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記事 65件
  • ソーシャルメディアは「きっと何者にもなれない私たち」を中毒させる危険な魔法。

    2016-04-26 14:37  
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     ソーシャルメディア中毒。
     なんとも恐ろしげな響きですが、それはぼくたちネット民のきわめて近いところに実在している「依存症」です。
     本書はそんなソーシャルメディア中毒の「つながりに溺れる人たち」について綴られた一冊。
     「新SNS世代の闇に迫り、解決策を探る!」と帯の文句にあるように、この本のなかで主に語られるのはティーン(十代の若者)のソーシャルメディアとのかかわり方です。
     いやー、これが、もう、とんでもない話が続出で、すっかりおっさんになった自分を思い知らされます。
     と同時に、あまりに過酷な世界で生きているティーンに同情が沸き、自分がティーンのときはソーシャルメディアなんてものがなくて良かったとつくづく思います。
     ソーシャルメディアはたしかに便利ですし、「つながり」の実感が持てますが、見方を変えればひとに余計な「つながり」を強要するメディアでもあるわけです。
     ほんとうに成熟した大人なら、ソーシャルメディアの限界を意識し、その範囲内で有効に使いこなすことができるでしょう。
     しかし、未だ未成熟なティーンにとって、ソーシャルメディアを適度に活用することはとても困難です。
     というか、大人ですら中毒になる人は続出しているわけで、そんなものを自我が未発達なティーンに与えたら依存することは目に見えている。
     ただ、だからといってティーンからスマホを取り上げればそれでいいかというと、そんなはずはない。
     いずれにせよ現代人は何かしらの形でソーシャルメディアとかかわって生きていかなければならないのだから、その正しい使い方を知ることが大切なのです。
     とはいえ、そのなんとむずかしいことか。こうしているいまも、ぼくはLINEで複数の部屋を追いかけていますし、たまにTwitterやmixiを開いてチェックしたりもします。
     ぼく自身が「中毒」すれすれのソーシャルメディア・ディープユーザーだと思う。
     だから、自分のことを棚に上げてひとにお説教などできるはずもないのだけれど、それにしても本書で示されているティーンのソーシャルメディア利用の実態は衝撃的です。
     いや、ほんと、これはきついよね。
     どこまで満たしても満たしきれない承認欲求を渇望しつづける承認地獄。
     それがいまのティーンが生きている世界の実像なのです。
     著者は書きます。

     ティーンは、始終SNSを利用する。テレビを見ながら、お風呂に入りながら、ベッドに入ってからも、食事中や友達と会っている時も、「ながら利用」をする。一日の利用時間は数時間に上る。SNSを使ったからといってお金をもらえるわけでもなく、やらなければならないわけでもない。格別面白いエンターテインメントというわけでもない。
     それだけの時間と手間をかける理由は、孤独な彼らがつながりを感じられるからだ。
     誰にも認めてもらえない彼らが、認めてもらえるからだ。
     ストレスに苦しめられる彼らが、ストレスを解消できるからだ。
     自己肯定感の低い彼らが、自分を認めることができるからだ。

