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死して斃れるとしても、なお。
2014-12-19 08:4051pt
ペトロニウスさんと話していると、時々、「海燕さんはひとの話を聞いてばかりいるのに、ひとに影響されないよね」といわれることがあります。
まあ、たしかにLDさんとかペトロニウスさんが火砕流のごとく喋るのを始終聞いているわけですが、ぼくはぼくのままで、特に変わらないですね。
いや、思想的に影響を受けた側面はもちろんあるのだろうけれど、ぼくの芯のところはそのままで、変わらない。
そこはまあ、ぼくもいい歳ですからね。これがもっと若い子だったりすると破滅的な影響を受けたりするんだろうな、と思います。ものすごい影響力を持った人たちですからね……。
そういう意味では、亀の甲より年の功というのも、まんざら嘘ではないのかもしれない。
いまとなっては、小手先のところで影響されることはあっても、ぼくの価値観というかアイデンティティはもう確立されてしまっていて、あまり揺らがないんでしょう。
それが思い切り揺らぎまくっていたのが思春期の頃で、この頃は色々な人から莫大な影響を受けています。
ぼくの場合、主に読書の世界から影響を受けたのですが、そのなかでも最も大きく影響されたのが田中芳樹と栗本薫の作品です。
ぼくの価値観は、ほぼこのふたりの作品からできている。というか、『銀河英雄伝説』と『グイン・サーガ』ですね。この二作でほぼぼくの考え方は決定されているといっても過言ではない。
このふたりはいずれも幻の雑誌といわれる『幻影城』から出て来た作家で、古なじみのようです。『幻影城』とは、知る人ぞ知る伝説的な雑誌なのですが、田中さんや栗本さんのほかにも泡坂妻夫、竹本健治、連城三紀彦、友成純一といった才能を発掘していることで知られています。
ここらへんの作家の文庫の解説を読んだりすると、お互いの作品の解説を引き受け合ったりしていて、とにかく仲は良かったようです。
栗本さんは生前、田中さんのことを「田中くん」などと読んでいましたね。宇宙はどうも苦手だから田中くんに任せるとか書いていた(笑)。
そもそも田中さんのほうが歳上なんだからさん付けしろよと思うのだけれど(笑)、まあ、それくらい親しい間柄だったらしい。
数年前、栗本さんと泡坂さんが立て続けに亡くなられた時は、田中さんは落ち込んで体調を崩されたようです。最近、連城さんも若くして亡くなられて、田中さんは寂しいでしょうね。
最近、連城さんの遺作『女王』の帯に惹句を書いたりしていますが、そういう関係らしいです。連城三紀彦という人も、ちょっと途方もない天才的な作家だったのですが、その話は長くなるのでまたいずれ。
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橋本しのぶさんの冬コミ新刊の解説を書きました。
2014-12-18 13:0951pt
ぼくは冬コミにはみごと落選したので新刊は出せませんが、友人のはしさんが出す『艦これ』小説本に解説を書きました。せっかくですので、ここでも宣伝しておきます。
まあ面白かったので冬コミに行く皆さんはよければ買ってやってください。『艦これ』についてくわしくないぼくでも楽しめたので、特別な予備知識はいらないはず。
ちなみにサークルスペースは「東1-L43b」、そのほかの情報は以下を参考にしてください。http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=47575768 以下、解説の全文を転載しておきます。
解説「すべての「提督」たちにささげる、血と泥の物語。」
海燕
このページを開いているあなたがすでに本編を読み終えているのか、それとも本編未読のまま後ろから本を目を通しているのかは知らない。もし前者なら、一編の壮大な物語を読み終えたという心地よい疲労感とともにこのページをめくっているはずである。こんな解説など、まったくの蛇足としか思えないことだろう。
しかし、どうかもう少し付き合ってほしい。いま、ぼくはこの小説を読み終えて、その内容についてだれかと話しあいたくて仕方ないのだ。けれど、作者本人を除いてまだだれも読んでいないから、語りあえる仲間はひとりもいない。何だったらいますぐ電話で作者を叩き起こして熱い感想を押しつけてやってもいいのだが、早朝なのでさすがにやめておくことにした。だから、まあ、ぶつけどころのない熱量はすべてこの文章に叩きつけることにしたいと思っている。その作業にもう少しだけお付き合いください。
いや、しかし、既に本編を読み終えたあなた、この小説、どう思います? ぼくは一読して、一驚した。何だこりゃ、と感じたね。一編のエンターテインメントとしてよくできていたことに驚いたわけじゃない。面白い作品であることは予想内だ。細部までかなりよく書けている上に、切なくも美しい物語に仕上がっていることすら、想像していなかったわけじゃない。各々のキャラクターの魅力や、コメディとシリアスのバランスなどについては、むしろ期待した通りといってもいいだろう。この作家なら、これくらいはこなす。そのことは知っていた。
だが――そう、今回はそれだけではない。断じてそれだけに留まってはいない。それらすべての要素に加えて、ここにはたしかに「何か」がある。小説を小説にしている何か、あらゆる理屈を超えてひとの心を揺さぶる何か、言葉にしたとたん雲散霧消してしまう何かが。そう、どうやらそうらしいのだ。はるかな天頂へ向けひたすらに指をのばしつづけていた作家の指先は、どうやらその名もなく形もない「何か」に届いたらしいのである。
