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記事 25件
  • 『ヲタクに恋は難しい』は斬新な(ライト)オタク漫画だ。

    2016-04-26 13:22  
    51pt

     『ヲタクに恋は難しい』最新巻、読了。
     第一巻が100万部を突破したという大ヒットコミックスの続刊です。
     いや、100万部て。この漫画不況の時代にとんでもない売れ行きですね。
     それでは、その成果に値するほど面白いのかというと――これが、そうでもない。
     まあ、普通? 普通よりは上かな? それくらいの漫画だと思います。
     もちろん悪くはないのだけれど、天才の閃きを感じさせるとか、そういうことは一切ない。ごくありふれたラブコメ漫画。
     それにもかかわらず、この作品が圧倒的人気を博しているのは、ひとえに時代を捉えるセンスが傑出していたからではないかと。
     いい方を少々下品な方向に変えるなら変えるなら「時代と寝た」一作といっていいでしょう。
     どういうことか?
     この漫画は既存のオタク漫画、たとえば『げんしけん』とかとは決定的に違う作品だと思うのですね。
     『げんしけん』とか『こみっくパーティー』といった漫画が、なるべくディープなオタクの生態を描こうとしていたのに対し、この『ヲタクに恋は難しい』が描いているのは、どこまでも「ライトオタク」なのです。

     あるいは作者の能力の限界からたまたまそういうことになったのかもしれないけれど、あくまでもライトなオタクの世界を描いている。
     取り上げられるネタのひとつひとつもオタク的にはごく「薄い」ものばかりで、そういう意味では面白くない。
     でも、これが現代のオタク漫画としては「正しい」と思うのですね。そうそう、これでいいんだよね、と。
     じっさい、話の内容も、お前は有川浩か!といいたくなるようなベタ甘さなので、『ヲタクに恋は難しい』というタイトルもほんとうは正確じゃない。
     このタイトルは一種の反語であって、『(ライト)ヲタクに恋は易しい』が正しいと思う。
     しかも、男性はどこまでも格好良く、女性はどこまでも可愛く、可憐に描写されている美男美女漫画でもあるので、既存のオタク漫画が好きな人は「こんな奴らいねーよ」と思うかもしれません。
     でも、おそらく、いるのです。あの「リア充オタク」という造語で話題になった(ていうか炎上した)『新・オタク経済』で語られたような人たちは、多数派ではないかもしれないけれど、たぶんそれなりに数がいるんですよ。

     いままでオタク文化とされてきたカルチャーはそこまですそ野が広がっているということ。
     それは旧来のオタクからすればいたって「薄い」「凡人」に過ぎないかもしれません。
     でもねー、たかが趣味に「濃さ」なんてものを必須として求めるほうがどうかしているとぼくは思うのです。
     いま、若年層でいっさいアニメや動画を見たことがない、ゲームをしたことがないという人は、むしろ少数派なんじゃないかな?
     ということは、若年層の大半は、程度の差はあれどこかしら「オタク」であるのです。
     『ヲタクに恋は難しい』は、そういう時代をみごとに捕まえた一作といっていいでしょう。これはこれで素晴らしい。
     いや、ほんと、つくづく思うけれど、こういう漫画が出る、しかも100万部とか売れてしまうご時世なんだよなあ。時代は変わりにけり。
     でも、 
  • 結婚相手には「ゆるオタ君」がいい? 女性向けの婚活本を読んで非モテの暗黒面がめらめらと燃え上がった件。

