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記事 568件
  • 奇妙な「男性特権論」を乗り越えるために。

    2022-06-28 10:43  
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     前の記事ではフェミニズムの影響を受けた論者の男性嫌悪的な傾向について書きました。
    https://note.com/kaien/n/n427400ec524c
     男性による男性存在そのものへの嫌悪。それは男性の自慰行為や性的想像力に対する否定として作用します。故に、森岡さんは「感じない男」であることしかできず、あらゆるクィアなそれを孕む性の豊饒さに対し感性を開くことは不可能なのです。
     赤坂真理さんの『愛と性と存在のはなし』では、男性であることに「罪悪感」を感じる若者の話が出て来ます。ここで語られている「罪悪感」とは、杉田俊介さんや森岡正博さんが感じているであろうとぼくが想像する感覚と同質のものであろうと思われます。
     「暴力的」とされる性であり、「特権」を背負っているとされる側であることの後ろめたさ。あるいは罪の意識。自分と同じ性の人間が無神経に異性を踏みにじって来たその歴史を背負って

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  • 男性のオナニーは「自傷行為」なのか? 自己嫌悪的男性論を考える。

    2022-06-23 05:29  
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     「男性論」について考えています。
     より正確には、女性も含めた「人間一般」について考えたいのだけれど、女性と女性性についての論考はフェミニズムによって一定の成果が出ている現状があるのに対し、男性と男性性に対してはさまざまな意味で考察が不足しているように思われる。そこで、とりあえず、まずは「男性論」について考えていきたいのです。
     しかし、あるいはこのように書いただけで、批判の余地があるかもしれません。すでに日本には男性の在り方を問う「男性学」の成果があり、またネットには「弱者」の立場に置かれている男性たちについて語った「弱者男性論」の系譜がある。それらの蓄積を無視するつもりなのか、と。
     もちろん、そうではありません。しかし、ぼくの目から見ると、フェミニズムの主張を無批判に鵜呑みにする感のある「男性学」にせよ、やたらに被害者意識ばかりが強い印象の「弱者男性論」にせよ、そのままでは納得しが

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  • 「食べる」とは何を意味しているのか。

    2022-03-29 17:27  
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     この頃、折にふれ「食」について考えたりします。
     このテーマに関してはいろいろなアプローチがありえるかと思いますが、たとえば「美食」といい、「素食」というときの、その「美味」とはどういうことなのかと考えたりするわけです。
     そしてまた、「食べる」とはそもそもどういうことなのか、とも。
     人間は、そして他のあらゆる生きものもまた、何らかのものを殺して食べることなしには生きていくことができません。
     その性質は、ある意味では「生」という営みに張りついた「原罪」といっても良いでしょう。
     それでは、ぼくたちは「食」という行為をどう受け止め、どう認識すれば良いのか。
     それはどこまでいっても「生」の邪悪さと醜悪さを思い知らせることでしかないのか。それとも、他の可能性があるのか。そんなことを、つらつらと考えます。
     「食べちゃいたいくらい可愛い」といったいい方がありますが、「性」と「食」とは、人間

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  • 人は人を赦すことができるのか?

