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まっさらな気持ちで観てみよう。映画『STAND BY ME ドラえもん』はやっぱり傑作だと思うのだ。
2014-08-16 19:0051pt
一昨日、映画『STAND BY ME ドラえもん』を観て来た。ネットの一部では悪評芬芬、また別の一部では大好評な本作なのだが、じっさいのところ、どうなのか?
ぼくの感想は――いや、ふつうに傑作でしょ、これ。それはたしかに、CG映画で『ドラえもん』を制作すると聞いた時には、ぼくも「大丈夫なのか?」と思ったし、予告CMにはそれほど期待させられなかったのだけれど、じっさいに観てみると、これがもう文句なしの出来。おみそれいたしました。
90分足らずという短い尺のなかで、一から新しい『ドラえもん』を再構成しなおし再提示するという離れ業には驚かされる。
ひとの意見はそれぞれなので、本作に対して批判的な人を否定するわけではないが、少なくとも予告編が生み出す先入観で判断して忌避するのはもったいない出来だ。
まだお盆休みが残っている向きには自信をもってオススメできる国産娯楽映画のマスターピースと云えるだろう。これが日本のエンターテインメントだと世界に誇れる一作だ。
それにしても、ここまでの作品を作り上げてなお、バッシングされる制作スタッフやキャストは可哀想。くり返すが、ひとの価値観は多様である。本作を観てまるで面白くないと思うひとがいても当然だとは思う。
しかし、ぼくには多くのひとが「あざとい「泣かせ」映画」という先入観でもって本作を判断してしまっているように思えてならない。この映画、云われるほど「泣かせ」に拘っているようには思えないんだよなあ。
それはまあ、原作『ドラえもん』のなかでも特に「泣かせる」エピソードをクライマックスに持ってきているのはたしかだけれど、一面でこれはごくあたりまえに笑えるコメディ映画でもある。
映画館では時々、子供たちの笑い声が響いていた。情緒過多という批判も目にしたことはあるが、そうかなあ、ぼくの目にはむしろ演出はしっとりと抑え目であるように思える。
たとえば(少々ネタバレにはなるが)、ドラえもんとのび太が別れる場面を直接描かないあたりの抑えた演出には感心させられた。
ここらへん、何をどうしても「原作が偉大だから」で済ませられてしまいがちなわけだが、ここまで秀抜な作品の功績をすべて原作者に帰すことはどうにもフェアではない。
膨大な原作をどう切り取るかということはあくまで監督や脚本の力量であり、本作において、その両者を務めた山崎貴は素晴らしい才能を示したと思う。
批判するのは自由だが、擁護するのも自由であるわけなので、ぼくは大いに弁護させてもらおう。じっさい、不況の日本映画でヒット作を出しつづけていながら、山崎の能力は過小評価されがちなのではないだろうか。
それもこれも甘ったるい「泣かせ」映画を作りつづけているというイメージから来ているわけだが、ほんとうにそうなのかどうか、ここらへんで再検証してみる必要があるのではないか。
予告編やキャッチコピーから離れて、子供のように純粋に映画を観てみよう。いつだってそこからしか物語は始まらないのだ。
おそらく、本作で最も議論を呼ぶのは「成し遂げプログラム」と名づけられた映画オリジナルのアイディアだろう。ネットを回ってみると、このアイディアが「原作破壊」だという意見をたくさん見つけることができる。
監督のインタビューをひき合いに出し、このようなブラックなアイディアはそれ自体が「ディストピア」的であるとするひとは(おそらくじっさいには映画を観ていないひとも含めて)たくさんいるようだ。そうだろうか。 -
さらば、皮肉と冷笑のインターネット。
2014-08-15 18:0051pt
しばらく前、佐々木俊尚『自分でつくるセーフティネット 生存戦略としてのIT入門』を読み上げた。本書の主張はシンプルだ。「ネットの発達で自分の言動や行動は一切隠せない時代になった。そういう時代において得をするのは他者に寛容ないい人である」と。
最近、これとまったく同じことを記した本が続けざまに出版されたことは偶然ではないだろう。きちんとした目を持っている人たちには時代の変化が見えているのだ。
たとえば菅付雅信『中身化する社会』は本書で使われている「総透明社会」という言葉とほぼ同じ意味で「中身化社会」という語を使っているし、岡田斗司夫『「いいひと」戦略』の内容も本書と限りなく似通っている。
また、ぼくはまだ未読だが、ネットの各所で書かれているところによれば、東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』も本書と内容が通底しているらしい。やはり、時代は「いい人」を求めているのだろうか。
これまで、インターネットの言論と云えば、かぎりなく冷笑的なものが一般的であったように思う。ひとの善意を笑い、「意識の高さ」を笑い、失敗を笑い、成功をも笑う、そういう態度がネットにおいてはごく一般的なものであるように見えていた(じっさいには必ずしもそうではなかったのかもしれないが、そういう印象はあった)。
しかし、どうやら時代は変わりつつあるようだ。LINEやTwitter、Facebookなどのソーシャル・ネットワーク・サービスが一般化し、ごく普通の人々がネットに個人情報を晒すようになったことによって、ネットのアンダーグラウンドくささは払拭されようとしている。そこはもはや未開のフロンティアではなく、単なる生活空間の一部なのだ。
となると、そこを快適な場所にしようとする人々が出てくるのは当然だ。だれもが冷笑と罵倒だけで埋め尽くされたネットを望んでいるわけではない以上、インターネットはこれから大きく変わっていくことだろう。変わっていってほしい、と個人的にも思う。
あるいはそれは、ある種の過激な人々にはネットが軟弱で退屈な空間になってしまうことを意味しているかもしれないが、大半の人はそういう「軟弱さ」のほうを好ましいと思うに違いない。
皮肉や冷笑や罵倒や悪口ばかり好んで味わう人たちなど、全体のなかでは少数派であるはずだ。単なる自己防衛的な冷笑癖を、きわめて洗練された知的な態度だと考えるひとは一定数存在するだろうが、そういう人はせいぜい少数派のアイドルに祭り上げられるに留まる。
佐々木さんはTwitterでも、人間の善意を信頼する旨をツイートしている。
悪意こそが人間の真実だ、なんて考え方はやめたほうが人生は幸せになると思うな。仲間もたくさんできるし。悪意こそが真実だと思っている人は、自分の人生が冷たくなっていくことを想像した方がいいと思う。それこそ冷たい言い方かもしれないけど。
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/498454072299499521
ぼくもべつだん、悪意こそ人間の真実だとは思わない。しかし、「水は低きに流れる」。つまり、人間は放っておくと悪意に堕ちていく存在であるとは感じている。 -
日本の女子校生、海兵隊へ! 野上武志『まりんこゆみ』がいろいろ凄すぎる。
2014-08-14 19:0051pt
きょうから試験的に配信時刻を午後にずらしてみます。何でも試してみないとね。 さて、ペトロニウスさんにオススメされて、アナステーシア・モレノ原案による野上武志の漫画『まりんこゆみ』を読みました。ブラウザで全編を無料で読めるウェブ漫画です。
http://sai-zen-sen.jp/special/4pages-comics/marine-yumi/
簡単に云うと、ゆみちゃんという名前の日本の女子校生がひょんなことからアメリカの海兵隊(マリーンズ)に入隊しちゃってさあ大変、というお話なのですが、なるほど、これは燃えるな……!
