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記事 32件
  • すずやかな風のように心を吹き抜けてゆく言葉を浴びていたい。

    2014-04-12 23:16  
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     ふと、なぜともなく、本を読みたくなる時がある。何の脈絡も、ひとかけらの理由もなく、突然に「その時」はやって来て、「ああ」と、のどの渇きに似た感覚を意識させられるのだ。いま、本を読みたいなあ、と。
     まさに先刻がそうだった。そこで、ぼくは深夜まで営業している書店まで向かい、何冊かの本を仕入れてきた。いずれも、ぼくの渇きを優しく潤してくれるに違いないと感じたものばかりだが、なかでもいちばん初めに頁をひらいたのがこの本だった。
     江國香織『都の子』。小説ではない。エッセイ集である。それも、ごく軽妙な、云ってしまえば他愛ないことばかり綴った一冊だ。まだ半分も読んでいないが、この先、最後まで読み進めて行っても、世界の深遠を暴き立てるような一行に出逢えるとは思えない。
     しかし、それにもかかわらず、いや、まさにそうであるからこそ、ぼくの渇きは確実に癒やされていった。何と云っても、ひとつひとつ正確に選び抜かれた言葉たちの無音の響きがすばらしい。何気なく頁をめくるたびに、白い行間から爽涼な風が吹き込んで来るかのよう。
     透明感と云うといかにも安っぽい表現になる。しかし、江國が選び出した言葉たちの、ふしぎに森閑と静まりかえった森のような空気、その静寂の圧力が心にじわじわと沁みこんでくるような雰囲気を表わすためには、やはり、この表現になると思う。
     ほんとうにこのひとは文章が巧い。ひと言で巧いというのではとても表し切れないくらい巧い。ふだんからインターネットで沢山の言葉にふれているぼくだが、それでも、こうも秀抜な手際で彫琢された、涼やかな文章の味わいは格別だ。
     ぼくはべつだん言葉の美食家を気どるほうではなく、むしろ雑食家に近いのだけれど、それでも、時には純粋で綺麗な文章を浴びて、心に溜まったよどみを洗い流す必要を感じることがある。
     心に沈み込んだ怠惰な心や、ひとを怨む想いを、ざぶざぶと洗い落としてしまいたい。そう思うのである。そのためには、江國の文章が最適だ。
     世の中に名文家と云われるひとは無数にいる。そのなかで、なぜ、江國の文章だけが、こうも涼しげに心を吹き抜けてゆくのだろう。
     くり返すけれど、特にそこに世界の真理が横たわっているとは思わないのだ。彼女が綴りだすのは、いずれも全くつまらない出来事ばかりである。
     仮にも作家によるエッセイの題材として選び出されたにしては、いかにも冴えない題材ばかりだと思う。だれが、パレルモのアイスクリームについて夢中になって読むだろうか。すくなくともぼくはそんな地味な街には興味がない。そのはずだ。
     ところが、じっさいに読んで行ってみると、いつのまにかその音もなく雨が降る沈鬱な街の描写にひきずり込まれている自分を発見することになる。
     これはまったく、言葉の手品だ。ひとつひとつの単語は、どんなうすい辞書にも載っている、ごくごくあたりまえのしろものに過ぎないのに、それが的確な順序で並べられてみると、途端に灰いろのパレルモが目の前にありありと浮かび上がってくるのである。
     そして、また、その底しれず憂鬱な街の一角で見つけた、魔法のようなアイスクリームの味わいまで胸に迫ってくるのだから、ふしぎと云うしかない。
     いったいどんな修行を積んだら、こういう言葉を綴れるようになるのだろう。それとも、初めからその指にそなわった力なのだろうか。
     もしも、自分自身でこういう言葉を綴れるようになれたら、どんなにか幸せだろうと思う。なぜなら、そうすれば、自分の心の泉から湧いてくる言葉たちで渇きを潤すことができるではないか。
