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『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』にオリジナリティはあるか?
2016-05-25 06:3151pt
ペトロニウスさんの『灰と幻想のグリムガル』評の第二弾が公開されていますね。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160524/p1
あるいはいつもの如くこのまま公開されずに終わるのでは?と思っていただけにひと安心です(笑)。
ぼくの文章も引用されていますけれど、『グリムガル』はほんとうに現代の青春ものの系譜のなかでも頂点といえるような傑作だと思います。
この作品をまだ見終えていないというこのていたらく。いいかげんそろそろ最後まで見ないとなあ。マーベル映画とか見ていないでこっちを見ろよ、という気もします。
さて、この記事のなかではっきり書かれているように、現代の青春もののトレンドは、
1)主人公になれないわき役が、
2)それでもどうやって人生の充実感を得るか。
というところに収斂していきます。
「きっと何者にもなれない」ぼくたちの冴えない青春。でも、けっこう楽しいし、いいところもあるんだよね、と。
これがおととい、きのうと書いた「充実した人生を送りたい」というテーマとかぶっていることがわかるでしょうか?
そう、ぼくはフィクションと同じテーマをリアルでも追及しているんですね。ただ、リアルではなかなか「死を実感すれば生もまた輝く」というわけにはいかないから、色々むずかしいわけなんですけれど。
『グリムガル』が傑作なのは、「1」の条件をほんとうに徹底して突き詰めているところです。
普通は「わき役」とはいっても一応はそれなりの能力を持たされているものなのですが、『グリムガル』の場合はほんとうになんの異能もないんですよね。それこそゴブリン一匹倒すこともできない。
で、その未熟で無能なかれらが「死」を実感することによって「人生の充実感=いま、生きているという実感」を得るプロセスが描かれています。
まさに「わき役たちの冴えない青春系」の最高傑作ともいうべき作品といっていいでしょう。
これ、映画の『ちはやふる』で、天才のちはやではなく才能がない太一がクローズアップされたのとまったく同じ構造だと思うのですが、もうさすがにそれは説明しなくてもわかってもらえるでしょう。
現代の青春ものはアニメであれ、映画であれ、必然的にそういう構図になるということなのです。
と、ここまでは話の前段階。今回はそういう「冴えない青春系」のひとつである『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』について話したいと思います。
この作品はもはや古典的といってもいいくらいライトノベルの伝統的形式を追従しています。どのような構造なのか、「物語三昧」から引用しましょう。
これまでのヲタクの言説や自意識の拗らせの中には、常に「リア充」という概念がその軸にありました。ヲタクの自意識を描くときに、どこかにリアルに充実している、この場合は、かわいい恋人やかっこいい彼氏に恵まれて、特に2次元に逃げることもなく、3次元の世界で楽しく過ごしている人々がいるという対抗意識のことになります。昨今(2016年3月時点の話)だいぶ薄れてきた気がするのですが、少なくとも過去のメジャー級の作品である『僕は友達が少ない』(2009-2015)や『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(2008-2013)などのライトノベルで頂点に君臨して、アニメ化もされ、一時代を築いた作品群は、この軸が常にセットされていました。この系統のほぼすべてのライトノベルの主要な軸が、これであったといっても、また現在もそうであると言い切っても、おかしくはないほどです。
そう、「また現在もそうである」。
ペトロニウスさんはまだ見ていないようですが、『ネトゲの嫁』の軸は、「リア充」ではなく「リア充」に対抗意識を持つ少年少女が自分たちでかってに部活を作り、楽しい学園生活を送るという『はがない』の構造そのままです。
もう、その点では一切オリジナリティがないといっていい。
だから、Twitterで宮城さんという方がこのような疑問を呈されていたのはいたって当然だといえます。
@LDmanken @Gaius_Petronius @kaien もうアップロード完了とは仕事が早いですね。ネトゲ嫁はオタクの描かれ方が俺妹の頃と変わらないように思えて、私は何だかちょっと古臭さを感じるのですが、LDさんから見てどうでしょうか。
これに対し、LDさんはこのように答えています。
@mi_ya_gi_3 @Gaius_Petronius @kaien まだ、全部見ていないので何とも言えませんが、どうなんでしょう。僕はむしろ登場人物たちはネトゲユーザではあっても(現代的な意味含め)オタクでは無いようにも感じています。
どうなんでしょうね。オタクとは何か、とかいいだすとまた長くてめんどくさい議論になってしまうと思うので深入りしたくはありませんが、少なくともぼくは『ネトゲの嫁』を見ていてそんなに古くさいとは感じなかったんですよね。
しかし、たしかに構造そのものは「リア充」を敵視する生徒たちだけで部活を運営するという、ありふれすぎているものです。やっぱり古くさい話なんじゃないの?といわれてもしかたありません。
それでは、『ネトゲの嫁』のオリジナリティはどこにあるのか?
これ、まだなんともいえないところではあるんだけれど、 -
ライトノベルを読んで「才能」の高い壁を考える。
2016-05-19 13:3151pt
白鳥士郎の将棋ライトノベル『りゅうおうのおしごと!』の最新刊を読みました。
この刊はこれまでの2巻を超えて、シリーズ最高傑作といっていい出来栄え。とても面白かったです。
今回の話は――と自分の手で物語を語りたいところですが、面倒なのでここは手抜きをして、表紙裏のあらすじをそのまま引用します。
「あいも師匠と一緒に『おーるらうんだー』めざしますっ!!」
宿敵≪両刀使い≫に三度敗れた八一は、更なる進化を目指して≪捌きの巨匠≫に教えを乞う。
一方、八一の憧れの女性・桂香は、研修会で降級の危機にあった。急激に成長するあいと、停滞する自分を比べ焦燥に駆られる桂香。
「私とあいちゃんの、何が違うの?」
だが、あいも自分が勝つことで大切な人を傷つけてしまうと知り、勝利することに怯え始めていた。そして、桂香の将棋人生が懸かった大事な一戦で、二人は激突する――!
中飛車のように正面からまっすぐぶつかり合う人々の姿を描く関西熱血将棋ラノベ、感動の第三巻!!