    2022-03-19 22:50  
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    「でもわたしは赦すの 父上も上皇さまも法皇さまもみんな 赦すだなんて偉そうね でも どちらかがそう思わねば 憎しみ 争うしかない でも わたしは世界が苦しいだけじゃないって思いたい だからわたしは赦して 赦して 赦すの」――アニメ『平家物語』より
     何だかちょっと思い至ったことがあるので、いささかならず長くなりますが、読んでみていただければ、と思います。 どこから話しはじめたら良いか、そうだな、ぼくはいままで「敵」とか「怒り」とか「憎しみ」といった事柄をめぐる問題について長いあいだ考えていたんですね。
     この場合の「敵」とは「自分を殺しに来る存在」というイメージです。直接的に殺すわけじゃなくても、パワハラする上司とか、いじめをしかけてくる同級生とか、Twitterで攻撃してくるアカウントとか、そういう存在が「敵」にあたります。
     幸村誠さんの傑作マンガ『ヴィンランド・サガ』に、「敵なんていないんだ」みたいな話が出て来るのですが、ぼくはそんなのウソじゃん、と思っていたわけですよ。世の中、「敵」ばかりじゃん、と。
     話題騒然の少年漫画『タコピーの原罪』を、ぼくが特に面白いと思わないのは、あれはようするにこの世界のありのままの姿をそのままに描いた、ただそれだけの作品だと思ったからです。
     たしかにぼくのいうところの「戦場感覚」の作品ではあるけれど、「それ以上の何か」がないと、ほんとうの傑作とはまでは思わないかなあというのがぼくの評価でした。
     あの作品に出て来るしずかちゃんにしろ、まりなちゃんにしろ、よくわかるんですよね。だれかが自分を、あるいは自分の大切な存在を「殺しに来ている」とき、仕返しに殺そうとするのはあたりまえのことじゃないのか。ぼくはそう思う。思っていた。
     それが「敵」という概念。そう、たとえば、だれかが自分の大切な家族や恋人や友人を殺したとき、あるいは自分を殺そうとしてきたとき、それでもあいては「敵」ではない、といえるのか。
     アニメ『平家物語』の徳子はすべての被害を一身に受け止めて「わたしは赦す」というのだけれど、本当に人間に「赦す」なんてことができるのか。できるとして、「赦した」人間はその分の負債を負うだけではないのか。その理不尽。
     アパルトヘイト後の南アフリカで被害者の「赦し」によって加害者の罪を減じる「真実和解委員会」という裁判形式があるらしいのだけれど、人が人を「赦せ」るなんてぼくには信じられなかった。
     たとえば、いま、ウクライナで家族を殺された人たちは、ロシアを、あるいはプーチンを赦すことができるのか。仮にできるとしても、なぜ赦さなければならないのか。そういうようなことを、ずーっと考えていました。
     ベストセラーの『嫌われる勇気』によると、アドラー心理学には「共同体感覚」という概念があるといいます。これはすべての人を、人以外の宇宙すべての存在までも「仲間」だと捉えるその先にある感覚だと説明されます。しかし、あきらかな「敵」を「仲間」だと考えることなど本当にできるのか。
     ぼくはそこをほんとにずーっと疑っていたわけです。ぼく自身、「どうしても赦せない」と思う相手はいくらでもいたし、そういう「敵」のことを「仲間」だと捉えることはできそうにない。
     その「怒り」や「憎しみ」は限りなく苦しいのだけれど、一方で相手が「自己正当化」し、自分自身をだまして自分を「絶対の正義」だと考えていると思うとやはり腹が立つ。そのように「自己欺瞞の箱」に入っている人間のほうがよっぽどラクできているじゃないか、と考えたわけです。
     そういうことを延々と、かつ悶々と考えつづけて、もうへたすると10年くらいになるかな。で、考えに考えたあげく、結局、ぼくもやっぱり「敵」はいないのかもなあ、というところに考えが至るようになりました。
     ここから先はちょっと遠くから話をすることになりますが、この世界は、「自分」と「自分以外すべて」に分けることができますよね。で、「自分」はある程度のところまでコントロールできる一方で、「自分以外すべて」はほとんどコントロールできない。
     したがって、そのコントロールできない存在のなかで、自分に益をもたらす者を、ぼくたちは「味方」だと思い、害をもたらすものを「敵」だと考える。そういうことなのだと思います。
     しかし、よくよく考えてみると、じっさいには、ほんとうに「敵」と「味方」がいるわけではなくて、「自分以外」の存在はその人の意図や利益に従って動いているわけです。その結果、衝突や軋轢が生まれるに過ぎない。
     『ヴィンランド・サガ』における「敵なんていないんだ」というのはつまりこういうことだと思う。そこまではぼくも理解できる。納得できる。
     でも、それでも、非戦を望む『ヴィンランド・サガ』の主人公トルフィンに対しては「それでは、自分の家族や恋人を殺されても怒らないのか。憎まないのか」という風に突きつけてやりたいと思ってしまう。そこに欺瞞があるんじゃないのか、と思っていたんですよね。
     しかし、ぼくはいま、わりと自分の「敵」に対して怒ったり憎んだりする気持ちが薄れてきているのを感じる。いままでどうしても手放せなかったその「執着」が少しずつ薄くなってきているというか。その前に何年にも何十年にもわたる歳月があるんですけれどね。
     ぼくは中学生時代にかなりひどいいじめにあっていて、それからずっと消せない「怒り」と「憎しみ」を抱えていたような気がします。そしてなぜぼくがこんな不当な、理不尽な目に合わなければならないのかという、「運命と世界に対する敵意」も。
     でも、40歳を過ぎて、人生も半分終わったいまになって、やっぱりこの世界に「敵」はいないということなんだろうな、と腑に落ちた感じがするんですよね。
     たしかにぼくに、あるいはぼくの大切な存在に加害してこようと来る人はいる。そういう人はいかにも「悪意」と「自己正当化」で凝り固まっているように見える。そういった存在に大して無防備でいたら殺されてしまう。
     それは事実でしょう。たとえば、まさにウクライナがロシアに対して無抵抗ではいられないように。もし無抵抗なままでいたら自分自身はもちろん、自分にとって大切なあらゆる価値を奪われるわけですよね。それを許すことはできない。
     いま、ウクライナの多くの男性たちは、あるいは女性たちまでもそうかもしれませんが、次々と勇敢に義勇兵となって最前線で命がけで戦っているようです。
     この行為を非難することはできないでしょう。自分の国を、領土を、家族を、愛するものすべてを加害者から守ろうとすることは完全に正当だとぼくも思います。このとき、戦わなければ、立ち上がらなければ、何ひとつ残らない。戦うべきだ。
     しかし――それでも、なお、ぼくはこの世に「敵」などいないとも考えるようになりました。つまり、ロシアは、あるいはプーチンは、ウクライナ人にとっての「敵」ではないと考えることができるということです。
     それはどういうことか。ようするにこの場合の「敵」国、「敵」軍に対して、戦い、退ける必要はあるけれど、だからといってべつだん、「怒り」や「憎しみ」を持って立ち向かわなければならないとはかぎらないということなのです。
     おそらくこれはいかにも欺瞞的な話に聞こえることでしょう。「怒り」や「憎しみ」を持たずして、人が人を殺し領土を守ることができるものなのか、と思われても無理はありません。
     しかし、ぼくはいま、「できる」と考えています。「戦う」、「立ち向かう」、「抵抗する」という行為が「敵」へのどす黒い「怒り」や激しい「憎しみ」に彩られていなければならないわけではない。
     むしろ、人は自分の「怒り」や「憎しみ」を正当化するためにこそ、相手を「敵」とみなすと考えるべきではないでしょうか。あいつは殺されてもしかたない邪悪な存在なんだと思わなければ、たとえ殺されそうになっても、殺し返すことはできないのではないか。
     しかし、当然ながら、ひとりひとりのロシア兵、あるいはすべての大元であるプーチン大統領ですら、「悪」とレッテルを貼って済ませられるほど単純な存在ではありません。かれらにはかれらの理路があり、正義があり、欺瞞があり、執着があるのです。
     ぼくは「だから、お互いさまだ」とか「かれらを赦すべきだ」といっているわけではありません。かれらにどんな理屈があろうと、それでも殺し、退けなければならない。そういう局面は現実にある。それが戦場というものでしょう。この世の地獄。
     あるいは、かつてぼくが「戦場感覚」というタイトルの本でそう考えたように、この世界そのものが戦場のメタファーで捉えられるかもしれません。人と人の利益は対立しあうもので、しばしばだれかを殺さなければ生きていけないのが現実。この世は戦場。この世は地獄。そうではないでしょうか?
     ぼくはそう思うんですよね。いじめられっ子がいじめっ子に対し抵抗しなければ自殺にまで追いやられるでしょう。ロシアに対するウクライナがそうであるように。まりなちゃんに対するしずかちゃんがそうであるように。
     だから、人は戦わなければならない。だれかを殺して自分を、そして自分の大切なものを守らなければならない。そういうことは実際にある。それは「善悪」では捉え切れないこの世の絶対の真実、いわば「グランド・ルール」である。そう受け止める。
     その「大宇宙の黄金律」ともいうべき絶対のルールは人には変えられない。それは神さまがこの宇宙を生み出すときに決めたことなのであって、人にはどうしようもないことであるように思われます。
     だから、人は戦い、殺しあわなければならないことがある。それはマクロな「戦争」というレベルでもそうだし、ミクロな「教室」、あるいは「家庭」というレベルでもそうです。殺さなければ、殺される。そのとき、ぼくたちは「殺す」ことを選択せざるを得ない。
     『ヴィンランド・サガ』にしろ、あるいはその前の『プラネテス』にしろ、やはりその点はまだ突き詰めが甘いように思われる。
     生きていればどうしたって殺すか、殺されるか、あるいはその選択肢そのものを避けて逃げすべてを喪うか、選ばざるを得ないときがあるのではないか。それは人間にはどうしようもない「摂理」なのでは。ぼくはそういう風にしか捉えられない。
     ぼく(たち)はそういう戦場のような世界に生まれ落ちてしまった。それが現実。そうなら、絶望するしかないのか。あるいは、どうにか適応し殺しあいを続けるか。さもなければ、「争いをやめられない人間は愚かだ」とひとり高みに立ってうそぶくのか。
     そうではない、といま、ぼくは思う。人には、争い、戦わざるを得ないときがある。ただ、それでも、その過酷なルールによって縛られた「この世界」に対しどう考え、受け止めるかは選ぶことができるのだ、と。
     目の前の相手を、究極的にはこの世界そのものを憎むべき「敵」として捉えるか否か、それは自分の意思で選択できる。そして、その選択こそが、人間のもつ唯一にして最大の崇高さなのではないでしょうか。
     現実として、だれかと戦わなければならないときはある。だれかと殺さなければならないときはある。しかし、それでも、そうだからといって「漆黒の敵意」に捕らわれる必要はない。ぼくたちは自ら選ぶことができる。
     相手を「邪悪な敵」と見做して単純化し、「怒り」や「憎しみ」に塗りつぶされるか。あるいは「不運にも対立することとなった同じ人間」と見做して「哀しみ」や「憐れみ」を抱くか。
     そう、人はだれかを「憎む」かわりにこの世界の摂理を「哀しむ」ことができる。
     相手はあなたを殺そうとするかもしれない。それどころか、あなたのいちばん大切なものをののしり、嘲り、揶揄し、踏みにじるかもしれない。それに対しては、抵抗しなければならないでしょう。しかし、だから相手を「敵」と見做し憎むかどうかはべつだ。
     ぼくたちは「憎む」かわりに「哀しむ」ことができる。それはいかにも「女々しい」ことに見えるかもしれない。「弱々しい」態度に思われるかもしれない。じっさいそういう側面はあるでしょう。
     そもそも、自分の持っているものを命にかけてでも守り通さなければならない、その意識がいわゆる「男らしさ」の起源だと思われます。それは男たちにとって最大の誇りであるあると同時に、一方で「有害な男らしさ」といわれるものの源泉でもあります。
     ソーシャルメディアを見ていると、しばしば「いざとなったら戦うのは男なのだ」といった意見を見かけます。これは一面で反論しがたい理屈であるように思える。そしてまた、「だからこそ、この世界から争いがなくならないのだ」ということも本当でしょう。
     怒りに怒りを、憎しみに憎しみを返しつづけるかぎり、争いはなくならない。だからといって、「敵」を「赦す」ことはあまりにもむずかしい。ぼくたちはどうしようもないジレンマに捕らわれて「だから結局、戦うしかないのだ」というところに追いやられていく。
     それはある意味で、正しいことなのかもしれない。何度も繰り返しますが、「戦わざるを得ない」、あるいはそうでなければすべてを失うことを覚悟しなければならない局面は、この世界で生きる限り、かならず存在するのです。「無抵抗」は即ち死を意味します。
     だから、ぼくは「戦い」を否定しない。「戦士としての生き方」を、「直接的、間接的な殺人」を否定しない。ただ単に「人殺しはやってはいけない悪いことなのだ」といっても、問題は解決しないからです。
     ですが、どうしてもこの戦場のような世界で戦士として生きなければならないというのなら、だれかと戦い退けつづけなければならないというのなら、せめて「高潔なる戦士」であることを選びたい。
     「激しく煮えたぎる漆黒の憎しみ」ではなく「かぎりなく深い藍色の哀しみ」を抱き、そうであることに耐えつづけながら戦うこと。決して「怒り」や「敵意」に逃げずに争うこと。守ること。抗うこと。それがぼくが考える「戦場感覚」の一つの答えです。
     怒るのではなく、憎むのでもなく、哀しみを哀しみ尽くすこと。そのとき、初めて多くの「男性」たちは、「自分は女子供を守るため戦っているのだ」という強い自負とうらはらの「弱々しい存在」への蔑みと見下しを乗り越えることができるでしょう。
     この世は修羅の、戦いの世界。それはその通りです。しかし、それでも、この世界に「敵」はいない。「敵」とは、人の心が作り出す幻想でしかない。いるのは、不幸にも戦わなければならなくなった誰かほかの人間だけ。その哀しみを哀しもう、とぼくは思います。
     おそらく、そのとき、人はだれかを「赦す」ことができるのではないでしょうか。ぼくはそういうふうに感じる。で、ぼくもようやく30年間くらい抱えていた「怒り」を捨て、初めて「人を赦す」ことができそうに思います。
     この世にはたしかに僕を殺そうとして来る存在がある。嘲り、罵り、踏みにじろうとする者もある。それは「敵」のようにも思える。しかし、そうしたければ、そうするが良いでしょう。それはぼくのコントロールできない領域だ。
     たしかにそのとき、ぼくは自分と自分の大切なものを守るため、立ち上がるしかない。戦うことを選ぶしかない。しかし、ぼくはそれでも相手を憎まない。蔑まない。決めつけない。それは相手のためではなく、自分自身の尊厳のために。少なくともそうしたいと思う。
     あるいはこの宣言自体が傲慢そのものかもしれませんが、ぼくは「戦い」、そして「赦す」だろう。それはこの戦場のような過酷で残酷な世界をも赦し、そしてその世界と「和解」を遂げることでもある。 そのとき、ぼくは自分の生を祝福することができるだろう。この世界に生まれて来て良かった。何の衒いもなくそういえるだろう。それが、それこそが、「戦場感覚」。
     と、そのようなことを考えました。いかがでしょうか。もし、ご意見があれば、よろしくお願いします。では。 おしまい。 