     それこそ、正しい自給自足というもの。そうなったら、もう二度と魂の渇きを知ることはないに違いない。豪華絢爛、金いろの糸で織り込んだような言葉や、真鍮みたいに鈍くひかる言葉をも自在に生み出せるようになったらなお、良い。
     そういう「泉」を 
  • はるかな大陸公路がここにある。荒川弘版『アルスラーン戦記』が出色の出来。

    2014-04-11 19:00  
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     それははるかな異世界の物語。大陸の覇権を奪いあい、戦い、騙し、裏切り、陰謀を巡らし、ときには命を賭けて忠義を尽くす英雄たちの年代記。
     それらの群雄あまたあるなかで、すべての中心となって運命を動かすものは、最も無力な若き王子、その名をアルスラーン。
     大陸公路の覇権を担うパルス王国のたったひとりの王太子として生まれたかれは、十四歳にして国難に遭い、いったん滅亡したパルスを救うべく立ち上がる。
     そのとき、かれのかたわらにあったものは、雄将ダリューンと智将ナルサス、美貌の楽師ギーヴ、女神官ファランギース、そして解放奴隷の子エラムのわずか5名であった。
     アルスラーンを含め6名にしかならないこの人々は、いかにして侵略者ルシタニア軍30万を打ち破るのだろうか。アルスラーンの物語が始まる。このとき、かれはまだのちに「解放王」と呼ばれ讃えられる自分の運命を知らない――。
     田中芳樹『アルスラーン戦記』は、ベストセラー作家の田中が30年近くにわたって書きつづけている長編スペクタクルロマンである。流浪の王太子アルスラーンを中軸に、さまざまな魅力的なキャラクターを配した物語は、いまに至るまで熱狂的な支持を集めている。
     本書は、その小説を『鋼の錬金術師』、『銀の匙』の荒川弘が独自の解釈で絵にした漫画化作品である。ひとこと、すばらしい。そうとしか云いようがない。
     あたりまえのことだが、小説作品は小説としての魅力を最大限に考えて書かれており、それが映像になったときのことは考慮されていない(例外はあるだろうが)。
     だから、そういう小説を漫画に変換する作業には、それなりの苦労が伴うはずである。華麗な花の如き都エクバターナ、とひとことで書かれていても、それを絵にするのは楽ではないだろう。
     しかし、現代漫画を代表するベストセラー漫画家である荒川弘は、その困難を難なく成し遂げているように思える。豊穣なパルスの大地、勇壮な軍隊と軍隊のぶつかり合い、花の都エクバターナ、そしてアルスラーンやナルサスを初めとする個性的な人々といったものを、彼女は実に丹念に描き出している。それは、かつて『鋼の錬金術師』においてひとつの世界を生み出してのけたときの技そのままだ。
     原作の読者は、アルスラーンを初めとする英雄たちが、それぞれに再解釈された新たなキャラクターとして動き出すところを目撃するだろう。それはもちろん荒川弘独特の描きではあるのだが、じっさい、物語は意外なほど原作に忠実に進行している。
     とはいえ、オリジナルの序章が用意されるなど、漫画版独自の展開も存在するので、ただ単に小説世界を漫画に移し替えただけのものではない。
     本編の3年前を舞台とした序章に登場する「ルシタニアの少年騎士」の描写には、ニヤリとした原作読者も多いはずだ。「かれ」が何者なのか、はっきり描かれてはいないのに、わかる者にはわかるのである。
     考えられる限り最高の『アルスラーン戦記』がここにある。最高の描き手を得て、元々痛快無比な物語はさらなる飛躍を見せようとしているようだ。
     既にアルスラーン、ダリューン、ヒルメスといった最重要人物たちは登場している。次巻においては、ナルサスやギーヴも出て来ることになるだろう。
     ファランギースやメルレインやアルフリードも、そのうち姿を表わすはずだ。いったいかれらが荒川弘の手によってどういうふうに描かれるのか、楽しみでならない。特にアルフリードは可愛く描かれるといいんだけれどなあ。
     ともかくまだ物語は始まったばかりで、原作で云えば、 
  • 有川浩作品の、そこだけは受け容れられないポイント。