なかなかよくまとまっているあらすじです。
そう、今回の陰の主役はいままでの巻で少しずつその苦悩を見せていた主人公憧れの女性「桂香さん」。
今回、降級の危機に見舞われた彼女が「才能」という絶対的な壁を前に、悩み、惑い、そしてその苦しみを突き抜けていく様子が一巻をかけて描かれます。
「才能」。忌々しい言葉です。「頑張った者がそのぶん報われる」という教育的な教訓をあっさり否定してしまう、この不埒な言葉。
幻想のようでもあり真実のようでもあるあいまいな概念。
しかし、あたりまえの努力では埋めることができない絶対的な差は現実にあります。
将棋指しは、あるいはその「才能」が最もわかりやすく目に映る世界かもしれません。
何しろ、将棋の世界には「勝ち」と「負け」のふたつしかないのですから。
これほど「結果」が明快に分かれる業界もないことでしょう。
まあ、ほんとうは才能と実力の差が「結果」となって表れるのはどの業界も同じで、たとえば作家もそうだし、もっというならブロガーもそうなのだけれど。凡人辛いっす(涙)。
それは余談。
「才能」という、目には見えない、それでいて厳然として存在する「壁」に挑むとき、ひとはどうすればいいのか? 自分のすべてを賭してなお叶わない目的があるとすれば、どのような姿勢で望めばいいのか? それがこの巻のテーマ。
主人公の八一は十代にして史上最年少で竜王のタイトルを手に入れたという「天才」側の人間です。だから、このテーマを語るためにはふさわしくない。
そこで今回、主役級の役割を与えられたのが桂香さん。
25歳にして、女流棋士という夢をあきらめざるを得ない苦境に立たされた彼女は、今回、どうあがいても越えられないかもしれない「才能」という壁を前にし、絶望します。
それは作者自身の想いが投影された姿なのかもしれません。白鳥さんはあとがきでこう書いています。
私が小説を書き始めたのはラノベ作家としては遅くて、大学院の二年生くらい。それも、お金を稼ぐためでした。漫画やアニメが好きで、本を読むのも好きでしたが、子供の頃から作家になりたいなんて思ってたわけじゃないんです。プロになってもう何年にもなりますが、振り返ってみれば、何となく「こういうのが受けそうだな」と思って書いたことはあっても、「これが書きたい!」と思って書いたことはなかったような気がします。
今までは。
この作品は、「これが書きたい!」と心の底から思って書いた作品です。特にこの三巻は、自分がなぜ物語を書いているのか、どうして生きているのか、その理由を問い直すために書いたと言っても過言ではありません。桂香が答えを見つけたように、私も答えを見つけました。小手先のテクニックではなく、剥き出しの魂をぶつけることで、読む人の心を揺らしたい。私はこれからも、そうやってこの物語を書いていくつもりです。
その意気やよし。
ただ、この人の「才能」は「剥き出しの魂」というよりは「小手先のテクニック」のほうにあるよなあ、という気がしなくもない。
じっさい、 -
「他人の作品が、いかにつまらなかったかをドヤ顔で長広舌するようになったらおしまいさ」。
2016-05-18 13:0151pt
野村美月『下読み男子と投稿女子 ~優しい空が見た、内気な海の話。』を読みあげました。
面白かった! 最近、どうにも小説を読む機会が減ってきているのだけれど、これは素晴らしかった。
「読む」ことの喜びをひさしぶりに思い出せました。
野村美月さんは、典型的な物語作家(ストーリーテラー)タイプの人だと思います。
物語作家の最大の特徴は「いくらでも新しい物語を思いつく」こと。
こういうタイプの作家さんは、一様に一生かけても書ききれないほどの物語のストックを抱えているものです。
野村さんも、その多作ぶりを見る限り、相当の数の作品を構想しているのでしょう。
この『下読み男子と投稿女子』もそのひとつなのだと思います。
この作品には野村美月お得意のファンタジー設定はありません。ほぼ純粋なラブコメディです。
主人公はライトノベル新人賞の下読みの仕事をしている少年。
あるとき、かれはちょっとした偶然からクラスで孤高の地位を保つ美少女が新人賞に応募していることを知ってしまいます。
彼女から、新人賞に受かるための技術的指南を頼まれたかれは、できるかぎりの協力を行おうとするのですが――というお話。
なんといっても際立っているのは主人公の設定でしょう。
かれは「どんな作品でもいいところを発見できる」能力のもち主で、新人賞の下読みという、本来なら辛いような仕事を喜々として行うのです。
どれほど未熟な原稿も、かれにとっては宝の山。そこになんらかの長所なり挑戦の跡を読み取っては楽しみます。
読書オタクのひとつの理想形みたいなやつだな……。
ぼくもそういうふうでありたいとは思うけれど、なかなかむずかしいのが現実。
でも、理念としては理解できる。その作品が「よくできているか、どうか」ということと「面白いか、どうか」は、本来、あまり関係がない概念なんですよね。
まあ、よく混同されるわけだけれど、ほんとうは両者は違う概念だと考えるべきなんだと思う。
だって、よくできた作品だからって面白いと感じるとは限らないし、出来の悪い作品だって気に入ることはありえるのだから。
Amazonのレビュー欄とか見ていると、どんな大傑作でも必ず気に入らない、面白くなかったという人がいることがわかります。
それはもはやどうしようもないことなのだと思う。結局のところ、ひとの感じ方までは作品は介入することができないのだから。
もし「強制的に面白いと感じさせる」作品があるとしたら、それは芸術というよりは洗脳に近いでしょう。
しかし、逆にいえば、 -
『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は素晴らしく出来のいいダメ人間製造アニメだ。
2016-05-08 01:5051pt
どもです。
あまり根を詰めて記事を書いているとだんだん生産性が落ちてきますねー。30分で書けた記事が1時間かかるようになったりする。
効率が良くないので、適度に休んだりする必要があるのだと悟りました。じっさいに疲れ切るところまでいかないと悟れないあたり、オレ、マジどうしようもないな。
そういうわけで人生に疲れ果てたからアニメでも見るかということで、『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』を見ています。
あー、これ、ほんと見やすい。異常に楽。心にストレスが一切かからない素晴らしいアニメだな。
『灰と幻想のグリムガル』とか『甲鉄城のカバネリ』みたいなきびしい話もそれはそれでいいけれど、この種の願望充足萌えファンタジーも人類には必要だよなあ。
これと『くまみこ』があればしばらく生きていける気がするよ。
ただ、そういうふうに気楽に見れるには違いないのだけれど、リアルに考えるとけっこう切実な話だよなあとは思う。
リアルに適応できない、ネトゲのなかでしか生きられないような人間はどうすればいいか?