     承認欲求。
     それがすべての謎を解く鍵です。
     なぜ、ティーンは格別面白いわけでもないSNSに夢中になるのか。
     それは「自分はそこにいてもいい」という肯定感を与えてくれるから。
     「集団から価値ある存在として認められ尊重される」感覚がそこにあるから。
     しかし、承認欲求はときに際限なく肥大化し、ソーシャルメディアの利用者はまさに「中毒」のようにそれを使いつづけることになります。
     そして、ソーシャルメディア上でさまざまな問題に遭遇するのです。
     リアルでのいじめとパラレルに展開する「ネットいじめ」はそのひとつですし、また、「ソーシャル疲れ」というべき鬱や疲労感を感じる人もいます。
     じっさいのところ、勉強や部活動などの明確な目標を持って活動している子供は、ソーシャルメディアを利用しはしても中毒になることは少ないといいます。
     「つながりに溺れる」のは、ソーシャルメディア上でのつながりのほかには何も持っていないような子たちです。
     そう、「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という言葉が、ここでも聞こえてくるようです。
     ソーシャルメディアとは、そのままでは「きっと何者にもなれない」子供たちが、特別な才能や面倒な努力なしで「何者かになる」ための魔法のアイテムなのです。
     『輪るピングドラム』でこのセリフを生み出した幾原監督はつくづく天才ですね。
     しかし、同時にその魔法はどこか歪んだブラック・マジックの側面を持ってもいます。
     ソーシャルメディアを使えばすぐにでも「人気者のわたし」というイメージを演じることができる。
     けれど、当然ではあるものの、現実の自分はそのことによって少しも変化するわけではない。
     このようにしてリアルとネットは乖離し、使いこなさなければならない「ペルソナ」は増える一方になる。
     また、「人気者のわたし」のイメージを維持するために、色々な欺瞞を使いこなさなければならないことにもなりかねない。
     たとえばTwitterでひとの発言を盗用することを意味する「パクツイ」などは典型的な問題でしょう。
     だれかがいった面白いツイートを、そのまま自分の発言として流用する。
     そうすると、たくさんの「ふぁぼ」や「りつい」を得られて、一時、幸せな気分になれる。
     「パクツイ」の仕組みとは、そういうもののようです。
     ですが、しょせんひとのツイートはひとのツイート。自分の才覚で生み出したものでない以上、いくら一時の承認を得られたとしても、むなしいことこの上ない。
     そして、そのむなしさがさらに「パクツイ」を継続させる。
     それは著作権を無視した盗用であり、法的にも問題がある行為なのですが、そういうことにはなかなか気づかない。
     そのようにして「パクツイ」の連鎖は、その子が何かしら破たんするまで続きます。
     そのほかにもソーシャルメディア中毒は多様な問題を引き起こします。
     ただでさえ他人の顔色をうかがい、承認の機会を逃がすまいと必死になっているティーンにとって、ソーシャルメディアは甘すぎる果実です。
     だから、どれほど問題が発生するとしても、ティーンはなかなかソーシャルメディアの使用をやめることができません。
     「既読無視」が罪悪とされ、メッセージが来たらすぐに返信しなければならないルールを、内心では鬱陶しいと思っている子も少なくないはずなのですが、それをいいだすことは赦されない。
     そんなことをいったら即座に仲間外れにされ、罪びととしていじめの対象になる。
     ソーシャルメディア上に築かれた承認のラビリンスはきわめて抜け出しがたい構造をしているのです。
     それでは、このような深い迷宮から抜け出るためにはどうすればいいのか。
     著者は最後にひとつの希望を提示します。それは 
  • 『ヲタクに恋は難しい』は斬新な(ライト)オタク漫画だ。

    2016-04-26 13:22  
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     『ヲタクに恋は難しい』最新巻、読了。
     第一巻が100万部を突破したという大ヒットコミックスの続刊です。
     いや、100万部て。この漫画不況の時代にとんでもない売れ行きですね。
     それでは、その成果に値するほど面白いのかというと――これが、そうでもない。
     まあ、普通? 普通よりは上かな? それくらいの漫画だと思います。
     もちろん悪くはないのだけれど、天才の閃きを感じさせるとか、そういうことは一切ない。ごくありふれたラブコメ漫画。
     それにもかかわらず、この作品が圧倒的人気を博しているのは、ひとえに時代を捉えるセンスが傑出していたからではないかと。
     いい方を少々下品な方向に変えるなら変えるなら「時代と寝た」一作といっていいでしょう。
     どういうことか?
     この漫画は既存のオタク漫画、たとえば『げんしけん』とかとは決定的に違う作品だと思うのですね。
     『げんしけん』とか『こみっくパーティー』といった漫画が、なるべくディープなオタクの生態を描こうとしていたのに対し、この『ヲタクに恋は難しい』が描いているのは、どこまでも「ライトオタク」なのです。

     あるいは作者の能力の限界からたまたまそういうことになったのかもしれないけれど、あくまでもライトなオタクの世界を描いている。
     取り上げられるネタのひとつひとつもオタク的にはごく「薄い」ものばかりで、そういう意味では面白くない。
     でも、これが現代のオタク漫画としては「正しい」と思うのですね。そうそう、これでいいんだよね、と。
     じっさい、話の内容も、お前は有川浩か!といいたくなるようなベタ甘さなので、『ヲタクに恋は難しい』というタイトルもほんとうは正確じゃない。
     このタイトルは一種の反語であって、『(ライト)ヲタクに恋は易しい』が正しいと思う。
     しかも、男性はどこまでも格好良く、女性はどこまでも可愛く、可憐に描写されている美男美女漫画でもあるので、既存のオタク漫画が好きな人は「こんな奴らいねーよ」と思うかもしれません。
     でも、おそらく、いるのです。あの「リア充オタク」という造語で話題になった(ていうか炎上した)『新・オタク経済』で語られたような人たちは、多数派ではないかもしれないけれど、たぶんそれなりに数がいるんですよ。