    2016-04-25 21:43  
    51pt

     牛窪恵『「ゆるオタ君」と結婚しよう』読了。
     「ゆるオタ君」に偏見を抱いているであろう世の女性たちに、実は「ゆるオタ君」は条件がいいよ、と教示する本です。
     そのほかにも色々な意味で「圏外」と見られていた男性たちが出てきて推薦されるのですが、まあ、基本的にはそういう内容。
     何を読んでいるんだお前はといわれるかもしれませんが、だって、タイトルが気になったのだもの。
     女性目線で「ゆるオタ君」がどのように見られているか、皆さんも知りたいとは思いませんか?
     ぼくは知りたいと思ったのだけれど――うーん、結論からいうと知らないほうが良かったかも。
     ひさびさに読んでいて苛立ちが募る一冊でした。
     いや、このタイトルから内容を推察しきれなかったぼくが悪いのだろうけれど、さすがにげんなりしましたね。
     あくまで女性向けの本だと思われるので、男性が読むのがそもそも間違えているのかもしれません。
     では、具体的にどういう中身なのかというと、「ゆるオタ君(アイドルオタク含む)」がいかに結婚相手として適切か、縷々綴ってある。
     まあ、それはいいとして、ほんとうに「ただそれだけ」であるところがいかにも辛い。
     曰く、AKB男は、真面目で博識、ピュアで浮気しない、女性をリスペクトしてくれるし、家事やイクメンに抵抗がない。だから、結婚するならそういう男を守備範囲に入れるべきだ、うんぬん。
     一から十まで、条件、条件、条件。相手の個性や人格などまったく問題にしていないように思われてなりません。
     当然ながら「AKB男」も人それぞれで違っていて、色々な人がいるはずなのだけれど、この本ではそういうことはまったく問題にされていません。
     どこまでもかれらの結婚相手としての条件のよさがくり返されるだけ。
     ぼくはひとりの「ゆるオタ」として、褒めてもらえてありがたいと感じるべきなのでしょうか?
     ところが、どうしてもそういう気にはなれない。
     というのも、結局のところ、ゆるオタだろうがなんだろうが個々人でそれぞれ違っているというあたりまえの認識を一足に飛び越えて、ある種のバイアスを押しつけているように思えてならないからです。
     ただ、そのバイアスの種類が「ネガティヴな偏見」から「ポジティヴな偏見」に塗り替えられているところがいまふうではあるのだろうけれど。
     「オタク」という言葉が一般化し、「オタク・イズ・デッド」が叫ばれ、「ライトオタク」が増えた結果として、かつて敬遠された「ゆるオタ」もまた結婚相手の条件として妥協できるところまで入ってきた、という話なのだと思います。
     妥協。
     そう、ぼくのひがみかもしれませんが、どうにも「イケメンとか三高は無理そうだから、妥協してこういう人で満足しておくといいですよ」といわれているようにしか思えないのですよね。
     読書メーターにはこんな感想もあります。

     よんでいて「とりあえずオタクetcみたいなので我慢しときましょう」「一応は結婚するけどこれは妥協ですよ」的、上から目線でコイツは何様!?と思った。まぁ女性対象の本だからそういう煽り方なのかもしんないけど、世の中の考えが「妥協」という言葉に向かうのは嫌だ。少なくとも男性陣は読まない方がいいかも。
    http://bookmeter.com/b/4062176882

     これはこれでおそらく偏った感想でしょう。著者にはそんな意図はないのかもしれません。
     でも、 
  • 「性交欲」は「性欲」よりも満たしがたい。

    2016-04-22 14:44  
    51pt
     「ずっと二次元さえあれば生きていけると思ってた」という匿名記事を読みました。
    http://anond.hatelabo.jp/20160421025800
     ずっと二次元(のエロゲ)さえあれば生きていけると思っていたけれど、この頃は寂しくなってきた、と「普通」に生きられない自分を嘆く内容です。
     いかにも典型的なオタクの嘆きのようだけれど、じっさい読んでみたところ、オタクはあまり関係ないな、と思いました。
     むしろ非コミュの問題でしょう。まわりの「普通」の生き方にあこがれながら、しかしそれは自分にはできない、あまりにもストレスフルすぎると考える。
     現実に対して矛盾した心理を抱いているわけで、これは辛いだろうな、と思います。
     しかし、実は記事そのものよりも、それに対する反応のほうが興味深い。
     つくづく思うのだけれど、ひとはだれかから「苦しい」といわれると、即座に「お前の苦しみなんて大したことない」とか「そんなに苦しいはずがない」といって否定しにかかるものなのだな、と。
     本人が苦しいといっているのだから苦しいのだろうと認めてやってもいいはずなのに。
     たぶん、だれかに「苦しい」といわれると、自分の苦しみを否定されたように感じるのでしょう。
     「自分のほうがもっと苦しいんだ!」、「この程度のことで苦しいなんていうな!」という対抗心が生まれる。
     苦しみはひとそれぞれで、比較なんてできるはずもないのにね。
     ひとの苦しみを否定するのでもなく、何かしらの「解決法」を提示して自己満足するのでもなく、そのままに寄り添うことはかくもむずかしいということでしょうか。
     それにしても、「二次元は心の隙間を埋めて癒してくれるが、温もりは与えてくれなかった」とは、けだし名言です。
     たしかになあ。抱き枕にほっかいろをくっつけて「ぬ、ぬくもりだ」とかいってもむなしいだけだものなあ。
     風俗へ行け、というお約束のツッコミもあるようですが、この人は傷つくのが怖いので、それもしたくないということのようです。重症ですね。
     きのう読み上げた『はじめての不倫学』の言葉を引用させてもらうなら、この人が充足させたいのは「性欲」ではなく「性交欲」なのでしょう。
     ただ単にからだを合わせるのではなく、ひととつながりあい、混ざりあい、ぬくもりを味わい、精神的に充足したいという欲望。
     ひとが多くの場合、恋愛に求めるもの。
     ゆえに、風俗産業では満たすことができない。
     もちろん、 
  • アニメオタクは汚い? 友達がいない? 知性が低下している? 裸を見ると吐く? 中村淳彦『ルポ 中年童貞』を読む。