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  • ToDoリストに「生きる」と書き込む。

    2022-03-14 19:00  
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     どうも、おひさしぶりです。数ヶ月にわたってブログを休止してしまって申し訳ありません。
     そのあいだ何をしていたかというと、べつのブログを運営していたりしたのですが、さすがに良心が痛むのでこちらのブログを更新しようと思います。
     今後は定期的に更新することをめざします。まあ、いいかげんもはや信用してもらえないかもしれませんが……。
     さて、ぼくが無意味に日々を過ごしているあいだに、コロナ禍は何度目の流行と終息を見せ、ロシア軍はウクライナに侵攻し、世界はまるで違うところに変わってしまったわけですが、その最中、ぼくはいつものごとく自分の無為さにうんざりしていました。
     こうも無気力な日々を送っていると、さすがに改善して計画的な人生を送ろうと思うわけですが、どうにもうまくいかず、あい変わらず無価値な毎日が続くばかり。
     そこで考え出したのが「ダメ人間ライフハック」という方法論でした。
     ダメ人間ライフハックとは! ダメ人間が、ダメ人間のままより良く生きていくやり方のことです。
     ダメ人間をやめられないのなら、どうにかダメなままで状況を改善できる方法がないかと考えたわけです。
     そこでまず、「ダメ人間ToDoリスト」なるものを考えつきました。これは通常のToDoリストアプリを使うやり方なのですが、ふつうと違うのは日常生活のありとあらゆる些細なことまでリストアップすること。
     「顔を洗う」とか「体重計に乗る」ということまでいちいちリストに入れることによって、そういったことを「習慣化」しようとしているわけです。
     何しろ、ダメ人間はこういったことすらも時に忘れがち。自宅にひきこもっているとなおさらです。
     で、これは効果がありましたね。ふつうの人にはばかばかしいものとしか思えないかもしれませんが、このリストによって自分の日常の習慣の一々が可視化されたわけです。それには大きな意味がある。
     ちなみに、このリストのいちばん上には「生きる」という項目が入ります。この項目はとりあえず毎日起きた瞬間にチェックできるわけで、「ただ生きているだけで価値がある」ことの確認になる。それは自己肯定感にとって大変に良い作用があるのですね。
     「ダメ人間ToDoリスト」、ぼくはスマホが起動するのと同時に起動するように設定しています。なかなか計画的に行動できないという人にはオススメのやり方ですね。
     しかし、そうやって「ダメ人間ライフハック」について考えているうちに、そもそも「ダメ人間」という概念そのものに疑いを感じ始めて来ました。
     ぼくはほんとうに「ダメ人間」なのだろうか? それ以前に、「ダメ人間」としかいえない人間と「普通の人、あるいは立派な人」がいるという考え方は正しいものなのだろうか、と。
     たしかに、弱い人、ダメな人と強い人がいることは一見すると自明に思えます。トップアスリートやアーティストのように、強い意志をもって一貫して夢を追う人間がいる一方で、すぐに挫折して投げ出す人もいることはたしかです。
     この「意志力」、あるいは「自制心」、専門的には「実行機能(エグゼクティヴ・ファンクション)」などと呼ばれる能力を調査した試験に、有名な「マシュマロ・テスト」があります。
     これは子供たちの自制心をお菓子のマシュマロによって調べた調査で、数十年にわたって継続的に調べられた結果、「実行機能」の強弱が人生を大きく左右することがわかりました。
     つまり、子供の頃、目の前のマシュマロを我慢できるような人間は長じても成功する確率が高いということです。
     これはいかにも救いのないあたりまえの結論とも思えます。ようするに子供の頃から意思が強い人間と弱い人間は決まっていて、それで人生は決まってしまうのだ、とも思われるからです。
     ですが、じつはこの「意思の力」によるセルフコントロールはさまざまな方法によって強化することができるらしいのです。
     単純に遺伝や環境によってすべてが決まってしまうというわけではない。
     辛い状況に耐え、努力し成長しつづけるような行為は単純に「意志力」によって成し遂げられるというよりは、具体的な方法論があると考えるべきでしょう。
     ある人にとって快適な状況を「コンフォート・ゾーン」と呼ぶのですが、人間は成長するためにはその「コンフォート・ゾーン」から出て厳しい状況に耐えなければなりません。
     たとえば、バスケの選手として大成するためには地味なシュート練習が必要になります。
     そのとき、耐える力はいかにも「根性」とか「意志力」によって決まって来るようだけれど、じつは必ずしもそうではないということ。
     この「コンフォート・ゾーン」はたとえば真冬のこたつに喩えることができるでしょう。
     ぼくはそれを「こたつ理論」と呼んでいるのですが、つまり欲しいものはこたつの外にあって、それらを手に入れるためにはこたつを出つづけなければならないというわけです。
     しかし、いったんこたつに入ってぬくぬくしてしまうと、その外に出るためにはものすごい力を必要とすることは、皆さんご存知のことだと思います。
     したがって、たしかにここから素直に考えるとこういう理屈になりそうです。「こたつ」の外に出て寒さに耐えることができる人は意思が強い立派な人だ。反対にいつまでもこたつでぬくぬくしている人間は意思が弱いダメ人間である、と。
     ところが、この考え方はやはり一面的なのです。この見方だと、快適な「こたつ(コンフォート・ゾーン)」の外に出て活動するモチベーションの有無を属人的に考えています。
     つまり、人間には、イソップ童話の勤勉なアリと怠惰なキリギリスのように、勤勉なタイプと怠惰なタイプがいる、と。いかにもあたりまえのことのようにも思える。
     ですが、心理学的に見ると、必ずしもそうとはいえないらしい。
     いわゆる「モチベーションの心理学」によると、人間の行動のモチベーションはその生涯で何千回、何万回となくくり返される「学習」の成果が大きいとか。
     つまり、あるアクションを取ったとき、成功や賞賛という「正の報酬」を得られた人は「努力は報われる」と「学習」し、「自分ならできる」というポジティヴなアイデンティティを獲得、そのアイデンティティにもとづいてさらに努力するという好循環が働く。あるアクションで失敗した人はそのまったく逆というわけ。
     ようは意志の強い人と弱い人、勤勉な人と怠け者、アリタイプの人間とキリギリスタイプの人物がいるのではない。すべては人生を通し、何千回、何万回とくり返された「フィードバック・ループ」という名の「学習」の結果である、と考えられるわけです。
     思うに、いわゆる「社会的ひきこもり」はネガティヴな「フィードバック・ループ」が習慣化した最も極端な形だといって良いでしょう。
     「自分には問題を解決できる能力がある」という感覚を「自己効力感」といいますが、ひきこもりの人間はその自己効力感がかぎりなく低下し、ひたすら「自分はダメな人間だ」とか「何の能もないんだ」という極端な「メタ認知」に陥ってそれがアイデンティティになる。
     そしてその結果としてより行動するモチベーションが下がっていくということになっているわけです。
     良く人は習慣の動物だといわれますが、「負の学習」をもたらす「悪い習慣」のくり返しが常態化した結果がひきこもりだともいえるでしょう。
     ぼく自身がそうだからいうのですが、こういうひきこもりに対し「あなたにだってできることはある」などと口先でいってみても、あまり意味がない。なぜなら、体験による「学習」が強烈すぎて、単なる言葉はむなしく響くからです。
     結局のところ、体験は体験によって上書きしていくしかないのではないでしょうか。
     そのために先述のダメ人間ToDoリストに書くような「小さな習慣(ミニ・ハビッツ)」が重要だと思うのですね。
     で、究極的には「生きる」ことが「最小で最優先の習慣」なのではないかとぼくは考えます。「生きている」ことが人生の最大の成果ですよね。
     「顔を洗う」とか「体重計に乗る」といった「小さすぎる習慣」をいちいち確認することはいかにも無意味に思われるかもしれません。だれでも毎日、なかば無意識にやっていることですから。
     しかし、じっさいやってみると、このToDoリストによる確認には意味があることがわかります。少なくともぼくにとっては大きな意味がありました。
     アメリカの心理学者スキナーが提唱した「スモールステップの原理」のように、小さなステップで現状を改善していくことが大切なのだと思います。
     弱小だったイギリスの自転車チームをツール・ド・フランス優勝にまで導いたといわれる1%の改善の積み重ね、「マージナル・ゲイン」も同じことですね。
     わずかな積み重ねが「複利」でたまっていくと、信じられないような大きな効果に至ることがありえるということ。
     これはぼくがバイブルにしている『ベイビーステップ』の主人公エーちゃんのやり方でもあります。
     ひたすら目の前だけを見て少しずつ少しずつ成長していく。そのやり方はいかにもカメの歩みとも見えますが、その実、最速の成長をもたらすのです。
     もちろん、その反対に最初に大きな目標を掲げてそこへ向け邁進する方法もあるでしょう。たとえば『ONE PIECE』のルフィのように。
     まだ何者でもない頃に「海賊王のおれはなる!」と宣言し、少しずつその領域に近づいていくかれを見ていると、大きな夢を掲げることは素晴らしいことのように思われて来ます。
     しかし、よくよく考えてみると、海賊王になることを目ざしているのはべつにルフィだけではないのですよね。
     レースに参加する者はだれもが勝利を目ざしているわけで、大半の海賊が海賊王を目ざしているといっても良いはず。
     ということは、その上で勝敗を分ける条件は「大きな夢を掲げているかどうか」ではないわけです。
     勝利とか成功とは膨大な「スモールステップ」の実践によってたどり着くもの。そして初めに大きな夢を掲げるほど、「圧倒的な才能の違い」といったものに打ちのめされてしまいがちです(いわゆる「グレートネス・ギャップ」)。
     最近、何らかの成功や達成のためには「グリット」というものごとをやり通す力が重要だといわれるようになりました。
     その「グリット」を持続させるためにはやはり「スモールステップ」で成長することが必要なのではないでしょうか。
     塊を小分けにしていくように課題を細かくしていくことを「チャンクダウン」といいますが、ある大きな問題を解決するためにはその「チャンクダウン」と「マージナル・ゲイン」が必要なのです。
     そして、大切なのは「スモールステップ」を日常的に実践し「つづける」ことであり、そのためには「習慣化」が必要になる、と。
     たぶん、この「習慣化」を「意志力」の問題であるかのように考えてしまうとうまくいかないのでしょうね。
     その他にも色々と資料を読み耽ったのですが、「意志力」という概念は非常にあいまいです。
     何度もいいますが、一見すると相対的に意思が強い人間、弱い人間はいるように思えるし、じっさいに遺伝的に強力な「実行機能」を持つ人がいることもわかっているらしいのですが、しかしそれがすべてではないことも「マシュマロ・テスト」などによってわかってきた事実なのです。
     すべての鍵は「習慣化」にある。何もかも毎日の習慣によって決まってきます。
     たしかに「知能指数」や「身体能力」にはそれぞれ大きな遺伝的な格差が存在するでしょう。すべての人が同じだけの潜在能力を持っていて、「才能」なんてものは存在しない、とはとてもいえそうにない。
     ですが、その人のポテンシャルを限界まで引き出すのはやはり「実行機能」によるセルフコントロールの問題なのです。
     また、そのポテンシャルそのものが行動によって変化する可能性があります。知能には成長の余地がなく、あらかじめ決まっているという考え方を「固定的知能観」というのに対し、知能にも変化と成長の余地があるという考え方を「拡張的知能観」といいます。
     で、「拡張的知能観」で自分を捉える人のほうがより早く成長しやすいともいう話もあります。
     ただ、そうやって成長することができても、自分を制御できなければ、どんなに成功しても最後には破滅が待っている。そのことは、スキャンダルで失敗した有名人などを見ていれば歴然としていることでしょう。
     とはいえ、人間は自分を制御し切れないものでもあります。人間が必ずしも合理的な行動を選択するわけではないことは、行動経済学などでも語られている通りことですが、ぼくはそれは必ずしも悪いことではないと思う。
     たしかに諸々の「依存症」のように、まったく自分をコントロールできなくなってしまうことは人生にとって大きなマイナスです。
     ある程度は自分を制御して生きていく必要がある。それはたしか。
     そして、そういう「実行機能強者」がより良い人生を歩みやすいことは「マシュマロ・テスト」の結果を見てもあきらかでしょう。
     しかし、それでは人生において、そのような「成功」や「達成」がすべてなのかといえば、ぼくはそうは考えない。
     およそ世間で流通している「成功哲学」や「自己啓発」は「自分をうまく制御して成功を目ざしましょう」と誘いかけてくるものですが、その価値観はどこか安っぽく薄っぺらいものがある。
     仮に人生の「目標」がカネや地位というわかりやすい成功だとしても、人生の「目的」はカネでも地位でも名誉でもないとぼくは思います。
     ルフィにしても、「海賊王になる」ことは「だれよりも自由に生きる」という目的にたどり着くための目標に過ぎないといっても良いはず。
     「努力」と「成功」だけを良しとする価値観は、どうしても失敗した人に対する差別や蔑みにつながります。
     けれど、人間は単なるプログラムに従って動くロボットではない。人間というあまりに複雑な存在の意志には、どうしても自分の力ではコントロールし切れないなぞの部分が残るはずです。
     ぼくはそれを「魔が差す」という表現から採って、「魔(デーモン)」と呼んでいます。
     京極夏彦の『魍魎の匣』では「魍魎」と呼ばれていましたが、同じような概念だと思います。
     人の心にはつねになぞめいたデーモンが住んでいて、善にせよ、悪にせよ、思いもかけないようなことを囁きかけてくる。それが人間の奥深さではないでしょうか。
     文学にしろ、哲学にしろ、このデーモンの存在を前提としているからこそ意味があるのであって、人間がただしゃにむに自己利益だけを目ざす存在でしかないのなら、そもそもそんなものは必要ないということになると思います。
     ここからいまは亡き立川談志の「業の肯定」という落語論と、『文七元結』における「利他」と「贈与」の話につなげ、ジャック・アタリの「合理的利他主義」や、親鸞聖人の「自力」と「他力」を巡る話に持っていきたいのですが、さすがに長くなってきたのでまたあらためて語ることとします。
     究極的には「良い人生(グッドライフ)」とは何か?というテーマに回帰する話題でしょう。
     次はここら辺をプラトンとかニーチェとか『夜と霧』あたりを参照して語ることとしたいと思います。よろしくお願いします。では。 

