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最後のパスを打つのはだれか? 宇宙開発という至上の夢。
2014-05-18 02:1451pt
ひさしぶりに何となくブロマガ著名人枠ランキングを見てみたら、有料部門の17位に入っていました。おおー。嬉しいな。まあ、あしたには落ちているかもしれないけれど、いいじゃないですか、一時の栄華?でも。
現在、著名人枠のブロマガがおそらく数百か、1000を超えるかな?くらいあるはずで、そのなかで17位というのはそれなりに偉いんじゃないかしらん。
そういうわけで、ブロマガ購読者数は少しずつ少しずつ増えていっています。というか、毎日マジメに書けば増えるんだよね。もうずっと前からわかっているシンプルな法則なんだけれど、これがなかなか実践しつづけられないんだよな。
まあでも、平均して1日1記事以上は書きたいところです。何といってもお金をもらって書いているわけですからね。もう少しマジメに運営しなければ……。
さて、ぼくはといえばあい変わらず『ソードアート・オンライン』をプレイしているのですが、長大な物語に疲れ果てて、合間に漫画を読んだりしています。
石渡治『パスポートブルー』。このあいだペトロニウスさんが絶賛していた作品ですね。いやー、なるほど、これは面白い。あと、やっぱりロケットが出て来る『ロケットマン』も全巻買ってちょっと読み返してみた。うん、これもすばらしいですね。
『パスポートブルー』も『ロケットマン』も、いうなれば「宇宙開発もの」に属する作品です。『MOONLIGHT MILE』とか、『プラネテス』とか、あと、ぼくはなんと未読だったりする『宇宙兄弟』とかもこのジャンルに入ることでしょう。
宇宙開発。それは人類の見果てぬ夢であり、最高のフロンティア・スピリットの現れです。『パスポートブルー』はひさしぶりにその興奮を味わわせてくれました。
いま、ぼくたちはおそらくは長い停滞の時代に入ろうとしている社会の一員として生きていて、そしてぼく個人は普段はミクロの関係性の戯れの物語を楽しむことが多くなっています。
すべてが狭い範囲で展開するラブコメとか、いわゆる無菌系、つまり「女の子だけの仲良し空間」ものとかですね。でも、時にはやっぱり「人類とは?」、「ひとが見ることができる最大の夢とは何か?」みたいな物語にふれたくなってしまう。
ぼくらがじっさいに生きているミクロ空間を充実させようとする努力もたしかに大切だし、気高いものだとは思うんだけれど、でも、人類全体を駆動させる最大の夢、経済も社会も巻き込んでそれに向かって突き進んでいく人々、みたいなヴィジョンを見たくなるんですよね。
ペトロニウスさんは書いています。
僕は思うんですよ、教育の、そして進路を決めるときの基準の、あるべき姿ってのは、こういうものなんだろうって。もちろん、これは、僕が言うようなオリジナルな生き方なので、参考になるかは微妙です。子供時代に宇宙飛行士を目指す仲間がいて、それにふさわしい原風景があるなんて、どんなに悲惨な現実であったとしても、生きる上で凄いオリジナルです。けれどもそこを除けば、この作品の通底に流れるのは、日本のローカルな基準をそもそも超えた、人類の最前線の課題に対する挑戦へ、どうチャレンジするか?そのためには、世界中に、それをするための同志があり、可能な教育機関があり、縁やつながりがあるという確信です。宇宙での巨大なトラブルを回避するのに協力した主人公のもとに、一通の電話が来ます。中国の国家主席からの感謝の電話でした。彼の親友は防衛大学校を卒業した戦闘機乗りで、もう一人はアメリカ空軍の少尉です。みんな、子供のころごみ溜めのような街で、宇宙に行きたいと誓った仲間たちです。こういうのって、いいなって思うんですよ。ボーダーを超えて、人類の挑戦を信じている、その課題へのチャレンジに加わりたいと、願う気持ち。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140513/p1
ゴミだめのような街から、はるかな宇宙へ。夢だけが少年を連れてゆく。
ぼくたちが生きる人類社会には、たくさんの未解決の課題があって、国家同士の争いも、差別も貧困も一向に改善してはいないかもしれない。
しかし、それでも、そういったボーダーを超えて、ただひとつの「夢」が人々を駆り立てる。そんな物語を見てみたいと思うことがあります。
ぼくは時々思うのですが、世の中にはワールドカップの決勝ゴールを決める選手というものがいるわけです。そういう人は、 -
フランス革命前夜、修道院で陵辱される令嬢を描く『暁の明星』がえろい。
2014-05-17 01:4351pt
きづきあきら&サトウナンキ『暁の明星』第1巻をKindleで購入、読み上げました。ふと読みたくなった時にいつでも読めるKindleは実に便利。これで夜中に何となくえろい漫画を読みたくなっても平気ですね! さて、この作品はこのコンビ初の時代もので、革命前夜とおぼしいフランスの都を舞台に、倒錯した物語が展開されます。
主人公は実の兄ロランに道ならぬ想いを抱いてしまった少女アリーヌ。彼女はある事件をきっかけに修道院に入れられることに。ところが、その修道院は夜々、淫らな秘密の宴が繰りひろげられる場所だったのです――!
