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記事 32件
  • 「サポーター男子」の時代が来る。

    2016-02-20 12:57  
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     ども。何度目かのダイエット中の海燕です。
     今度こそ!の思いを胸に、とりあえず3週間で4.4キロ減らしました。
     ちょっと減らし過ぎかな。でも、減らせる時に減らしておかないといけないですからね。
     具体的に何をしたかというと、間食をやめただけなんだけれど、それでも減るものですね。
     ダイエットって、体重を減らすことは実は簡単で、それを維持することが大変なんだよなあと思います。
     リバウンドを計算に入れずにただ体重を減らすだけだと、岡田斗司夫さんみたいになってしまう。
     やっぱり食事制限だけで体重を落とすことには無理があって、運動しないといけないのだと思います。
     しかし、いまの体重でジョギングしたりするのは辛いし、足に負担がかかる。
     そこで、ぼくはいまいわゆる「アニメダイエット」を試みています。アニメを見ながら踏み段昇降をするというダイエットですね。これが意外に効果があるらしい。
     もちろん、見るのがアニメである必要はないわけで、ぼくはNHKの朝ドラ『あさが来た』を見ながら踏み段しています。
     ぼく、このドラマ、好きなんですね。好みはもちろんあるけれど、最近の朝ドラのなかではかなり面白いほうに入ると思う。
     単純明快といえばそれまでながら、気分がいやになるエピソードがないのがいい。
     朝から気分が落ち込むようなドラマを見たくないですからね。
     このドラマでは公私ともに主人公あさを助ける「五代さま」を演じたディーン・フジオカがブレイクしましたが、ぼくは玉木宏演じるあさの夫・新次郎が好きです。
     ほとんど仕事をしない遊び人ではあるものの、ワーカホリック気味の妻を愛し、彼女をさまざまな形でサポートしていく良き夫。
     なるほど、いまの時代はこういう人物が理想的な夫なのだなあ、と思わせられますね。
     普段は温厚ながら、妻が侮辱されるとちゃんと怒るあたりも格好いい。
     やっぱり夫はこうでなくてはいけません。自分の妻の悪口をいわれてへらへらしているようではダメです。
     まあ、 
  • 話題の新作ガンダム『鉄血のオルフェンズ』、第1話は少々駆け足の印象。

    2015-10-05 00:21  
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     いまの時代、ロボットアニメといえば何はなくとも『ガンダム』、というわけで、『機動戦士ガンダム』シリーズの最新作『鉄血のオルフェンズ』第1話を観ました。
     テレビでは見逃してしまったのでiOSアプリ「ガンダムファンクラブ」を落としてそこから動画を見たという次第。
     いやあ、便利な時代になったものです。
     まあ、いくら見逃し作品を後追いできるようになったとはいっても、作品そのものが面白くなければどうしようもないわけですが。そこらへん、『鉄血のオルフェンズ』はどうなのか?
     うん、まあ、なかなかじゃないですか(偉そう)。
     物語が始まる舞台はどうやら地球の植民地と化しているらしい火星。
     詳しい説明はありませんが、テラ・フォーミング後数百年とか経っていそうな印象で、普通に人々が生活しています。
     もっとも、例によって生活環境は劣悪であるらしく、主人公と思しい少年たちは奴隷のようにこき使われています。
     人権などまったくないといっていい奴隷労働状態。
     かれらがこの劣悪な状況からどうやって抜け出していくのか、あるいはさらなる絶望が待ち受けているのか、なかなか興味をそそる展開です。
     ちょっとメキシコ独立革命か何かを思い起こさせる舞台設定で、これから『怪傑ガンダム』、じゃない地球圏からの独立戦争の物語が展開していくのだと思われます。
     おっさん的にはなつかしの『ヴィナス戦記』とか思い出させる初期設定ですね。
     ふっるいなー。ぼくは見ていないけれど、『アルドノア・ゼロ』とかもそういう話だったんですかね(ほんとうに知らない)。
     なぜいまの時代にこの設定を持ってきたのかということは第1話ではよくわからない。追々わかってくるのだと思います。
     まあ、地球からの独立戦争というテーマを設定した時点で泥臭くなってくるのは仕方ないところで、あまり美少年らしい美少年も登場しない、わりあいに地味な『ガンダム』になっています。
     もっともそれだけにガンダムの美しさが映えるということもいえるので、この段階では一概に良いとも悪いともいえませんが……。
     おそらく敵役として活躍するであろう地球の守護者「ギャラルホルン」の側は美形キャラがぞろぞろ出て来てほしいところではありますが、さて、どうなるやら。
     うん、まあ、スタートダッシュの第1話としてはまあこんなものかな、と思いますよ(やっぱり偉そうだな)。
     悪くない。続きも見てみたいと思います。
     ただ、あえていうならいろいろな説明を容赦なく織り込んでいるせいでシナリオが駆け足になっているところは否定できないでしょう。
     今回、脚本はぼくらの岡田『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』麿里さんが努めていて、監督も『あの花』の長井龍雪さんらしいのですが、いやー、第1話に相当詰め込んできたなって感じ。
     マクロ的な状況説明からミクロ的な心情描写まで詰め込んで、ともかくも成立させているあたりはなかなかに見事なシナリオではあるんだろうけれど、その代償としてひとつひとつのエピソードに「ため」がなく、軽い印象になっていることはどうにも否めない。
     ロボットアニメの、というか『ガンダム』を題するタイトルの第1話である以上、ラストまでにガンダムが動き出さなければならないというミッションを背負っているわけで、脚本に「枷」があることは仕方ない。
     その上でどう情報を処理し、見せるべきものを見せるかというところが芸の見せどころであるわけですが、その点でいうと今回の物語はもう少し、というところ。
     いや、もちろんわかるんですけれどね。ラストのガンダム出陣を際立たせるために戦争の絶望を描いておきたかったということは。
     ただ、その展開がいかんせん駆け足になってしまっている。
     これ、『ファイブスター物語』の第7巻から第8巻あたり(リブートの第5巻あたり)の展開そのまんまの脚本意図なんですよね。
     地上で兵士たちが互角の戦いをやっていて、そこへ超存在であるロボットが登場して絶望を植え付けて、しかしそこに味方ロボットが出て来てさらに逆転する、という、戦闘ロボットの花やかさ、格好良さを段階的に演出するシナリオ。
     ただ 
  • 『ファイブスター物語』十年来の最新刊、ついに刊行! 伊達と狂気の全面設定変更だ!

