-
一億分の一であるという素晴らしさ。
2015-10-12 05:5251pt
ペトロニウスさんの最新記事を読みました。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151011/p2
ほとんど改行がなくてめちゃくちゃ読みづらいのですが、非常に面白い内容です。
そして、きわめつけにタイムリー。
これは必然的な偶然だと思うのだけれど、「リア充オタク」を巡る話題とストレートに繋がっています。
この記事、「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?」というタイトルなのですが、まさにこの「主人公になれないぼく」を巡る問題こそ、ここ最近、一部の少年漫画やライトノベルが延々と語ってきたテーマだと思います。
つまり、高度経済成長が終わり、「努力・友情・勝利」がストレートに成立しなくなった現代において、物語の主人公になる(努力して勝利する)ことができなくなった「ぼく」はどのように生きていけばいいか?という話ですね。
これは非常に現代的なテーマだといっていいでしょう。この答えを模索し、そしてついにはひとつの答えにたどり着いた、いま、ぼくたちはそういう物語をいくつか挙げることができます。
くわしくは「物語三昧」のほうを読んでほしいのですが、この記事を読むと、「リア充オタク」という概念の古さがはっきりとわかります。
「リア充」という概念はもう克服されたものであるわけです。
ぼくたちは――というかぼくは、もう「リア充」と「非リア」、「モテ」と「非モテ」、「勝ち組」と「負け組」、「主役」と「脇役」といった対立概念を持ち出し、前者でなければ幸せではありえないのだと考える価値観を乗り越えている。
そして、それと同じことは『僕は友達が少ない』から『妹さえいればいい。』に至るライトノベルの流れのなかではっきり示されています。
『僕は友達が少ない』は、「リア充」を敵視する「残念」な人たちの話でした。
この物語のなかで、主人公は最後までだれかひとりと結ばれることなく(リア充になることなく)終わります。
最初から最後までかれは「残念」であるわけです。
これは、あたりまえのライトノベルを期待した読者としてはまったく気持ちよくない展開であるわけで、当然のごとくこの結末は悪評芬々となりました。
しかし、テーマを見ていくとこの結末で正しいのです。
というのも、仮にかれがだれかとくっついていたら(リア充になっていたら)、この物語のテーマである「残念でもいいじゃないか」、「リア充にも成功者にもなれなくても、人生はそのままで楽しいのだ」ということが貫けなくなってしまうからです。
だから、『僕は友達が少ない』のエンディングはあれで完全に正しい。
ただ、まったく快楽線に沿っていないので、単に気持ちいいお話を求める大多数の読者には怒られることになるというだけで……。
さて、順番こそ少し前後しているものの、『僕は友達が少ない』の次の作品である『妹さえいればいい。』では、テーマがさらに進んでいます。
この物語にはこういう記述があります。
才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。
誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。
一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。 この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。
ここで作者ははっきりと「リア充」対「非リア」といった二項対立的な価値観を乗り越えているわけです。
そして、この作品のなかで描かれるのは、この「メインテーマ」を前提とした、どこまでも楽しい日常です。
べつだん、『僕は友達が少ない』とやっていることは変わらないのですが、ペトロニウスさんが書いている通り、『僕は友達が少ない』よりさらに楽しい印象を受ける。
それはなんといっても、登場人物たちがみな自立した社会人であり、精神的にバランスが取れた人物だからです。
かれらの日常はとても充実しているといっていいでしょう。
ぼくは以前、それを「リア充にたどり着いた」といういい方をして表したのですが、いまとなってはこの表現は正確さを欠いていたということがはっきりわかります。
むしろ、「「リア充」を乗り越えた」というべきでした。
より的確にいうなら、「リア充」とか「非リア」という二項対立的な概念を持ち出し、その一方でなければ幸せにはなれないのだという価値観を乗り越えたというべきでしょう。
そう、『妹さいればいい。』の連中ははっきりと『僕は友達が少ない』のテーマの延長線上を生きています。
かれらもまた、ある意味ではコミュ障であったり、妹キチガイであったり、メイド好きであったりと、実に「残念」な連中です。
それなりにオシャレだったりアクティヴだったりする面はあるにしても、べつに何もかもが秀でたリア充というわけではない。
しかし、かれらはそのことにもはや一切の負い目を感じていません。
もちろん、 -
なぜオタクが小ぎれいになった(ように思える)のか?