いやあ、これは面白いなあ。えろーい。この人の漫画はほとんどが何らかの意味でえろいのですが、これはそのなかでも突出したえろさ。
華麗なドレスに身を包んだ美少女やら貴婦人たちが次々と陵辱されてゆくこのご都合主義的展開! すばらしい! コスチュームものはいいなあ。表紙の胸のあいたドレスが既にえろえろしい。こういうのって、胸のある人しか似合わない気がします。
いや、まあ、ぼくはべつに巨乳好きでもなんでもないのですが、動物なので動くものには目が行ってしまうんですね。と、これは『池袋ウエストゲートパーク』のマコトのセリフのパクリですが。
しかしまあ、えろい漫画はいいものだ。いっしょに田中ユタカの『初愛』も購入していて、こちらも初々しいえろさが何ともいえない味を出しているのですけれど、『暁の明星』のほうは陵辱描写がまた実に良い味を出しています。
現代ものでこれをやったらほんとうに単なる性的虐待の描写でしかないのですが、時代ものにすると一種のフィルターが発生して「赦されるえろさ」になっているような、いないような。
いや、もちろん被害に合っている女の子にしてみればこの世の地獄以外の何ものでもないのだけれど、見ているほうはそこに毒々しいえろさを見いだすのですね。はぁはぁ。
名作『ブラッドハーレーの馬車』とか思い出しますが、ひたすらにリアルな描写だったあの作品に比べると、女の子が肉感的で良いですねー。大きすぎず小さすぎない絶妙なおっぱいやらキュートなお尻がたくさん見られて幸せです。
――なんかきょうは自分の株を落とすようなことばかり書いているような気がするな! でも、エロティックな話は好きなんだよねえ。
完全なえろ漫画もそれはそれで良いのだけれど、あれはもう、ほんとうにフィクションというか、ファンタジーなので、時々、もうちょっとリアルよりの話も読みたくなるんですよね。
で、『うそつきパラドクス』とか『バター猫のパラドクス』の日常的なえろさもそれはそれで良いものだったのですが、『暁の明星』は適度にウソが混じっている感じで実にいいです。あまりにも完全なウソよりこちらのほうが好ましいと感じるのですね、ぼくは。
さてさて、この先、清純な貴族の姫君はヒヒオヤジどもに犯されることになるのか、どうか……。ぼくは -
ステイ・フーリッシュ! いつまでも青くありたい。
2014-05-16 02:1351pt皆さんご存知かと思いますが、わがドワンゴがKADOKAWAと経営統合することになったそうで。ぼくらの川上会長が新会社「KADOKAWA・DWANGO」の会長に就任するようです。
名実ともに角川・ドワンゴグループのリーダーとなるわけですねえ。40代半ばでこれほどの巨大グループの経営者。凄いですね。
当然ながら、これだけのニュース、テレビで何度となく取り上げられていましたが、何か居並ぶ経営陣のなかでひとりだけ若いひとが混じっていると思ったら川上さんでした。
この人と何時間も話したなんてウソみたいですねえ。何を話したんだったかなあ。ひたすらハックルさんの話で盛り上がったことばかりが思い出されます。ハックルさん、ありがとう!