物語のなかでは亜子は仲間を見いだし、旦那まで見つけてそこそこ幸せそうに暮らしているわけだけれど、これが現実だったらひきこもり一直線でしょうねえ。
そう考えるとかなり辛いものがある。「リアルはしんどいです」は非リアの魂の叫びだよなあ。よくわかるよ、ぼくもしんどいもん。
アニメ見て漫画読んでゲームやるだけの暮らしをしたい――って、既にもうそういう生活をしているか。
まあ、そうはいっても一切リアルとの交流を断つわけにはいかないので、それなりに色々あるのですよ。
こういう限りなく楽な生活を送っているぼくですら辛いと思うのだから、真面目に学生とか社会人とかやっている非リアの人はほんとうに辛いだろうな、と思う。
それはひきこもりも増えるわ。リアルは無理ゲーだもん。どう考えても。あんなもん。まともにプレイできる奴らのほうがおかしい。どっか狂っているに違いない(偏見)。
「坑道のカナリア」ではありませんが、神経が繊細な人間はこの社会の異常さをだれよりも早く感じ取って苦しむものだと思うのです。
もちろん、狂っていない社会など存在しないのかもしれないし、どうあがいてもそこから脱出することなどできるはずもないんですけれどね……。
リアルに絶望した人間が、ネットゲームのなかに希望を見いだす話というと、『ソードアート・オンライン』もそうですよね。
まったく違うように見えるけれど、ある意味では共通点があるお話ということになる。
ただ、『ソードアート・オンライン』の世界まで行ってしまうと、学業とか仕事もネトゲのなかでこなせばいいような気がする(笑)。
あの仮想現実の世界はゲームをはるかに超えているよね。
いまの時代、それもプレイステーションVRとかでなかば現実になりかけているあたりが恐ろしい。
これから実現するであろうヴァーチャルリアリティ・ネットゲームの依存度の高さはいままでのネトゲの比じゃないでしょうね。
じっさいのところ、何かしらの対策を練らないとまずいんじゃないでしょうか。
萌え萌えっていうレベルじゃねえぞ。出生率さらに下がるかもしれないぞ。
まあ、『ヲタクに恋は難しい』がミリオンセラーを記録したりするところを見てもわかるように、我らオタク・トライブのイメージもだいぶ明るいものにはなりましたが、それでもリアルに適応できない人は一定数いるわけなのですよ。
さらに進歩を続けるゲームの世界はそういう人にとって救いになりえるかもしれない。
でも、そうやってゲームに耽溺すればするほどリアルがさらに耐えがたくなっていくという矛盾があるわけで、それはどうしようもないのかもしれないなあ、とも思います。
あるいは、 -
『ダンまち』外伝漫画と「シェアード・ワールド・ノベル」の話。
2016-04-26 20:3951pt
大森藤ノ&矢樹貴『ダンジョンに出逢いを求めるのは間違っているだろうか外伝 ソード・オラトリア(1)』読みあげました。
アニメ化もされた『ダンまち』の番外編第1巻ですね。
アニメはシンプルかつストレートなシナリオでとても面白かったのですが、この外伝漫画のほうはどうか? うん、なかなか面白く仕上がっています。
外伝の主役は本編のほうで主人公ベルくんの想い人として登場した最強の美少女アイズ・ヴァレンシュタイン。
この世界でも指折りの冒険者パーティ「ロキ・ファミリア」の中心人物である彼女が、「絶対的な強さ」を追い求め、さまざまなモンスターたちと死闘をくり返していく様子が丹念に綴られます。
ストーリーの背景は本編と同じ時系列なのですが、視点がアイズに移ることによって、まったく違う物語が展開します。
ベルくんがひとりで冒険し、成長している間にアイズと「ロキ・ファミリア」は何をしていたのか? その物語が綴られるのです。
ちなみに、この外伝もアニメ化されるようですね。おそらく本編が好評だったのでしょう。良いことです。
本編よりこの外伝のほうが面白いという人もいるので、新作アニメにも期待したいところ。
ちなみに、この『ダンまち』の場合は、ひとりの作家さんが本編と外伝の両方を手がけてるわけですが、複数の作家が同じ世界を舞台に作品を書く場合を「シェアード・ワールド」スタイルといいます。分割された世界、ですね。
アメリカには『Thieve's World(盗賊世界)』というタイトルの作品があって、これがシェアード・ワールドものの皮切りなのだそうです。
ときに1979年といいますから、いまから40年近く前のことですね。
中心となった作家はロバート・アスプリン。日本でも『銀河おさわがせ中隊』シリーズなどで知られている人です(ちなみにこのシリーズ、第2巻までは文句なしに面白いので読んでみてもいいかも。ほぼライトノベルです)。
『盗賊世界』も翻訳されるという話があったようですが、なんだかんでいまのところ邦訳は出ていません。
また、超能力者たちの戦いを連作短編のスタイルで描く『ワイルドカード』というシリーズも(アメリカでは)有名なようです。
これは -
ネトゲ始めました。
2016-04-15 22:2851pt
暇です。暇でしかたありません。
なんといっても1日でやるべきことがここの記事を書くことくらいしかないんだものなー。そりゃ暇にもなるわ。
いや、じっさいにはネタを仕入れるために寝ころんで漫画を読んだり、ソファに座ってアニメを見たり、お菓子食べながらゲームをしたりする時間も必要なので、それなりに時間は取られるわけですが。
うん、こう書くと、というかどう書いても遊んでいるようにしか見えないのはともかく。
いや、遊びでやっていることでも仕事となると意外と大変なんですよ? 嘘だけれど。
そんなの大変なわけないよなー。どこまでいっても趣味だしなー。
そういうわけであまりにも暇なのでネトゲでもやるか、と思い立ち、PS4で『ドラゴンズドグマオンライン』を始めました。
『ドラゴンクエスト10』とか『ファイナルファンタジー14』でも良かったのだけれど、なんとなくね。
ちなみにてれびんも同時に始めました。やっぱりネトゲはひとりでやっても面白くないものね。
まだ始めたばかりで、序盤も序盤のレベル12、ようやくチュートリアルエピソードが終わったかな? 終わっていないかな? くらいのところですが、いまのところわりと面白い。
Amazonなんかではさんざん叩かれている作品なので、おそらくネトゲとしては致命的な欠陥がいくつもあるのだろうと思うけれど、まあ、普通にやっているぶんにはそこそこ楽しめます。
ちなみにいまのところ無課金。1円も使っていません。
さすがにこのまま無料で遊ばせてもらうのはいかにも心苦しいものがあるので、ある程度ならお金を使うのはやぶさかではないのだけれど、どこにお金を使ったらいいものかまだよくわからない。
月額1500円くらい払うとプレイが楽になると攻略サイトに書いてあったのですが、それを使おうかな。
まあ、これから考えればいいでしょう。
しかし、平日の昼間からネトゲやっている人もけっこういるんだなあ。
仕事とか勉強しなくていいのだろーか。まあ、ぼくがいえることではまったくないけれどね。
『ゆうべはお楽しみでしたね』とか、『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』みたいにネトゲのプレイヤーが実は女の子でした!という話はいくつかあるわけですが、じっさいのところ、女子の割合はどれくらいのものなのでしょうね?
