いるのです。
     「寂しさ」というキーワードから、ぼくは例の『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』を思い出します。
      この本の著者の場合は「さびしすぎ」たときにレズ風俗に行って抱きしめてもらうというなかなかユニークな方法を選ぶのですが、より多くの「寂しい系女子」は異性との恋愛に救いを求めることでしょう。 簡単にセックスをさせてあげる代わりに「愛している」とささやいてもらったり、プレゼントを贈りまくる代わりに力強く抱きしめてもらったりという「取り引き」を恋愛の本質と考える女性はいま、相当数いるのではないでしょうか?
     愛されたい――切なる想い。しかし、加害男子たちはそこにつけ入ります。もちろん、妄想加害男子である恋愛工学の信徒たちも。
     かれらはそもそも女性と対等な付き合いをしようという気が最初からありませんから(女とは遺伝子情報の命じるままイケメンや金持ちを狙う下等な生き物だということをお忘れなく)、恋愛障害女子はかれらと付き合ってもほんとうに幸せになることはできません。利用されて、いずれ捨てられる運命です。
     こういう「不幸な恋愛」をしている女性は枚挙にいとまがないものと思われます。そして、恋愛障害を抱える「寂しい系女子」は何度、だれと付き合っても、同じパターンをくり返すことでしょう。
     彼女たちがその不幸な恋愛パターンから抜け出すためには一人前の愛され女子として成長するの「ではなく」、「健全な自己愛」を育て、ひとりでいても寂しくないようになるしかないのですが、なかなかそれはむずかしい。
     多くの人は「愛」と「依存」をはき違えたまま、いつまでも「不幸な恋愛」をくり返します。いわゆる「だめんず・うぉーかー」というやつですね。

     実はこういう人はたとえ自分に好意を向けてくれるまともな男性と出逢ったとしても、自分を傷つける男性のほうに向かって行ったりします。
     妄想男子からすると「不条理だ!」とか「これだから女は!」といいたくなるところかもしれませんが、これも恋愛障害の症状の一種と考えると事態はシンプルです。
     「自分を好きになる男なんて気持ち悪い」とかいう女性は、ようするに自分のことが嫌いなんですよ。心の底で自分にはなんの価値もないと思っているから、そんな自分を好きだという人を気持ち悪いと感じる。そして、自分に対して冷たい加害男子に惹かれてしまう。
     ここで、加害男子と寂しい系女子の間では、一種の「負のマッチング」が起こっています。無意識に「冷たくしてほしい」と願っている女性と内心で女性を憎んでいる男性は、ある意味、相性がいいわけです。
     まあ、世にいう「共依存」というやつですね。恋愛工学が考える「恋愛」とは、この共依存が成立した状態の事だといっていいと思います。
     しかし、ぼくはそれを恋愛とは考えません。この場合、「愛してやるよ」と思っている男性も「愛されている自分を確認したい」と考えている女性も、自分のことしか考えていないからです。
     ほんとうの恋愛が、自分とは全く考え方の違う「他者」との出逢いに始まる「複雑なコミュニケーション」であるとしたら、恋愛工学における恋愛とは歪んだ自己愛、ペトロニウスさんふうにいうなら、ナルシシズムなんです。
     そのことについて、こんなことを書いた記事もあります。

    冒頭で、なぜ「ドS彼氏」が人気なのだろうか、と書いた。逆説的ではあるが、凡俗さや迷い、逡巡といった普通の人間としての内面を見せず、相手を支配する強さのみ見せる男に少女たちが心惹かれるのは、彼の中に被支配という形で愛されている自分をうっとりと見つめるためなのではないだろうか。自分を特別な男に愛されるに値する存在だと考えるためには男の凡庸な内面などむしろ邪魔でしかない。
    http://mess-y.com/archives/32592/3

     まさにその通り。つまりは恋愛障害状態にある男性も女性も、相手の内面など見ていないのです。男性は「いい女とセックスできる強いオスの自分」という自画像を、女性は「格好いい恋人に愛されている自分」というアイデンティティを必要としているだけで、ここに「愛」はありません。双方とも自分しか愛していないわけです。
     それでは、双方がいかにしてこの「孤独な牢獄」を抜け出し、「他者」と、「世界」と出逢うのか、その具体的な方法論については『恋愛障害』に記されていますので、そちらを参照してください。
     ちなみに、 
  • 恋愛工学理論は非モテのルサンチマンを救うか。

    2016-09-10 05:03  
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     先週号の『マガジン』を読んでいたら、「恋愛工学」で有名な藤沢数希さんがインタビューに出ていました。そのなかに、見過ごせない一節があったので引用しておきます。

    藤沢:女性が、自分のことに夢中になっている男性を嫌うのは、生物学的な理由があります。動物のメスは、優秀なモテるオスの子を生み、その子がさらにモテることによって、自分の子孫が繫栄することを本能的に求めます。だから、非モテコミットに陥っている男性は、他の女性に相手にされない非モテ遺伝子を持った劣等オスにしか見えないのです。劣等オスの子を産んだら、子も非モテになって、子孫が繁栄しなくなるかもしれません。それは、メスにとって、なんとしても避けたいことなのです。

     ぼくはべつに恋愛工学について思うところがあるわけでも、くわしく知っているわけでもないのですが、これはないよなあ。
     「工学」とはいっても、ここまで来るともうただのトンデモ差別理論ではないでしょうか。これは女性の反感を買うでしょうねえ。「女は優秀な男の子を生む本能を持っている」といっているわけですから。
     子供を産まない選択をした女性とか、どういう説明をされることになるのだろーか。
     この文章のどこがどうおかしいのかあえて説明はしませんが(説明しなくてもわかってもらえると信じている)、こういう理論を「科学的」とか「生物学的」と主張されると、さすがにどうかと思う。
     でも、 
  • 恋愛弱者は死なず、ただ消え去るのみ。