    2014-04-09 00:58  
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     ひさしぶりに有川浩を読んでみる気になって、しばらく前に出てベストセラーになった『阪急電車』を手にとった。片道わずか15分のローカル線に偶然乗り合わせた乗客たちの運命の交錯を、幾人かの人物の視点を行き来しながら描いた小説である。
     いやあ、うまい。さすがライトノベルでデビューしてから間もなくベストセラー作家にのし上がった才能だけあって、その卓抜なストーリーテリングはさすがだ。
     まったくの偶然から少しだけ影響をあたえあい、人生をあたたかい方向へ変えてゆく何人かの乗客たちの過去と未来を描き出すその展開も文句なし。さすがミリオンセラーになるだけはある作品だと思う。
     その点についてはまったく文句はない。あえて文句を付けるとしたら、作者の人間の描き方である。
     ぼくは有川さんの作品が好きでずっと読んでいるんだけれど、どうしてももうひとつハマり切れないところがある。その容赦ない「裁きの目」に、共感し切れないのだ。
     たとえば、この小説のヒロインのひとりは、その電車にウェディングドレスを思わせる白いドレスで乗り込んできた女性である。
     彼女は実は自分を裏切って自分の「友人」と結婚することにした元恋人の結婚式から帰ってきたばかりなのだ。あえて結婚式の常識的なドレスコードを破り、花嫁よりも美しい純白のドレスを来て式に出席することが、彼女の「討ち入り」なのだった。
     彼女は自分を捨てた男への怒りと憎しみと、そして軽蔑を込めてそういう「復讐」をやり遂げ、そしてむなしさとともに電車に乗って来たわけなのである。
     この女性の描写に違和感を抱く読者は少ないかもしれない。ぼくにしても実によく描けてはいると思う。でも、なあ。この発想はどこかねじ曲がっているとも考えるのである。
     何といっても、取ったの取られたの、裏切ったの裏切られたのとは云っても、本来、あくまで自由恋愛のなかでの出来事のはずだ。いま付き合っているからといって、だれも相手に絶対の所有権など主張できないわけである。
     自分を「捨て」て「裏切った」相手や、その男を「寝とった」友人をまるで倫理的な「悪」のように見ることはおかしくないだろうか?
     もちろん、理性ではそうとわかっていても、どうしても怨んでしまうということならわかる。ぼくが好きな村山由佳の『すべての雲は銀の…』には、最愛の恋人を、よりによって実の兄に寝とられてしまった青年が出て来る。
     かれは理屈では恋愛ごとにあたりまえの倫理は持ち込めないとわかっていても、どうしても割り切ることができない。その「瑕」を延々とひきずりつづけ、兄や元恋人を怨みつづけることになる。
     これならわかる。この心理は理解できるのだ。しかし、この女性はそうではない。彼女は、少なくとも自分の心理のなかではどこまでも「被害者」であり「犠牲者」である。
     元恋人の結婚式に白いドレスを来てゆくという自分の行動に対し後ろめたさがなくはないにしても、それはただやりかえしただけだと正当化されているように見える。
     少なくともこの物語のなかでは恋人を寝とった女はどこまでも悪役で、こずるく卑怯な女である。それはじっさいそうなのかもしれない。たしかにその女はひどい奴なのかもしれない。
     しかし、ここには、それでは、そもそも、そういう人間を選んで友達付き合いをしてきた自分はどうなんだ?という問題提起はない。
     自分だってその「友人」を、ほんとうの友達とは思っていなかったくせに、そして内心で「ウザい奴」として見下していたくせに、会社内での立場を考えて打算の付き合いを続けてきた身なのだ。
     ある意味では、この展開はそういう不誠実な人間関係の当然の結末とすら云えるかもしれないではないか。違うかな?
     もしかしたら彼女は、だれに対してもそうやって表面的な付き合いを続けてきたのかもしれない。だからこそ、恋人も彼女を「裏切る」ことになったのではないか?