     いままでオタク文化とされてきたカルチャーはそこまですそ野が広がっているということ。
     それは旧来のオタクからすればいたって「薄い」「凡人」に過ぎないかもしれません。
     でもねー、たかが趣味に「濃さ」なんてものを必須として求めるほうがどうかしているとぼくは思うのです。
     いま、若年層でいっさいアニメや動画を見たことがない、ゲームをしたことがないという人は、むしろ少数派なんじゃないかな?
     ということは、若年層の大半は、程度の差はあれどこかしら「オタク」であるのです。
     『ヲタクに恋は難しい』は、そういう時代をみごとに捕まえた一作といっていいでしょう。これはこれで素晴らしい。
     いや、ほんと、つくづく思うけれど、こういう漫画が出る、しかも100万部とか売れてしまうご時世なんだよなあ。時代は変わりにけり。
     でも、 
  • 『甲鉄城のカバネリ』はそこまで『進撃の巨人』に似ていないと思うのだ。

    2016-04-26 07:39  
    51pt

     アニメ『甲鉄城のカバネリ』最新話を見ました。
     舞台はパラレルワールドの日本とも思しい「日ノ本」の国。
     いま、この国は生ける屍ともいうべきカバネの脅威があふれていた。
     唯一の安定した流通路はそれぞれの「駅」を結ぶ鉄道網であり、「駿城(はやしろ)」と呼ばれる汽車がその間を走っている。
     そして、いま、そんな「駅」のひとつ、顕金(あらかね)駅にカバネたちが襲い掛かる――というところから始まるスチームパンク・ゾンビホラー。
     過去の色々な作品を掛け合わせたような設定の物語ですが、これが面白い。
     少々詰め込みすぎなのではないか、というくらい詰め込まれたアイディアが印象深いです。
     展開も早く、ほとんど設定を説明することなく進むので、集中してみることを余儀なくされます。
     昔、『攻殻機動隊』とか見ていた時に近いこの感じ、テレビアニメではひさしぶりですね。
     まあ、いずれにしろ実に一気呵成の面白さ。人間の極限状況を示し描くサバイバル・エンターテインメントとして第一級の仕上がりといっていいかと。
     いや、この先、おそらくカバネに対する人間側の反撃が始まるのでしょうが。さて、どうなるか。
     で、この作品、放送前はさんざん『進撃の巨人』だといわれていたけれど、じっさい見てみたところ、そこまで似ているとは思わないですね。
     ひとの姿をした怪物に襲われた人々が防護を固めた「駅」に引きこもっているという設定に共通点が見られるくらい。あとはそんなに似ていないと思う。
     まあ、たしかに初めは『進撃の巨人』を思い起こしながら見ていたのだけれど、ここまで来ると別物として楽しめます。
     何より、無類に面白いわけで、これを『進撃』のパクリだとかいってたたくのは筋違いのように思えてなりません。
     時代劇、スチームパンク、ゾンビ、「駅」、「駿城」、「負け犬のリベンジ」と 
  • 結婚相手には「ゆるオタ君」がいい? 女性向けの婚活本を読んで非モテの暗黒面がめらめらと燃え上がった件。