この経営統合が両社にもたらす経営的な意味とかはぼくは当然わからないので何も云いませんが、ひたすら「ひえー」とか「うひょー」とかうめいています。
世の中っていろんなことがあるものだなあ。ほかにもオフレコの話がたくさんあったような、なかったような。と、ここまで書いて続きを思いつかなくなってしまったんですけれど、さて、何を書こう。
長く読んでいるひとはわかっているかもしれませんが、ぼくは記事を書くためにプロットを用意したことがありません。どんな長い記事でも頭のなかでおおよその構想を練ってあとはてきとーに書いていきます。
ブログの記事だけではなく、同人誌を作ったときですらそうでした。だから、なかなか綺麗な構成に仕上がらないのかもしれませんね。
でも、本を一冊仕上げようとするならともかく、ブログの記事を1本書く程度のことでいちいちプロットなんて用意していられないというのが本音なんだよなあ。
まあ、川上さんの話を続けると、川上さんとの対談のなかでぼくは「青くさくありたい」というようなことを語りました。これは十数年来ぼくの心情としてあるもので、つまりは自分の理想なり正義なりを曲げたくないのです。
もうね、ひとが -
年収150万円弱! 「稼がない男」のかぎりなく優しい生き方。
2014-05-15 14:5451pt
いまさらここで述べるのも何ですが、本を読むことが好きです。物心ついて文字を読めるようになった頃から、ずーっと好きなので、たぶん死ぬまで好きでありつづけることでしょう。
最近はめっきり堕落して硬い本を読むことは少なくなりましたが、でも、読書習慣そのものは延々と続いていて、毎日何かしらの本を読みつづけています。
お金はかからないし、教養は増えるし、最高の趣味だと思いますね。マジメな話、サマセット・モームではないけれど、水とパンと図書館さえあれば生きていけると思う。
そんなぼくの最近のオススメは西園寺マキエ著『稼がない男』。ニートブロガーのPhaさんのところで見つけた本なのですが、いやー、これはいいですね。
心臓にぐさりと突き刺さるタイトルからしていかにも面白そうなのだけれど、中味もすばらしい。ぼく自身が相当に「稼がない男」なので、いろいろ共感したり「それはどうなんだ?」と思ったりしつつ読みました。
この本の実質的な主人公であるヨシオは、早稲田大学にまで進学し就職しておきながら、1年で辞めてフリーターになってしまった男。
前回、株式投資で170億円もの金額を稼ぎだした少女を主人公にした『ビリオネアガール』を取り上げたけれど、それとはまったく対照的な生き方をしている人物です。
かれの月収は手取りでおおよそ11万から12万円くらい。つまり、年収は150万円以下。この万年フリーター男と付き合うことになった著者の視点から、かれの独特の人生観が描かれています。
イケダハヤトさんに『年収150万円で僕らは自由に生きていく』という本があるけれど、ヨシオはその生き方を何十年も前から続けていることになるわけです。
イケダさんの話を机上の空論と一笑できるひとも、ヨシオのことはそうするわけにはいかないでしょう。何しろかれはじっさい、年収150万円以下でかなり幸せそうに生きていっているのですから。
もっとも、かれのパートナーである著者はそれなりに結婚願望もあり、時にはそんなヨシオにヤキモキしたりもします。しかし、かれの優しくあたたかい人柄に彼女もしだいに感化されて「あたりまえの幸福」という呪縛から自由になっていくのです――。
いや、ほんと、いろいろと考えさせられる本で、読んでいて実に面白かった。たまにこういう本と出逢えると、人生、幸せだなって思いますね。
この本を読みながらぼくが考えたのは、ひとはなぜこんなにもお金を欲しがるのかということです。結論としては、たぶんお金があればあるほど自由になれると考えているからだと思う。
お金がたくさんあればないよりもいろいろなことができる。自由になれる。多くのひとはそういうふうに考えるのでしょう。しかし、そもそも「自由」って何でしょう?