ほとんどいないんじゃないかなあ、と思っているのだけれど、そうでもないのだろうか。
『ドラクエ』とか『ファイナルファンタジー』は -
『無職転生』と大海小説の面白味。
2016-04-07 19:2951pt
雨です。
雨の日は外に出るのが億劫なので、自宅でアニメを見たり記事を書いたりします。
GoogleのChromecastを買ったので、dアニメストアのアニメが見放題です。
nasneで録っているものと合わせると、ほとんどのアニメが視聴可能になりました。つくづくありがたい時代だと思います。
『くまみこ』面白い。
ほんとうは晴れているときも怠らず仕事をしなければならないのだろうけれど、つい遊んでしまうんですよね。
さて、先日出た漫画版『無職転生』最新刊を読みました。
原作でいうと第3章、魔大陸に飛ばされたルーデウスとエリスがルイジェルドと出逢って旅を始めるあたりですね。
ここら辺、原作ではいくらか間延びした印象もある展開だったのですが、その処理のうまいこと、うまいこと。適度にショートカットして、さくさくっと話が進みます。
巻末にはシルフィを主役にしたオリジナルの番外編も載っていてお得感ありあり。
この漫画版は素晴らしいクオリティなので、原作既読者にも未読者にもオススメです。このまま行くと全何十巻になるかわからないけれど……。
「小説家になろう」で人気を集めている作品はどれも長いことが特徴ですが、『無職転生』も相当の大長編です。
たぶん、この調子で全巻が書籍化されると、全30巻くらいになるのではないかと思う。
おそらく厳密に構成していけばもう少し短くなるはずなんだけれど、あっちへ行ってみたりこっちへ行ってみたりと脱線をくり返す展開が連載の醍醐味でもあるわけで、一概に否定的に語れるものではないでしょう。じっさい、面白いし。
そもそも、全数十巻などという超大長編小説は、もはや人間がきれいにコントロールし切れる限界を超えていると思うのです。
笠井潔がいっていたことだけれど、人間が厳密に構成し切れる限界はドストエフスキーやトルストイの大長編あたりにあるのではないだろうかと。
『罪と罰』だとか『戦争と平和』のレベルですね。
一般的な厚さの文庫にして5、6冊というあたりでしょうか。
それを超える長さとなると、もはやどこかに「ゆるみ」や「計算外」が出て来る。
でも、それもまた大長編の味なんですよね。
昨日の記事で書きましたが、必ずしもきびしく構成された物語ばかりが優れているというわけではない。
どこかでゆるかったりする物語にも、それなりの面白みがあるものなのです。
文庫にして何十巻というスケールで展開し、読者の支持がある限り無限に長大化しうるとも思える超大長編小説の類を、笠井潔は「大海小説」と呼びました。もはや大河どころではないということでしょう。
「なろう」で連載されている大海小説は数多いわけですが、『無職転生』がそのなかでも最高の人気を誇っていることはご存知の通り。ぼくも素晴らしい作品だと思います。
先述したように、連載というスタイルのため、時々、物語が「ゆるむ」こともあるわけですが、それもまた、楽しみのひとつというべきでしょう。
「なろう」を読んでいて思うのですが、 -
オリジナリティ・イズ・デッド。オタク第一世代による現代ファンタジー批判を考察する。
2016-04-06 23:1151pt
ども。
人気声優さんが出演しているという噂のアダルトビデオを見たものかどうか迷っている海燕です。
いや、ぼく、声優さんについてはくわしくないから見てもしかたないのだけれど、下種な好奇心がうずくんですよねえ。
さて、それとはまったく無関係ながら、きょうもウェブ小説の話です。
いままでの内容をまとめた上で、ネットにおける混乱した言説を解きほぐす「交通整理」を試みてみようかと思います。
キーワードは「オリジナル幻想」。
ちょっと長いですが、最後まで読んでいただければありがたいです。
まず、ウェブ小説や「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を巡る、山本弘さんや野尻抱介さんの発言を振り返ってみるところから始めましょう。
山本さんはこんなことを語っていたのでした。
どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないかという気がする。
じゃがいもなどの、この世界に普通にあるものや、エルフやゴブリンやドラゴンなど、ファンタジーRPGでおなじみの要素ばかり使っている。それを読んだ読者も「異世界とはこういうものだ」という固定観念に縛られている。
「異世界」と呼んでいるが、実は読者が知っている要素だけで構成されている。
想像力や創造力という点で、100年前のバローズより後退してるんじゃないだろうか。
もう少しだけ異世界を異世界っぽく描いてもばちは当たらないと思うんだが。
一方、野尻さんはこんなことを述べています。
トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。
バローズが描く異世界は、少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた。それを読み取るだけでも素晴らしい読書体験になる。「はいはい、みなさんご存知のゲーム風異世界ですよ」とばかりに差し出すものとはちがう。
これらは、両方ともいわゆるオタク第一世代のクリエイターによる、より下の世代の創作活動に対する批判だといっていいと思います。
内容にも共通項が多く、いまのファンタジー(と呼ばれている小説やアニメ)は「想像力」が足りないというものです。
そしてここでターゲットにされているファンタジーとは、一部のライトノベルや、「小説家になろう」などで発表されているウェブ小説のことだといっていいでしょう。
これらの言説が面白いのは、山本さんにしろ野尻さんにしろ、自己否定に繋がってしまっている一面があることです。
山本さんも野尻さんもかつては何作ものライトノベルを書いてきた作家なのだから、自分の作品もそういう「想像力を欠いた」側面がある。
したがって、後発の作品を批判することは、天に唾するたぐいの発言といえなくもないわけです。
それにもかかわらず、なぜかれらは後発の作品を熱く批判するのでしょうか。
それは当然、自分の作品と後発の作品に何らかの差異を見出しているからでしょう。
山本さんや野尻さんの発言を丹念に見ていくと、「たしかに自分の作品にも想像力に欠ける一面はあるが、それでも最近のファンタジーとは違う」という想いが透けて見えるような気がします。
それでは、その「違い」とは何か。
それは「だれも見たことがない異世界を想像し創造しようとする努力や工夫」だと思われます。
つまり、山本さんも野尻さんも後発のファンタジーの「オリジナリティのなさ」を批判するとともに、そもそもオリジナルな異世界を作り出そうと努力しようとしない姿勢を非難しているのでしょう。
なぜなら、かれら自身は多々ある制約のなかでも、少しでもオリジナルな世界を作り出そうと努力してきたという自負があるから、後発作家の「手抜き」が腹立たしく思えるのだと見ています。
これを「老害」といって即座に却下してしまうこともできますが、ぼくはそういう不毛な年齢差別を好みません。
むしろ、山本さんや野尻さんの意見には一理あると受け止めます。というか、無理もない話だと思うのですよ。
かれらの目から何万ものゲーム風異世界を舞台にした冒険劇を見ていたら、どうしたってそれは「手抜き」に見えるでしょう。
これに対して、「ゲーム風のキャラが出てこない作品もある」といってみてところで、山本さんたちが求めているのは「見たことがあるものが出てこない」世界ではなく「見たこともない何かが出て来る」世界を希望しているわけですから無意味です。
しかし、だれも見たことがない世界? そんなものがほんとうにありえるでしょうか。
実はここがこの話のポイントだと思うのです。
山本さんはバローズを引いて、こんなことをいっていました。
馬に相当する生物を、「ソート」と呼んでも、作中では何の支障もない。
だったら、じゃがいもに似た作物だって、たとえば「ボルート」とかいう名前で呼んでもいいんじゃないだろうか?