あらすじだけを書き出すとふざけているようにしか思えないし、じっさい、全編、ライトなコメディタッチで進んでいくんだけれど、海兵隊の描写そのものは原案者の実体験に則っていてリアルらしい。
「色々なジャンルを萌え絵で可愛く疑似体験」みたいな漫画はこの世に山ほどあるけれど、そのなかでも極北的な内容ですね。
だって、海兵隊だぜ。『フルメタル・ジャケット』だぜ。そこに日本の女の子がひょいっと入っちゃうんだぜ。ありえないでしょ?
しかし、ところがところが、このありえないような初期設定から物語はローリング・ストーンのように二転三転し、中盤をすぎる頃には過激に盛り上がっていくのです。
だまされたと思って60話くらいまで読んでみてほしい。めちゃくちゃ燃える&泣けるエピソードが待っています。主人公のゆみたちが海兵隊の地獄の訓練を乗り越え一人前の海兵隊員として任官するというお話です。
それぞれ、人種も違えば、経歴も、文化も、能力も、何もかも違っている若い女性たちが、同じ「アメリゴ合衆国海兵隊の仲間」として鍛えあげられ、認められるというシチュエーションには、「仲間っていいな!」と熱く思わせる何かがある。
いやー、でもしかし、どうなんでしょうね。たしかにこれはとほうもなく感動的な場面なんですけれど、でも、これはようするに海兵隊の「マインドファック」が完了して主人公たちが兵士として、軍隊の部品として洗脳され切ったということをも意味しているわけで、実に両義的と云うしかありません。
これはもう、海兵隊がどうこうではなく、「仲間」という概念そのものが持つ両義性です。それぞれまったく異なる境遇を持つ少女たちが、ありとあらゆるバックグラウンドの違いを超えて、「同じ仲間」として認められるというシチュエーションには、たしかに「仲間っていいな!」、「アメリゴ合衆国って懐が深い国だな!」と思わせるものが存在しています。
しかし、それは同時に「仲間の敵」に対しては限りなく残酷になれる条件が整ったということでもあるのです。
つまり、ここで描かれている海兵隊の訓練とは、日本人とか、スパニッシュとか、資産家令嬢とか、腐女子wといったバックグラウンドの属性をいったん解体して、「海兵隊の仲間」と「それ以外」に再編するという作業であるのですね。
この悪夢のような訓練を乗り越えたなら、金持ちであろうが貧乏人であろうが、チャイニーズであろうがスパニッシュであろうが関係ない! 同じ海兵隊の仲間だ!
そして、ワンス・ア・マリーン、オールウェイズ・ア・マリーン、一度海兵隊に入ったなら生涯それは変わることはないのだ! そう云い切れることは実に感動的ではあるのですが、それは「海兵隊の仲間」と「仲間以外」を峻別する思考を生み出すわけです。
これは「同じ仲間」の間の最大の友誼と結束を意味している一方で、とんでもなくやばいことでもある。でもまあ、仲間ってそういうものだよね、という気もする。非常にむずかしい問題だと思います。 -
夏コミが終わったらオフ会の準備をします。
2014-08-13 07:0051ptども。うちに遊びに来た甥っ子(5歳)といとこの娘(9歳)と付き合って遊んだために疲労困憊状態となった海燕です。疲れた……。たった1日でみごとに疲れ果てた。
それで倒れるように寝て夜中に起きてこの記事を書いているわけなんですけれど、いやー、じっさい目の前にしてみると、子供というものはほんとうにエネルギーがあるなあ、と実感しますね。
なるほど、家庭に子供がいると、すべてが子供優先、そして子供中心になっていって、自分自身の生活は二の次になってしまうものだなあ、とよくわかる。
だって譲らないんだもの、きゃつらは。空気を読んだりしないんだもの。まあ可愛いことは可愛いですが……。でもそういう問題じゃないよなあ。
そういうわけでコミケを目前にして既に体力がなくなりそうなカコクな状況なのですが、それでも更新するべくこうしてよろよろと起き上がってきているわけです。
最近、ほぼ毎日のように更新しているので、何となく何か書かないと気分が悪いらしい。習慣の力というものは恐ろしい。
毎日書いているとネタがなくなるのではないか、と思われる方もいらっしゃると思いますが、これは逆で、何か更新するとそこからの連想ゲームで新しいネタが湧いてくるものなのです。
逆に更新しないでいると、特にネタを思いつきません。だから書けば書くほどにもっと書きたくなるわけで、ほんとうに調子が良い時は「と、止まらねー。もっと書きたいー。げへらげへらうひゃひゃ」という、ある種の躁状態に陥ります。
そういう時は書いていて楽しい。が、そうなると必ずどこかで反動がやって来てぴたっと書かなくなるので、一定のペースを守って書きつづけることが大切ですね。
まあとにかく書くことは楽しいです。書くことと読むことはワンセットでぼくの人生の根幹を成していますね。これで小説を書く能力があったら人生楽しいだろうなあ、と思うのだけれど、まあ、残念ながらその方向の才能はほぼ欠落しているようです。
今回、コミケで同人誌を出すように、二次創作なら書けるんですけれどね。オリジナルなアイディアをひねり出す資質がない。
いや、へたでもいいから書けば良いのかもしれないけれど、やっぱりへたな小説って書いていて楽しくないんだよなあ。どうせ書くなら傑作を書きたいじゃないですか! いきなり傑作を書こうとするあたりがダメダメなのかもしれないけれどさ。 -
『艦これ』は政治的に正しい!