     暴力や暴言でも振るわれたというならともかく、普通は恋愛ごとにおいて片方が一方的に悪いなどということはないと思うのだが……。しかし、彼女の描写を追っていっても、そういう考えは一切、出て来ない。
     つまり、ここでは「被害者」はどこまで行っても「被害者」で、「加害者」、あるいは「イヤな奴」は、ほんとうにただの「イヤな奴」のままで終わってしまうのだ。
     視点を変えてみればまたべつの真実が見えてくるかもしれない、という希望は提示されない。「あるいは自分の側にも責任があったのではないだろうか?」という反省も湧いてこない。どこまでも一方通行の「怒り」があるだけだ。
     この一作にかぎらず、 
  • きっと何者にもなれないとしても。

    2014-04-08 21:06  
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     きょうはもうひとつ「ブロマガ執筆の裏側」的な記事を書いてみようと思います。書評とか映画評がお好きな方はスルーしてください。
     さて、「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」とは云うまでもなく、エキセントリックな演出が印象的であったアニメ『輪るピングドラム』の名ゼリフだが、ぼくはいま、わりとまじめに「何者か」になりたいと思っている。
     この場合の「何者か」とは、ずばり「肩書き」のことである。いいかげん何か肩書きが欲しいなーとか考えるのである。
     いや、以前からずっと欲しかったのだけれど、ここに来てほんとうに肩書きの必要性を感じている。いままではまさに「きっと何者にもならない」ただのひと、であったのだけれど、さすがにそろそろ自分を「何者か」として定義するべきなのであろうと。それが戦略的な正着なのではないか。
     この場合、ぼくはべつに増長して「いいかげん自分も何者かを名のるにふさわしい人間になっただろう」と云っているわけではない。
     そうではなく、じっさいには「何者でもない」からこそ、「自分は何者かである」と決めつける必要があると感じているのである。
     そうやって「自分はこうだ!」と決定することによって初めて、ひとはほんとうの「何者か」へ一歩、足を踏み出すことができるのではないか。
     つまりは、ぼくはさすがにその一歩を踏み出さなければならない時期に来ていると感じているわけだ。「何者でもない」ということは、「何者にでもなれるかもしれない」という淡い可能性を担保しているということでもある。
     しかし、さすがにもういい歳である。さっさとその幻想をぶち殺さなければならない。「何者か」へ向けて歩み出す時なのだ。
     何よりインターネットを通し自分自身をコンテンツ化してビジネスを展開しようとするとき、商品である自分を「何者か」として定義できることはものすごく有利に働くという気がする。
     云い換えるなら、「自分は何者でもない」と感じたままビジネスすることは非常にむずかしいということ。なぜなら、それは商品のセールスポイントを確定させられないまま商売しようとしているに等しいことだからだ。
     どうもこのブログの最大の弱点はそこらへんにあるのではないかという気がする。このブログは、「書きたいことをそのままに書いている」。いわば、趣味としか云いようがない内容でお金をもらっているブログである。
     更新頻度も内容の密度も安定しないことは御存知の通り。いままでは「それでもいい」と思ってきたが、まあ、良くないわなあ。
     もちろん、アマチュアリズム故の勢いというか、とんがった部分を全部否定したらつまらなくなってしまうとは思うのだが、ほんとうならそこを残したまま方法論を洗練させるべきなのだろう。
     更新のタイミングにしても、毎日同じ時間に、同程度の分量を放出するというやり方が良いのだろうな、とは思っている。
     また、ほんとうは常時ストックを数十本くらい用意しておいて、それとリアルタイム性が高い記事を組み合わせて発表するのがベターなのだろうということも、理屈ではわかっているのだ。ただ怠けているだけでね……。
     ぼくはよく「怠惰の負債」という言葉を使う。ひとはほんとうは必要なことを怠けていれば必ずその負債を支払わされる――。
     いやまあ、もちろん、「その限界の枠内」で満足しているのなら、それでもかまわないわけだ。しかし、「さらに次のステージ」へ進もうと思ったら、勇気を出して「自分はこうだ」と定義しなければならない。
