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  • 主人公の動機を考える。

    2016-11-16 21:31  
    51pt
     さて、小説構築の続きです。自分が作ったアウトラインを数日経って読み返してみたのですが、いまひとつ面白そうではないですね……。
     いままで考えたアイディアと比べるとまったく使い物にならないというほどではないので、つまり、どこかに欠陥を抱えているということだと思います。
     この場合の欠陥とは、いくつもありそうですがひとつには「葛藤」が弱いということではないでしょうか。どの本を読んでも「物語には葛藤が必要である」と書かれています。
     それはそうだろうとぼくも思います。ぼくが過去に読んだ面白い作品はいずれも主人公の葛藤をつよく打ち出したものでした。
     何の本で読んだのか忘れてしまいましたが、魅力的なキャラクターとは「パラドックス」を抱えているものであるという話があります。つまり、一身に何らかの「矛盾」を体現していて、その矛盾にひき裂かれながら前進していく、それが魅力的なキャラクターなのである、と
  • 星を見る少女と廃墟に立つ少年。『この世界の片隅に』と『風立ちぬ』に「世界」を見る。

    2016-11-16 04:17  
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     先日、映画『この世界の片隅に』を観て来ました。素晴らしかった。まだ未見の方はぜひ、何らかの手段を用いてこの世紀の傑作を見てほしいと思います。『シン・ゴジラ』、『君の名は。』を初めとして豊作だった今年を締めくくる一作といえるでしょう。
     そして、今年の数ある名作のなかでもベスト・オブ・ベストというべき素晴らしい出来。日本アニメの、というより日本映像文化史上の最高傑作のひとつと位置づけられるべき神がかった作品だと思います。
     原作既読のぼくは開始5分くらいで泣きそうになっていました。まあ、それは極端な例ですが、これはちょっと凄いです。
     原作も大傑作だけれど、その原作に匹敵し、あるいは上回る驚異のクオリティ。この一作を生み出したことを日本のマンガ/アニメカルチャーは永遠に誇ることができると思います。それほどの作品です。
     とまあ、賛辞を並べ立ててはみたのですが、じっさいのところ、この映画のよさを語ろうと思うとむずかしい。ぼくがこの映画から受けた感動をそのまま言葉にすることは、少なくともぼくの能力では不可能といい切ってもいいのではないかと思います。
     しかし、何も語らないこともどうかと思うので、力足らずの言葉足らずではありますが、一応、語っておきたいと思います。
     「この世界の片隅に」。印象的なタイトルのこの映画は、戦時下の広島市と呉市を舞台にしています。
     「ぼんやりした」少女・すずが幼い頃から物語が始まり、それから時代を下って、彼女の降嫁と結婚生活を描き出していくのです。
     そして、日本が経験した「戦争」が、すずの視点から描き出されます。原作でも物語がすずの視点から離れることは少ないのですが、映画はさらにすずに近く寄り添っているように思われます。
     したがって、大所高所から見た「世界」のマクロ的な構造はここではまったく描かれません。描かれるものは、巧まざるユーモアに満ちたすずの穏やかな日常、ただそれだけです。
     「穏やか」という表現は戦争中の日常に似合わないかもしれません。じっさい、すずの生活のなかにはしばしば戦争の猛威が忍び寄ります。
     しかし、それでもなお、彼女はどこまでも「普通」であろうとし、そしてじっさいに「普通」でありつづけるのです。クライマックスにおいて、決定的な悲劇が襲いかかってくるその時までは。
     これは、戦争という巨大な「暴力」を含む「世界」と、その「片隅」に生を受けた「ひとりの少女」の対決の物語です。
     見終わってすぐ、ぼくは宮崎駿監督の『風立ちぬ』を思い浮かべました。『この世界の片隅に』は『風立ちぬ』とちょうど対になっている映画だと感じたのです。
     というのも、ぼくには『風立ちぬ』は「暴力に満ちた世界の「中心」で、加害者の立場に立たされることになった男性(少年)の物語」であり、『この世界の片隅に』は「その世界の「片隅」で、被害者の立場に立たされることになった女性(少女)の物語」であるように思えたからです。
     迂遠ないい方になったかもしれませんが、ぼくは前者が「加害者の物語」であり、後者が「被害者の物語」であるとは完全にいい切れないとは思います。
     ただ、かれらがそれぞれ加害者として、被害者として見られることは事実でしょう。そして、政治的、あるいは批評的、思想的にはその差異が重要であるのかもしれません。
     しかし、ぼくはそこにあえて意味を見いだそうとは思いません。かれらはかれらなりにひとりの人間として「この世界」と対峙したのであり、その望みの通りに生きたのです。