2014-08-12 04:5251pt
つい先ほど、「艦これは少女を命がけで戦わせる”美少女ポケモン”なのでヤバい」というTogetterを読みました。
http://togetter.com/li/703275
んー、コメント欄で異論反論が百出していることからもわかる通り、「何か違うのでわ?」と思わせられる話なんだけれど、ぼくはそこまで熱心な『艦これ』ユーザーではないので、ここでは一般論として上記リンク先で語られている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」という形式のどこに問題があるのか、あるいはないのか、という話をしましょう。
このまとめで語られている論旨は(複数の人物の複数の意見を経たものではありますが)、一貫しているように思えます。
「少女を前方で戦わせて男性が後方で命令する」形式には倫理的、あるいは政治的な問題がある。それは「ヒモ」めいていて、「醜い」し、「気持ち悪い」という主張です。
これは一見すると、なかなか論破しがたい主張であるように思えます。だって、大の男が後方で偉そうに命令していて、可憐な女の子たちが前方で戦う。そんな形式って、どこか歪んでいるとしか思えないではありませんか?
しかし、ほんとうにそうでしょうか? 結論から書いてしまうと、ぼくは違うのではないかと思う。「少女を前面で戦わせて男性が後方で命令する」という形式に、何らかの「歪み」を見てしまうその認識こそが、まさに歪んでいるのだ、と思うのです。
どういうことか? 前提から考えてみましょう。まず、ここで使用されている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」」という云い方には、既にしてふたつの予断が含まれています。
(1)「後方で命令する」人物、『艦これ』の場合で云えば、「提督」が男性であること。そして(2)あくまで少女たち、『艦これ』で云えば艦娘たちは提督の命令に従って戦わせられているに過ぎないのであって、主体的な意志で戦っているわけではない、ということです。
上記のまとめではこのふたつの予断によって、結論が誘導されている印象があります。まず、少なくとも『艦これ』では客観的事実として「女性提督」が相当数実在しているはずで、「提督は男性」と決め付けるべき理由は見あたりません。
この時点で、仮に『艦これ』が「美少女ポケモン」ものであると認めるとしても、「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子」だけを描く作品であるとは云えません。
むしろ、そうであるにもかかわらず、なぜ提督は「男子」であると決めてかかっているのか、その点を考えてみるべきです。そこにはある種の偏見(バイアス)が含まれているように思えます。
が、それは置いておいて、次のポイントに行きましょう。「(2)」です。ここでは「「タキシード仮面は働かないのにうさぎに惚れられてるけど、物理的に上の位置にいる助言役ってだけで積極的な指示は出さず、命がけで戦うのはあくまで少女の意思なんですよね。「さあ戦え、セーラームーン!」とか煽ってたらダメなヒモっぽさで超いやらしいかんじ。」と書かれています。 また、「その立場の人が働いてる様子なしで命令してたらやらしい感じなのは男女あんまり関係なさそうですけどね。むしろ男女関係的に超慕われてるのが働いてないのに言うこと聞いてもらえる免罪符なのかも。結局ヒモっぽいのは変わんないですか」とも書かれているんですけれど、ぼくはこの意見に大きな異論を感じます。
提督は提督という仕事をしているのであって、十分に「働いている」ではありませんか? 何の根拠があって命令しているほうが働いていて、命令されているほうは働いていないと決めつけるのか?
いや、もちろんわかりますよ。命がけで戦場で戦っているのは艦娘たちなのであって、提督は具体的に何の仕事もしていない、安全なところでふんぞり返っていばっているだけだ、ということなのでしょう。
しかし、この種の主張は組織におけるリーダーの役割を不当に軽んじているように思えます。つまりは一兵卒は働いているけれど将軍は働いていないで楽をしている、という主張ですからね。
もちろん、無能で傲慢な将軍はそういうものかもしれないけれど、有能な将軍はめちゃくちゃ働いていると考えるべきではないでしょうか?