一般的に考えて、選択肢が多くある時、ひとは自由を感じると思います。たとえば、昼食に何を食べるべきか、弁当でもいいしイタリアンでもいいし中華でもいい、というようなとき、弁当しか食べられない状態よりは自由であると云える。
しかし、ぼくは最近考えるのですが、いくら選択肢がたくさんあったところで、そのなかから選べるのはひとつだけなんですよね。選択肢さえたくさん有していれば人生が複線になっていくつもの可能性を同時に生きられるわけではない。
そうだとしたら、たくさんの可能性を確保しておくことは、意外にそこまで大きな意味を持っていないのかもしれない。どんなにお金があって可能性を持っていたところで、それを使わずに終わってしまったら意味がないのですから。
そういうふうに考えていくと、月収11万でもまったくめげるようすがなく、十分に幸せに生きているようすのヨシオはなかなか得がたい男なのかもしれません。
じっさい、かれは底しれず優しい。初めのうちは「もうちょっと稼いでくれたら」と考えたりしている著者も、やがてかれのその深い人柄に心から感謝するようになっていきます。
いや、ほんと、「どうせ女なんて金で男を選ぶんだろ」などとうそぶく男どもに読ませてやりたいような内容やね。
まあ、でも、ぼくもちょっとわかるところがなくはない。というのも、 -
ひきこもりライフ最大の敵は退屈。
2014-05-15 01:5551pt
ふとやりたくなって買ってきた『ソードアート・オンライン ホロウ・フラグメント』を延々とプレイしています。延々と、延々と、延々とやっているのだけれど、なかなか進まない。
おまけの「ホロウ・エリア」広すぎだろ。これだけで十分、普通のRPG一本ぶんくらいのフィールド面積があるんじゃないかな。ネットで調べて制作者のインタビューを見てみたら「150時間から200時間は遊べます」と書かれていた。
うーん、ボリューム抜群の超大作も良いけれど、もうちょっとコンパクトにまとまった作品もやりたいです。『チャイルド・オブ・ライト』あたりをダウンロードしてみようかなあ。『Last of us』とかもやりたいとは思っているんですが。
で、ゲームをプレイするスキマの時間を使って漫画やライトノベルを読んだりしています。伏見つかさ『エロマンガ先生』第2巻は既に鉄板の仕上がり。
いやあ、上手いなあ。ライトノベルのラブコメディとしては、ほとんど文句のつけようがない。活き活きとしたキャラクター、荒唐無稽ながらギリギリのリアリティを残した設定、そして超絶リーダビリティの文章。何もかもみなすばらしい。
ほんと、ラノベのお手本のような作品ですね。特にひとりの文章書きとして、この小説の文体には感動すら覚える。小説って、ここまで「軽量化」できるんだよなあ。
ぼくはヘヴィな文体の小説も好きですが、軽くて読みやすい小説はもっと好きです。伏見つかさの「削り」は並大抵のものではなく、それがボケ&ツッコミの回転をいっそうなめらかにしています。
読者が退屈する間もなく繰り出されるギャグの連打はさながら言葉のデンプシーロール。プロの小説だよねえ。いや、ほんと、脱帽の仕上がりですね。
ただ、そこまで認識した上であえて云うなら、いくらか「置きに行った」感じを受けなくもない。全体のクオリティは凄まじく高いのだけれど、この作品だけの個性がどこにあるかというと、意外と薄いのかなあ、と。
おそらく現時点で最終巻までの展開が精密に考え抜かれていると思うのだけれど、あまりに計算ずくの物語はかえって勢いを失ってしまうところがあるのかもしれない。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、中盤、かなり暴走した感じがあるものね……。
まあ、まだ第2巻でしかないので、伏見さんがここからどうひっくり返してくるのか期待しています。このままでは終わらないはず。わがままな読者ですいません。
さらに、 -
愛の奇跡は最も美しい結末である、しかし――。『アナと雪の女王』再考。
2014-05-11 21:5651ptドワンゴ会長の川上さんとの対談が「4Gamer」に掲載されました。
http://www.4gamer.net/games/236/G023617/20140509083/
「なぜ今,努力しないで成功する物語がはやるのか?」というタイトルですが、じっさいにはもっと色々なことを話しています。良ければご一読ください。なかなか面白い話だと思います。
さて、それはともかく、ペトロニウスさんが『アナと雪の女王』の記事を書いておられますね。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140511/p1
異世界転生してアメリカ行って仕事や育児で死ぬほど忙しいはずなのにどうやって記事を更新しているのだろう……。真剣に謎です。時々、LINEで話すとズタボロに疲れ果てている様子なのに……。現実逃避とかいう次元じゃないですね。いやはや。