    2016-04-13 00:46  
    51pt

     ども、PS4の『ダークソウル3』に手を出そうかと考えている海燕です。
     まあ、確実に投げ出すだろうから買わないけれど、ちょっと惹かれるものがある。
     いや、その前にクリアするべき積みゲーが何本もあるのですが。
     うん、おとなしく『ドラゴンクエストビルダーズ』の続きをやろ。
     さて、先ほどパスタを食べた帰りにTSUTAYAで本を買ったので、きょうはその話でも。
     タイトルは『ルポ 中年童貞』――って待て待て待て、ブラウザのタブを閉じるな。
     一応、マジメな本なんだから。
     まあ、だれも中年童貞の話なんて聞きたくないかもしれませんが、ぼくは大いに興味があるのです。
     いや、正確にはべつに中年童貞そのものに興味があるのではなく、この社会の「見えない格差」に興味があるといえばいいか。
     だから、これからきわめて真剣な話をします。どうか、ブラウザを閉じるのは読み終えたあとにしていただきたい。いや、ほんと。
     ここでいう中年童貞とはつまり中年以上の年齢で女性との性交渉の経験がない男性のこと。
     著者によると、現代日本では30~34歳の男性のうち4人にひとりが童貞なのだそうです。
     この割合を多いと見るか少ないと見るかはひとそれぞれでしょうが、著者から見ると大いに問題がある数字らしい。
     なぜなら、かれにいわせれば、中年童貞とは「社会の根幹に関わるネガティヴな問題」を抱えた存在だから。
     童貞だろうが処女だろうが個人のかってだしいいじゃないかと思うわけですが、そういうふうにはいかないらしい。
     そういうわけで、著者は秋葉原へ行ったり(童貞が多そうだから)、AV業界を探ったり(童貞にくわしそうだから)といった過程をたどって中年童貞の現実をあきらかにしようとします。
     ただ、結論から書いておくと、この本を読んでも、現代社会の「見えない格差」をあきらかにしてくれているのではというぼくの期待はまったく満たされませんでした。
     はっきりいって著者の意見はどう考えても偏見と憶測でしかない側面が強く、客観性を欠いているように思われるからです。
     著者はよっぽど中年童貞にひどい目に遭わされたのか、中年童貞へのバイアスが凄い。
     中年童貞は「物事の考え方や行動が周囲とはズレてい」て職場でもトラブルを起こすことが多いとしています。
     しかし、ぼくが思うに、もしその観測が正しいとしても、それは原因と結果が主客転倒しているのではないでしょうか。
     仮に「物事の考え方や行動が周囲とはズレてい」る人たちが一様に中年童貞だということが事実だとしても、それは童貞が原因でそういう性格になっているわけじゃなく、そういう性格だから童貞になったのだと思います。
     中年童貞でもほがらかで魅力的な人はいくらでもいるでしょう。著者はそういう存在を無視しているようにしか思えない。
     あと、オタクがものすごくひどい扱い(笑)。
     著者は秋葉原へ行ってオタクにくわしいという人物に会うのですが、この人がどうにも納得いかないことをいいだします。
     長くなりますが、引用させてもらいましょう。

    「二次元しか愛せないっていうオタクがいるけど、そのほとんどは方便ですよ。実際は現実の女の子に相手にされないから、二次元が好きというのが一般的です。最近はネットで叩かれるからみんな言わなくなったけどね。二次元しか好きになれないって言い訳、自己暗示。オタクの人に見られる傾向だけど、自己正当化するわけですね。非モテって言葉も同じように使われている。俺たちはモテないのではなく、モテたくないと。もちろん例外もあって現実の女の子からモテるルックスだけど、二次元しか興味がないって人もいる。それは若い世代に多いですね。
     アニメの専門学校の学生から聞いたけど、学校でデッサンの授業がある。モデルの女の子が学校に来て裸でポーズをとって、それをデッサンする。そうすると嘔吐とか体調を崩す学生が続出するらしい。理由を聞くと、リアルな女は毛穴があって気持ちが悪いみたいなことを言ったりする」

     えー、ほんとかよー(疑)。都市伝説じゃないの?
     まあ、たしかにそういう人がいないとはいい切れませんが、超少数派だと思いますよ。違うのかなあ。
     この後にも「アニメ好きに共通しているのは年齢に関係なく、中学生や高校生のときに学校でモテなくて、不遇な環境の中で美少女キャラクターを性的対象にして、現実の世界から逃避していることです。(後略)」とか、「多くのオタクは、処女以外は人間じゃない、といった思想を持っています。(中略)処女信仰は、処女であることがなにより重要であるという考えです。処女じゃないと人間ではないっていうのは異常ですが、オタクにとっては当然の思考。(後略)」とか、どうにも偏見としか思えない話が出て来る。
     そりゃ、そういうオタクも一定数いるだろうけれど、そうじゃないオタクも大勢いるわけで、「オタクとはそういうもの」みたいに語られると困ってしまうのだけれども。
     とにかくこういった話を聞いて真に受けた著者は考えます。