    2015-08-08 02:35  
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     出た! 『ファイブスター物語』約10年ぶりの第13巻、あたかもその間に何ごともなかったかのように書店の棚に並んでいました。
     いやー、よくもまあ出たものです。
     この先、第20巻くらいまで魔導大戦のエピソードが続くはずなのですが、それは10年先のことになるか、15年先になるか。だれにもわからないというのが実情です。
     さらにその先の「星団暦3159年」のエピソードとなると、これはもう、果たして実物を見れるかどうかなんともいえない。
     しかし、とにかくいまはこの「ザ・マジェスティック・スタンド」に集中しましょう。
     そしてともかく第13巻が発売されたことを喜びたいと思います。
     さて――前巻から話はそのまま続いているのに内容は急展開のこの巻なのですが、いざ全体を俯瞰してみると、むしろ『ファイブスター物語』としては比較的地味な「つなぎ」の巻だったのではないかと思われます。
     アトールの巫女
  • ぼくが『月マガ』を買う気になれない理由。

    2015-08-06 02:10  
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     先ほど、LINEで『月刊少年マガジン』は面白いけれど特に買う気がしないよねという話をしました。
     そうそう、そうなんですよね、「週刊」のほうの『マガジン』はまだ毎週買っているけれど(電子書籍で)、「月刊」の『マガジン』は特に購入インセンティヴを喚起されないのです。
     一作一作のクオリティは相当に高いと思うんだけれど、なぜだろう。
     ――いやまあ、考えてみるべくもなく理由はあきらかで、雑誌の雰囲気が古いんですよね。
     ひとつひとつの作品を見て行くと面白いんだけれど、一時代前の感性で描かれている作品が多い気がするんですよ。
     それでも『四月は君の嘘』が連載されていた頃はそれ目あてで読んだりしていたけれど、いまは雑誌として相当に古びてしまっている印象です。
     やっぱり「いま」の時代とシンクロしている作品を読みたいです。
     何が「いま」を表現しえているかという話はもちろん微妙なんですけれど、少なくとも何十年も前に始まった連載が「いま」を表しているということは少ないでしょう。
     まあ、これも一概にいえないのは、むかしむかしに始まった連載が表現のアップデートをくり返して立派に「いま」に通用する作品に仕上がっている例があること。
     とはいえ、『鉄拳チンミ』とか苦しいところではありますよね。頑張っているし、面白いんですけれどね。さすがに古い。
     ただ、その時代とシンクロしていることだけが唯一の価値かといえば当然そんなことはないわけで、普遍的に面白い作品というものもある。
     それでも、雑誌全体が時代と切り離されてしまうと、これは苦しいですね。
     やっぱり「いま最先端の、押さえておかないといけない漫画はこれだ!」といったものが一本でも載っているとそれだけで違う。
     『3月のライオン』のためだけに『ヤングアニマル』を買っているぼくがいうのだから間違いない。
     「いま」の時代の問題とシンクロしている漫画は、やっぱり「いま」読みたくなるわけで、雑誌の切り札となりえる。
     べつだん、『月刊少年マガジン』の悪口をいうつもりはないんだけれど、『月マガ』は特に「いま」、読まないといけないと思わせる作品は載っていないと思うんだよなあ。
     くり返しますが、一作一作のクオリティは悪くないんですけれどね。
     でも、『なんと孫六』の読み切りを読むために雑誌を買わないよなあ、と。
     まあ、やがては 
  • 物語論。奈須きのこの世界は「拡散」する一方で「前進」しない。