    2016-05-07 17:31  
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     その昔、孫子さんはいいました。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と。
     「敵のことと自分のことがよくわかっていればいくら戦っても負け知らずになれるかもよ?」という意味だと思います。
     異性愛者の場合、恋愛における男性にとっての「彼」とは女性。
     じっさいのところ、女性たちは恋愛についてどう考えているのか? そこを知りたくて、アルテイシアさんの『オクテ女子のための恋愛基礎講座』を読んでみました。
     結論から書くと、とても面白かったです。
     この本が恋愛指南本として画期的なのは、恋愛のいろはについてくわしくない恋愛初心者、「オクテ女子」にターゲットを絞り、不特定多数の異性に好かれる「モテ」よりも特定の異性と建設的な関係を築く「マッチング」を重視していること。
     色々あって「モテ」の不毛さに絶望したらしい著者は、幸せになるためには「モテ」より「マッチング」が重要だと力説します。
     そのために必要なのは、受け身になって王子さまが訪れるのを待つのではなく、「みずから選ぶ」という姿勢。
     結婚さえできればいいなら、男受けのみを追求して、男の望む理想像を演じればそれで済む。
     しかし、結婚したあとも人生は続く。死ぬまでガラスの仮面を被って別人を演じ切るつもりでないかぎり、率直に自分自身を出してみずから伴侶を選んでいったほうがいい。
     また、「どういう男を選ぶべきか?」を突き詰めると「自分にとっての幸せは何か?」に突きあたる、と著者は語ります。
     そして、それでは、あなたにとっての幸せは? あなたがほんとうに欲しいものは何? 何を捨てられて何を捨てられない? その優先順位は? と、矢継ぎ早に問いかける。
     この問いに答えられるようになることが、まずは「自分にとっての幸せ」を自覚するということらしい。
     自分にとっての結婚の条件をあいまいにしないということ。すべてをきちんと言語化して、認識しておくということ。それが大切だという話のようです。
     まったくその通りだなあ、とぼくも思います。
     その後も色々と的確な(適格だと思われる)アドバイスが続くのですが、どれも非常に面白いです。
     いや、女性の側も悩みやら劣等感を抱えて必死になっていたりするんだなあというあたりまえのことがわかります。
     いや、読んでよかった。読んでよかったのですが―― 
  • ジャンクヌードで自慰することは悪なのか?

    2016-04-23 12:05  
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     坂爪真吾『男子の貞操』読了。
     坂爪さんの本はこれで『セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱』、『はじめての不倫学』に続いて三冊目になりますね。
     立て続けに読み耽っているのはそれだけ面白いからなのですが、この本も期待に違わずすばらしい内容でした。
     海燕、絶賛。
     ただ――ただね、本の内容を素直に一から十まで受け入れることはできない自分があることもたしかです。
     理屈で考えれば書かれていることは正論だと思うのだけれど、感情が受け入れを拒絶する。
     どうにも納得がいかないというか、あまりにも理想論ではないかと思ってしまう。
     具体的にどのようなことが書かれているのか。
     まず、著者は「僕らを射精に導くのは「誰の手」なのか?」と問いかけます。
     そして、こう答えるのです。それは自分の手などではなく「お上(かみ)の見えざる手」なのだと。
     つまり、ぼくたちは「お上」の作り出した規制を破る「タブー破り」によってしか欲望を喚起されないようになっているということ。
     著者は書きます。

     もし、あなたが「女子高生」という記号に性的興奮を覚えるのであれば、それは、決して、女子高生の裸が、他の年代の女性の裸と違って、特別に魅力的だから、女性構成のセックステクニックが、他の世代の女性よりも上だからではありません。十八歳未満の女子高生との性的接触を、お上が法律や条例によって規制しているからです。「禁じられているからこそ、魅力的に見える」だけの話です。

     一理ある、と思います。
     より正確には、単に「お上」ではなく、社会全体の倫理や道徳がかかわっているのだろうけれど、大筋としては納得がいく。
     ジョン・ヴァーリィに「八世界シリーズ」と呼ばれる遠未来社会を描いたSF小説があります。
     その世界では完全な衛生コントロールが実現していて、はだかで歩く人もめずらしくありません。
     しかし、そうなるともうだれもはだかなどに性的欲求を喚起されないのです。
     それはひとつの「あたりまえの風景」でしかなくなっているわけです。
     ひとの欲望は「禁止されることによって燃え上がる」。
     その意味で、ぼくたちの欲望はたしかに「お上」によって、社会道徳によってコントロールされているのかもしれない。
     著者はそういう「タブー破り型」の快楽は長続きしないものだと考えます。
     タブーを破ったその瞬間には興奮なり感動があるが、それは時間を経て冷めていく。ようするに「タブー破り」は簡単に飽きるのです。
     そこで、著者はそれに対するもうひとつの欲望の形を提示します。「積み重ね型」です。
     それは「特定の相手との人間関係や思い出を積み重ねることで、その相手に対する感情的な信頼を深めていく過程で得られるタイプの快楽」だといいます。
     著者はこの「積み重ね型」の快楽を推奨します。
     それは「エゴ(利己的)」ではなく「エコ(他者と環境に配慮した)」性生活であり、中長期的に性を楽しんでいくためにはこの「エコ」な快楽を得られるように自分自身を慣らしていく作業が不可欠である、ということのようです。
     うーん、正しい。なんとも正しい理屈です。
     ただ、なんというかなあ、あまりにも「正しすぎる」論理だと思うのですよね。
     ロジックとしてはたしかにその通りだと思う。しかし、それをパーフェクトに実践できる人がどのくらいいるかというと――無理じゃね?と思ってしまう。
     たしかに、女性を「巨乳」「痴女」「女子高生」といった記号に分類して、生身の女性そのものではなく、その記号にしか欲望できない性は「貧しい」。
     しかし、だからといって「エコで豊かな性」に移行できるかというと――まあ、できる人はできるのでしょうね、というしかありません。
     著者によれば、現在、社会にあふれるはだかは本来のヌードとしての魅力や価値を失った「ジャンクヌード」でしかないということです。
     そのようなジャンクヌードで「抜く」ことは性差別や貧困の拡大に加担する行為にほかならない。
     それなら、どうすればいいかというと、 
  • 「性交欲」は「性欲」よりも満たしがたい。