     二次元に依存するオタクのほとんどは、全員がそのまま死んでいく――。その言葉を聞いて呆然とした。どこにもないファンタジーを信じて、現実をなにも知らないまま死んでいくのはあまりに淋しくないか。

     どうしてそうなる(笑)。
     このような文章を読むと、こういう方は虚構を虚構として楽しむということが理解できないのかもな、と思わずにはいられません。
     少なくともぼくがオタクコンテンツを消費するのは、「どこにもないファンタジーを信じて」いるからではなく、エンターテインメントとして面白いと感じているからです。
     たしかに一部のオタクには処女的な美少女との恋愛幻想を抱いている人もいるでしょうが、オタクが全員そうだというわけではまったくない。
     それこそ「オタクのほとんど」は、虚構を虚構と割り切って楽しんでいるはずではないでしょうか。
     と、思うんだけれどなあ。どうなんだろ。
     まあ、たしかに好きなキャラクターが処女じゃないとわかったら作者にいやがらせのメールを送ったりする輩もいるようだから、一概に嘘だとはいえないけれど。
     でも偏見だと思うぞ。
     その一方で、「昔のオタク」はわりといい印象で捉えられている。
     著者はまたべつの人物にこんな話を聞きます。

    「今は、リアルのアイドルが好きなオタクとアニメ好きは仲が悪い。昔のオタクは岡田斗司夫みたいな感じで、オタクコンテンツ全体を俯瞰してチェックするのが普通だった。彼らにとってオタクはコレクターだし、マニアだからいろんな情報を知っていることが誇り。だから昔のオタクは博識だし、今でも40代以上のオタクは高学歴でいろんな知識がある。若いオタクになるとアニメしか知らない、アイドルしか知らないという人が増えている。インテリジェンスが低下して、ひたすら好きなものだけに逃避することが一般的なオタクになってしまった(後略)」

     いやいやいやいや、「昔のオタク」、つまりオタク第一世代にインテリジェンスがあったっていうのは幻想だってば。
     で、いまのオタクのインテリジェンスが低下しているというのも嘘だと思う。
     ここでいう「昔のオタク」って、岡田斗司夫さんなり唐沢俊一さんたちのことであるわけでしょう。
     いってはなんだけれど、相対的に見ていまのオタクの平均的な若者のほうがよっぽどしっかりしていると思いますよ、ぼくは。そりゃ、岡田さんはヤリチンだけれどさ。
     そしてまた、このような話を聞いた著者はまたも思うのです。

     コンテンツの消費を続けるオタクは、企業に消費活動を操られながら、死ぬまで仮想商品を購入し続けるだけの一生を送る。過去の日本に前例がないだけに幸せなのか、不幸なのかよくわからない。好きなものに囲まれて、好きなものを買い続けている人生は幸せかもしれないが、それがリアルな女性の代替である二次元美少女となると、簡単には想像ができないディープな哀愁を感じる。

     いや、だから二次元美少女はべつに「リアルな女性の代替」とは限らないのですって。
     ぼくなどは二次元美少女そのものが好きなのであって、それはべつに何かの代替とかではないのですから。
     それにオタクの生き方が幸せなのか不幸なのかなんて、大いに余計なお世話です。
     その生き方に「哀愁を感じる」というのなら、明治の文士にだってそれを感じるべきでしょう。
     フィクションに一生をかけているという意味では同じことなのだから。
     さらに、話はオタクのファッションや生活にまで及びます。

    「あのファッションはダサいんじゃなく、服にお金を限界までかけないと、結果論としてあの服に行きつくわけです。(中略)アイドルファンはお風呂も入るし、清潔。一方、アニメ好きは厳しい。ズボンのチャックが壊れても、そのまま歩いているとか、社会的に逸脱するオタクもたくさんいる。アニメ好きのオタクは服装が汚いダサいだけじゃなくて、他者がないから友達もいないし。まあ、そういう人たちです」

     そういう人たちです、じゃないでしょう。長年オタクやっているけれどそんな奴に逢ったことないよ。
     まあ、絶対にいないとはいわない。ある程度はいるのかもしれないけれど、大半のオタクはお風呂くらい入りますよ(笑)。
     友達だって普通にいるだろうし。
     ウルトラマイノリティを例にだして全体を評価しないでほしい。
     なんなんだろうな、この何十年前から一向に変わらない偏見は。
     いや、そうじゃないのか?
     ひょっとしたらほんとうにこういうオタクばかりのグループがあって、ぼくがそれを知らないだけなのか?
     オタクのなかでも格差があるとか?
     そうだとしてもそれをオタクすべての代表のようにいわれることは心外だけれど、ちょっとわからなくなってきた。
     そういう側面はあるのではないか?
     くらくら。くらくら。
     まあ、やっぱり単なる偏見が大きいとは思うけれどもねえ。
     いや、 
  • オタク文化はどこまで政治的に正しくないか。

