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記事 39件
  • 『封神演義』の藤崎竜、『銀英伝』を再度漫画化!

    2015-09-28 23:44  
    51pt

     田中芳樹『銀河英雄伝説』が藤崎竜の手で漫画化されるそうですね。
     日本を代表するスペースオペラの名作を『封神演義』の作家が手がける。
     期待は高まるばかりですが、さて、どんな出来になることやら。
     ぼくは25年来の田中芳樹読者にして、『PSYCHO+』からのフジリューファンなので、どういった仕上がりでも受け止める覚悟はできています。どんと来い。
     それにしても、『アルスラーン戦記』の漫画化&アニメ化といい、往年の田中芳樹作品の再ブームがいままさに来ていますねー。
     30年前の作品がいま最先端のエンターテインメントとして堂々と通用してしまうその普遍性の高さには驚かされるばかり。
     『アルスラーン』にしろ『銀英伝』にしろ、ちょっと意匠(キャラクターデザインとか)を変えただけで十分に現代の作品として読まれてしまうんだよなあ。
     ここらへん、5年も経つと時代遅れになってしまう傾向がある一般のライトノベルとは格が違うかも。
     まあ、『アルスラーン』はともかく、『銀英伝』はさすがにSF設定等々が古びてしまっていると思うので、そこらへん、適当にリファインして「いままで見たことがない『銀英伝』」を見せてほしいところです。
     この小説はすでに再来年にふたたびアニメ化することも決まっていて、そちらのほうも気になります。うーん、凄いなあ。
     いまさらいうまでもないことですが、『銀英伝』は一度、道原かつみさんの手で漫画化されています。
     こちらも出来は良いのですが、何しろ遅筆寡作の方なので、『銀英伝』のような大長編を手掛けることに無理がありました。
     その点、フジリューさんには『封神演義』や『屍鬼』を完結させてきた実績があるので、最後まで描き切れるのではないでしょうか。
     SF的なセンスもちゃんと持ち合わせている作家さんだしなあ。
     意外な組み合わせながらけっこういけるんじゃないかと推測。
     だれがマッチングしたのか知らないけれど、偉い偉い。
     あとは思想的なところをどう演出しなおすかですね。
     30年前とはやっぱり政治状況が異なっているわけで、そのままの展開をすると古びて見えると思う。
     少なくとも民主主義のシステムを至上視し、そのために血を流すヤン・ウェンリーはより悪役っぽく見えて来るのではないか。
     まあ、それはそれで一興ですし、原作にたびたびの再解釈を許す奥深さがあるからこそいまなお極上のエンターテインメントとして通用しているということもいえるでしょうが。
     いや、なんといっても 
  • 『アルスラーン戦記』に見る完結という至難。

    2015-08-05 00:14  
    51pt

     昨日、なにげなく書店の棚を見てまわったところ、『岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私 サークルクラッシャーの恋愛論』という本が出ていました。
     タイトルを見ただけでこれは買わねば、と思ったものの、電子書籍版が出ていないのでとりあえず見送ることに。
     すっかり紙の本より電書のほうが購入意欲が高くなっているなあ。電書はさまざまな点で紙の本より便利だと思うのです。
     さて、いいかげん「ハッピーエンド評論家」の肩書きを掲げておいて何もしていないので、この企画の失敗を認めて修正作業を行いたいと思います。また名前を変えるかな……。
     いろいろ手を変え品を変えて行動してはいるのですが、どうにもうまく行かないのはやる気がないためなのか、どうか。うーむ。悩むところ。
     まあ、やる気さえ出せばたちまち成功というわけにもいかないだろうけれど。
     さて、アニメ『アルスラーン戦記』がなかなかに面白いので、原作を読み返してみたところ、予想以上に面白く、いまさらながらに感心してしまいました。
     磨き抜かれたエピソードやキャラクターの魅力はもちろんのこと、注目するべきはその密度。
     一行一行をいちいち面白くしようとしているような、高密度の展開にはうならされます。
     第一巻『王都炎上』から第一部完結の『王都奪還』まで七冊、その七冊でなんと多くの出来事が起こっていることか。
     ここらへん、傑出した構成力がなければできないことで、全盛期田中芳樹の凄みを思い知らされます。
     いまだ流浪の王子に過ぎないのちの「解放王」アルスラーンのもとに、次々と馳せ参じる「十六翼将」たち。
     この第一部の波乱の物語は、ほんとうに面白い。
     それに比べると物語を畳みにかかった第二部は一枚落ちる、という評価が一般的なものかもしれませんが、まあ、物語を閉じることはそうでなくてもむずかしいんだよなあ。
     作者の責任という意味では始めた物語はすべてきちんと閉じるべきなのでしょうが、そう理屈どおりは行かないのが大長編の執筆というもの。
     書き始めたものをきちんと書き終えることは至難の業、しかもそれはその物語が長くなればなるほど、構成が緻密を究めれば究めるほど、よりむずかしくなっていくのです。
     あの『十二国記』ですら長いあいだ未完のまま放り出されているではありませんか。
     だれも小野不由美の物語に対する至誠を疑わないことでしょうが、それにしても未完の物語をきれいに閉じることはことほどさようにむずかしいのです。
     そうはいっても 
  • 善か、悪か? 百万人を殺した男の割り切れない素顔。

    2015-05-19 01:32  
    51pt

     『アルスラーン戦記』がゲームになるそうですね。
     アニメ化は数しれない田中芳樹作品でもゲームになったものはそう多くありません。
     現代のハードであの世界がどう再現されるのか気になるところです。
     その昔、メガドライブでシミュレーションゲームになっていたような気がしますが、きっと気のせいでしょう。ええ、そうに違いありません。
     いずれにしろ漫画、アニメ、ゲームと『アルスラーン戦記』の世界がしだいに拡大していっていることはたしかで、いちファンとしては非常に嬉しいところです。
     これで原作の新刊が出ると文句がないのだけれど、それはまあいうまい。
     アニメも出来はいいですし、漫画はこのまま行くとおそらくミリオンセラーになるでしょう。
     これで新たに『アルスラーン戦記』のファンになる人も数多くいるはずで、長年の読者として感慨深く思います。
     それもこれも原作のストーリーがきわめて優れているからこそ。
     全盛期田中芳樹作品の面白さはやはりただごとではありません。キャラクター小説の歴史に冠絶するものがある。
     アニメはパルス王都エクバターナの陥落にまで話が進みました。
     アルスラーンと黒衣の騎士ダリューンに加えて、軍師ナルサス、その弟子エラム、楽師ギーヴ、女神官ファランギースと旅の一行はほぼそろいました。
     対するは侵略者ルシタニア王国軍30万。それになぞの銀仮面の男――この銀仮面の正体はもうすぐわかりますが、アルスラーンにとって宿命の難敵ともいえるこの男を巡って、物語は今後、二転三転していきます。
     そのほかにも王都奪還を目ざすアルスラーンの前に立ちふさがる者は少なくなく、いまのところは線が細く頼りない少年に過ぎないかれはいっそう成長していかなければなりません。
     この流浪の王子アルスラーンの成長物語としての面白さが『アルスラーン戦記』の魅力の一端です。
     わずか14歳の無力な子供が、いかにして数々の宿敵をも凌駕する真の王にまで成長していくのか。
     原作未読の皆さまには期待していただきたいと思います。
     ところで、第7話にしてルシタニア王国の王弟ギスカールが登場しましたね。
     この男、きわめて有能な軍人であり策謀家であり政治家であるというマルチタレントの持ち主なのですが、人格的に見ても実に面白いキャラクターの持ち主です。
     パルス征服戦争、王都陥落、その後の戦争と続く悲劇の根源はすべてこの男にあるわけで、その意味では何十万もの命に責任を持つ大悪人ともいえるのですが、どうにも憎めない。
     ええ、ものすごく悪いやつなんですけれどね(笑)。
     この 
  • ハッピーエンド小説×100作リスト制作中。

    2015-04-30 22:35  
    51pt
     ハッピーエンド評論家として活動を開始するべくとりあえず「ハッピーエンド小説×100作リスト」を作ってみました。
     名前の頭に×が付けているのは未読ないし結末の記憶があいまいでほんとうにハッピーエンドなのかどうかわからない作品です。つまり、このリストは未完成ということ。
     これがほんとうにハッピーエンドか?という作品もあるでしょう。そこらへんの定義についてはおいおい詰めていく予定です。
     『たったひとつの冴えたやりかた』とか、表題作は悲劇的内容ですが、全体の構成としてはハッピーエンドだと判断して入れました。
     今後、未読の作品をすべて読んだ上で全作品を書評し、まとめて電子書籍として出版するつもり。
     「ハッピーエンド映画×100作リスト」と「ハッピーエンド漫画×100作リスト」は現在作成中ですね。
     まあ、ハッピーエンド評論家を名乗るなら、このくらいが最低限の仕事ですかね。頑張ります。 
  • 『アルスラーン戦記』と「同性愛的な二次創作」の微妙で複雑な関係。