    2016-04-22 14:44  
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     「ずっと二次元さえあれば生きていけると思ってた」という匿名記事を読みました。
    http://anond.hatelabo.jp/20160421025800
     ずっと二次元(のエロゲ)さえあれば生きていけると思っていたけれど、この頃は寂しくなってきた、と「普通」に生きられない自分を嘆く内容です。
     いかにも典型的なオタクの嘆きのようだけれど、じっさい読んでみたところ、オタクはあまり関係ないな、と思いました。
     むしろ非コミュの問題でしょう。まわりの「普通」の生き方にあこがれながら、しかしそれは自分にはできない、あまりにもストレスフルすぎると考える。
     現実に対して矛盾した心理を抱いているわけで、これは辛いだろうな、と思います。
     しかし、実は記事そのものよりも、それに対する反応のほうが興味深い。
     つくづく思うのだけれど、ひとはだれかから「苦しい」といわれると、即座に「お前の苦しみなんて大したことない」とか「そんなに苦しいはずがない」といって否定しにかかるものなのだな、と。
     本人が苦しいといっているのだから苦しいのだろうと認めてやってもいいはずなのに。
     たぶん、だれかに「苦しい」といわれると、自分の苦しみを否定されたように感じるのでしょう。
     「自分のほうがもっと苦しいんだ!」、「この程度のことで苦しいなんていうな!」という対抗心が生まれる。
     苦しみはひとそれぞれで、比較なんてできるはずもないのにね。
     ひとの苦しみを否定するのでもなく、何かしらの「解決法」を提示して自己満足するのでもなく、そのままに寄り添うことはかくもむずかしいということでしょうか。
     それにしても、「二次元は心の隙間を埋めて癒してくれるが、温もりは与えてくれなかった」とは、けだし名言です。
     たしかになあ。抱き枕にほっかいろをくっつけて「ぬ、ぬくもりだ」とかいってもむなしいだけだものなあ。
     風俗へ行け、というお約束のツッコミもあるようですが、この人は傷つくのが怖いので、それもしたくないということのようです。重症ですね。
     きのう読み上げた『はじめての不倫学』の言葉を引用させてもらうなら、この人が充足させたいのは「性欲」ではなく「性交欲」なのでしょう。
     ただ単にからだを合わせるのではなく、ひととつながりあい、混ざりあい、ぬくもりを味わい、精神的に充足したいという欲望。
     ひとが多くの場合、恋愛に求めるもの。
     ゆえに、風俗産業では満たすことができない。
     もちろん、 
  • アニメオタクは汚い? 友達がいない? 知性が低下している? 裸を見ると吐く? 中村淳彦『ルポ 中年童貞』を読む。

    2016-04-13 00:46  
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     ども、PS4の『ダークソウル3』に手を出そうかと考えている海燕です。
     まあ、確実に投げ出すだろうから買わないけれど、ちょっと惹かれるものがある。
     いや、その前にクリアするべき積みゲーが何本もあるのですが。
     うん、おとなしく『ドラゴンクエストビルダーズ』の続きをやろ。
     さて、先ほどパスタを食べた帰りにTSUTAYAで本を買ったので、きょうはその話でも。
     タイトルは『ルポ 中年童貞』――って待て待て待て、ブラウザのタブを閉じるな。
     一応、マジメな本なんだから。
     まあ、だれも中年童貞の話なんて聞きたくないかもしれませんが、ぼくは大いに興味があるのです。
     いや、正確にはべつに中年童貞そのものに興味があるのではなく、この社会の「見えない格差」に興味があるといえばいいか。
     だから、これからきわめて真剣な話をします。どうか、ブラウザを閉じるのは読み終えたあとにしていただきたい。いや、ほんと。
     ここでいう中年童貞とはつまり中年以上の年齢で女性との性交渉の経験がない男性のこと。
     著者によると、現代日本では30~34歳の男性のうち4人にひとりが童貞なのだそうです。
     この割合を多いと見るか少ないと見るかはひとそれぞれでしょうが、著者から見ると大いに問題がある数字らしい。
     なぜなら、かれにいわせれば、中年童貞とは「社会の根幹に関わるネガティヴな問題」を抱えた存在だから。
     童貞だろうが処女だろうが個人のかってだしいいじゃないかと思うわけですが、そういうふうにはいかないらしい。
     そういうわけで、著者は秋葉原へ行ったり(童貞が多そうだから)、AV業界を探ったり(童貞にくわしそうだから)といった過程をたどって中年童貞の現実をあきらかにしようとします。
     ただ、結論から書いておくと、この本を読んでも、現代社会の「見えない格差」をあきらかにしてくれているのではというぼくの期待はまったく満たされませんでした。
     はっきりいって著者の意見はどう考えても偏見と憶測でしかない側面が強く、客観性を欠いているように思われるからです。
     著者はよっぽど中年童貞にひどい目に遭わされたのか、中年童貞へのバイアスが凄い。
     中年童貞は「物事の考え方や行動が周囲とはズレてい」て職場でもトラブルを起こすことが多いとしています。
     しかし、ぼくが思うに、もしその観測が正しいとしても、それは原因と結果が主客転倒しているのではないでしょうか。
     仮に「物事の考え方や行動が周囲とはズレてい」る人たちが一様に中年童貞だということが事実だとしても、それは童貞が原因でそういう性格になっているわけじゃなく、そういう性格だから童貞になったのだと思います。
     中年童貞でもほがらかで魅力的な人はいくらでもいるでしょう。著者はそういう存在を無視しているようにしか思えない。
     あと、オタクがものすごくひどい扱い(笑)。
     著者は秋葉原へ行ってオタクにくわしいという人物に会うのですが、この人がどうにも納得いかないことをいいだします。
     長くなりますが、引用させてもらいましょう。

    「二次元しか愛せないっていうオタクがいるけど、そのほとんどは方便ですよ。実際は現実の女の子に相手にされないから、二次元が好きというのが一般的です。最近はネットで叩かれるからみんな言わなくなったけどね。二次元しか好きになれないって言い訳、自己暗示。オタクの人に見られる傾向だけど、自己正当化するわけですね。非モテって言葉も同じように使われている。俺たちはモテないのではなく、モテたくないと。もちろん例外もあって現実の女の子からモテるルックスだけど、二次元しか興味がないって人もいる。それは若い世代に多いですね。
     アニメの専門学校の学生から聞いたけど、学校でデッサンの授業がある。モデルの女の子が学校に来て裸でポーズをとって、それをデッサンする。そうすると嘔吐とか体調を崩す学生が続出するらしい。理由を聞くと、リアルな女は毛穴があって気持ちが悪いみたいなことを言ったりする」