    2016-04-25 21:43  
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     牛窪恵『「ゆるオタ君」と結婚しよう』読了。
     「ゆるオタ君」に偏見を抱いているであろう世の女性たちに、実は「ゆるオタ君」は条件がいいよ、と教示する本です。
     そのほかにも色々な意味で「圏外」と見られていた男性たちが出てきて推薦されるのですが、まあ、基本的にはそういう内容。
     何を読んでいるんだお前はといわれるかもしれませんが、だって、タイトルが気になったのだもの。
     女性目線で「ゆるオタ君」がどのように見られているか、皆さんも知りたいとは思いませんか?
     ぼくは知りたいと思ったのだけれど――うーん、結論からいうと知らないほうが良かったかも。
     ひさびさに読んでいて苛立ちが募る一冊でした。
     いや、このタイトルから内容を推察しきれなかったぼくが悪いのだろうけれど、さすがにげんなりしましたね。
     あくまで女性向けの本だと思われるので、男性が読むのがそもそも間違えているのかもしれません。
     では、具体的にどういう中身なのかというと、「ゆるオタ君(アイドルオタク含む)」がいかに結婚相手として適切か、縷々綴ってある。
     まあ、それはいいとして、ほんとうに「ただそれだけ」であるところがいかにも辛い。
     曰く、AKB男は、真面目で博識、ピュアで浮気しない、女性をリスペクトしてくれるし、家事やイクメンに抵抗がない。だから、結婚するならそういう男を守備範囲に入れるべきだ、うんぬん。
     一から十まで、条件、条件、条件。相手の個性や人格などまったく問題にしていないように思われてなりません。
     当然ながら「AKB男」も人それぞれで違っていて、色々な人がいるはずなのだけれど、この本ではそういうことはまったく問題にされていません。
     どこまでもかれらの結婚相手としての条件のよさがくり返されるだけ。
     ぼくはひとりの「ゆるオタ」として、褒めてもらえてありがたいと感じるべきなのでしょうか?
     ところが、どうしてもそういう気にはなれない。
     というのも、結局のところ、ゆるオタだろうがなんだろうが個々人でそれぞれ違っているというあたりまえの認識を一足に飛び越えて、ある種のバイアスを押しつけているように思えてならないからです。
     ただ、そのバイアスの種類が「ネガティヴな偏見」から「ポジティヴな偏見」に塗り替えられているところがいまふうではあるのだろうけれど。
     「オタク」という言葉が一般化し、「オタク・イズ・デッド」が叫ばれ、「ライトオタク」が増えた結果として、かつて敬遠された「ゆるオタ」もまた結婚相手の条件として妥協できるところまで入ってきた、という話なのだと思います。
     妥協。
     そう、ぼくのひがみかもしれませんが、どうにも「イケメンとか三高は無理そうだから、妥協してこういう人で満足しておくといいですよ」といわれているようにしか思えないのですよね。
     読書メーターにはこんな感想もあります。

     よんでいて「とりあえずオタクetcみたいなので我慢しときましょう」「一応は結婚するけどこれは妥協ですよ」的、上から目線でコイツは何様!?と思った。まぁ女性対象の本だからそういう煽り方なのかもしんないけど、世の中の考えが「妥協」という言葉に向かうのは嫌だ。少なくとも男性陣は読まない方がいいかも。
    http://bookmeter.com/b/4062176882

     これはこれでおそらく偏った感想でしょう。著者にはそんな意図はないのかもしれません。
     でも、 
  • ひとりごととか呟いてみるシリーズ。

    2016-04-25 00:03  
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     さて、毎度恒例の内容のない独白です。
     更新頻度を加速してしばらく経ちますね。
     いやー、楽だなー、気楽な仕事でいいなーなどといっていたわけですが、さすがにちょっと消耗してきました(笑)。
     気づくとからだがお布団のなかにくるまっていて、自覚のないままに目が閉じている、そんなことのくり返し。
     まあ、まだ肌寒いからつい布団のなかに入ってしまうということもあるのですが、それ以上に長時間パソコンに向かい合っているので目が疲れているようなのですね。
     目薬をさしながら記事を更新しています。うー、染みるー。
     あいかわらず漫画読んだりアニメ見たりゲームやったりという日々なのですけれど、少しずつでも会員が増えると張り合いがありますね。
     なんというか、未来に「希望」が見えるというか。
     現状がいつまでも続く、あるいはより悪くなるばかりと思うと気が滅入るものね。
     もっと積極的に映画見に行ったりしたいのだけれど、時間はともかく気力が足りない。
     なかなか起きている間じゅうずっと本を読んだり映像を見たりしているというわけにはいかないものです。いくら「仕事」とはいっても。
     この仕事でもし辛いところがあるとすれば、「オン」と「オフ」の切り替えがむずかしいところですね。
     気をつけていないと、四六時中、仕事のことを考えている「オン」の状態になっちゃう。
     先日読んだ『ひらめき教室』で、ものづくりのためには「無」の状態が大切だという話が出てきたのだけれど、その「無」の状態を作れなくなってしまうのですね。
     そうすると、いかに趣味の延長線上にある仕事(というか、ほとんど完全に趣味)とはいっても、やっぱり疲れてくる。
     意図してスイッチを「オフ」に切り替えることがどうしても必要なのだと思います。
     棋士の羽生善治さんが 
  • ノクターンノベルズのエロ小説が名作文学オマージュな件。