    2016-04-02 23:26  
    51pt
     ここ数日、ひとりでうちにやって来た甥っ子(6歳)の世話に追われていた海燕です。
     エネルギーにあふれる子供の相手ってほんとうに疲れますね。
     わが家に滞在しているあいだ、ほぼぼくがメインで子守りをしていたので、甥が帰宅したあとはスイッチが切れたようになりました。疲れた!
     ちなみに本人は初めは小声で喋っていたものの、慣れるにつれて大きな態度になり、しまいには「あっち行け!」とかいいだすまでに。いや、ここ、ぼくの家なんだけれど。
     そのうち「バトルごっこしようよ。ぼく、仮面ライダー全部とウルトラマン全部ね」などといった迷言も飛び出すありさま。お前は何をいっているんだ。
     最後は上機嫌で帰ってくれたのが救いですが、そのあいだプライベート時間がないのはしんどかった。世のパパさんママさんの偉大さが身に沁みます。いや、ほんと、偉いなあ。
     まあ、楽しかったけれどね。
     さて、それとはまったく関係ありませんが、「最近オタクとして生きるのがつらい」という匿名記事を読みました。
    http://anond.hatelabo.jp/20160330144201
     この手のタイトルに対しては「辛いならやめれば」としか思わないぼくなのですが、この記事は論旨の展開がちょっとだけ面白かった。
     つまり、オタクとオタク文化の政治的な「正しくなさ」が耐えられないという意見なのですね。
     具体的には『涼宮ハルヒの憂鬱』はセクハラだとか書かれています。
     はっきりいっていまさらな話ではあるし、具体的な指摘にはツッコミどころもあるのですが、まあ、そういう考え方はありえるだろうな、とは思います。
     厳密に見ていけば、それはオタク文化なんて問題含みに決まっている。
     ライトノベルであれ、ウェブ小説であれ、差別的な表現なんていくらでも見つかることでしょう。
     この記事自体は実に他愛ない内容に過ぎませんが、現代のオタク文化に差別性があるという指摘そのものは否定できない一面があると考えます。
     しかし、だからといってこの文化が堕落した良くないものなのだ、とはぼくは考えないのですね。
     結局のところ、それもまた人間の一面である、と考えるからです。
     昔からの読者の方は、ぼくが『らくえん』というエロゲを好きなことをご存知なことでしょう。
     このゲームはムーナスという名のエロゲメーカーに就職した主人公を描いているのですが、そこではオタク文化のダメな側面がこれでもかというほど語られます。
     ひっきょう、オタク文化のことを語るとき、そのポルノ性を否定することはできない。
     オタク文化とは欲望の文化なのであって、どうあがいてもお綺麗な表現だけで表し切ることはできないのです。
     しかし、『らくえん』はだからオタクであることが辛いなどといいだすことはありませんし、シニカルに「それはしかたないことだよね」と訳知り顔をしてみせることもしません。
     「欲望の文化」としてのオタク文化を正面から見据えた上で、そこに人間の人間らしさを見るのです。
     上記記事ではオタク文化を「果実」と「クソ」に分けて、前者を肯定し、後者を否定しています。
     オタク文化にはいい側面もあるけれど、政治的におかしい部分もあって、悩ましいといういい方ですね。
     しかし、ぼくにいわせればそうやって良いところと悪いところに分けて考えられるほど問題は単純ではない。
     オタク文化であれほかの文化であれ、「偉い思想にのっとって書かれた素晴らしい作品」と「そうではないくだらない作品」を分けて、前者にだけ価値があるのだとする時点で、何かが間違えている。
     そうやって清と俗を分けた段階で、人間の本質を見落としているのだと感じるのです。
     むしろ、 
  • 新しいオタク文化が見えない。

    2016-03-20 21:27  
    51pt

     こんばんは。『精霊の守り人』ドラマ版、なかなか面白そうですね。
     さて、きょうのラジオでも最後に少し話したのですが、「「この素晴らしい世界に祝福を!」はコンプレックスまみれの視聴者を徹底的にいたわった作品?」というまとめがちょっと面白いです。
    http://togetter.com/li/931628
     『この素晴らしい世界に祝福を!』というアニメを巡る野尻抱介さんと新木伸さんのやり取りをまとめたもので、単純にいい切ってしまうと「反対派」と「賛成派」の対決という文脈で読むことができます。
     野尻さんはこの作品についてこう語っています。

    トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。

     よく読むと色々ツッコミどころがある発言なのですが(トラック転生じゃなくてトラクター転生だとか、主人公はかなり苦労しているよねとか)、細かいところをあげつらったところで仕方ないので流します。
     このツイートの勘どころは「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ」というところにあるでしょう。
     ようするに「こんなしょうもないアニメを見ていないでもっとエラい作品を見ろ!」ということだと思われます。
     まあ、おそらくは1000年くらい前からエンターテインメントに対する批判としてあったであろうパターンなので、あまり新味はないわけですが、いっていることはわからなくもない。
     たしかに、このアニメを見て教養が身についたり人格が向上したりはしないでしょうから。
     問題は、ひとは普通、お勉強のためにアニメを見たりしないということで、この論旨を突き詰めて行くと「エンターテインメントなんて役に立たないから見るのやめろ」という結論になりそうだと思うのですが、どうなんだろうな。
     ひとは普通、鍛錬のためではなく楽しみのためにアニメを見るのだから、その点を否定してもしかたないとは思うけれど。
     とはいえ、まあ、最近のアニメ(特に萌え系)はいくらなんでもあまりに甘ったるいという意見もわからなくはないので、ある程度は傾聴に値する意見だと思います。
     新木さんの発言については、ぼくは生涯一切触れないというゲッシュを立てたので語りませんが、まあ、野尻さんの意見に反対することをいっているわけですね。
     問題は、話題が進むほどに話がずれていっているように思えること。
     アニメやライトノベルといった最近の若者向けエンターテインメントを巡る話はしだいに一種の若者論の様相を呈して来るのですが、『このすば』を「最先端の若者向けエンターテインメント」の代表格のように扱うことには無理があると思うのですよ。
     だって、 
  • 「普通」って何か知っているかい?

    2016-01-09 03:39  
    51pt
     最近、Twitterもほとんどやっていないのですが、久々に面白いと思ったツイートがあったのでメモメモ。

    おそ松さんをクソニートが酒飲んだりして暮らすクズアニメとして面白がってる僕は、ホモ的に熱狂する腐女子もそれを弾圧するアンチおそ松腐派も「マナーを守ろう」と訴える学級委員長派も全部ピンとこなくて「みんな一体誰と戦ってるんだ」ってなる。「普通に面白い」派もっとがんばってくれ。
    https://twitter.com/tarochinko/status/684764087352344576

     何が面白いって、期せずして「普通」という見方が相対化されているように思えるところですね。
     この発言者さんはおそらく『おそ松さん』というアニメを「クソニートが酒飲んだりして暮らすクズアニメとして面白が」ることが最も「普通」の見方だと考えているのでしょう。
     しかし、現実に目立っているのは「ホモ的に熱狂する腐女子」や「それを弾圧するアンチおそ松腐派」だったりするわけで、最終的には「「普通に面白い」派もっとがんばってくれ。」というなんとなく矛盾した発言を行うことになっている。
     これはちょっと面白い事態だな、と思うわけです。
     わかるでしょうか。本来、「普通に面白い」という派閥は(その作品が面白いといえる出来なら)最も「普通」で、メジャーであるはずなのに現実には「もっとがんばってくれ」と言わなければならないほど少数派に見えている。そのギャップが非常に現代的だな、と感じるわけです。
     もちろん、じっさいにはサイレントマジョリティがたくさんいるのかもしれないけれど、いわゆる「腐女子的な見方」がメジャーになって来ると、こういうある種の逆転現象が起こることにもなるのだな、と感慨深いですね。
     そしてそれはひょっとしたらだれにとっても望むべきでない展開なのかもしれず、ぼくもまた「「普通に面白い」派もっとがんばってくれ」と思わないこともありません。
     しかし、その一方で、ここまでいろいろな見方が氾濫して来ると、いったい何が正しい、正統な見方で、何がマイナーな見方なのか、はっきりと確定させることは容易ではありません。
     『おそ松さん』を見て「ホモ的に熱狂する」ことは異端の、奇妙な見方だとだれに断言できるでしょう?
     それに比べて「クソニートが酒飲んだりして暮らすクズアニメとして面白が」ることが「普通」だとみなすことにどれほどの正当性があるでしょうか?
     まあ、「腐女子」の人たちはその存在を隠したがる傾向があるので(現実にはまったく隠れられていないことも多いわけですが)、「自分たちの見方こそが普通だ!」とは主張しないと思われますが、それにしても見方の多様化は「普通」という概念を歪ませているのだな、と思わせられるのでした。
     いい方を変えるなら、 
  • カザマアヤミが描く「イタオタ」の幸福な日々。