     えー、ほんとかよー(疑)。都市伝説じゃないの?
     まあ、たしかにそういう人がいないとはいい切れませんが、超少数派だと思いますよ。違うのかなあ。
     この後にも「アニメ好きに共通しているのは年齢に関係なく、中学生や高校生のときに学校でモテなくて、不遇な環境の中で美少女キャラクターを性的対象にして、現実の世界から逃避していることです。(後略)」とか、「多くのオタクは、処女以外は人間じゃない、といった思想を持っています。(中略)処女信仰は、処女であることがなにより重要であるという考えです。処女じゃないと人間ではないっていうのは異常ですが、オタクにとっては当然の思考。(後略)」とか、どうにも偏見としか思えない話が出て来る。
     そりゃ、そういうオタクも一定数いるだろうけれど、そうじゃないオタクも大勢いるわけで、「オタクとはそういうもの」みたいに語られると困ってしまうのだけれども。
     とにかくこういった話を聞いて真に受けた著者は考えます。

     二次元に依存するオタクのほとんどは、全員がそのまま死んでいく――。その言葉を聞いて呆然とした。どこにもないファンタジーを信じて、現実をなにも知らないまま死んでいくのはあまりに淋しくないか。

     どうしてそうなる(笑)。
     このような文章を読むと、こういう方は虚構を虚構として楽しむということが理解できないのかもな、と思わずにはいられません。
     少なくともぼくがオタクコンテンツを消費するのは、「どこにもないファンタジーを信じて」いるからではなく、エンターテインメントとして面白いと感じているからです。
     たしかに一部のオタクには処女的な美少女との恋愛幻想を抱いている人もいるでしょうが、オタクが全員そうだというわけではまったくない。
     それこそ「オタクのほとんど」は、虚構を虚構と割り切って楽しんでいるはずではないでしょうか。
     と、思うんだけれどなあ。どうなんだろ。
     まあ、たしかに好きなキャラクターが処女じゃないとわかったら作者にいやがらせのメールを送ったりする輩もいるようだから、一概に嘘だとはいえないけれど。
     でも偏見だと思うぞ。
     その一方で、「昔のオタク」はわりといい印象で捉えられている。
     著者はまたべつの人物にこんな話を聞きます。

    「今は、リアルのアイドルが好きなオタクとアニメ好きは仲が悪い。昔のオタクは岡田斗司夫みたいな感じで、オタクコンテンツ全体を俯瞰してチェックするのが普通だった。彼らにとってオタクはコレクターだし、マニアだからいろんな情報を知っていることが誇り。だから昔のオタクは博識だし、今でも40代以上のオタクは高学歴でいろんな知識がある。若いオタクになるとアニメしか知らない、アイドルしか知らないという人が増えている。インテリジェンスが低下して、ひたすら好きなものだけに逃避することが一般的なオタクになってしまった(後略)」

     いやいやいやいや、「昔のオタク」、つまりオタク第一世代にインテリジェンスがあったっていうのは幻想だってば。
     で、いまのオタクのインテリジェンスが低下しているというのも嘘だと思う。
     ここでいう「昔のオタク」って、岡田斗司夫さんなり唐沢俊一さんたちのことであるわけでしょう。
     いってはなんだけれど、相対的に見ていまのオタクの平均的な若者のほうがよっぽどしっかりしていると思いますよ、ぼくは。そりゃ、岡田さんはヤリチンだけれどさ。
     そしてまた、このような話を聞いた著者はまたも思うのです。

     コンテンツの消費を続けるオタクは、企業に消費活動を操られながら、死ぬまで仮想商品を購入し続けるだけの一生を送る。過去の日本に前例がないだけに幸せなのか、不幸なのかよくわからない。好きなものに囲まれて、好きなものを買い続けている人生は幸せかもしれないが、それがリアルな女性の代替である二次元美少女となると、簡単には想像ができないディープな哀愁を感じる。

     いや、だから二次元美少女はべつに「リアルな女性の代替」とは限らないのですって。
     ぼくなどは二次元美少女そのものが好きなのであって、それはべつに何かの代替とかではないのですから。
     それにオタクの生き方が幸せなのか不幸なのかなんて、大いに余計なお世話です。
     その生き方に「哀愁を感じる」というのなら、明治の文士にだってそれを感じるべきでしょう。
     フィクションに一生をかけているという意味では同じことなのだから。
     さらに、話はオタクのファッションや生活にまで及びます。

    「あのファッションはダサいんじゃなく、服にお金を限界までかけないと、結果論としてあの服に行きつくわけです。(中略)アイドルファンはお風呂も入るし、清潔。一方、アニメ好きは厳しい。ズボンのチャックが壊れても、そのまま歩いているとか、社会的に逸脱するオタクもたくさんいる。アニメ好きのオタクは服装が汚いダサいだけじゃなくて、他者がないから友達もいないし。まあ、そういう人たちです」

     そういう人たちです、じゃないでしょう。長年オタクやっているけれどそんな奴に逢ったことないよ。
     まあ、絶対にいないとはいわない。ある程度はいるのかもしれないけれど、大半のオタクはお風呂くらい入りますよ(笑)。
     友達だって普通にいるだろうし。
     ウルトラマイノリティを例にだして全体を評価しないでほしい。
     なんなんだろうな、この何十年前から一向に変わらない偏見は。
     いや、そうじゃないのか?
     ひょっとしたらほんとうにこういうオタクばかりのグループがあって、ぼくがそれを知らないだけなのか?
     オタクのなかでも格差があるとか?
     そうだとしてもそれをオタクすべての代表のようにいわれることは心外だけれど、ちょっとわからなくなってきた。
     そういう側面はあるのではないか?
     くらくら。くらくら。
     まあ、やっぱり単なる偏見が大きいとは思うけれどもねえ。
     いや、 
  • たとえ運命に選ばれなかったとしても。