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  • 『Landreaall』最新刊のネタバレ感想!「おまえって奴は」。

    2021-06-24 23:44  
    300pt
    『Landreaall』、一年に一、二回の最新刊です。



     どんどんぱふぱふぱふー。本日、おがきちかの人気シリーズ『Landreaall』最新の第37巻が発売されました。
     さっそく電子書籍で入手して読み終えたわけですが、いやー、面白い!
     このシリーズ、一応、少女漫画のほうのカテゴリに属しているとは思うのですが、膨大な登場人物が絡み合う群像劇を平然と展開していて、少女漫画にバイアスを抱えている向きにも読んでほしい作品だといえます。
     高度な戦術や戦略や権謀術数が絡み合う一部の展開は、むしろ男性読者のほうが楽しめたりするのではないかとも思ってしまうのですが、それはジェンダーにもとづく偏見でしょうか?
     とにかくめちゃくちゃ面白いマンガには違いないので、ぜひ、いますぐ読んでほしい。
     既刊37巻というといまさら入りづらいという方も多くいらっっしゃるかとは思うものの、大丈夫、そこは何しろ少
  • 『進撃の巨人』の「愚か者たちのデモクラシー」は本当に成り立つか?

    2021-06-21 23:22  
    300pt
    杉田俊介氏が語る『進撃の巨人』論への強烈な「違和」。
     杉田俊介氏の『進撃の巨人』論「『進撃の巨人』は「時代の空気」をどう描いてきたか? その圧倒的な“現代性”の正体」を読んだ。
     べつだん、いま読み終えたわけではなく、『進撃の巨人』全巻を読み返し終えたあとに反応しようと考えて放置していたのだが、それではいつまでも書けないのでいま書くことにした。つまり、本文はこの記事への批判的応答である。
     ぼくは『宮崎駿論』や『ジョジョ論』を初め、杉田氏が公に書いた文章はその大半を読んでいる。その意味では、杉田氏の愛読者といって良いのだが、同時にこの人が書くものにはつねにつよい違和感を感じる。
     それは、ぼくの目から見て、あまりにかれの書くものが傲慢に思えてならないことが頻繁にあるからである。
     杉田氏の批評は、いずれもきわめて精緻に、論理的に考え抜かれていることが一読してあきらかだ。そして、それにもかかわらず、ぼくはその結論に納得できないことがしばしばなのである。
     『天気の子』のときもそうだった。そして、『進撃の巨人』でもやはりそうであるようだ。なぜそういうことになるのだろう? 思うに、そこにあるものはひとり作品の上に立ち、作品の良し悪しを問うというか決めつける批評家というポジションそのものの傲慢不遜さなのだろうと思う。
     それはただ「何となく偉そうで気に食わない」という次元のことではなく、ある作品を批評することがどのようにあるべきかを問う行為であるのだと考える。ぼくは杉田氏の批評のやり方がいまひとつ気に入らないのだ。
     かれが書くものはいつもぼくにとって刺激的、かつ説得的であり、その意味で、ネットで散見される「感想」とはたしかに一線を画している。あたりまえといえばあたりまえだが、かなりハイレベルなクリティークがそこにあるのだ。
     だが、そうであってなお、かれの文章には「何かが違う」という「世界観の違い」とでもいいたいものを感じる。それが率直な「感想」である。
    「型通りの正論」という「気楽な作法」。
     もちろん、そうかといって、その違和をただあいてを皮肉ったり、揶揄したりするだけで終わらせるわけにはいかない。それではまさにインターネットに跋扈する無数の過激な(過激なだけの)論者と同じでしかない。
     だから、ぼくは自らが違和を抱く言論には自分なりの言論をもって対抗しようと思う。もちろん、杉田氏の書くもののように広く読まれることはないだろうが、ぼくなりに誠実に書いていくつもりだ。もし非常に最後まで読んでいただければありがたい(一応、これも有料記事だが、最後まで無料で読めるようにしておく)。
     さて、それでは端的にいって、杉田氏の批評のどこにそれほどまでの傲慢を感じ取り、あるいは違和を抱いているのだろうか。ひと言でいうなら、それはかれのリベラルな「正しさ」との距離の取り方であると考える。
     『天気の子』の批評でもそうだったし、今回の『進撃の巨人』でもそうなのだが、かれはつねに「正しい」ことをいっている。
     世界が水没しているのに「大丈夫」なわけがない――その通り。人類の大半を虐殺する行為は「狂気のような自由」の矮小化である――なるほど。
     それらは、たしかに一読すると「そうかもしれない」と思わせるだけの意見だとは感じる。ただ、それなのに、ぼくはどうしても杉田氏の意見に納得し切ることができない。
     たしかに東京をなかば水没させたり、人類の過半数を虐殺したりする選択が倫理的に考えて「正しい」はずはない。どう考えてもどこかで間違えているに違いない。
     それはそうなのだが、そのことは特に杉田氏の指摘を待つまでもなく、おそらくはそれぞれの物語の「内」と「外」のだれもがわかっていることだと思うのだ。
     それをことさらに指摘して済ませる行為そのものに、ぼくは物語をそのメタレベルから一方的に裁断する読者、あるいは批評家という立場の、あえていうなら「気楽さ」を思わずにはいられないのである。どういうことか。
    具体的にどこがどう問題なのか?
     たとえば、『天気の子』だ。杉田氏はいう。
    私は、主人公の選択には賛否両論があるだろう、というたぐいの作り手側からのエクスキューズは、素朴に考えて禁じ手ではないか、と思う。そういうことを言ってしまえば、作品を称賛しても批判しても、最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまうからだ。
     ぼくはこのくだりに非常な違和を覚える。なぜか。そもそも「最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまう」として、それの何が問題なのかと考えるからだ。
     素直に読むのなら、この一節は、作品の受け手側の称賛なり批判は決して「作り手側の思惑通り」ではないと主張しているとしか読めない。
     この場合、杉田氏は作品を批判しているわけだから、「自分の批判は意見は作り手の思惑を乗り越えたものである」と主張したいということになるだろう。
     もっというなら、自分の意見は作り手の思惑を乗り越えているにもかかわらず、「最初から思惑通り」だという態度を取られることは不愉快だ、アンフェアだ、といいたいということではないだろうか。
     その気持ちは、わかる。せっかく自分なりに作品に決定的な批判を加えたのに、「最初からそんな批判は想定済みでしたよ」という態度を取られたらつい「それは卑怯じゃないか」と思ってしまう、その心理は十分に理解できる。
     だが、それでもやはりぼくは杉田氏のこの主張はどこか違っていると思うのだ。いったい杉田氏はいつから「作り手側の思惑」を超えることを目指していたのか。
     もしあくまで自説に自信があるのなら、むしろたとえそれが「作り手側の思惑」通りであったとしても、おかしいものはおかしい、間違えているものは間違えている、そう主張するだけで満足するべきではないか。
     それができないとするのなら、ただ「作り手側の思惑」を超えて何か鋭い批判を加えてやるというゲームに夢中になっている。そういうことでしかありえないではないだろうか。
    批評家には謙虚さが必須であるということ。
     そう、ぼくには、杉田氏は、わたしはこの作品に対して「作り手側の思惑」を遥かに超えた素晴らしい批判を行っているのだから、「作り手」である新海誠監督はそれを素直に認めるべきだ、そして自分の作品の拙劣さを反省するべきなのだ、といっているようにしか思えないのだ。
     ぼくの見方は過剰なものだろうか。あるいは意地悪な見方に過ぎないだろうか。そうかもしれない。だが、そうであるとするならなぜ杉田氏はことさらに「作り手の側の思惑」を問題とするのだろう。
     自分(たち?)の意見が「作り手側の思惑」の範疇にあるかどうかを問題にするのでなければ、このような意見は出てこないはずである。
     そして、それならそうで素直にいえばそう良いと思うのだ。「自分の意見のような鋭い批判を、新海誠監督はまったく想像もしていなかっただろう。それなのに、あたかも思惑通りであるような態度を取るのはずるい。卑怯だ」と。
     ほんとうに、そういえば良いと思う。なぜいわないのかといえば、そこまでいってしまえば、それがあまりにも傲慢な態度であることがだれの目にもあきらかになってしまうからだろう。
     過剰な意見かもしれないし、意地悪な見方かもしれないが、ぼくにはどうしてもそういうふうに思われてならない。
     そして、その傲慢さは本質的に「後出し」でしかありえない批評という行為にどうしても必要な謙虚さを欠く結果につながっているように感じられる。
     もちろん、それはひとり杉田氏のみが陥った落とし穴というよりは、ある作品を後から語るとき、だれもが落ち込みかねない陥穽ではあるだろう。その意味で、かれ個人を攻撃して済ませるつもりはない。
     だが、それにしても杉田氏の姿勢はその種の傲慢さに対して無自覚であり過ぎないか。むろん、そのような意見を「後出し」でいっているぼくもまた、だれかのさらなる「後出し」による批判にさらされる可能性はあることはわかった上でなお、そのように考える。
    リアリティのシェアができていない。
     ぼくは杉田氏のいうことが必ずしも端的に間違えているとは思わない。
     『天気の子』にせよ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にせよ、『進撃の巨人』にせよ、たしかに批判されるべきポイントを抱えた作品ではあるだろう。杉田氏の批判は、紛れもなく作品の根幹を突いているところがある。