つまり、提督は「その戦いにおける戦術を緻密に練り、艦娘たちの戦力を効果的に活かす」という仕事を行っているのです。だから、たとえ自分自身が命を晒していないにしても、そこには重い責任感があると考えるべきでしょう。
ここにあるものは、ぼくがずっと前から語っている「リーダーとフォロワーを巡る倫理の問題」です。つまり、フォロワーに指示を下すリーダーにはフォロワーに対する無限責任が存在するのか?という問題ですね。
ぼくは、この問題に対して「存在しない」という結論を出しています。ひとがだれかに対する無限責任を負おうとすることは傲慢であり、不当なのだと。
もちろん、リーダーはフォロワーに対して「一定の」責任を負っている。そして、最善を尽くしてフォロワーの能力を活かす義務をも負っている。
しかし、フォロワーの行動と存在のすべてが全面的にリーダーの責任であると考えることは、フォロワーの自我を無視する考え方であり、間違えている、という結論です。
このことについて、ペトロニウスさんは『魔法先生ネギま!』を例に出してこう書いています。
でも、僕はよく思うのですが・・・確かにリーダーや公的に責任がある立場の人には、絶大な責任があります。だってマクロを管理する立場にあるわけだから。でも、すべてを管理できるわけではない以上、やはり、どこかで線を引いて、「何をなすにも、それはフォロワーの決断」と考えなければ、それは、相手を対等に見ていないことになってしまうのではないかな?って思うのです。たくさんの情報を持つネギだって、リーダーだって、すべてを見とおせるわけではないのですから。結局は、「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間にすぎません。
http://ameblo.jp/petronius/entry-10056687241.html
おお、7年前の記事だよ。なつかしい。ぼくもよくこんなやり取りを憶えているよな。
それはともかく、ぼくもまさにこう思うのです。提督にしろ、艦娘にしろ、サトシにしろ、ピカチュウにしろ、つまりは「「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間」に過ぎないのであって、表面的な主従関係を超えて、実は対等なのだと。
なるほど、表面的にはピカチュウは戦っていて、サトシは後方で楽をしているように見える。しかし、そのとき、サトシにはピカチュウを最善の形で戦わせる責任があり、ピカチュウにはサトシに対する絶対の信頼がある。
だからこそ、『ポケモン』という物語は表面的な倫理問題を超えて多くのひとの心に波及していくのであって、決して「『ポケモン』はサトシがポケモンを虐待するだけのひどい話」などとは云えないのです。
むしろ、部下を可能な限り効果的に戦地へ送り込まなければならない将軍の苦悩は、ただひたすらに戦っていれば良い兵士の苦悩を上回ることすらあるでしょう。
最近の作品でここらへんのことを最もうまく描いているのはおがきちか『Landreaall』だと思います。このテーマの具体的な展開を知りたい方は、この漫画の第12巻から第13巻をぜひどうぞ。
そして、このテーマを最も先鋭的な形で表現しているとぼくが考えるのは、栗本薫『グイン・サーガ』第65巻の一節です。この巻で、パロの王子アルド・ナリスは、不運にも無数の部下を辺境の土地に散らせてしまったことに重い後悔を感じている黒太子スカールに向けて云い放ちます。
「私は、いま、心から、『それは、かれら自身が選んだことなのだ。だからそれについて、私がいたんだり、くやんだりするのはあまりに傲慢である』と答えることができます。――私自身もたとえ誰にさとされようとすかされようと、あるいはさまたげられようと迷うことなくおのれの信ずるままに進んできてここにいたった。そしておのれののぞみをつらぬくためにつきすすみ、そのために死んでもいいと思っている。(略)かれらがもしここに亡霊となって立ちあらわれたとしたら、かれらは何というと思います。かれらは誰もあなたを責めはしない。かれらはおのれのことを誇りに思っていないでしょうか? そしてあなたのいのちを守るため、あなたの望みをかなえるためにそのいのちをささげたことをもって『自分の生まれてきたのはこのためだったのだ』と思って死んでいったのではないのですか――あなたのために。あなたのお役にたててよかった――と。(略)」
「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ。あなたには、選ばれたことに対する責任こそあれ、かれらの死を背負いこむ理由などありませんよ。あったとしたらそれは傲慢というものです。こういっては、傷ついているあなたにきびしすぎることばときこえるかもしれませんが。私は――私もまた、いろいろと悩みました……私の迷いを啓いてくれたのは、私がその一生をほろぼすことになった男のことばだった。私が正しい愛国者の道からひきずりおろし、闇にひきこみ、迷わせ、恋を奪い、ともに破滅することへひきずりこんだ、その男がにっこりと笑って、『あなたじゃない、私があなたを選ぶのだ』と考えるにいたったとき――私は、はじめて知りました。それでは世の中には、何かを与えてやることではなく――何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物もあるのだなと――その贈り物の名は、《信頼》というのだと」
「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ」。そして、世の中には「何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物」もある。その贈り物の名は、「信頼」という。
こう考えるなら、提督と艦娘たちの関係は決して一方的な命令→服従というものではなく、責任↔信頼であることが想像できます。もちろん、作中でそこまでは描かれていないとしても、少なくともそういうふうに受け止めることはできる。
だとしたら、なぜ、提督と艦娘たちの関係が「醜い」、「気持ち悪い」ものに思えてしまうのか? それは「成人男性」という「強者」が、「未成人女性」という「弱者」を前線で戦わせて自分は戦わない、という形式に倫理的な問題を見るからでしょう。
たとえば、このツイートではこう書かれています。
特に日本のゲームやアニメ・漫画に対して感心しないのは、少年少女を戦わせてそれがさも当たり前みたいに話が進んでいくところかな。現実的に考えれば成人男性が真っ先に矢面に立って戦うのに。現実的に見たら主人公が少年少女って少年兵の話ですよ。どこの未開の地の民兵組織よ。
つまり、ここでは「成人男性が真っ先に矢面に立って戦う」ことが最も正しい、政治的問題が存在しない形式である、という意見が提出されているわけです。
この意見には成人男性こそが「強者」であり、本質的に「弱者」である「女子供」を守って戦うことこそが正しい姿なのだ、という考え方が背景にあるのでしょう。
しかし、成人男性こそ強者であり、「女子供」は弱者である、というのはほんとうにそうでしょうか? 仮に現実世界ではそうであると認めるとしても、イマジネーションの世界において、その「現実」をなぞることが最も政治的/倫理的に正しいのでしょうか?
ぼくはそうは思わない。それは結局、戦うのは男の仕事、女子供は守られていれば良いという発想であって、「固定的性役割分担にもとづく性差別」というものなのではないですか?
