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騙されても、裏切られても、傷つけられても、まっすぐ光の差すほうへ歩いていこう。
2015-06-21 03:4051pt
「幸せ」のことを考えている。
幸せになるとはどういうことか、そして、幸せでありつづけたいならどういうことをすればいいのか。
答えは明瞭ではありえないが、幸せになるためにはいくばくかの勇気と、そして素直さが必要であるという考えは揺るがない。
勇気については、すでに語った。素直さとはどういうことか。
つまり、自分が幸せになりたいと思っていると素直に認めることが大切だと思うのだ。
そうでなければ、幸せになるためにはああすればいい、こうすればいいと教示されたところで、皮肉にほほ笑んでこう呟くばかりだろう。「そんなことで幸せになれるなら苦労はしないさ」。
しかし、幸福とはどこか遠くにあるものとは限らない、心のありようひとつでいかようにも変われるものなのだ。
それなのに「自分は決して幸せになれない」と考える人は、むしろ「不幸である自分」に何かしらの価値を見いだしている可能性がある。
そうやって、素直になれない限り、幸せに手が届くはずもない。ひとは光の差すほうへ歩いて行くべきなのだ。
と、こう書いていて思い出されるのは、北村薫の小説『朝霧』に出て来るこんなセリフだ。
「いいかい、君、好きになるなら、一流の人物を好きになりなさい。──それから、これは、いかにも爺さんらしいいい方かもしれんが、本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ」
「本当にいいものは太陽の方を向いている」。
十数年前、初めてこの小説を読んだときは「ほんとうにそうだろうか」と疑問に感じたものだが、いまならいくらかはわかるように思う。
「本当にいいもの」には、無明の闇のなかでなお光を目ざすような向日性がある。
それは決してただ明るい光が燦々と照らすなかで生まれ育っているということではない。
むしろ、絶望の闇のなかでこそ、それでも光を目ざすことができるかどうかが試されるのだ。
たしかに、闇や悪や狂気といったものの深遠な魅力にくらべ、光には素朴なところしかないようにも思える。
しかし、そうではない、光の道の奥深さは、それを歩いてみて初めてわかるもの、ナウシカもいっているではないか。「いのちは闇の中のまたたく光だ」と。
もちろん、 -
人生に対しツンデレになるな。
2015-06-20 03:3351pt
ポジティブ心理学をご存知だろうか。
「なんでもポジティブに考えればうまくいく」という思想のこと「ではない」。
それは、鬱や病といった人生のネガティヴな側面を注視する既存の心理学と異なり、幸福や活力といったポジティヴな側面に目を向けようとする心理学のことである。
この新しい学問が誕生したのは1990年代のことで、爾来、いろいろな成果を積み重ね、いまでは心理学の大きな支柱のひとつとみなされるに至っている、らしい。
「らしい」と書くのはぼくもくわしい知識を持っていないからだが、興味は大いにあるので、イローナ・ボニウェル『ポジティブ心理学が1冊でわかる本』を読んでみた。
タイトル通り、実に多岐にわたるテーマが語られている本なのだが、個人的に興味深かったのは、そのなかの第13章「ポジティブ心理学を暮らしに活かすには」の結論だった。
そこにはこう書かれていたのである。「自分自身についてよく考え、得意なことをし、人生のよい面に意識を向け、他者に親切にしましょう」。
著者自身が書いているように、「あまりにも単純すぎるようにみえ」る結論なのだが、結局、これしかないらしい。
幸せになるためには、もっとポジティブになることが大切だという結論なのだ。
しかし、どうだろう、この種の理屈を鼻で笑ってしまう人は少なくないのではないだろうか。
ポジティブ・シンキングをすれば幸せになれるとは、ようするにひとに脳天気であれといっているようにも思える。
そんなふうにして幸福になるくらいならいっそ不幸であるほうがいい、そういうふうに思う人は大勢いるのではと思うのだ。
ぼくたち、と大きな主語を使っていいのかどうかわからないが、少なくともぼくのような人間は、口先では幸せになりたい、幸せになりたいといいながら、しかし、幸せという状態をどこか軽んじているところがある。
なんといっても、人間の苦悩の底知れない複雑さにくらべて、幸福はいかにも単純ではないだろうか。
それはまたどことなく軽薄であり、深刻さを欠いているように思える。
四六時中機嫌がよく、なんの悩みもないように見える人物は、友人としては最適だが、しかし、あまり強く尊敬する気にはなれない。
何かしらの悩みと苦しみこそがひとを複雑な存在にする――そうではないだろうか。
しかし、これは一面的な見方である。最近、ぼくはそう思うようになった。
幸せが単純だと、いったいだれが決めたのだろう?