     が、それでもぼくがどうしても納得がいかないと思うのは、ひとり「物語の外側、あるいはそのメタレベル」に立って、わかったような「正論」を説くだけの行為に批評的な意味を見いだせないからだ。
     ある一連の物語のなかで、きわめて切迫した状況下において、ひとつの判断を下した「作り手」なり登場人物なりに対して、その外側からあたりまえの正論でもって説教する。もしそれが批評の本質なのだとしたら、批評とは何と気楽で他愛ないものだろうか。
     杉田氏のいうように、気候現象は一面で人為の作用した「シャカイ」なのだから、人間に責任がないと考えることは間違えているかもしれない。しかし、「それなら具体的にどのように問題を解決すれば良かったのか」。
     なるほど、杉田氏のいうように極限的な状況で二者択一を求められることじたいが「間違えている」ことなのかもしれない。だが、映画のなかの人物たちにとって、じっさいに二者択一を求められているように感じられることは紛れもない事実なのだ。
     もし、杉田氏が映画のなかの登場人物たちと同様の責任感と切迫したリアリティを持って物語を語っているのなら、二者択一に限らない第三の、より優れた選択肢をきちんと提示しなければならないだろう。
     それなくして、「二者択一など幻想だ。第三、あるいは第四の選択肢があったかもしれないのだ」といっても、無責任な放言としか思われない。
     それはその通りではあるだろう。すべてを二者択一と捉えることはおかしいだろう。だが、そこにはそうとしか考えられない状況下に置かれた主人公を初めとする登場人物たちへの共感がない。同じリアリティをシェアしていないのだ。
    プロフェッショナルが負うべき責任。
     ぼくは何かおかしいことをいっているだろうか。映画の物語のなかで「正しい判断」を行う責任はその物語の登場人物が負っているのであって、単なる一観客が負うべきものではないといえば、それもまたその通りだ。
     だが、少なくとも卑しくもプロフェッショナルな批評家たるものは、そのようなあたりまえの逃げ口上に終始して非現実的な「正論」を唱えて良しとするのではなく、よりシビアに自分を追い詰めていくべきではないのか。
     そう、作品の外にいる立場なら、物語のメタレベルに立つその気なら、どのような「正論」でも語ることができる。最後まであきらめるな、もっと努力しろ、簡単に決めつけるな、幻想を捨て去れ――何とでもいえるだろう。
     そして、また、そのそれぞれが何もかもたしかにお説ごもっともな話ではあるのだ。だが、それはすべて、物語の「外」から「内」へ投げかけられた、いわば野次馬的な意見でしかない。
     批評家が単なる観客、野次馬を超越した意見を述べるためには、物語のなかの登場人物と切迫した状況を共有していなければならないはずなのだ。
     そのリアリティのもと、それでもなお、自分の意見としてそれは間違えていると叫ぶのなら、たとえより悲惨な結果につながったかもしれないとしてもあくまで「第三の選択肢」を模索しつづけるべきだと主張するのなら、それはまさに一聴に値する意見だと感じる。
     また、そのリアリティそのものが幻想なのだ、ほんとうの現実はもっと気楽で、多様な選択肢が用意されているものなのだと主張することも可能だろう。
     問題は、そういった、見ようによってポジティヴともネガティヴともいえる価値観が、じっさいに物語で採用された価値観と比べ、人の心に響くものであるかどうかである。
     もしその意見がまったく人心を打たないのなら、そのときは作品ではなく批評家こそが「時代のリアリティ」を読み損ねていることになる。批評家にはそういうふうに自分自身を賭ける勇気が必要だろう。
    「血を流しながら」批評せよ。
     かつて、宮崎駿はその昔に「弟子」であった庵野秀明について「庵野は血を流しながら映画を作る」と語ったという。しかし、ぼくにはそれはひとり映像界の鬼才である庵野だけのことではなく、程度の差こそあれ、多くのクリエイターに共通する話だと考える。
     「作り手側」はいつも血を流しながら作品を作っている。物語のなかの登場人物も、それが何かしら優れた作品であるなら、多くの場合、血を流しながら判断を下している。
     それでは「受け手側」はどうだろうか。はたして血を流しながら作品を語っているといえるのか。むろん、単なる一観客に「ちゃんと血の通った批評をしろ」と詰め寄ることはできないだろう。
     だが、批評家は違う。プロフェッショナルな批評家は、少なくとも自分が裁断する作品を作ったクリエイターたちと同じくらいには血を流しているべきだ。ぼくはそう思う。
     杉田氏の批評は、あえて明言してしまうのなら、いかにも血の流し方が甘いように思えるのである。ぼくの目には、いかにも自分を安全圏に置いてどうとでもいえるような正論を語っている印象がつよい。
     そのようなやり方では、いかにロジカルな意味で「正しい」としても、有意義な批評とはいいがいように思う。それはつまりただ単に「正しくあることが容易な」次元に留まっていることしか意味していないと考えられるからだ。
     むろん、それはいままさに「批評家に対する批判」を繰り広げているぼくにしてもいえることではある。したがって、ぼく自身もまた、はたして自ら血を流し、血の通った言説を展開できているか、シビアに問われなければならないだろう。
     その上でいうなら、ぼくは血を流して話を続けるつもりである。この記事を単なる「上から目線での批判」に終わらせることはしない。ぼくはそうしたい。じっさいにそうできているかどうかは、読者諸氏ひとりひとりにご確認いただきたい。
     とりあえず血を流す覚悟を持っているつもりであることと、ほんとうに血を流しているかはまったくべつのことなのだから。
    杉田氏による『進撃の巨人』評の傲慢。
     さて、ようやく『進撃の巨人』批評の話に移る。ここまでのぼくの杉田氏への批判の根幹は「物語のメタレベルから、傲慢にも一般論としての「正論」を述べているに過ぎない」というものである。
     それでは、この『進撃の巨人』論においてはそれはどう違っているのだろうか。ざんねんながら、ぼくにはあまり違っているようには思えない。
     杉田氏はあい変わらず非常に不遜な議論を繰り広げている、そしてほとんど血を流すことなく「正論」を語っている。かれの言説は、ぼくの(あるいは歪んでいるかもしれない)目にはそのように映る。
     それは決して「その態度が偉そう」ということではなく、より本質的なところで謙虚さに欠けているという問題だ。
     とはいえ、杉田氏の議論はじっさい、説得的なものである。かれは『進撃の巨人』は政治的な物語であると語る。まったく賛成だ。『進撃の巨人』が、たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』などと違うのは、その高度な政治描写にあるだろう。
     しかも、その政治性とは、真実が二転三転し、何がほんとうなのかまったく判断できないという「ポストモダンにしてポストデモクラシー」なストーリーに宿っていることも指摘している。
     これもまた、そのような言葉を選ぶかどうかはともかく、間違いのないところだろう。『進撃の巨人』にはどこか一流のミステリーのようなところがあって、その時点で「善」であったり「悪」であるように見えたものが、後でまったく違う姿に逆転するといったことが次々に起こる。
     そこにこそ、この作品の魅力があるわけだが、それは同時に「いったい何が真実なのか?」、その点を最後の最後までたしかめることができないということもであって、だからこそ、作中にはいつも一種の相対主義的なニヒリズムに陥りかねないような絶望的な雰囲気がただよっているのだ。
     そこまでは納得できる見解だ。ぼくがついていけなくなるのは、その先である。
    長い長い引用。
     杉田氏はまた書いている。いくらか長くなるが、大切なポイントなので、引用させてもらおう。

    その点では、むしろポイントだったのは、最後の結論に至る手前の、次のような可能性ではなかったか――地ならしによって人類殲滅戦争へと突き進むエレンを食い止めようとするミカサやアルミンたちの態度は、エレンとの友情を信じながら、敵対勢力との対話を尊重する、という対話型の平和主義であり、つねにどこか、甘っちょろい不徹底さを感じさせるものだった。それはエレンの覚悟や決断に匹敵していない、と思われていた。
    しかし、最終回から振り返ってみると、そこには、『進撃の巨人』の連載の積み重ねによってはじめて生まれつつあった、新しい可能性があったように考えられる。
    すなわち、第127話、第128話あたりの、アルミン、ミカサ、ジャン、コニー、リヴァイ、ハンジ、ライナー、アニ、ピーク、マガト、ガビ、ファルコ、イェレナ、オニャンコポンたちが一時的に形成する集団性に私は注目してみたい。
    その場には、火を囲んで、敵と味方、仲間を殺された者、仲間を殺した物、裏切った者、裏切られた者などが複雑に重層的に入り乱れて、異様なまでに混乱した、わちゃわちゃした協力関係(デモクラシー)が形成されつつあった。ここに新しい重要な可能性があったのではないか。彼らは同じ普遍的な正義感を共有しているわけでもないし、何らかのコンセンサスがあるのかも疑わしい。彼らにとっては、憎み合うことと話し合うことがもはや見分けがたいのだ。
    重要なのは、それでも彼らが、おそらく次のような最小限の前提を分かち合っていた、ということだ。マガト元帥の言葉に耳をすまそう。
    「昨夜の…私の態度を詫びたい/我々は…間違っていた/軽々しくも正義を語ったことをだ…/この期に及んでまだ…自らを正当化しようと醜くも足掻いた/卑劣なマーレそのものである自分自身を直視することを恐れたからだ(略)/この…血に塗れた愚かな歴史を忘れることなく伝える責任はある/エレン・イェーガーはすべてを消し去るつもりだ…/それは許せない/愚かな行いから目を逸らし続ける限り地獄は終わらない」(第128話)
    第127話、第128話あたりに開かれかけていたのは、いわば、愚かさをわかちあう人たちの協同的な関係、あるいは、愚か者たちのデモクラシー(無知と無能のデモクラシー)とでも呼ぶような何かだったのではないか。