    2015-04-15 05:54  
    51pt

     作家の田中芳樹さんが所属している有限会社らいとすたっふの「らいとすたっふ所属作家の著作物の二次利用に関する規定」が改定されたことが話題を呼んでいる。
    http://www.wrightstaff.co.jp/
     「露骨な性描写や同性愛表現が含まれる」二次創作を禁止した項目を廃し、新たに「過激な性描写(異性間、同性間を問わず)を含まないこと」とする項目を加えたようだ。
     いままでの書き方ではことさらに同性愛描写を禁止するように受け取られかねないから、これは適切な変更だと思う。
     もちろん、らいとすたっふ側にそのような意図はなく、ただ「いわゆるカップリング」を抑制したいというだけの目的だったのだろうが、誤解や曲解を招きかねない表現であることに違いはない。変更されて良かった。
     しかし、この規定には微妙な含みがある。
     「過激な性描写(異性間、同性間を問わず)を含まない」なら、「いわゆるカップリング」的な同性愛描写そのものは「お咎めなし」にあたるのだろうか。
     判断はむずかしいところだと思うが、Twitterで検索してみたところ、いわゆる腐女子界隈の人たちはこれを「18禁でなければカップリングも問題なし」と受け止めている人も多いようだ。
     ただ、これで全面的にカップリング描写が認められたと見ることはいかにも早計には思える。
     原作者がそういう描写を好ましいと思っていないことはたしかだろうから、何かのきっかけで再度規定が変更ということもありえる。注意するべきではないだろうか。
     というか、あきらかに原作者が嫌がっているような二次創作を展開しても後ろめたさがありそうなものだが、そういうものでもないのだろうか。
     人それぞれだろうが、自分が気分良ければいいと思う人もいるのかもしれない。
     もともとが人気があり、これからさらに人気に火がつく可能性が高い作品だけに、今後、どういう展開をたどるのか注目してみたいと思う。
     それにしても、「同性愛のカップリング」一般を禁止することは、意外に色々な問題を抱えているようだ。
     シンプルに「同性愛のカップリングを禁じる」と書けば、それなら異性愛のカップリングは良いのか、それは同性愛差別ではないか、と受け取られる。
     しかし、作者の心理として自分のキャラクターがかってに同性愛者化されたところは見たくないという人がいても、それほどおかしいなこととはいえないのではないか(田中芳樹がそうだというのではないが)。
     じっさい、ぼくにしても、「同性愛的なカップリング」の禁止が同性愛差別化というと――やはり、それは違うんじゃないか?と思える。
     まず、なんといってもそれらの二次創作が原作作中の登場人物の性的指向をねじ曲げているようには思えるわけで、異性愛とか同性愛という以前に、それこそが問題なのだ、と考えると話はシンプルになると思う。
     つまり、「作中で異性愛者として描かれている人物を同性愛者であるかのように描くこと」はやはり不快である、そういうふうに表明しても同性愛差別にはあたらないのではないだろうか。
     当然、この理屈で行くと 
  • スタジオジブリの宮崎アニメはなぜ面白くも辛いのか。

    2015-04-14 19:40  
    51pt

     川上量生『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』読了。
     これが、もう、超面白かった。実に素晴らしい内容なので、皆さん、読んでください。いや、いいもの読んだ。得した得した。
     もっとも、「ぼくは」とても面白いと思ったけれど、ひとによってはあまりにあたりまえの内容だと思うかもしれず、また、まったく納得できないと感じる人もいるかもしれません。
     それくらい、賛否を呼ぶ内容だと思います。
     しかし、少なくともぼくにとっては非常に明快かつ爽涼に読める一冊でした。新書で安いので、ぜひ多くのひとに読んでもらいたいですね。
     この本は著者の川上量生さんが、スタジオジブリで「コンテンツ」について学んだことが書かれています。
     というか、この本一冊をかけて川上さんは「コンテンツとは何か」という問いに答えていこうとしています。
     それがみごと答えられているかどうかはぜひ自分で読んでたしかめてもらいたいところですが、ぼくはちょっと違う始点からこの本を「活用」してみようと思います。
     「面白い物語とは何か」という例のテーマを掘り下げるために、この本の内容を検証してみようと思うのです。
     この本には、「ストーリーか表現か」と題した一節が存在します。ちょっと引用してみましょう。

     映画をつくるとき、何をいちばん重視するかは人によって違います。鈴木敏夫プロデューサーは、よく会話のなかで「ストーリーか表現か」とひとりごとのように言うことがあります。
    「すべての大監督は最終的に表現に行った」というのは、鈴木さんがよく使う言い回しです。
     映画を見て、話のつじつまが合わないと文句を言う人がよくいるけれど、話のつじつまなんか合ってなくたっていいんだそうです。

     興味深い話です。
     なるほど、鈴木プロデューサーのいいたいことはよくわかる。
     ほんとうに「表現」として凄い映画を見たとき、観客は細かい粗なんて気にならない。
     観客が細かいことを気にしはじめるのは、ようするにその映画が気に入らなかったからだ、そういうことはできるでしょう。
     それなら、「ストーリーか表現か」といえば、大切なのは表現であって、ストーリーは二の次なのでしょうか。
     この本のなかでは明確な結論が出ていないませんが、少なくともクリエイターとは表現を重視する人々である、ということは書かれています。
     なぜか。これも本文中に記されています。

     ストーリーか表現かで、なぜクリエイターは表現にこだわるようになるのか、その理由は、ストーリーは表現に比べてパターン化されやすく、かつパターンの数が少ないからだとぼくは思います。
     たとえばウラジーミル・プロップというロシアの民俗学者は、『昔話の生態学』という本で、昔話の構造を三一の機能と七つの行動領域に分けて説明しています。ようするに、昔話はたくさんあるけれど、それらはどれも、主人公がいてその助っ人がいるとか、悪役がいるとか、なにかを探すたびに出るとか、少数のパターンの組み合わせとして分類できるということを明らかにしたわけです。
     ということは、たいていの物語はすでになんらかのパターンの繰り返しになっている可能性が高いのです。表面上は新しい物語のつもりでも、実は何度もくり返されている過去のパターンの焼き直しにすぎないということに、ストーリーはなりやすいのでしょう。
     一流のクリエイターにとって、いままでなかった新しいコンテンツをつくりたいという欲求は本能のようなものではないでしょうか。

     これも納得がいく話です。
     ストーリーはパターン化しやすく、しかもパターンが少ない。これは一定以上、小説や映画を体験している「物語読み」なら、理屈ではなく実感として納得がいくことでしょう。
     一般に、人間が共感しうる物語のパターンはきわめて少ない。
     少なくともマスに向けてエンターテインメント作品を提供しようと思ったら、ごく限られたパターンをくり返すしか方法がない。
     もちろん、あまりに定番のストーリーばかりでは飽きられてしまうから、表面上はあたかもまったく新しい展開であるかのように糊塗したりもするけれど、本質的にはわずかなパターンのリフレインであることを免れない。それは事実だと思います。
     そもそも究極的に突き詰めていくと、新しい物語なんて生まれようがないんですよ。
     たとえば、村上龍はすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という類型でできている、と喝破しています。
     つまり、小説(や漫画や映画)のストーリーとは、登場人物を何らかの試練に合わせて、それを達成できるかどうかを見る、それだけのものだというのですね。
     ここまで単純化してしまうと、たしかにどんな物語もこの放送から逃れられないように思える。
     実験的な文学作品ならともかく、大衆向けのエンターテインメントなら殊にそうです。
     だから、「ストーリーか表現か」と自らに問うたとき、「すべての大監督は最終的に表現に行」く。これはよくわかる話です。
     表現が膨大な奥行きを持ち、いまなお新しい可能性を秘めているのに対し、ストーリーにはもはや探索するべき道はないともいえるのですから。
     そう、たとえばハリウッド映画を見ればわかるように、マスに向けたストーリーテリングとは決まりきったものであるに過ぎないのだ。ひとまず、そういうことはできそうです。
     しかし、ぼくはそれで納得することはできません。そうはいっても、やはり「面白い物語」と「そうでない物語」はあると思うのです。
     ストーリーメイキングが数少ないパターンのくり返しであることは間違いないところですが、それでも「面白い物語」を生み出すことは簡単ではない。
     大金をかけて良質なストーリーを研究しているはずのハリウッド映画ですら、あきらかに「出来のいいシナリオ」と「出来の悪いシナリオ」は存在するように見えます。
     そして、それは「つじつまが合っているか、どうか」という問題だけではない。「つじつまは合っていないが面白いストーリー」は存在する。
     つまり、作劇とは単なるつじつま合わせではない、ということです。
     それにしても、なぜ、面白い物語をつくることは簡単ではないのでしょうか?
     ひとつには当然、技術的問題が考えられます。少数のパターンの組み合わせとはいえ、それを緻密に行うことが簡単ではないことは当然といえば当然です。
     少しでも「組み方」がずれてしまったらストーリーは台無しになりかねないのですから、繊細な心配りが必要なのです。
     もうひとつ、たとえばスポンサーの意向などでストーリーは狂わせられやすい、ということもいえるかもしれません。
     ハリウッドにはそういう事情で駄作に成り下がった作品がたくさんありそうです。
     しかし、それらだけではない。現に、宮﨑駿個人の天才の表出と捉えられる一面が大きそうな宮崎アニメにしても、やはりストーリーが破綻した印象の作品は多い。
     この理由も本文中に書いてあるのですが、宮崎さんははっきりとした「終点」を構想することなく物語を描き始めてしまうのですね。
     小説家なら、それこそこれも本文中に例がある栗本薫のように、先を考えずに書き始めるというひとはいますが、プロの映画監督では類例がないんじゃないかな。
     おかげで宮﨑駿の映画は、最後の最後になると「バルス!」で突然にラピュタ城が崩壊して終わりになるようなことになりがちであるわけです。
     セキュリティという観点から見てあまりにひどい話だと思うわけですが。
     とはいえ、『天空の城ラピュタ』はやはり何度でも鑑賞に値する名作です。