    2016-04-24 21:01  
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     「小説家になろう」というか「ノクターンノベルズ」で、長谷川蒼箔『下僕の俺が盲目の超わがままお嬢さまの性奴隷な件』を読んでいます。 
    http://novel18.syosetu.com/n7126cq/
     以前、ペトロニウスさんが栗本薫の『真夜中の天使』を例に挙げて絶賛してきた作品ですね。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151226/p2
     ノクターンなので、きっちりきっぱり18禁小説であるわけですが、これが面白い。ぼく好み。
     ちょうど何かエロティックな物語を読みたいなあと思っていたところだったので、思わず読み耽ってしまいました。
     まあ、18禁とはいっても、そこまで過激な描写ばかりが続くわけではありません。
     盲目のお嬢様と下僕の少年の、キラキラ輝く「純愛」のお話です。
     いやー、こういうのが読みたかったんですよねー。
     ぼくとしてはエロ小説を読むときもやっぱり物語性があるものを読みたいわけです。
     ひたすらセックスしているだけのものも、まあ、それはそれで価値があるのだけれど、ぼくはもう少し違うものを読みたいのだ。
     漫画ならそういう作品もいくらかあるのだけれど、これが小説となると、めったにあるものではありません。
     完全にアダルト小説なのでニコニコではリンクを張ることがはばかられるJ・さいろーさんの『クラスメイト』とか、良かったですねー。
     主要人物がほぼ小学生ばかりという(笑)児童ポルノ禁止法に喧嘩を売るようなロリショタ小説なのだけれど、この際、そういうことは関係ないのです。
     人間と人間の肉体的なそれをも含めた「関係」を描けているかどうかが大切なのです。
     その意味で、 
  • 乙一&ミヨカワ将『山羊座の友人』は切なく胸に響く秀作だ。

    2016-04-24 14:59  
    51pt

     乙一&ミヨカワ将『山羊座の友人』を読み終わりました。
     「ジャンプ+」にて六回に渡って連載され、全一巻の単行本として上梓された作品です。
     原作は乙一の「ひとりアンソロジー」である『メアリー・スーを殺して 幻夢コレクション」に収録された同名短編。
     それをミヨカワ将が巧みに膨らませ、一編のうつくしい物語に仕上げています。
     乙一はかつて「切なさの達人」など、本人は嫌だったに違いない異名で呼ばれたことがありますが、本作もたしかに切ない。
     このいいようのない哀切さはかれ独特の作風です。
     もっとわかりやすい悲劇を書く大勢人はいますが、なんとも捉えがたい微妙な感情をしっかりと捉え、描く、その手腕のたしかさは乙一の天才といっていいでしょう。
     この漫画版でもそれはしっかりと活かされています。
     乙一の作品の主人公たちは、いつも社会に適合できない「弱者」たちです。
     そのかれらがなんらかの努力や出逢いによって、新しい自分の道を見つけるようすが乙一最大の魅力といっていいでしょう。
     しかし、『山羊座の友人』、この物語はまさに取り返しのつかない事件が起きた、その時点から始まります。
     ある日、夜道を歩いていた主人公は、学校でいじめられていた同級生が血にぬれたバットを持って現れるところを目撃してしまうのです。
     そして、かれの家の「まるで異世界から迷い込んだような理解不能なものが空から流れ着く」ベランダには、殺人事件の犯人が自殺することが記された未来の日付けの新聞が飛び込んで来る。
     主人公はなんとか少年の自殺を止めようと試み、その過程で、ふたりのあいだには強い友情が芽生えていくのです。
     物語の展開そのものは、そこまで予想外のものではなく、乙一作品を読みなれた人ならある程度は先の想像がつくでしょう。
     しかし、 
  • 『暗殺教室』と多重レイヤー構造。少年漫画は「天才漫画」を過ぎ、弱者戦略の時代に突入している。

    2016-04-24 12:02  
    51pt

     『ひらめき教室 「弱者」のための仕事論』を読みました。
     漫画家の松井優征さんとデザイナーの佐藤オオキさんの対談集です。
     この場合の「弱者」とは、特別な才能に恵まれていない人の意味。
     圧倒的な才能を持つ「天才」たちがごろごろしている漫画業界やデザイン業界で、「弱者」がいかにして活躍するか、その方法論が語られています。
     松井優征さんにしろ、佐藤オオキさんにしろ、結果だけを見れば抜きんでた能力を持つ「天才」に見えるかもしれません。
     『魔人探偵脳噛ネウロ』、『暗殺教室』と二作続けて『ジャンプ』でヒット作を完結させた松井優征、400もの仕事をパラレルに展開するという佐藤オオキ、いずれも凡人とは思えません。
     しかし、かれらは自分の主観においてははっきりと「弱者」なのであり、「弱者である自分がどう戦うか」を考えに考え抜いてそれぞれの戦場で生き抜いてきたのだといいます。
     ちょっと本文から引用してみましょう。