いやはや、驚いたことだ。ぼくはこの作家はついに「それ」に届かないかもしれないと思っていた。仮に届くとしても、もっと先のことになるだろうと予想していたのだ。さらに何年もの辛酸と渇望の日々が必要に違いない、と。ところがどうやらぼくの予測はくつがえされたらしい。いま、ぼくの目の前にあるこの小説は、いかにも荒削りではあるものの、紛れもないオリジナリティを備えた「本物」である。
もちろん、ここが彼が目ざした天のいただきだというつもりはない。さらなる高みへと道は続いている。しかし、それでもなお、ここから先は限られた「本物」の書き手だけが往ける領域であることに違いはない。そしてここまでたどり着いた以上、彼はさらに先へと進むだろう。ほんとうに驚いたことだ。ちょっと、彼に対する評価を改めないといけないかもしれない。
さて――さて。ただ「驚いた」と書くためだけに規定原稿量の三分の一を使いきってしまったので、急いで本筋に入ることにしよう。本作はいま大人気のブラウザゲーム『艦隊これくしょん』を題材にした二次創作長編小説である。時間とお金はだれにとっても貴重なものだが、本書はそれに費やすに値する一冊だ。もしあなたがいまイベント会場や同人ショップでこの本を買おうかどうか迷っているなら、さっさと買ってしまうといい。損はさせない。ほらほら。
――と、これはまあ解説文章の常套文なので、あまり信用できないかもしれない。そういう人のために、これからこの小説の魅力についてじっくり話していくこととしたい。
もちろん、あなたに『艦これ』の説明は不要だろう。近年、最高/最大の支持を集めているブラウザゲーム。最低限の課金で長く楽しめるシステムと、旧日本海軍の艦艇を擬人化した奇妙な設定がウケて、発表以来、あっというまに大人気を博すこととなった作品である。こんな奇抜なゲームがヒットするのは世も末という気がしなくもないが、おそらくぼくもあなたも、それを他人ごとのように嘆く資格はないに違いない。ほら、艦娘、可愛いし。
そういうわけで『艦これ』の面白さはわかりきったことなのだが、当然、だからといって『艦これ』を題材にした作品がすべて面白いということにはならない。しかし、たったいま全編を読み終えたばかりのぼくからいわせてもらうなら、この小説はめっぽう面白い。ただ『艦これ』の魅力を十全にひき出しただけにとどまらず、「その先」へ行こうとしている冒険的な一作といえる。
ちなみに今回のメインヒロインは金剛。可憐な容姿と個性的なキャラクターで知られ、「ボイス追加、新規実装などで他に提督に対して「好き」だと自ら発言する艦娘が増えた現在でも、その元祖と言うべき位置づけから「提督LOVE勢筆頭」と評価されている」(「艦これ攻略Wiki」より)という人気キャラクターである。
彼女を含む無数の艦娘たちと、艦娘を率いて戦う「提督」の軽妙なボケ&ツッコミの繰り返しのなかで、少しずつ物語は進んでいく。他愛なくも楽しいラブコメディ。しかし、お話は単なる喜劇には終わらない。クリスティの『オリエント急行殺人事件』を思わせる序盤から、「100人を超える艦娘たちのなかに混ぜられたスパイはだれなのか?」というミステリを巡るシリアスな物語が始まり、サスペンスフルに進んでいく。
ここらへんのジャンルミックスの方法論はもはやお手の物といった印象で、作家の成長を感じさせる。作者自身が凝っていると思しいコーヒー(ぼくも作者から何杯かごちそうになったが、たしかに美味しかった)に関するうんちくはともかく、この異形の構成をギリギリのラインで成立させた手際は称えられていい。いやまあ、一見本編と何の関係もないように見えるコーヒー談義がほんとうに何の関係もないあたりはどうかと思うのですが。お前は司馬遼太郎か。
ごほん(咳払い)。まあそれはともかく、本作を傑出したものにしているのは、この秀抜な構成に加え練りこまれた世界設定である。一度でもプレイしたことがある者ならだれもが知っているように、『艦これ』本編はごくごくシンプルな作りになっており、作中で提示される情報はそれほど多くはない。したがって、『艦これ』を素材にして物語を生み出そうと望む者は、自分で世界と物語を形作るしかない。逆にいえば、そこが作者の腕の見せどころだ。
本作の場合、作者が作り上げた「世界」はまずオーソドックスなものといっていい。この世の彼方にあるどこかで、無数の「艦娘」と「深海棲艦」が人類の命運をかけ死闘を繰り広げるファンタジックな世界。そこで文明崩壊に瀕した人類社会を背負って必死に戦っているのが艦娘を率いる「提督」というわけだ。ここらへんはゲームの設定を小説的に再現したものなのだが、まさにそのために中盤以降、SF的なセンス・オブ・ワンダーを感じさせる事実がいくつもあきらかになり、そして哲学的思索が始まる。人間とは何か。兵器とは何なのか。ひとを傷つけ、害する兵器が人々を惹きつけ、その心を奪うのはなぜなのか。そんな、たとえば相田裕『GUNSLINGER GIRL』や永野護『ファイブスター物語』の「ファティマ」へとつながっていくような問い。
しかし、何といっても本作と直接につながってくるのは、作中で楽屋落ち的に触れられている『新世紀エヴァンゲリオン』だろう。アイデンティティを喪失したクローン生命体の少女、綾波レイが呟く「わたしが死んでも代わりがいるもの」というあの言葉の向こうにこの作品の世界は存在する。