もちろん、日本のサブカルチャーに、成人男性が「矢面に立って」戦う物語がまったく存在しないというのなら、それは倒錯であり歪みである、という云い方はできるでしょう。
しかし、現実にはそうではない。仮面ライダーやウルトラマンの大半が成人男性であることからもわかるように、ちゃんと大人が戦っている作品もあるわけなんですよ。
何が云いたいのか? つまり、ぼくは「成人男性が戦い、女子供は守られる」という形こそが唯一の政治的に正しい形式だとは考えないということです。
それどころか、そもそも「唯一の政治的に正しい関係」なるものが存在し、その反対の「許されるべきではない間違えた関係」も存在する、という認識そのものを認めない。
そういうことじゃないと思うんですよ。逆に考えるんだ、ジョジョ、です。そう、たったひとつの「政治的に正しい」関係性が存在するのではなく、ありとあらゆる多様な倒錯的関係性が許容され、しかもそれが倒錯と認識されない状況こそが最も政治的に正しいのだと考えるべきなのです!
つまり、成人男性が少女に命令する形式があっても良いし、成人女性が少年に命令する形式があってもいい。あるいは少女が男性に命令する形式があってもかまわない。
さまざまな関係性が野放図に繁栄している状況こそが最も倫理的なのであって、あるひとつの作品、ひとつの形式、ひとつの関係性を取り上げて「これは政治的に間違えている」ということは、じっさいにはむしろ差別的言説であるかもしれない、ということです。
『艦これ』に従来の前衛男性中心的関係性からの逸脱なり倒錯が見られるとしても、それを是正しようとするべきではありません。むしろもっと広範に多角的に倒錯させるべきなのです。
そのような逸脱的主従関係を、ぼくたちはたとえば『Fate』シリーズに見て取れるでしょう。この物語では、ほとんどありとあらゆるパターンのマスター×サーヴァント関係を発見することができます(二次創作まで入れるとさらに多様。ここでこっそり自分の同人誌を宣伝しておくと、ぼくが夏コミで発売する予定の『Fate/Bloody rounds(1)』は「美少女リーダー、男性フォロワーたち」の物語です。よろしくお願いします)。
詳細は以下をどうぞ。http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar592457 いやまったく、「男性が戦い、女子供は守られる」というひとつのパターンしか許されないような社会に比べ、現代日本は何と素晴らしいのでしょうか!
『艦これ』はたしかにそれ単体を見ればひとつの倒錯した人間関係を推奨しているように見えなくもない。しかし、だからその倒錯を見直そう、ということは間違えている。
もっともっと倒錯させつづけ、ありとあらゆる倒錯があたりまえな状況を作るべきなのです。それが最もポリティカル・コレクトな結論だと思います。
だから、
そうすると、ぼくの考える美少女ポケモンもの、「男性指揮官が女性戦闘員を使役して命がけで戦わせる」「戦闘員が幼い女性だとヤバい」「恋愛感情で操ってるともっとヤバい」ってのにいちばん自覚的な作品は、『ガンスリンガー・ガール』ってことになりますねー。
ガンスリンガー・ガールは、オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品です。2002年の時点ですでに美少女ポケモンをテーマの中核に据えたマスターピースですね。いや終盤読んでないんですが。
いや、終盤も読みましょうよ! だって、その終盤ではまさに「たとえ、表面的な関係に主従、支配と被支配といった非対称性があろうとも、それでもなお、ほんとうに対等な関係を築くことは可能である」というテーマが打ち出されているんだから!
どんな人間関係も、必然的にある種の権力関係を内包します。そこでは強者と弱者が生まれ、支配と被支配の関係が表れる。それでもなお、その限界を超えて、ひとは対等な愛と信頼の関係を築くことができる、ということが『GUNSLINGER GIRL』の、あるいは栗本薫作品の最終的な結論でありテーマでした。
たとえそれが一瞬のうたかたの幻であるに過ぎず、次の瞬間にはまた果てしない権力闘争に戻っていくしかないとしても、です。
たしかに初期の『GUNSLINGER GIRL』は「オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品」と評価するべきだったかもしれませんが、終盤ではそれをも確信的に乗り越えていると思うんですよ。
こういう作品がちゃんと出て来るということが、この世の中の面白さであり、それを無視して「これは倫理的に間違えている!」と告発しても始まりません。ただ上から目線で告発して終わらせるのではなく、「その先」を考えていくのが読者たる者の役割ではありませんか?
ちなみにぼくはもう疲れたので(現在早朝5時……)、あえて語りませんが、『GUNSLINGER GIRL』のドラマツルギーに関する詳細な分析は、ペトロニウスさんの以下の記事をどうぞ。さらには永野護『ファイブスター物語』あたりも押さえておきたいところです。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1
そして、この分析は、昨日発売(!)の『ビッグコミックスピリッツ』で商業版連載が始まった『バーサスアンダースロー』こと『1518!』へと続いていきます。
こうやって、物語は語られ、詠われ、継がれてゆくものなのでしょう。ひとつの物語の終わりは次なる物語の始まり。そして、さらなる次の世代、次のテーマへ、ひとが、ひとを愛するということを巡る物語は続いてゆくのです。
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裸の王さまはもういない。情報選別の正当性と「耳に痛い意見」の限界について。
2014-08-10 17:4651pt今朝、Twitterで妙な人物(としか形容できないような妙な人物)に絡まれ、さすがに相手をする気になれなかったので、即座にブロックした。
自分が間違えたことをしたとは思わないが、だれであれ、ひとを拒絶するということは後味が悪いものだ。それは、豊かに開かれた対話の可能性からの「逃げ」であるような気がするわけだ。
じっさいのところ、この場合、いくら熱心に対話したところで素晴らしい展開が待ち受けているとは思えないし、それどころか疲労困憊したあげくどす黒い気持ちになることが明白であるので、やはりブロックするしかなかったのだと思う。
それでも、だれかをブロックすると、やはり何となくイヤな気分がのこる。インターネットには「カジュアルブロック」を推奨する論客もいるし、それが間違えているとも思わないのだが、どうにもこう「逃げた」ように思えて気分が沈む。この思いは何なのだろうか?