まさに -
人生がつまらなくてしょうがねえ問題をどう解決すればいいか?
2015-06-19 03:0751ptども。きょうもきょうとてニート暮らしの海燕です。
正確にはNEETの定義は35歳までなので、来月で37歳になるぼくはそこから外れまくりであるわけですが、まあ、ただ無職っていうのもどうかと思うよね……。
しかし37歳て。ちょっと自分がそこまで歳をとったことが信じられないですね。
この調子だと無為のまま40歳になり50歳になり60、70と歳を取っていくんだろうな。そこまで生きられればの話だけれど。
いまの生活は非常に安定していて気楽なんですけれど、唯一、やることがなくて活動エネルギーが余ることだけが困ります。
「無職の才能がない」ということなんだろうけれど、やっぱりぼくは何かしら活動していないといらいらしますねー。
暇なのは悪いことではないと思うけれど、ひとりで暇だとね、もうね、やることないんですよね。
一日中『スプラトゥーン』やっていても飽きるしなあ。
やっぱりぼくは何かしら仕事をしたいのだと思う。そうかといっていまさらアルバイトとかも効率悪いし、さて、何をしたものだろう……。
いわゆるワーク・ライフ・バランス、仕事と余暇のバランスがどのくらいが適当かということは、ひとによって違っているんでしょう。
たぶんぼくはプロニートのPhaさんあたりと比べると多少は働き者属性が強くて、無職属性が弱いんだろうな。
まあ、このブログをもっと更新したらいいのかもしれないけれど、どうも1日いくつも記事を更新するのは読者に負担が増えるようなんですよね。
なので、日々、「うーん、どうしたものかなあ」などと唸っています。
いや、その前に1日1本はちゃんと更新しろよって話ですが。今月、更新数少ないですよね。
すいません。ちょっと気を抜くとこうなる。
たぶん1日1本定期的に更新しつづけることが会員を維持するためにはベストだと思うんだけれど、これが意外にむずかしくて、書きすぎたり書かなすぎたりしてしまうんですよね。
まあ、書くだけ書いてストックしておけばいいのかもしれないけれど、それだとブログの特長であるリアルタイム性が薄れて面白くなくなる。なかなかうまく行かないものです。むずかしい。
話が逸れましたが、まあ、リアルライフを神ゲーにするためには、次の「目標」を設定しないといけないのだと思います。
目標が決まればそこに至るまでの作業も決まるし、HHK(暇で暇で困っちゃう)状態も抜け出せるかと。
まあ、限りなく贅沢な悩みといえばそうなのですが。
で、そのためにとりあえず何か電子書籍を出したいなあと思っているのですが、じっさいに電書を出してもなかなか儲からない、わりに合わないという問題がありそうなんですよね。
だから -
勇気のレッスン。自意識が生み出すモンスターを制圧せよ。
2015-06-18 01:4651pt
さて、自意識を巡る一連の記事の最終回です。
前回の記事では「結局、ささやかな勇気を振り絞って現実と向き合うしかないよね」というところまで書きました。
一部に異様に面の皮の厚い人はいますが、一般にひとはみな繊細な自意識を抱えていて、なかなかチャレンジングに生きることができません。
それでは、どうすればその殻を破って、自分の世界を拡張することができるのか?
なけなしの勇気を振り絞るための秘策とは?