けっこう安直に異世界感が出ると思うんだが、なぜみんなそうしない?
ここで、山本さんはあきらかにじゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼ぶ工夫に意味があると考えているわけです。
つまり、そういう工夫をすればそうしないよりもより想像力を発揮したことになるという思いがある。
しかし、そう、どうやら山本さんが考える斬新な異世界とは、よく使われる固有名詞の代わりにオリジナルの名詞を使うといったレベルのことに過ぎないらしいのですね。
いや、あるいはもう少し突飛な、たとえばあたりまえの馬のかわりに八本足の生物が出て来るとか、距離や単位が地球のものとはまったく違うとか、そういうレベルのことでもあるかもしれませんが、とにかく山本さんや野尻さんは、そのレベルで工夫されているに過ぎないバローズの世界を「そんな問題は100年も前にエドガー・ライス・バローズが通り過ぎている」とか、「少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた」などと評価しているのです。
ぼくはバローズの小説を読んだことがないので、それがじっさいに「オリジナリティがあ」る作品なのかどうか判断することができません。
しかし、少なくとも山本さんが書くレベルの工夫のことは、特にオリジナルだとは思いません。
現代のファンタジー作家がバローズに倣おうとしないのは、そのやり方がむずかしすぎて真似できないからではなく、そういうことになんの意味も見出していないからだと思われます。
だって、じゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼んだところで、それはしょせんじゃがいも(に似た作物)でしかないではありませんか。
その程度のことが「オリジナル」と呼ぶに値するとは、ぼくはまったく考えない。
それでは、真の「オリジナル」とはどんなものなのか?
ぼくは究極的には「真のオリジナル」と呼んでいい作品など、この世に存在しないと考えます。
もちろん、相対的に独創的な表現を駆使している作品はあるでしょう。
が、そういった作品もどこかでほかの作品から影響を受け、あるいは自然世界のなんらかの現象を模倣しているのであって、純粋なオリジナルとはいえない。
人間には純粋なオリジナルの表現は不可能なのだと考えるべきです。
その意味で、この世のすべての表現は「二次創作」でしかないとはいえる。
しかし、世の中には自分が作ったものは自分だけの表現であって、まさにオリジナルといえるものなのだ、と信じる人々がいます。
その幻想をここでは「オリジナル幻想」と呼びましょう。
ぼくがこの話で思い出すのは、竹熊健太郎さんと大泉実成さんの対談です。その対談のなかで、竹熊さんはこんなことを書いています。
竹熊 例えば僕の世代から宮崎さんの作品を見ると、やっぱりパワーが桁違いに凄いんですよ。でも、オリジナリティーがないんだよね。つまり僕の世代が批評家的に見ると、宮崎さんの元ネタが分かっちゃう。僕らが創作をやろうとすると、元ネタを露骨に示して、パロディになってしまうわけですよ。ところが宮崎さんは、元ネタがあるにしても、それを自分の「オリジナルと信じて」出せるわけ。そこが下の世代である僕にしても庵野さんにしても、できないところです。心底、これは俺のオリジナルだと信じて、世の中に提示することができないんです。
大泉 庵野秀明の場合はエヴァの時に、その時の自分の状態を「ドキュメンタリー」にして、作品化しなければならなかった。少なくとも自分はオリジナルだから。
竹熊 それをやるしかなかった、彼の場合はね。基本的にクリエイティブって全部パクリですからね。元ネタがないクリエイティブはありえませんから。作者が天から降ってきた霊感だと感じられるものでも、それは過去の人生で触れてきた多くの作品や、知識や、出来事が元ネタにあるわけですよね。それを「パクリ」と自覚するか、それも天から降ってきた霊感のように信じられるかどうかが、「本物のクリエイター」とパロディ世代の分かれ目だと思うんですよ。
手塚(治虫)にしてもなんにしても、彼らは霊感を信じている。創作することに対する疑いがない。そこは世代の差としか言い様がありませんね。だから、僕もオタク第一世代とか新人類とか言われましたけども、そう言われる僕たちは批評家にはなれるにしても、創作家にはなれないですね。なったとしてもエクスキューズのある創作(パロディ)しかできない。80年代からこのかた、ずっとそうだったんじゃないですかね。僕の場合は、それが『サルまん』だったわけですけども。
http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1123.php
つまり、オリジナル幻想には世代的な差があるということですね。
宮崎駿とか手塚治虫の世代、プレオタク世代とでも呼んだらいいでしょうか、その頃のクリエイターたちは自分の作品を「天から降ってきた霊感だと感じ」て創作していた、しかし、それより下の作品はそこまで無邪気に自分の作品のオリジナリティを信じることができない、という話です。