     じっさい、くり返しテレビで放送されては好視聴率を記録している。多少つじつまが合っていないことなどだれも気にしない。
     それはつまり、ストーリーに対して表現が優位だということの証明でしょうか?
     結局のところ、宮﨑駿の手がける素晴らしいアニメーションさえあれば、観客はストーリーのことなど気にしないものなのでしょうか?
     実は、ぼくはそうは思わないのです。
     一本のシナリオとして見たら、『ラピュタ』の問題解決方法は、相当に乱暴です。
     いくらでもツッコミが入る余地があるし、伏線の処理にしてもエレガントとはいいがたい。
     しかし、それでも『ラピュタ』には胸躍るストーリーがある。ぼくはそう思います。
     つじつま合わせとはべつの時点で、『ラピュタ』は面白い物語なのだと。
     それに比べると、やはり宮﨑駿の最近作、『ハウル』や『ポニョ』はいくらか辛いものがある。

     もちろん、それらは表現のレベルでは素晴らしい傑作でしょう。『ハウル』の空中散歩、『ポニョ』の波乗り、それらはまさにまれに見る大天才作家の力量を直接に実感させられる映像美です。
     しかし、やはり全体として見ると、いくらなんでも「わけがわからない」ように感じられるのです。
     シナリオの「わかりやすさ」という次元で、やはり『ハウル』や『ポニョ』は『ナウシカ』や『ラピュタ』といった初期作品に一歩譲るのではないでしょうか。
     その証拠に『ハウル』や『ポニョ』のシナリオは非常に要約しづらい。
     それに比べると『ラピュタ』は「鉱夫の少年パズーが、空から落ちてきた少女シータと出逢い、彼女とともに冒険し、ついに天空の城ラピュタにたどり着いて、悪漢ムスカを倒す話」とでも要約できるでしょう。
     ぼくの言葉を使うなら、話の「コンセプト」がわかりやすいのです。
     コンセプト。
     ふたつ前の記事で出て来た概念ですね。憶えておられるでしょうか。
     ぼくはこう書いています。

     学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
     この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
     何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
     このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
     ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
     しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。

     『ハウル』や『ポニョ』では、この「伝えたいテーマやメッセージ」がはっきりしない印象があります。
     平和は大切だといいたいのか? 子供は無邪気で素晴らしいといいたいのか? 釈然としないまま映画館を出た観客は少なくないでしょう。
     もちろん、そういう観客は宮﨑駿が真に表現したいことを受け取るだけの力量がないだけだ、とはいえるかもしれない。
     しかし、まさに川上さんが書いているように、マスに伝えるためには「わかりやすさ」が重要です。
     『ハウル』や『ポニョ』は、表現のレベルでどれほど高度であるとしても、一個のエンターテインメントとして、やはりあまりにも「わかりにくい」のではないでしょうか。
     「つじつま合わせ」の強引さという点では、『ナウシカ』や『ラピュタ』と『ハウル』や『ポニョ』の間に決定的な差はないかもしれません。
     ですが、それでもやはり後期作品は初期作品に比べて難解な印象を受けます。ペトロニウスさんの『風立ちぬ』評を引用してみましょう。

     実は本編を見ている最中に、さまざまなイメージが喚起されたのだが、大きなものは『ハウルの動く城』だ。当時、僕はこの作品を酷評している。
     その理由は、「意味が分からないから」だった。
     精確に言えば、どの文脈で宮崎駿が語りたいのかは、過去の作品の文脈を理解していれば、自ずとわかるのだが、そういう高踏的な作品読解は、アニメーションとしてだけではなく、物語として僕は好きではない。物語は「わかる」ように描いてほしい、というのが僕の好みだ。それが正しいとは言わないが、端的に「それ」を見て、少なくとも表面的にでも言いたいことがわからなければ、やっぱり物語としての整合性がないと思ってしまう。もう少し具体的に書けば、ハウルという青年は、戦争をとても嫌っているようなのだが、「なぜそういう意識を持つようになったのか?」と「それならば、あなたは何をするのか?(=どう行動に起こすのか?)」が全然描かれていないので、ハウルがただ単なる傍観者に見えてしまうのです。絨毯爆撃の凄まじい戦争シーンの悲惨さを描けば描くほど、ハウルという主人公視点が、それに対して、外から見ている受け身であることがわかってしまうし、立ちすくんで苦しんで、ただ動けなくなっているだけなのが伝わって、少なくとも映画という短い時間で起承転結なりドラマの展開が要求される媒体としては。で??ってしか思えなかった。
     もちろん整合性が取れる作品は小さくまとまってしまうので、『崖の上のポニョ』や『千と千尋の神隠し』のような、何が言いたいのかわからないイメージの奔流であっても、もちろん凄い強度は存在する。とはいえ、やっぱり「全体を通して主張したい明快なメッセージ」という言語化の部分とアニメーションならではのタンジブルなイメージが両立してほしいというのが、僕の好みだ。表面の動物の脊髄反射のレベル・・・・ああ、これは菜穂子との恋愛の美しい話ね、といった次元だけで見てしまう人も多々いると思う(信じられないが、それが現実のリテラシーのレベルなのだろう。背中の方で女性の2人組がそういう会話をしていた…良い純愛映画だったね、、、と)が、「そこ」から順々に複雑なものへ連れて行ってくれる構造をしているかが、エンターテイメントの価値だと僕は思う。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1

     とても慎重な書き方をしていることがわかりますが、ようするに『ハウル』は「意味がわからない」、もちろん過去作品のコンテクストを慎重に検討していくとわかるのだが、自分の好みではあまりにも「わかりやすさ」が足りないように感じられる、といっているのです。
     ぼくはこの見方にほぼ同意します。川上さんはこう書いています。

     実のところ、ぼくはストーリーが気になるのでジブリの作品にはいろいろ不満があったのです。『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』を映画館で見たときには、もちろんおもしろくはあったのだけれども、不満もいろいろありました。
     この二本をあらためて自宅で見てみたのです。そうすると不思議なことに、今度はなんの不満もないどころか大傑作だったのが分かりました。
     ようするに宮崎駿監督がどんな作品をつくろうとしたのか、正しい見方をわかっていなかったのでしょう。
     少なくとも宮崎作品については、やっぱりストーリーなんかどうでもいいのです。もし、宮崎作品の魅力がストーリーにあったとしたら、こんなに何度もお客さんに見てもらえるわけがありません。これだけテレビで再放送をやっているのですから、視聴率が下がらないわけがありません。ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はないからです。

     そうでしょうか。ぼくはここで根本的な違和を感じます。
     はっきりいうなら「ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はない」とはいえないと思うのです。
     この世には、わかっていても何度でも体験したくなるストーリーというものが存在する。ぼくはそう考えます。
     なるほど、宮崎駿は「表現の人」であり、「ストーリーの人」ではないかもしれない。
     だから、特別、つじつま合わせには拘らない。
     宮崎アニメを見て「つじつまが合っていないし、終わり方が強引だから駄作なのだ」ということは、非常につまらない見方ということはいえるでしょう。
     しかし、それにしても、一本の映画はストーリーと表現の双方から成り立っているわけであり、「ストーリーなんかどうでもいい」とまで悟れる観客はそう多くないのではないでしょうか。
     大半の観客は「面白いストーリーを最高の表現で体験したい」と思って劇場を訪れるはずです。
     そして、その場合の「面白いストーリー」とは「細かいところまで精密につじつまが合っているストーリー」という意味ではない。
     「ハラハラドキドキ、わくわくするような展開が連続し、幸福な、あるいは切ない気持ちで劇場をあとにできるストーリー」の意味だと考えられます。
     ふたつ前の記事で、ぼくはそういうストーリーを「落差」という概念で説明しようとしています。

     それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
     単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
     これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
     今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
     一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
     べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
    (中略)
     そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
     最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
     つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。