     その生きざまが心を打つかどうか? それが映画のすべてであり、そしてぼくはいずれの作品にもつよく打たれました。その生き方が道義的に正しいかどうかということは二次的なことです。
     とはいえ、『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎は主体的(アクティヴ)に行動し、自分の運命を決めていきます。かれが最後にたどり着いた「廃墟」は、かれ自身が選んだ人生の結果であるといえます。
     もちろん、だれしも完全に人生をコントロールすることはできない以上、かれもまた「世界」に満ちた暴力に巻き込まれたひとりであるということはできるでしょうが、そうはいってもかれは可能な限り「自己決定」したという意味で、「世界の中心」を生き抜いたということができると思います。
     対して、すずはどうか。彼女の生き方は、堀越二郎と比べるまでもなく、一貫して受動的(パッシヴ)に見えます。
     彼女は親が決めた人物と結婚し、その家でいくらか悪意のある行為を受けても抵抗せず、また、戦争という巨大な暴力に逆らおうともしません。
     それは、あの当時の多くの女性たちと同じ姿ではあるのでしょうが、そういう意味で、すずはまったく「普通」の女性です。
     あえていうなら絵を描く才能が秀でているということもできるでしょうが、それにしても「世界」を変えるような性質のものではありません。
     暴風のように「世界」のなかを荒れ狂う戦争という「暴力」に対し、彼女はどこまでも無力であるように見えます。この映画を、戦争によって多くのものを奪われた女性の悲劇として見ることも可能でしょう。
     ところが――ところが、そうではないのです。すずは「世界の片隅」で、「暴力」と戦い、そして、負けません。
     「世界」はさまざまな方法で彼女に襲いかかり、その圧倒的な力でもって「片隅」の少女を押しつぶそうとしたのですが、それでも彼女は屈しないのです。
     『この世界の片隅に』はすずの「戦い」の物語です。すずのまわりにある「過酷で残酷な世界」はすずの内面にある「完璧な世界」を打ち砕こうと幾度も幾度も押し寄せますが、決してそうすることはできません。
     それほどにすずは「強い」。そう、彼女は恐ろしく揺らぎません。彼女は外の世界で起こるあらゆることを受け止め、受け容れていきます。
     その意味ですずは、たとえば『コードギアス』のルルーシュのように「世界は間違えている」と叫んだり、『少女革命ウテナ』のウテナのように「世界を革命する力」を求めたりはしません。
     彼女はどこまでも世界に対し受動的なのです。彼女は作中、一度も世界を変えることを求めて「世界の中心」に躍り上がろうとはしません。
     彼女の居場所はどこまでも「世界の片隅」。そういう意味では、これはきわめて地味なドラマです。ですが、これがきわめて感動的なのですね。
     ぼくはすずの姿を見ていて、池澤夏樹『スティル・ライフ』の有名な冒頭を思い出します。

     この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
     世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
     きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
     でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
     大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
     たとえば、星を見るとかして。
     二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
     水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
     星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
     星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

     すずはまさに「呼応と調和がうまくいっている」人間です。つまり、先ほど述べたように、彼女の内面にある「広大な薄明の世界」は「完璧に調った状態」にあるといってもいいでしょう。
     彼女は「完璧な世界」を内側に持っていて、「(外の)世界との呼応と調和」を達成しているが故に、あえて「(外の)世界を革命する」必要がないのです。彼女にとって世界は完璧な場所なのですから。
     おそらく、ほかのどんな時代に生まれてもそうだったでしょう。しかし、彼女の内なる世界がどれほど完璧にできあがっていようと、外なる世界には嵐が吹き荒れている。
     したがって、 
  • 背景設定を考える。