読者は思うに違いない。艦娘とは何だ。いったい彼女たちは何のために生きて戦っているのだ。その重すぎる問いかけに対し、本作の主人公である提督は毅然と答える。彼女たちは人間だ。それ以外の何ものでもない、と。しかし、かれのその悲愴なヒューマニズムはほんとうに正しいのか。艦娘はあくまで人間だといいながら、同じ口で彼女たちを死地へ送り込むその態度はどうしようもなく欺瞞に満ちている。ここにはあきらかに物語のメタレベルで『艦これ』のプレイヤーに突きつけられる糾弾がある。これは、『艦これ』を深く愛しながら、『艦これ』に対して無邪気であることを許さない作品なのだ。
あるいはあなたは、ただのゲームじゃないか、というかもしれない。しかし、その楽しいゲームの世界がひとつの現実として現れた時、何と凄惨な物語が展開するのだろう。艦娘たちを愛しながら、同時に彼女たちをいかに効率よく「消費」するかを考える「提督」には、リーダーなる者の絶望的矛盾が体現されている。本作は決してそこから目を逸らさない。その上で、血にまみれ、泥に汚れたひとりの男の決断を描いていくのである。
リーダーであるということは、ある意味で人間の限界を超えた仕事だろう。だれを犠牲にし、だれを生かすか。何を守るため、何を殺すのか。そんな、倫理的に許されるはずもない傲慢そのものの判断を下すことを要求されるのがリーダーの常であるとすれば、提督とは、リーダーとはまさにひとでなしの仕事である。そんなかれに、それでもなお艦娘たちが従うのだとすれば、それはなぜなのか。本作は強く訴えかけてくる。
ばかみたいにあかるい笑顔で優しく抱きついてくるあの娘に代わりなんていない。ひとつひとつすべてが限りなくかけがえのない命。それを承知した上で、なお、「最善の選択」を下すこと、そして時にはその「最善」をも超えて判断していくことがリーダーの役目なのである。不可能な仕事。不可能な役割。しかし、たとえ何が正しく、何が誤っているのかわからないとしても、ひとはその限界の範囲内で選択し決断しなければならない。
その先に待つものは祝福されざる栄光。それでも逃避は赦されない。ひとり逃げることは戦場に残る者たちを見捨てることにほかならないのだ。だから――戦え! 前門には猛虎の如き敵影、後門には餓狼のような味方。それでもなお、知謀の限りを尽くして戦術を練り、九死に一生の奇跡に賭けろ。本作はそのように訴えるのだ。
素晴らしい。まったく素晴らしい。橋本しのぶ、会心の一作である。願わくは、ここからさらなる続編が書かれることを祈りつつ、筆を置くこととしたい。――うん、それはともかく、ネタバレで話をしたいからやっぱり作者を叩き起こすことにしよう。現在、早朝の6時だが、かまわない。いますぐ話したくてたまらないことが、まだまだたくさんあるんだから。 -
感情的であることが人間らしさの証だとは思わない。
2014-12-15 07:0051pt今回の総選挙へのネットの反応を見ていて思ったのだが、たぶん、世の中には「冷静になり感情を切り離してものごとを考えること」は「悪」である、という思想があるのだろうね。
つまり、「目の前でこんなひどいことが起きているのに冷静になっている場合か!」という意見だ。
何か「ひどいこと」が起こった時、感情的な態度を選択しない人間は「冷たく」、また「非人間的」に見えるということなのだろうと思う。
「ひどいこと」が起こったら、あるいは起こりそうだったら、目一杯嘆かなくてはならない。感情的にならなくてはならない。そうしようとしない人間は人間的ではない、そういう理屈だろうか。
あるいは、原発問題でもヘイトスピーチでも何でもいいのだが、何か「ひどい現実」がある時、それを純粋に理論的に考えようとすることは、問題を真剣に捉えていないように思われるのかもしれない。
つまり、そういう時、いっしょになって「何てひどいんだ!」と怒らない人間は非情であるとみなされるのだ。
しかし、「冷静になれ」と「冷静になっている場合か!」というふたつの選択肢があるとき、いつも前者を選べるようでありたいものだと個人的には思う。冷静さを失っても良いことなどひとつもないと考えるからだ。
ある危機感を抱いてあせっている人にとって、同じようにあせっていない人は愚鈍に見えるのだろう。しかし、その人は愚鈍なのではなく、ただあせっても仕方ないことを知っているだけなのかもしれない。
この「冷静になっている場合か!」論法はいくらでも応用が効く。「大震災が起こったのに冷静になっている場合か!」とか「原発が爆発したのに冷静になっている場合か!」とか。
だが、じっさいにはそういうトラブルの時にこそ冷静になって考えなければならないのではないか。
この場合の「冷静さ」とは「自分もまた感情でものをいっている一面もあることを認める」ことも含まれる。逆説的だが、「自分だけが冷静で他の人はみな感情的」という見方はちっとも冷静でない可能性が高い。
「自分も他人もなかなか冷静ではいられない」という事実を見据えた上で、「だからこそ冷静になれるよう努力しよう」と訴えかけることが冷静な態度だと思う。
いつだって、冷静になって考えることには意味がある。どんなにひどいことが起こったとしても、だから冷静さを失ってもいいということにはならない。
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自己更新する天才――あだち充はあだち充を乗り越えてゆく。
2014-12-14 07:0051pt
あだち充の最新短篇集『SHORT GAME ~あだち充が短編で紡ぐ高校野球~』を読みました。
あだちさんにはすでに『ショート・プログラム』シリーズという短篇集があるわけなんですけれど、これはそれとはべつに「高校野球」をテーマにした短編ばかりを集めたショーケース。
古いものは何十年前の作品だったりして、ある意味、資料的価値もある一冊となっています。