そんな方法がわかっていたら苦労しないよといいたいところですが、ぼくが自分の経験から導き出した答えとは「徹底的に現実と向き合う」ことです。
ひとはだれもみな何かしら偏見を抱えていて、事実とはずれた世界を現実として認識しているものです。
たとえば、ある人物に対して「どうにもいやな奴だ」、「あいつは四六時中ひとの悪口ばかり考えているのだろう」などと思い込んだりする。
しかし、現実にはどんな人間でも「悪」の結晶ではなく、雑多な思考を行いながら生きているのです。
ある人間を「いやな奴」という認識でカテゴライズすることは現実を「単純化」することです。
もちろん、人間は限られた脳の能力で超複雑な現実を把握しようとしているわけですから、「単純化」はだれもが避けられないことです。
せいぜいが偏見に振り回されないように努力することができるくらいで、一切偏見なく生きることはできないでしょう。
しかし、この偏見がひとを苦しめるのです。偏見は恐怖を肥大化させるから。
たとえば、ある人に「おはよう」と話しかける、それだけのことでも、偏見を抱えていると途方もなく恐ろしいことになってしまいます。
もし相手が自分に悪意を抱いていたらどうしよう、そうでなくても話しかけることで変な奴だと思われるかもしれない、あるいは突然殴りかかってくるかも、といった想像が連鎖的に暴走することで、ひとは一切行動することができなくなります。
その時、かれは「ほんとうの現実」ではなく、バケモノのように肥大化した現実を認識し、それと向き合うことで勇気をくじかれてしまっているのです。
いわば、「現実のモンスター化」。
ある意味では、自ら現実世界を強大な敵にしてしまっている。簡単なことを困難にしてしまってもいる。
こうやって認識を肥大化させつづけ、世界をモンスター化しつづけると、ひとはついには一歩部屋から外へ出ることもできなくなってしまいます。
とはいえ、 -
なぜコミュ障は地獄なのか。
2015-06-08 21:1751ptTwitterでこんなツイートを呟いてみた。
「絵が描ける」とか「歌が歌える」とか「文章が書ける」ということは、その分野における自分の技術と折り合いがつけられているということだ。ほんとうはやるだけならだれにでもやれるのだ。ただ自分のあまりの下手さに耐えられないから「できない」と思っているだけで。
そうしたら、てす(@a1rou59)さんから次のようなリプライをいただいた。
@kaien そのうちで良いので、この「折り合い」の付かない感じ・自分の下手さに耐えられない感じをブロマガでkwsk。解決しなくて良いのですが、本当にこの感じに困ってしまって・・・
それでは、さっそくその件について書くことにしよう(あまり長く放置すると忘れ去ってしまう可能性が高い)。
上記のツイートで書いたように、ひとは、なんらかの物理的には可能な行為を、心理的な理由で「できない」と思っていることがある。
たとえば、高所恐怖症の人にとって、スカイダイビングやバンジージャンプ、フリーフォールのような行為は、物理的には可能だが、心理的には不可能なものである。
あまりにも心理的障壁が高いため、かれらはそれを物理的に不可能な行為であるかのように表現することがある。
「わたしにはどう足掻いてもとてもできない」、「あまりにも危険すぎる」とか。
しかし、それはやはり嘘なのであって、問題は99%まで心理的なものだ。
たしかに、1%以下の危険性がないでもないことは事実だ。
何かが狂って、予想外のトラブルが起こるかもしれない。パラシュートの金具が(入念にチェックされているはずにもかかわらず)壊れているとか。
だが、そういった確率は、たとえば日常生活のなかで殺人犯と遭遇する確率と比べてもそう高くないだろう。
冷静に客観的に考えれば、スカイダイビングやバンジージャンプに物理的な危険が伴うことはほとんどないということはわかるはずだ。
もし大きな危険があるならすぐに問題になって中止されているだろう。
もちろん、だからといってこういった行為が恐ろしくないことにはならない。
物理的な障壁は一切なくても、心理的な障壁は残る。
高所恐怖症の人はいうだろう、「そうはいっても、怖いものは怖い」と。
それはまったく納得のいく話である。ひとは理性だけで生きているわけではないからだ。
理性的に考えれば不条理な恐怖感であっても、並大抵では克服できないということはありえる。
だから、ひとはしばしばいい訳することになる。「スカイダイビングなんて、ばかみたい」、「まともな人間はそんな危険な真似をしたりしないよ」などなど。