    2016-11-12 03:13  
    51pt
     さて、そういうわけで簡単なキャラクター設定とストーリーラインはできあがりました。しかし、当然ながらここからさらに物語をふくらませていかなければなりません。
     現時点でこの物語は原稿用紙600枚で構想しています。ちょっと厚い文庫一冊というところですね。ということは一章は150枚にあたります。
     あるいはもっと長くなるかもしれないし、もっと短くなるかもしれませんが、全体の展開はなるべく崩さないようにしたいと考えています。
     ちなみに、物語とは長く成りたがる性質をもつものであるようです。予定よりエピソードが増えて長くなってしまったという話はよく耳にしますが、短くなったという話はあまり聞きません。
     そして、だいたい面白い物語ほど、長くなりたがる性質をつよく持っているようなのです。それは、「自ら成長する」ような物語こそ面白いのだということです。
     書きながら作者の頭のなかに次々と火花のように新た
  • フィナーレまでのストーリーを考える。

    2016-11-12 02:05  
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     続きです。物語全体を四つの章(アクト)に分け、各章のストーリーを詰めてみました。これでとりあえず、全体のストーリーラインはできあがったことになります。
     当然、これだけでは小説を書くことはできませんが、まあ、ないよりは良いでしょう。どこをさらに詰めればいいのかもはっきりとしたと思います。
     カウントするなら、これが「アウトライン05」になります。一気に詳細になった感じですね。さて、ここからどのようにディティールを豊かにしていくか、また、この構成の問題点を探るか。まあ、何とかがんばってみます。凡人にはがんばるよりほかないのですよ。

    ・第一章――若き天才盗賊レンは腐敗した盗賊組合に不満を募らせていた。組合は貴族と結託し、決して貴族の屋敷は狙わないよう盗賊たちを制御していたのだ。それは、幼い頃、貴族に家族を虐殺されたレンにとって絶対に赦せないことであった。しかし、この国で貴族を狙うことは死を
  • いよいよ全体の構成を練りはじめる。

    2016-11-12 01:11  
    51pt
     さて――さて。「主人公」、「引き立て役」、「ライバル」、「ヒロイン」の四大キャラクターの骨格は完成しました。「第一ターニングポイント」と「ミッドポイント」も決まりました。
     あとは、その間のストーリー及び「第二ターニングポイント」を決定すれば、とりあえず物語の骨組みは見えてくるはずです。
     ちなみに『シナリオライティングの黄金則』という本では物語を全体を13の「ロット」に分けています。ヒットしている作品には一様にこの「13ロット構造」が存在するという話です。
     ネットから拾ってきたものをコピペすると、こんな感じ。

    01 普通 主体者と生活  いつどこで誰がどんな時に 
    02 異変 破壊と犠牲   どんな変化に遭い
    03 覚悟 依頼と決意   依頼を受け葛藤するが
    04 苦境 行動と苦境   行動して苦境に立ち
    05 支援 失敗とヒント  援助者からヒントを受け
    06 成長 成長と対抗 
  • 続いてヒロインを設定する。

    2016-11-12 00:06  
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     さて、「主人公」と「ライバル」は漠然とではありますがキャラクター設定ができました。主人公のフェス君には何かアイテムを持たせたいところですね。
     でも、フェスって名前も何だかいまひとつ――とりあえずレンにしておくか。オリジナリティはないけれど憶えやすい。
     それはともかく、「誓約の錠前」とかどうだろう。その錠前に縛られている間は誓約によってひとを殺すことはできないとか。悪くないかな。当然、その錠前を自らひきちぎって殺戮へ進む、という展開も考えられますね。
     となると、逆に錠前を外すとすごい力を発揮できるという設定にしたほうがいいか。そこら辺は考えどころ。
     さて、「ヒロイン」を考えたいと思います。うーん、「泥棒猫」と「猟犬」の対立という構図はいいのだけれど、そこにどうヒロインを付け加えるか。
     そもそもヒロインとかいらないという可能性もありますが、やっぱり女の子が出ないのは寂しいよなあ。そ
  • こんどはキャラクター設定を練ってみる。