それにしても、あだち充という人は凄いですねえ。『少年サンデー』の顔として、少年漫画の最前線に立ちつづけること数十年、累計発行部数は2億冊をかるく超えているはずで、日本が生んだモンスター漫画家のひとりといえるでしょう。
一時代を画す天才はほかにもいるけれど、30年にもわたって第一線でヒット作を出しつづけている作家は稀有。というか、漫画の歴史上、この人しかいないはず。
まあ、あえていうなら高橋留美子がいるんだけれど、高橋さんの作品はやっぱり全盛期のものに及ばない印象が強いのに対し、あだち充はいまなお想像力をアップデートさせている感があります。
あだち充といえば、『ナイン』、『タッチ』、『H2』、『クロスゲーム』、そしていま連載中の『MIX』と、主に高校野球を扱って来た作家であるわけなんですが、同じスポーツを扱っていても内容は一様ではない。
特に目をみはるのがキャラクターデザイン。女の子の容姿やファッションが、その時代、時代でどんどん洗練されていっているんですよね。
『タッチ』の朝倉南も、それはまあ可愛いわけなのですが、やっぱりいまの視点で見ると髪型とか野暮ったいわけです。しかし、最新短編「オーバーフェンス」のヒロインは、これがもう見事なまでに現代的で可愛い。
もう初老に入っているはずの作家が、自分自身を乗り越え、イマジネーションをアップデートしつづけるという事実に、ぼくは感動的なものを感じます。
自己更新する天才――永野護がいう「超一流(プリマ・グラッセ)」ですね。
たくさんいる漫画家のなかには、その全盛期、「黄金時代」においてヒット作を物し、あとはその作品を縮小再生産しているだけの作家もいます。
一見するとあだち充も、同じ高校野球ものをひたすら描きつづけている作家と見えないこともないかもしれません。しかし、違う。あだち充はその時、その時でまったく新しい作品を描いている。ぼくにはそのように思えます。
それが、それこそがほんとうの意味での天才作家の証。
たしかにあだち充の最高傑作といえば、多くの人が『タッチ』を挙げるでしょう。かれはその後、『タッチ』を乗り越えるような作品を描きえていないといういい方もできなくはない。
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「いい人」は議論に向かない。
2014-12-13 07:0051ptインターネットでは、きょうもあらゆるところであらゆることに関する対話が行われています。
だれかが何かを発言すれば、それに対する批判や反論が集まり、たちまち激論が巻き起こる。そういう光景をきっとあなたも何度も見ていることでしょう。
しかし、哀しいかな、ネットにおける「議論」はしばしば不毛です。しばしばというか、ほとんど99%が不毛なのではないかと思うくらい。
冷静かつ合理的かつ建設的なやり取りの末、ひとりの考えでは至れないところまで話がたどり着く、そんな高度な「議論」はまず目にしたことがありません。
いや、どこかにはそういう「議論」もあるのでしょうが、残念ながらめったに見かけないようです。じっさいには数多くの「議論」はその反対で、揶揄や罵倒や決め付けや勝利宣言といったものに満ちています。
それは本質的には「議」でも「論」でもなく、単なる優越感ゲームの表れに過ぎないのかもしれません。
双方が相手を軽蔑しあったまま、次元の低い嫌味をぶつけあうばかりで、一向に話が進展しない。そういう「議論」なら、いくらでも目にすることができます。
うーん、うんざりしますね。何とかしてそれ以上のレベルに「議論」を高めることはできないのでしょうか?
これほど多くの人が参加することになったインターネットで、建設的な議論が展開しないということは実に残念なことです。もし、それが成り立つようならいまよりずっと多くのことが進展していくことでしょうに。
そこで、どうすれば正しく「議論」が成り立つのかを考えてみました。ぼくが考える「議論」のポイントはふたつ。
1)自分の発言に責任を持つ者同士で行うこと。
2)自分の発言に責任を持たない者を関与させないこと。
この両方を並立させることが最低限、必要だろうと思うんですよ。
つまり、自分の発言に責任を持てる者同士で対話を行い、なおかつ関係ない者は絶対に関係させないこと、これができないとまず「議論」は成立しないだろうと思うのです。
たいていの「議論」はまったく関係ない人間が興味本位で「参戦」して来た時点で崩壊します。そこまでどんなにうまく行っていたとしても、その瞬間、成立しなくなるのです。
というのも、その手の人物はまず確実に「議論」をする気がないからです。ようするにかれはいいたいことをいいたいだけで、相手の話を聞くつもりがないのです。
あるいは初めから「議論」をかき乱すことが目的なのかもしれません。
いずれにしろ、この手の第三者の参加を許してしまうと、当初の「議論」の目的は見失われてしまい、「議論」は単なる揶揄や罵倒のくり返しへと堕落していきます。ぼくはその手のやり取りを腐るほど見て来ました。
つまり、無関係な第三者が算入してくる可能性がある「場」では「議論」はそもそも成立しない、ということです。
たとえばオープンな掲示板ではダメです。仮に対話しあうふたりがとても聡明かつ理性的であったとしても、聡明でも理性的でもない人々がわらわらと集まってきてそれぞれに勝手なことをいい、議論を突き崩してしまうに違いないのです。
こういうコメント欄付きのブログでこんなことをいうのもどうかと思いますが、ぼくはコメント欄というシステムも基本的に良くないものだと思っています。