この場合は、まだ身体的な危険がゼロではないぶん、そのいい訳も理解しやすい。
ところが、人間はほぼ99・99%身体的な危険がない場合でも、行動を尻込みすることがありえる。
つまり、歌を歌ったり、絵を描いたり、文章を綴ったりするという「自己表現」に関わる行為を避ける場合である。
ひとはときに -
リアルを神ゲーに高めたい。
2015-06-02 20:1251pt
おがきちか『パルパル&ロケッタ』を読む読む。
玉の輿を狙う乙女勇者のパルパルの冒険を描くライトなファンタジー。
どうということはない話ですが、さすがに面白いです。
『Landreaall』のほうはいまいち停滞気味の展開だけれど、この先、どう動くか楽しみではある。複雑化する一方の物語が解決を見る日は来るのだろうか。
さて、前回の記事に続き、きょうは「自由」の話をしたいと思います。
きのうは「選択肢の多さ」こそ自由であると話しました。
ひとは一般に自由を目ざし生きるものです。つまり、取りうる選択肢を増やしていくことが人生のひとつの目標であるということになります。
幼い頃、ひとは大人の管理下にあり、行動の選択肢が限られています。
それが歳を経るにしたがって(責任の増大とともに)取りうる選択肢が増えていく。人生が自由になっていくのです。
もちろん、いかに選択肢が増えようとも取りうるルートはひとつしかないので、一度にいくつもの人生を歩むことができるわけではありません。
しかし、豊かな選択肢のなかからひとつを選んで生きている人は「自分の意志で人生を選んだ」という実感を得ることができるでしょう。
この自己選択&自己責任の実感こそが「生きている」という感覚そのものであるのだと思います。
もっとも、あまりにも選択肢が多い社会では、ひとは「どれを選ぶのが正しいのかわからない」という状況に陥るわけですが。
しかしまあ、とにかく基本的には「自由であることはいいことだ」とぼくは考えます。
この世界はフリーシナリオ&オープンワールドの超巨大MMORPGみたいなものです。
本来、そこに「クリア」という概念はないし、したがって具体的な「目的」も存在しない。
だから、どんな楽しみ方をしてもいいし、やりたくないことは投げ出してもかまわない。
自分の好きなことを、好きなように遊び尽くせばいい。そういう種類のゲームであるはずなのです。
もちろん、この世界に「クリア」はなくても「ゲームオーバー」は存在するので、死なないように生きていかなければなりません。
しかし、 -
リアルはなぜクソゲーなのか?
2015-06-01 03:3651pt
ニンテンドー3DSでLEVEL5制作のRPG『ファンタジーライフ』を始めました。
ああ、まだ『スーパーマリオ3Dワールド』も『ゼノブレイドクロス』も終わっていないのに新たにゲームを始めてしまうぼくの意思の弱さよ。
ちなみにiOS版の『シュタインズゲート』なんかも途中で止まっています。『逆転裁判2』と『3』、『アサシンクリード4』あたりも途中だな。
いい訳させてもらうならべつだん意志が弱くてひとつのゲームを続けられないわけじゃなくて、むしろ「複数のゲームを同時進行している状態」をこそ快適だと感じているのだと思うのですね。
それもアクション、正統派RPG、スローライフ系RPG、ADVといろいろなジャンルの作品がそろっている状態が心地いい。
ようするにぼくは「選択肢を増やしたい」と考えているのでしょう。
いつでもやりたいと思ったときにそのジャンルのゲームを遊ぶことができるということに「自由」を見いだしているわけですね。
べつにやらなくてもいいのだけれど、やりたくなったらいつでもできる。
それがぼくが考える「自由」であり「贅沢」なのだと思います。
もちろん、事はゲームに限りません。たとえば、中華料理を食べたいな、と思ったときに即座に食べることができるということが「贅沢」だと思います。
そういう意味では、ぼくはなかなかに自由で贅沢な人生を送っているといえるかもしれません。
いつでも寝たいときに寝て、起きたいときに起き、やりたいことだけをやって暮らしているわけですから。
もちろん、そうはいっても、「金銭」という条件によって制限される要素は少なくありません。
たとえば海外旅行に行きたいな、と思ってもすぐに実行するのはむずかしい。
だから、ぼくがお金を欲しいと思うのは、必ずしもそれを使いたいからではないのですね。
仮に貯金が1000万円くらいあったら、たぶんじっさいに使わなくてもそれなりに満足できるんじゃないかと思う。
「いつでも使うことができる」と思っていられることが重要なのであって、じっさいにやりたいことはそれほどないんじゃないか。