    2015-07-20 07:30  
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     昨夜、LINEで話したことがちょっと面白かったのでメモしておこう。
     最近、『アベンジャーズ』とか『バットマンVSスーパーマン』とか、本来、独立しているヒーローの映画を組み合わせた映画作品が次々と発表されて話題をさらっている。
     映画史的にはそれなりに画期的な事態だと思うのだが、この種のクロスオーヴァーは、アメコミの歴史のなかではくり返し行われてきたことであるらしい。
     というのも、本来、「なんでもあり」のアメコミでは、バットマンやスパイダーマン、ウルヴァリンといったキャラクターだけを活用してさまざまな実験的な作品が描かれてきたからだ。
     それもこれも作家ではなく出版社が著作権を有しているからではあるのだが、あるキャラクターが何度も死んだり、そのたびに生き返ったり、いろいろなキャラクター同士がくっついたり離れたりすることはかなり常識的に行われているのだとか。
     日本人の目から見るとかなり奇妙にも思える話ではあるが、あらゆる物語の根源である神話や民話に近いと考えると、こちらのほうが正統な物語の系譜であるといえるかもしれない。
     一方、より作家的/近代的な作品が多いと思われる日本ではそういうオールスターキャスト的作例は少ないと思われる(ないことはない)。
     『ガンダム』とか『仮面ライダー』あたりは比較的近いだろうか。
     もっとも、『ガンダム』でさえひとつの宇宙を共有しているというわけではない。
     その一方で「ある作家が描いた複数の作品がひとつのバックグラウンドを共有する」という真逆の現象はよく起こる。
     それはたとえば永井豪の作品がそうなったように、独立して描かれた複数の作品が最終的にはひとつの物語世界へ流れ込んでいく、という形を取ることもあるし、奈須きのこの作品がそうであるように、初めからひとつのバックグラウンド世界を想定して書かれることもある。
     『エヴァ』とか『ジョジョ』とか『ファイブスター物語』などを見て行くと、まったく異なる作品を作り出そうとしても最終的には同じものに仕上がってしまう作家がいることもわかる。
     その作家が自分の内面世界を象徴的に描き出しているだけなのだと考えるなら、それは当然のことであるのだろう。
     『エヴァ』にしても、新劇場版のシリーズは「まったく新しいものを作ろうとしても『エヴァ』になってしまう」というところから「それなら『エヴァ』にしよう」ということになったらしいし……。
     とにかく、このように、それぞれ独立した物語であるように見えていた物語がひとつの物語世界の出来事として語られることは洋の東西をまたいで少なくない。
     もっというなら、その際、「公式」か「非公式」か、一次創作か、二次創作か、という話は原理的にはあまり意味がない。
     重要なのは、一度発表された魅力的な物語は、その瞬間から「拡散」しはじめるということである。
     たとえば、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものは発表以来、数知れない「パスティーシュ(贋作小説)」を生み出している。
     その数、数万ともいわれるパスティーシュは出来も内容もさまざまだが、シャーロック・ホームズないし類似の人物が登場していることだけは共通している。
     これをすべてひとつの世界のパラレルワールドの出来事として考えると、ちょっと面白い。
     というか、こういう「同じキャラクターが登場するが内容的に矛盾する複数の物語」を合理的に整理しようとすると、必然的に「平行世界(パラレルワールド)」を持ちださざるを得なくなるということだろう。
     逆にいえば、その設定さえ持ち出してしまえばどんな異質な物語であろうと、異なる世界線の出来事として整理してしまえるということでもある。
     先述した奈須きのこの作品世界は、それぞれの作品がパラレルワールドの関係にあり、しかもひとつの作品内でもパラレルな複数の物語が展開しているという非常に複雑な構造になっている。
     そこに『Fate/Zero』を初めとする「外典」がいくつも加わるわけで、もう何がなんだか、という状況ではある。
     だから、たとえば『Fate』なり『月姫』の番外編的新作が作られても、それは必ずしも『Fate』や『月姫』の物語が先へ進んだことにはならないわけだ。
     それぞれ「Fate」とか「Unlimited Blade Works」と名付けられた物語はあくまですでに完結しており、それはもう変わることはないということなのだろう。
     ここまで書いてきて、それでは、一本の連続した物語とはどう定義すればいいのだろう、ということが頭に浮かんだ。 
  • あなたの最愛の天才は、いつか必ずあなたを裏切る。