ある意見に対してあたかも評論家か何かのように自分の意見を述べるというシステムは、どうしてもひとの責任感を削ぎます。どうもコメント欄に書き込む時、ひとは自分は天上界にいて下界の騒動を見つめているような気分になるものらしい。
このブログのようにコメント欄に書き込める人間が制限されていればまだしも、アクセス数の多いブログの「だれでも書き込めるコメント欄」はほぼ確実に腐敗するものだと思っています。
それでは、TwitterとかFacebookなど、ソーシャルメディアでの「議論」はどうか? これも結局は同じことで、直接関係ない人たちがかかわってきてシッチャカメッチャカになってしまう運命です。
ようはオープンな「場」でオープンに対話している限り、必ずその「議論」は崩壊するのです。
仮に対話しているそのふたりがどこまでも理知的だったとしても、周りにはそうではない人がたくさんいて、面白半分で介入して来るわけですから。
それなら、どうすればいいのかといえば、クローズドな「場」で「議論」するよりほかありません。
しかし、完全に未公開だと、社会的な意味はありませんし、何より健全なやり取りが保証されません。ひと目がないことを良いことに罵詈雑言を投げつけたりされても対処できないわけです。
ですから、クローズドでありながら発言そのものはだれでも読むことができるといった「場」でやり取りすることが大切だろうと思います。
メールで話し合って、あとでそれを公開するといったことでもいいかもしれません。あるいは、特定の人間しか書き込みすることができない掲示板などを用意するとか。
そしてまた、それ以上に大切なことは、
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『3月のライオン』で考える。人間関係の豊かさを決めるものは何か。
2014-12-12 07:0051pt
「「3月のライオン meets BUMP OF CHICKEN」MUSIC VIDEO」。
https://www.youtube.com/watch?v=CiCWbfjf8Tw
うむ、かなり出来がいいですねー。どこが作ったんだろう? 気になる気になる。
というわけで、きょうは『3月のライオン』の話。羽海野チカさんの『3月のライオン』は、将棋漫画でもありますが、むしろ棋士を務めるひとりの少年の成長物語といったほうが正しいでしょう。
そこでは、勝負にすべてを賭ける棋士といえども、あたりまえの日常生活も送っている、というごく当然のことが自然に描かれています。
主人公の桐山零は時に苦しみ、時に悩みながらも、一歩一歩着実に成長して行きます。そして、初め、将棋の天才以外は何ひとつ持っていないようにすら見えたかれのまわりにはあたたかい心を持つ人々が集まってくるのです。
そしてその一方で、物語の各所では、自ら望んで自堕落な生活に堕ち、自分の可能性をつぶしていく人々の姿も、あたかも零の影のように描かれています。
この描写を読んで、ぼくは怖いなあと思ったのですよね。これはつまり「自由」というものの本質的な怖さだな、と。
現代社会において、ひとはかつてない自由を享受しています。どんなふうに生きることも自分の自由。自分で選択して決めていくことができる。
しかし、それはどんな生き方をすることも自分の責任だということを意味しています。愚かな選択をしてもだれも止めてくれない。叱ってもくれない。それがこの社会で生きるということであり、堕ち始めたらどこまででも堕ちていくことができるわけなのです。
そのなかで自ら努力し、自分を高め、より良い自分になっていこうとすることはなんとむずかしいことなのでしょうか。
「自由」は恐ろしい。どんな自分になっていくことも自由であるということは、ほとんどの人にとって、ただ堕ちていくことの自由を意味しているだけなのではないでしょうか?
――というようなことを、いつだったかLINEで超暗黒生命体てれびんに話したのですが、そうしたらあっさりと「でも、零くんは自由だけれど、いろんな人に叱ってもらっていますよね?」といわれて、あれれ、と思いました。
そ、そうっすね。たしかにその通り。うーん、何かぼくの理屈は間違えていたかしら?
『3月のライオン』の物語中、零くんはひとりで暮らし、孤独なほどの自由を享受していますが、しかしその一方で、いろいろな人たちがお節介なまでにかれに関係して来ます。
零の「心友」を自認する二階堂は、「もっと自分の将棋を大切にしろ」といい、かれの担任教師はひとりで弁当を食べるかれを心配します。
そうなのです。零は自由ではありますが、ほんとうの意味では孤独ではないのです。かれのまわりにはかれが道を逸れそうになったら叱りつけてでも正そうとしてくれる人々が無数にいる。
その結果、零自身とあつれきが生じるとしてもかまわずに、かれのことを第一に考えてくれる心優しい人々です。
うーん、何なんですかね、これ。どうして零くんのまわりにはこんなに優しい人たちが集まってきて、かれに関わろうとするのでしょうか?
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歴史ロマンの傑作! 『春風のスネグラチカ』を読もう。
2014-12-11 07:0051pt
沙村広明『春風のスネグラチカ』読了。革命後十数年のソ連を舞台にした歴史ロマン。傑作。傑作なんだけれど――うーん。個人的にもうひとつ物足りない。
どういう理由なのか両足をなくし、自ら移動することができない不可思議な車椅子に乗って暮らしている少女と、彼女に従者として仕えるひとりの青年の物語。
なぜ、彼女は両足を失ったのか? 青年が抱える病とは何なのか? そしてふたりがスターリン体制下の冬の国で懸命に探しつづけるものとは何なのか?