     たとえば、アルテイシアさんだったら「恋愛とセックスの専門家」みたいなイメージでビジネス展開している。一方、ぼくは「何者とも云えないはだかの個人」のまま勝負しているんだよね。この差は大きい。
     そのわりにはそこそこ頑張っているとは云えるかもしれないが、そこにあきらかな限界があることは変わらない。その限界の向こう側へ行くためには、いい訳の余地をつぶしておく必要がある。
     「あくまで趣味だから」といった「おれはまだ本気出していないだけ」的ないい訳ができる可能性をことごとく抹消しなくては、「次のステージ」へは行けないだろう。
     だから、 
  • だれでもお金を稼げるSNS「note」の長所と短所。

    2014-04-08 13:41  
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     「note」の話をもう少し続けてみたいと思います。とりあえず半日使ってみたわけですが、なかなか便利な反面、色々と難点も見えて来ました。
     しかし、くどくど文句を云うのはやめておきましょう。何といってもまだオープン2日目。これからきっとさまざまに改善されていくに違いありません。
     何といっても「課金できるSNS」という個性は強い。しかも、コンテンツの購入は超簡単。初めにクレカさえ登録してしまえば、ほぼAmazonの1クリックと同じ感覚で購入できます。これはヤバい。
     で、コンテンツホルダーは諸々の手数料をさっぴいた85%ほどを懐に入れることができるもよう。いや、すばらしいですね。
     面白いのは、多くのひとがすでに「投げ銭」システムを採用しはじめていることです。つまり、コンテンツを最後まで公開してしまって、その上で「よければお金をください」と申し出るやり方です。
     それでビジネスとして成立させるのはなかなか苦しいものがあるとは思うけれど、小銭稼ぎをするのは気分がいいのではないでしょうか。
     いままでも投げ銭を実装しようとしたシステムはいくつかあるのですが、いずれもあまりうまく行きませんでした。「note」が投げ銭にとってのブレイクスルーになったら面白いな、と思います。
     インターネットは現在、課金システムについて過渡期にあって、これから先、さまざまなバリエーションの課金方法が誕生していくでしょう。「note」はその歴史に残るサービスになるかもしれません。
     そう、マネタイズはインターネットにとってきわめて重要なテーマなのです。「すべて無料があたりまえ」という状況はやっぱり健全ではないわけで、お金をとれる価値があるものはお金と交換で展開するのが正しい道だろうとぼくは考えます。
     それも、購入する側がなるべく気軽に、気分よくお金を払えることが望ましい。その意味で「note」はなかなか偉いサービスなのかもしれません。ネットを革命するかもね。
     で、まあ、そういう「ネットをよりよく変えてほしい」という願いもほんとうですが、もちろん、個人的にもお金は欲しいし、事務所やら出版社やらを通さずに個人でコンテンツをお金に変えるルートを確保する意味はあまりに大きいと考えています。
     当然、それで生活していけるほどの金額を稼ぎ出せる才能はごく一部に限られることでしょう。しかし、「不可能ではない」ということこそが重要。
     「人間関係の維持・管理にコストを払うことなく純粋な能力や才能で勝負できる」ということにはやっぱりある種の夢がありますよね。
     すべてを個人で完結させたビジネスを展開して、自分の才能だけで勝負し生きていくことができたら、と。まあ、そんなことはコミュニケーション能力が低い輩の考えることかもしれませんが……。
     ちなみに「ブロマガ」や「note」のような、自己管理・自己責任システムはものすごくぼくに合っているようです。結果が出るも出ないも、すべて自分しだいというシチュエーションは、個人的に燃えますし、気楽です。
     ただ、 
  • 最新のマネタイズSNS「note」を使ってみた。

    2014-04-08 00:59  
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     海燕です。「note」というソーシャルネットワーキングサービスを始めてみました。
    https://note.mu/kaien
     テキストとかサウンドをアップできるSNSなのですが、はっきり云って端的な特徴はひとつ。つまり、「マネタイズできること」。テキストなどにお金を付けて100円とか1000円とかで売れるのですね(価格は自分で設定可)。