    2016-04-12 00:05  
    51pt

     石田衣良『オネスティ』を読んだ。
     石田の得意とする恋愛小説なのだが、普通の恋愛ものとは一風変わっている。
     幼い頃、運命的に出逢い、一生をともにする間柄となったカイとミノリふたりを描く物語。
     そこまでは普通なのだが、このふたり、決して肉体関係に進まないことを誓い合うのだ。
     恋人にはならない。結婚して夫婦になることも決してない。そう決意した上で、かれらは一切の秘密のない関係を築いていく。
     親友のようでもあり愛人のようでもあり、そのいずれともいくらか異なる間柄。
     石田は繊細な描写で、ふたりだけにしか理解できないそのオネスティ(誠実さ)にもとづく絆をていねいに描きだす。
     きわめて美しい物語だ。感動的といってもいいかもしれない。
     しかし、ここでぼくが注目したいのは、その物語のなかで脚光を浴びる主人公たちではない。
     カイの妻となるミキという女性のことだ。
     彼女はカイを愛し、かれと結婚するのだが、カイの心にいつもミノリがいて、自分は代役に過ぎないことを知っている。
     そして、その想いはやがて彼女を狂おしく責め立てていくのだ。
     ミキは、この物語で主人公としてフォーカスされた人物ではない。
     カイとミノリのオネスティの物語の単なる「わき役」である。
     だが、彼女を見ていると思わずにはいられない。
     物語に選ばれていないこと、「わき役」であるとは、なんと切ないことなのだろうと。
     いままでも、いくつもの物語を読む過程で、何度も思うことがあった。
     「主人公」と「わき役」で、なぜこうまで区別されなければならないのだろうかと。
     本来、この世に「主役」も「わき役」もいない。すべては平等であるはずである。
     けれど、物語は必ずだれかひとりなり数人を「主人公」として選び出し、注目する。
     そのとき、スポットライトがあたらない人間たちはみな「わき役」ということになる。
     『オネスティ』でいうのなら、ミキがどんなに悩んでも、苦しんでも、それは「主人公の悩み、苦しみ」ではありえないのだ。
     スポットライトが照らし出すのはどこまでいってもカイとミノリ。ミキの懊悩に光はあたらない。
     もちろん、それは小説という構造があるからこその嘘ではある。
     これが現実なら、ミキは自分を中心として、つまり主人公だと思って悩み、苦しむことだろう。
     物語というシステムがあるからこそ、主役とわき役が選抜されて見えるのであって、現実にはそんな区分はないのだ――いや、しかし、ほんとうに?
     ぼくには現実世界にも「選ばれて主人公である人」と「わき役でしかありえない人」はいるようにも感じられる。
     少なくともそういうふうに感じ、考える人は必ずいることだろう。
     自分にスポットライトがあたることはついにない、一生、自分は光の差さない暗がりのなかで生きていくしかない、そういうふうに思っている人は相当数にのぼるはずだ。
     そしてそれは、必ずしも思い込みとばかりはいえないだろう。
     この世は一面で平等ではあるが、しかし真実は決してそうではない。
     「運命に選ばれて主人公のように生きる人」と「そうではない人」の格差は凄まじいものがある。
     もちろん、主役には主役の苦悩がある。それはわき役でしかない人には想像できないものではあるだろう。
     とはいえ、単なるわき役から見れば、その悩みすら、苦しみすらうらやましいものに思えるのではないか。
     わき役にはわき役の悩みがあり、苦しみがあるにもかかわらず、それらは世界に無視されて終わるのだから。
     だからこそ、ぼくたちの多くは選ばれたがる。
     「あなたは選ばれました」という言葉は、詐欺師の常とう手段だ。
     あまりにもありふれていて陳腐と化した言葉だが、それでもそのなかには何かひとの心を狂わせる蠱惑がひそんでいる。
     あなたは選ばれました――神に、世界に、運命に選ばれたのです。
     そういわれてほの暗い喜びを感じない人は少ないだろう。たとえ、そこに欺瞞の彩りがひそんでいると気づいたとしても。
     それほどまでに「何者かに選ばれる」ということはひとの心を強く魅了する。
     「愛されたい」という想いも、ひっきょう、「だれかに選ばれたい」という意味ではないだろうか。
     しかし、「わき役」はだれにも愛されないし、選ばれない。そのちっぽけな存在に注目する人はいない。
     『オネスティ』のミキはとても可哀想な女性だ。
     彼女は真摯に愛しながら、愛されない。
     カイとの間にオネスティな関係を築くことができない。
     カイの財産をもらうことはできるが、それがなんだろう。
     彼女が求めたものは、たったひとつ、かれの愛情だけしかなかったというのに。
     だが、その孤独、その絶望すら、あくまでも「わき役」のそれでしかなく、彼女の悲恋に光があたりはしない。
     それが物語というものではある。とはいえ、それはなんと残酷なことなのだろう。
     そして、自分は主人公になれないと感じながら生きていくということは、なんと辛いことなのだろう。
     わき役はどこまでもわき役。主人公にはかなわないのだ。
     いや、しかし、この世にはそんな「わき役」の美しさを描く物語もある。
     たとえば先日読み上げた中田永一(乙一)の傑作短編「少年ジャンパー」はそういう話だった。
     これはほんとうに傑作だと思う。
     中田はいままでも無数の傑作短編を書いているが、そのなかでも新境地をひらく一作といえるのではないだろうか。
     この物語の主人公は人並み外れて醜い容姿の少年である。
     だれからも愛されていないし、最後まで愛されることもない。
     かれはあるとき「ジャンプ」という超能力に目覚める。
     一度行ったことがある場所なら、世界中どこへでも一瞬で「ジャンプ」できるという素晴らしい能力だ。
     しかし、そんな超能力を持ってしても、かれが「世界にとってのわき役」であり「キモメン」であるという事実は変わらない。
     かれはいかなる意味でも世界にも運命にも物語にも選ばれていないのだ。
     よくネットには「おれはキモメンだから異性から差別されてきた!」と書く人がいるが、まさにそういう境遇の少年である。
     あるとき、かれは偶然から異性に恋心を抱くようになる。
     かれがほんとうに「主人公」なら、どんなに醜い顔をしているとしてもその恋は実り、幸福な結末を迎えることだろう。
     あるいは少なくとも悲劇的に美しいクライマックスが待っているに違いない。
     ところが、 
  • 運命を受け入れて生きるということ。