    2015-04-12 00:10  
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     たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』である。 世の中には天才といわれるようなクリエイターがいて、時折、信じられないほどクオリティが高い作品を生み出す。
     しかもそれはただ品質的に高度だというだけではなく、何かひとの心を捉えて離さない特別な魅力を秘めている。
     そういう作品にふれたとき、受け手は思う。「ああ、まさにこれこそ自分が夢にまで見た理想の作品だ」。
     そして、その作者に対し強い親近感を抱く。この人は自分のような人間のことをとてもよく理解してくれているに違いない、と。
     これが、ひとがあるクリエイターの「ファン」になるということである。
     クリエイターとファンの良好な関係は、しばらくの間は続くだろう。そのクリエイターがファンにとって最高の作品を提供しつづける限り、ファンはかれを神とも崇めつづけるに違いない。
     この状態を、ぼくの言葉で「蜜月」と呼ぶ。
     しかし、時は過ぎ、状況は変化する。永遠に変わらないかに思われたその天才クリエイターの作品も、しだいに変わっていく。
     その変化は、人間であるかぎり必然的なものだが、ファンには重大な「裏切り」とも感じられる。
     なぜなら、ファンはそのクリエイターに幻想を見ているからだ。そのひとが自分の理想を体現しつづけてくれるという幻想を。
     だからこそ、クリエイターがその理想から外れることは途方もなく辛く感じられるのだ。
     そして、ときにファンはその「裏切られた」という思いをクリエイターにぶつける。
     最も熱烈なファンであったひとは、最も凶悪な弾劾者になるだろう。こういうパターンを、あなたも一度や二度は見たことがあるのではないだろうか。
     『エヴァ』ではなく、『グイン・サーガ』でも、『AIR』でも、『ファイブスター物語』でもなんでもいいのだが、熱狂的な「信者」を集めるカルトな傑作は、次の段階に進んだとき、「そっちへ行くな! ここに留まれ!」というファンたちの非難に晒される。
     かれらはいうに違いない。「一時だけ夢を見せてそれを裏切るなんて、なんてひどい!」と。
     しかし、それは本質的にクリエイターのせいではないのである。どんな天才的なクリエイターといえども、人間である以上、変わっていくことは必然なのだ。
     そして、ファンとまったく同じ人格ではない以上、ファンの気持ちをどこまでも汲み取りつづけることも不可能なのである。
     あるいはファンはいうかもしれない。「自分は金を払ったのだから、作者には自分の望むとおりにする義務がある」。
     だが、そんな義務はない。わずかな金銭で他人の行動をコントロールしようなどと、無駄なことだ。
     たとえばアニメ『艦これ』のように、大規模な失望が「炎上」現象を生むこともある。それも無駄といえば無駄なことである。
     どんなに騒いでも、他人の気持ちを変えることはできない。そしてすでに作られてしまった作品の筋書きを変えるわけにもいかないのだ。
     大切なのは、クリエイターと自分はべつの人間であり、べつの価値観を持っていて、べつのものを良いと考えるのだ、という事実をしっかり認識しておくことである。
     ひととひとはあくまでも「個別」。蜜月の夢は甘いが、それはどこまで行っても幻想に過ぎない。
     だから、怒ってもいいし、批判してもいいが、他人を自分の思い通りにコントロールしようなどと考えるべきではない。他人は他人に過ぎないのだ――たとえ、信じられないほど天才的な他人ではあるにせよ。
     理屈では、そういうふうに思う。とはいえ、 
  • もっと新しさを! 映画『ゴティックメード』は自己否定/自己破壊のプロセスそのものだ。