すべてのピースは最後には美しくそろい、ひとつの「絵」を導き出す。春風のスネグラチカ。ほんとうによく考え抜かれた物語だ。
何十巻と続いてしかも未完に終わるような作品が少なくないこのご時世に、全一巻で綺麗に物語を閉じている点も評価が高い。
それはそうなのだが、あまりに知的すぎ、端正すぎる物語に、もうひとつ感動し切れないものが残ったことも事実ではある。
こう書くといかにも大した作品ではないようだけれど、いや、ほんと、素晴らしい出来ではあるんですよ。ただ、何か、こう――どうにもうまくいえないのだけれど、綺麗すぎる、といえばいいのだろうか。各登場人物の「実感」が伝わって来ない気がした。
目をえぐり取られるとか、両足を切り落とされるとか、いまとなってはごく見なれた猟奇残酷描写ではあるのだが、その当事者にとっては途方もなく重大なことであるはずだ。
その「重さ」が、もうひとつこう実感として伝わって来ない憾みがある、といえばいいのだろうか。
主人公の少女が監視役の男性に強姦されるところとか、エロくて良いんですけれど、うら若い少女がオッサンに犯されるその苦しさ、おぞましさ、凄惨さがこう、いまひとつ切実に伝わって来ないかな、と。
伝わって来たら来たで読んでいて苦しいものになるはずなのだが、それでもここはきちんとそう描写されてしかるべきではないのか。
もちろん、彼女はそれ以上の地獄を見て来ているということでもあるんだろうし、この時代、その程度のことはめずらしくもないということでもあるんだろうけれども、それにしても。
あまりにもインテリジェントでありすぎる。あえてこの傑作の難点を挙げるとしたら、そういうことになるだろう。
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ストーカーの気持ちはよくわかる。
2014-12-11 07:0051pt
「NNNドキュメント 迷路の出口を探して ストーカーの心の奥底を覗く」という番組を見た。これがねえ、非常に怖かったのですよ。
昨年初めて認知件数が2万件を超えたというストーカーについての番組なのだが、次々とあきらかにされるストーカーたちの実態は、それはもう、恐ろしいというかおぞましいというか。
否――それ以前に大きいのは、ひとはここまで思い込みの世界に生きることができるのかという、その驚きだった。
ストーカーたちは、決して報われない恋愛の世界に生きているわけだから、思い込みが強い性格なのだろう、くらいのことはぼくでも想像がつく。しかし、ここまでとは――。
気になる人はGoogleで録画検索すると動画が出て来るので、見てみてほしい。ちょっとしたホラーを味わえますよ。
このドキュメンタリーに登場するあるストーカー加害者男性は、このように語る。「昔風の考え方をしていた」、「男は押しの一手だとかそういう時代に育った人間」、「もう彼女はわたしを「許してあげたい」と思っている」、「プロポーズをさせていただいて、できることなら彼女と結婚をして、幸せな家庭を築きたい」――妄想としかいいようがない言葉を続けるのだ。
語り口そのものはいたって冷静で正気に見えるだけに、その内容の違和感は強烈だ。
また、あるストーカー女性は「その痴話喧嘩で彼氏に画面いっぱい「殺す殺す殺す」という字をだーっと入れたメールを送る子なんて普通にいるんですよね」といい、「彼を使える立場になりたい」、「どん底に落としたいんですよ、叩きのめしたいんですよ」と語る。
そして、「それはストーカー加害者じゃないですか」と問いただされると、「意味がわからない」と答えるのである。まったく辻褄が合わない話を、延々とくり返す彼女を見ていると、ほんとうに空恐ろしくなってくる。狂気とは、こういうものか。
番組によると、彼ら、彼女たちは「ストーカー病」なのだという。依存症などと同じく、脳がその状態で固定されてしまっているので、もう本人の意志ではどうしようもないらしいのである。
たとえ本人が自分の行為をストーカーであると自覚しているとしても、だ。
ネットでひとと対話していると、あきらかにこの人はおかしい、という人物と出逢うことがある。主張が理解できないというか、ロジックがまったく通っていないように思えるのだ。
そういう時は「ああ、そういう人なんだな」と思うわけなのだが、じっさいにそういう人は何かしらの狂気を抱えているのかもしれない。
「正気」と「狂気」の境目は限りなくあいまいだ。だれもが自分を正気だと思っているが、さて、ほんとうに正気の人間など、どれくらいいるものなのだろう。
ストーカーの妄執と「恋の病」を明確に線引きできるものだろうか。実に考えさせられる恐怖と驚異の番組だった。
しかし、ぼくはこうも思う。それでもなお、ストーカーの妄執とあたりまえの恋は違うものだと。それはべつに、その恋愛感情が成立するかしないかの差ではない。
そうではなく、「自分にとって不都合な現実」を受け容れられるかどうかという差なのである。現実と向き合うということは、ひとにとってとても辛いことである。
なぜなら、現実はひとの思い通りにならないからだ。どんなに愛したところで、愛されることはない。どんなに奉仕したところで、相手の心を得ることはできない。そういうことはよくある。
それに対して「おかしいではないか」と思うことは、ある意味でまっとうなことだと思う。だから、ストーカーたちの語る言葉は、しばしば「論理的」である。
つまり、こんなに深く愛したのだから、自分も愛されるべきだ、といったロジックがそこでは使われている。しかし、その論理は現実世界では通用しない。なぜなら、現実世界とは、ある意味で不条理な世界だからだ。
そのどうしようもない不条理を受け入れることができて、初めてひとは現実世界を生きることができる。とはいえ、それは何と辛い作業なのだろう。その、ある意味では「正当な」怒りを手放さなければならないのだから。
番組を観終わってからもストーカーに対する興味は消えず、AmazonのKindleストアで『「ストーカー」は何を考えているか』という本を買って、読んだ(夜中でも一瞬で手もとに本がやって来る電子書籍はほんとうにありがたい)。
そこでは、まさにタイトル通りに数々のストーカーたちの心理が描写されていた。ある男性は、付き合っている女性に「あなたの長所は気前がいいところなの。お金を貸してくれないなら、いいとこなくなるね」などといわれて、数百万円も貸したあげく、彼女からストーカーとして警察に突き出された。
かれはあふれだす怒りを制御できず、ストーカー的行動を続けた。これは社会的には許されない行為ではあるだろう。しかし、ぼくはあえていうが、その怒りは理解できる、と思うのだ。
いや、それは腹も立つだろう。ストーカーの行動を認めることはできないが、しかし、その「怒り」そのものは十分に理解できる。
それはある意味でこの世の不条理に対する「正義の怒り」だからだ。無理をして何百万円もお金を貸したのにある日、「はい、さよなら」といわれたのではたまったものではない、と思う人は少なくないだろう。 ストーカー行為は紛れもない犯罪であり、倫理的にも道徳的にも「悪」である。しかし、それはそれとして「その気持ちはわかる」という側面が、ぼくにはある。
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『エヴァ』、『Fate』、『進撃の巨人』――その先の「次のゲーム」とは?