2015-10-11 19:1651pt前の記事に付いたコメントにレスを返します。
リア充オタクもマイルドヤンキーも勝手に定義を作り広めて儲けようとする連中の仕業によるものだよね。マイルドヤンキーの定義に当てはまるのなんて昔から大量にいたのに最近現れたかのように言われる。あれの定義はヤンキーでもなんでもない都会に憧れも志も持たない低所得者。それを無理矢理広めようとするからネットでは批判が見られた。
「おたく」の反対語としての「リア充」という言葉が生まれたのは、西暦二〇〇〇年を過ぎてからですね。その前の一九九〇年代には、まだ、「リア充」という言葉はありませんでした。
私の記憶している限りでは、一九九〇年代以前の「おたく」の中にも、おしゃれな人はいましたし、普通にリアルの人間と恋愛している人もいました。結婚して子供もできて、普通に家庭生活を営みながら、「おたく」活動を続けている人も、おおぜい知っています。 私の感覚では、「『おたく』である人が、ファッションに興味を持ったり、恋愛したり、結婚したりということとは、縁が薄いに決まっている」という考えのほうが、違和感があります。
「全か無か」のように、何でも二つにすぱっと割り切れるものではないですよね。何だか、無用な線引きをして、対立をあおっているだけの気がします。
この話、いろいろな問題が交錯していてちょっと切り分けをしないといけないと思うのですが、まず、ぼくはいわゆるオタク文化へのカジュアル層の流入は事実としてあると思っています。
ぼくが中高生の頃ははっきりオタクと呼べるのはクラスに2,3人いるかいないかというところでしたし、それもあまりオープンにできる雰囲気ではありませんでした。
そういう意味では10代、20代の大半がニコ動ユーザーという現在とは隔世の感があるのはたしかかと。
で、その影響によってオタクが全体的に小ぎれいになってきているということもたぶん事実だと思います。
問題はそれを端的に「オタクがリア充化した」と見るかどうかということで、おそらく背景にある条件そのものが変わって来ているということも大きいと思うんですよ。
というのも、これは異論があるところかもしれませんが、ここ10年くらいで若者全体のファッションセンスが底上げされる形で向上していると思うんですよね。
街を歩いていると、「めちゃくちゃおしゃれ」みたいな人は少ないとしても、そんなにおかしな格好をしている人も見かけなくなった。
これは『新・オタク経済』のなかでもふれられていることですが、その背景にはユニクロを初めとするファストファッションの質の向上があると思うのです。 -
オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?
2015-10-10 23:5251pt
一昨日のことになるでしょうか、『ZIP』という番組で「リア充オタク」の特集を放送したそうで、Twitterなどの各種SNSでこのワードが話題になっていました。
この番組そのものはもう確認しようがないので(探してみればどこかにアップされているかもしれないけれど)、「リア充オタク」という言葉の元ネタであるらしい原田耀平『新・オタク経済』を読んでみました。
結論から書くと、それほど目新しいことは書かれていません。
だいたいいままで出た情報で説明できるというか、予想通りの内容。
一冊にまとめたことに価値があるかも、って感じ。
ぼくが観測している限り、「ライトオタク」と呼ばれるオタクカルチャーのカジュアル消費層がネットで語られ始めたのは10年くらい前。
その頃は批判的なトーンでの意見が多かったように思います。
オタクは本来、過酷な修行の末にたどり着く崇高な境地であるべきなのに、最近のオタクのぬるさたるや何ごとじゃ、みたいな内容ですね。
『新・オタク経済』にも記されているように、この「ガチオタによるヌルオタ批判」という行為はその後も延々と続き、いまでもまだ続いています。
今回、「リア充オタク」という言葉が出て来たときに巻き起こった「そんなのオタクじゃない!」という意見は、典型的なガチオタによるライトオタクへの反発に思えます。
たしかに、本書で著者が定義している「リア充オタク」の多くは、旧来型の定義ではオタクに含まれない存在かもしれません。
しかし、じっさいにかれらがオタクを名乗り、また周囲からもオタクと認められているという事実はあるものと思われます。
第二世代や第三世代のオタクがいくら「そんなのオタクじゃない!」と叫んでも、実態が変わってしまっているのだからその声は届かない。あまり意味のある批判にはなりえないのですね。