     そう、大切なのは「ドラマティック」ということ。
     『ラピュタ』にはその「ドラマティックさ」があきらかにあった。
     鉱夫としての平凡で退屈できびしい日常――そこに空からゆっくりと降りてくるひとりの少女! 冒頭からしていきなりドラマティックな名場面から始まるわけです。
     それに対して、『ハウル』はどうか?
     比較するならやはり印象が弱いといわざるえないのではないでしょうか。
     なぜなら、『ハウル』では「善」と「悪」、「明」と「暗」といった対立概念が明確ではなく、そのコントラストがはっきりしないからです。
     『ラピュタ』のムスカを単純に悪人といい切ってしまうのは間違いなのかもしれませんが、少なくとも物語のなかでは悪役として描かれており、かれに対決するパズー少年とシータには正義があるように観客には感じられます。
     しかし、『ハウル』においては、もはや何が正しく、何が間違えているのか、いったい監督が何を伝えたいと思っているのか、一見したところでは判然としない。
     つまり、『ハウル』はあまりにも複雑混沌とした物語なのです。
     それでもなお、膨大な観客がこの映画を見に行くのはやはり宮﨑駿の天才的な表現力を見るためとしかいいようがありません。
     しかし、だからといって、そういう観客たちがみな「ストーリーなどどうでもいい。表現の素晴らしさだけが問題だ」とまで割りきれているかというと、ぼくは否定的にならざるを得ません。
     さて、この本のなかで、「表現の人」宮﨑駿に対立する「ストーリーの人」として受け取ってもいいのではないかと見える人物がひとりいます。
     手塚治虫です。

    「父は、自分は表現では勝てないことを分かっていたのでストーリーで勝負したんですよ」
     そう、ぼくに語ってくれたのは手塚眞さんです。父とはもちろん手塚治虫さんのことです。
    「父は東映アニメ、それこそ高畑さんや宮崎さんにはかないっこないから、アニメーションでは最初から勝負しなかったんです。でも、こっちはストーリーがおもしろいから、そこで勝負するんだって」
    (中略)
     どうせアニメーションの技術では勝てないので、制作費と製作時間を減らして、そのかわり手塚治虫原作のおもしろいストーリーで勝負することで、国産初のテレビアニメ放送を実現したのです。

     この箇所を読むと、手塚治虫には宮崎駿や高畑勲ほどの表現の天才はなく、ただ「おもしろいストーリー」で勝負するしかない人だった、というふうに読み取れます。これは一面の事実でしょう。
     しかし、逆にいえば、手塚治虫はストーリーという一点においては、アニメーションの申し子、線の魔術師たる宮﨑駿にすらアドバンテージを保つことができた、ということもできるわけです。
     そう、手塚こそは実に戦後漫画界最大にしておそらくは最高のストーリーテラーです。
     こと「おもしろいストーリー」を描くことにかけては、手塚は絶対の自負を持っていたと考えられます。
     それでは、その「おもしろいストーリー」とはどういうものなのか。パターンが少なく、あっというまに陳腐化してしまうはずのストーリーで、手塚はなぜ衆に抜きん出た存在であることができたのか。
     そのひとつの答えが、先の「コントラスト」ということです。
     手塚は巨大な「対照性」のあるストーリーを生み出す天才だったのです。
     その才能の稀有さ、貴重さは、実にアニメーションにおける宮﨑駿に匹敵するものとぼくは考えます。
     これだけでは抽象的に思えるかもしれないので、具体的な作品を見てみましょう。
     なるべく有名なエピソードが良いと思うので、『ブラック・ジャック』から「ふたりの黒い医者」を選びたいと思います。
     ブラック・ジャック永遠のライバル、ドクター・キリコ初登場の話です。
     とても有名な話なので、おそらくご存知かと思いますが、そうでない方は↓を読んでみてください。
    http://bkmr.booklive.jp/manga-sociology-01-euthanasia
     このラストシーン、ブラック・ジャックが絶望的な葛藤のなかで「それでも私は人をなおすんだっ 自分が生きるために!!」と叫ぶ場面は、伝説的な名場面としていまも語り草になっています。
     それでは、このシーンの何がそれほどひとの心を打つのか。いろいろあるでしょうが、そのひとつが「コントラスト」です。
     このシーンでは、ある階段の上段にいるキリコと、下段にいるブラック・ジャックが対象されて描かれています。
     この上下の差が、即ち、死と生、勝利と敗北、運命と人為といった対立項を読者に強く印象づけるのですね。
     ここで読者は一転して敗者の地位に立たされたブラック・ジャックに強く共感し、かれの感情に同調します。
     手塚が作劇の天才としかいいようがないのは、この最後のコマで、その前のコマで高らかに哄笑していたキリコがもはやブラック・ジャックになどなんの興味もないといわんばかりにしずかに去っていこうとしているところです。
     つまり、ここには「宣言」と「沈黙」という対立項もあるわけです。
     まとめるなら、「死を司り、運命を信じ、ついに勝利したキリコの沈黙」と「生を守ろうとし、人為の限りを尽くし、それでも敗北したブラック・ジャックの宣言」が対峙していることになる。
     これこそが、まさに手塚的な「おもしろいストーリー」を象徴するワンシーンといえるでしょう。
     いや、これは手塚の「表現」の次元の話ではないか、「ストーリー」の次元の魅力とはいえないのではないか、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
     このワンシーンだけならそうといえるかもしれません。
     しかし、このシーンの前にここに続くストーリーがあり、そこではブラック・ジャックはキリコが殺そうとした患者の治療に成功した「勝者」であったのです。
     それなのに、一瞬でかれは「運命」の前に「人為」のむなしさを思い知らされる「敗者」の地位にまで突き落とされる。
     その「落差」にこそ読者は痺れるような快感を覚えているのであって、これはやはり「ストーリー」の次元で生み出された名場面といえるかと思います。
     冷静に考えてみれば、せっかく助けた親子が突然死んでしまうという展開は、伏線も何もない、シナリオ技法の点からはちょっと問題があるような展開です。
     しかし、それが巨大な「落差」ある展開を生み、強烈な「コントラスト」を感じさせる結末に至るとき、ひとはもはやそんなことを気にしないのです。
     むしろ、「一切伏線がないこと」こそがこのエピソードの真骨頂だといえるでしょう。
     物語を面白くしようと思ったら、「落差」や「コントラスト」はかくも大切だということ。
     波乱万丈の映画を「ジェットコースター」に喩えることがありますが、迫力あるジェットコースターとは緩急や高低に富んでいるものです。
     物語も同じ。「落差」がない展開は、どんなに巧みにつじつまが合っていても面白くないのです。
     なるほど、ストーリーは表現にくらべバリエーションに乏しく、パターン化して陳腐になりやすいことはたしかでしょう。
     しかし、同じパターンであっても、「落差の差」、「コントラストの差」というものは存在しえる。
     そして、その差は実に見過ごせないほど大きなものなのです。
     たしかに、ストーリー作りは表現ほど「自由」ではないかもしれない。
     それは「始点」と「終点」、そして「結晶点(クライマックス)」を意識して厳密に構成しなければならないものだからです。
     その意味で、ストーリーテリングとは表現とくらべて「窮屈」なものである、ということもできるでしょう。
     それはどこか数学の公式や音楽の作曲めいたところがあって、何かがちょっとでも狂うともう完璧とは見えないのです。
     そして、それにもかかわらず、一瞬で完璧なシナリオを作り出してしまう手塚のような天才もいるところも数学や音楽と似ています。
     モーツァルトは即興でみごとな曲を作ることができたといいますが、手塚はさしづめ「作劇技術のモーツァルト」ということができるかもしれません。
     この天才的な「劇的な落差を生み出すことの天才」があってこそ、手塚は宮崎駿といった「表現の天才たち」に勝負を挑むことができたのだ、と考えてみると面白いでしょう。
     戦後のエンターテインメントをざっと眺めてみると、ぼくにはもうひとり、「ストーリーの人」といいたい巨人がいます。
     黒澤明です。
     黒澤がシナリオを重視したことは有名で、「シナリオが一流なら、監督が仮に二流三流でもいい映画はできる。だけどシナリオが三流なら、一流の監督がいくら頑張ってもうまくいきませんよ」といった発言がいまに残されています。
     かれはじっさい、脚本づくりに膨大な時間と労力を費やしたといいます。
     『コンテンツの秘密』のなかでは、この黒澤も最後には表現を選んだということが書かれています。
     これはたしかにそうだろうとぼくも思います。晩年の作品を見ると、「黒澤も最後には表現に行った」ということはできそうに見えます。
     しかし、ぼくは思うのです。それは必ずしもマスに歓迎される変化だったのではないのではないか、と。
     もちろん、一個の芸術作品としては『乱』は素晴らしい。『夢』は美しい。そういうことはできる。
     しかし、より一般的な視聴者にとってやはり黒澤明といえば、『天国と地獄』であり、『椿三十郎』であり、『七人の侍』なのではないか。