まあそれは良いのですが、この記事がぼくが書いたこの映画の記事(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar512060)の反論というか追補になっているので、興味がある方は両方読み比べてみるとおもしろいかもしれません。
で、さらに余談なのですが、ぼくがペトロニウスさんの記事ばかり引用しているように見えるのは、ぼくの友人でブログを書きつづけているのがほとんどかれ以外にいないからです。
一時期はぼくの知り合いはほとんどブログを書いている状況だったのですが、時が経ち、ほとんどの人がやめてしまいました。
その背景にはTwitterやLINEやFacebookの隆盛があるわけなのですが、やっぱり長い文章を日常的に書きつづけるということは、一部の人間しかやらないことなんだなあ、と思いますね。
ぼくはもう十数年延々と書きつづけてきていて、おそらく分量的には本にして数十冊ぶんくらいは書いています。うーん、よく書いたなあ。自分ながら感心する。まあ、それに何の社会的意義があるかといえば、何もないのだけれど……。
さて、余談終わり。ペトロニウスさんの記事の内容をぼくなりにまとめると、ポイントは以下の二点になります。
1)論理的に考えていけば、為政者であるアナや大臣が社会を亡びしかねない異能者であるエルサに対して取れる態度は、「彼女を殺すこと」だけである。
2)故に、アナがエルサに対しできることがあるとすれば、論理を超えた次元で「ただ受け入れること」だけであり、アナはその態度を体現している。
……ふむ。なるほど。リアリスティックに考えていくと、エルサを救う方法はないという意見には納得です。もしあったら国王夫妻にしろエルサの両親にしろ、あれほど苦しまなかったはずですから。
少なくともエルサやアナの手が届くところにはそれはない。だから、アナがもしあれほど無邪気な性格でなかったら、物語はもっと暗く絶望的なトーンに染まっていたでしょう。
映画がシリアスな問題を抱えながらもある程度コミカルに仕上がっているのは、ひとえにアナの性格故だということはできる。そして、そのアナの無償で無邪気な愛こそが、最後には奇跡を起こす――ひとつの映画のマジックとして、納得できる筋書きではあります。
ぼくが上記の記事を読んで思い出したのは、『ファイブスター物語』のワスチャ・コーダンテでした。
物語中ではただ「ちゃあ」とだけ呼ばれている彼女は、実は太陽星団最大の国家である天照王朝の気高い血をひく王女です。しかし、特別何の力も持たない「普通の女の子」である彼女は、周囲の人々に責め立てられ、家を捨て国を捨て家出してしまいます。
ところが、そんなワスチャはやがて天照王朝の最重要人物、天照家第一王位継承権者にまで成り上がっていくのです。ログナーを始めとする全ミラージュ騎士団は彼女の指揮下に入ります。つまり、全星団でも五本指くらいには入る超々巨大権力者です。
特にひねくれた人間でなくても、「普通の女の子」にそんな権力を与えてしまっていいのか?という問題を考えると思います。で、答えはどうも「かまわない」ということらしいのですね。
まあ、ワスチャの物語はまだこれからも進んでいくので、どういう話になるのかはわかりませんが、天照王朝の帝王である天照の帝そのひとは「普通の女の子」である彼女の感性にこそ希望を託しているようなのです。
たとえば、ひとが殺されるのは可哀想だとか、戦争なんてひどいことはないほうがいいとか、そういうあたりまえの感覚をワスチャは持っています。
そのあたりまえの感覚を持ちつづけることこそが、王朝においては非常に稀有な資質であるという逆説がそこでは成り立っているのです。
これは、まさにペトロニウスさんが書いているような「論理的に正しいのならひとを殺してもかまわないのか?」という問いに対する答えです。
『ファイブスター物語』では、「じっさいに殺さなければならない事態は往々にして起こりうる。それが倫理的に悪であっても、必要なものは必要なのだ」ということがくり返し語られています。
しかし、ここでは同時に「でも、それっておかしいんじゃない?」というちゃあのあたりまえの感覚をも提示されているのです。
これは非常に微妙なポイントなのですが、王たる者はやはりときに非情にマクロ的な正しさを貫かなければならないものなのだと思います。『アナと雪の女王』でいえば、やはりエルサを殺すという決断は必要なのです。
そして、それとまったく同時に、「しかし、それでもなお、罪もないエルサが殺されなければならないなんておかしい!」という意見も、健全で常識的な判断として妥当なものなのです。
このふたつの意見はコンフリクトしていますが、 -
3Dプリンタ拳銃制造事件に思う個人と社会のゲーム。
2014-05-09 01:4851pt3Dプリンタによる拳銃制造・所持事件がなかなか興味を惹くので、ちょっと思ったところをメモしておきます。