    2015-04-05 17:28  
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     何か良い作業BGMはないかな、ということで『花の詩女 ゴティックメード オリジナル・サウンドトラック』を借りて聴いています。
     監督の意向により円盤が発売されていない作品なので、いまのところ作品を思い出すよすがとなるものはこのサウンドトラックと設定資料集くらいしかない。
     『ゴティックメード』が『ファイブスター物語』と直接につながる作品であることがあきらかになったいま、円盤を発売すれば売れると思うのですが、原作・脚本・監督の永野護にはそんなつもりはさらさらないようですね……。
     『ゴティックメード』は『ファイブスター物語』でいうところの星団暦451年の物語です。
     本編のストーリーからおよそ2500年前の話ということになりますね。
     それだけならまだいいのですが、この映画『ゴティックメード』を境にして『ファイブスター物語』の世界はその様相を一変させることになります。
     それまでは騎士と生体コンピューター・ファティマ、それに巨大戦闘ロボット・モーターヘッドが活躍する世界でした。
     しかし、ファティマは「オートマティック・フラワーズ」と呼ばれるようになって「アシリア・セパレート」という新たな戦闘服をまとい、何よりすべてのモーターヘッドが「ゴティックメード」へと姿を変えるのです。
     それまでにもその展開を予感させるものはありました。
     映画『ゴティックメード』の冒頭に現れるナイト・オブ・ゴールドらしき、しかし微妙に違うロボットは何なのか?
     『ゴティックメード』の世界が星団史のどこかに位置づけられるとして、なぜこの巨大ロボットはモーターヘッドではなくゴティックメードと呼ばれているのか?
     映画本編で一切活躍しないゴティックメードたちはいったい何のためにデザインされたのか?
     しかし、ぼくを含むほとんどの視聴者がその微細な違和感をあたりまえのように捨て去ってしまったのでした。
     そのときは、まさか永野護が世界ひとつすべての設定を捨て去り、リファインするつもりだなどとは想像すらできなかったのです。
     かつてそんなことをやってのけた作家はなく、あるいはこの後もないかもしれません。
     しかし、よくよく考えてみれば、その作業は「平行世界」を取り扱って来たゼロ年代からテン年代にかけてのアニメや漫画とシンクロするものでした。
     ただ、永野は「平行世界」などという使い古された概念を使用することなく、一切の説明もなしに世界を入れ替えてしまったのです!
     いままでも突然に超未来の話になったり、異宇宙、さらには神々の世界から物語が始まったりと、あらゆる意味で衝撃的な展開を遂げてきた『ファイブスター物語』ですが、それにしてもこれほどの展開を想像できたものはだれもいなかったでしょう。
     連載30年にしてなお自分自身をアップデートしつづける。
     ほかのクリエイターたちが追いついてきたならさらにまたひき離す!
     その、想像力の冒険。
     結果としてファティマやロボットのデザインはいままでにも増して異形となり、ある種、ピーキーな属性を持つに至りました。
     好きなひとにとってはとてつもなく格好良く思える一方、そうでないひとにとってはまさに異常としか感じられないデザインではあるでしょう。
     しかし、それでいいのだ、それこそが斬新ということなのだ、「超一流(プリマ・クラッセ)」でありつづけるということはそういうことでしかありえないのだ――そこに永野のその壮烈な宣言を感じないわけには行きません。
     いままでにも 
  • 天才よりも貴重な凡才とは何ものか?

    2015-04-01 04:45  
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     『ファイブスター物語』の作家として有名な自称天才デザイナー永野護に、こんな発言があります。

     永野護というキャラクターデザイナーを起用するときに求められるのはただひとつ。簡単なひと言で済む。
    「いままでに誰も見たことのないような、すっごい奴をつくってくれ」
     これは僕がかつてとあるアニメ製作会社にいたとき、当時の上司、山浦氏から言われたことばです。
     それに対して僕は
    「あ、そういうのなら簡単です。いちばん得意ですから」