もちろん、宮崎駿とか手塚治虫の世代が純粋にオリジナルな作品を生み出せていたのかというと、違う。
やはりかれらの作品にも「元ネタ」はある。その意味で、宮崎駿といえど、手塚治虫といえど、パロディ的、オマージュ的に創作しているわけです。
しかし、この世代のクリエイターたちがのちの「パロディ世代」のクリエイターと決定的に違うのは、そのしょせんパロディでしかありえない作品を、ほんとうに自分のオリジナルだと信じていることです。
それはしょせん錯覚であり、幻想であるかもしれませんが、下の世代のクリエイター、たとえば庵野秀明にとっては、その錯覚すら不可能なことなのです。
だから、庵野さんたちの世代は「パロディ」とか「オマージュ」といった作法にこだわる。
先行する無数の作品から引用をくり返し、「あえてやっている」自分を演出する。
それしかできないのです。
いいえ、最終的には庵野さんはその境地にも飽き足らず、その「パロディ」を乗り越えて「自分自身という最後のオリジナリティ」を表現するためにある種の「ドキュメンタリー」として『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出したわけですが、それは血反吐を吐くような作業だったことでしょう。
ちなみに、これらの経緯に関しては『パラノ・エヴァンゲリオン』、『スキゾ・エヴァンゲリオン』という二冊の対談集にくわしいです。
最近、電子書籍化されたそうなので、興味がおありの方はぜひどうぞ。
さてさて、世代的には山本さんも野尻さんも庵野さんと同じく「オタク第一世代」に属しているものと思われます。いま50代くらいの人たちですね。
この世代は、たしかに上の世代ほど無邪気にオリジナル幻想を信じてはいないはずです。
何しろ、山本さんにしても、野尻さんにしても、たとえばJ・R・R・トールキンやアーサー・C・クラークの先行作品を参照しながら作品を作って来たのですから(『ふわふわの泉』なんて、タイトルといい、アイディアといい、『楽園の泉』のパロディですよね)。
よほど鈍感でない限り、その自覚があるはずです。ぼくはまさか自覚がないとは思わない、きっとそれはあることでしょう。
ただ、おそらくかれらは、それでも自分たちの作品は先行作品のデッドコピーではない、と信じている。そこにプライドを抱いている。
だからこそ、より下の世代の作品の、先行作品のデッドコピーに徹したとも見える「オリジナリティの欠如」が気になるのだと思うのです。
ようするにかれらから見ると、自分たちが努力し、工夫したポイントで手を抜いているように感じられると思うのですね。
かれらにしてみれば、その点こそが「単なるパクリ」と「面白いオマージュ」を分かつ聖なるポイントなのであって、そこを省くとは何事か、という想いがあるのだと思う。
ですが、これはじっさいには手を抜いているというより、その手の工夫に価値を見出していないと見るほうがより正確だと思われます。
そう、オリジナル幻想を無邪気に信じられたプレオタク世代、そこに疑念を感じながらもなんらかの工夫を凝らして少しでもオリジナルな表現を工夫した「パロディ世代」であるオタク第一世代と来て、それ以降の世代はもはや自分たちの表現の「オリジナリティのなさ」に悩みすらしなくなっているのです。
ちなみに、オタク第一世代による「お前たちはオリジナリティがなくてけしからん!」という批判に対し、反発し、反論するのはオタク第二、第三世代くらいまでではないかと思ったりします。
第四世代となると、もはや第一世代の人たちが何をいっているのかピンと来ないから腹も立たないのではないでしょうか。
いい換えるなら、この世代においてはオリジナル幻想は蘇りようもないほど完全に死んでいるということです。
オタク第二世代はまだしも、第三・第四世代はもはや「パロディ世代」ですらありません。
その証拠に、山本さんたちが批判する最近のファンタジーは、もはや「元ネタ」を明確に引用することがありません。
ただ、あきらかにオリジナルではありえないことが見え透いた「どこかで見たようなファンタジー」を平然と展開する。
オリジナリティ・イズ・デッド。
ですが、だからといって山本さんなり、野尻さんの批判が端的に間違えているということではないと思うのです。
むしろ、かれらの批判は、かれらの価値観では正鵠を射ている。
しかし、問題なのは、その価値観そのものが古びて過去のものになってしまっているということです。
もはや、最先端のファンタジーではその表現の前提となっている「パクリ」は問題視されていない。というか、ほとんど意識すらされていない。
だからこそ、「どこかで見たようなファンタジー」が氾濫することになっているわけです。
ただ、ここでひとつ浮かぶ疑問があります。
オリジナリティがないのは当然として、オリジナルに見せかける工夫すらしなくなった作品のどこが面白いのか?
いったい読者は何を求めて「現代日本のファンタジーの多く」を読んでいるのか?