この事件の容疑者はTwitterに次のようなことを書き込んでいるそうです(http://news.tbs.co.jp/sp/newseye/tbs_newseye2196307.html)。
「銃を規制する社会に対する挑戦と武装の自由化のためです。人は熊を倒すのに猟銃を使います。銃は体力で劣る女性が男性を射殺するために必要です。銃刀法を廃止できなくても誰もがすぐ製造できるように、3D印刷けん銃の図面を普及させる」。
この意見そのものはわりと無理があるとは思うんだけれど、動機そのものは「なるほどなあ」と思わせられます。つまり、この人は革命を起こしたかったんですね。「銃が規制されて入手できない社会」を、根底からひっくり返したかったんでしょう。
で、その意図はある程度のところまでは成功したんじゃないでしょうか。というのも、かれが逮捕されたこのニュースが全国的に報道されたことで、「3Dプリンタと設計図さえあれば銃は制造できる」という情報がひろがったからです。
銃を作りたくて作りたくてたまらないけれど手段がないとか、もしくはどうしても銃が必要だとかいうひとは、このニュースを耳にして、「何だ、3Dプリンタがあれば作れるんじゃん!」と思ったかもしれない。
で、じっさい作るかもしれない。所持するかもしれない。さらには使用するかもしれない。そういう意味で、この容疑者はある程度社会を変えることに成功したと云えなくはない気がします。
まあ、本人は捕まったんだけれどね。この事件をある種の「情報拡大戦略」と見るとすれば、我が身を犠牲にして目的を達成したということになるのかなあ。
かれの、女性が実を守るため云々という動機をどこまで真に受けるかはともかく、個人としてやれる範囲でかなり大きいインパクトを社会に与えたと云えるでしょう。社会不安指数というものがあるとしたら、今回、それは0・5パーくらいは上がったかもしれません。
まあ、ぼくは当然、銃の所持を蔓延させようとする思想を支持しないので、警察がかれを逮捕したのは当然だと思います。
この容疑者がある種の革命/テロリズム思想を持つことは勝手だけれど、社会がそれを容認することは、少なくとも現時点ではありえない。やっぱり銃なんて危ないものを広められて社会不安を拡大されては迷惑なわけです。
その意味で、容疑者にしろ警察にしろ、自分のやりたいこと、やるべきことをやっただけの見なれた事件と云えるでしょう。
今回、この容疑者が「3Dプリンタを使えばだれでも銃を作れるよ」というメッセージを発信したのだとすれば、社会はそれに対抗して「でも、作ると捕まえるよ」というメッセージを放ったとも云えるわけですね。
くり返しますが、それは -
『アルスラーン戦記』第2巻刊行! 不動の天才軍師を動かす「そのひと言」とは何か。
2014-05-08 22:4551pt
あした9日、漫画版『アルスラーン戦記』の第2巻が出ますね。この巻では、軍師ナルサス、旅の楽師ギーヴが登場し、あとひとり、女神官ファランギースが出てくれば、物語の最重要人物は勢揃いするはずです。
もっとも、まだまだアルフリードやメルレインやジャスワントなど、面白い人物はたくさん出て来るのですが……。
主人公であるパルスの王太子アルスラーンの下にはやがて「十六翼将」の名で知られる十六人の精鋭たちが集まって来ることになるのですが、いま挙げた人物はすべて、その十六翼将の一員です。
とはいえ、アトロパテネの野の会戦に敗れ、戦場を落ち延びたアルスラーンに従う者は、いまのところ黒衣の最強騎士ダリューンただひとり。宿敵ルシタニア軍はその数、実に三十万。いかにダリューンが屈強といえども、勝負になるはずがありません。
そこでダリューンが頼ったのは、友人であり「その知謀は一国に冠絶する」といわれる -
「どいつもこいつもバカばっか」で終わらせない思考法。
2014-05-07 08:3351ptふと思うこと。何らかの問題を考えるとき、「こうなるべきなのに、なっていない!」とだけ考えると、「バカどもめが……」みたいな怒りと諦念に収まってしまう気がする。「それでは、どうしていけば良いか?」という考え方こそが建設的なのではないか。
何でもいい。たとえば「社会は男女平等になるべきなのに、なっていない!」でも「マスコミは中立公正であるべきなのに、なっていない!」でも「戦争は禁止されるべきなのに、なっていない!」でも(あくまで「たとえば」ですよ)。
結局のところ、ある自分的に正しいと思われる理屈が存在していて、それが実現していないというのは、皆がその正義を理解できないほど頭が悪いから「ではなく」、何らかの実現しない理由がそこに存在しているということを意味しているのだと思う。もしくはその正義がほんとうは正しくないかね。
もちろんその理由は間違えている!と叫ぶことはできるんだけれど、「間違えている!」と叫んだところでそれだけでは問題は正常化しないんだよね。