2014-12-10 07:0051pt
先日放送したラジオをLDさんがYouTubeにアップロードしてくれました。
https://www.youtube.com/watch?v=Sb1djTbIymM
このラジオのなかでバトルロイヤル系の話が出ていますが、これがなかなか面白かったので、きょうはその話をしましょう。
バトルロイヤル系とは何か? それは1999年の『バトル・ロワイアル』をとりあえずの嚆矢とする物語の形式で、複数人のプレイヤーが命をかけて戦いあう形式の物語を指しています。
LDさんによると、バトルロイヤル系はセカイ系の亜種でもあり、セカイ系と同じく『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を大きく受けて発生したものであるということになります。
つまり、『エヴァ』で碇シンジが「ロボットに乗らない」という選択をしたところからすべてが始まっているのだと。
自ら行動して物語をひっぱる動機を喪失した碇シンジをいかにして物語に参加させるか、という問いに対して、「戦わなければ死んでしまう」という状況を設定したのがバトルロイヤル系ということになるわけです。
このバトルロイヤル系は、もちろんさかのぼれば山田風太郎までさかのぼれるわけですが、しかし、現代のバトルロイヤル系は山風とはあきらかに違う文脈から生まれているといえるでしょう。
LDさんの話で面白かったのは、純粋な意味でのバトルロイヤル系が広まるまでにはそれに対する「抵抗」が存在するということです。
たとえば、『仮面ライダー龍騎』。たとえば、現在、テレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』として放送されている『Fate/stay night』。
これらの作品においては、主人公は「バトルロイヤルを止めようとする者」として行動します。つまり、ここには「主人公が嬉々として殺し合いに参加することは倫理的に問題がある」という意識がまだ存在しているのではないか、というわけです。
ところが、後年の『Fate/Zero』においては、もはやバトルロイヤルを制限する倫理的な制約は存在しません。各登場人物は、テロリストであろうと殺人鬼であろうと、思うがままに行動します。
その結果、いかにすさまじい光景が現出したことか、それは皆さん、ご存知のことと思いますが、とにかく純粋な意味でのバトルロイヤル系は徐々にひろまっていったということになる。
もちろん、2003年の段階で『DEATH NOTE』のような作品もある。しかし、『DEATH NOTE』においては、やはり夜神月は「悪」として処断されることになってしまったわけですよね。
わかってもらえるでしょうか? 革命は一日にしてならず、ということなのですね。クリエイターやコンシューマーの意識は少しずつ移り変わっていくのであって、急に一変するわけではないということ。
バトルロイヤル系も、たとえば『東のエデン』に至る頃にはずいぶんと変質して、セカイ系とはかけ離れたものになっていますが、そういう変化も徐々に進んでいくものなのです。
その意味では、『Fate』や『DEATH NOTE』もひとつの「過程」であって、その「結果」としての現在をぼくたちは生きているということになる。
そしてまた、その「現在」ですらもひとつの「過程」であるに過ぎず、また未来に向かって変わりつづけているわけです。
それでは、「現在」を代表する作品とは何か? 衆目の一致するところ、それは『進撃の巨人』でしょう。『進撃の巨人』のイマジネーションは、紛れもなくセカイ系的バトルロイヤルの先へ行っています。
LDさんたちは『進撃の巨人』に見られる物語形式を「新世界系」と名づけました。『ONE PIECE』や『HUNTERXHUNTER』などの作品に登場する「新世界」という概念から採ったジャンル名です。「新世界系」については、以下の記事を参照してください。
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar563640
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar644469
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「不倫=悪」という迷信。なぜひとは一対一の恋愛関係に縛られたがるのか?