その答えは、奇しくも山本さんが否定的な文脈で使っている「なじみの世界」という言葉にあると思われます。
そう、「小説家になろう」などの読者はまさに「なじみの世界」を求めてファンタジーを読んでいるのだと思うのです。
これは考えてみると奇妙なことです。
異世界ファンタジーとは、「異」世界のファンタジーなのであって、どこかに異質なところ、見なれないところがあることが自然なわけですから。
しかし、日本でファンタジーというジャンルが勃興してはや30年余り、小説と漫画とアニメと、なによりゲームを通してファンタジーの表現はあまりに拡散し、陳腐化しました。
もはやファンタジーといえば、だれでもエルフとゴブリンとドラゴンといった世界を連想します。
ゲーム的なファンタジー世界は「なじみの世界」となったのです。
そう、読者が心からの安心感を持って旅に出かけることができるほどに。
もちろん、その世界には退屈な日常を覚醒させるようなセンス・オブ・ワンダー、「発見の喜び」はありません。
読者なり視聴者は、その世界に出かけて、なんとなくだらだらと状況を楽しむのです。
いや、たしかになかには破格に娯楽性の高い作品もあるでしょう。
ですが、たとえば「小説家になろう」で大量に生産されているファンタジーのほとんどは、そこまで独創的な仕事とはいえないと思います。
そんなものが面白いのか。
面白いのです。
もっとも、それは既存のエンターテインメントの面白さとはまた一脈違うものであるかもしれません。
既存のエンターテインメントが、SFであれ、ファンタジーであれ、灰色の日常を輝かせるセンス・オブ・ワンダーを追求していたとするなら、最近のファンタジーなりウェブ小説が提供するものは、「だらだらした日常の安心感」とでもいうべきものです。
見なれたなじみの世界へ行って、ちょっとした冒険を楽しむ。いわゆる「なろう小説」は多くがそういうものでしょう。
それを堕落と捉えることはたやすいでしょうが、無意味なことです。
旧世代とはエンターテインメントが持つ意味が決定的に変わってしまっているのですから。
何が変わったのか。
簡単にいうなら、いま、エンターテインメントは日常化したのです。
かつて、エンターテインメントを楽しむということは、日常のなかに非日常的なひと時を約束するものだったでしょう。
また、そういう体験をもたらす作品こそが傑作とみなされていたと思います。
ですが、いまやエンターテインメントを消費することは、少なくともアニメを見たり、漫画を読んだり、ウェブ小説に耽ったりすることは、日常の一部に組み込まれた営為なのです。
ぼくはそう思っている。
それでは、なぜ、エンターテインメントは日常化したのか。
それは、まずエンターテインメントの絶対量が大きく増えたということ、そして高速で定期的にエンターテインメントを提供するインターネットというメディアが普及したことが原因だと思われます。
毎週放送されるアニメを見る。同じく毎週刊行される漫画雑誌を読む。そして、毎日更新されるウェブ小説を読む。
これらは容易に「習慣」となり、日常の一部を構成します。
そしてまた、膨大な量が提供されることによって、消費者は自然と「いくらがんばっても全部を消費しようがない」状況に置かれ、フィクションを消費する体験は特別性を失ったと思うのです。
これは、音楽配信サービスの普及によって、音楽体験が特別さを失ったことと近いでしょう。
とはいえ、ほんとうに素晴らしい傑作なら、いまでもぼくたちは「心で正座」して読むわけですが、「なろう小説」の大半はそういう性質のものではない。
野尻さんなどがいうように、それらは、いってしまえば凡庸な、オリジナリティに欠ける仕事です。
しかし、いい換えるなら、その魅力はその没個性さにあるともいえるのです。
だから、「小説家になろう」で見られるいくつかの例外的に面白い作品を例に取って、こういう作品があるから「なろう」は素晴らしいと語ることはあたっていない。
やはりなんといっても全体の99%を占める「凡作」の山こそが「なろう」の魅力なのです。
いま、「凡作」と書きました。
けれど、これは旧来的な価値観に則れば凡庸な作品といえるということであって、「なろう」を読む読者にとって無価値な作品ということではない。
なんといっても「なろう」という「場」は、そういう作品によってこそ維持されているのですから。
そもそも、SFであれ、ミステリであれ、ホラーであれ、ファンタジーであれ、ジャンルフィクションというものは、ある意味では凡人のためにあるわけです。
天才はジャンルなんてなくても自分で独創的な世界を切り開いていきますから。
もちろん、見方を変えればそれすらも純粋なオリジナルとはいえないわけだけれど、少なくとも独創的であろうとする「志」は高いとはいえる。
ジャンルフィクションはそういう「志」を持たない作家に、ロケットや、宇宙人や、密室や、吸血鬼や、エルフを提供する。
これらの素材を使いこなせば、比較的凡庸な作家でもちゃんといい作品を作れるというわけです。
「なろう」はジャンルフィクションが持つそういう特性を極限まで特化した「場」であるといえます。
個々の作品ではなく、その「場」そのものを楽しむという読者は多いことでしょう。
そういう読者は「なろう」という「場」に日常的に出入りして、そこからお気に入りの作品を探し出しては耽溺します。
はっきりいってそれらは旧来の価値観から見れば他愛ない作品であるかもしれません。
ですが、エンターテインメントが日常化したいま、それらの作品を日常の一部として味わうことには意味があるのです。
もちろん、何万という作家のなかには、特別に才能がある人も混じってはいることでしょう。
そもそもジャンルフィクションには、時々、「お前はこの仲間じゃないだろう」といいたくなるような、特別な存在感を持つ作家が混じって来たりするものなのです。
ぼくはそういう作家たちを、大森望さんの言葉から採って「魔法の名前」と呼んだりしています。
まあ、SFでいうスタージョンとかティプトリー、コードウェイナー・スミスあたりのことですね。
ミステリにおいては麻耶雄嵩、ジャンプ漫画においては諸星大二郎、エロゲにおいては瀬戸口廉也なんて作家が、その「特別なる1%」にあたるとぼくは考えます。
「小説家になろう」にここまで特異な存在がいるかどうかは知らないけれど、近い存在を挙げるとしたら『魔法科高校の劣等生』の佐島勤さんあたりでしょうか。
『Re:ゼロから始まる異世界生活』だとか、『本好きの下克上』あたりもかなり異端の雰囲気を放っていますね。
ただ、そういう異端の作家をジャンルや「場」の代表として語ることは違うかな、という気がします。
異端の傑作は、ある意味で語りやすい。いってしまえば、『孔子暗黒伝』のほうが『ダイの大冒険』より遥かに語りやすいわけです。
ですが、それらだけを特別視することはただ語りやすい作品だけを語るという罠に陥ることでもある。
だから、特にぼくなどは「凡庸な」「オリジナリティのない」作品をどう評価し、どう語るかという問題を真剣に考えなければならないと考えています。
旧来的な価値で見れば凡庸な作品にも、少なくとも日常の一部として人生をより豊かにするというバリューがあることは、先述した通り、あきらかなのですから。
もちろん、 -
甘ったるい萌えアニメに腰までひたっても、なお。
2016-04-04 09:0051pt
さて、昨日の記事に続いて、ペトロニウスさんが最新記事のもうひとつの論点として挙げている「向上心がない物語はダメなのではないか」という話を語りましょう。
これは、20年くらい前から延々と形を変えていわれつづけていることのバリエーションだと思うのですが、まあ、じっさいのところ、どうなんでしょうね?