じっさい、オタク文化へのカジュアル層の流入という現象はこの10年間で至るところで目にしていて、岡田斗司夫さんが「オタク・イズ・デッド」とかいい出したのもその関連でしょうし、『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』などという本ではヤンキー文化との接近という形で同じ現象が語られています。
オタクのライトオタク化とヤンキーのマイルドヤンキー化はパラレルな現象なのですね。
だから、まあ、「リア充オタク」と呼ぶべき層の出現は、必然といえば必然なのです。
この傾向の端緒はニコニコ動画の開設であると思われるので、ぼくらニコ動利用者にとっても無関係とは思えません。
もっとも、ぼくのブログを「リア充オタク」が読んでいるとはあまり思われませんが……。
そんなに長いスパンの話ではなく、ここ2、3年だけを取ってみても、オタク文化は相当普及したように思えます。
『ラブライブ!』のソーシャルゲームが国内1000万ユーザーを突破したとか聞くと、隔世の感がありますね。
アクティヴユーザーがどれだけいるかは別に考えるべきだとしても、1000万という数字はコアなファンだけでは獲得できません。
もはや、スマホで『ラブライブ!』をプレイしている若者は「普通」であり、特筆するべき存在ではなくなっているのでしょう。
ボカロ小説が何百万部売れた、とかいう話を聞いても同様の感慨を抱きます。
時代は変わったんだなあ、ということですね。
で、この現象をどのように受け止めるかなのですが、ぼくは基本的には「良いこと」だと思っています。
カジュアル層が広がらなければ文化の発展はないわけで、一部のマニアだけに好まれていた文化が大衆的に広まっていくことは良いことかな、と。
もちろん、そのなかには本書で書かれているような「エセオタク」も混じっていたりするでしょうし、旧来のオタクとしては面白くないことも多いかもしれません。
ですが、いつだって時代はそういうふうにして変わっていくもの、変化を否定しても始まりません。
もうひとつ付け加えておくなら、オタク自己言及ライトノベルの「脱ルサンチマン」の流れもこのオタク文化のカジュアル化とパラレルな関係にあるでしょう。
時代的にはわりと新しいけれど内容的にはちょっと古い印象を受ける『冴えない彼女の育てかた』と、その同時代作品ながら当時としては斬新だった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』、そして最新型の『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』を読み比べてみると、ライトノベルのオタク描写が変わっていっている様子がわかると思います。
ぼくはそれを「脱ルサンチマン」と呼ぶわけですが、「リア充」を敵視し、オタク文化の神聖不可侵を守ろうとする気概が、あきらかになくなって来ている。
同じ平坂読の『僕は友達が少ない』と『妹さえいればいい。』を比べるのがいちばん明瞭でしょうが、オタク文化は既にコンプレックスとかルサンチマンとは無縁のところまで来ているのです。
それはオタク漫画の代表格である『げんしけん』の内容的な変遷を見てもあきらかでしょうし、また、『ヲタクに恋は難しい』みたいな漫画が出て来ることもひとつの必然なのでしょう。
ネット上では「リアリティがない」とか「こんなのオタクじゃない」とこき下ろされたりもしていますが、『ヲタクに恋は難しい』で描かれているような「リア充オタク」は普通に実在するようになっていると考えるべきです。
そこまで状況は変わって来ているのですね。
そういうわけで『新・オタク経済』の基本的な論旨には文句はないのですが、脇の甘いところがいくつかあって、なかでも旧来のオタクに対する描写には苦笑させられるばかり。
結局のところ、「オタクは暗くて非社交的、ファッションはダサくてモテないが自分の好きなことには夢中」というイメージは残存され、それがほんとうにそうなのかの検証は行われないのです。
この本のなかで前世代のオタクの代表的イメージとして語られているのは、映画『電波男』の主人公なのですが、この映画がどれだけ的確に当時のオタクを代表し、あるいは象徴しているか、という検証は一切実施されません。
本書のなかではかつてのオタクが「ダサくてイタい人たち」だったことは既成事実として語られているように思います。
ぼくはべつにそういう傾向がなかったとはいいませんが、当時のオタクが全員が全員そういうふうだったわけではないはずで、ここらへんの偏見をそのまま使用していることには疑問を感じざるを得ません。