この感覚、わかる人はわかってくれると思うんだけれど、どんなものだろう。
さて、『ファンタジーライフ』の話に戻ります。 -
動機がない人間は勝てない。アニメが垣間見せるきびしすぎる現実。
2015-05-19 02:2751pt
なかなか出来がいいアニメ版の『ベイビーステップ』を見ています。
原作ではしばらく前に通り過ぎてしまったお話であるわけですが、マーシャとか清水さんが登場しているのがひそかに嬉しい。
ふたりともなっちゃんを前に敗れ去っていったヒロインなんだけれど、十分にメインヒロイン張れるだけの魅力があるキャラクターだと思います。
ていうか、可愛いよなあ。マーシャも清水さんも。
なっちゃんの太陽のような輝きがすべてをかき消してしまうんですけれどね……。
リアルではあるけれど残酷だなあ。
それにしても、『ベイビーステップ』を見ていると、主人公であるエーちゃんの動機の強さが印象に残ります。
ペトロニウスさんも書いていますが、エーちゃんは決して選ばれた天才でもなんでもないんですね。
運動能力という意味では凡人でしかありえないかれが、それでも「選ばれた神々の領域」にまで才能を開花させていけるのは、ひとえに高いモチベーションがあったからです。
常に高度な向上心を持って自分をきびしく追い詰めていくかれのスタイルも、すべては「テニスが好きだから」という想いがあってこそ。
その動機の強さを見ていると、ぼくはどうしても『響け! ユーフォニアム』あたりを思い出すわけです。
こちらはまだ最新話まで追いつけていないのだけれど、『響け! ユーフォニアム』はいってしまえば普通のモチベーションしか持たない人たちの物語なんですよね。
自分自身のなかから「とにかくこれをしたい!」という欲望が湧き上がることがない人たちの物語、といえばいいかな。
そのジャンルの才能という意味では、エーちゃんと『ユーフォニアム』の少女たちはそれほど大きな差があるわけではないかもしれません。
しかし、動機の強度が決定的に違う。
エーちゃんはとにかく圧倒的にメンタルが強いのです。絶対的なメンタルを持っている人間とそうでない人間が勝負をすると、長期的にはもう勝負にならないくらいの差が付いてしまうのですよね……。
人間の動機には「内発的動機(内発性)」と「外発的動機(外発性)」があるといわれています。
内発的動機とは、自分の内側から沸き上がってくる動機のこと、外発的動機とは外部的な条件によって決まる動機のことですね。
この内発的動機がエーちゃんは驚異的に強い。こと内発性にかけては、ほとんど天才的といえると思う。
テニスの技術や才能ではなく、この動機の強靭さこそがかれの特別さでしょう。
だからこそ、後発のスタートでありながら、次々とライバルたちを打ち破ることができた。
だれよりも強く勝ちたいと思っている、というか思いつづけていることがかれの強みなのです。
で、だから『ユーフォニアム』は見ていて辛いものがあるんですよね。 -
「正しさ」はどこまで正しいか。ぼくが議論より対話を求める理由。
2015-05-15 00:4151pt需要のなさそうな記事シリーズ最新版である。
さて、この世にはいろいろな主張があり、意見がある。
そのなかにはほぼだれでも正しさを認めると思えるものもあれば、かなり突拍子もないものもある。
ここで問題にしたいのは、前者の、大方の人に対してそれなりに説得力があると思われる「正しさ」のことだ。
たとえば「ひとを差別してはいけない」といった主張は、どこからどう見ても正しいように見える。
正しさ指数100%で、どんなに拡大していってもどこまでも無条件に正しさが続く。そんな気がする。
少なくともこの現代社会に生きている人で「人間を差別するべし!」とする人はほとんどいないはずである(そのわりに差別自体はなくならないわけだが)。
しかし、ほんとうに「差別反対」は純度100%の「どこまでも正しい」主張なのだろうか? ぼくにはそうは思えないのだ。
「差別反対」が絶対的に正しいとすれば、この世にはいかなる差別もあるべきではないことになる。
ぼくは人間にそんな社会が構築可能だとは思わない。
やはりひとには好き嫌いがあるし、どこかで完全に公正ではいられないところもある。
完璧に差別が撤廃された社会などとてもできるものではないだろう。
仮にそういう社会が成立したとしても、相当に息苦しい社会であることも考えられる。
やはり「ひとを差別してはならない」という「正しさ」も程度の問題だと思うわけだ。