    「愚か者たちのデモクラシー」という切実な呉越同舟。
     「愚か者たちのデモクラシー」。これもまた、『進撃の巨人』終盤の「わちゃわちゃした」呉越同舟的なグループの雰囲気を、なかなかに的確に表現した造語であるかもしれない。
     ぼくは、物語のクライマックスにおけるアルミンたちの集団が、その言葉にふさわしい可能性を示していたことを認めるものである。
     アルミンたちは、その時点で、何らシェアしあうべき「正義」を持ってはいなかった。かれらが共通して持っていたのは「自分自身の無知と無能の痛切な自覚」ともいうべき「愚かさの意識」だけであり、その意味でかれらのパーティはたしかに一群の「愚か者たちのデモクラシー」を成している。なるほど、そうかもしれない。
     そこまでは、わかる。ただ、ぼくがそれでも杉田氏の見解に納得しがたいものを感じるのは、その「愚か者たちのデモクラシー」が成立するためには、ひとつの削り取ることのできない条件が存在していると考えるからだ。
     これもごくあたりまえのことかもしれないが、「愚か者たちのデモクラシー」を成り立たせるためには、「自分はほんとうにどうしようもない愚か者である」という苦い自己認識と、「それでもなお、より良い選択を考えつづけることをやめはしない」という強烈な意思が併存している必要がある。そのいずれが欠落していてもこの「デモクラシー」は成立しない。
     それでは、この両者は、アルミンたちのなかできちんと併存できているだろうか? ひとまずは、できていると見て良いように思われる。そのとき一時だけのことではあるかもしれないが、かれらは世界の滅亡を目前にして、ごく謙虚に自分の愚かさを省みている。
     自分は、自分たちは正しくなどない、正義の見方などではない、ただのひとりの愚かな過ちを犯した人間であるに過ぎないのだ、と。そして、その上でそれでもエレンの虐殺行為は認められないと考えているわけである。
     その、切迫した言葉たちよ。ここには最も切実な民主主義がある。素直にそう思う。 
  • 『氷と炎の歌』、『ダークソウル』、ダークファンタジーの伝統とは。

    2021-06-20 16:23  
    300pt
     ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』、ゲーム『ダークソウル』など、さまざまなメディアで世界的に流行を続けるダークファンタジー。そのジャンルはどのような歴史と特徴を持っているのか、ひと通りのことを解説しました。
    『ENDER LILIES』が面白そうだ。
     明後日の6月22日、『ENDER LILIES: Quietus of the Knights』が発売される。「死の雨」によって壊滅した王国を舞台に、少女と騎士の昏い冒険が描かれる、とか。
     「2Dグラフィックのマップ探索型アクションゲーム」を意味する「メトロイドヴァニア」と呼ばれるジャンルの作品で、バリバリのダークファンタジーだ。
     「メトロイドヴァニア」という言葉は『メトロイド』+『キャッスルヴァニア(悪魔城ドラキュラ)』から来ているのだが、まあ、ようするにそういうゲームであるらしい。
     すでに先行版が発売されていて大好評だし、何よりぼくはこの手のダークファンタジーが大好物なので、ぜひプレイしたいと思う。
     いま、ゲームの世界に留まらず、映画でもマンガでもダークファンタジーは大流行だ。否、もはや流行というよりメジャーな一ジャンルとして印象した印象すらある。
     世界的に見て、そのなかでも最も大きいタイトルはやはり『ゲーム・オブ・スローンズ』だろう。

     ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』を原作に、「七王国の玉座」を狙い合うさまざまな野心家たちの策謀と戦いを、ドラゴンやゾンビといったファンタジー的なキャラクターをも絡めて描写したテレビドラマ市場に冠たる大傑作にして大ヒット作である。

     原作も優れた傑作にして世界的なベストセラーだが、その人気が広まったのはやはり映像化されたことが大きいと思う。
     また、ゲームの世界では、ダークジャンファジーと呼ぶべき名作が山のように発売されている。
     どこからどこまでをそう呼ぶべきなのかは微妙なところだが、たとえば日本のゲームである『ダークソウル』などは、世界的に熱狂的なファンを抱えていて、「ソウルライク」と呼ばれるゲームもたくさん出ている。

     『ドラゴンクエスト』の新作もどうやらダークファンタジー風味の作品になるらしい。このダークファンタジーのブームはどこから来ているのか、なるべくわかりやすく解説してみよう。
    ダークファンタジーとゴシックロマンス。
     歴史的に見れば、ダークファンタジーと呼ぶべき作品は、そのときはそう呼ばれてはいなかったにしても、じつは大昔からあった。
     そもそも世界中の神話やお伽噺などがかなりダークな性質を持っていることは広く知られている通りであるわけで、そういう意味では数千年前からダークファンタジーは存在していたということもできるかもしれない。
     ただ、それだけではあまりにざっくりした説明になる。より近代的な意味でのダークファンタジーに注目してみよう。
     おそらく、いまのダークファンタジーにとって先祖ともいうべき作品があるとするなら、それはいわゆる「ゴシックロマンス」の小説たちだろう。
     ウォルポールの『オトラント城奇譚』に始まる18世紀のロマンス小説は、たしかに狭い意味でのファンタジーとはいえないだろうが、その昏い魂を凝らせたような展開の数々、また荒涼たる風景の描写は、非常にダークファンタジー的である。
     エドガー・アラン・ポーという例外はあるにしても、その大半がいまの目から見ると冗長で無駄が多いように思えるところも含めて、ダークファンタジーはゴシックロマンスから生まれた、といっても良いものと思われる。
     それらの作品については『ゴシックハート』、『ゴシックスピリット』といった解説書にくわしい。

     悪の魅力と異国情緒(オリエンタリズム)あふれる『マンク』などは、今日のたとえば『アラビアの夜の種族』の遠い祖先といえるかもしれない。

     ただ、これらの作品は一般にホラーの先祖とみなされていて、ダークファンタジーとのつながりを考える人は少ないだろう。
     また、その雰囲気はいかにもダークファンタジーと似ているとしても、もっと直接的にいまのダークファンタジーと関係があるというものでもない。
     その上、18世紀はあまりにも遠い。したがって、よりダイレクトにダークファンタジーといえる作品たちは、20世紀初頭のアメリカに見ることができるはずである。
    100年前のヒロイックファンタジー。
     いまの視点から振り返ってみると、エンターテインメントとしてのダークファンタジーの成立は、いまから100年ほど前、20世紀前半の頃なのではないかと思えて来るのである。
     『ウィアード・テールズ』などといったアメリカの娯楽雑誌で、いわゆる「パルプフィクション」として誕生した「ヒロイックファンタジー」のうちのいくつかがそれだ。
     いまではほとんどは取るに足りない凡庸な作品に過ぎなかったともいわれるヒロイックファンタジーだが、なかには素晴らしい名作もあった。
     たとえば、ロバート・E・ハワードやC・L・ムーアなどの作家たちが物した『英雄コナン』や『ジレル・オブ・ジョイリー』などのシリーズがそれである。そのなかでも『コナン』のシリーズはいまに至るも名作中の名作として知られている。

     これはいまから一万年以上も昔の時代に、頽廃した文明のなかで活躍した野生児「コナン」を主人公とした物語で、かなりダークでデカダンでエロティックな作品群である。
     その即物性というか、ある種、プラグマティズム的な雰囲気も含めて、ある意味では、『コナン』は最初期のダークファンタジーといえるかもしれない。
     これもまた、日本では100年以上が過ぎたいまでも新刊として読むことができる。いかに優れたシリーズであるかがわかろうというものだろう。
     一方、当時のヒロイックファンタジー作家にはめずらしい女性作家であるムーアは、その傑出した感性で、きわめて官能的なファンタジーを綴った。彼女の「ジレル」や「ノースウェスト・スミス」のシリーズはいまでも読まれている。
     また、「ジレル」にしろ「ノースウェスト・スミス」にしろ、「やおい趣味」的なフレーバーが濃厚で、そのような意味でも興味深い作品なのである。
     そして、それらの作品よりさらにダークでデカダンな作品を物したのが、クラーク・アシュトン・スミスだ。
     
  • 「ディオのオンラインサロン」か? 「涼宮ハルヒのパラドックス」か?