     いやー、ぼく、このひとのこういうところ、大好きだなー。
     傲岸不遜。あるいはひとによって「なんていやな奴だ」と思うかもしれないけれど、ぼくはこういうひとだから好きなのです。
     ナガノのファンはみんなそうなんじゃないかな。わかりませんが。
     ここにあるものは、どこまでも傲然と自分の天才を誇る態度です。
     「実るほど首を垂れる稲穂かな」なんて精神はまったくない。
     「どうだ。おれはすげえだろ」という子供のように真っすぐな自負があるだけです。
     「どうせおれなんて……」とかひねくれがちなぼくなどから見ると、実に爽やかに思えます。
     もちろん、「才能があるからそういうことがいえるんだ」という意見はあるでしょう。
     しかし、いった以上はやらなくてはならないわけで、「謙虚」に振る舞っているほうがひととしてよほど楽なのに違いありません。
     それにもかかわらず、永野護はビッグマウスによって自分にプレッシャーをかけ、追い込んでゆく。
     そして結局、「万人を納得させる」とまでは行かなくても、ともかく口先だけの男ではないと思わせるところまではやってのけるのです。
     素晴らしい生き方だと思います。もちろん、凡人に真似できるものではないことはたしかだけれど、ぼくはこういう傲岸な人間に対してあこがれがある。
     まだ新潟では未公開なのですが、映画『イミテーション・ゲーム』の主人公アラン・チューリングもまたその種の「傲岸な天才」のひとりだったようです。
     しかし、チューリングの場合はあまりに不遜すぎたために、周囲の理解を得られず、どんどん孤立していってしまいます。
     映画がどのような結末を迎えるのかぼくはしりませんが、じっさいのチューリングの人生は悲劇に終わっています。
     才能はあっても社会性がない人物は往々にしてこういった結末を迎えることになるようです。
     しかし、それはかれら自身だけの責任なのか? 社会の側に問題はないのか? ぼくはあると思うのです。
     社会の側が十分なクッションを持っていれば天才と衝突することはないと考えます。
     チューリングを演じたベネディクト・カンバーバッチはその前に天才探偵シャーロック・ホームズを演じています。
     シャーロックも奇行の目立つ天才ではありますが、しかし、社会的に孤立し切ることはありません。
     ぼくはそこにはワトスン博士という「偉大な凡人」の存在を見ます。
     ワトスンのような「偉大な凡人」がクッションとして間に挟まることによって初めてその真価を発揮する才能というものもあるのではないか。
     ぼくはここで、田中芳樹『七都市物語』に登場するユーリー・クルガンのことを思い出さずにはいられません。
     クルガンは秀抜な軍事的天才のもち主でありながら、その性格の悪さがたたってだれにも好かれません。
     しかし、ただひとり、上司のカレル・シュタミッツだけがかれを信頼し、登用します。
     クルガンの描写はこんな感じ。

     彼は誰に対しても、冷淡で辛辣だった。自分自身に対しても、あるいはそうかもしれなかった。いつも不機嫌で、自分を「不遇な天才」と信じこみ、人を見る目のない上司たちを豚や猿と同一視しているようだった。その男を参謀長にすると聞いて、シュタミッツの知人たちは一瞬絶句し、そのあと翻意するようすすめたが、シュタミッツは我意をとおした。
     これ以後、カレル・シュタミッツ司令官代理は、ユーリー・クルガン参謀長の立案した作戦にOKサインを出すだけの役割を自らに課する。「不遇な天才」が才能を完全に発揮しえる環境をととのえる――それが自分の責任だと、三つ子の若い父親は考えたのである。
     クルガンのほうは、司令官代理の配慮を承知していたが、だからといって謝辞をのべるでもなかった。それができる性格なら、クルガンの敵と味方は、比率を逆転させていたであろう。
    「昔、トーマス・アルバ・エジソンという男がいて……」
     と、クルガンは知人に語ったことがある。
    「刑務所に電気椅子をセールスしてまわった男だが、そいつが言った。天才とは九九パーセントの汗と一パーセントの霊感だ、と。低能の教育者どもは、だから人間は努力しなくてはならない、と生徒にお説教するが、低能でなくてはできない誤解だ。エジソンの真意はこうだ。いくら努力したって霊感のない奴はだめだ、と」

     こういうところ、さすが田中芳樹はわかっているなあ、と思わせられますね。
     クルガンは非凡な天才ですが、かれのその抜きん出た才能はシュタミッツという「偉大な凡人」を得て初めて発揮されるのです。
     シュタミッツは 
  • スラッカー(怠け者)ヒーローの系譜を考えてみる。

    2014-07-30 07:00  
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     「小説家になろう」で津田彷徨『やる気なし英雄譚』を読みはじめた。ペトロニウスさんが、何かのラジオで「この主人公みたいなキャラクターは、いそうで案外いないよね」と云っていたので、どういうキャラクターがいるのか考えてみた。
     思うに、この種のキャラクターの特徴は、「怠け者」というネガティヴな個性を背負っているところだと思う。
     トム・ルッツの『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』によると、こうした「怠け者」たちは、その時代、時代でさまざまな名前が与えられるものの、現代ではスラッカーと呼ばれているらしい。Wikipediaではこんなふうに記述されている。