    2015-10-17 01:09  
    51pt

     カザマアヤミ『嫁いでもオタクです』を読み終えました。
     昨年のぼくのベストであるところの『恋愛3次元デビュー』の続編ということで、とても楽しみにしていたのですが、期待に違わぬ素晴らしい出来で、今回も大笑いさせていただきました。
     前作は女子高育ちで男性に対する免疫が一切ないカザマアヤミが、さまざまなカンチガイを乗り越えて結婚するまでを描いていたのですが、今回はその後の新婚生活のお話。
     普通ならスウィートになるはずのお話なのですが、そこは夫婦そろってずぶずぶのオタク、ひと筋縄で行くはずもなく、色々な事件が起きます。
     メイドロボに嫉妬して泣いたりとか、旦那と友達の関係に腐ってみたりとか……。
     全体的に下ネタが多めなので、前作と比べてひとを選ぶところはありますが、あいかわらず捧腹絶倒の内容で、面白いです。
     前作と合わせてオススメの本なので、良ければご一読ください。
     読み終えてひとつ思ったのが、この夫婦、ふたりともとても幸せそうなのだけれど、こういう人たちを「リア充オタク」とは呼ばないのだろうな、ということ。
     ふたりともどちらかといえば「イタオタ」に近いわけで、『新・オタク経済』的な見方からすれば、旧時代の人間ということになってしまうのかもしれません。
     しかし、ふたりはそんなこととはまったく関係なく幸せを満喫しているわけで、やっぱりリア充がどうこうという指標は信用ならないなあ、と思ってしまいます。
     大学がテニスサークルだからリア充だとか、将来を嘱望されているから勝ち組だとか、あまりに単純すぎるのではないでしょうか。
     そういう一面的な見方は人間の複雑さに対する侮辱だと思う。
     こういう話になると、ぼくはいつも北村薫の小説『鷺と雪』の一節を思い出します。

    「身分があれば身分によって、思想があれば思想によって、宗教があれば宗教によって、国家があれば国家によって、人は自らを囲い、他を蔑(なみ)し排撃する。そのように思えてなりません」

     結局、人間という生き物はどうしようもなくひとを差別し、あるいは優越感に耽り、あるいは劣等感に悶える。そういう存在なのだろうと思うのです。
     劣等感を振りかざすことは優越感を抱くことよりまっとうなことのように見えるかもしれませんが、じっさいには「おれはこんなに可哀想なのだから配慮しろ」といっているに等しいこともあるわけで、そう単純には評価できません。
     結局のところ、リア充がどうの、オタクがこうのといってみても始まらない、各自がただ好きなように生きていけばいいのだろうというところに結論は至りそうです。
     もちろん、 
  • 一億分の一であるという素晴らしさ。

    2015-10-12 05:52  
    51pt

     ペトロニウスさんの最新記事を読みました。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151011/p2
     ほとんど改行がなくてめちゃくちゃ読みづらいのですが、非常に面白い内容です。
     そして、きわめつけにタイムリー。
     これは必然的な偶然だと思うのだけれど、「リア充オタク」を巡る話題とストレートに繋がっています。
     この記事、「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?」というタイトルなのですが、まさにこの「主人公になれないぼく」を巡る問題こそ、ここ最近、一部の少年漫画やライトノベルが延々と語ってきたテーマだと思います。
     つまり、高度経済成長が終わり、「努力・友情・勝利」がストレートに成立しなくなった現代において、物語の主人公になる(努力して勝利する)ことができなくなった「ぼく」はどのように生きていけばいいか?という話ですね。
     これは非常に現代的なテーマだといっていいでしょう。この答えを模索し、そしてついにはひとつの答えにたどり着いた、いま、ぼくたちはそういう物語をいくつか挙げることができます。
     くわしくは「物語三昧」のほうを読んでほしいのですが、この記事を読むと、「リア充オタク」という概念の古さがはっきりとわかります。
     「リア充」という概念はもう克服されたものであるわけです。
     ぼくたちは――というかぼくは、もう「リア充」と「非リア」、「モテ」と「非モテ」、「勝ち組」と「負け組」、「主役」と「脇役」といった対立概念を持ち出し、前者でなければ幸せではありえないのだと考える価値観を乗り越えている。
     そして、それと同じことは『僕は友達が少ない』から『妹さえいればいい。』に至るライトノベルの流れのなかではっきり示されています。
     『僕は友達が少ない』は、「リア充」を敵視する「残念」な人たちの話でした。
     この物語のなかで、主人公は最後までだれかひとりと結ばれることなく(リア充になることなく)終わります。
     最初から最後までかれは「残念」であるわけです。
     これは、あたりまえのライトノベルを期待した読者としてはまったく気持ちよくない展開であるわけで、当然のごとくこの結末は悪評芬々となりました。
     しかし、テーマを見ていくとこの結末で正しいのです。
     というのも、仮にかれがだれかとくっついていたら(リア充になっていたら)、この物語のテーマである「残念でもいいじゃないか」、「リア充にも成功者にもなれなくても、人生はそのままで楽しいのだ」ということが貫けなくなってしまうからです。
     だから、『僕は友達が少ない』のエンディングはあれで完全に正しい。
     ただ、まったく快楽線に沿っていないので、単に気持ちいいお話を求める大多数の読者には怒られることになるというだけで……。
     さて、順番こそ少し前後しているものの、『僕は友達が少ない』の次の作品である『妹さえいればいい。』では、テーマがさらに進んでいます。
     この物語にはこういう記述があります。