    2021-06-19 02:51  
    300pt
    鍵アカに閉じこもるイケダハヤト。
     イケダハヤト氏がTwitterを閉じた。
     ひと口に「閉じる」といっても色々あるわけだが、この場合は「自分のアカウントに鍵をかけ、外からは見れない状態にする」ことを意味している。
     一時期は日本でも指折りに著名なブロガー、あるいは「インフルエンサー」として一世を風靡し、ブログで何千万円儲けただのといった景気の良い話をしてきたわけだが、巨額の仮想通貨がわずかな期間で無価値に落ちる暴落事件によって、事実上、命脈を絶たれた模様である。
     いままでどれほどの非難と嘲笑を浴びせられようとも平気で通しているように見えた人物だけに、その零落はきわめて印象的だ。
     が、この記事はべつだんイケダ氏を批判する性質のものではない。そうではなく、かれのようなインフルエンサービジネスがなぜ成立するのかというところから話を始めたいのだ。
     この場合、「インフルエンサー」とはネットで巨大な影響力を持つ人材一般を指す。多くの場合、かれらはネットで活動する有象無象たちのあこがれと尊敬と嫉妬と敵意の対象であり、じっさいにそのひと言で人生を変えられてしまう人もいる。
     たとえばイケダ氏の場合は「額に汗して働く」地味な生き方を嘲り、ネットなら簡単に巨万の富が作れるようなことを語る傾向があり、その言葉に動かされてかれのオンラインサロンに入った人もいるようである。
     しかし、よくよく考えてみるなら、インフルエンサーとはほんとうは「何者」なのかさっぱりわからない人たちだ。とにかく「何者か」であることはたしかなのだろうが、それでは具体的に何を生み出したのかというと、さっぱりわからない。
     どうやらかれらの存在意義は情報を右から左へ動かすことにあって、いくらか例外はあるにしろ、自分で何らかの作品を創り出すといった性質の仕事をしているわけではないらしい。
     そういうインフルエンサーたちがある種、「時代の寵児」として扱われるのも、いかにもインターネット時代らしいことかもしれない。
    オンラインサロンと「何者問題」。
     ただ、ぼくはべつだん、インフルエンサーが悪いとは思わない。ぼく自身、有料ブログを運営しているわけであり、「ホリエモン」やイケダハヤト氏のオンラインサロンビジネスも、ともかくも合法である限り、あえて非難するほどのものでもないだろうと思っている。
     ただ、そこに吸い寄せられた人が幸せになれるかというと、否定的にならざるを得ないこともほんとうだ。
     インフルエンサーと呼ばれる人たちは一般に、そのよしあしはともかくとして自分の力で「成り上がった」のであって、だれかのオンラインサロンに入ったから自分もインフルエンサーになれた、といった話は聞かない。
     つまり、高額のお金を払ってインフルエンサーの友達とか、インフルエンサーの知り合いになれたとしても、それはあくまでそこまでのことであって、自分自身がそれで「何者か」になれるわけではないのである。
     あたりまえといえばあたりまえのことだが、このごく当然とも思える道理が、案外と通じない人もいる。そういう人たちは「何者か」が運営するオンラインサロンに入りさえすれば、自分もまた「何者か」になるのではないかと素朴に考えているようだ。
     もちろん、決してわからない心理ではないし、上からの視点でそういう人を見下そうとは思わない。
     「何者かになりたい」、無名の、凡庸な自分で終わりたくない。そういった想いは、ときとして人をつよく突き動かし、まさに「何者か」にのし上がるためのモチベーションを生み出すこともあるだろう。
     ただ、それがあまりに簡単に、一定の努力や時間を費やすことなく「結果だけ」を求めることとなると、そういう人は容易にだれかの目的のために利用され、搾取されることになる。
     精神科医の熊代亨氏は、そういった「何者かになりたい」という感情が政治やビジネスに活用される事態のことを、「何者問題」と呼んでいる。なかなか卓抜なネーミングなのではないだろうか。
    ・シロクマ先生いわく。
     熊代氏は書く。

    もともと、「何者かになりたい」願いや「何者にもなれない」悩みは、若者がアイデンティティを獲得しながら技能や地位を獲得していくための有効なモチベーション源だった。現在でも若者の少なくない割合が、こうした願いや悩みをモチベーション源として巧みに活用し、アチーブメントへと結びつけてはいるだろう。
    だが強力なモチベーション源は、ある種の弱点として狙いやすくもあり、ここまで述べてきたように、ビジネスにハックされたり政治に動員されたりする際のフックとして利用されてもいる。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84045

     何者かになろうとすることそのものはかならずしも悪いことではない、だが、若者たちのそのような未熟な衝動は、しばしば「悪い大人たち」にハックされ、かれらの利益になるよう誘導されることとなる、ということだろう。
     この社会には、人々の欲望を煽り、それを自分の利益になるよう巧妙に導いていくような「悪い大人たち」がたくさんいる。
     かれらはときとしてこの腐敗し切った社会にうんざりしている若者たちにとってヒーローのように見えるわけだが、その実、じっさいには己の利益のことしか考えていない。
     そういった人たちにハマってしまうと、多額の金銭を吸い取られることになることもめずらしくないだろう。
     いや、単に金銭だけで済むのならまだマシなほうかもしれない。いったん悪質なカルト的集団にハマってしまったら最後、人生そのものを吸い取られてしまうことも十分にありえる。
     そこら辺は漫画『テロール教授の怪しい授業』に描かれている通りである。この社会には至るところに落とし穴がある。
    ・「安心するため」に「何者か」になりたい?
     しかし、それでは、そもそもなぜ人は「何者か」になりたいと思うのだろう? なぜ素顔の自分自身では満足できないのだろうか? 有名になりたいのか? だれかにちやほやされたいのか?
     これは、はっきりわかるようでいて、微妙にわからないところが残る問題だ。
     「何者かになりたい」という衝動には、必ずしも欲得とはマッチしない一面がある。より一般的な「幸せ」を得るためだけなら、ただひたすら平凡に、地道に暮らしていっても良いはずだ。凡庸だが幸福に見える人間はいくらでもいる。それなのに、なぜ――。
     と、LINEで話していたら、友人の哲学さんが、かの『ジョジョの奇妙な冒険』の一節を引き合いに出して説明してくれた。作中の「悪の帝王」ディオ・ブランドーが正義のために戦うアブドゥルやポルナレフといった人物を自分の配下ににしようと誘惑する場面だ。
     ディオは語る。人間は「安心」を得るために生きている。自分に忠誠を誓えば永遠の安心感を与えてやるぞ、と。

     アブドゥルもポルナレフもこの誘惑を敢然と拒絶してあくまで正義の戦いを続けるわけだが、しかし、かれらほどの人間ですらいっとき、この甘い誘惑に魅力を感じることを止められない。人にとって「安心」とはそれほどまでに価値があるものなのだ。
     哲学さんによると、多くの人がインフルエンサーのオンラインサロンに惹きつけられるのも同じ理由だという。つまり、何らかの意味での「安心」を求めているのだと。
     なるほど、説得力がある。たしかに人は「安心」を求める生き物だ。特に「アイデンティティのゆらぎ」に悩む若者は、「確固たる自分」を求めてやまない。そのためには「他人からの承認」がどうしても必要になるということなのだろう。
     「ディオのオンラインサロン」に入会した者は、かれの「優しい言葉」ひとつを受け取るためなら何でもするようになる。「有名人からのお褒めの言葉」には、それだけの値打ちがある。
    ・だれかに自分を承認してもらいたいという切なる願い。
     ぼくなりの言葉に置き換えるならこうだ。「人は自分で自分自身を肯定できないから、他人に肯定してもらえる立場になりたがる」。つまり、その立場こそが「何者か」である。「何者か」とは、無条件に人から肯定してもらえる立場のことをいうのだ。
     「何者でもない」ことがなぜ辛いのか。あえてきわめて端的にいってしまうのなら、だれも褒めてくれないからである。だれも承認してくれないからなのだ。
     それはあまりにつまらないことに思えるかもしれないが、じつはこの「だれからも認めてもらえない」ということは、人間の精神をズタズタにひき裂くほど辛いことなのだ。それが、それだけが原因で自殺してしまう人だって少なくない。
     人は、自分自身ではなかなか自分の価値を決めることができない。だから、他人から認めてもらいたがる。ネットでは時々、「バカッター」などと呼ばれる愚かな目立ちたがり屋たちが話題になるが、かれらにしてみればどれほど愚かしいことであっても、目立つことに意味があるのだ。
     目立たなければ、そして凡庸な群衆のなかに埋没してしまえば、だれからも注目されず、当然、褒められることもない。それでは、自分の価値を発見してもらうこともできない。
     その苦痛に比べれば、ほかのあらゆる道理が意味をなさないくらい、かれらの「何者問題」は深刻だと考えるべきである。
     人はだれかに愛してほしい、認めてほしい、肯定してほしいと思う。それはきわめて普遍的な心理であり、たまたまいまの時代に「何者問題」として噴出しているに過ぎないのかもしれない。
     しかし、一定以上の時間や労力を費やすことなくインスタントに「何者か」になろうとすることは、「ディオのオンライサロン」のような、あるいはオウム真理教のような悪辣なカルトに利用される危険を秘めている。
     「自分に従えば何者かにしてやるぞ」という「何者か」の誘惑ほど危険なものはない。それでも、その言葉はどこまでも甘く、優しげだ。
    涼宮ハルヒの矛盾と碇シンジの成熟。
     京都アニメーションが映像化して、ライトノベル史上屈指の大ヒット作となった『涼宮ハルヒの憂鬱』は、自分の世界の凡庸さに耐え切れない少女の物語だ。

     ハルヒは自己存在の卑小さに悩んでいる。彼女はあるとき、何万人もの人が集まった場所へ行って、その膨大な人間のなかで特別ではないワン・オブ・ゼムであるに過ぎない自分に気付いてしまったのである。
     世の中には何十億という人間がいる。その膨大な集団のなかで、とくべつ目立ちもせず、また肯定もされない自分、その矮小さをハルヒは発見したのだ。
     それは「もしかしたら自分などいなくなってしまったとしても、だれにも気づかれないのではないか」という存在不安との遭遇だったともいえるだろう。
     じつは彼女はこの世界そのものを創り出した造物主であり、かぎりなく特別な存在なのだが、彼女自身がその事実を知ることはない。そのためにハルヒはいつもいらだっていて、少しでも何か特別なことを求めているのである。
     「じっさいには神のように特別で万能なのに、いつも特別になりたいといらだつしかない」。この涼宮ハルヒのパラドックスは、じっさいにどれほど特別であっても、そのことを自覚できないかぎり、なんの意味もないことを示している。
     ようするに、人が「安心」を得るためには、じっさいに特別なのかどうかが問題なのではなく、自分をどう認識するかが重要なのだ。
     だから、「何者問題」を解決する最も成熟した方法は、どうにかしてインスタントに「何者か」に成り上がることではなく、「まったく何者でもない」自分を認め、許し、愛し、肯定することなのである。
     『嫌われる勇気』で話題になったアドラー心理学でいわれるように、だれからも肯定されなくても自分を肯定できるように生きること。つまり、大人になることである。
     そういえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジは、「世界の中心」としてのヒーローという幼児的な万能感を満たす立場から、「何者でもない」ひとりの大人になったのだった。
     いかにも逆説的だが、「何者でもない」、平凡な存在としての自分を自ら愛しみ、無限に肯定することができるのなら、あなたはその意味でもはや「何者か」であり、ディオのオンラインサロンも涼宮ハルヒのパラドックスも知ったことではないだろう。
     とはいえ、それはなんとむずかしいことだろうか。それでも、「何者かになりたい」子供でいるかぎり、その欲望を見透かしただれかに搾取されつづける。
     その意味では、平凡な自分を楽しみ尽くす自在なライフスタイルこそ、オンラインサロンのインフルエンサーたちが教えてくれない、理想の大人のあり方なのかもしれない。ぼくもそういうふうに生きていきたいものだ。 
  • 映画『映画大好きポンポさん』を庵野秀明や宮崎駿と比較し語る。