     それは宮﨑駿といえば『ナウシカ』であり『ラピュタ』である、ということとどこか共通したものがあるのではないでしょうか。
     たしかに、大黒澤も最後には表現に行ったひとりではあるでしょう。
     しかし、それは「緻密な構成力」が衰えたために、そういう方向に進まざるをえなかったという一面もあるように感じられます。
     そう、ぼくには厳密な意味での物語の構成力とは歳を取るにしたがって衰えていく種類の知的能力であるように思えるのです。
     その証拠に、巨匠とされる人の晩年の作品を見ると、どれも長い。これは短く無駄なくタイトにまとめあげるスキルが衰えているということなのではないでしょうか。
     ぼくひとりがそう考えているわけではなく、たとえば『ファイブスター物語』の永野護などは、連作短編エピソードである「ザ・シバレース」を描いた理由を、こう述べています。

     「ザ・シバレース」を描いた理由のひとつとして「運命の3女神」での反省があった。
     「運命の3女神」はとにかく長くなりすぎた。当時、作家として、シナリオライターとして、自分にはものすごい恐怖感があって。昔から作家や脚本家に、40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多いような気がしていて。実際に多くの作家や脚本を書く映画監督が、つくる話がどんどん破綻してしまっていくのを見ていたからね。まあ、小説でも映画でも実際にはつじつまを合わせる必要はないんだけど、それを飛び越えるくらいの勢いで破綻しているケースを見てきた。
     「アトロポス」を書き終えたころはもう30代半ばだったし、そういった不安から30代のうちに自分に足かせをつけて膨大な短編を残しておかないとって思ったんだ。
     若い作家と年齢を重ねた作家の違いを考えると、若い作家は勢いで膨大な短編を生み出しているんだよね。O・ヘンリーもそうだし、ジョン・アーヴィングもそうだし。近代作家もすごいいっぱい短編を書き残しているよね。そういったことを含めて、「ザ・シバレース」を描こうと思った。

     「40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多い」。これは、ぼくの印象と重なります。
     たとえば、あれほど天才的な物語作家であった栗本薫にしても、40代ごろからその作品は冗長化の一途をたどった印象が強い。
     しかし、それも当然といえば当然のことです。物語づくりとは「窮屈」なもの、年を取り、巨匠と呼ばれるようにまでなって、そういう「窮屈さ」を引き受けようとするクリエイターはそう多くはないということなのでしょう。
     永野護にしても、短編をつくる作業を「足かせ」をつけると表現しています。
     これは「窮屈さ」をひき受けるということとほぼ同じ意味でしょう。
     ぼくはそういう永野をほんとうに偉いと思うのですが、それはまたべつの話。
     とにかく、ある程度の自由が許される「表現」にくらべて、「ストーリー」を作ることは「窮屈」であり、歳をとった作家はその「窮屈さ」に耐えられなくなっていくのではないか、という話です。
     しかし、やはり作家にとって「おもしろいストーリー」はひとつの強力な武器であるわけで、仮に表現がクリエイターの権利であるとすれば、ストーリーはクリエイターの義務。そういうふうにいえるかもしれません。
     さて、このようにストーリーの良し悪しには「つじつまの整合性」のほかにも「波乱万丈さ」という基準があるわけですが、そんなハラハラドキドキのストーリーにしても、川上さんのいうように「分かってしまえばもう見る必要はない」のでしょうか。
     実は、ぼくはこの点についてもそうは思わないのです。
     これはつまり、ひとは先の展開がわからないからそれが気になって画面を注視するわけ「ではない」ということです。
     いや、もちろんそういう側面は強いでしょうが、それがすべてかといえば、決してそうではない。
     むしろ、先の展開がわかっているからこそ、それを見たくて画面に集中してしまう。そういうことがありえるとぼくはいいたい。
     表現という一点を取るなら、スタジオジブリの作品でも後期の作品のほうが、やはりそれなりのお金をかけているぶん、川上さんがいうところの「情報量」が多く、魅力的であるはずです。
     初期の『ナウシカ』や『ラピュタ』、つまりスタジオジブリ以前の作品は、それにくらべれば情報量的にシンプルでしょう。
     となると、必然的に後期作品のほうが初期作品より「再視聴、再々視聴に耐える」ことになりそうです。
     しかし、じっさいには必ずしもそうなっていないのではないでしょうか? 表現としていまではそこまで情報量が多いように見えない初期作品も、後期作品以上に「再視聴、再々視聴に耐える」ものである。こういったとして、反論はそこまで大きくないのでは?
     それはなぜかといえば、「あるコンセプトに基づくストーリー」の力だと思うのです。
     「つじつま合わせ」という点でいえば特に優れているとも思えない宮崎アニメですが、それでも、少なくとも初期作品、あるいは前期作品には「おもしろいストーリー」があった、とぼくは思います。
     つまり、そこでは「落差」や「コントラスト」を生み出すドラマツルギーが、わかりやすくシンプルな形で作用していたと考えるわけです。
     たとえば、あの有名なパズーとシータが「バルス!」と叫び、ラピュタ城が崩壊してゆくシーン。
     あのシーンはいまではテレビ放映されるたびにTwitterでシェアされ、何十万もの人がともに「バルス!」と叫ぶことになっているわけですが、これは当然、その人たちが『ラピュタ』を既に見ていて、先の展開を知っていることを意味しています。
     かれらはすべての展開を知ってなお、「バルス!」の瞬間をわくわくと待ち望みながら『ラピュタ』を見ているわけです。
     なぜこんなことがありえるのでしょうか? それは、物語という「波」に乗ることが気持ちいいからだとぼくは思います。
     そう、川上さんがいう「脳に気持ちいい表現」があるように、「脳に気持ちいいストーリー」というものもまた存在するのです!
     ぼくはそれを「波」に喩えます。
     つまり、上がったり下がったりという「落差」のある展開を楽しみつづけることは、ある種の「波」に乗ることに近いものがあるように思うのです。
     この「波乗り」の快感が忘れられなくて、多くのひとはくり返し同じ映画を見るのではないでしょうか。
     世の中には、手塚や、ある時期までの黒澤のような物語作家(ストーリーテラー)と呼ぶべき作家たちがいます。
     「表現」より「ストーリー」により長けたクリエイターのことです。
     もちろん、手塚や黒澤は「表現」においても天才的な人物だったかもしれませんが、かれらがなぜ大衆の心を掴んだかといえば、魅力的な「波」を生み出す才能を持っていたからでしょう。
     たとえば田中芳樹。
     もっというなら奈須きのこ。
     田中は、表現力という点だけを取れば、おそらくそこまで優れた作家ではありません。
     それほど文章がうまいわけでもないし、あまり表現のセンスが良くないところがある。
     奈須きのこに至っては、文章力という一点だけを取るなら、はっきりと稚拙です。
     特に初期は読むのが辛いくらいなのですが、それでも、田中や奈須はベストセラー作家になりおおせました。
     なぜ、そんなことが可能だったのか。それは、かれらが物語作りに比類ない天稟を備えていたからです。
     かれらは魅力的なストーリーを生むことに特化した才能と技能をもつ物語作家なのです。
     西洋では、ロバート・A・ハインラインとか、スティーヴン・キングなどがそういう作家にあたるでしょう。
     物語作家は落差(高低差)の大きいストーリー(波)を生み出すことに長けています。
     ある場面、もっというならあるひと言にそれまでのすべての展開が「結晶」するように緻密にドラマを紡いでいく、そういう才能のもち主なのです。
     たとえば、『銀河英雄伝説』の「ラインハルトさま、宇宙を手にお入れください。それと、アンネローゼさまにお伝えください。ジークは昔の誓いを守ったと」といったセリフ。
     あるいは『Fate/stay night』の「いくぞ英雄王――――武器の貯蔵は充分か」というセリフ。
     これらは、そのひと言に向かってそれまでのすべての物語が収斂していく、そういう言葉です。
     LDさんの言葉を借りるなら、これらのひと言こそが、その物語の結晶点、クリスタライズ・ポイントであるわけなのです。
     こういう「波」の頂点ともいうべきセリフなり場面を生み出すことができ、しかもその前後の「波」がそこに自然につながっていくように計算して構築できる才能、それが物語作家の資質です。
     だから、奈須きのこの文章技術をいくらばかにしたところで意味がない。それはまったく筋違いの批判です。
     いい換えるなら、名ゼリフとか名場面というものは、それ単体で成り立つものではないということ。
     そこに向かって徐々に高まっていった物語のテンションがついに最高潮に達する、その瞬間をみごとに捉えたセリフや場面が名ゼリフと呼ばれ、名場面と呼ばれるだけのことなのです。
     その瞬間には実に堪え切れないカタルシスがある。しかし、それはそれ単体で成り立っているわけではない。
     物語とは「波」。
     山あり谷ありで初めて成り立つもの。
     だからこそひとは既に展開がわかっていて、しかも表現として特別に情報量が多いわけでもない同じ物語をくり返しくり返し楽しんだりするのだとぼくは考えます。
     ストーリーはたしかにパターン化しやすく、一見すると簡単に模倣できそうに見える。
     だから、物語作家はしばしば低く見られ、ストーリーの価値は軽く受け取られることもある。
     しかし、そうではない、優れた物語作家とは天才的な表現者と同じくらい貴重な存在なのだ。ぼくがいいたいのは、そういうことです。
     それでは、 
  • 『アルスラーン戦記』開幕! 原作既読者の視点からその魅力を考える。