叫ぶだけで解決する問題がないとは云わないけれど、それは少数派の例外だろう。大抵の問題は、うんざりするような微修正の作業の積み重ねの果てに、少しずつゆっくりと解決していくしかない。
だから、ほんとうに問題を解決したかったら、「その問題が即座に解決しないその理由」まで含めて考えて、「それでは、どうしていけば良いか?」と思考を発展させるほうが良いんじゃないかな。
たとえば、差別問題がある時には、「ひとがひとを差別してしまう理由」まで考慮に入れて考えないと解決には進まない。「差別なんて間違えている!」と叫ぶだけではダメだということ。それは自明で、なおかつ差別はなくなっていないのだから。
人間はロジックだけでは動かない。「こうするべき」、「こうあるべき」という理屈がすべて通るなら、人類の抱える諸問題は何千年も前にすべて解決されていたことだろう。
だから、現状を改善していこうとするなら、その「ひとは正論や論理だけでは動かない」という現実を受け入れるところから始めるしかないのではないか。そしてぼくは、その現実は当然のことだと思う。
まあ、インターネットは基本的に呟いたり叫んだりすることしかできない場所であるわけで、しかも -
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』とテキストの信頼性の話。
2014-05-04 21:5051pt
いま、ちょっとLINEで『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の話をしていて、これがちょっと面白いので、ぼくの意見をメモしておきます。一応注釈しておくと、あくまでぼくの意見であって、ほかの人の意見は参考にしているに過ぎません。
で、この話、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』で、主人公の京介が妹の桐乃に対して恋愛感情を抱いたことが納得いかない、というところから始まっています。
これが誰の意見なのかはともかくとして、非常にオーソドックスな感想だと思うのです。ぼくもそれはそうだと思う。京介が桐乃を恋愛感情として好きだという結論は、物語としてはともかく、リアルに考えた場合は納得が行きません。
何といっても、実の妹であるという大きなハンディがあるわけで、そこまで簡単に好きになるだろうとは思えないからです。これは近親相姦タブーに抵触するかというだけではなく、幼い頃からずっと一緒に暮らしてきた妹を好きになったりするか?ということまで含めての話ですね。
もっとも、作品のなかではこの問題に対して一応の回答が示されていて、「京介は桐乃と絶好していた期間が長いから、桐野を異性として認識することができた」というものです。
これはこれで、物語レベルでの辻褄は合っているのだけれど、深層心理レベルでの納得は行かない。やっぱり無理があると云えば無理がある話だとは思うんですよ。
それでは、なぜ京介が桐野に対して恋愛感情を抱いたかというと、「タイトルで存在が出ているヒロインだから」としか云いようがない。タイトル、つまり物語の外側のレベルで既に「これは桐乃の物語である」と決定されているということ。
これがつまり「物語の圧力」なのだと思う。それでは、物語の圧力とは具体的には何かということは、いつかまた話すとして。今回、興味が湧いたのは、「それでは、京介の心情はどのようにして把握すれば良いか?」ということです。
それはもちろん、京介が一人称主体として記している本編のテキストから読み取るよりほかないんだけれど、しかし、「京介は物語に書かれていないところで桐乃に対し恋愛感情を募らせていたんだ!」と云われると、「な、なんだってー!」じゃないけれど、ちょっと驚いてしまう。それはないんじゃないの、と思うところはあるわけです。
しかし、これがなしかといえば、やっぱりありかもしれないとも思うんですよね。というのも、小説とはそういうものでしかありえないからです。
本来、どんな厳密な本格ミステリであろうが何だろうが、最後の一行で「いままでのすべては嘘でした」とひっくり返される可能性は、常に残っているんですよね。
「赤文字で書かれてあることは真実である」という『うみねこのなく頃に』の赤文字ルールにしても、そもそもそのルールそのものを保証する根拠が物語中に存在しないわけだから、無意味と云えば無意味です。
仮に、何らかの根拠によって赤文字の正当性が保証されたとしても、今度はその根拠の根拠が必要とされるわけで、これは基本的には無限退行していく種類のロジックなんですよね。
だから、極論するなら、「物語のなかで描かれているすべての事実は一切信用できない」と云えなくもない。それでは、なぜ本格ミステリなどで、読者が次の展開を推理していけるかといえば、
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