    スラッカー, slacker は、第1次/第2次世界大戦間の時期に、徴兵制を拒否していた人々を指していたが、1990年代には、静的、熱心でない、努力をしないような人々の状態を表す言葉として使われる。典型として、スラッカーは無職・或はサービス業で不安定な被雇用状態にある。
    イギリスでは、アイドラー, "idlers" とも呼ばれる。

     また、同書の訳者あとがきでは、「『ドラえもん』ののび太くん、『釣りバカ日記』のハマちゃん、フーテンの寅さん、放浪芸術家の山下清などなど」が日本のスラッカー文化のキャラクターとして挙げられているのだが、ぼくとしてはここに『必殺』シリーズの中村主水、『機動警察パトレイバー』の後藤隊長と、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーを付け加えたいところだ。
     『ルパン三世』のルパン、『シティハンター』の冴羽獠あたりにも何か共通するものを感じる。Twitterで指摘されたところでは、キン肉マンや『DEATH NOTE』のLなんかもあてはまるかもしれない。
     それから、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエン。『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンや『氷菓』の折木奉太郎は微妙なところか。
     こうやって並べてみると、ある程度の共通点が見て取れる気がする。これらのキャラクターの共通点は、 
  • 社会に「そこで死んでいけ」といわれたら?

    2014-01-07 12:36  
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     そうすると、部族社会で殺し合っている人々の願いは、統一なんですね。国際社会は、統一国家として独立して初めて、意見を述べることができる。ところが、部族社会というのは、言い換えれば、統一のシンボルが部族(=血縁とか)による社会だということで、国民的アイデンティティを統合するシンボルを欠いているんですね。アフリカとか中東の地域を非常に遅れた地域として蔑む気持ちが先進国に生まれるのは、この統合国家と視点シンボルを独力で築き上げる、、、言い換えれば、国家という部族での利害を超えた幻想の「正しさ」を生み出すことのできない人々という意識があり、これは、たぶん鶏と卵の議論ではあるものの、否定できない。
    http://ameblo.jp/petronius/day-20071202.html

     ペトロニウスさんのこの話を枕に、『ファイブスター物語』の話をしよう。
     ぼく、この作品、大好きなんだけれど、何しろ異常にややこしい設定が絡んでいるため、詳しく話そうとすると未読の人にとっては何が何だかわからないことになってしまうんですよね。そこで、未読の人にはいいたい。
     読め!
     話の進展が遅かったり、時々何年もの休載に突入するという欠点はありますが、天才永野護による日本を代表する傑作です。この機会に読んでおきましょう。
     その『ファイブスター物語』の第6巻から第8巻にかけて、主人公であり超大国A.K.D.(アマテラス・キングダム・ディメンス)の皇帝である天照が、ある湿地で行方不明になる事件が語られている。
     当然、A.K.D.は軍隊を発進させて天照の身柄を確保しようとするが、運悪くドラゴンが生み出す「命の水」を求めるシーブル国軍と戦闘に陥ってしまう。
     しかし、天照が行方不明という情報を流せば国際紛争の契機にもなりかねない。そこで、司令官たちは下に何ひとつ情報を漏らすことなく戦闘を強要せざるを得なくなる。
     さて、ここで上の記事に繋がる。
     この際、A.K.D.の戦車隊が、巨大な戦闘ロボット、モーターヘッドに戦車で突っ込み、玉砕していく場面がある。もちろん、彼らは戦車でMHに勝てないことを知っている。
     それは、天照が一国の国王という次元を超えて、A.K.D.そのものだからである。戦車隊のリーダー、ユーリ・バシュチェンコの言葉を引用しよう。

    「マラーホフ!! ファジーチェフ! グリロローヴィチ! ベリヤエフスキー!! 各戦車隊長聞け!! この作戦はA.K.D.の威力制圧などではないっ!! 我がA.K.D.の存亡をかけた戦いなのだ!! 敵MHを止めよ!! 各主砲はビラケルマモードにせよ 一発でも多くの弾をMHに当てろっ!!」

     ここまで聞いた部下たちからは、「ムチャ言うなよ!! MH相手によ~~っ 死ねってか?」という声が上がる。当然の反応である。しかし、バシュチェンコの次の言葉を聴いて、彼らは当然のように死地に赴く。