元々の野尻さんの発言は「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ」というものでした。
「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品」とは、具体的には『このすば』のことらしいのですが、これがほんとうに問題なのかというと、正直、ぼくにはよくわからないです。
たしかに、こういう作品ばかりになってしまったらいかにも退屈だし、良くない状況だとは思う。
しかし、現実にそうなっているかというとね、なっていないんじゃないでしょうか。
ここ最近ヒットしたアニメなりウェブ小説を見ていくと、必ずしも甘ったるいばかりの作品がウケているとはいえないと思うのですよ。
もちろん、ぼくはそのすべてをチェックしたわけではないのでたしかなことはいえませんが、少なくとも『進撃の巨人』もあれば『魔法少女まどか☆マギカ』もある、『SHIROBAKO』もあれば『1週間フレンズ』もあるわけで、業界全体が一色に染まっているとはいいがたいでしょう。
むしろ、過去に比べても多彩な作品が提供されるようになって来ていると思います。
もし、それらの作品が一色に見えるとすれば、やはりパッケージの問題でしょう。
現代のアニメには色々な作品があるけれど、そのほとんどに何らかの形で美青年や美少女が出て来ることもたしかで、そのキャラクターたちの画一的なイメージが作品に多様性がないという印象を与えているのだと思います。
じっさいには、当然、キャラクタ―デザインにある程度の差異があるのですが、それは「わかる人が見ればわかる」種類のものであることもたしかです。
わからない人が見ればやはり似たり寄ったりに思えるでしょう。
そして、そのパッケージの印象を、野尻さんは「かっこ悪い」といって批判しているのだと思います。
これは良く考えるとなかなか深い問題で、一理はあると思う。ただ、いまさら美少女を出してはダメだといってもね、それは届かないことでしょう。
それに、ここ十数年くらいで、アニメに登場する美少女たちも(決してリアルになったわけではないにしろ)相当に多様化が進んでいると思うのです。
ここらへんは「暴力ヒロイン問題」と密接な関わりがあるのですが、たとえば『俺妹』の桐乃なんかは一方で強烈な反発を受けるくらい過激なキャラクターであるわけですよね。
そういうキャラクターもいまは例外とはいえないくらい普通に存在している。
まあ、その手のキャラは必然的に「女の子は天使じゃないと許せない派」からは過剰な反発を受けるわけですが、そうかといっていなくはならない。
あいかわらず色々な形で出て来ては視聴者の自意識を告発したりするわけです。
そういう告発に耐えられない視聴者層はたしかにいます。
しかし、いまとなっては、その手の告発すら平気で受け止められる視聴者層も熟成されて来ているように思います。
野尻さんは「コンプレックスまみれの視聴者」と決めつけていますが、これはアニメ視聴者に対するかなり古いバイアスです。
かつてはともかく、いまは特に大きなコンプレックスがないアニメ視聴者も相当の割合でいるはずです。
そういう視聴者は必ずしも慰撫だけを求めてアニメを見ているわけではない。
いや、当然、見ていて不快になるようなものを求めているわけではないでしょうが、野尻さんが考えているほど甘ったるいばかりの物語を求める「弱い」視聴者層ばかりではないと思う。
その証拠に、『このすば』の主人公もさんざんあざけられ、ばかにされ、笑い者にされているではありませんか。
まあ、たしかにかれはご都合主義的に美少女といっしょに旅をすることにはなります。
ですが、その旅も美少女も必ずしも主人公を慰め、いい気分にさせてくれるだけの装置ではない。
一見してそう見えるにしろ、じっさいには色々あるのであって、その色々が作品の個性となっています。
「いや、そうではなく、もっと視聴者の自意識の欺瞞を徹底して告発するきびしい物語が必要なのだ」という意見もあるでしょう。
それもわからなくはない。ある程度は共感できる意見です。
しかし、 -
オタク文化はどこまで政治的に正しくないか。
2016-04-02 23:2651ptここ数日、ひとりでうちにやって来た甥っ子(6歳)の世話に追われていた海燕です。
エネルギーにあふれる子供の相手ってほんとうに疲れますね。
わが家に滞在しているあいだ、ほぼぼくがメインで子守りをしていたので、甥が帰宅したあとはスイッチが切れたようになりました。疲れた!
ちなみに本人は初めは小声で喋っていたものの、慣れるにつれて大きな態度になり、しまいには「あっち行け!」とかいいだすまでに。いや、ここ、ぼくの家なんだけれど。
そのうち「バトルごっこしようよ。ぼく、仮面ライダー全部とウルトラマン全部ね」などといった迷言も飛び出すありさま。お前は何をいっているんだ。
最後は上機嫌で帰ってくれたのが救いですが、そのあいだプライベート時間がないのはしんどかった。世のパパさんママさんの偉大さが身に沁みます。いや、ほんと、偉いなあ。
まあ、楽しかったけれどね。
さて、それとはまったく関係ありませんが、「最近オタクとして生きるのがつらい」という匿名記事を読みました。
http://anond.hatelabo.jp/20160330144201
この手のタイトルに対しては「辛いならやめれば」としか思わないぼくなのですが、この記事は論旨の展開がちょっとだけ面白かった。
つまり、オタクとオタク文化の政治的な「正しくなさ」が耐えられないという意見なのですね。
具体的には『涼宮ハルヒの憂鬱』はセクハラだとか書かれています。
はっきりいっていまさらな話ではあるし、具体的な指摘にはツッコミどころもあるのですが、まあ、そういう考え方はありえるだろうな、とは思います。
厳密に見ていけば、それはオタク文化なんて問題含みに決まっている。
ライトノベルであれ、ウェブ小説であれ、差別的な表現なんていくらでも見つかることでしょう。
この記事自体は実に他愛ない内容に過ぎませんが、現代のオタク文化に差別性があるという指摘そのものは否定できない一面があると考えます。
しかし、だからといってこの文化が堕落した良くないものなのだ、とはぼくは考えないのですね。
結局のところ、それもまた人間の一面である、と考えるからです。
昔からの読者の方は、ぼくが『らくえん』というエロゲを好きなことをご存知なことでしょう。
このゲームはムーナスという名のエロゲメーカーに就職した主人公を描いているのですが、そこではオタク文化のダメな側面がこれでもかというほど語られます。
ひっきょう、オタク文化のことを語るとき、そのポルノ性を否定することはできない。
オタク文化とは欲望の文化なのであって、どうあがいてもお綺麗な表現だけで表し切ることはできないのです。
しかし、『らくえん』はだからオタクであることが辛いなどといいだすことはありませんし、シニカルに「それはしかたないことだよね」と訳知り顔をしてみせることもしません。
「欲望の文化」としてのオタク文化を正面から見据えた上で、そこに人間の人間らしさを見るのです。
上記記事ではオタク文化を「果実」と「クソ」に分けて、前者を肯定し、後者を否定しています。
オタク文化にはいい側面もあるけれど、政治的におかしい部分もあって、悩ましいといういい方ですね。
しかし、ぼくにいわせればそうやって良いところと悪いところに分けて考えられるほど問題は単純ではない。
オタク文化であれほかの文化であれ、「偉い思想にのっとって書かれた素晴らしい作品」と「そうではないくだらない作品」を分けて、前者にだけ価値があるのだとする時点で、何かが間違えている。
そうやって清と俗を分けた段階で、人間の本質を見落としているのだと感じるのです。
むしろ、
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