まあ、本書のテーマが第四世代以降の新しいオタクたちである以上、そこはどうでもいいのかもしれませんが、どうも偏見を助長するカテゴライズであるように思えてならないんですよね。
これはあらゆるカテゴライズにいえることですが、じっさいには大半の人はそれらのカテゴリにきれいに収まりきるというよりは、グレイゾーンのところにいるわけです。
それを「リア充オタク」はこうだ、「イタオタ」はこうだ、といってしまうと、途端に見えなくなるものがある。
特に腐女子に関する記述は強烈なバイアスの存在を感じさせずにはいられません。本書にはこう記されています。
当然、イタオタは男性ばかりではありません。BL(男性同士の恋愛)モチーフの作品を好み、自らを「腐女子」と自称する女性たちも、多くはイタオタに分類されます。彼女たちは、そもそも自分たちの趣味嗜好を同好の士以外に啓蒙しようという気がないため、非オタクに対する社交性は低い傾向にあります。
そして、腐女子の特徴として、特徴のあるイラストとともにこう列挙されている。
・変わり者が多い
・Twitterではやたらとテンション高い
・男性声優のツイートをリツイート
・イケメンを見ると脳内でカップリングにしてしまう
・ゴスロリ系と思しき服装
・一人称が「ボク」な子もいる
・家ではジャージで過ごしているがコミケなどのお出かけは気合をいれた服装
・普段の外出は母のおさがりの婦人服
・郊外にある大型衣料店で買ったバッグ
・手作りのビーチアクセが目いっぱいのおしゃれ
・薄い本(BL同人誌)大量購入
・スカートは嫌いだけどちょっとおめかし
こんな奴いない、とはいいません。ある程度はこういう人もいるでしょう。
しかし、 -
オタクは平等ではない。
2015-08-01 02:5851pt
ふじた『ヲタクに恋は難しい』の第1巻、読了。
pixivにアップされていた漫画を加筆修正してまとめたものだそうですが、面白かったー。
『Landreaall』みたいにディープな漫画読みの期待に応えるものではないかもしれないけれど、普通の恋愛漫画として、普通に面白い。
そう、Amazonを見てみたところいろいろ叩かれていて驚いたんだけれど、これ、随所にライトなヲタネタが挟まれるほかはほんとにふっつーの恋愛漫画ですね。
オタク漫画として読んだら薄いかもしれないけれど、あたりまえの恋愛ものとして読む分には十分に面白い。
Amazonには憎々しげな叩きコメントが並んでいるわけですが、あえて叩くほど変わったことをやっている漫画じゃないよなあ。
題材がオタク(作中の表記では「ヲタク」)というだけで、非常にスタンダードな作品だと思う。
まあ、オタクをネタにして普通の恋愛漫画をやっている -
自分という人間がよくわからない。
2015-07-25 05:1951ptえー、月末近くで会員が減っていく時期なのですが、読者の需要を無視して自分語りをしたいと思います。
書きたいことを書きたいように書いていないと続かないですからね。
ぼくはよく自分という人間について考えます。自分とはどういう人間だろう、と。
するとすぐに答えが出ます。「よくわからん」と(笑)。
これは自分のことだからわからないという側面もあるでしょうが、客観的に見ても相当よくわからない人間なんじゃないかなーと思います。
もしかしたらぼくのまわりにいる人たちはぼくよりもぼくのことを理解しているかもしれませんが、ぼく自身はぼくのことをよくわからないなーと思っています。
ぼくの最も親しい他者である母なども「お前はよくわからない」といいます。
そうだろうな、と思うのですよ。ぼく自身がさっぱりわからないのだから。
もとより、人間なんてよくわからないものではあります。
ひとのことを理解できたと感じたとき、それはほとんど錯覚です。
でも、そのなかでもぼくは割合にわかりづらいほうに入っていると思うのです。
あるいはだれしも自分についてはそう思うのかもしれませんが。
ぼくが自分の性格を「よくわからん」というのは、人格に整合性が取れていないように思えるからです。
ぼくという人間はどこか矛盾している気がしてなりません。どこかでねじ曲がっているような……。
いや、これもすべての人がそういう側面を持っていることではあるでしょうが、ぼくはたぶんそのねじ曲がり具合がわりと大きいほうだと思う。
なので、自分で分析しきれない。
具体的にいうと、ぼくは我が強いのか弱いのかわからないなあ、と思います。
この場合の我が強いとは自分自身に対しどのくらいプライドを持っているか、ということに近い概念です。
基本的には頭がいい人ほど我が強く、自己主張もまた激しいとぼくは考えています。