    「湿地で救出を待っておられるのは我らが光皇その方である!! 戦車隊!! いやA.K.D.軍人としてその働き 陛下にお見せしろ!!」

     なぜこの言葉を聞いて部下たちは無謀な命令に従う気になったのか? それは、天照がA.K.D.の統帥であり、スーパーカリスマであるからだけではない。
     このことを理解するためには、A.K.D.が天照家が治めるグリース王国を初めとする十の国家から成る連合国家であることを頭にいれておく必要がある。
     デルタ・ベルン星一つを有するこの国は、実に一千年に渡って天照に治められている。逆にいえば、その間、デルタ・ベルンは平和だったということだ。
     ジョーカー星団のほかの大国、フィルモアやハスハさえもしばしば戦乱に巻きこまれていることに比べると、これは凄まじい格差である。しかし! もし、ひとたび天照帝その人の身が失われたなら、そのすべてが一気に崩壊するかもしれない。
     つまり、A.K.D.にとって天照こそが唯一の統合のシンボルなのであって、その天照が失われたなら、A.K.D.の平和も繁栄も供に失われ、デルタ・ベルンは再び戦乱の世に帰って行くかもしれないのだ。
     戦車でMHに突入した戦車隊の隊長たち、天照ひとりを守るためでなく、A.K.D.を、その平和を守るために彼らは死地に赴くのである。ほんの数秒、数十秒でも天照の身柄を危険からそらすことが出来たなら、その死には意味がある。
     そして、逆に、兵士を指揮する側は、何千、何万の兵士を殺そうと、天照ひとりを守らなければならない。しかも、その理由を兵士に説明することは出来ない。
     当然、兵士たちのモラルとモチベーションは低下していくばかり。しかし、それでもなお、天照の存在はすべてに優先する。人命よりも! 人道よりも! 倫理よりも道徳よりも! 天照のほうが重要なのだ。
     しかし、かれらは知らない。やがて、その天照帝そのひとによって、ジョーカー太陽星団に史上最大の大戦争の火蓋が切って落とされることを。星団暦3159年。星団統一戦争、モナーク・セイクレッドの始まりである。
     ――というような記事を、以前、書いたのですが、これは「マクロの大義」についての記事なんですよね。
     まあ、つまりアマテラスの帝という個人には、何千何万の人命を超越した価値があるということで、それは民主主義社会に生きるぼくたちから見るといかにも愚かしくも見えるのだけれど、そうじゃないというお話。
     ぼくはこの記事をある種の現代的価値観へのカウンターとして書いたと思うんだけれど(もう忘れた)、最近の話をしていてふと思い出し、見つけ出しました。
     ここでは「マクロの大義」は「ミクロの人生」より重要なのだ、というような文脈で作品を語っているのだけれど、もちろんそうではないという価値観もありえます。
     何といっても、アマテラスひとりを救い出すために現実に無数の人々が死んでいるわけで、そしてその死んだ兵士たちひとりひとりにとって自分の人生は代替が効かないものなのです。
     べつに「マクロの大義のために死ね!」といわれる謂れはないよな、と。いや、かれらは軍人だからそういう義務があるかもしれないけれど、ぼくたち一般大衆はちょっとマクロの大義のために死んでくれといわれても困ってしまうよね、と。
     しかし、同時に国家運営などのマクロ的決定はミクロの個人への情に流されて決定されてはいけないことも事実なのです。「こいつら可哀想だから保障を増やしてやろう」とかいうことで決めてはならない。アマテラスその人は決してその点を間違えない人物という設定なんですけれどね。
     で、ここでちょっと話が飛躍するのですが、「マクロの大義」が「ミクロの個人」を圧殺しようとする時、ミクロの個人にどのような抵抗ができるかと考えるんですね。
     ここで、抵抗するな、マクロに殉じろということもできるんだけれど、まあやっぱりそれは無理だと思うんですよ。「希望は、戦争。」(http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html)でもないけれど、社会全体が自分を見捨てたと感じたら、それでも社会に忠誠を尽くしつづける気にはなれないよなーと。
     そこで戦争とかテロリズムを希望したとしても、論理的に批判し切ることはむずかしいんじゃないでしょうか? また仮にそうしたとしても、「じゃ、おれは非社会的存在になることを選ぶよ。社会はおれに何もしてくれないし」といわれたらそれまで。
     「お前に裂くリソースはないからそこで死んでいけ」といわれた人間が、おとなしく死ななければならない理由もないよなと。
     まあでも、