     何かに使えないかなーと思って参入してみました。いまのところ特に大きな文句はなし。ちょー使いやすい。
     見た目もなかなかよい感じなのだけれど、じっさいにマネタイズに使えるかというとどうなのかなー。まあ、新しいSNSがあったらとりあえず入ってみるのがぼくなので、いいけれど。
     ここで何を売るのかはまだ考えていないんですけれど、何かに使うかもしれません。Twitterなどのアカウントがあればログインできるので、フォローしてくれると助かります。
     でわ。
  • それでもやっぱりハッピーエンド。

    2014-04-07 22:20  
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     押井守の本を読んでいて、ふと思ったこと。押井は映画においては「過程」こそ重要なのであって、「結末」は問題ではないと云います。これは非常によくわかる話なのですね。
     というのも、映画の骨子はすべて「過程」にあるのであって、「その結果、どうなるか」はほんとうは問題ではないからです。
     たとえば、金メダルを目ざして頑張るという話の根幹は「頑張ることそのもの」にあるはずで、「その結果、金メダルを取れたかどうか」は、じっさいは問題ではないはずなんですよね。
     「その努力は素晴らしい!」というテーマであるのなら、金メダルをとれたら素晴らしくて、そうでなかったら下らないということにはならない。 その意味では物語のテーマはすべて「過程」にこそあるのであって、「結末」は蛇足に過ぎないということもできるでしょう。
     だから、ほんとうは「結末」は描写される必要はないとすら云える。「我々は勝った!」とか「負けて死んだ」とか、そういうことはまったくどうでもいいと云えばどうでもいいですよね。
     しかし、同時に、一般的な視聴者にとっては、「結末」こそが重要であることもたしかだと思うわけです。多くの視聴者はともかくも「めでたしめでたし」とか、「ああ、何て可哀想」とかそういう蛇足を求めます。
     もし、そういうわかりやすい結末が省かれていると、「ちゃんと終わっていない」と感じて、批判する。『魔法先生ネギま!』あたりは非常にわかりやすいサンプルかと思いますが、皆、やっぱり「悪いやつをやっつけて世界が救われる」お話を見たくて仕方ないのかな、と思います。世界が救われないと欲求不満に陥るんですね。
     で、そういう「わかりやすい結末」を省いた作品は、どこかしら「芸術」めいたシロモノになっていくのだと感じます。やっぱりエンターテインメントにおいては、どれほど蛇足でも「結末」が必要になって来るのかな、と。
     なぜなら、エンターテインメントとは、「物語の円環を閉じ、読者を現実世界に帰す」ところまで含めて完結するものだからです。
     この後、有川浩さんの話を書く予定なのですが、ぼくは有川作品が売れるのは、ひとつにはいつもハッピーエンドだからじゃないかな、と思うんですよ。
     まさに「結末」こそが問題であるわけです。ぼくは物語のテーマにとってほんとうに重要なのは「過程」であることを疑いません。なぜなら、「結果」など運命のいたずらしだいで(つまり、作者のさじ加減しだいで)どうとでも動くものでしかないからです。
     しかし、それでも、毎回毎回、悲惨な結末ばかりだったらやっぱりイヤになりますよね。一時期の新本格ミステリとか、バッドエンドが多くて辛かったものなあ(法月綸太郎が悪いのかもしれない)。
     純芸術的に考えるなら、「結末」は問題ではないのだから、「最後にはみんな死んでしまいました」とか「その後どうなったかだれも知りません」でも特に問題はない。
     しかし、どうしてもはっきりとした「幸福な結末」を見せてもらわないと、読者は「また、この作家の作品を読もう」とは思わないのではないか、ということです。
     何が云いたいのか? つまり、芸術家は物語にとってほんとうに重要な意味を持つ「過程」にこそこだわるのだけれど、より通俗的に作品を流通させるためには「結末」が重要になって来るという話です。
     それも、 
  • 【ニコ生連動企画】リアルタイム更新ですよ、海燕さん。(第1回)

    2014-04-06 21:53  
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     海燕です。いま、リアルタイムでニコ生しながらこの記事を書いています。なんと公開生放送&更新という荒業。まあ、いいんですが、そんなことをして何の意味があるんでしょうか。たぶん意味はありませんが、でも面白そうだからやるのだ!