     才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。
     誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。
     一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。 この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。

     ここで作者ははっきりと「リア充」対「非リア」といった二項対立的な価値観を乗り越えているわけです。
     そして、この作品のなかで描かれるのは、この「メインテーマ」を前提とした、どこまでも楽しい日常です。
     べつだん、『僕は友達が少ない』とやっていることは変わらないのですが、ペトロニウスさんが書いている通り、『僕は友達が少ない』よりさらに楽しい印象を受ける。
     それはなんといっても、登場人物たちがみな自立した社会人であり、精神的にバランスが取れた人物だからです。
     かれらの日常はとても充実しているといっていいでしょう。
     ぼくは以前、それを「リア充にたどり着いた」といういい方をして表したのですが、いまとなってはこの表現は正確さを欠いていたということがはっきりわかります。
     むしろ、「「リア充」を乗り越えた」というべきでした。
     より的確にいうなら、「リア充」とか「非リア」という二項対立的な概念を持ち出し、その一方でなければ幸せにはなれないのだという価値観を乗り越えたというべきでしょう。
     そう、『妹さいればいい。』の連中ははっきりと『僕は友達が少ない』のテーマの延長線上を生きています。
     かれらもまた、ある意味ではコミュ障であったり、妹キチガイであったり、メイド好きであったりと、実に「残念」な連中です。
     それなりにオシャレだったりアクティヴだったりする面はあるにしても、べつに何もかもが秀でたリア充というわけではない。
     しかし、かれらはそのことにもはや一切の負い目を感じていません。
     もちろん、 
  • なぜオタクが小ぎれいになった(ように思える)のか?

    2015-10-11 19:16  
    51pt
     前の記事に付いたコメントにレスを返します。

     リア充オタクもマイルドヤンキーも勝手に定義を作り広めて儲けようとする連中の仕業によるものだよね。マイルドヤンキーの定義に当てはまるのなんて昔から大量にいたのに最近現れたかのように言われる。あれの定義はヤンキーでもなんでもない都会に憧れも志も持たない低所得者。それを無理矢理広めようとするからネットでは批判が見られた。


     「おたく」の反対語としての「リア充」という言葉が生まれたのは、西暦二〇〇〇年を過ぎてからですね。その前の一九九〇年代には、まだ、「リア充」という言葉はありませんでした。
     私の記憶している限りでは、一九九〇年代以前の「おたく」の中にも、おしゃれな人はいましたし、普通にリアルの人間と恋愛している人もいました。結婚して子供もできて、普通に家庭生活を営みながら、「おたく」活動を続けている人も、おおぜい知っています。 私の感覚では、「『おたく』である人が、ファッションに興味を持ったり、恋愛したり、結婚したりということとは、縁が薄いに決まっている」という考えのほうが、違和感があります。
     「全か無か」のように、何でも二つにすぱっと割り切れるものではないですよね。何だか、無用な線引きをして、対立をあおっているだけの気がします。


     この話、いろいろな問題が交錯していてちょっと切り分けをしないといけないと思うのですが、まず、ぼくはいわゆるオタク文化へのカジュアル層の流入は事実としてあると思っています。
     ぼくが中高生の頃ははっきりオタクと呼べるのはクラスに2,3人いるかいないかというところでしたし、それもあまりオープンにできる雰囲気ではありませんでした。
     そういう意味では10代、20代の大半がニコ動ユーザーという現在とは隔世の感があるのはたしかかと。
     で、その影響によってオタクが全体的に小ぎれいになってきているということもたぶん事実だと思います。
     問題はそれを端的に「オタクがリア充化した」と見るかどうかということで、おそらく背景にある条件そのものが変わって来ているということも大きいと思うんですよ。
     というのも、これは異論があるところかもしれませんが、ここ10年くらいで若者全体のファッションセンスが底上げされる形で向上していると思うんですよね。
     街を歩いていると、「めちゃくちゃおしゃれ」みたいな人は少ないとしても、そんなにおかしな格好をしている人も見かけなくなった。
     これは『新・オタク経済』のなかでもふれられていることですが、その背景にはユニクロを初めとするファストファッションの質の向上があると思うのです。