    2015-02-20 22:26  
    51pt
     えー、今月は更新が少ないですね。さすがに何か新しいアニメか映画あたりの話を書け、と思っている読者の方が大勢を占めると思うのですが、もう少しだけ最近ぼくが思うことについて書かせてください。
     ぼくはここ数年、少しずつ少しずつ良い方向へ変わっていっているという実感があります。随分と無意味なことで苦しんだ気もしますが、それも峠は越したんじゃないかな、と思うのです。
     ぼくがたぶんここ30年くらい引きずっている色々な問題に、解決の道が見えて来た。いや、ずっと長いあいだ、それはそもそも解決の方法などなく、一生抱えていくしかない問題だと考えていたのですが、どうやらそうでもないらしいということがわかって来ました。
     すべては、ちょっとしたボタンの掛け違い――それを何十年も引きずってきただけなのかもしれない、ということに気づいたのですね。
     つくづく思い込みは怖いと思います。どんなに簡単なことでも「自分にはできない」と思い込んでしまったらそれまで。ほんとうにできなくなってしまう。
     それをペトロニウスさんはナルシシズムと呼んでいるのだろうし、ぼくは空転する自意識の問題といったりするのですが、とにかく一旦、「自分はこういう人間だ」と思い込んでしまうと、その枠から抜け出すことは非常にむずかしいように思います。
     それはあるいは幻想なのかもしれないし、そこまではいわなくても事実を過剰に受け止めているかもしれないのだけれど、でも、信じ込んでいる人にとってはそれはまさに真実なのですね。
     しかも、そう思い込んでいるとあらゆる出来事がその思い込みを裏付けているように思えて来る。たとえば、「外にでると危ない」と思い込んでいる人にとっては、雷の一閃や、道ばたのおうとつひとつが、その思い込みの証拠に思えてならないように。
     だから、思い込みに浸らないようにして生きていくことが大切なわけです。しかし、ひとは簡単に思い込んでしまう生き物なので、じっさいそれはむずかしい。
     したがって、常に自分は何か現実と違うことを思い込んでいないか、とチェックしていく必要がある。どうやってチェックすればいいのか? つまり、自分の考えていることを現実と照らしあわせてみるのです。方法はそれしかない。
     そのための具体的なやり方のひとつが、他者とのコミュニケーションということになります。「自分は嫌われているいるんじゃないか?」という思い込みの不安を解消するために最も良い方法は、関係者に直接訊いてみることです。
     その一歩を踏み出せれば、ひとは空転する自意識から自由になれる。しかし、これがなかなかできないんだな。なぜなら、自意識の空転を続けていると、ループする想像によって恐怖や不安が途方もなく大きくふくれ上がってしまうからです。
     その状況下で一歩を踏み出すことは傍から見ているだけの人が想像する以上の勇気が必要となる。ひきこもりの人が部屋から外へ出るだけのことにとてつもない労力を必要とするのも、つまりはそういうことです。
     最近、ブロガーの坂爪圭吾さんが「傷つく前に傷つくな」とくり返し書いているけれど、ひとはじっさい、大方、現実に傷つく前に想像のなかで傷ついてしまうものです。
     それが「ナルシシズムの檻」。けれど、どこかでその「一歩」を決断して踏み出さないことには永遠に肥大化しつづける檻のなかで苦しんでいなければならない。
     だからこそなけなしの勇気を振り絞ろう。そして、なるべく頻繁に、かつ丁寧に「ボタンの掛け違い」を修正しつづけよう。そういうふうに思います。
     栗本薫はその作品のなかで、「それがどんなに過酷でも、残酷であっても、ひとは真実を見つめなければならない」というテーマをくり返し示しているのだけれど、それはつまり、真実だけがひとを思い込みの地獄から解放してくれるからなのだと思う。
     空転しつづける自意識の牢から脱出するためには、「ほんとうのこと」と向き合わなければならないわけなのです。
     ぼくも随分と長い期間、その牢獄のなかにいました。そして、自分には色々なことができないに違いないと思い込んでいました。自分はたとえば楽器をひくことも、カラオケで歌をうたうことも、料理をすることも、皿一枚洗うことすらろくにできない人間なのだ、というふうに。
     これは主に学校生活のなかで営々と築き上げられたコンプレックスだっただろうと思うのですが、いま思うに、そのくらいのことはやる気になればできないはずはないんですよね。
     それはまあ、ものすごく達者になろうと思ったら大変だろうけれど、ある程度のレベルくらいには、時間さえかければ到達できるはず。だから、ぼくは最近、こう考えるようにしています。「ぼくは何でもできる。何にでもなれる」と。
     もちろんほんとうはそんなはずはない、できないことなどいくらでもあるし、なれないもののの方が多いはずだが、少なくとも自分の頭のなかで「できるはずがない」と決めつけることはやめよう、というわけですね。
    (ここまで2045文字/ここから2069文字) 
  • 「オタクはクリエイターより偉い」。岡田斗司夫のロジックを考える。

    2015-01-26 13:55  
    51pt


     てれびんに指摘されたのだけれど、最近、ずっと自意識の話をしていてワンパターンですね。いいかげん他の話題に行きたいところですが、敷居さん(@sikii_j)がTwitterで「納得いかん!」とシャウトしていたので、もう少しだけ岡田さんの話を続けたいと思います。
     いや、じっさい書くことは色々あるんですけれど。ただまあ、ぼくは直接逢って人柄をたしかめたわけではないので、あくまで以下に書くことはぼくの妄想という域を出るものではありません。「こういう人なんじゃないかなあ」という推測でしかないわけです。そのことを前提としてお読みいただければ、と思います。
     まず、岡田さんの人生の目的が何なのかという話なのですが、ぼくはべつだん、かれが「何かを笑い飛ばすこと」を目的にしていたとは思いません。
     この場合、「笑い」は目的というよりはむしろ手段でしょう。それでは目的は何かというと、「その人物より上に立つこと」だったんじゃないかな、と。
     つまり、何かを笑い飛ばすことによって、間接的にその存在より上に行く。そして「偉い」「賢い」「強い」「大人の」自己イメージを周囲から認めてもらう。それが目的だったのではないか。
     究極的には「だれよりも賢くて偉い自分」というセルフイメージを確立したかったのではないかと思うのだけれど、まあ、はっきりとはわかりません。
     ただ、岡田さんがひとの悪口をいうのが大好きだったことはいくらでも証拠があります。たとえば『史上最強のオタク座談会 封印』には、こんな発言があります。

    岡田 こないだ『アニメガベストテン』とかあるじゃないですか。あれに俺ゲストで出たんですよ。そしたらね、その時××××××もゲストやったんですよ。で、「はじめまして」と言うてCDくれるんですけどね、「岡田斗司夫さん」いうてサインしやがるんですよ。それがなかったら売れたのに(笑)。書くなよ、オマエ! ババアが! めちゃくちゃ腹立って(笑)。