    2021-06-17 01:40  
    300pt
    映画版『映画大好きポンポさん』が腑に落ちない。

     先日、すでに各地で好評を集める『映画大好きポンポさん』を観て来たのですが、いまひとつ自分のなかでどう評価するべきなのか納得が行っていないところがあって、考え込んでしまいました。
     特にクライマックスのあたりをどう解釈するべきなのか、正直、良くわからなかったんですね。
     通常、映画作りテーマの作品でも光があたることが少ない「編集」という作業にスポットライトをあてていることはわかるのだけれど、それが何を意味しているのか、主人公のジーンくんが何を選び、何を捨てているのか、明確には理解できなかった。
     そのあたりのとまどいは哲学さんと放送したYouTubeを聴いていただければわかるかと思います。
    https://youtu.be/Ivcr1xm0XGs
     思いっきり腑に落ちない感じで話している。
     そのことについて語るまえにまずは物語のあらすじから話をしますと、この映画の主人公は映画の都ニャリウッドへやって来て天才プロデューサー・ポンポさんのアシスタントをしている青年ジーン・フィニ。
     「えっ、ポンポさんが主役じゃないの!?」と思われるかもしれませんが、ポンポさんはあくまでそのジーンくんが召使いのごとく忠実に仕える美少女プロデューサー。『ドラえもん』でいえばジーンくんがのび太、ポンポさんがドラえもんの役どころですね。
     ジーンくんは、伝説の超大物映画プロデューサーから地盤も人脈も才能もすべて受け継いだニャリウッドいちの敏腕プロデューサーであるポンポさんのもと、映画作りのノウハウを学んでいくのですが、あるとき、ポンポさんが書いた脚本を映画化するというビッグチャンスが舞い込んできて――というところからストーリーは始まります。
     まあ、おおまかなあらすじはほぼ原作通りですね。少なくとも前半前半のあたりはほぼ原作そのまま。原作に出てこないキャラクターが顔を見せたりして気になるところもあったのですが、原作既読のぼくは「まあまあかな」などと偉そうに思いつつ、スムーズに見れました。
     ところが、映画は後半に入ると、お話は大きく原作から逸脱しはじめます。
    いったい「それ」は何を意味しているのか?
     それは、具体的には、映画の撮影が終わったあと、監督であるジーンくんが自ら映像を編集するくだりです。原作ではわずか数ページしかないこの場面が、映画では物語のクライマックスとして長々と語られます。
     じつはぼくはここがわからなかったんですよね。どう考えたら良いのか、どうにも釈然としなかった。良い話のような気はするのだけれど、いまひとつ心から納得はできないというか、ナチュラルに受け止めることができなかったのです。
     というのも、この後半で、ジーンくんはいままで撮った膨大なシーンを片端からカットしていくのですね。
     良い映画を作るためには不要なシーンを捨てなければならないという信念のもと、いままで苦労して撮ったシーンの数々を捨て去っていくわけなのですが、それでは、そうやって「いらないもの」を捨てていったあとに残るものは何なのか? かれにとっての選択の基準とはどういうことなのか? そこがいまひとつわからなかった。ピンと来なかったんです。
     良い映画を作り出すためには、スタッフがどれだけ苦労して撮ったシーンであっても、捨てなければならないことはある。それはよくわかる。その通りだと思う。でも、それでは、その良い映画、優れた作品とは何なのか?
     この『ポンポさん』という映画は一種のメタ構造になっていて、物語が進んでいくにつれ、作中のジーンくんと、作中作(映画内映画)『Meister』の主人公、天才指揮者のダルベールとが重なり合っていくようになっているのですが、そのダルベールが最後に指揮に成功する「アリア」とはどのような性質のものなのか? ええ、白状しますと、もうさっぱり理解できませんでした。
     作中の設定によると、アリアとは感情を乗せなければ表現できない曲であり、孤独で尊大なダルベールはいったんその指揮に失敗してしまいます。
     その後、ヒロインのリリィと出逢って過去の感情や思い出を取り戻し、再度挑戦して成功するのですが、そのことは具体的に何を意味しているのか? ここがどうしても判然としなかった。
    二度目の鑑賞に挑んでみた。
     そこで、しかたないので、もういちど映画館に行って同じ映画を見てきました! 日々、赤貧にあえぐぼくとしては同じ映画を二度も見に行くというのはきわめてめずらしいことです。それくらい、この映画のことが気になっていたのですね。
     ぼくがこの映画について抱いていた「謎」とはこのようなものでした。作中で、ダルベールは「感情」がなければ指揮できないアリアを成功させる。ということは、かれはリリィと出逢ったあと、「感情や思い出」を取り戻したと解釈できるはず。
     したがって、そのダルベールと重ね合わせられて描かれているジーンくんもまた「感情や思い出」、いい換えるなら「愛」を取り戻したと見ることができるはずなのだけれど、作中の描写を見ると、かれはひたすら「友情」や「生活」といったものをカットしていっている。
     これはなぜなのか? いったいジーンくんは捨てているのか得ているのか、どちらなのか? うーん、わからないよう、と。
     どうも同じような感想を抱いた人はやはりいたようで、某映画感想サイトにはこのような意見が載っています。

    「一番気になったのが追加撮影からのジーン。
    まず追加撮影で何を撮りたかったのかが、イマイチピンとこない。
    何よりマイスターのダルベールは作中劇でリリーと出会い、忘れてたものを取り戻し、それを音楽に還元したのでは?
    ジーンが映画以外を削ぎ落として作品を完成させたのならそこが一致してないのがモヤモヤする点だった。
    結局削ぎ落とすのか、拾うのかがわからなかった。
    「アリア」というワードも急に出てきた感じがしてしまう。後半にテーマ(情報量)が増えてちょっと集中しにくかった。」
    https://eiga.com/movie/91732/review/02568914/
     そうそう、ぼくもそう思ったのよ。ジーンくんは自分にとって大切なその他のものを捨てて、犠牲にして、映画を選んだように見える。
     しかし、作中作のダルベールは「忘れていたもの」を取り戻して、アリアの指揮を成功させている。その意味でふたりは同じではない。それにもかかわらず、かれらは重ねあわされて演出されている。これは矛盾ではないのか、と。
    ジーンくんは「映画の鬼」になったのか?
     もし、ジーンくんは映画を作るという目的のためだけにすべてを捨て去って、ただ最高の映画を撮ることだけを目指す一匹の修羅になり果てただ、ということならそれで良いし、それはそれで凄い話なのですが、どうもそういうふうにも見えない。
     創造や芸術の傲慢と狂気を描く、たとえば芥川龍之介の「地獄変」とか、そういう系統の物語だとは思えないのです。
     たしかにかれは自らの「狂気(映画作成を至上目的とする傲慢なエゴ)」の命じるまま、「映画にとって不要なもの」すべてをカットし、自らの人生を重ね合わされた映画を編集しつづけるのですが、論理的に考えるなら、かれが最終的に「これがぼくのアリアだ!」と叫ぶほどの傑作を作ることができたのは、そこに「愛」があったからであるはず。
     そうでなければ、「ただの傑作」はともかく、「かれにとってのアリア」は撮ることができなかったと思うのですね。
     LINEで色々と話をしたところ、狂ったように編集にこだわるジーンくんの姿に、『シン・エヴァ』の庵野秀明さんを重ね合わせて見た人もいたのですが、ぼくが思い出したのはむしろ『かぐや姫の物語』の高畑勲さんでした。
     高畑さんは映画を一本作るために、ほんとうに人が死んでしまうところまで追い込むような作り方をしているわけですよね。作品至上主義をつらぬいて、それでほんとうに死者が出ている、ということはまことしやかに語られているところです。
     これはもう、映画の鬼というか修羅というか、そういう境地であるわけですが、ジーンくんがめざしたのもそういうところなのか。それだったらそれで凄いけれど、どうにもそうは思えない。
     いや、高畑勲ではなく、宮崎駿の『風立ちぬ』でもかまいません。あの映画は、おれは自分が美しいと思うもののためなら人も殺すし国も滅ぼすんだ、良い仕事をするとはそういうことでしかありえないんだ、というテーマであったように思います。
     『風立ちぬ』はそれによってものすごい傑作になっているのですが、ジーンくんもあの映画のなかの堀越二郎と同じような道を往こうとしているのか?
    ジーンくんはなぜ「かれにとってのアリア」を撮れたのか?
     そう、ジーンくんが捨てて捨てて、最後に残そうとしたものは何だったのか?と思ったのですね。作中作のダルベールの場合、それは家族との思い出、家族への愛だった。それでは、その作中作を撮っているジーンくんにとっては何だったのか?
     映画はかれとダルベールが重なるように作られているので、かれにもまた何らかの愛があるはずであるという結論が出て来そうなのだけれど、そうなのか? ジーンくんは映画しか愛していない男だったのではないのか? そんなかれの「アリア」とはどのようなものなのか? そこがどうしても解釈し切れなかった。
     ダルベールは家族への愛があったから感情がこもるアリアを指揮できた。それはわかる。理解できる。では、ジーンくんはなぜかれにとってのアリアである『Meister』という映画を作れたのか? そこがわからない。
     ただ映画しか愛していない男にダルベールにとってのアリアに相当するような映画が作れるのか?
     ここで気になるのがジーンくんがすべての撮影が終わったあと、スケジュールを延長してまで追加撮影するシーンです。
     それはダルベールと家族との確執と別れの場面であるわけなのですが、これはつまり、ジーンくんはダルベールが家族を愛していることを説明するシーンがこの映画には必要不可欠だ、それがダルベールの音楽の核心なのだから、とそう思ってその場面を撮影したのだと見るべきだと思うのです。
     しかし、それだったらこの『映画大好きポンポさん』という映画にも、ジーンくんにとってのコアのところにあるものを説明する箇所が必要なんじゃないの?と思ったんですよ。
     まあ、随分と長々と話してしまいましたが、ぼくはその点がどうにも納得がいかなくて、それでこの映画の評価を保留していたわけです。「どうやら傑作のような気はするけれど、まだ断定できないぞ」と。