結論から云うと、この感覚は「あらゆる対話を避けるべからず」、「あらゆる批判から逃れるべからず」というある種の道徳観から来たものなのだと思う。
つまり、どんなに不毛な意見であれ、それを避けることは自分の世界を狭くすることであり、自分に対して批判的な意見に扉を閉じてはならないという考え方が根底にあるのだ。
この道徳観は、一見すると、非の打ち所がない。ほとんどの人は、「ひとは耳に痛い意見を避けるべきか? 傾聴するべきか?」と云われたら、「それは傾聴するべきである」と答えるのではないだろうか。
この手の話をするとき、多くのひとは「裸の王さま」というアンデルセンの童話を思い浮かべることだろう。ある国の王さまが、「バカには見えない衣装」なるものを売りつけられたものの、家臣たちを初めとする周囲の人間はだれもそれが実在しないことを指摘せず、ただひとり、無邪気な子供だけが「王さまは裸だ!」と叫んだ、という話である。
この童話の教訓はあきらかだ。つまり、自分を追従する人間ばかりに囲まれ、クリティカルに批判的な意見を避けていると、しまいにはこの王さまのように恥ずかしい人物になり果ててしまう、と。
なるほど、現実に照らしあわせてもありそうな話だ。ぼくも、いまなお、ある程度は説得力がある童話だと思う。批判的な意見に耳を傾けることも時には必要だろう。そのこと自体を疑うつもりはない。
しかし、だからといって「常に」裸の王さまであることを心配しつづける必要は、実はもうないのではないだろうか。ぼくたちインターネットユーザーはもうこの童話の射程の外にまで飛び出てしまっているように思う。
というのも、現代においては、ある人物が「裸」であるとするならば、だれもがかれを恐れて口をつぐむなどということはありえないからだ。必ず、だれかがインターネットを使って「王さまは裸だ!」と叫ぶに違いない。
いや、それどころか、たとえじっさいには王さまが裸でなくても、「王さまは裸だ!」という意見は百出することだろう。その頻度は、その「王さま」の知名度にほぼ正比例する。
つまり、その「王さま」に一定の知名度があるならば、じっさいに裸であろうがあるまいが、「王さまは裸だ!」と叫ぶひとが一定の割合で必ず存在するのが現代という時代であり、インターネットという空間なのだということ。
ようするにぼくたちはいま、だれも、たとえそう望んだとしても、裸の王さまになどなれはしないということなのだ。もはや、だれであっても、自分に不都合な情報を統制することなど不可能だ。
どんな尊大な独裁者であっても、ネットを支配しきることなど到底できはしないのだ。だから、この時代においては、「裸の王さま」になることを恐れるより前にやるべきことがある。いかにして「王さまは裸だ!」という叫びをシャットアウトするかということである。
――と、こう書くと即座に反論が返ってくることが予想される。いや、たしかにネットの情報すべてを統制することは不可能だが、それらを自分の耳に入れないようにすることは可能ではないか。
そう、自分にとって不都合な意見を云って来た者がいたら、次々とブロックすれば良い。そうやって批判的な意見から逃げ続けたなら、やはり「裸の王さま」になることは避けられないのではないか、と。
一理ある。しかし、それでもなお、ぼくはネットユーザーは情報を選別するべきだと思う。そうしなければ、必ず意見情報の洪水に飲み込まれ、自分自身の立ち位置を見失うことになってしまうからだ。
なるほど、「耳に痛い意見」を避けつづけることはまずいだろう。しかし、じっさいには、それはもうどうやって避けようが必ず耳に入って来ると考えるべきだと思う。
ネットで「王さま」を批判する人間がひとりしかいないなら、その人物をブロックすることはすべての批判的意見から逃げ出すことを意味してるいかもしれないが、現実にはそういうことは考えづらい。
あるひとをブロックしても、ほかのだれかが批判を続けるはずだ。だから、どう避けようとしても、「耳に痛い意見」は必ず目に入る。
ただ、だからといってそれに対してまったく無防備でいることは、インターネットにおいては、まさに裸で荒野に立つような行為だ。
いかにして自分にとって有害な情報を可能な限り遮断するか、というディフェンスを試みなければ、早晩、その人物は「耳に痛い意見」の洪水によって精神を病んでしまうだろう。
いやまあ、それでも、その「耳に痛い意見」が紛れもない真実であるのならば、その展開もしかたがないことかもしれない。しかし、「耳に痛い意見」がほんとうに的確な批判である証拠など、何もありはしないのだ。
それは単に痛いだけ、気持ち悪いだけ、うんざりするだけ、ばかばかしく思えるだけで、まったく的を外した意見であるかもしれない。
勘違いしてはならない。耳に痛いからといって、必ずしも的確に自分の急所をえぐっているというわけではないのだ。ただあまりにも下品だったり、一方的だったりするから「痛い」ということも十分にありえる。
そして、そういう意見を片端から受け入れていたら、ひとは決して幸せにはなれないのだ。
ぼくの云うことは単なる開き直りだろうか。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の言葉のように、どこまでも謙虚にひとの意見に耳を傾けつづけることが大切なのだろうか。
過去においてはそうだったかもしれない。しかし、いまの時代、ある程度知名度があるひと(もしくは、一時的に知名度が向上したひと)に寄せられる意見の量は、一瞬で個人が処理できる限界を超える。ぼくたちは必然的にそれを選別して対応せざるを得ないのだ。
そしてどんな基準であれ選別する以上、「自分に都合の良い基準で選んでいる」という批判をかわすことはできないだろう。それはつまり、「自分の云うことは正しいのだから受け入れろ!」と同義であったりするのだが、とにかく情報の選別は「耳に痛い意見」を避けている、という批判を必然的に伴う。
しかし、とぼくは思う。それは無意味な批判である、と。インターネットで一定以上の意見を寄せられたひとは、だれでも、そのすべてを真摯に考慮に入れて反応することなどできはしないのだ。