     ちょっとこの人は何をいっているんだろう、という感じですが、もらったCDに為書きをされると売って金にできない、だからそういうことをする奴は性格が悪いといっているわけなんですね。
     本人のつもりではハイセンスなジョークなのだろうな、と思うんですけど、本気でいっているのだとしたらひどい話です。「書くなよ、オマエ! ババアが!」じゃないよね。
     こういう発言は山ほどありますね。というか、この本一冊全部、この種の発言なんですけれど。
     で、まあ、こういう発言の裏にある想いは「人の上に立ちたい」というものだったとぼくは考えるわけです。権力志向というか。FREEexみたいな組織を作ったり、「オタクの王さま=オタキング」を名乗ったあたりからはそこらへんの心理が読み取れると思います。
     オタク全体がある種の知的エリートとして社会に認められ、自分はその上にトップとして君臨する。どこまで本気だったかはともかく、岡田さんの野望とはそういう性質のものだったと考えていいのではないでしょうか。
     ぼくとしては岡田さんはやっぱり自分の知性を認めてほしかったのではないかと考えています。漫画『アオイホノオ』のなかにもそんな描写があるようですけれど。
     最近の岡田さんにはそういうイメージはないかもしれませんが、唐沢俊一さんとの対談集『オタク論!』とか、先ほどの『史上最強のオタク座談会』のシリーズなどを読むと、「口の悪い岡田斗司夫」をたくさん見つけることができます。
     ぼくはそういう言動はやはりそれによってその対象より上に自分を置きたいという欲求の表れと考えるわけです。もちろん、これはべつだん岡田さんだけのことではないですけれどね。
     たとえば庵野秀明や宮﨑駿は岡田さんにとって同世代ないし上の世代の天才的なクリエイターですが、岡田さんはかれらの作品の拙劣さを笑い飛ばすことによって擬似的にかれらより上に立つことができるわけです。
     「まったく、宮さんにも困ったものだよね(笑)」みたいなセリフをさらっといえれば、そういう岡田さんを凄いと思う人はかなりいることでしょう。
     じっさい、岡田さんはクリエイターより「客」のほうが上なのだ、とはっきり主張しています。『オタク学入門』からその一節を抜き出してみましょう。

     このように、オタク文化の頂点に立つのは教養ある鑑賞者であり、厳しい批評家であり、パトロンである存在だ。
     それは作品に美を発見する「粋の眼」と、職人の技巧を評価できる「匠の眼」と、作品の社会的位置を把握する「通の眼」を持っている、究極の「粋人」でなくてはならない。つまり、僕がこの本の中で一貫していってきた一人前のオタク、立派なオタクということになる。
     立派なオタクはオタク知識をきちんと押さえていて、きちんと作品を鑑賞する。当然これは、と目をかけているクリエイターの作品に関しては、お金を惜しまない。逆に手を抜いた作品・職人に対しての評価は厳しい。
     これらの行動は決して自分の為だけではない。クリエイターを育てるため、ひいてはオタク文化全体に対して貢献するためでもある。そこのところをオタクたちは心得ている。
     もちろん、クリエイターたちやマスコミの中にはオタク文化を西洋のサブカルチャーの一部と勘違いしていて「クリエイターは文句なく偉い」と考えている連中が多い。「作品はクリエイター様の心の叫びだ。ありがたく拝見しろ。わからないのはお前が悪い。顔を洗って出直してこい!」ここまであからさまではないにしろ、多くのクリエイターはこういう風に勘違いしている。
     その勢いに呑まれている中途半端なオタクも多いが、実は違うのだ。やたら料理人を持ち上げたらその店はダメになってしまう。ちゃんと自分の舌で評価してこそ、よりおいしい料理が望めるというものだ。つまり職人の芸をきちんと評価する、という形が健全な文化の育成につながることになるということだ。

     オタク文化の頂点に立つ「教養ある鑑賞者であり、厳しい批評家であり、パトロンである存在」としてのオタクたち、そのさらに頂点に自分が立つ。岡田さんとしてはそういう夢を抱いていたのかなあ、とこの文章を読むと思わせられます。
     で、なぜそんな大望を抱かなければならなかったのかといえば、それはやはり岡田さんの心に何かしらのルサンチマンがあったからなのではないでしょうか。
    (ここまで2602文字/ここから2695文字) 
  • 正しい「いいひと戦略」のススメ。岡田斗司夫はどこでミスを犯したのか?