     そういうわけで、「お題」を募集しつつこの記事を書いています。で、いま、『ロードス島戦記』というお題をもらったので、そのことについて話したいと思います。
     いやー、なつかしいですね。水野良の『ロードス島戦記』。 
  • 人生における「勝利条件」とは何か?

    2014-04-06 10:29  
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     積んでいる本が崩し切れませぬ。というのも読む端から買ってくるからで、いまとなっては漫画ですら読み切れずにいる始末。てれびんに薦められて買った『機工魔術師』全19巻とか、未だに封もひらいていません。赦せ、てれびん。  で、いま読んでいるのは押井守の『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』。ずいぶん前に買ったものの、読みさしで放置していた本ですね。
     ところがこれが面白い。タイトルが端的に示しているように、映画監督の著者が色々な映画を枕に仕事を語った一冊で、さまざまな局面での「勝利条件」の話が延々と続きます。
     勝利条件。それはつまり「自分がその勝負に勝利したと考えられる条件」のこと。押井守は人生において(仕事においても)大切なのは各局面での勝利条件を明確にすることだ、と主張しているように思えます。
     まだ読み終わっていないので本としての評価は何とも云えませんが、いまのぼくにとっては実に示唆に富む本です。というのも、ぼくもまた「人生における成功とは何か?」と考えているところだからです。
     お金か? 地位か? 名声か? 美女か? 家族か? そのすべてか?
     世の中にはじっさい、ありとあらゆる意味で成功しているのにちっともハッピーには見えないひとがいます。たとえば、マイケル・ジャクソン。
     かれの資産が何百億円あったのかわかりませんし、ファンは何千万人もいたでしょうが、だからといってかれが幸せで仕方なかったとは思えません。
     押井守はジョージ・ルーカスとハリウッドの「ある秘密の部屋」でに出逢ったとき、かれもまた少しも幸せそうには見えなかったと云っています。
     つまり、一般的な意味での成功は、必ずしも人生そのものの成功に結びつかない。それならば、ほんとうに幸せになるためにはどのようにすれば良いのか? そういう話であるわけです。
     押井守には、何と云っても、30年間に渡って映画を撮りつづけてきた実績があります。だから、その言葉にはそれなりの重みがある。かれは万人に通用するその答えはない、と云い切っていますが、しかしそれでもなお、かれの考え方は参考になるのです。
     本書のなかではいろいろな映画が取り上げられていますが、それらの作品のなかには昔観ただけであいまいな記憶で語っているものもあるので、厳密な映画批評とは云えません。
     しかし、クラシックな傑作から最近の映画に至るまで、さすがにその洞察は深いものがあります。成功とは何か? 幸福とはどういう状態か? そのことについて考えるためには非常に役に立つオススメの一冊です。
     ただ何となく給料を上げてそのうち結婚して、というオリジナリティに欠けた人生ではイヤだ、というひとにとっては必読の名著と云えるかもしれません。
     それでは、 
  • 人間の顔かたちがよくわからない。

    2014-04-05 23:43  
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     こんな事件があったそうな(以下引用文はインデントと改行を付け加えています)。

     1970年に盗まれた巨匠ゴーギャンとボナールの絵画が、イタリアの工場勤務の男性宅から見つかった。入手経路が遺失物の競売であったことから話題になっている。
     ロンドンの民家から盗まれた二枚の絵画は、パリとイタリアのトリノを結ぶ列車に放置されていた。1975年に競売にかけられて男性が落札。その値段は4万5000リラ、日本円にして約3000円であったという。警察によればゴーギャンの絵画は1889年の作品で、時価14億円以上の価値がある。