    佐藤 まさに弱者戦略ですね。僕も絵を描くのが下手なんですよ。
    松井 そうなんですか?
    佐藤 デザインって、たぶん右脳型、左脳型タイプがいて、感性やセンスで戦える人がいるんです。ヨーロッパに行くと、ペンを手にした瞬間、魔法のように美しい曲線を描いちゃうような天才がゴロゴロいる。僕はそれを見て、「あ、自分にはできない。これは敵わないな」と最初に思ってしまった。じゃあ自分に何ができるのか考えたとき、曲線美や激しい色使いなどではなくて、本当に些細なアイデアを膨らませていくことで勝負できないかなと考えました。そこがスタート地点ですね。そういう意味では、早めに自分が絵がへたであると実感できたのは、貴重な経験でした。
    松井 自分の才能のなさ、弱点を一回認めた人は本当に強いですよ。
    (中略)
    佐藤 そういえば『暗殺教室』も、「弱者戦略」が大きなテーマになっていません?
    松井 そうなんです。暗殺も、弱い者が強い者を倒すための戦略なんですよね。

     「弱者戦略」。
     面白い言葉が飛び出してきました。
     弱者戦略とは、つまり、生まれつきの素質に恵まれていないものがそれでもどう戦うか? あるいは勝つか? そのための「戦略」だと考えられます。
     ぼくは、いまの少年漫画はこの「弱者戦略」の時代に突入していると思う。
     かつて、『少年ジャンプ』は「努力・友情・勝利」というテーマを掲げていました。
     しかし、時代の変遷によって、「努力すれば必ず勝利できる」というコンセプトが説得力を失ってきた。
     そこで「天才」を描く漫画が生まれた。
     少年漫画全体を眺めてみても、『H2』とか『SLAM DUNK』とか、いわゆる「天才漫画」が流行った時期がたしかにありました。
     それらは比類ない「天才」がその才能でぐんぐん成長していく姿を描く実に痛快な物語でした。
     しかし、同時に「天才漫画」は「それでは、才能がない者はどうしようもないのか?」というある種の絶望を呼び起こします。
     そうかといって、ひたすら努力すればいい、というアンサーも説得力がない。
     何しろ、半端な努力などとうてい通用しないような天才の圧倒的な実力を既に見てしまっているのですから。
     そこで生まれてきたのが「弱者戦略漫画」なのではないでしょうか。
     先駆けは『HUNTER×HUNTER』だと思う。

     『HUNTER×HUNTER』は「天才漫画」でもあるけれど、「弱者戦略漫画」を切り拓いた作品でもある。
     『HUNTER×HUNTER』が少年漫画に持ち込んだのは、「肉体的な意味での強さ」というひとつのレイヤーでのみ勝負が決まるわけではなく、ほかにもいくつものレイヤーが存在し、それぞれのレイヤーで勝負が存在するという「多重レイヤー的世界観」でした。
     ペトロニウスさんはこんなふうに書いています。

     さて強さの話に戻ると、『HUNTER×HUNTER』のもう一つの凄さは、前作の『幽☆遊☆白書』でもエピソードとして出てきていてこのテーマを追求する片鱗を感じさせるのですが、ゲームのルールを書き換えることが、最終的な勝利につながるということを、強く意識した設計がなされていることです。いや、このいいかたよりも、この現実世界には、いくつものレイヤーがあって、どのようなルールに支配されているレイヤーに生きているのか?ということを意識しないと、簡単に殺されてしまうという恐怖と悲しみが、彼の作品の大きなテーマにあります。これが2つ目です。
     ようは、チャンピオンを決めるランキング・トーナメント方式のバトルに、どのようなルール(=基礎構造)の変更をしたのかといえば、
    1)強さを一律の基準で決められない多様性をもちこみ、知恵と工夫で勝ったほうが勝つ、
    2)自分がいるレイヤーのルールを壊すか、新しくルールを作りだすことができたものが勝つ、
     という条件が設定されたんですね。ちなみに、2)は、凄い複雑で、
    3)自分がいるレイヤーから、異なるレイヤーに移ることができた場合、そのメタルールをどう利用するか?
     というような背景も隠れています。
     これって、物凄い発見ですが、、、、この物語類型を十全に使いこなせている物語は『HUNTER×HUNTER』ぐらいしかありません。日本のエンターテイメント、、、いや人類のエンターテイメント史に残る傑作だと思います。これ。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140526/p1