で、その考え方でいくと、ぼくはあきらかに我が弱い人ということになると思うのですね。
そもそもあまり頭は良くないですし、主張するべき「自己」というものがいかにもあいまいですから。
そして、それでは肉体的な人間かというとそうでもないわけで、ぼくは空っぽな奴だなーと思います。
何をしたいとか、何が欲しいとかいうこともありないですしね。
この認識にはもうひとつ論拠があります。
以前にも書いたことがありますが、 -
ライトノベルの主人公みたいに楽しく人生を過ごしたい。
2015-07-20 01:1151pt
敷居さん(@sikii_j)がこんなツイートをしていました。
読み損ねていた平坂さんの『妹さえいればいい』の一巻を電子書籍で買って読んでいるのだけど、めっちゃくちゃ面白い上になんか色々と共感する部分があってやばい。中高ぼっち気味で大学辞めてしばらく経ってからやたらと仲間が増えて家にわらわらと人が集まってくるとかそれは
https://twitter.com/sikii_j/status/622647824845402113
ツレの影響で海外産のビールにはまったりうちに遊びに来た人が家主が漫画読みながらダラダラしている横で勝手に台所使ってなんか用意したりなんか気が付いたら勢いで旅行してたりとかもうなんなのこれ。全部やっとるぞw
https://twitter.com/sikii_j/status/622649056217567232
……時代とシンクロしていやがるなー。
えー、ここでうらやましいとか妬ましいとかばくはつしろとかいいたいところなのですが、仮にぼくが同じことをやったら3日目くらいで精神がパンクして廃人になることが容易に予想できるので、実のところ特にうらやましくはありません。
ただ、世間は広いなー、世の中には大変な人がいるなー、と詠嘆するばかり。
思いつきで旅行するくらいはぼくにもできそうなので今度やろうっと。
でも、新潟からだと飛行機がいくらか高くつくんだよね。羽田とか成田からだといまはほんとうに安くあちこちへ行けるようなのだけれど。博多行って屋台でラーメン食べたいなあ。
それはさておき、とにかく『妹さえいればいい』が面白いです。
昔々、敷居さんに奨められてハマった『らくえん』もそうなのだけれど、これって「学校生活を謳歌できなかった人間たちの第二の青春」の話なのですよね。
そりゃ、ぼくとか敷居さんがハマるのも当然だわ。
ぼくも敷居さんほど極端な生活をしているわけではないとはいえ、成人してからネットを通して仲間ができてわいわい騒いで楽しんでいるという点はいっしょ。
それもだんだんレベルアップしてきていて、最近は自分でも「……いいのかな、こんなに恵まれていて」と思うくらいの域に達しています。
このあいだ、日本に一時帰国したペトロニウスさんを祝うために某高級レストラン(食べログランキング4.0以上)でランチを取って、その後、友人の家に転がり込んで鍋をつつきつつラジオを放送したりしたんですけれど、そのときの幸せ具合は半端なかったですね。
広大な邸宅を食事が取れるよう改装したというスペイン料理のレストランも素晴らしかったけれど、友人宅の鍋(と釣りたてのイカ)がとにかく美味かった。
ペトロニウスさんなんか「和食うめー」、「イカうめー」と涙を流さんばかりの勢いで食べたあと、ラジオの途中で寝てしまうし。
いやー、幸せでした。何年かに一回ああいうことがあると、それだけで暮らしていけるかもな、というくらい。
まあ、それはあまりにスペシャルな体験なので、「日常の豊かさ」という文脈とは少々離れているかもしれないけれど、でも、こういうイベントが時々あることじたい、ぼくの現状を示していると思う。
普段はプアだニートだといっているぼくだけれど、結婚とかしようと思わなければ十分に楽しく暮らしていけるくらいの収入はあるんですよね。
ええ、それもこれも皆さまのおかげなんですが、それもあって、とにかく最近、あたりまえの日常のクオリティ・オブ・ライフが格段に上がっている気がします。
それはもう、ひとを妬もうとかうらやもうとかほとんど思わない、思う必要がないくらいです。
まあ、もともとぼくはひとを妬む気持ちがほとんどない人間なんですけれどね。
それにしても、最近のぼくの人生は妙に充実してきているなあ、と思いますよ、ほんとに。
そういえば、 -
オタクとリア充の境界線を超えていけ。平坂読『妹さえいればいい』が日常ものの新境地を切り拓く。
2015-07-19 02:2851pt
待ちに待った平坂読『妹さえいればいい』の第2巻を読みました。
面白かった!