それらをあえて遮断はしないひとでも、そのすべてに一々反応しつくすことなどできはしないだろう。一対一の対話ですら困難なのに、一対百、一対千の対話ができるはずがない。どうしたって情報は選別した上で対応せざるを得ないわけだ。
そういう人物を批判する人間は、当然、自分の意見が正しいと思っているから、「この人物は、まさに裸の王さまのように、自分の意見から逃げて自分に都合の良い意見ばかり受け入れている!」と考え、そう批判することだろう。
じっさいにそうかもしれないし、そうではないかもしれない。いずれにしろ云えることは、かれの批判もまた百分の一ないし千分の一の意見であるに過ぎず、本人の主観的にどれほど正当であるとしても、それを受け止める相手にとってはそれだけの意味しか持っていないということだ。
そういう状況下において自分の意見を聞いてもらいたいと思うなら、少なくとも相手が受け止めやすい球を投げることが必要だろう。自分が正しいのだから相手は受け入れるべきだ、受け入れられないのだとしたらそれは相手が裸の王さまだからだ、というのなら、その本人自身が裸の王さまめいている。
べつだん、この世は批判する側が正しく、批判される側が間違えている、というふうにはできていない。だから、少なくともこのインターネット社会においては、自分が正しくないと思う情報はシャットダウンしてかかることが必要だ。
それによって「耳に痛い批判から逃げている」というありがたくないご意見をいただくとしても、あらゆる情報を処理しようとして洪水に流されるよりマシである。
それなら、どうやって精神の健全さを保てば良いのか――それは、やはりひとを選んで意見を聞くということしかないと思う。この人の云うことであれば、たとえ耳に痛くても受け入れる、というひとを決めておく。
そういうふうにするのではなく、ひたすら無差別にあらゆる意見を検討する、ということは、非現実的であるばかりか、ほとんど自殺行為に近い。
それが「耳に痛い意見」であれ、そうでないのであれ、情報は取捨選択するべきである。王さまは裸なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。その真相を自分に寄せられる玉石混交の意見から判断することは困難である。
そうだとすれば、まずは玉と石を区別するところから始めるしかないではないか。ぼくはそう思う。やっぱり相手をしていられないような妙な人物はブロックするしかないのである。ああ、すっきりした。 -
ラジオ告知。
2014-08-10 10:0951pt -
名作児童文学に涙する。ルーマ・ゴッデン『バレエダンサー』が示す「物語の力」。
2014-08-10 05:2151pt
「でも、……ぼくはなにをすればいいの?」
「学校にいって、遊んでいればいいんです。ほかの男の子のように。」
「ぼくは、ほかの男の子じゃないんだ。」
素晴らしかった。どういえばいいのだろう、とにかく素晴らしいのだ。読む前から期待していたが、その期待を上回る出来だった。
物語は、ひとりの少年が舞台に立つところから始まる。かれの名はデューン。伝統あるロイヤル劇場では最年少のソロ。そこから時間は過去へと戻り、デューンがその舞台に立つまでの道のりを描いていく。
このように書くと、なんだよくある天才少年ものか、と早合点される方もおられるかもしれない。一面ではその通りではある。デューンがバレエの天才であることは疑いようもない。
しかし、かれの姉クリスタルと、母モードの存在が、この物語にほかにはない深みを添えている。
クリスタルはこの作品のもう一方の主人公と言っていいだろう。モードにとっては待望の女の子で、彼女に溺愛されて育つことになる。そしてその愛こそがすべてを狂わせていく。
むかし踊り子だったモードは、クリスタルの将来に期待をかけ、彼女をバレリーナに育てようとするのだ。じっさい、クリスタルにはそれだけの天稟があった。しかし、甘やかされ、贔屓される暮らしのなかで、次第にその才能は色褪せていく。
一方、デューンはバレエを踊るために生まれてきたような子供だった。その天才はだれにでもひと目でわかった――かれの家族以外には。
息子に普通の子供であることしか求めない父親と、クリスタルにすべての夢を託した母親は、デューンを決して認めない。そして、そのクリスタルはかれをさんざん苛めぬく。その態度はやがて虐待に近いものにまでなっていく。
すこやかにのびていこうとするデューンの才能は、くりかえし、くりかえし、じつの家族によって踏みつけられる。
しかし、それでもなお、デューン、その天才は、折れることなく芽を出し、茎をのばし、花を咲かせていく。まるで、みにくいアヒルの子が、美しい白鳥に変身しようとするように。
母に認められなくても、家に居場所がなくても、ひとたび舞台に立てば、デューンほど華麗に踊る者はいない。そう、かれこそはバレエダンサー。生まれつき、見えない文字で額にそう記された「踊る者」。
失意がかれのバレエを育み、孤独がかれのバレエを磨いていく。求めても得られない愛の代わりに、拍手と賞賛を手にいれる術をデューンは学ぶ。そしてやがては万人がかれの天才を認めるまでになっていく。
ただそれだけなら、単なる芸術家の苦労話といって済むことかもしれない。辛いこともあったが、それすら成長の糧だったと。ところが、これらの残酷なほどの試練にもかかわらず、より深く苦しむことになるのは、クリスタルのほうなのだ。
家族の理解を得られなかったデューンは、その代償のように行く先々で理解者を見つける。だれもがかれの才能を愛し、その天真爛漫な性格に惹かれていく。
デューンはだれも恨まない。悪意の塊のようなクリスタルにまで深い愛情を注ぎ、裏切られても裏切られても愛することをやめないのだ。
それに対し、クリスタルは長じるにつれて弟の才能に嫉妬するようになる。彼女はありとあらゆる手管を用い、弟をバレエから遠ざけようとする。まるでシンデレラの意地悪な姉のように。
凡庸な作家なら、デューンの人生の障害物、どこにでもいる意地の悪い女性としてクリスタルを描き、それで済ませてしまっただろう。ルーマ・ゴッデンは違う。