    2016-11-11 21:47  
    51pt
     うに。昨日までいじっていたログライン及びアウトラインをてれびんに見せたところ、わかりづらいといわれたので、全ボツにしました。
     6記事もかけて考えたことがゼロに! 泣ける。読者の皆さんもいままで読んだものは何だったんだと思われるかもしれませんが、まあ、こらえてください。ぼくも辛いんだ。
     そこで、新たに考えたログラインがこれ。

    LL24.不殺の天才盗賊〈灰色猫〉が、貴族社会と結託する組合を抜け、殺人集団〈猟犬隊〉と対決しつつ大貴族の宝を狙う。

     過去のログラインが一部残っていますが、いままでのものに比べてだいぶすっきりしたのではないでしょうか。これをもう少しふくらませて簡易アウトラインの形にするとこういうふうになります。

    OL04.数百年にわたって王侯貴族と盗賊組合が結託し人々を支配するシレーン王国。若き天才盗賊〈灰色猫〉フェスはそんな現状に怒りを募らせ、ついに組合を抜けてただひと
  • ログラインからアウトラインを構想する。

    2016-11-10 22:50  
    51pt
     とりあえずテーマは「暴力的な権威への反抗」、ログラインは「決して人を殺さない盗賊集団〈斑猫団〉が重犯罪者で構成された〈猟犬隊〉と対決する」というところまで決まりました。 この段階ですでに失敗があるかもしれません。あらためてチェックしてみましょう。このログラインはほんとうに魅力的か? うーん、よくわかりません。あるいは、より極端なコントラストを出して、

    LL(ログライン)22.決して人を傷つけない盗賊〈斑猫団〉と、凶悪犯のみで構成された追跡者〈猟犬隊〉の、壮絶な異能を駆使した対決。

     としたほうがいいかもしれませんね。 主人公たちは何らかの理由、あるいは理想のために人を傷つけることはできず、悪役たちは自由に暴力を振るうことができる。このコントラストは悪くありません。 それぞれが異能をもつグループ同士の対決という構図は、池波正太郎というより山田風太郎っぽいと思います。ただ、山田風太郎作品
  • ログラインをひろげていくためにはどうすればいいか。

    2016-11-10 20:23  
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     さらに続きです。

    18.決して人を殺さない盗賊団が、殺人鬼で構成された衛兵隊と対決する。

     これは、悪くないのではないか。「ダーク」だし、「独創性」も「皮肉」も「イメージの広がり」もあると思う。そしてまた、ここから『雲霧仁左衛門』を連想する人はほとんどいないでしょう。
     ただ、敵を「殺人鬼」に絞ってしまうと「イメージの広がり」が狭まってしまう気がします。だから、

    19.決して人を殺さない怪盗団が、殺人鬼など重犯罪者で構成された衛兵隊と対決する。

     としておくのが妥当かな、と。もう少しいじれるかな。

    20.決して人を殺さない盗賊集団〈黒猫団〉が重犯罪者で構成された〈猟犬隊〉と対決する。

     うん? 「猫」と「猟犬」のイメージを入れてみたのですが、良くなったのか悪くなったのかいまひとつよくわからないですね。良くなったような気もするのですが……。
     どうもぼくはネーミングセンスがない
  • ログラインをひたすら考える。

    2016-11-10 16:23  
    51pt
     さて、続きです。前の記事を書いてから気づいたけれど、「1」と「2」のログラインを合わせると映画『レオン』に近くなりますね。これでは、独創性という点でケチがつくかも。
     うーん、歴戦の殺し屋という設定が『レオン』に抵触しているのか。ということは、「歴戦」のところを「新米」にしてみたらどうだろう。えーと、

    3.新米の殺し屋が副ボスから子供の世話を、ボスからその子の処分を命じられる。

     ……まあ、ありかな。しかし、「新米の殺し屋」って何だか変ですね。「新米のチンピラ」かな。それとも「チンピラの男」か。「若いチンピラ」? 「副ボス」というのも日本語的におかしい気がするから、ここは「恩人」に変えておきましょう。

    4.ある若いチンピラが恩人から子供の世話を、ボスからその子の処分を命じられる。

     うん、まあ、これはこれであり。しかし、これは何だか面白さが減った気がする。おお、そうだ、最初のログ