ぼくの場合、現在刊行継続中のライトノベルで続きを楽しみにしているのはこれくらいなのですけれど、じっさい待つに値する面白さ。
第1巻の要素を発展的に継続させているところが素晴らしい。
ライトノベルの第2巻としてはお手本にしたいような出来といっていいでしょう。
この巻のあらすじはこんな感じ。
俺達はアニメの原作を書いてるんじゃない!
妹バカの小説家・羽島伊月は、人気シリーズ『妹法大戦』最新巻の執筆に苦戦していた。 気分転換のためゲームをしたり混浴の温泉に行ったりお花見をしたり、担当への言い訳メールを考えたりしながら、どうにか原稿を書き進めていく伊月。彼を取り巻く可児那由多やぷりけつ、白川京や義弟の千尋といった個性的な面々も、それぞれ悩みを抱えながら日々を生きている。そんな中、伊月の同期作家で親友・不破春斗の『絶界の聖霊騎士』のテレビアニメがついに放送開始となるのだが――。
妹と全裸に彩られた日常コメディ、第2弾登場!!
そういうわけで、この巻のメインイベントは不破くんの作品のアニメ化ということになります。
紛らわしい帯の文句のおかげで『妹さえいればいい』そのもののアニメ化が決まったと思い込んでいる人も散見されますが、残念ながらそうではない、あくまで「アニメ化のエピソード」が挟まれているというだけのことです。
この巻のクライマックスではそのアニメ化の顛末が描かれることになります。
具体的な内容に関するネタバレは避けますが、さすがというか、非常に攻めている印象が残りました。ここまで踏み込んでくるとは思わなかった。
さらなるラブコメ展開への伏線も張りつつ、物語は進んで行きます。
もちろん、そのあいだにテーブルトークRPGをしたり、お花見を開いたりと楽しいイベントは目白押し。お色気もあるよ☆
ここらへんの日常描写のさじ加減はさすがに『はがない』の作家というべきか、まったくそつがありません。
よくこの小説が売れるのはエロが多いからだといういい方をされるのだけれど、エロいラノベなんて掃いて捨てるほどあるわけで、その点はほかの作品との差別化になってはいないでしょう。
『妹さえいればいい』がヒットしているとすれば(Amazonを見る限り相当売れているようですが)、それは純粋に作者の技量のたまものです。
ライトノベル作家を主人公に楽しい日常を描く、それだけならきわめてありふれた素材であり、料理であるといえるでしょう。
しかし、料理人の技量の差は細部に表れます。 -
北風に立ち向かえ。映画『くちびるに歌を』は感涙の傑作。
2015-04-03 13:1551pt
心に太陽を持て。
あらしが ふこうと、
ふぶきが こようと、
天には黒くも、
地には争いが絶えなかろうと、
いつも、心に太陽を持て。
映画『くちびるに歌を』をみた。
圧倒されて言葉ひとつ出て来なかった。
これは、まさに吹き荒れる嵐のなか、なお青褪めたくちびるに歌声を保とうとする、その健気な人々の物語だ。
運命の無情な羽ばたきに吹き飛ばされながら、それでも心に太陽を抱きつづけようとする人たちの鮮烈な生の記録だ。
ここには〈世界〉がある。そして〈人間〉がいる。
どうしようもない巨大な歯車に押しつぶされながら、何とか一生懸命に生き抜こうとするひとの意思がある。
美しい。なんと美しい映画なのだろう。
傑作とか名画とか、そのような陳腐な表現はこの清新な一作に似合わないが、あえてそういうふうに呼ばせてもらおう。傑作だ。名画である。
ひとつ映画に限らず、今年ふれたあらゆる物語のなかでも、出色の一作ということができる。
話は、ある小さな離島の中学校に、ひとりの美貌の女性教師が赴任してくるところから始まる。
ささやかな約束によって合唱部の担当となったその教師は、しかしかれらを熱心に指導しようとはしなかった。
やがてその教師目あてに幾人かの男子部員たちが入って来て、部は分裂し、混乱する。