物語が後半に入り、デューンの才能が輝きはじめると、初めはただの「意地悪な姉」だったクリスタルは、デューン以上に屈折した内面を抱え、その美貌と才能のためにかえって荒んでしまった少女として、見違えるような魅力を放ちはじめる。
可愛い、美しい、優雅なクリスタル。しかし、彼女にはデューンほどの才能はない。バレエ以外のことなら、何もかも彼女が優れているだろう。バレエ以外のことなら。しかし、バレエは彼女を選ばなかった。
あたりまえのように頭角をあらわしていく弟への嫉妬が彼女を苛む。そのあいだにクリスタル自身も稀有な才能を発揮しはじめるのだが、彼女にはそれだけでは足りないのだ。
そして、運命は彼女にいままでの成功の対価を支払うことを求める。信じていたものに裏切られたクリスタルは、自分自身に絶望し奈落の底へと突き落とされていく。
くらやみの底から光のなかへ駆け上がっていく弟と、光のなかから暗黒へ堕ちていく姉――その劇的な明暗! その時点でこの作品は優れた児童文学という次元を超え、一本のきわめて優れた小説としか云いようがないものになる。
発売日から考えてありえないことだが、 -
あなたもホームレスになってみませんか? 「都市型狩猟採集生活者」たちの幸福な日常。
2014-08-09 07:0051pt
『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』という本を読んだ。いささか大仰なタイトルであるが、いわゆる「ホームレス」の人々を追いかけた内容となっている。
といっても、「ホームレスの暮らしはこんなに悲惨だ」という内容ではない。その正反対、何かというと人生の落伍者、あるいは社会の敗残者として捉えられがちなかれらを、「都市型狩猟採集生活者」として再定義し肯定的に評価しようとする本なのである。
この本を読んでいると、ホームレスという暮らしもそれはそれで悪くないように思われてくるくらい。もちろん、著者の語ることをそのまま真に受けるわけではないが、しかし「ホームレス=悲惨で孤独」という決まりきった図式から一歩離れてものを見ることができるようになることはたしかだ。
そこにはある種のセンス・オブ・ワンダーがある。ホームレスという人生は決して「なし」なものではない。ひとによっては、そこに幸福や充実を見いだすことも可能なのであって、十分に「あり」なのだ、という発見。
著者によると、都会の街なかには、たとえば海に海の幸、山に山の幸といったものがあるように、「都市の幸」と云うべきものがある。都市型狩猟採集生活者たちは、それを採集して暮らしているのだという。
それでは、「都市の幸」とは何か。それはズバリ、「ゴミ」である。正確には「ゴミ」として廃棄され、一般にかえりみられないモノこそが、都市型狩猟採集生活者たちにとっての「都市の幸」なのである。
かれらはそのままなら捨てられ、燃やされ、あるいは埋められて無価値になってしまうモノに価値を見いだし、再利用を試みるわけだ。それは都市という巨大な物流空間にパラサイトしているとも云えるだろう。
普通に考えたらまさに落伍者としか云いようがないわけだが、かれらの「狩猟」と「採集」は、べつだんだれを傷つけているわけでもない。よく考えてみれば、非難されるべきいわれはないはずだ。
そしてかれらは必ずしも不幸ではない。不幸ではないどころか、実に楽しげに「プア充」を究めている人物すら登場する。
この本に出て来る個性的な登場人物たちのなかでも最も印象的なのは、文中、「代々木公園の禅僧」と呼ばれている人物である。かれは何と一切お金を稼がず、持たず、2年ものあいだ0円で暮らしているという!
そんなことが可能なのか? 可能なのである。食事はホームレス支援団体や教会などによる炊き出しに頼り、洋服や生活用品なども教会からもらう。それだけで生きているのだという。もちろん、お金を使わないから財布も持っていない。
ここのところ、『ニートの歩き方』とか『稼がない男』とか『年収100万円の豊かな節約生活術』とか『Bライフ』とか、「いかにほとんど稼がないで豊かに暮らすか」の本を色々と読んできたのだが、「収入0円」とは究極である。
1年間一切お金を使わないで生きるという生活実験を綴った『ぼくはお金を使わずに生きることにした』という本があるが、この「禅僧」の場合、2年以上もそれで暮らしているわけだから、凄いとしか云いようがない。
かれは語る。
「本当に幸せだよ。ここには、鳥たち生物もたくさんいるし、植物もたくさん育っているからね。それを眺めているだけで、心が落ち着いて気持ちよくなる。公園の周りでは、若者がよく音楽を演奏しているしね。そういうのも自分の娯楽として楽しんでいます。ホームレスっぽい恰好をしていれば、こうやって、〇円で幸せな生活が送れるんだよ。あんまり人には教えないけどね」
こういうひとたちを見ていると、ほんとうにお金には絶対的な価値はないのだな、ということがわかってくる。
べつだん、何千億円 -
「闇のトンネル」を抜けてゆけ。
2014-08-08 07:0051pt
三浦建太郎『ギガントマキア』を読みました。『ベルセルク』の作者の24年ぶり(!)の新作ということで、話題になった漫画ですね。
つまりまあ、『ベルセルク』の連載を始めてから初めての新作ということになるわけですが、ここに来ていよいよ冴えわたる圧倒的画力で読ませてくれます。
題材は「超未来+プロレス+美少女」と、ある意味で非常にわかりやすい。三浦さんの趣味をとことんまで詰め込んだ一作といえるでしょう。
一億年に一度の大災厄によって文明が滅亡した超未来の世界を舞台に、巨漢の主人公がなぜか残っている(なぜだろう?)プロレス技を駆使しながら決死の戦いをくりひろげる物語。ロボットもあるよ!みたいな。
まあ、『ベルセルク』はまだ終わっていないというか、本番はまだこれからと思えるわけですが(ガクブル)、ここでちょっとひと休み、というところなのでしょう。先はまだ長いんだろうなあ、『ベルセルク』。
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