    2015-01-24 22:55  
    51pt


     ども。岡田斗司夫愛人問題についてはお口にチャックをするつもりだったんですけれど、どうしても書きたいことが出て来てしまうので、ここに簡単に記しておきます。
     何しろ下世話な話なので、読まなくてもまったくかまいません。ただ、ぼくは個人的に岡田斗司夫という人を長年追いかけてきたので、いくらかこの話に興味があるということです。
     いまの岡田さんを見ていると、「なるほどなあ、こういうふうに破綻するのか」という感慨がありますね。ひょっとしたらこのまま成功しつづけるのかと思っていたけれど、なかなかそういうふうには行かないらしいということが、実に興味深い。
     ぼくはべつだんかれを責めるつもりも咎めるつもりもないのですけれど、いまの事態はひとつの「因果応報」というか、自分が選んだ生き方の結末ではあるのだろうな、と思わずにはいられません。
     岡田さんを責めている側もあまり上品とはいいがたいように思うのですけれどね……。まあいいや。
     ぼくが岡田さんのことを興味深く追いかけて来たのは、かれが「上の世代のオタク」だからです。つまり岡田斗司夫はぼくにとって行動の規範となる人のひとりであったのです。
     そのシニカルな物言いにしろ、毒のある行動にしろ、良くも悪くもぼくに影響を与えています。
     かれはある意味で非常に典型的な「インテリオタク」でした。基本的にインテリであるにもかかわらず、社会を建設的に進歩させていくプロジェクトに参画しようとせず、アニメや漫画といったサブカルチャーに耽溺してみせるという態度を示した最初の世代の人だったわけです。
     いわゆる「オタク第一世代」ですね。ぼくはそこに非常に屈折した想いを見ます。ひと言でいえば、岡田斗司夫の考え方とは、社会で重要とされているものを笑い飛ばすことによって自己の優位性を確立しようという思想だったのだと思います。
     アニメや特撮といった、世間的にバリューが確立されていない文化に「あえて」熱中してみせるという態度を示すことによって、自分のインテリジェンスを示そうというわけですね。
     この「あえて」というところが重要で、かれから見るとそこに本気で熱中している奴は愚かであるわけです。ものごとの裏側を見、隠されたものを暴き、その批評的な行為によってあらゆる存在のメタレベルに君臨する――それが正しい「オタク」の態度ということだったのだと思います。
     当然、そこではいかに他人の失敗や滑稽さを笑い飛ばすかということが重要になる。かれから見てくだらないことにベタに熱中しているような俗衆は嘲笑の対象にしかなりえません。
     しかし、当然ではありますが、岡田斗司夫その人も完璧な人間というわけではなく、時には失敗したり間違えたりすることもあります。そうすると、自分自身がだれかの嘲笑の対象になったりもするわけです。
     ぼくは岡田さんが抱えていた課題とは、いかにしてそういった「笑い」から自分自身を防御するか、ということだったのだと思うのです。
     いい換えるなら、「ひとに笑われることなく、ひとを笑い飛ばしたい」ということですね。さらにいえば、決して「ボケ」に落ちることなく「ツッコミ」の立場を維持したい、ということであるかもしれません。
     しかし、これはきわめて困難な課題です。なぜなら、ひとを笑い飛ばしたりすれば、当然、べつのだれかから笑われることもあるのが世の常だからです。
     ぼくが考えるに、これを解決するための方法はひとつしかない。つまり、「何もしない」ということです。自分は何ら建設的な行動を取ることなく、ひとの失敗を笑いつづける。これを続けている限り、ひとは「頭のいいポジション」から脱落せずに済みます。
     何しろ何もしないのですから、何か失敗することもない。弱点を抱え込むこともない。そうやって何もしないでひとを批判している限り、その人は無敵なのです。
     いま、インターネットにはそういう人は大勢いますよね。特に何ができるわけでもないのだけれど、鋭く人を批判し嘲ることにかけては人後に落ちないというタイプ。
     これは「ひとを笑い飛ばしたいが、ひとに笑われたくはない」という課題を突き詰めていくと、当然出て来る行動パターンだと思うんですよ。むしろ賢い人ほど、そうやって「何もしないという態度」を選択することになる。
     そういう人にとって他人はみなバカに見えたりするのですが、では、その人に何ができるのかといえば、べつだん何もできはしなかったりするのです。
     さて、そういった絶対安全圏から人を嘲るという行動は、とても魅力的なものですが、ひとつ問題があります。そうやって安全圏にひきこもっている限り、何もできないということです。
     ひとを笑えば笑うほど、バカにすればバカにするほど、そのセーフティゾーンから出ることができなくなる。出てしまえば、自分がひとに投げた揶揄や嘲弄が倍になって返ってくるからです。
     したがって、そういう人はリスクを犯す行動を何ひとつ取ることができなくなります。そして、「ひとの欠点がよく見える賢い自分」という自画像を手に入れる代わりに、一生何ひとつ成すことなく終わるのかもしれません。
     まあ、それはその人しだいですが、とにかく絶対安全圏にひきこもっている限り、何ひとつ失敗をしないかわりに目立つ業績を挙げることもできません。
     これは「ひとに認めてほしい」、「強く賢い自分を承認してほしい」と考える人にとっては耐えがたいことです。ぼくは岡田さんもそういうタイプの人だと思っているんですけれど。
     それでは、「何か業績を成し遂げ」、なおかつ「傷つきやすい自意識を防御し切るためにはどうすればいいか」。これが岡田さんが人生において取り組んでいた課題だったんじゃないかなあ、とぼくは妄想します。
     特に確固とした根拠がないのであくまで妄想ですが、まあそれを前提として話を続けましょう。
     ごく単純に考えて、ひとを攻撃して、だれからも攻撃されないというポジションに就こうというのは非常にむずかしい話です。ほとんど実現不可能とも思える。自然の法則に反しているようなことです。
     ただ、ひとつ方法があることはある。つまり、この話を考えて行くと、「攻撃されても、嘲笑されても傷つかないよう自分をチューンすればいいのだ」という結論が出ると思うのです。
     ようするに、何か痛い指摘を受けたとき、「それはわざとやっているだけなんだよ」といい張れるようであれば自意識は傷つかない。
     ピエロはピエロであることを指摘されても痛くないのです。なぜなら、それは仕事でやっているに過ぎず、仮面の下にはほんとうの素顔があるのだから。
     つまり、常時、何かしらの仮面をかぶって素顔を見せずにいる限り、どんなに攻撃されても嘲笑されても傷つかない。むしろ、自分が「あえて」「わざと」やってみせている行為に対してベタに攻撃してくる人間こそバカなのだ、といい返すこともできる。
     決して本心を見せないこと。弱点を晒さないこと。常に「仮面」で自分の自意識を守りつづけること。これを続けている限り、いくら攻撃されても決して自分の「本丸」は傷つかない。岡田さんの人生はその絶対防御の理屈によって動いていたように、ぼくには見えます。
     それが今回、破綻してしまったようにも思えるわけですけれど、それはなぜなのかというところが、ぼくには興味深いですね。
     さて、皆さんは今回、岡田さんはどこで失敗したと考えられるでしょうか? ぼくは、それは最初の釈明ツイートだったと思う。「愛人とのキス写真」なるものが出まわって話題になった時、岡田さんはTwitterでこのように呟いています。

    twitterで「愛人とのキス写真」とやらが出回ってるけど、当たり前ですけどニセ写真です。LINEアイコンとか写真の構図とかめちゃ上手いけど。写真と告白文を作った本人からはすでに謝罪して貰ったので、自分的には一件落着ずみ〜。初笑い、できたかな?
    今回で一番恥ずかしいのは、LINEアイコンがムーミンだと知られたこと(笑)
    でも今年は「恋愛本」を書く予定だから、実は過去の恋愛話を全暴露しようと画策していたんだよね。

     これはいかにも岡田斗司夫らしい対応だったと思います。つまり、かれはこの危機的状況に対して「いつものように余裕綽々の自分」という「仮面」で対応しようとした。これが最大の失敗であったのではないか。
     単純に事態を収束させるために何の効果もなく、むしろ火に油を注ぐことに繋がったということだけではありません。この後、かれはこの「仮面」を守ろうとしなければならなくなってしまったわけです。
     つまり、一連の事態において守勢に立たされることになってしまった。これが決定的にまずいレスポンスだったのではないでしょうか。
     ほんとうは岡田さんはここで自分に愛人がいることを認めるべきだったのだとぼくは考えます。そうしたとしても、ほんとうなら咎め立てされるいわれはないのですから。
     しかし、かれは初手で開き直ることができなかった。そして、それがどんどん尾を引いていきます。まさに岡田斗司夫らしくないミステイクです。なぜ、岡田さんは初手でこんな他愛ない嘘をついてしまったのでしょうか。
    (ここまで3751文字/ここから4445文字)