    2015-04-05 18:29  
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     季節は早春、新しいアニメが始まる頃合い――というわけで、新番組『アルスラーン戦記』第1話を観ました。
     大陸を東西に貫く〈大陸公路〉の覇者・パルス国の王子アルスラーンの長い長い物語がここに始まるわけですが、実はこの第1話はまだ「序章」。
     本格的に物語が動いてくるのは次の第2話からになると思われます。
     実はこの第1話にあたるエピソードは原作小説には存在しません。
     小説は、この3年後の〈アトロパテネの会戦〉から始まります。
     それでは、アニメが独自にこの「序章」を挟んだのかというと、そういうわけではなく、この第1話は荒川弘による漫画版のオリジナルなのです。
     つまり、序盤からすでにオリジナル・エピソードを入れ込んできたわけなのですが、この判断は英断だったと思う。
     いきなり一大敗戦から始めてしまう小説の冒頭も素晴らしいのですが、この漫画/アニメの「序章」はよりていねいな印象を与えます。
     しかも原作既読者にとっては「なるほど! こう来たか」と唸らされる展開でもある。
     雑誌で漫画版の第1話を見たときは「さすが荒川弘」と思わされました。
     この第1話に登場する「ルシタニアの少年」の正体は、実は――まあ、原作既読でわかるひとはこの時点でもうわかることでしょう。
     ちなみに漫画/アニメでは、原作とくらべてもアルスラーンの繊弱さ、凡庸さがいっそう強調されています。
     これはより低年齢層向けの少年漫画としてわかりやすいエンターテインメントに仕上げるためだったのでしょう。
     ほんの少しの違いなのですが、その「ほんの少し」が決定的な効果を生んでいる。
     いまの時点ではアルスラーンはその地位以外にはまだ何も持っていない平凡な少年に過ぎない。
     そして、この頼りない少年が万人が仰ぎ見るパルス中興の祖・解放王アルスラーンにまで成長していくのです。
     そのスケールの大きさはやはりあたりまえのファンタジーとはひと味違っていますね。
     荒川弘による脚色も凄かったし、アニメそのものの出来も相当のものですが、やはり何より原作小説の出来そのものがあまりにも素晴らしい。
     かつて『アルスラーン戦記』は一度アニメ映画化されているのですが、そのときはまだ技術的に作品世界を映像化することに無理がある印象が強かった。
     じっさい、原作の第5巻あたりまで追いかけてそのシリーズは終わっています。
     しかし、この新しいテレビ版はおそらく圧倒的人気を集めることでしょう。
     漫画版は既にベストセラーになっているようですが、アニメが人気が出れば、さらに破格の部数が出るんじゃないかな。
     『鋼の錬金術師』や『銀の匙』以上のセールスを記録することができるかもしれません。
    原作の長年のファンとしては実に嬉しい事です。
     わずか数年で「賞味期限」を迎えて忘れ去られていく作品も少なくないなか、30年近くの時を経てもなお第一線のエンターテインメントとして通用する『アルスラーン戦記』の凄みはやはり尋常のものではありません。
     きっとこれが「本物」ということなのでしょう。
     流行にも、時代の流れにも左右されない「本物」の面白さ。
     特に非西洋世界、それも往古のペルシャを参考にして舞台を作り上げたオリジナリティはいまなお色褪せてはいない――というか、いまでもほとんど追随するものがいない状態です。
     『アルスラーン戦記』では今後、インドとかチベットあたりがモデルになった国家も出て来ます。
     パルスの周辺では、さまざまな野心的な国が牙を研いでいるのです。
     やがては 
  • 天才よりも貴重な凡才とは何ものか?

    2015-04-01 04:45  
    51pt


     『ファイブスター物語』の作家として有名な自称天才デザイナー永野護に、こんな発言があります。

     永野護というキャラクターデザイナーを起用するときに求められるのはただひとつ。簡単なひと言で済む。
    「いままでに誰も見たことのないような、すっごい奴をつくってくれ」
     これは僕がかつてとあるアニメ製作会社にいたとき、当時の上司、山浦氏から言われたことばです。
     それに対して僕は
    「あ、そういうのなら簡単です。いちばん得意ですから」

     いやー、ぼく、このひとのこういうところ、大好きだなー。
     傲岸不遜。あるいはひとによって「なんていやな奴だ」と思うかもしれないけれど、ぼくはこういうひとだから好きなのです。
     ナガノのファンはみんなそうなんじゃないかな。わかりませんが。
     ここにあるものは、どこまでも傲然と自分の天才を誇る態度です。
     「実るほど首を垂れる稲穂かな」なんて精神はまったくない。
     「どうだ。おれはすげえだろ」という子供のように真っすぐな自負があるだけです。
     「どうせおれなんて……」とかひねくれがちなぼくなどから見ると、実に爽やかに思えます。
     もちろん、「才能があるからそういうことがいえるんだ」という意見はあるでしょう。
     しかし、いった以上はやらなくてはならないわけで、「謙虚」に振る舞っているほうがひととしてよほど楽なのに違いありません。
     それにもかかわらず、永野護はビッグマウスによって自分にプレッシャーをかけ、追い込んでゆく。
     そして結局、「万人を納得させる」とまでは行かなくても、ともかく口先だけの男ではないと思わせるところまではやってのけるのです。
     素晴らしい生き方だと思います。もちろん、凡人に真似できるものではないことはたしかだけれど、ぼくはこういう傲岸な人間に対してあこがれがある。
     まだ新潟では未公開なのですが、映画『イミテーション・ゲーム』の主人公アラン・チューリングもまたその種の「傲岸な天才」のひとりだったようです。
     しかし、チューリングの場合はあまりに不遜すぎたために、周囲の理解を得られず、どんどん孤立していってしまいます。
     映画がどのような結末を迎えるのかぼくはしりませんが、じっさいのチューリングの人生は悲劇に終わっています。
     才能はあっても社会性がない人物は往々にしてこういった結末を迎えることになるようです。
     しかし、それはかれら自身だけの責任なのか? 社会の側に問題はないのか? ぼくはあると思うのです。
     社会の側が十分なクッションを持っていれば天才と衝突することはないと考えます。
     チューリングを演じたベネディクト・カンバーバッチはその前に天才探偵シャーロック・ホームズを演じています。
     シャーロックも奇行の目立つ天才ではありますが、しかし、社会的に孤立し切ることはありません。
     ぼくはそこにはワトスン博士という「偉大な凡人」の存在を見ます。
     ワトスンのような「偉大な凡人」がクッションとして間に挟まることによって初めてその真価を発揮する才能というものもあるのではないか。
     ぼくはここで、田中芳樹『七都市物語』に登場するユーリー・クルガンのことを思い出さずにはいられません。
     クルガンは秀抜な軍事的天才のもち主でありながら、その性格の悪さがたたってだれにも好かれません。
     しかし、ただひとり、上司のカレル・シュタミッツだけがかれを信頼し、登用します。
     クルガンの描写はこんな感じ。

     彼は誰に対しても、冷淡で辛辣だった。自分自身に対しても、あるいはそうかもしれなかった。いつも不機嫌で、自分を「不遇な天才」と信じこみ、人を見る目のない上司たちを豚や猿と同一視しているようだった。その男を参謀長にすると聞いて、シュタミッツの知人たちは一瞬絶句し、そのあと翻意するようすすめたが、シュタミッツは我意をとおした。
     これ以後、カレル・シュタミッツ司令官代理は、ユーリー・クルガン参謀長の立案した作戦にOKサインを出すだけの役割を自らに課する。「不遇な天才」が才能を完全に発揮しえる環境をととのえる――それが自分の責任だと、三つ子の若い父親は考えたのである。
     クルガンのほうは、司令官代理の配慮を承知していたが、だからといって謝辞をのべるでもなかった。それができる性格なら、クルガンの敵と味方は、比率を逆転させていたであろう。
    「昔、トーマス・アルバ・エジソンという男がいて……」
     と、クルガンは知人に語ったことがある。
    「刑務所に電気椅子をセールスしてまわった男だが、そいつが言った。天才とは九九パーセントの汗と一パーセントの霊感だ、と。低能の教育者どもは、だから人間は努力しなくてはならない、と生徒にお説教するが、低能でなくてはできない誤解だ。エジソンの真意はこうだ。いくら努力したって霊感のない奴はだめだ、と」

     こういうところ、さすが田中芳樹はわかっているなあ、と思わせられますね。
     クルガンは非凡な天才ですが、かれのその抜きん出た才能はシュタミッツという「偉大な凡人」を得て初めて発揮されるのです。
     シュタミッツは 
  • アニメ開幕直前! 10分でわかる『アルスラーン戦記』。