そしてあきらかになる教師の過去。彼女は元々、素晴らしいピアニストだったのだ。
それなら、なぜ自分たちのためにその天性の技量を振るおうとはしないのか? 合唱部の生徒たちの間にフラストレーションが溜まっていく。
しかし、そのうち彼女が心に抱えたひとつの〈瑕〉が明かされることになる。
一方、生徒たちもまた物語を抱えている。自閉症の兄とともに暮らす少年。実の父親に見捨てられた少女。そして、かれらの想いと教師の想いが響き合うとき、ひとつの奇跡が起こる――。
この映画が描こうとしているものも、ある種の〈諦念〉である。
主人公の少年は自閉症の兄の世話をする人生を受け入れている。自分の生の意味はそこにあるのだと、はっきりとわかっている。
父に見捨てられた少女はそれはどうしようもないことだときちんと理解している。
しかし、それでもなお、そこに「どうしても割り切れない想い」がある。
ひとがひとである限り、純粋に無私の境地には到達できない。どんなに割り切ろうとしても、やはりほんの少しだけ無念がのこる。
だから、そう、くちびるに歌を。
何もかも思い通りにならない、辛く、また切ない日々のなかでも、歌声を保ちつづけること、それが、 -
そこに童貞マインドはあるかい? 日常系ラノベがオタクファンタジーを捨てるとき。
2015-04-03 12:4651pt
いまペトロニウスさんとLINEで話していた内容がちょっと面白かったのでメモ。
平坂読『妹さえいればいい。』の話なのですが、これ凄いよね、さすがだよね、でも単純に面白いかというとどうなんだろう――という内容だったのでした。
というのも、『妹さえいればいい。』は「あまりにも成熟しすぎている」作品に思えるからです。
すべての登場人物がバランスよくトラウマとかコンプレックスを抱えていて、「特権的なリア充」とか「特権的な非リア」とかが存在しない。
しかも各人物はみな自分の人生に責任をもてる大人で、特別大きな「欠落」といったものはない。
したがって、極端な行動に出る動機がない。「いまこのとき」をひたすら幸せに過ごす――ただそれだけといえばそれだけの物語になっている。
それは中高生向きの作品としてどうなのか、ということです。
さすがペトロニウスさんはクリティカルなポイントを突いてくるなあ、と思うのですが、そうなのです。
『妹さえいればいい。』は恐ろしくよくできた作品なのですが、それでもあえてひとつ足りないところを挙げるとすれば、「童貞マインド」が足りないとはいえると思うのです。
世界が成熟しすぎている。童貞くささがない。中二病もない。
いかにもそれっぽく装ってはいるけれど、じっさいはそこからは遥かに遠い。
これは大人の小説なのです。
前作『ぼくは友達が少ない』は「友達がいない自分たち」と「友達がたくさんいるリア充」を比較することによって、その「落差」でドラマを駆動していました。
そう、面白い物語には必ず「落差」があります。
王子とこじきでもいいし、光の鷹と狂戦士でもいいのですが、とにかく極端なコントラストが描けていればいるほどその物語は面白くなります。
しかし、社会が成熟していけばいくほどに、そういう「格差」は失われていくのですね。
『妹さえいればいい。』はあきらかに意識して「友達さがし系」の「次」を狙って来ているわけなのですが、そしてそれはきわめて考え抜かれた計算の結果だということもわかるのですが、「ぼくは友達が少ない」という呟きに続く世界は「ぼくは何もかも満たされている」としかいいようがないものだったのではないか、と思わざるを得ません。
いや、正確にはちょっとした「欠落」は全員が抱えているのだけれど、もはや大騒ぎしてそのトラウマを叫びださないくらい状況が洗練されている。
なぜなら、だれもが何かしらのことは抱えているということはわかっているのだから。