     シンプルに「強さ」の数的な大小(戦闘力530000とか)で勝負が決する『ドラゴンボール』のような古典的な少年漫画と比べて、『HUNTER×HUNTER』の勝敗論理ははるかに複雑です。
     ある人物が「肉体的な強さ」のレイヤーで劣っていたとしても、必ずしもそれで勝負は決まらない。
     たとえば「知性」や「特殊能力」のレイヤーに勝負を持ち込むことができれば、それで勝敗が逆転することが十分にありえる。
     『HUNTER×HUNTER』が生み出したのは、そういう世界観でした。
     これは非常に画期的なことだったと思います。
     もちろん、先例としてたとえば『ジョジョの奇妙な冒険』があり、また『ドラゴンボール』以前のさらにクラシックな少年漫画があることはたしかですが、『HUNTER×HUNTER』のバトルはそれらと比べても複雑な上に意識的です。
     『HUNTER×HUNTER』の登場をもって少年漫画は新たなステージに突入したといっていいと思います。
     ちなみに「多重レイヤー」意識の採用はおそらく 
  • 『劇場版 響け!ユーフォニアム』はテレビシリーズを凌ぐ熱さの傑作映画だ。

    2016-04-24 01:11  
    51pt

     喩えるならば情熱の赤。
     『劇場版 響け!ユーフォニアム』は、登場人物ひとりひとりが放つパッションの炎で赤々と燃え上がるような映画だった。
     いままで数々の傑作を生み出してき京都アニメーションが制作した劇場映画は、みごと新時代を切り拓く名作として完成を見た。
     限られた尺でありながら、テレビシリーズにまさるとも劣らない、否、大きく凌ぎすらする感動で見る者の心を打つ。
     青春映画の新しいマスターピースといっていいだろう。
     ぼくは暗い劇場の座席で心震わせながら、ひとり思った。
     いっしょうけんめいに生きるということは、なんと美しいのだろう。そして、なんと強くひとを揺り動かすのだろうか。
     これが、これこそが物語の力なのだ。素晴らしい。実に素晴らしい。見に行ってほんとうによかった。
     テレビシリーズを再編集してまとめあげた総集編でありながら、一本の映画作品として過不足なくできあがっている。
     見に行くべきか迷っている向きはぜひ行ってみることをお奨めする。後悔はさせない。
     これは現代を代表する青春映画の豊潤な果実だ。
     物語は、主人公・黄前久美子が中学生の頃から始まる。
     吹奏楽部だった久美子は、コンクールで金賞を取りながら全国大会出場を逃してしまう。
     予想以上とも思える結果を喜ぶ久美子。しかし、彼女のとなりでは高坂麗奈が悔しさを噛みしめて泣いていた。
     そんな麗奈に対し、久美子は「ほんとうに全国大会へ行けると思っていたの?」と声をかけてしまう。
     彼女には理解できなかったのだ。落涙するほどに悔しがるということが。
     そして高校入学。久美子と麗奈は同じ高校に進学し、やはり吹奏楽部に入る。
     新たに部の顧問を務めることになった滝昇によって、彼女たちは猛練習をすることになるのだが――。
     これは泣くほどの悔しさを知らなかったひとりの少女が、それを手に入れるまでの物語だ。
     ひとは、ほんとうに真剣に努力することなしには悔しさを知ることがない。
     心の底から悔しがるためには、自分の限界まで頑張り抜く必要がある。
     だから、久美子はそれまで悔しさを覚えることがなかった。
     中途半端な結果にも満足することができた。
     しかし、滝によって導かれ、鍛え上げられ、限界を超えていくことを知った久美子は、もう、半端に妥協することはできない。
     あるいは、知らないほうが楽だったかもしれない。目覚めないでいれば泣くこともなかったかもしれない。
     だが、彼女は知ってしまった。ほんとうにいっしょうけんめいに生きることの意味を。
     そして、一度知ったならもう引き返せない。自分のなかに眠っていた炎が爛々と燃え上がる。
     ひとり、街を走りながら久美子は叫ぶのだ。「うまくなりたい、うまくなりたい、うまくなりたい」。
     それまでの彼女なら飼い慣らせていた内なる獣は、いまや自由に闊歩し咆哮し慟哭する。「うまくなりたい!」。
     それまでは生ぬるく生きてきた久美子がひとりの音楽者として覚醒した瞬間だ。
     はたしていち学生がこのように部活動でしかない音楽に力をつぎ込むことが正しいのか、否か、議論があるところかもしれない。
     じっさい、ぼくもテレビシリーズを見ていた頃は「これでいいのだろうか?」と思うこともあった。
     しかし、 
  • ジャンクヌードで自慰することは悪なのか?