    2015-03-29 22:52  
    51pt



     いよいよ来週から『アルスラーン戦記』アニメ版がスタートします。
     原作は田中芳樹のベストセラー戦記小説。
     架空の王国パルスとその周辺の諸国家を舞台に、ひよわな王子アルスラーンの冒険と成長を描いた気宇壮大な大河ロマンです。
     86年に始まった原作はこれまで既刊14巻が発売されていて、完結を目前に控えたところまで来ています。
     原作は一度漫画化及びアニメ化されていますが、このたび、荒川弘という才能を得てふたたび漫画になりました。
     荒川さんによる漫画は基本的には原作に忠実ですが、ところどころにオリジナル要素を盛り込み、壮麗な原作をいっそう勇壮な物語に仕立てあげています。
     それがいまテレビアニメという形で展開するわけです。期待せずにはいられません。
     そこで、この記事では「10分でわかる『アルスラーン戦記』」と題して、この未曾有の物語の説明をして行きたいと思います。
    ■『アルスラーン戦記』ってどんなお話?■
     広大な大陸を東西に貫く「大陸公路」の覇者、パルス王国はいま、西方からやって来たルシタニア王国の侵略を受けていた。
     勇猛でしられるパルス国王アンドラゴラス三世はただちに軍勢を集結、アトロパテネの平原に布陣する。
     無敵を誇るパルス軍が敗れることなど、かれは考えてもいなかった。
     ところが、パルスの将軍として一万の兵を預かる万騎長カーラーンが味方を裏切ったことによって、パルス軍は壊滅、アンドラゴラスは敵軍に捉えられる。
     そしてその頃、パルスのただひとりの王子であるアルスラーンはただひとり平原をさまよっていた。
     かれは絶体絶命のところを「戦士のなかの戦士」ダリューンに救われ、ただふたり、戦場を抜け落ちる。
     アルスラーン、ときに十四歳。
     このひよわな少年がやがて長きにわたるパルス解放戦争を導いていくことになるのである――。
     『アルスラーン戦記』は特にとりえがないように見えるパルス国の王太子アルスラーンの成長物語であり、パルスと野心的な周辺諸国を巡る戦記ファンタジーです。
     ファンタジーとはいっても、魔法的な側面はそれほど強くありません。
     後半になってくると邪悪の蛇王ザッハークの魔軍などというものが出て来てファンタジー色が濃くなっていきますが、当面、アルスラーンが取り組まなければならないのはパルス国を占拠してしまったルシタニア軍の討伐と国土の解放です。
     したがって、あくまでメインの要素となるのは戦争や謀略。
     そしてそこに、アルスラーンの出生の秘密が関わってきます。
     そして、そもそもなぜカーラーンはパルスを裏切り、国土を灰にしたのか?
     カーラーンを意のままに操るかに見える「銀仮面卿」と呼ばれる人物は何者なのか? 
     「銀仮面卿」に力を貸す暗灰色の衣の老人の目的とは何か?
     アンドラゴラスが知っている秘密とは何なのか?
     バフマン老人は何を悩むのか?
     さまざまな謎が謎を呼ぶのですが、それらはすべてアルスラーンによるパルス解放にあたって解き明かされることになります。
     ひろげられた大風呂敷がみごとにとじていく「王都奪還」のエピソードは見事としかいいようがありません。
     まあ、そのあともさらに物語は続いてゆくのですが、この長い長い小説はいまになってようやく終わろうとしています。
     これから読むひとはあまり長い間新刊を待たなくて済むかもしれません(はっきりとはわかりませんが……)。
     田中芳樹は多くの魅力的なシリーズを生み出しては未完で放り投げていることでしられている作家なのですが、決して風呂敷をとじる能力に欠けている作家ではありません。
     この流浪の王子と邪悪の蛇王を巡るあまりにも壮大なプロットがどのようにして完結を見るのか、期待しても良いでしょう。
     「皆殺しの田中」と呼ばれるくらいの作家ですから、おそらく物語の終幕に至っては何かしらの悲劇が待ち受けているはずではあるのですが、その点も含めて続刊を楽しみに待ちたいところです。
    ■どこが面白いの?■
     先ほども書いたように、アトロパテネの野を命からがら脱出したアルスラーンに付き従うものは、最強の騎士ダリューンただひとりです。
     それに対し、かれが打倒しなければならないルシタニア軍は、アトロパテネの野の会戦で多数の兵を失ったとはいえ、なお、その数30万。
     いかにダリューンが無敵といっても、ひとりで30万の軍を倒すことなどできるはずがありません。
     したがって、アルスラーンはパルス全土に残っている兵たちを糾合し、ルシタニア軍に匹敵する軍を生み出して戦いを挑まなければならないのです。
     初めふたりだったアルスラーンたちが、やがて軍師ナルサスやその弟子エラム、流浪の楽師ギーヴ、女神官ファランギースといった人々の協力を得、また多数の軍勢を集め、しだいしだいに形勢を逆転していくそのカタルシスが『アルスラーン戦記』序盤の読みどころです。
     いったい凡庸な王子とも見え、周囲からもそのように扱われていたアルスラーンがいかにしてこの非凡な人々をひきいる「王」にまで育っていくのか。その点もまた見どころのひとつでしょう。
     そしてまた、きわめて劇的に演出された名場面の数々!
     ことケレン味という一点において、『アルスラーン戦記』に匹敵する小説は日本にはいくつもないのではないでしょうか。
     それくらい何もかもがドラマティックに描かれている。
     そもそもいきなり無敵だったはずの軍隊の「敗戦」から物語がスタートするあたり、凡庸ではありません。
     そしてその状態からの史上空前の逆転劇は大きなカタルシスがあります。
     ひよわと見られていたアルスラーンはやがて「十六翼将」と呼ばれる最強の騎士16人を麾下にくわえ、「解放王アルスラーン」としてしられるようになっていくのですが、そこにまで至るまではいくつもの試練を乗り越えなくてはなりません。
     物語が始まった時点では、アルスラーンはまだ何者でもないといっていいでしょう。
     そのアルスラーンが、ちょっと「個性的」という言葉だけではいい表せないくらい個性的な面々をどのようにしてコントールしてゆくのか、ひと筋縄では行かない物語が待っています。
     殊に旅の楽師にしてパルス最高の弓使いであるギーヴなどは、王家への忠誠心は皆無、美貌の女神官ファランギースに惹かれてアルスラーン陣営に入るという人物だけに、並大抵のリーダーに使いこなせるような性格ではありません。
     しかし、最終的にアルスラーンはそのギーヴからすらも忠誠を誓われるようになっていくのです。
     武術においても知略においても必ずしも秀でたものを見せないアルスラーンの才能とは何なのか?
     ぜひ本編をお楽しみください。
    ■『アルスラーン戦記』独自の魅力は何?■
     そうはいっても、その手の戦記ものやファンタジーはもう見飽きたよ、というひともいるでしょう。
     じっさい、『アルスラーン戦記』が開幕した頃にはライバルとなる異世界戦記作品といえば栗本薫の『グイン・サーガ』くらいしかなかったのですが、その後、雨後の筍の喩えのように膨大な数のその種の作品が生み出され、ファンタジー的想像力はすっかり陳腐化しました。
     しかし、いまなお『アルスラーン戦記』はほかの凡百のファンタジーとはものが違います。
     この小説のどこが特別なのか? 
  • いちばん恥ずかしいところを晒せ! 真夜中のポエムをひとに読ませるべきたったひとつの理由。