それでどうなるかというと、もうほんとうにただ楽しいだけ、の世界にたどり着いてしまったのですね。
悪くいうなら、ここには確固たるドラマツルギーがない。なぜなら、ドラマを牽引するモチベーションが存在しないからです。
「何も欠けていない」のだから、あえて現状を変革する必要もないということ。
あたりまえといえばあたりまえのことですが、しかし、ここには「それでは物語が存在する意義は何なのか?」という深刻な疑義が挟まれる余地があります。
伏見つかささんの『エロマンガ先生』なんかもそうなんですけれどね。
ある意味で、もはや「問題は解決してしまっている」のです。必死になって解決しなければならない問題は、もはやべつにない。
したがって、 -
「妬み」という甘美な麻薬。
2015-04-01 04:4651pt「妬み」の話をもう少し続けたいと思います。
ひとは他人を妬んで蹴落とそうとするもの、ということはわかるのですが、どうもぼくはここらへんのことが実感できない。
ペトロニウスさんではないですが、ひとを妬んでいる暇があったら自分が幸せになることに時間を使えばいいのに、と思うのです。
だから、ぼくは嫉妬の落とし穴に陥って人生を台無しにしてゆくひとにはとても冷たいところがあります。
自分のなかにない心理だから、共感がまったくないのですね。
世の中には変わったひともいるものだなあ、くらいの思いしかない。
そういう意味では、ぼくはまったく非情な奴だと思う。
ただ、本質的に「妬み」の苦しみは他人がどうしてやることもできない性質のものだと思うのですよ。
自分でどうにかして処理して行かなければならない。
その感情を他人に向けつづける限り、ひとは成長することも幸福に自己実現することもできません。
それでは、「妬み」とは何か?
ぼくはこういうふうに考えています。
ある人がいて、何らかの点で自分を上回っている。その人の近くにいると、劣等感で苦しい。そういうときに、どうすればいいか? そのような問題だと。
この問いに対するアンサーはふたつ考えられます。
1)自分が努力してその人より上へ行く。
そしてもうひとつ、
2)その人をいまいるところからひきずり下ろす。
という選択肢もあるわけなのですね。
この「2」は必ずしもその人を罠に嵌めるとかそういうことばかりを指すわけではありません。
自分の頭のなかでその人の存在を貶める、あるいは周囲とのやり取りのなかでその人の価値を低く捉える、そういうことも「2」に入ります。
つまり、「あんな奴はバカだ」といってみたりとか、集団で「あいつってクズだよな」と話してすっきりする、といったことも「2」のうちに入るわけです。
よく、ある人に粘着して攻撃しつづけるひとが「それは嫉妬なのでは?」と指摘されると、「あんなくだらない奴に嫉妬したりするはずないだろ」というようにいい返すところを見かけます。
しかし、その人を「くだらない奴」と捉えることそのものが、既にして嫉妬の表れであるということもありえるわけです。
自分のなかでその人を過小評価しなければ耐えられないほど、その人の存在に脅威を感じているということなのですから。
ひとは、だれより下だとかだれより上だといった他愛ない比較の問題からなかなか自由になれないものです。
やれ一流大学を出たの、大手企業に入ったのということをとても自慢に思う人は少なくないですし、それができない人間を低く見るひともしばしばいます。
「ひとを正当に、等身大に評価できる」ということは、それじたいひとつの才能であって、だれにでもできることではないのです。
ひとをありのままに評価できるためには、虚心坦懐でいる必要があり、それはだれにでも到れる心理ではないですからね……。
ネット上で有名人が口汚くののしられることが多いのは、やはり嫉妬が原因でしょう。
2 / 3