2014-12-09 04:1951pt
「不倫肯定論」、「続・不倫肯定論」と題した記事が話題を呼んでいる。
http://ibaya.hatenablog.com/entry/2014/12/06/091256
http://ibaya.hatenablog.com/entry/2014/12/08/124843
「所有は人間の自由を剥奪する」というタイトルの一節からもわかる通り、ひとりで複数人と恋愛関係をもつことについて考察した記事だ。
今までの価値観では、『結婚してひとりの人間と添い遂げること』が唯一にして最大の幸福とされてきた。しかし、現実には三組に一組は離婚していて(これは近い将来「二組に一組」になるとも言われている)、婚活ブームの裏には結婚したくてもできない人たちが大量にいて、結婚していたとしても夫婦仲が険悪になっていたり、実際に浮気や不倫をしている人たちも大量にいる。
これはもう、現代の恋愛や結婚というシステムが良い感じに限界を迎えているのではないのかと思うことが多い。では、次は何が来るのか。そこで、最近の私が何となく感じているのが「不倫肯定論」であり、冒頭のカップルが結んだ契約(?)のように、(新しいスタイルが台頭する過程において)ひとりが複数人と付き合うようなスタイルが増えてくるのではないのかと睨んでいます。
結論からいうと、いわゆる「不倫」はそれ自体は悪いことでも何でもないので、やりたい人はどんどんやればいいと思う。
不倫したら民法で責任を取らされるとかいう人もいるようだが、それは相手が訴えた場合でしょう。互いの了解のもとに「不倫」を行うなら何も問題はない。
まず、「互いに自分以外の人と恋愛しない」という「約束」があって、一方がそれを破るから問題になるわけだ。初めからそんな約束をしなければ何ら問題はないことになる。
とはいえ、そんな関係が可能だろうか? 机上の空論に過ぎないのでは? そうも思う。
人間は一般に、いま恋愛関係にある他者に対して「独占欲」を抱くものだとされている。そして、その他者がほかの人間と恋愛関係に陥ると「嫉妬」を感じるものだと。
これはほとんど常識とされていることだ。だからこそ、結婚制度という一夫一婦制が導入され、機能しているわけだ。少なくとも、恋愛とは一対一で行うものだというのが近代的なコモンセンスだろう。
しかし、ほんとうにそうだろうか? そもそもなぜ恋愛すると「独占欲」を感じるのか、ぼくにはよくわからないんだよね。それはそういうものなのだ、といわれるかもしれないが、何の根拠があるのやらわからない。
ひとはなぜ「独占欲」を抱くのか? あるいはなぜ他者の愛に対して「嫉妬」するのか?
冷静に考えてみれば、どんなに深く愛するパートナーも、自分の所有物ではないのである。かれ/彼女の行動は本来自由であるはずなのだ。いったいなぜ、何のために相手の行動を束縛しなければならないのか?
自明のようでいて、よくよく考えてみるとよくわからないということが世の中には往々にしてあるが、これもそのひとつのようだ。
「なぜ近親者とセックスしてはいけないのか?」と同様、「そういうふうになっている」としか答えようがない問題であるのかもしれない。
しかし、盲目的に常識を信じこんで疑わない人以外は、「そういうふうになっている」では納得できないだろう。
現に、複数人同士の恋愛関係を示す「ポリアモリー」という言葉がある。デボラ・アナポールの『ポリアモリー 恋愛革命』のAmazonコメントによると、
ひとがひとを愛するのは、ごく自然な欲求だ。恋人がいようが、結婚していようが、魅力的な相手が現れれば思わず惹かれるのが「愛の引力」というもの。
従来の関係では、そんな気持ちをムリヤリ押し込めるか、あるいはこそこそと隠れてつきあうかしか選択肢はなかった。こんなやり方は、自分の気持ちを裏切り、パートナーの信頼も裏切っている。1対1の関係は、表向きは誠実そうに見えて、その実、不誠実、不健全な裏面をつねに併せ持っているのだ。
一方、ポリアモリーは、自分に正直で、パートナーにも誠実、健康的なつながりである。1対1の関係のように、相手を束縛、支配、所有することもない。おたがいの自由、成長、愛のエネルギーの開放をめざしている。 このように、ポリアモリーは、なによりも誠実で信頼ある愛情関係であり、フリーセックスやスワッピングなどとはまったく異なる。
ポリアモリーは、一夫一婦制をまったく否定するわけではなく、家族を拒むものでもない。むしろ、家計や住居をともにする強い絆と、そうではない弱い絆をともに含めて、親密な交流ネットワークを形成し、ゆるやかな疑似ファミリーをつくりだす「拡張された家族主義」。一夫一婦なら離婚が避けられない事態でも、ポリアモリーならその危機を回避できる可能性が高まる。
ということである。しかし、現実にぼくたちの社会では一夫一婦制(モノガミー)が圧倒的優勢を誇っているわけだ。モノガミーの問題点はあきらかであるにもかかわらず、ポリアモリーはなぜ発達しないのか?
じっさいなぜなのか、ぼくにはまるでわからない。ひとは愛する人がほかのひとと愛し合っていたら自然と傷つき妬むものだ、というのが答えなのかもしれないが、当然、そんな答えでは納得できない。
それはしょせん文化的に組み立てられた常識なのではないか? 相手に対して所有欲(あるいは所有幻想)を抱かないような愛のスタイルもありえるのでは? なぜそれが発展しないのか? 不思議ですねえ。
たぶん、恋愛感情や嫉妬心を実感できる人にとっては不思議でもなんでもない、あたりまえのことなのかもしれないが、ぼくは「そちら側」ではないので、どうにもピンと来ないわけである。
子供を育てていくためには、愛情がある家庭が必要なのだ、という人もいる。しかし、現在の家庭にも問題があることは間違いないではないか? 父ひとり、母ひとりという家庭が育児に最適だなどと、いったいだれが決めた?
ポリアモリーな関係から成る「オルタナティヴな家庭」で子育てをしてみたら、案外、うまくいくかもしれないという発想は空想的だろうか?
だれかと恋人をシェアするなんて、ゾッとするという人もいるだろう。しかし、考えてもみてほしい。シェアも何も、その人はもともとあなたのものではないのだ。
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