    http://getnews.jp/archives/549907

     『ギャラリーフェイク』あたりに出て来そうな話だな、と思うわけですが、この件で興味深いのは、「絵の価値ってどのくらいの能力があれば判定できるのだろう?」ということです。
     つまりひと目見て、ゴーギャンの絵だとはわからないまでも、「ああ、この絵はすごい! 無名の描き手かもしれないが、数千円で買ったものかもしれないが、しかし凄い! 天才だ!」と感じるひとはどれくらいいるのだろうか?ということ。
     「これはゴーギャンのサインが入っているから傑作だ」という判定方法は絵画を見る時、最低だと思うんですよね。ようするに絵画そのものではなくその描き手の名前によって判定しているに過ぎないわけですから。
     しかし、じっさいにはけっこうな数のひとがその種のものの感じ方をしているのでは?と思うわけです。そしてそれは案外、絵画に関係しているひとでも変わらないのでは……。
     「まったく無名の作家の作だが、信じられないような傑作だ」とか、「これはピカソのなかではまったくの駄作としか云いようがない」とか判定するためには、それなりの「目」が必要になると思うのですが、じっさい、そのレベルの「目」を持っているひとってどのくらいの割合でいるんでしょう。もちろん、ただ自信満々に断定し切れば良いというものではないことわけですし。
     で、それはただの話の枕。何の話をしたいかと云うと、ぼくは「ひとの美醜を判断する能力」が平均より低いのではないか、ということなんですよね。
     まあ、ぼくも男の端くれとして美人は好きです、と云いたいところなのですが、どうも「ひとの評判によらず、自分の価値観によって美人を判定する」ことはぼくにはむずかしいのではないかと思わずにはいられません。
     アイドルとか、女優とか、どこらへんに魅力があるのかよくわかっていない気がしてならない……。つまりは、正直云って、ぼくには美人とか美少女とかいうものの本質があまりよくわかっていないのではないか、と感じることがよくあるのです。
     ひとはよく顔立ちの美醜を自明のことのように語るけれど、ぼくはそこらへんに対して鈍感らしい。センスがない、と云ってもいい。
     ところがところが、ふしぎなもので、「絵に描かれた顔の美醜」はわかるのですねー。メンヘラちゃんかわいいよハァハァとかは問題なくできる。
     なぜなら、そこには「描き手の意図」があるからで、それを言語的に理解すれば「美しい」と認識することができるわけなのです(「アウクソーのこのほっそい足すげー」とかね)。
     しかし、ひとの顔は一応は自然物であり、その種の「意図」が、ないわけではないにしても薄いために、その「美醜」というものが、ぼくにはよくわからないということになるのだと思います。
     まあ、普段、イケメン爆発しろとか云うのですけれど、じっさいのところ、どういう顔がイケメンなのかもよくわかっていない可能性がある。
     木村拓哉とか福山雅治とか、たしかに美形だなあとは思うのですが、しかしその顔から目を逸らしてしまうと、もう具体的にどんな目鼻立ちだったのか思い出すことができません。
     この能力の低さは、ぼくのなかで地図を読む能力の低さと関連付けられています。ひっきょう、ぼくは「ある画像を認識し、記憶し、再現する能力」が平均よりだいぶ低いのだと思う。
     これは、ぼくの生涯の劣等感と密接に関わっている特性です。ぼくに絵を描けとか木工を作れとか無茶云うんじゃねえよー。ぼくは脳のそこらへんの機能が欠損しているんだよー。と、云いたいところだったのですが、まあ、聞いてもらえなかった……。
     ひとは「手先の器用さ」以前に「物体の形状を把握する能力」が著しく低い人間のことを、なかなか理解してはくれず、ただ笑い飛ばすのみです。
     いや、それも、ぼくというプログラムそのものに問題はない、ただオペレーション・システムかグラフィック・ボードが