もちろん、だから「差別反対」と唱えることに意味がないことにはならない。
「差別反対」はおおむねは正しい理屈なのだから、可能な限り大きな声で唱えるべきだろう。
しかし、それには限界があることをわきまえておくべきではないか。
それがどこにあるかはひとによって意見が違うところだろうが、「とりあえずあることはどこかにある」、「完全に無条件の正しさではありえない」と考えておくほうが、その逆の考え方をするより、ずっと安全だと思う。
ほかにもたとえば「戦争をしてはいけない」とか、「子供をしいたげてはいけない」というのも、いかにも「どこまでも正しい」主張であるように見える。
だが、人類史上すべての戦いはすべて絶対悪そのものであり、また、今後未来永劫すべての戦いは絶対悪でありつづける、となると、「ほんとうにそうか?」と思えて来る。
また、「子供をしいたげてはいけない」のは当然だが、ほんの少し叱ってみせることも決して赦されないとなったら、害悪のほうが大きくなってくるかもしれない。
これらのわりあいに「どこまでも正しい」ように思われる主張も結局は程度問題に過ぎない。
何がいいたいのか。
ようするに、「どんなに拡張していっても正しいままの正しさというものはないのではないか」、「どんな正しさもどこかに限界を抱えているのではないか」と問いたいのだ。
「無条件の正しさ」は存在しないということ。
いわゆる価値相対主義か、と思われる読者もおられるかもしれないが、必ずしもそうではない。
たとえば、3歳の子供が親に殴り殺されたといった場合、それは99.9%、その親が悪いに決まっている。
「親に責任があるとも子供に責任があるともいい切れない」などという玉虫色のいい草はいかにも胡散臭い。そんなわけがないだろう、とぼくも思う。
しかし、だ。 -
ひとはなぜこうも正義に酔い、極論に走るのか。
2015-05-11 21:2551pt
『減速して生きる ダウンシフターズ』という本を読む。
人生のギアを下げ、「減速」して生きる人々・ダウンシフターズについて書かれた本だ。
といっても、インタビュー集のようなものではなく、ほぼ著者の生き方が淡々と綴られているだけである。
否応なくダウンシフトして生きているぼくは非常に共感するところもあるのだが、一方で著者の主張が素朴すぎるように思えて苛立つところもあった。
戦争反対、環境優先、無農薬の美味しい野菜を、といった主張のひとつひとつはたしかに正論なのだが、それが全部合わさるとどうにも胡散くさく感じられてしまう。
あまりにもきれいすぎる理屈であるため、現実を無視しているように感じられてしまうのだ。
人生のダウンシフトは悪くない考えだと思うが、それを経済とか政治の問題とダイレクトに結びつけてしまうと、どうにも違和を覚えずにはいられなくなる。
ダウンシフトのほかにも、シンプルライフとか、スローライフとか、ロハスとか、清貧とか、プア充とか、貧乏道とか、「お金を使い過ぎない生活」を称揚した言葉は多い。
それらは往々にして「物質文明からの解放」や「持続的でない資本主義サイクルからの脱出」をうたっている。
しかし、ぼくはそこにどうしようもなく欺瞞を感じ取ってしまう。
それは人間のきれいな一面だけを切り取ってそこだけを称える思想であるように思えてならないのである。
ダウンシフト、シンプルライフ、プア充、いずれも大いにけっこうだとは思うが、行き過ぎると巨大な欺瞞を抱え込むことになるのではないか。
昔から思っていた。どうしてひとはこう極端に走るのだろう、と。
以前、タバコについて記事を書いたことがある。
どうして愛煙家と嫌煙家はああも不毛な議論を続けるのだろうかという疑問について書いたつもりだった。
愛煙家は嫌煙家を「禁煙ファシスト」と呼び、嫌煙家は愛煙家を「ニコチン漬けの哀れな病人」と決めつける、その構図にぼくは深刻な疑問があったのである。
その記事はどうやら愛煙家を擁護するものと受け取られたらしく、その文脈で賛否両論があったが、ぼくがいいたいのはそういうことではなかった。
ある人が愛煙家でも嫌煙家でもべつにかまわない。それぞれの人にそれぞれの立場があることだろう。
ただ、それならなぜ、少しでも相手の立場に立って相手寄りの姿勢で考えることができないのか。
なぜ、これほどまでに相手を軽蔑し、憎悪し、レッテルを貼り、一方的に攻撃しなければならないのか。
そうぼくは問いたかったのである。
タバコに限らず、憲法問題でも原発問題でも環境問題でもそうだ。
それらはそもそも
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