    2016-04-23 12:05  
    51pt

     坂爪真吾『男子の貞操』読了。
     坂爪さんの本はこれで『セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱』、『はじめての不倫学』に続いて三冊目になりますね。
     立て続けに読み耽っているのはそれだけ面白いからなのですが、この本も期待に違わずすばらしい内容でした。
     海燕、絶賛。
     ただ――ただね、本の内容を素直に一から十まで受け入れることはできない自分があることもたしかです。
     理屈で考えれば書かれていることは正論だと思うのだけれど、感情が受け入れを拒絶する。
     どうにも納得がいかないというか、あまりにも理想論ではないかと思ってしまう。
     具体的にどのようなことが書かれているのか。
     まず、著者は「僕らを射精に導くのは「誰の手」なのか?」と問いかけます。
     そして、こう答えるのです。それは自分の手などではなく「お上(かみ)の見えざる手」なのだと。
     つまり、ぼくたちは「お上」の作り出した規制を破る「タブー破り」によってしか欲望を喚起されないようになっているということ。
     著者は書きます。

     もし、あなたが「女子高生」という記号に性的興奮を覚えるのであれば、それは、決して、女子高生の裸が、他の年代の女性の裸と違って、特別に魅力的だから、女性構成のセックステクニックが、他の世代の女性よりも上だからではありません。十八歳未満の女子高生との性的接触を、お上が法律や条例によって規制しているからです。「禁じられているからこそ、魅力的に見える」だけの話です。

     一理ある、と思います。
     より正確には、単に「お上」ではなく、社会全体の倫理や道徳がかかわっているのだろうけれど、大筋としては納得がいく。
     ジョン・ヴァーリィに「八世界シリーズ」と呼ばれる遠未来社会を描いたSF小説があります。
     その世界では完全な衛生コントロールが実現していて、はだかで歩く人もめずらしくありません。
     しかし、そうなるともうだれもはだかなどに性的欲求を喚起されないのです。
     それはひとつの「あたりまえの風景」でしかなくなっているわけです。
     ひとの欲望は「禁止されることによって燃え上がる」。
     その意味で、ぼくたちの欲望はたしかに「お上」によって、社会道徳によってコントロールされているのかもしれない。
     著者はそういう「タブー破り型」の快楽は長続きしないものだと考えます。
     タブーを破ったその瞬間には興奮なり感動があるが、それは時間を経て冷めていく。ようするに「タブー破り」は簡単に飽きるのです。
     そこで、著者はそれに対するもうひとつの欲望の形を提示します。「積み重ね型」です。
     それは「特定の相手との人間関係や思い出を積み重ねることで、その相手に対する感情的な信頼を深めていく過程で得られるタイプの快楽」だといいます。
     著者はこの「積み重ね型」の快楽を推奨します。
     それは「エゴ(利己的)」ではなく「エコ(他者と環境に配慮した)」性生活であり、中長期的に性を楽しんでいくためにはこの「エコ」な快楽を得られるように自分自身を慣らしていく作業が不可欠である、ということのようです。
     うーん、正しい。なんとも正しい理屈です。
     ただ、なんというかなあ、あまりにも「正しすぎる」論理だと思うのですよね。
     ロジックとしてはたしかにその通りだと思う。しかし、それをパーフェクトに実践できる人がどのくらいいるかというと――無理じゃね?と思ってしまう。
     たしかに、女性を「巨乳」「痴女」「女子高生」といった記号に分類して、生身の女性そのものではなく、その記号にしか欲望できない性は「貧しい」。
     しかし、だからといって「エコで豊かな性」に移行できるかというと――まあ、できる人はできるのでしょうね、というしかありません。
     著者によれば、現在、社会にあふれるはだかは本来のヌードとしての魅力や価値を失った「ジャンクヌード」でしかないということです。
     そのようなジャンクヌードで「抜く」ことは性差別や貧困の拡大に加担する行為にほかならない。
     それなら、どうすればいいかというと、