    2015-03-07 10:10  
    51pt



     きょうは「羞恥心」について話をしたい。一般にひとが備えている恥ずかしいと感じる気持ちのことだ。一説によるとアダムとイヴが知恵の果実を齧った時に生まれたというが、国家も宗教も超えて存在する人間の最も人間らしい想いのひとつである。
     たとえば洋服の下の裸を見られたとき、ひとは恥ずかしいと感じる。あるいは、秘密の日記を見られたとき、さもなければ、本棚の奥に隠していた秘密のエロ本コレクションを見つかったときなど、多くの人は羞恥心を感じ、叫び出したいような気分になる。その気持ちをまったく理解できないというひとはほとんどいないはずだ。
     しかし、これはひとが生まれつき備えている感情ではない。現実に赤子は裸でいても恥ずかしいとは思わないし、人前でも平気で排泄する。あたりまえといえばあたりまえのことだが、羞恥心とは人間が作り出した文化に由来する感情に過ぎないのである。
     それでは、人間にとって最も恥ずかしいこととは何か? いろいろな答えが考えられるだろうが、ぼくはそれは心を覗かれることだと思う。
     心の奥底のだれもが抱える秘密の部分、そこに必死に隠しているものを見られることほど恥ずかしいことはないのではないか。それに比べれば肉体的欠陥を見られることなど、どうということはないとすらいえる。
     自分がほんとうは何を好きで何を嫌いなのか、何を美しいと感じ、何に怒りを覚えるのか、その、きれいごとではないほんとうのところを晒すことは途方もなく恥ずかしい。なぜならそれは、いかなる虚構でも守られていない裸のその人自身だからだ。
     人前で裸になることもたしかに恥ずかしいが、精神的に裸になることはそれ以上に恥ずかしい。心のストリップは肉体のストリップ以上の屈辱を伴うのである。
     何年か前に『サトラレ』という漫画が流行ったことがあった。この作品の主人公たちは、自分の心のなかを無意識に周囲に漏らしてしまう人々、「サトラレ」たちだった。
     物語のなかではかれらは自分がサトラレであることを気づかないよう守られている。なぜなら、自分の心の中をそのまま覗かされていることを知ってしまったならば、羞恥心で自殺しかねないからだ。心こそは人にとって究極のプライバシーエリアなのである。
     しかし――人が人と交流するということは、そのプライバシーをある程度開陳するということである。自分のことを一切知らせないで相手のことを知ろうとすることには無理がある。だれかと語り合うためには、どこかで、自分はこういう人間なのだと知らせなければならない。
     まして、何か作品を創造し、人の心を揺さぶろうなどと考えた時には、自分をオープンにせざるを得ない。アートとは心のストリップショーなのだ。
     何か作品を創造し、それを発表したならば、その人の人生、教養、価値観、偏見、感情、自負、傲慢、それらすべてがつまびらかにならざるを得ない。また、そうでなければ決して人の心を打つものは作れない。
     だからこそ、アーティストという名のストリッパーには自分の本心を晒す勇気が必要となってくる。
     自分の高潔さ、偉大さ、賢さ、自己犠牲の精神などだけ晒せるならいいが、じっさいにはそうは行かない。そういったプラスの側面を晒す時には、無知、卑小さ、愚劣さ、エゴイズムといったマイナスの側面をも晒さなければならないのである。
     なぜか? それはつまり、心のストリップショーにおいて大切なのは、最後の一枚まですべての衣服を脱ぎ捨てることだからだ。一枚でも身につけている限り、魅力的なショーとはなり得ないのだ。
     その人の最も秘められ隠されたグロテスクな陰部をこそ観客は見たがる。そこを隠していてはショーは成立しないのである。
     しかし――それは何と恥ずかしい、痛々しい、格好悪いことなのだろう。自分の最も隠したい、醜い場所をこそ晒さなければならないとは、何という拷問だろう。
     人はそのさまを見て笑うに違いない。何と無知な人間だ、愚かな精神だ、虫けらにも劣る恥ずかしい奴なのだ、と。それはまさに衆人の視線のなかで全裸となるに等しい行為だ。
     おそらく賢い人間はそんな真似をしないに違いない。賢い人間は、自分は衣服をまとったままで、他人の裸を笑うのである。そうすれば、自分の陰部は隠したままで、他人の陰部の形を嘲ることができる。パーフェクトに安全で、絶対に傷つかない賢いやり方である。
     こういう人のあり方を、ぼくは「利口」と呼ぶ。一方、自分のすべてをさらけ出す行為は、これはもう「バカ」としかいいようがない。必然的に傷だらけになり、最後にはズタボロになってしまうスタイルといえる。
     人はどのように生きるべきなのか、「利口」が良いか、それとも「バカ」を尊ぶべきか、それは人それぞれであることだろう。しかし、ぼくは断然、「バカ」を選ぶ。
     自分も「バカ」でありたいと思うし、「バカ」を晒している人をこそ尊敬する。「利口」なあり方は、賢いとは思うが、リスペクトには値しないと考える。
     あるいはそれは偏見かもしれない。「バカ」のほうがより偉いという下らない思い込みに過ぎないかもしれない。しかし、それでもぼくは「利口」より「バカ」を取る。なぜなら、いままでじっさいにぼくを感動させた創作作品は、いずれもすさまじく「バカ」な代物だったからだ。
     自分の欠点を晒し、汚点を見せつけ、偏見を隠さず、傲慢を示した人々の作品だけが、ぼくの心を鋭く射抜いたのである。
     ぼくはそれらの作家と作品を尊敬し、自分もまた「バカ」であろうと試みて来た。その成果が即ちこのブログとその前のブログ「Something Orange」である。
     しかし、自分がほんとうに「バカ」になれたかどうかといえば、これは微妙なところだろう。どこかで自分のほんとうに恥ずかしい部分は隠そうとしてしまっているかもしれない。
     何かの作品をひとに奨めるとき、ぼくはほんとうにいつも本気だっただろうか。時には「仕事だから」とか「読む人のためを思って」といったいい訳を用意して自分をごまかしていたのではないか。そう思うと、忸怩たるものがある。
     しかし、プロフェッショナルなクリエイターにとってすら、自分のすべてをさらけ出すことは簡単なことではない。しかし、ぼくはその自己開示に成功した「バカ系」の作品をこそ好きなのだ。
     たとえば、高河ゆんに『恋愛 REN-AI』という長編がある。ぼくがいままで読んだあらゆる漫画のなかで、最も好きな作品のひとつである。
     しかし、ぼくは長い間、自分がなぜこの作品を好きなのか、説明することができなかった。いまならできる。『恋愛』は極端なまでに「バカ」な漫画だからだ。作者が一切照れることも衒うことも恥ずかしがることもなく自分の価値観をオープンにしている作品だからなのである。
     この物語の主人公は、たぐいまれな美少年、田島久美(ひさよし)。しかし、かれは現実の女性ではなく、テレビのなかのアイドルに恋をしている。やがて、かれはその恋を叶えるため、自分自身もアイドルとして芸能界に乗り込んでいく。
     あるとき、女友達から「恋愛はいつか終わるのだから、終わり方こそが大切だ」といわれた久美は、こう応える。「関係ないね、ぼくの恋愛は終わらないよ」。
     ああ、何て「バカ」で、恥ずかしいセリフなのだろう! ここには「成熟した恋愛感情」とか「大人の恋心」といいたいようなものはかけらも見あたらない。ひたすらに、少女漫画を読み過ぎた男のような思い込みの激しさが見られるだけである。
     あたりまえの漫画家なら、だれか第三者の視点を用意して、このセリフを茶化してみせ、自分を弁護することだろう。つまり、「これはあくまで作中のキャラクターのセリフであって、作者自身はこんな青くさいことは思っていないよ」というポーズを取り、裸の自分を守るわけである。
     しかし、高河ゆんはここで完全なる確信を込めてこのセリフを書いている。一片の弁解も、自己弁護も、ここには介在しない。ぼくにはそのように思われる。
     この漫画では、ほかにもとんでもない「恥ずかしい」セリフや行動が頻出する。そもそも一介の少年がアイドルの少女に恋をし、彼女を恋人にするため芸能人になる、というストーリーそのものが限りなく青くさく恥ずかしいし、痛々しい。
     しかし、ぼくはいいたい。だからこそこの漫画はすばらしいのだ、と。『恋愛』という作品の魅力はまさにその確信の強さにある。高河ゆんはこの主人公の行動や言動を本気で格好いいと思っていて、そのように描いているのだと信じられる。そこがこの漫画の魅力だ。
     しかし――そのしばらく後に描かれた姉妹編の『恋愛 CROWN』では、もうその確信は消えている。象徴的なことに、この漫画のあとがきでは、作者自身が久美に対し「恥ずかしい」と語りかけるシーンが存在する。
     これはぼくにはある種の「いい訳」と受け取られてしまう。そして、その種の「いい訳」を挟んだ途端に、あれほど輝かしかった『恋愛』という漫画は、ただのありふれた恋愛漫画のひとつまで落ちるのだ。ぼくは『恋愛』は大好きだが、『恋愛 CROWN』はさほど評価しない。
     『恋愛』だけではなく、ぼくの好きな作品は、どれも決定的に「バカ」である。自分の自意識を守っていない。たとえば、永野護の『ファイブスター物語』。
     『恋愛』とはまったくベクトルの違う作品だが、これも作者が「自分が本気で格好いいと思うもの」だけを描いているという点が共通している。
     永野護は、自分が生み出したナイト・オブ・ゴールドやツァラトゥストラ・アプターブリンガーといったロボットを、あるいはエストやクローソーといった美少女たちを、本気で美しいと考えていると思う。
     たとえ、人から見ていかにもその姿が異形に見えるとしても、かれにとっては関係ないのだ。たとえ世界が「こんなもの格好悪い」といっても、かれは自分の生み出したものの格好良さを信じるに違いない。
     何というナルシシズムであり、恥ずかしさだろう。しかし、まさにそうだからこそ、ぼくは永野護の漫画を好きなのだ。
     あるいは、栗本薫でも、田中芳樹でも、司馬遼太郎でもそうである。栗本薫はアルド・ナリスを世界一美しいキャラクターだと本気で信じていただろうし、田中芳樹もオスカー・フォン・ロイエンタールほど格好いい男はいないと信じているだろう。
     司馬遼太郎も土方歳三や高杉晋作をこの上なく理想的な男子のあるべき姿、と確信していたに違いないとぼくは信じることができる。ぼくはそういう「確信」が好きなのだ。
     客観的に見れば、ほんとうに美しいか、格好いいか、理想的かどうかなど、測りようもないことである。だから、それらの価値観はあくまで作者の思い込みということになる。自分で生み出したものを、自分で美しいとか、格好いいと思いこむとは、何と恥ずかしいことなのだろう。
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